私の車両はどこ?今どこを走っているの?

かつてインド国鉄は、予約してある車両がどこにあるのかわからないと、車両が長大で編成数も多いため、停車わずか1〜3分程度だとたいへん焦ったものだ。今では各種インド国鉄関連アプリやウェブサイトなどで該当列車の「Rake Information」を調べると、ちゃんとこんな具合に出てくるので助かる。

Rake Information

また「Running Status」で、今どこを走っていて、どのくらい遅れているのか、遅れていないのかもわかるので、とても便利になった。駅で列車を待っていても、乗車して到着を待つ場合でも、大変ありがたい。

Running Status

こうしたものがなかった時代、駅に着くとまずは駅員かポーターに列車名を伝えて、私の車両がどのあたりに停車するのか質問、答えを聞いてからも念のため別の駅員かポーターにも同様の質問をしてクロスチェツク。

そして乗り込んでからは、他の乗客との会話の中で、列車がほぼ定刻で進んでいるのか、遅れているのかを知っていた。夜行列車で深夜過ぎとか未明とか、多くの乗客が就寝しており、車内の照明も消してあるような時間帯に到着予定であると、ホームでの駅名表示は多くないため、「この駅は私の降りる駅なのか?」と気が気ではなかったりもした。

今やこうした心配がまったくなくなっているため、インドの汽車旅の利便性は格段に向上していると言える。

鉄道駅は情感に満ちた劇場空間

鉄道駅で車両の入れ替えなどで大活躍するディーゼル機関車。1980年代後半ごろは、そうした役目を蒸気機関車が担うことも多かった。

スタンバイしてから動けるようになるまでのウォーミングアップ時間はとても長く、機関士だけでは動かせず機関助手と常にコンビでないと使えない。また機関車自体がやたらと重厚長大で、いろいろ面倒なことが多かったのだろう。だがその頃は駅のホームでそれが動くのを目にすること自体がたいへんなエンターテイメントでもあった。少なくともすでにSLを見かける機会がまず無い国からやってきた者にとっては。

鉄道駅というものは、大きな駅だと全国各地から数々の列車の往来が旅情溢れる眺めだが、日に数回しか停車のない小さなローカル駅だと、これまた鄙びた感じとか郷愁とか、異なる味わいがあって良い。

バススタンドだと、大きくても小さくても、ワサワサしているだけで、何の味わいもない。空港だとそういうせせこましい感じはない(そうでない空港もあるけど)ものの、乗り物自体が待合室から離れているためもあってか、鉄道のようなヒューマンなムードはあまりない。

そう、鉄道駅の良さは、そういう人間らしい情感に満ちた空間であること。

汽笛が鳴り、ガタンという音とともに少しずつ動き始める車両。窓越しにホームと車内で指を絡ませあっている男女の瞳に諦めの色が灯り、それでもホームにいる女性はゆっくりと歩きながら窓の中からじっと見つめている男性に何事か言葉を継いでいる。

列車が速度を徐々に上げていと、互いの手を離しながらも、まだ何か伝えたいことがあるかのように歩みを早めながら、ふたりの会話はしばらく続いていく、鉄道駅でそういう光景が展開していると、それを間近に目にするこちらもジ〜ンとくる。鉄道駅には劇場空間的な趣があるのだ。

鉄道車両の眺め

鉄道事故の際の救援列車
鉄道事故の際の救援列車
脱線車両等を路線から取り除くためのクレーン車両

過日、エルナクラムJN駅で見かけた救援車両といい、この日トリスール駅に停車していた脱線処理車両といい、近くで大きな事故でもあったのだろうか?と思ってしまう。

コロナのデルタ株で多くの死者が出ていた時期には、マレーシア、シンガポール方面並びにガルフ方面からそれぞれの政府の協力により医療酸素ボンベを大量に調達したインドは、ムンバイ及びチェンナイから大量の貨物列車を動員して全土に輸送している様子がニュースになっていた。

私が直に目にしたものでも2005年12月にインドネシアを震源とする津波被害がインド東海岸に及んだ際、緊急に仕立てたと思われる援助物資を届ける貨物車がしじゅう走っていた。

また80年代後半にインドがスリランカ内戦に介入した際、南インドで鉄道に乗っていると無蓋車両の延々と続く車列に、戦車等の軍用車両を運搬する貨物車が多く、ギョっとしたことを覚えている。このときの介入が原因で当時のLTTEから恨みを買い、同じくLTTEにシンパシーを抱く一部のタミル人からの協力を得た手路グループにより、1991年5月に総選挙のためタミルナードゥで遊説中だったラジーヴ・ガーンディーが暗殺されてしまったのであるが。

鉄道車両の眺めには、そのときどきの大きな出来事や世相が大きく反映されることがある。

昔のケーララ州の眺め

昔々訪れたときのケーララ州の街の商業地では、下階はお店で上階は住居のこんな感じの低層家屋が延々と続く光景が続いていた。

これが連なっていた地域で、こうした建物がほとんどなくなっているので、おそらく90年代から2010年代くらいの間に次々と建て変わってしまったのだろう。こちらの写真はトリスールで撮影したもの。

こうした変化はケーララ州に限ったことではなく、どこの地域でも伝統的な街並みというものはかなり減った。1990年代に入るまで、こうした昔ながらの眺めが健在であったのは長年続いていた低成長がゆえ。経済が調子良く回るようになってからは、街なかの様子が大きく変わっていくのは当然のことである。

STD/ISDブース

トリスール駅構内で、いつまで稼働していたのか知らないが、STD/ISDのブースだけが残っていた。かつては、こうしたブースはどこに行っても普遍的に見られ、人々の生活インフラであったものだが、携帯電話の普及と比例して姿を消していった。今はプリペイド契約でもインド国内どこにかけても通話無料だし、WhatsAppその他の通話アプリで国際通話も無料の時代となっては信じ難いような思いがするが、通話時間とともに料金が上がっていくメーターを目にしながら相手と話をしていたものだ。

その頃はインターネットも草創期であったため、ネット屋もあちこちに出現していた。当時はそれで「便利になったものだ」と感心していたものだが、地域や店によっては通信速度があまりに遅すぎて、メールのチェックをするだけでもひと苦労だったりもした。

宿泊先のすぐ近くにあるとも限らず、電気事情の良くない地域では、せっかく出向いても停電で利用できないということもしばしばあった。

今ではそれらのことが、夕飯後に宿のベッドの上に寝ころんだままで、それ以上の事柄がいろいろ出来てしまうのだから、ありがたいものだ。飛行機、鉄道やバスの予約にしてもそうだし、次の宿泊地のホテル予約も同様。日記類もGoogle Documentなどを利用するようになったので、前夜に宿の部屋でノートPCで書き綴った内容の続きを昼間の列車内でスマホで打ち込んだりもできる。

今後10年後、15年後は更に大きく発展して、どんな環境になっているのか、今からはとても想像がつかない。