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投稿者: ogata

  • ソウルからインドへ

    エアインディアが、デリーから韓国のソウルまで、週に4往復させていることに遅ればせながら気が付いた。デリー・ソウル線(香港を経由)は、今年8月から就航しているようだ。 

    90年代以降、韓国企業によるインド進出、対インド投資には目を見張るものがあり、韓国のキャリア以外にインドの航空会社によるインド・韓国間の直行便が就航するまで意外に時間がかかったという印象を受けなくもない。 

    ソウル・香港間あるいは香港・デリー間のみの乗客も多いことだろう。ちょうど東京・デリー間で途中バンコクに寄港する便があったころのような感じなのかもしれない。(現在、東京・デリー間は直行のみ) 

    ふと思い出すのは、かつてエアインディアの香港経由で東京・コールカーター直行便があったこと。そのころデリーIN、カルカッタOUTあるいはその逆で、日本からインドを訪れる人は多かった。確か90年代に入って間もなく、コールカーター直行便は廃止されたと記憶している。 

    船の時代から、インドから見て東側方面からの主要な玄関口であったコールカーターである。デリーに遷都されるまで、長らく英領インドの首都であったためもある。中国大陸からもバンコクやシンガポールと並んで、稼ぎが期待できる外国の街であったため、大量に移住者を送り出している。 

    今のように通信手段が発達しておらず、何がしかのツテが頼りであったため、移民の送り出し元はかなり限られた地域からであることが多い。バンコクでは潮州系、マレー半島では福建系や広東系が多かったように、コールカーターには広東系や広東を中心とする地域出身の客家人が数多く住み着いたようだ。コールカーターの華人たちから、しばしば梅県という地名を耳にする。現在の広東省の梅州市とその周辺エリアに相当する地域だ。 

    日本にとっても、第二次大戦後しばらくの間は、最も身近なインドの都会といえば間違いなくこの街であったということは今ではちょっと想像できないだろう。戦後の復興期から高度経済成長が始まるあたりまで、西ベンガルから輸出される豊富な鉄鉱石は、かつて鉄鋼大国であった日本の原動力のひとつでもあった。 

    また日本に留学生がやってくるようになり始めた時代、1960年代にはインドからの留学生たち(・・・といっても数は大したことなかったのだが)といえば、その主流はベンガルからの学生たちであったようだ。 

    その関係もあるのかどうかよく知らないが、今でも西ベンガル州ではちょうど日本でやっているのと同じような菊の盆栽を楽しむ年配者たちはかなりあり、そうした人たちの中には、なかなかの知日家もあるようだ。『日本の菊栽培の解説書を手に入れたいのだが、英語で書かれたものを出している出版社はないかね?』と初老の男性に頼まれたこともある。 

    この街とそこを州都とする西ベンガル州の経済面での停滞に加えて、かつての『四大都市(デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイ)』以外に、バンガロール、ハイデラーバード、アーメダーバード等の台頭により、相対的な地位が凋落していった。 

    その結果、インドの航空会社はもとより、東南アジアからの飛行機も乗り入れが減り、ちょっと寂しい状態になってしまっている。それでも近ごろ流行りのLCCキャリアがバンコク便を開設したり、隣国のバーングラーデーシュの新興航空会社もコールカーターとの間に新規乗り入れしたり、増便したりしているのは幸いである。もはやインドを代表する随一の都会ではなく、ひとつの地方都市に成り下がってはいるものの、まだまだ地域のハブとなる底力は充分残されている。 

    話はエアインディアに戻る。エアインディアの東アジアへの就航地は、数十年来の長い付き合いである東京、大阪、香港に加えて、上海そしてソウルが加わっており、インドという国自身がゆっくりと顔を東方にも向けてきていることを如実に反映しているようでもある。これは同時に東アジアの諸地域にとっても、視野の中にインドが大きく姿を現してきていることの表れでもあろう。

  • バングラデシュ祭 2010

    10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

    上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

    在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

    後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

    どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

    日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。

  • インパール作戦の証言

    今や先の大戦について一人称で語ることのできる人はごく一握りの高齢者たちとなった。 

    近年、当時の日本の戦争について肯定的に見直す動きが出てきている。これは当時の生きた記憶を持つ人たち、つまり当時すでに一定の年齢に達し、軍隊を含めて社会の中である程度責任のある立場にあり、戦争が行われていた時代について自身の体験を踏まえたうえで客観的に語ることのできる人がごく少なくなっていることと無縁ではないだろう。加えてそうした世代が実務から引退して長い年月が経ち、社会的な影響力を失っていることによるものも大きい。 

    NHK 戦争証言アーカイブス

    ここでは、こうした世代の方々からの戦争に関する証言を集めた動画記録を未放送分も含めてウェブ上で公開している。今の時代を生きる私たちにとって平和の大切さを考えるうえで貴重な遺産である。 

    その動画集の中には、太平洋戦争末期に起死回生を狙って無理を承知で、当時英領であったインドへ北東部からの侵攻を企図して決行されたインパール作戦に関する証言もある。 

    インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 (NHK 戦争証言アーカイブス) 

    すでに社会の中で一握りのマイノリティとなってしまった戦中派の彼らの声。私たちは謙虚に耳を傾けて、『歴史は繰り返す』ことのないよう努めるべきだろう。

  • ツアー列車いろいろ

    以下の行程で、7泊8日の特別ツアー列車が走っているのだそうだ。その名もBuddhist Circuit Special Train。 

    初日 : デリー、ガヤー

    2日目 : ガヤー、ボードガヤー

    3日目 : ボードガヤー、ナーランダー、ラージギル、ガヤー、ワーラーナスィー

    4日目 : ワーラーナスィー、サールナート、ゴーラクプル

    5日目及び6日目 : ゴーラクプル、クシーナガル、ルンビニー

    7日目 : ゴーンダー、スラワスティ、アーグラー

    8日目 : アーグラー、デリー 

    ビハールとU.P.の仏蹟を中心とした観光地に加えてアーグラーを観光してデリーに戻るというもので、出発日は次のとおり。 

    出発日

    2010年9月25日

    10月16日及び30日

    11月13日及び27日

    12月11日及び25日

    2011年1月8日及び22日

    2月12日及び26日

    3月12日及び26日

    いずれも起点はデリーだが、出発駅はサフダルジャン駅である。料金は以下のとおり。

    First AC Coupe 

    US$ 1176

    INR 55272

    AC – First Class 

    US$ 1050

    INR 49350

    AC – Two Tier

    US$ 875

    INR 41125

    AC – Two Tier

    (Side Berth)

    US$ 770

    INR 36190

    AC – Three Tier 

    US$ 735

    INR 34545 

    宿泊費(ホテル2泊で他は車中泊)・食費等込みとはいえ、料金は決して安いわけではない。

     それでも鉄道大国インドならではの豪華観光列車として知られるPalace on Wheels、Rajasthan Royals on Wheels、Deccan Odyssey、Golden Chariotなどは、時期やクラスによるが7泊8日の行程で2500ドルから5000ドル近くの出費を覚悟しなくてはならないことを思えば格安である。 

    最近のこの類の企画ものでは、Maharaja’s Indiaというものがあるが、こちらは5600ドルから20000ドルという、さらにビックリの金額で売り出されている。 

    Buddhist Circuit Special Trainは、これらのゴージャスな車両と特別なサービスを売りにするものではなく、基本的に在来の車両を使用する企画ツアーである。他にもエコノミーな列車ツアーとしては、Bharat Darshanシリーズの中に様々なタイプがある。日程は1週間から15日間で、訪問先もいろいろ異なるものがあるが、費用は3600ルピーから7700ルピーと手頃なものとなっている。通常の列車もクラスにより運賃の格差が甚だしいこの国だが、ツアー列車にかかる費用も上から下まで大きな差があるのは、いかにもインドらしい。 

    先述の豪華列車にかかるコストの関係はさておき、そもそもパッケージツアーで1週間費やしてみたいと思わないのだが、デリーからラージャスターンのアルワール間を1泊2日で往復するFairy Queenには、いつか機会を得て乗車してみたいと考えている。 

    1855年、なんとインド大反乱の2年前にイギリスで製造された、現存する最古の運転可能な蒸気機関車が牽引するヘリテージ列車であるため、『イン鉄ファン』のマストアイテムだ。 

    往復でも片道のみでも乗車可能で、IRCTCのウェブサイトでも予約を受け付けている。今季は2010月から2011月まで、合計10往復している。 

    料金はフルパッケージ(Fairy Queenでのデリー・アルワール往復とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)で10200ルピー。片道ツアー(Fairy Queenでのデリーからアルワール片道とサリスカー宿泊ならびに国立公園見学)は7100ルピー。Fairy Queenのデリーからアルワールまでの乗車のみならば3200ルピー。

    ご興味のある方はお早目にご予約を。

  • Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywood #25

    Namaste Bollywoodの今号の特集は『ゼロ年代のボリウッド』である。 

    2000年から2009年までの、Kabhi Kushi Kabhie Gham, Devdas, Munna Bhai MBBS, Kabhi Alvida Naa Kehna, Om Shanti Om, Rab ne bana di Jodi等々の 代表的作品が取り上げられている。 

    ご存知のとおり、ボリウッド映画界のトレンドはここ10年ほどで大きく変化するとともに、ロケ地、配給先、資金関係などにおいて、一層のグローバル化が進展した時期でもあった。 

    この時代を振り返るムック本もNamaste Bollywoodから発刊される。題して『That’s Bollywood 2000’s』だ。 

    Namaste Bollywoodのウェブサイト内に、ボリウッド映画のDVDレビューが掲載されるようになっている。 

    十年一昔とは言うが、今から遡ること11年前の今ごろ、世界規模でのコンピュータの誤作動が『2000年問題』に対する懸念が世界的話題になっていたことが、はるか遠い昔のことに感じられる。 

    私たちがこうしている『今』の出来事も次第に過去へと追いやられてしまうのだが、ゼロ年代に続く『10年代』のボリウッド映画界ではどんな作品が発表されていくのか、今のスターたちがどう進化していくのか、どんなスターが誕生してくるのか等々、非常に楽しみである。

  • エアアジアでインドへ

    エアアジアの羽田・クアラルンプル便(12月9日就航・週3便)が話題になっている。 

    すでに日本に乗り入れているオーストラリアのジェットスター、韓国のチェジュ航空と合わせて、日本にもようやくLCC (ローコストキャリア)の時代が到来しつつあることを感じさせられる。 

    ジェットスターは台北経由シンガポール行きの便があり、チェジュ航空はソウルで乗り換えて同社のバンコク行きを利用できるが、それらの地点から更に他社便のチケットを買い足さなくてはならないため、インド行きに利用するのはあまり現実的ではないかもしれない。 

    だがエアアジアについては、ハブ空港のクアラルンプルから現在インドの9都市(コールカーター、コーチン、チェンナイ、ティルチラッパリ、デリー、トリバンドラム、ハイデラーバード、バンガロール、ムンバイー)への便があるため利用しやすいだろう。 

    料金は羽田・クアラルンプル間が通常の底値が往復で3万円程度(片道1万5千円くらい)になるらしい。この区間について、本日9月23日正午から10月31日までの予約受付期間内に、今年12月9日から2011年7月31日までの搭乗分座席の一定部分を、キャンペーン価格の片道5,000円で売り出すとのことだ。空港使用料等を加えても、往復で日本円にして1万4千円弱という破格の料金である。 

    クアラルンプルから先については、エアアジアのホームページで仮に『往路10月1日、復路10月20日』として調べてみると、デリー往復905 MYR(約25,000円)、ムンバイー往復 761 MYR (約21,000円)、チェンナイ往復 628 MYR (約17,000円)、ハイデラーバード往復 682 MYR (約19,000円)といった数字が出てくる。 いずれも行き帰りの空港使用料を含めた金額だ。

    他のLCCキャリアがそうであるようにフライトの時期、空席状況、予約するタイミング等によって価格は変動する。概ねデリーやムンバイー便については、羽田からトータルの出費は概ね5万円強から5万5千円程度ということになるだろう。エアインディア等の他キャリアの底値の時期と比較すると驚くほど安いというほどではないが、費用をかなり圧縮できることは間違いない。またキャンペーン価格での売出し時期と合致すれば、非常にお得な料金で往復できることになる。

    ただし年末年始やゴールデンウィークといったピーク時には既存航空会社との料金差はごくわずかなものとなってしまうようだ。また一定の条件のもとにフライトの変更は可能であっても払い戻し不可であることについては留意しておく必要がある。 

    LCCキャリアで乗り継いだ経験がないのでよくわからないが、羽田・インド間が同日乗り換えできるスケジュールの場合、チェックイン荷物をそのままスルーで処理してもらえるのか、またフライトの遅れにより中途での乗り継ぎがうまくいかなかった場合の処置などあまり期待できないように思う。だが利用予定がピーク時以外で、乗り換えスケジュールにある程度の余裕があれば、充分検討の余地ありだ。 出発地が成田ではなく、より都心に近い羽田空港である点も好ましく感じられる。

    とりわけエアアジアに期待しているわけではないが、日印間の移動に新たな選択肢が加わること、LCCキャリアの伸長が今後の既存航空会社の料金自体にも与える影響は少なくないであろう。こうした航空会社の路線が増えてくることについて、利用者としては大いに歓迎したい。

    格安航空会社が羽田にやって来る! エアアジアXのカラクリ (YAHOO ! JAPAN ニュース)

  • ナマステ・インディア 2010

    今年もナマステ・インディアが代々木公園にて、9月25日(土)から26日(日)にかけて開かれるが、なんと18回目の開催となるのだそうだ。 

    昨年はカラン・スィン、その2年前にはスワーミー・ラームデーヴと、ちょっとサプライズな人物の登場があった。今年も誰かびっくりするような有名人がやってくるのだろうか? 

    インド出身の演歌歌手チャダは、すっかりこのイベントの常連となった感があり、今年も彼のステージが行われるようだ。 

    9月も下旬とはいえ、今年はまだまだ気温が高く、秋が訪れたという実感のわかない日々が続いている。それでも確かに朝夕は涼しくなってきているし、日中の最高気温もそれほど上がらなくなってきた。 

    そろそろ秋雨の時期に入るはずだが、今度の週末は天気に恵まれることを期待したい。

  • ドキュメント・スキャナー

    ドキュメント・スキャナー

    衣類を頻繁に購入しているつもりはないのだが、ふと気が付くと収納が一杯になってしまっている。

    その結果、普段よく着るものはすぐ手の届く手前に、そうでないものは次第に収納スペースの後方や下方へと、意識しないうちに押しやられてしまうことになる。するとその存在さえ忘れて新たに似たようなものを買ってきてしまっているのだと思う。 

    たまに『あのズボンはどこに行ったのだ?』とすべてをひっくり返して探し物をすると、『あぁ、こんなのがあったなあ』『この上着は昨年買ってから着ていない』などといったモノがいくつも出てくる。 

    これはいけないと思い、ちょっと勿体ない気はするのだが、昨年1年間着用しなかったものを思い切ってドカッと捨ててしまうことにした。数年前も同じことをやっている。『本当に要らないのか?』と後ろ髪引かれるものはあるが、こういう場合はあまり深く考えないほうがいいようだ。不思議なもので『捨てるべきではなかった』と後で悔やんだ記憶はないからである。 

    衣類もそうだが、書籍や雑誌類もまたいつの間にか溜まってしまう。書棚やマガジンラックに入りきらなくなって床に上に積むようになったら、それこそ加速がついて山となってしまう感がある。衣類と違い、目に見えるスペースを蔦が伸びるような速度で覆ってしまおうとする分、こちらのほうがよりタチが悪い気がする。 

    雑誌等はちょっと気になる記事があったら『いつかスクラップしておこう』と思いつつも、そのまま床の上に積んでしまう。やがてどんなことが書かれた記事があったのか、それはどの雑誌に入っていたのか、といったことさえ忘れてしまう。 

    こちらについてもいろいろ考えずにガサッと処分してしまえば、後から思い出して『保存しておけばよかった』などということもないのかもしれない。 

    だがいくらでも似たようなモノが手に入る衣類と違い、それが書かれた時点でしかあり得ない記事というものはある。同じ印刷物でも雑誌以外の書籍類となると、再び読み返すことはないように思っても、なかなか捨ててしまう踏ん切りがつかない。何かで再び読んでみたくなるとか、参照したくなるかもしれないというという気がしてならない。 

    それでも今後も印刷物は次々に私の部屋にやってくる。それらを収めることのできるスペースは限られているため、何がしかの新陳代謝の方策が必要であることは明白だ。 

    そのためドキュメント・スキャナーである。いろんなメーカーから様々な機種が出ており、さんざん迷った挙句にFUJITSUのScan Snap S1500を購入した。2009年の2月に発売されたモデルで、こうした類の製品としては割と長く販売されていることになる。幅広いユーザーに支持されている一番の売れ筋なので、完成度が高く使い勝手も良いことを期待した。 

    このスキャナーで読み取りできる最大サイズはA4。付属のキャリアシートを使えばA3まで対応可能ということになっているが、大量のページを一気にスキャンするという用途においては、実用となるのは前者まで。スキャン速度はカラーまたはモノクロの600 dpiにて1分あたり両面・片面20枚。まずまずのスピードである。 

    これを使って、手始めに溜まっていた雑誌類を次々にPDF化してみた。続いて文庫本、新書、ペーパーバックや単行本等の背中を片端から裁断して、こちらもどんどん電子化していく。書籍を切断してしまうとページがバラバラになり捨てるしかなくなってしまう。もはや古本としてどこかの店に持っていくことはできないし、人に譲ることもできなくなってしまう。 

    書籍を破壊してしまうことについては、正直なところ気が進まない。本そのものに対して申し訳ない気がするのだ。それでも前述のとおり自宅のスペースに限りがあり処分しなくてはならず、その一方で本の内容自体は手元に保存したいとなると、今のところこの方法しかない。 

    もちろん未読の書籍はそうした『電子化』の対象ではないし、すでに読んでしまっていたも、友人等からいただいた本、内容からしてそのままで取っておきたいものなどは、元々の書籍のままで書棚に置いておくので、自宅の本のすべてをそうやって処理してしまうつもりはない。 

    ところで、肝心の保存先であるパソコンが壊れてしまうと、それまでにPDF化した印刷物全てを失うことになってしまう。今後、さらにスキャンして電子化を進めていくので、なるべく頻繁にバックアップを取ることを忘れないようにしなくてはならない。 

    こうしているうちにキンドルかiPadのような電子書籍リーダーも欲しくなってくるだろう。ただ少々気がかりなのは、PDFというフォーマットが将来長くに渡って利用可能なものであるのかどうかということである。つまりPDFと互換性を持たない新たな電子文書の形式がこれに取って代わってしまい、せっせと『電子化』したものがすべて次代遅れのものとなることがないといいのだが。 

    いや、それよりも前にスキャンして保存した時点で、それらの存在さえも忘れてしまうような気がする。今後、PDF保存した印刷物の量がどんどん増えてくると、きちんと分類しなくては、何がどこにあるのか見当もつかなくなってしまうということのほうが差し迫った心配ごとかもしれない。

  • THE GLASS PALACE

    THE GLASS PALACE

    一度読み終えた小説を再び手に取ることはほとんどないのだが、今年ミャンマーの暑季にマンダレーを訪れてから『時間が取れたらもう一度読もう』と思い出した作品があった。  

    コールカーターで生まれ、ドゥーン・スクールを経てデリー大学、そしてオックスフォードで学び、数々の話題作を世に送り出してきた小説家アミターヴ・ゴーシュが10年前に発表した傑作『The Glass Palace』である。 

     

    書名:The Glass Palace

    著者:Amitav Ghosh

    出版社:Harper Collins Publishers

    ISBN-10: 000651409X

    人気作家の話題作であったことに加えて、舞台設定が英領期のビルマ、インド、マラヤということもあって興味を引かれて、ペーパーバック版が出てからすぐに購入したので、確か最初に読んだのは2001年だったと思う。窓際で陽の当たる書棚に置いていてすっかり日焼けしてしまった本を久しぶりに取り出してページをめくってみた。 

    ストーリーは、ベンガルから家族とともに当時のビルマに移住後、不幸にも父母が相次いで亡くなり孤児となったラージクマール少年が、マンダレーの市街地で印緬混血の女性が切り盛りする道端の屋台で手伝いをしながら糊口をしのぐ場面から始まる。  

    当時、コンバウン朝の王都マンダレーでは、最後の王となるティーボーが王妃スパヤラートとともに王宮で暮らしていた。タイトルのTHE GLASS PALACEとは、その宮殿のことを言う。 

    時は1885年、第三次英緬戦争勃発。ビルマ軍は敗走を続け、英軍はついにコンバウン朝の首都マンダレーを陥落させる。第二次英緬戦争により1853年以降、下ビルマを占領していたイギリスだが、コンバウン朝を倒して上下ビルマを統一することに成功した。翌1886年、ビルマは英領インドに編入される。 

    マンダレーが英軍の手に落ち、側近や衛兵も散り散りになって無防備になった王宮にマンダレー市民たちが押し寄せてきて略奪が始まる。そうした群衆の中にいたラージクマールは、王家の侍女として仕えていた孤児の少女ドリーと初めて出会うことになる。 

    ビルマ最後の王ティーボーは、王妃スパヤラートと幼い王女たちとともにマドラスに移送され、2年後の1887年に王家はインド東海岸の現在マハーラーシュトラ州のラトナギリーに移され、ここが王自身にとっての終の棲家となる。ちょうど1857年にインドで起きた大反乱の旗印として担ぎ出されたムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルが捕らえられた後に妃と息子たちとともにラングーン(現ヤンゴン)に流されたのと同じパターンだ。 

    王家の侍女ドリーは、王家の流刑先でも彼らに甲斐甲斐しく仕えていたが、ここにコレクターとして赴任してきた若くて有能なベンガル人官僚の妻ウマーと親しくなる。ウマーは外の世界をほとんど知らずに結婚適齢期を迎えているドリーを不憫に思っていた。 

    ラージクマールは、英領となった上ビルマで人生の転機を迎えていた。マンダレー陥落前にマレー半島からやってきた華商サヤー・ジョンの仕事の手伝いを初めていた。後にマラヤに戻ってゴム園で成功するサヤーだが、彼が当時のビルマで手掛けていたチーク材取引は順調に拡大していき、能力を認められたラージクマールはサヤーの右腕として重宝されるようになった。やがて独立して自身の力で道を切り拓いていくようになる。 

    日の昇る勢いで出世街道を邁進していたラージクマールだが、王都陥落の混乱の中で出会ったドリーのことが気にかかっていた。 

    その後、ラージクマールは訪印した際にラトナギリーに出向き、ドリーと再会する。当初は彼に関心ある素振りさえ見せず冷淡にあしらっていたドリーだが、ついにラージクマールと一緒になってビルマに戻ることに同意する。 

    ・・・といったあたりが物語の導入部だ。ラージクマールとドリーの夫婦、サヤー・ジョン、そしてウマーの身内といった三つの家族とその子、孫の代にかけて、ビルマ、インド、マラヤの三つの地域にまたがり、王都マンダレー滅亡から第二次大戦を経てこの地域の旧英領の国々の独立、そしてビルマの民主化運動後までの110年もの長きに渡る時空のもとで話が展開する。 

    描かれる時代や場所により、一人称で語られる人物が次々に入れ替わっていくが、世代による物事の考え方や価値観の違いも描き出されていく。主人公と呼ばれるべき人物が複数あり、それぞれ異なる軸からストーリーが見事に紡ぎ出されていく。 

    1956年生まれの著者のアミターヴ・ゴーシュは、ビルマに在住した経験はないが、ニューデリーに遷都される前、1911年までは英領インドの首都であり、インド東部に位置する西ベンガルの州都コールカーターは、地理的にもビルマに近い。今でもラール・バーザール東側の10A, Eden Hospital Rd.にビルマ系の人々が出入りするMyanmar Buddhist Temple (Burmese Buddhist Templeから改称)というテーラワーダ仏教の礼拝所がビルの中に入っている。そうした環境のためビルマから引き揚げてきた人たちと接する機会もあったのではないかと思う。 

    それにも増して大きな動機として、著者であるアミターヴ・ゴーシュの父親と叔父が英軍将校としてビルマに駐在しており、インド国民軍との戦闘体験もある。著者自身、父親や叔父から当時のビルマの話をよく聞かされていたようだ。そのあたりの経緯については作品の後書に記されている。『この小説のアイデアは、私が生まれるよりかなり前に父と叔父によってインドの我が家にもたらされた』とあり、作家自身が格別な思い入れと渾身の力を込めて綴った物語であることが感じられる。 

    ビルマやマラヤにおけるインド系の人々の移民史、植民地行政史に関するある程度の予備知識が必要かもしれない。アジアにおけるイギリス支配の中心地であったこのエリアにおける、インド系とりわけベンガル人の視線から見た近代から現代にかけての歴史ドラマだ。 

     20世紀初頭にはラングーンの人口のおよそ半分がインド系であり、文字通り『インドの街』であった。今でもダウンタウンには、ベンガル、U.P. ビハール、タミルナードゥその他に起源を持つ人々が大勢暮らしている。地域に点在するヒンドゥー寺院や祠はもとより、ジャイナ教寺院、グルドワラーがあり、父祖の出身地域コミュニティごとのインド系の人々のモスクがいくつもある。 

    ムスリム地区の一角には、シナゴーグがひっそりと佇んでいる。もはやユダヤ教徒は数えるほどしか残っていないというが、かつてここで繁栄を享受した彼らはユダヤ系インド人であった。 

    この物語の中心人物のひとり、ラージクマールに話を戻す。一時は羽振りの良い材木商として、人々にとって自家用車など夢また夢であった時代に、息子に当時の最新型の自動車を買い与えるなどしていたが、日本軍のビルマ侵攻で全てを失ってインドに難民として逃れる。

    頼った先は妻ドリーとの間柄を取り持ってくれた恩人であり、親しい友人でもあるウマーの実家。彼が死ぬまでの20年間、ビルマにて一代で築き上げたすべてを失い無一文となったラージクマールは、ウマーとその家族の好意にすがって静かに余生を送る。 

    この物語に出てくる人物は、コンバウン朝最後の王ティーボーとその家族を除きすべて架空の人物だが、ビルマにおけるインド系移民の盛衰を鮮明に描き出している点もまた興味深い。 

    ビルマ征服を企てたのはイギリス人であったが、軍の大半はインド兵たちであり、ビルマを統治した役人たちの多くもインド人、鉄道や道路といったインフラを建設したのもインド人ならば、都会で商業活動の中核を成していたのもインド人たちであった。もちろん農作業や家内工業その他非熟練労働に従事するインド出身者たちも沢山いたとはいえ、当時のビルマの人々がいつも目にする『外来の抑圧装置』といえば、やはりインド人たちということになってしまう。

    旺盛な勤労意欲と企業家精神から、当時彼らの帝国の版図に新たに加わったビルマで大きな財を成したインド系の人々は多かったようだ。だがビルマでの独立を求める機運と反英運動は当然のことながら、『植民地の中の植民地』として君臨するインド人(とともにこの国で商業的に成功した華人たち)に対する反感と切り離すことは不可能であった。 

    インドでは独立運動が地域や民族を横断する包括的なムーヴメント(印パ分離という悲劇はあったものの)となり、独立後も民族のモザイクを統合する方向に努力が続けられたのとは対照的に、ビルマでは国内最大の民族集団であるビルマ族中心の民族主義が台頭した。 

    独立前後からすでにあったインド系・中国系を排除する動きのみならず、民族的にも文化的にもインド顔負けの多様性に富んだ国内をビルマ族の言語と文化で国内を統合しようとした結果、長年に及ぶ内戦が続くことになったのはご存知のとおり。 

    ビルマからのインド系の人々の流出には幾度かのピークがあった。最初は1937年の行政的にインドからの分離した際、次は第二次大戦期の日本軍侵攻から1948年のビルマ独立にかけてのナショナリズムの高揚期、そして1962年のネ・ウィン将軍によるクーデターによる軍政が始まった時期である。これらは、印パ分離の陰にかくれてあまり語られることがない、もうひとつの『インド社会の分離と離散』の時代でもある。 

    この作品は2007年に日本語に訳されて、邦題『ガラスの宮殿』として新潮クレスト・ブックスから出ている。多少なりとも興味のある方には一読をお勧めしたい。 

    書名:ガラスの宮殿

    著者:アミターヴ・ゴーシュ

    翻訳:小沢自然・小野正嗣

    出版社:新潮社

    ISBN-10: 4105900625

  • アレもコレも中国製

    アレもコレも中国製

    デリー市内のおもちゃ屋の店先のショーケースに並ぶミニカー。小学校3年生の息子がジーッと見入っている。

    『アレが欲しい』 

    指差したのはオートリクシャーのプラスチックのミニチュア。

    「同じものをいくつも持ってるじゃないか」と言えば、『色合いも造りも違うんだよ』などと判ったような口を利く。

     

    そんな具合なので息子の部屋のガラクタ箱の中には、アンバサダーやスモウといった乗用車、はてまたターターのトラックなどのプラスチックで出来た安物ミニカーの様々なバージョンがいくつもゴロゴロしている。

    こうした玩具のクルマの多くを製造しているのはCentury Toysという会社だが、今日のオートリクシャーを手に取ってみると、車体の底にMADE IN CHINAの文字を見つけた。

     90年代初頭までの何でもかんでもインド製だった時代と違い、今では様々な分野に外資が進出しているし、それと並行してマーケットに並ぶ品物にも輸入製品が洪水のごとく押し寄せるようになっている今のインドだ。

    日用雑貨類でも中国製品の進出は著しく、今の日本のように『China Free』で生活することは無理とまでは言わなくとも、特に廉価な商品の中に中国からの輸入品が占める割合はとても高くなっている。もちろん玩具類などはその典型だが、いかにもインド的なおもちゃ類の中にも中国製品が混ざっているとは今まで気が付かなかった。

    中国の工場労働者たちは、作業現場で作る『見たこともない二色ボディーのオート三輪』がインドで売られるものであるとは知らないだろうが、よくよく考えてみればバーザールで販売されている安価な神像の類の中に中国製品が占める割合がかなり高くなっている昨今なので、こんなことは驚くに値しないのだろう。

    インド自身も安くて豊富な労働力に恵まれた国であるにもかかわらず、そこに堂々と割って入る中国の工業力には脱帽するしかない。

  • 飛行機に立ち乗り?

    飛行機に立ち乗り?

    ローコストを売りにする新興航空会社の伸長著しいアジア各地。日本はその波にすっかり乗り遅れた感がある。インドでも2000年代に入ってから航空会社の数が増え、多くはチケットのネット販売中心の低価格のビジネスモデルで既存市場に切り込む、あるいは新規路線を開拓するキャリアだ。 

    結果としてフライト数の増加は国内の空港等をはじめとする関係施設の整備を促し、航空券が低廉化することにより、経済成長に伴う可処分所得増と相まって、飛行機を利用できる層が大幅に増えることとなった。 

    新興航空会社の中でも安易な価格競争のみに走ることなく、競合他社との差別化を明確に打ち出して自社をブランド化するキングフィッシャーのような成功例もある。近ごろの同社は国際線への進出も加速させている。 

    それでもアジアにおける新興航空会社の華やかな主戦場はインドであるとはまだまだ言えない。やはりこの流れをリードしているのはインドの東、アセアン諸国で『多国籍化』しているエア・アジアならびにその関連会社を筆頭とする格安航空各社だろう。すでに域内で国境を越えて格安航空会社がシームレスに行き来するシステムが出来上がっている。 

    シンガポールを本拠地とするタイガー・エアウェイズは、すでにバンガロール、チェンナイ、トリバンドラム、テイルチラッパリといったインドの都市に就航しているが、飛行時間が1時間程度の短いもの(そのためインド便は対象外)に限り立ち席の導入を検討している。これにより乗客の支払う運賃は十数米ドル程度になる見込みだ。 

    この『立ち席導入検討』の口火を切ったのはアイルランドの航空会社ライアン・エアーだが、それに先立ち体重の重い乗客から追加料金徴収、トイレ使用の有料化などといった提案により物議を醸してきた。 

    飛行機の立ち席が具体的にどういうものかについては、下記リンク先の動画をご参照願いたい。もちろん何もないフロアーに立つわけではなく、乗客が身体を固定する装置が用意される。それでも離陸の際にはちょっとスリリングかもしれない。 

    Plans for new standing area on Ryanair flights (Youtube)

    目下、安全面からの検討の余地があるようだが、立ち席の装置のスタンダードが確立されれば、この流れは他国に間もなく波及することだろう。インドにおいても飛行時間が1時間前後あるいはそれ以下のセクターは多いため、他国での動きを注視しつつ導入を考えているところもすでにあるのではないかと思う。 

    実は90年代初めに飛行機の『立ち席』を見たことがある。カンボジアの国内線でシェムレアプからプノンペンに戻る際、なぜか乗客のうちの1名が席からあぶれてしまった。驚いたことに、客室乗務員は何食わぬ顔で、乗客に『通路に座るように』と指示していた。離陸の際、彼は緊張した面持ちで腰を下して右側の席の手すりにしがみついていた。水平飛行に入ってから目的地が近づいて着陸態勢に入るまで、その人物は通路に立たされていた。 

    当時のカンボジアは、総選挙のために国連が平和維持活動を行っていた時期であり、あらゆる面において現在とはずいぶん違う異なるものがあった。 

    隣の乗客と『こんなの初めて見たなぁ!』とビックリしながら話し合ったものだが、運賃の低廉化とともに近い将来には『立ち席』がごく当たり前の風景になりつつあるのだろうか。

  • 憎悪の連鎖

    世界を震撼させたアメリカの同時多発テロから9年になる。不幸にも被害に遭われた方々やその遺族の方々は言うまでもなく、『9/11』がその他の私たちに与えたインパクトは大きかった。まさにあの時を境に『世界は変わった』と言えるだろう。 

    被害者といえば、また事件直後のアメリカでは、外見から中東あるいは南アジア系と見られる人々に対する襲撃事件が相次ぎ命を落とした例も少なくないし、事件後アメリカが取り巻きの国々とともに直ちに取った『テロとの闘い』の名の元に展開させた報復行動により、この世から葬り去られたアフガニスタンとイラクというふたつの国(の政権)とそれと命運を共にした当時の体制側の人々やその巻き添えになった無辜の一般市民たちも同様だ。 

    サッダーム・フセイン政権が崩壊直後、それまで厳しく社会を律してきた治安機構そのものが不在となったイラクでは、それまでこの国で長らく弾圧の対象となっていた思想や信条を抱く集団が大挙して周辺国・地域から流入して、強力なリーダーシップで国を率いてきた独裁者のいなくなった『新天地』に地歩を固めることとなり、イラクの社会に混乱と暴力を、人々に怖れと生命への不安をもたらすこととなった。 

    アメリカは『イラクに民主主義をもたらした』と言う。確かに野心と才覚を持ち合わせた個人が策略を弄して上へ上へとのし上がることのできる自由は与えられたかもしれない。だがそれよりもずっと沢山の人々が、上昇しようにも見えない天井があるものの、彼らの社会に課せられた規範を踏み外さない限りは、生命や財産の心配をすることなく日々安心して暮らしていくことのできる社会とどちらが大切だろうか。 

    ご存知のとおり、イラクは確認されている原油埋蔵量は、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の1,120億バレル。しかも埋蔵量の9割は未開発であるとされ、本来ならば非常に豊かな国である。人口およそ3,000万人のイラクでは豊富な石油関係の収入を背景に、1990年8月2日に起きたイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸危機とこれに続く国連による経済制裁や湾岸戦争以前には、それなりに豊かで安定した市民生活が営まれていた。市民や外国人が過激派に誘拐されて殺害されるようなことなど想像もつかない、極めて良好な治安が保たれてもいた。 

    『9/11』やその後の一連の動きの中で被害に遭った人々たちの住む地域や社会的な背景は様々であり、思想や信条による色分けはない。たまたま犯人たちが特定の宗教を信仰することになっている人々であった。だがその事件とこれに対する報復劇の最中には、関連地域に生活するキリスト教徒であれ、イスラーム教徒であれ、あるいはユダヤ教徒も大きな被害を受けてきた。事件そのものが政治化されたがゆえの未曾有の『災害』だ。 

    この災害はイラクに先立ち、1978年以来続いてきた内戦の復興からほど遠いアフガニスタンをも呑み込んでしまった。こうした『政治的災害』は、今なおそのエネルギーは衰えることなく、地殻のすぐ下で不気味な響きを立てているその奔流は今後どこへと向かうことになるのか。 

    こうした災害をもたらした『政治屋』たちの謀略をよそに、アメリカで『未知なる人々への憎悪』という市民の間からも火の手が上がりつつあることについては、これまでとはまた違った注意が必要なのではないかと思う。 

    あるキリスト教系の団体が、今年の9月11日をイスラーム教の聖典であるクラーンを集めて、これらの焚書を実行すると宣言している。 

    9月11日にコーラン焼却集会を計画 フロリダの教会 (CNN.co.jp)

    彼らは嫌イスラームの姿勢で広く知られており、同教団のウェブサイトでは、反イスラームのメッセージを伝えるTシャツや書籍の販売も行なっている。 同サイトには、この教団による『クラーンを燃やす10の理由』『クラーンを燃やすあと5つの理由』といった主張も書かれている。 

    他者に対するこれほどの過激な姿勢については、まさに『カルト』と表現するほかなく、彼らの主張がアメリカや他国の大衆や世論をどれほど感化するのかといえば、その影響力はごくわずかなものであると信じたい。それでもイスラーム社会全体を敵とみなすこうした団体の存在は大変センセーショナルであることから、メディアによる取材・報道の格好の材料となる。ゆえに国内外に与える社会的なインパクトは大きい。 

    彼らの行動は、イスラーム原理主義過激派により反米感情を煽る格好の材料として使われる。イスラーム社会に暮らす大衆の間で『反米・反キリスト教』感情をかきたて、彼らの側でも『未知なる人々への憎悪』の炎を燃え上がらせることになる。今後もアメリカ政府機関や多くの罪なきアメリカ国籍の一般人たちがテロや誘拐といった暴力行為の標的となる理由づけに利用されることは想像に難くない。多くは直接出会ったこともないし、声を交わしたこともない未だ見ぬ人々同士の間での憎悪の連鎖を断ち切るにはどうすればよいのだろうか。 

    交通や通信手段の発達により、世界は狭くなったとはよく言われることだが、地域・信条・思想を越えての人々の距離はそう簡単には狭まることないようだ。むしろコミュニケーション手段の進化とともに、疑いや憎悪といったネガテイヴな感情がいとも簡単に国境を越えて人々の間でこれまでにない速度で伝わることが可能となっていることについて、大きな不安を抱かずにはいられない。