
神々も我々とフェイスブックで繋がるようになって久しい(?)のかどうか知らないが、パソコンでどこかと通信中のガネーシュ像を見つけた。
願わくば、この世に暮らす我らすべてに祝福を!

Kさんは午前3時半くらいにトイレに起きたそうだが、そのときには村の眺めが見えるくらい、月が煌々と照っていたのだそうだ。私が見た壁から漏れる光も月のものであったらしい。


朝5時半に隣の仏教寺院に行くと、朝の勤行はすでに終わりの頃合いであった。この時間帯の気温は20度と涼しい。やはり高度が少しあるからだろう。海抜1,000mもないとは思うが。

朝食は、卵焼き、ナスの煮物、昨日と同じ米とバナナの花のおこげ、そして特記すべきはバニヤンの葉のスープだ。バニヤンといっても大きくなるバニヤンとは少し種類が異なるものだそうだ。このあたりでは野菜、野草以外にも食用となる木の葉も多いようだ。食物繊維の摂取にはいいだろう。


朝8時に村を出発。あとはほとんど下るだけである。昨日とは違うルートで、より緩やかな感じだ。このルートは雨季には使わないのだという。ところどころで川になってしまうからだそうだ。でもこのトレッキングを雨季に行なうのはかなり大変だろう。足元はぐじゃぐじゃになるし、ヒルも出るしで、苦痛を伴うこと必至だ。

幾つかの川を渡る。簡素な橋もあれば、切り倒した木の幹を向こう岸に渡しただけのものもある。後者は浅瀬になっているから可能。イチジクの木もあり、実が落ちていたが、ここでは食用にはしないとのこと。割ってみても、においをかいでみても、間違いなくイチジクであった。日本のそれよりも固めで、外観はより赤いが。バニヤンの葉のような、まさか食用にするなどとは想像もつかないものが食卓で供されたかと思えば、我々にとっては当たり前の「果物」が食用にされないとは興味深い。

川の水際の豊かな風景を楽しむ。子供たちが川にザブンと飛び込んで遊んでいる。増水期にはそうもいかないだろうが、この時期ならば小さい子供たちだけで戯れていても大丈夫だろう。日本の江戸時代の村の様子もこんな具合であったのではないだろうか。
このところ経済面で大いに注目されているミャンマー。最大の商都ヤンゴンはこれから大きな変化の波に揉まれていくことになるわけだが、こうした山間の村々もまた同様に、スタート地点があまりに低かっただけに、今後の変化の度合いは非常に大きなものとなることだろう。
だが気になるのは、多様な生活文化を持つ少数民族の人々が、これまで長く伝統的なライフスタイルを大切に世代を継いで継承してきたわけだが、その変化の大波の中でそうしたものが時代遅れで未開なものであるとして切り捨てられてしまうのではないかと、気になっている。
村のコミュニティの中の人々で、経済的にベターな暮らしを得ることができるようになった人々が出てくると、彼ら自身もまたそのような価値判断を持って、自らの民族の文化を軽んじるような方向に行くようなことがないことを願いたい。
スィーパウの町からパンカム村へは、日帰りも可能だ。朝5時過ぎか6時くらい出発して、少し早いペースで飛ばせば昼前には着くだろう。登りの傾斜もゆるやかなので途中キツイ場所もない。村でしばらく休憩してから午後1時くらいに出て、少々早足で下れば、スィーパウの町に日没までには到着できるだろう。
だがこのルートの醍醐味は、やはり村に宿泊することにある。そう遠からず、もっと奥の村へのルートも旅行者たちの間で知られるようになり、ミャンマーのこのあたりといえば、少数民族の村々を訪れるトレッキングが楽しいということが、内外に広く知られるようになるのも時間の問題ではないかと思う。
<完>



点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。
食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。
もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。
あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。



ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。
他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。
山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。
ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。
シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。
さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。
顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。
ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。
「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。
山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。
チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。
<続く>


先日取り上げたミャンマーのヤンゴン郊外の日本人墓地のすぐ北にクリスチャン墓地がある。英国人をはじめとする欧州系の人たちの墓が沢山あるのではないかと予想していたが、そうではなかった。

敷地内の墓石の大部分はミャンマー人のもので、クリスチャンネームとともにビルマ名も刻まれている。世俗の生活の中で、もっぱら使用していたのは当然後者のほうだろう。この国においては、ヒンドゥーもムスリムも日常用いているのはビルマ名である。

欧州人たちの墓は、ごく小さな一角にまとめてあった。想像していたよりもはるかに少ないが、相当整理されてしまったに違いないことは、墓石が無造作に積まれている有様からも見てとれる。
時は移ろう。世を支配する立場の側にあった人たちも鬼籍に入り、世間に影響を及ぼすことはなくなる。人々の間の記憶から忘れ去られていき、歴史の過去に消えていき、この世に生きる私たちとは無縁の存在となっていく。
付近にはシーア派ムスリムの方々の墓地もある。当然、インド亜大陸からの移民(および少数ながらイラン系の移民)ということになるので、ぜひ訪れてみたかったが、すでに日没の時間となってしまったので断念せざるを得なかった。












人力車発祥の地である日本だが、まさにこの日本発の電動三輪がアジア諸国をはじめとする途上国の市場を狙っている。
すでに色々なメディアで取り上げられているが、テラモーターズが注目されているのは、四輪の分野と違って、これまであまり注目されてこなかったEVの二輪や三輪の開発と販売を推進しているだけではなく、目指すマーケットがグローバル規模であり、従前は各国の地場産業の舞台であったオート三輪の世界をフィールドに飛翔することを狙っているからだ。すでにフィリピンでは本格的に始動している。
テラモーターズ、フィリピンの電動トライシクル事業に参入(自動車新聞社)
「テラ モーターズ」三輪EVのプロトタイプを公開、日本発のベンチャー企業が世界に挑む!(マイナビニュース)
電動バイクのアジア戦略 (THE INDEPENDENTS)
乗り心地のほどはどうかわからないが、流麗なボディのフォルムはなかなかいい感じだ。日本発祥の電動オートがインドの街を駆け巡る日がやって来るかもしれない。


ナショナル・ジオグラフィックによるインド国鉄特集のビデオGREAT INDIAN
RAILWAY」「がYoutubeで公開されている。
といっても、ナショナル・ジオグラフィック自身がコンテンツを広く公開しているわけではないようで、要は海賊版ということになってしまうのだが、インド国鉄の魅力をうまく伝えている作品である(・・・がゆえに、ぜひオリジナルを購入したいところだ)ので、取り上げてみることにした。
蒸気機関車が登場したり、2001年に事故死したマーダヴラーオ・スィンディヤー(旧藩王国の王族で国民会議派議員)が登場したりしているので、いつ作製されたものなのかと思えば、1998年1月にリリースされた作品であった。
興味深いインド国鉄の世界であるとともに、今や事情が少し違ってしまっている部分もあるため、鉄道史を語る貴重な記録であるともいえる。

在米のインド系ビジネスマンが起業したmagzterが頑張っている。
いろいろな雑誌の取扱いが増えており、インド関係以外にも東南アジアやアメリカ等の国の雑誌類、中には日本のものもわずかながら含まれている。
magzterの利用により、インド国外からも雑誌類が購読できるのはいいことだろう。インドの主要都市に居ても普段は見かけない北東州のニュース雑誌の取り扱いもある。magzterの出現以前は、インド国外から雑誌類を購読しようとする場合、それを取り扱うサービスはあっても、手元に届くまで時間がかかったり、郵便事情等により欠配することもあったはずだ。紙媒体で流通しているものと同じ誌面で販売されていることはもちろん、オンタイムで購入できるのが有難い。
ただ欠点もある。年間購読するように誘導しているためであるが、単号で購入するのと半年ないしは1年間の契約にするかで、ずいぶん単価が異なることだ。前者だとかなり割高に感じられてしまう。
一度購入したものは、同じアカウントでサインインしている限り、他の端末でも閲覧できて便利だ。しかし、iPad、Android、Windows RT等々のタブレット用のmagzterアプリが用意されているのはいいのだが、タブレットのOSによって操作感がかなり異なることに少々戸惑ってしまうため、改善されることを望んでいる。
少々注意が必要な部分もある。定期購読の場合、少々注意が必要なのは、購読者側から解約手続きをしない限り、自動更新になってしまう。そのため契約月についてはしっかり覚えておかないといけない。
私自身は、ニュース雑誌を定期購読しているが、旅行関係ではNational
GeographicのTraveller Indiaというものがなかなか興味深いことに気が付いた。昨年7月のヒマラヤ特集は充実していたし、他の号でもなかなか興味深い記事が掲載されているのは、さすがNational Geographicである。

ただし、他の版元から出ているインドの旅行関係雑誌については、インドの人々の間での旅行に関するトレンドを知るにはいいかもしれない、といった程度のことが多いため、あまり期待しないほうがいいだろう。
ともあれ、今後ますますの充実を期待したいところだ。雑誌のみならず、将来は電子書籍なども購入できるようになるとありがたい。
ミャンマーで、1962年に起きた軍部によるクーデター以降、約半世紀ぶりに民間の新聞が復活しているというニュースが流れたのは、ごく先日のことだ。
ミャンマー、民間日刊紙が半世紀ぶりに復活 (asahi.com)
この民間の新聞の中で、おそらくほとんどがビルマ語紙で、ひょっとしたら英字紙も含まれているのかもしれない。旧英領といっても、英語の通用度はインドと比較のしようもないほど低いミャンマーには、それなりの理由がある。
イギリスによる支配の歴史がインドに較べるとかなり短いこと、そして独立後のインドにおいて英語が果たしてきた大きな役割とは裏腹に、支配的な立場にあるビルマ族による「国粋化」により、日常の商取引や教育の場から英語が駆逐されたミャンマーとでは、英語の位置付けそのものが大きく異なる。インドにおいて、英語は(たとえそれを理解しない人が過半数を占めているとしても)インドの言葉の中でも重要な地位を占めているが、現在のミャンマーにおいては、英語は外国語にしか過ぎない。
英字紙はともかく、おそらく1962年のクーデター以前には、ヤンゴンその他の都市部では広く流通していた中国系住民のための華語紙、インド系住民を対象としたウルドゥー紙その他の外来の言語によるメディアの復活はありそうにはないようだ。
ミャンマーでは、新聞や雑誌等に対する事前検閲は廃止されたものの、発行後の事後検閲は継続している。管理に手間のかかる外国語によるメディアについてはなかなか許可が出にくいものであろうと想像される。また、1962年以前は都市部人口にかなり高い割合を占めていた中華系、インド系の人々が軍政の始まりとともに、大挙して国外に流失してしまったという事情もある。
話者人口の規模が縮小するとともに、世代交代が進むにつれて、自然と父祖の母語を理解する人々は減り、理解度という面においても水準は下がっていくのは当然のことだ。
ヤンゴンのあるヒンドゥー寺院では、地元のインド系住民の若年層を対象にした「ヒンディー語教室」が開かれている。そこで教えている男性に話を聞いたことがあるのだが、話者人口や世代交代だけではなく、インド系の言語によるメディアが廃止されたことによる言語面でのインパクトはかなり大きかったようだと語ってくれたことを思い出す。
「だって、あなた、読み書きする機会が減れば、語彙も乏しくなるでしょう。言葉が乏しくなれば不便になって、あまり使わなくなってしまいますよ。するとどんどん先細りになっていく。喋った先から消えて行ってしまう話し言葉だけじゃなくて、やっぱりきちんとした文章を日常的に読むということは大切ですから・・・」
20世紀初頭のヤンゴンでは、住民の半数以上がインド系の人々が占めていた時期もあり、非インド系の人々の間にもヒンディー/ウルドゥーが通じるというのがごく当たり前といった状況であったようだ。
ヤンゴンで、今のインド系住民の間で、インド系の言語による新聞が復活することはないだろう。それでも、ダウンタウンのインド人地区でモスクの中や周辺では、ウルドゥー語による会話が聞こえてくることはしばしばあるし、ヒンドゥー寺院に出入りする人々の会話にしばしばヒンディーによるやりとりが含まれることはよくあるようだ。
やはり言葉というものには、単に意思疎通の手段としての道具という以上に、民族のアイデンティティとしての意味合いも大きい。インドから移民して数世代経過している人々の間では、地元ビルマ語が母語になっているとはいえ、宗教施設での説法や人々の会話の中にそうした父祖の言葉による会話が挿入されることが多いのは当然のことなのだろう。
そんな環境の中で、曲がりなりにもヒンディー/ウルドゥーを理解するということに対する、インド系の人々の反応のポジティヴさには驚かされる。インドではずいぶん粗末に扱われている印象を拭えない言葉に対する人々の愛着には心動かされずにはいられない。
ミャンマーで、ヒンディーやウルドゥーの新聞や雑誌が復活することはないにしても、コストのかからないウェブ上でのニュースサイトが出てくることは、有り得ないことではないように思う。
報道や表現の自由度の拡大や経済発展へと向かう中、これにより本国とは遠く離れた環境下で細々と続いてきたインド系言語環境が利するところはあるのか、今のところはまだよく判らない。


3月27日(水)から5日間に渡り、インド大使館敷地内で開催されていた桜バザーの最終日、3月31日(日)に訪れてみた。
もうだいぶ前、大使館が改築されて現在の姿になる前には、外交官の家族たちが自ら作った料理や菓子などを販売していたりもしていたものだが、何かにつけてアウトソースするのが時流の昨今らしく、このイベントで出店しているのはすべて外の業者となっている。
その分、開催が1日のみであったものが、ここ数年来、つまり大使館の改築後からは複数の日付にまたがって開かれるようになっている。
開催する側の都合や目的あってのことなので何とも言えない。少なくとも訪れる人々に対して複数の機会が用意されていいかもしれないが、中身はずいぶんよそよそしい感じになったと言えるし、訪れる人々の数も減ったと思う。開催日が数日間に渡るようになったため、延べ人数では多いのかもしれないが、1日の訪問客数で見ると、明らかに少なくなっているに違いない。
もちろんタイミングも良くなかった。桜の開花時期とはいえ、すっかりピークを過ぎてしまっており、もはや花見を楽しむという具合ではなくなってきているし、天気もすぐれなかった。桜が一気に開花した先週末であれば、また少し違った様子になっていたかもしれないが、事前に準備しなくてはならないので、こればかりは仕方ない。
インド大使館の前では、現在スリランカで起きている重篤な人権侵害を糾弾する座り込みの抗議活動が展開されていた。参加している人たちは、タミル系の人たちで、インド国籍の人たちもいれば、スリランカ国籍の人々もある。
剛腕でLTTEを壊滅させたラージャパクサ大統領については、その手腕に高い評価を与える向きも少なくない反面、あまりに行き過ぎたやりかたについて、内外からの批判も多い。現在もLTTEの残党狩りは続いており、治安当局による不当な拘束、監禁、拷問、殺害などが続いている。
だが、これらについて日本では人々の関心は非常に薄い。そうした状況であることを知らない人も多いのではないだろうか。通りかかる人たちの無関心ぶりには考えさせられるものがあった。

インドの話ではなくて恐縮である。日本からインドに向かう場合、往々にして上空を通過あるいはバンコクでの乗り換えといった形で縁のあるタイの鉄道に関するものである。
バンコク郊外のメークローン駅界隈では、今も水上マーケットが残っており、古き良き時代を体験できるエリアとして知られているが、それにも増して魅力的なのは、鉄道の路線にまたがって広がる市場だ。
・・・と書いてみたが、実は私自身、まだここを訪れたことがない。
Thailand railway track market (YoutTube)
列車通過に備えて店頭の片づけをする人々の手際の良さに感心するとともに、車両最後尾が過ぎ去るやいなや店開きを始める様子には、市場で働く人々の旺盛なバイタリティを感じずにはいられない。
感銘を受けたのは、市場の人々の有様だけではない。上記リンク先の動画の中に出てくるように、多数の観光客がカメラやビデオで撮影している姿があることからも判るかと思うが、バンコク近郊の有名スポットである。
タイ政府もこの危険なコンディションのマーケットを貴重な観光資源のひとつとして位置付けているのかどうかは知らないが、当この状態を容認しているため、長年に渡ってこうしたシーンが日々繰り返されているわけであり、当局の鷹揚さと柔軟さを感じずにはいられない。
マーケットの立地が危険であることは間違いない。でも常時神経過敏症的で、些細なことで大げさに騒ぎ立てるヒステリックな日本社会から眺めると、このようなおおらかさは実に羨ましく感じられないだろうか。