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投稿者: ogata

  • 新型コロナワクチン接種で観光客回帰?

    1月14日からセイシェル共和国は「新型コロナワクチン接種済」の観光客を検疫等の制限なしで受け入れることを開始した最初の国となったそうだ。

    One island welcomes all vaccinated travelers — but some may want to wait (CNBC)

    現在は同様の措置をネパールも検討中とのことで、これと同様の措置により接種済の証明書を持つ人に対してはPCR検査も隔離もまったく求めず、アライバルビザの復活も併せて検討中であるという。

    Nepal to allow unrestricted entry to vaccinated tourists (Kahmandu Post)

    とりわけこれまで観光に依存してきた国にとっては、今回のコロナ禍により経済が「生きるか死ぬか」になっているところは多い。同様の検討を勧めているところは少なくないはずだ。

    もちろんセイシェルがこのような措置を開始したといっても、観光客の送り出し国では帰国時に従前どおり「14日間の隔離」をそう易々と停止することも現状ではなさそうだ。加えて旅客機の国際間の定期便も激減している中で、セイシェルが期待しているとおりには事が運ばないように思われる。新型コロナウイルスについて、まだわかっていない部分も多く、始まったばかりの接種の効果も未知数の部分もある。

    今後、その効果と集団免疫の達成状況、そして各国間の合意等を経ることによって、「海外旅行」の機会が私たちのもとに戻ってくることになるのだろう。まだしばらく時間がかかるのだろう。

    個人的にはセイシェルには関心はないが、「早く接種してネパールを訪問したい」と思っている。しかしながら現状では、帰国時には2週間の隔離があるだけでなく、「自粛ムード」の中でたとえ航空券が手に入っても、行けるのか?という面も大きなハードルである。

    やはりまだしばらく先のことにはなりそうだが、それでも各地で接種が始まっていたり、開始が予定されているワクチンが大変有効なもので、「接種さえすれば海外渡航も行動も制限なしで当然」というムードが醸成される、ごくごく近い未来に期待したい。

  • 「アーリア人の谷」の気になる噂

    ラダックのブロクパの人たちの地域、俗に「アーリア人の谷」とも呼ばれるところだが、そこにはチベット文化と仏教を受容したアーリア人たちが暮らしている。

    「アレキサンダーの東征の末裔」という説もあるが、中央アジアのフェルガナ盆地に端を発するアーリア人たちの幾多の集団が、現在の欧州、イラン、南アジア等へと移動していく中である集団は定着し、またある集団はさらに先へと移動していった。こうした集団の中の小さなグループがたまたまこの地に定住して、現在に至っているのだろう。周囲はモンゴロイド系の人たちの地域ながらも急峻な山岳に遮られているエリアだけに、そのままコミュニティが残されたのだろうか。

    そんな珍しい地域で嫌な噂が流れているのに気が付いたのは近年。「妊娠ツーリズム」というものがあるのだというのだ。「純粋なアーリア人の遺伝子を求めて子供を授かることを目的でやってくる欧米人女性がいる」という話である。

    当初は根も葉もない与太話だと思っていたのだが、India Today傘下のニュース番組でも取り上げているところから、実際にそういう例はあったようにも思える。ナチスの優生思想ではあるまいし、「純粋なアリアン」が何だというのだろうか。アーリア人の血とは、それ以外の人たちにくらべて、そんなに尊いもののなか。

    それとは別に「現地男性が女性旅行者に買われる」という倫理的な問題がある。言うまでもなく「女性が男性旅行者に買われる」というケースは世界中で多く、これも同様に倫理的に問題なのであり、「アーリア人の谷」でのこの件がそれらより大きな問題というわけではないのだが、こんな小さなコミュニティのもとで、そんなとんでもない「ツーリズム」が振興したとしたら、本当に大変な話だ。

    それはそうと、この地に暮らす「アーリア人仏教徒」というのは、たしかにちょっとミステリアスな存在ではある。しかし「純粋なアーリア人」という意味では、チベット文化を受容しており、チベット仏教徒となっている人たちが多いことなどから、「純血種」というわけでもないように思う。灰色や緑色の瞳の人たちは多いが、総じて小柄で肌色は赤みがかって(これは日焼けか・・・)おり、風貌も先祖のどこかにモンゴロイドの面影を感じさせる村人も少なくないのである。長い歴史の中でどこかで他のコミュニティとの交流があり、混血が繰り返された過去があると考えるのが自然だろう。

    まあ、いろいろ頭に浮かぶことはあるのだが、地域起こしに観光というものは手っ取り早く収益を上げることができ、放っておけば失われてしまう地元の文化を「観光資源」として守り育てていく効果もあるのだが、方向性を誤ると地元の文化やコミュニティをひどく傷つける、地域の評判を著しく落とすたいへん不健康なものとなりかねない。

    このような「ツーリズム」は、ごく一部の非常に稀な事例に尾ひれがついて広まった「都市伝説」みたいなものではないかと個人的には思いたいのだが、とりあえずは今後の進展に注目していくしかない。

    Pregnancy tourism in India (INDIA TODAY)

     

  • サウジアラビアの観光振興

    昔ならば(昔といってもどのあたりまで遡るかによるが)サウジアラビアが観光振興政策を打ち出す時代がくるとは想像すらしなかった。観光査証そのものが存在せず、どうしても見たければ通過査証でなんとかするしかなかった国。その後、名目は「視察」で事実上の観光客を国を限って受け入れるように転換した。たしか十数年前であったか。

    そして今では「Visit Saudi」というキャンペーンを打ち出している。コロナ禍の中で渡航はできないが、収束した後を見据えてのものだろう。広い割にはあまり観るべきところはない国と思う人もあるかもしれないが、実はけっこう名所には事欠かないサウジアラビア。

    インドから同国各地への直行便は多いので、コロナが収束したら訪問してみたいと思う。そうしたフライトの乗客の大半はインド等からの出稼ぎの人たちなのだが、サウジアラビアを観光していても、各地のいろんなところで、インド、ネパール、パキスタンからの出稼ぎの人たちと出会うことだろう。インド旅行裏バージョンみたいなものになるかもしれない。

    人口統計に在住外国人も含まれる湾岸諸国。総人口中に占める外国人の割合が88%と最も高いUAE、81%のカタール、68%のクウェートと比較すると、サウジアラビアでは32%とずっと低い。それでもサービス産業従事者のほとんどは外国人であると思われる。その中でインドをはじめとする亜大陸の人たちが占める割合は高く、加えてエジプト、スーダン、モロッコなどのアラビア語圏の人たちという具合だろう。以前、土地っ子の雇用創出のために外国人タクシー運転手を締め出そうという試みはあったようだが、結局サウジアラビアの人はそういう仕事をしたがらないので、今でも運転手たちは外国人のようだ。

    乗り物の運転手車掌等を含む交通機関の職員、商店の店員、食堂や宿屋等で働いているスタッフやマネージャーなどは、たいてい出稼ぎの人たちだろう。そんなわけで、旅行して接する人たちの多くはインドや周辺国の人たちだろうと想像している。

    前述のとおり、サウジアラビアよりもさらに総人口中に外国人の占める割合が高いUAE、カタールなどで、「アラビア語の次に広く通じる言葉」は、ヒンディー/ウルドゥー語だという。このあたりもコロナ明けに訪問してみたいと考えている。

    アラビアへようこそ (SAUDI TOURISM AUTHORITY)

  • ネット屋

    ネット屋

    インターネットが普及し始めた1990年代半ば、世界中でサイバーカフェなる「ネット屋」が続々オープン。どこも大いに賑わっていた。

    それまでは、旅先で家族や友人と連絡を取り合うとすれば、郵便が主要な手段であった。どこの国でも大きな街の中央郵便局では「局留め」で封書、ハガキ、荷物などを期限付きで預かってくれていた(今でも制度上はあるかと思う)ので、そうしたところでは親しい人から手紙を受け取って笑顔の人、期待していた便りがなくて残念そうな人等々、さまざまだった。

    電話という手段もあったが、いかんせん国際電話というものは目が飛び出るほど高かったので緊急の場合のみの手段であった。電話局で長時間待たされるものでもあった。そもそもこちらからはかけられるが、自前の番号を持っていないこちらに家族や友人がかけることはできない。

    「コレクトコール」の制度を利用して、定期的に自身の安全を家族に伝えている若いドイツの女性に会ったことがある。数年前に欧州を一人旅していた兄が事件に巻き込まれて死亡するという不幸があり、両親は成人したばかりの子がひとりで旅行することを大変心配しており、毎週末にに欠かさず無事を知らせるという約束で旅行に出るとができたのだそうだ。両親の元にコレクトコールを依頼し、オペレーターが両親のどちらかに「娘さんがコレクトコールをかけたいと依頼しているが受けるか?」と質問して、両親は断ることになっているのだと言っていた。どうしても話をする必要がある場合はどうするのかと尋ねると、「緊急の際に名乗る名前が決めてある」とのこと。いつもの名前でかければ自分が無事であるという了解になっているのだというから、実に賢い「コレクトコールの利用方法」だと感心した。

    手紙を出してもこちらから向こうまで届くのにかかる時間、故郷からこちらまで届くまでの時間は、国や地域にもよるが短くて数日、長くて半月あるいはそれ以上かかることもあり、ハガキなどでは伝えられる内容も限られていた。

    ネットの時代入ってからは、連絡にかかる時間がゼロとなり、向こうがすぐに見て返信してくれれば、ものの数分で「元気そうでなりより」という連絡が入ってくるのだから、郵便でやりとりしていた時代とは比較にならない一足飛びの進歩だった。インターネットが普及し始めたばかりの低速な回線であっても、それはたいへんな驚きであったことは言うまでもない。

    低速な回線といえば、その頃のインドの田舎ではネット屋が少なく、接続はとても遅かった。宿からわざわざオートリクシャーでネット屋まで行き、そこでウェブメールで自分のアカウントをなんとか開き、届いているメールに簡単な返信を書いて送信するだけで、軽く1時間かかってしまうようなことはザラであった。ログインするにも、受信するにも、送信するにも、じっと待っている必要があったのだ。

    それでも当時は「たいへん便利な時代になった!」と感じていた。インドから日本その他どこにでも連絡をすることができるからだ。それだけではなく郵便のように「これから向かう先の中央郵便局」の局留めで送ってもらうわけではなく、目の前で開いている自分のメールアカウントで相手とメッセージをやりとりできるという双方向性は画期的だった。

    やがてブロードバンドが浸透してくるころになると、あまたあるネット屋はいずれも「高速回線」を売りにするようになり、ネット屋で家族や友人たちとビデオチャットに興じている様子はよく見かけるようになった。

    ネット屋が重宝されていたのはこのあたりまでだろうか。それまでは「有料サービス」であったホテル等でのWIFI接続は次々に無料化されていき、街中のカフェなどでも無料のWIFIサービスを提供するところが増えていき、有料のネット接続そのものを提供するネット屋は次第にジリ貧になっていく。

    ネット屋の時代の終焉が決定的となったのは、スマートフォンの普及だ。初代iPhoneの登場した頃には端末もデータ通信料も高額であったが、アンドロイドOS搭載のスマートフォンの登場とともに利用者が急増していくにつれて端末価格も通信料も低廉化していく。

    この流れの中で、誰もが掌の中にネット環境を持ち歩くようになっていったため、ネット屋はすっかり存在意義と顧客を失い、バーザールから姿を消していった。

    廃業したネット屋(バンコクにて)

    今から思えば何が仕込んであるかわかったものではない端末で、よくもまあ大切なIDとパスワードを入力してメールのチェックなどしていたものだと思うが、それも自前の端末とネット環境を持ち歩くことができる今だからこそ言えることだ。

    こうしたものを求めるユーザーが爆発的に増加していくことを受けて、各国でデータ通信の分野で新規参入が相次ぎ、熾烈な競争を繰り広げた結果、旅行者のような一時滞在者でも安価に利用できるプリペイドプランが各国で普及した。インドもまたその中のひとつであることは言うまでもない。

    今の時代、早朝でまだ暗い宿のベッドの中でメールをチェックして必要があれば返信し、階下に降りて開店したばかりの隣の食堂でトーストをかじりながら、長距離バスを予約し、続いてUBERを呼んでバススタンドまで行ってもらうというようなことが可能なのだから、ずいぶん便利になったものだと思う。バスが深夜近くになって目的地に到着するので泊るところが不安であれば、座席で揺られながら予約サイトでバススタンド近くの宿を確保できてしまう。

    長期旅行者たちの旅のスタイルにも大きな変化を生んだ。ネット以前は仲良くなった相手と別れるときは文字どおり「今生の別れ」みたいなもので、住所と実家の電話番号を交換して「また機会があれば会おう」なんて言っていたが、ネット時代に入るとメルアド交換でいつでも簡単に連絡できるようになった。

    そしてスマホとSNSの普及した後は、「佐藤君は今日プリーに着いた」とか「ジャニスは明日イギリスに帰国するみたい」といったことがオンタイムで共有されるようになったし、SNSの通話機能でごく当たり前に会話する先は自国であったり、旅先で会ってすでに他国に移動している相手だったりする。

    そんな具合なので、旅行先で待ち合わせて再会というのもごく当たり前のものとなっている。ネット以前も旅先で再開というシーンはしばしばあったとはいえ、それらは偶然の産物であり、予定しての行動ではなかったため、本質的に異なるものであった。

    デジタルの時代になってからは、どんなサービスや利便さも、すぐに陳腐化してしまうので、現在の「たいへん便利な時代」も5年後、10年後から見ると、「あの頃はあんなに面倒くさかった」とか「まだこんなことをしていた」と思い出すことだろう。

    もっともその「進歩」を見る前に、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが収束を見ないことには、そうした旅行の景色は見えてこないわけだが。

  • 今どきのインドのトランスジェンダー

    インド初の男性のボディビルディングの大会で優勝したトランスジェンダー。デリーで誕生時には女の子だったが、幼い頃から男の子同様の服装と活動が大好きで、彼女ニーラー・パーシャーは、とりわけ思春期以降は自身の身体と心のギャップに苦しんだという。そして性転換して男性となり、ニーラーから「アリアン」と名前も変更。育ったのはデリーだったがムンバイの大学に進学。法学を専攻して弁護士として活躍中の29歳。昨年、12歳年上のラクシュミーと結婚したそうだ。このアリアン、ビデオで見る限りにはトランスジェンダーにはまったく見えず、デリーからハリヤーナー、パンジャーブにかけてよくいる筋肉オタクの若者にしか見えないだろう。

    それはともかく、彼は今どきのインドの都会だからこそありえる、幸運な例外であるといえる。ムスリムの裕福なインテリ一家に生まれ、最初に彼の心と身体の乖離に気が付いたのは母方の叔母で、彼の(当時は「彼女」の)母親に助言をしたという。それを受けて母は彼の(彼女の)父親と相談のうえで、当時のニーラー(現在のアリアン)に性転換という道もあるとアドバイス。その後、ニーラーは19歳のときに手術を受けてアリアンとなった。

    おそらく彼のような立場の人は、人口大国のインドに決して珍しくはないのだろうが、彼のように境遇に恵まれた例は多くないだろう。

    家族の理解とサポート、家庭の経済的な余裕、そして他と違う者にとってもなんとか居場所を見つけることができる隙間がある大都市という環境。ここに彼自身の高い能力と勤勉さが加わり、今の彼がある。

    性転換手術を受けて、故郷デリーを離れてムンバイの大学に進学するまで、周囲からずっと「奴はビョーキ」と言われ続けていた彼(彼女)だが、家族はそんな彼(彼女)をしっかりと守り続けていたのだそうだ。

    それにしても、性転換をしたことを隠してひっそりと生きるのではなく、敢えて生まれながらに男性のライバルたちを蹴散らしてボディービルという極めて男臭い世界で勝ち上がろうという心意気も大したもの。

    たいへんなポジティブなパワーに満ちた人である。これを西欧社会はともかく、日本と較べてもずいぶん保守的なインドでやり遂げて、まだ上を目指しているのだから畏れ入る。

     

    India’s First Transman Bodybuilder: Up, Close & Personal With Aryan Pasha | Muscle Mania

    https://youtu.be/Up1Z-2axjUU

  • OMAXE CHOWK in Chandni Chowk

    OMAXE CHOWK in Chandni Chowk

    OMAXE CHOWKという豪奢なモールがデリーのチャーンドニー・チョウクにできるらしい。あんなカオスな場所に?と思うかもしれないが、もともとチャーンドニー・チョウクはムガル皇帝一族や宮中の貴人たちを相手にするマーケットがあったところ。噴水と水路が流れる(イスファハーンのそれを想像するとよい)を持つ目抜き通り。1857年のインド大反乱後にムガル朝が終焉を迎えてからも引き続き大きな屋敷が立ち並ぶ瀟洒なエリアであった。

    それが今のような人口密度の稠密な商店街となったのは、印パ分離の際、ここに多く住んでいたムスリムの上流層が大挙してパキスタンに移住したため。それと入れ替わるように、地元の庶民たちやパキスタンから流入したヒンドゥー教徒たちが空き家となった屋敷や敷地を占拠、そして又貸しするなどして、それぞれの物件が細分化されていくとともに、オリジナルな構造にさまざまな改造が重ねられるとともに、メンテナンスの欠如から崩壊していくこととなった。

    そんなわけで、元々あったような形に一部が戻る?というような具合であるかもしれないのだが、現在あの状態にあるエリアでこのようなモールが出来上がってちゃんと意図したような形で繁盛するのだろうか。あるいは建物は立派でも、やっぱりチャーンドニー・チョウクがそのまま入居したような具合になるのか。

    オープンしてから、近くにあるムグライやカシミーリーの旨い店を訪れるついでに立ち寄ってみるのが楽しみである。

    OMAXE CHOWK (OMAXE)

  • 街角のよろず屋の風景

    街角のよろず屋の風景

    極小の間口、中で店主が椅子にでも座るとそれでいっぱい。

    そんな小さな店ながらも、なかなかの品揃えの雑貨屋さん。限られたスペースを「店舗兼倉庫」としてフル活用。先入れ先出しで品物を効率よく回転させていくこうした店はカッコよくはないかもしれないけど、ある種の機能美を感じる。店頭で何かを頼むと、迷うことなく数秒後にはカウンターの上に「ほらよ!」と出てくるものだ。

    もちろん店主の人柄、性格にもよるので、狭くてかつ埃だらけだったりするところもなくはないものの、たいていは上手に切り盛りしている。

    おそらく父親から教え込まれたこと、自ら経験して得てきたことなどが、店内に反映されているのだろう。

    長年立ち寄ることが多い街角では、そんな店の中にいる人が年配男性からいつの間にか若者になっていて「代替わりかな?」と思ったり、まったく別の店に入れ替わっていることに気が付くこともある。

    いつも同じに見える一角も、実は日々少しずつ変化している。ちょうど店の中の品物がお客に売れて新しい商品が入荷したり、製品が廃版となり、後継商品が発売されたりという具合に、街角の中身も入れ替わっていくものだ。

    いろいろな人やモノがぎっしり詰まっているのもまた、街角のよろず屋さんのたたずまいに似ているように感じる。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 真冬のコールカーターで30度超え

    真冬のコールカーターで30度超え

    コールカーター在住の方から送られてきたヒンディー語のニュースクリップで、「カルカッタ及び周辺で30℃超え」を報じる動画があった。

    ググッてみると、やはり本日1月10日(日)のカルカッタの気温がこんなことになっている。

    比較的海に近いためパンジャーブ、デリーやガンジス平原部ほど厳しい寒さにはならない(東京の冬と同じくらい寒い。期間は東京ほど長くはない)とはいえ、今ごろの時期はセーターや上着を着て、ほおっかむりまでして「寒い、寒い」と言っているはずの時期なのに。

    いったいどうしたのだろう?

    寒すぎる真冬の東京も30℃とはいわずとも20℃くらいになってくれるといいんだが。

    寒すぎて外に出るのに勇気が要る。

  • 昔々の習慣

    さすがに今はドミトリーに泊まることはないのだが、最近ムンバイ利用した宿は、金額(2,135Rs/泊)の割にはバストイレが共同であった。

    昔からムンバイは宿泊費が高いことで知られている。かつてバックパッカーをしていたころは、コラバ地区、フォート地区で可能なオプションは、コラバにあるサルベーションアーミーのドミトリーであった。それでも当時の私がデリーやカルカッタなど、他の大きな街でのシングルルームに払う宿泊費(安宿)よりも高かった気がする。それは当時の貧しかったインドにおいて、ムンバイが突出した商都であったこと、周囲に郊外地域が広がる余地のない半島の形状などが背景にあった。

    現在では、デリー周辺には隣接するUP州西部やハリヤーナー州なども含めて、工業団地が発展しており国外からの投資も佐官になっている。またアーメダーバード、バンガロール、ハイデラーバードなども同様で、宿泊費がどんどん高くなっている地域が多い。そのため今ではムンバイだけが非常に高いという具合ではなくなりつつある。

    話は戻る。その共同バストイレで思い出したのは、カイロのバックパッカーの常宿だったオックスフォードホテルのドミトリーでのこと。当時はアジア人バックパッカーといえば、ほぼ日本人しかいなかった(ときどき香港人はいた。海外旅行が自由化された直後の韓国からは中高年の団体旅行者はときおり見かけたが若者のバックパッカーはほとんどいなかった)ためもあってか、ここの宿のドミトリーは「西洋人部屋」と「日本人部屋」に分けられていた。なぜそうだったのか、管理上そうすると楽なのかは知らないが、いつ利用してもそんな具合であった。

    大きくヘリテージな感じの見事な石造りの 建物上階にあり、清潔で広々としている割には宿泊費は安く人気の宿だった。確かギリシャ系のエジプト人による経営である。ときどき映画やCM出演者を求めるブローカーがやってきて、そうした機会と小遣い程度野お金を得る人もいた。

    ドミトリーの日本人部屋では、夕方に連れ立って食事に出た後はトランプに興じるのが常となっていた。そんなあるとき、「大富豪」をやっている輪の中のAくんが突然、「やべー!」と叫んで脱兎のごとく廊下へ駆け出して行った。

    みんなビックリして、しばらく固まっていたが、しばらくすると青ざめた表情の彼がドミトリーに戻ってきた。

    「やられたー!」

    なんでもシャワーを浴びる際、所持金やパスポートなどの入った貴重品袋をビニール袋に入れて、シャワー室内の壁に掛けておいたのだそうだが、ついそれを忘れてドミトリーに戻り、トランプに興じていたというのだ。

    ドミトリーにいた旅行者たちは、手分けしてフロントに聞いたり、他のドミトリーや浴室に出入りする人たちに尋ねまくったが、出てくることはなかった。A君自身は気の毒であったし、持ち去った者は、その晩に宿の中に居た者であることか確実なので、とても気分の悪いことでもあった。

    彼は翌朝、警察に出向いて盗難の証明書を発行してもらい、アメックスに出向いてトラベラーズチェック(当時の旅行者はこの形で大部分の旅費を所持していた)の再発行を申請してきた。

    そんな一件があってから「毎日のことだから共同シャワーへの置き忘れって、いつかやりそうだよな。」という会話がドミトリーの中で広まり、しばらくの間は新しく入ってきた宿泊者たちにもAその「レガシー」が引き継がれていたようだ。ネット出現前の時代であったため、情報交換の意味もあり、同宿になった者たちは互いにいろんな話をしたものだ。A君自身は大変だったが、同じ旅行者仲間たちに身を以って注意喚起してくれたことになる。

    実はそのしばらく後にも同じようなことがあった。日本人宿泊者のひとりがシャワー室に入ったら誰かの貴重品袋がドア内側にぶら下がっていたというのだ。そのときはすぐにフロントに知らせて、中に入っていた旅券で所持者がわかり、シャワーから上がってきたばかりの本人にマネージャーから引き渡せたので事なきを得た。貴重品袋に変なことがないようにと、僕らははしばらくそこで立会っていたのだが、持ち主は西洋人だった。知らされるまで本人は置き忘れに気付いてさえいなかったのだが、事情を呑み込むと、言いようもないほど狼狽していた。

    そんなこんなこともあり、先述のムンバイのコラバのホテルの共同シャワーを出るとき、かつて安宿を泊まり歩いていたときの如く、「貴重品袋よーし!」「確認完了!」と小さく発声しながら指差し確認をしていたのであった。昔々の古い習慣が、ひょんなことから自然と蘇ってくることはあるものだ。それまですっかり記憶の彼方にあったA君の青ざめた表情が脳裏に浮かんだ。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ENGAGED

    ENGAGED

    こちらはトイレ のドアの表示。「occupied」とあるよりも、少し厳粛な感じがする。中の人が真剣に取り組んでいるような印象を受けるではないか。

    少なくとも便座に腰掛けてスマホでもいじっているような、待たされている側にとっては腹の立つイメージは浮かばない。

    電話にしても、そうだ。話中で「busy」と考えると、無駄話のせいで繋がらないような気もするが、「engaged 」であれば、何か真面目な会話が進行中であるようなシーンが目に浮かんでこなくもない。

    なぜこのように違ってくるのかといえば、occupied、busyは、いずれも単一の人物Aさんの行動を反映したものであるのに対して、engagedであれば、Aさんの意思にかかわらず、自然現象や第三者との関係により、その状態にあることを余儀なくされているというイメージをも想起され、「それならば仕方ない」というムードを醸成するのだ。

    仕方ないは仕方ないのだが、トイレを待つというのは、まさに一日千秋の想いである。実に切ない・・・。

    ※内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 夜遅く着いたときの宿

    こんな思いをしたことのある人は少なくないだろう。

    路地裏にあるホテル、夜遅い時間帯に戻ろうとすると、行く手を阻む野犬集団。通りかかる人があれば、テキトーにくっついてやり過ごしたいところだが、あいにく誰もやってくることなく時間が過ぎていく。

    そんなこともあるので、あまり路地裏深くにある宿はなるべく利用しないようにしている。できれば表通りにあればなお良い。クルマの騒音だの街のざわめきなどというのはまったく気にならないほうだ。普段生活している環境がいつも騒々しいからということもある。

    遅い時間帯に鉄道やバスで到着した場合、駅やバススタンドすぐ近くのエリアの宿が取れるといいのだが、これらがひどく街外れに立地していることだってあるので、いつもそうとは限らない。

    ちょっとした大きさの鉄道駅の場合、「リタイアリングルーム」が利用できるとたいへんラッキー。今は空きがあればネット予約することも出来るため、鉄道に乗って目的地の宿をまだ決めていなかったら、ウェブで確認してみると良いかもしれない。最大48時間しか滞在できないとはいえ、鉄道好きな人にとっては「駅に宿泊」というのもなかなか良いものだし、深夜あたりになって到着してクタクタの身にはとても助かる。

    BOOK INDIAN RAILWAY RETIRING ROOM ONLINE (IRCTC)

  • ハザーリーバーグの食事処

    ハザーリーバーグの食事処

    ハザーリーバーグの食事にはまったく期待していなかった。宿泊施設はとても快適なところが当たり、こういうホテルならば旨いものを出すレストランは併設していても、ここは田舎町なので外にはダーバーしかないだろうとタカをくくっていた。

    ホテルの隣にある「ムグライ・ミルチ」というレストラン

     

    「時間がないので、すぐに出てきて食べられるものを」と注文したライスとダルフライ。これだけで大変美味しかったので料理の腕・質ともに高いことがわかった。
    夜も再訪した「ムグライ・ミルチ」

    ところがどうして、ホテルから徒歩圏内にいくつもちょっとアップマーケットで美味しいものを提供するレストランが複数あるのだ。嬉しい誤算だ。

    「NEW FRONTIER BAKERY」の上にある「Frontier’s Cafe」も良かった。
    田舎町にはそぐわない感じの洒落た店内
    チキンロールがオススメとのこと。
    宿泊費に込みのホテルの朝食。シンプルだがとても良質であった。

    また美味しいケーキを作って販売している店もあり、食後の散歩がてらデザートを買いに出るのも良い。店番をしている女性もフレンドリーで世間話をするのが楽しい。

    ケーキの製造・販売をしている店。開いているときに撮影しておけば良かった・・・。

    田舎町なのに、食事情もなかなか好ましいハザーリーバーグである。

     

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。