



Heavenという宿がある。かなり建て増しがなされているようではあるものの、入り口の狭いドアをくぐった先にある広々とした中庭を中心に広がる洒落た光景には思わず息を呑む。料金帯の割にはプロフェッショナルなサービスが提供されており、マネジメントもしっかりしていることが窺える。今後長く繁盛するだろう。















バーングラーデーシュでも往々にして隣国インドのテレビ番組を観ることができる。同じベンガル語のエンターテインメント番組はなかなか人気のようだし、お隣りの国で何か大きな出来事があったときなど、ニュース番組を点けてみる人も少なくないだろう。そうした意味では、国境を接するインドの西ベンガル州と同じコトバを話しているということにより、愉しみや情報を共有できるということ自体は、決して悪いことではないだろう。
世の常として、経済的により高い位置にあるところから、それよりも低いところへは容易に受け入れられる。だが相対的に自分たちが上であると感じている側が、自分たちよりも低いところにあると考えている側のものを積極的に取り入れることはあまりないため、バーングラーデーシュ出身でもない限り、インドの西ベンガル州の住民が嬉々として国境の向こう側の番組を観るということはあまり多くないのではないかと思う。もちろんそれでも人気のドラマなどはあったりするのかもしれないが。
ケーブルテレビに加入していれば、ベンガル語に限らず、ヒンディー語や英語の番組などもいろいろ観ることができるのだが、子供たちにはヒンディーのアニメ番組が人気で、とりわけ日本のドラえもんのヒンディー語吹き替え版が好評なのだとか。 その背景には、自国で子供たちが好むプログラムがあまり充実していないという現状があるそうだ。やはりそこは経済面でも人口面でも圧倒的に大きなインドのほうが優位にあるのは無理もない。
ベンガル語自体が、ヒンディー語とあまりに大きくかけ離れた言語という訳ではないためか、テレビ番組を観ながら自然と隣国の最大言語を覚えてしまう子供たちは少ないないらしい。それはそれで結構なことではないかとも思うのだが、これについていろいろと懸念する向きは少ないないらしい。もちろん労せず身に付くのが英語であればそんなことを言う人はいないのだろうが。
そもそも『インドではない国』として、東パーキスターンとしてインドから分離独立した国だ。しかし皮肉なことにパーキスターンと袂を分かってバーングラーデーシュとして再スタートするにあたり、同国の独立闘争に介入する形で発生した第三次印パ戦争でインドが勝利することにより出来上がった。つまりバーングラーデーシュの生みの親は、パーキスターンからの独立を求めて闘った人民であるとともに、それを工作と武力で支えたインドでもある。
だが国体としては、バーングラーデーシュはインドの一部ではなく、あくまでもオリジナルなひとつの国でなくてはならず、ときに為政者がインドに接近することはあっても、ときにインドに激しく反発することもあり、相応の距離を置いて付き合ってきた。
稠密な人口のはけ口もなく、インドとの分離前には生産地と市場とを分け合う補完的な関係にあった周辺地域(つまり現在のインドの西ベンガルやアッサム等)との関係やブラフマプトラ河の水運の便はもとより、水利の調整もふたつの国が別々になっていることによる不都合は多い。
歴史に「もし・・・」という仮定はあり得ないが、かつてこの地域が東パーキスターンとして分離することがなければ、今の世の中でヒンディー語のアニメに懸念を抱く親たちはいなかったことだろう。もちろん社会や経済のありかたそのものが現在のそれとは大きく異なり、文字どおり「ベンガル人の国」としてのバーングラーデーシュではなくなっていたことであろう。『巨大な隣国インド』がなく、それが『自国』であったとすれば、国防費用が浮くだけではなく、そこで育まれる国家観や民族意識といったものもまた大きく違ったものとなる。
視点を旧西パーキスターン、つまり現在のパーキスターンに移してみると、かつて自国の東側をインドによって失わされた経験は、インドに対する不信感を抱くひとつの大きな要因でもあるだろう。それがゆえに隣の大国インドに対して常に危機感を持つのは無理もない、ということにもなるのだ。
‘डोरेमॉन’ से डरे बांग्लादेशी मां-बाप (BBC Hindi)
8月22日から9月2日までデリーで開催されていたネルー・カップの決勝戦に駒を進めたインド代表は、大方の予想を覆して対戦相手のカメルーンと2-2のスコアのスコアで互角の試合運び。延長戦でも決着が付かず、PK戦にまでもつれ込んだ結果、5-4で勝利。この大会で通算3回目の覇者となった。
この試合はネットでも中継されていたにもかかわらず、私自身は観ていないどころか、これに関するニュースが流れるまで、今回のネルー・カップにカメルーンが出場していたことさえ把握していなかった不覚を悔やんでいる。
インド代表にとってホームで開催された大会、国際的な知名度の低いトーナメントであり、カメルーンが現時点における第一線級の選手たちを送り込んできたのかどうかわからないが、アフリカの強豪国を破っての優勝という素晴らしい結果を出したことは大きな賞賛に値する。個人的にも非常に嬉しく思っている。
India beat Cameroon 5-4 to win Nehru Cup
for third time (MID-DAY)
India vs Cameroon Nehru Cup 2012 penalty
shoot out (Youtube)
※インド勝利の瞬間!
9月22日(土)と23日(日)に、東京都渋谷区の代々木公園で開催されるナマステ・インディア。例年どおりの大変な賑わいとなることだろう。台風が本州に上陸・通過することも多いこの時期は、季節の変わり目で秋雨に見舞われることも少なくない。屋外のイベントなので、天気次第でもある。
その2週間前、9月8日(土)と9日(日)には、同じ場所でスリランカフェスティバル2012が開催される。毎年おなじみのチャンナウプリ舞踊団のステージに期待したい。
南アジア関連のイベントだからこそ、会場で「おー、久しぶり!」「ハハハ!来てると思ったよ」「やっぱりお会いしましたね」等々の再会がある。
どちらのイベントも好天に恵まれますように。
前回は、今年7月にIRCTC (再アップデート)と題して、ウェブでのインド国鉄のEチケット予約について、携帯電話(インドの携帯電話会社のSIM利用)に送られてくる認証パスワードが必要になっていることについて触れたが、それを含めてインド人の間でもインド国鉄予約サイトの使い勝手は評判がよくないようだ。
その不便さを解消する目的で、これまでのクレジットカードでの支払いに加えて、近々RDS (Rolling Deposit Scheme)なるものが開始されることになるようだ。要はネット予約を扱っているインド国鉄関連会社のIRCTCに「プリペイド」でお金を預けておき、そこから予約するチケットの代金が差し引かれるという仕組みだ。
このシステムを利用することにより、これまで予約作業途中にエラー表示が出たり、携帯電話で受信しなくてはならなかった認証パスワードが不要になったりという面倒が解消されるという触れ込みではある。
詳しいことはまだ明らかになっていないので、インド国内からの銀行送金以外にどのような「プリペイド」方法が可能になるのか、その「プリペイド」の支払い手段としてクレジットカードが使用できるのかも今のところ不明。
IRCTC to launch deposit scheme for faster bookings
(Times of India)
IRCTC mulls prepayment cards to reduce
transaction failure rate (The Indian Express)
詳細が明らかになるまでは批評を差し控えたい。だがiPhoneやiPadのアプリケーションで、『Indian Railway Booking』アプリケーションが出てきて、サクサクと簡単に予約すれば、予約代金はiTunesに登録してあるカードから引き落とされ、あとは乗車後に『My Booking』のアイコンにタッチすると表示される予約内容を車掌に見せるだけ・・・という具合になればありがたい、と思うのは私だけではないだろう。
南アジアの鉄道で、ウェブ上での予約・発券が可能な国はインド以外に存在しない。現状でもインドは『大変進んでいる』ので、あまり多くを求めるのは酷かもしれないが。



レーの町の中心を成すメイン・バーザール界隈の大きな建物や政府機関等を除けば、大半の家屋は伝統的なラダック式の日干しレンガを積み上げた構造のものが大半であった。宿もそのような家屋に手を入れたようなものが多かったように記憶している。


レーの市内も主だった通りを除けば、大半は未舗装であったため、やたらと埃っぽかった記憶がある。他にもいろいろ撮っておけば良かったと思うのだが、フィルム時代であったため、低予算のバックパッカーにとっては、コスト面から一枚一枚がなかなか貴重であったため、今のように枚数を気にせずに撮りまくるようなことはできなかった。加えて、愛用していたニコンの機械式のカメラが故障したため、撮影数が少なかったということもある。
当時のティクセの寺院の画像もある。かなり荒廃した感じに写っているが、その頃は実際そういう具合であった。僧侶たちの多くが携帯電話を所持していたり、その中の若い人たちの中にはスマートフォンを手にしていたりするような時代が来るとは想像もできなかった。


今回のラダック訪問で、20年もの歳月が過ぎているので当然のことではあるが、レーや周辺の町並みの整備が進んだこと、主だった寺院その他の建築物が非常にいい状態にあることが印象的であった。やはりインドという国の経済が継続的に右肩上がりで推移していること、観光業もまた順調に振興していること等々の効果もあるのだろう。加えて、1990年当時には、外国人にとって完全に地域が、ILPを取得することにより訪問可能になっていることについて驚かされるとともに、大変嬉しく思った。電気を使えるのは午後7時から午後11時までというのは相変わらずであるし、夏季以外は陸路が閉ざされるという状況は変えようもないのだが。
電気はともかく、まさに夏季以外の厳しい気候やアクセスの面での不都合があるがゆえに、外部からの人口流入も限られていることも、ラダックらしさが保たれているひとつの要因に違いない。とりわけ北東インドのアッサム州やトリプラー州のように、隣接するベンガル州はもとより、ヒンディー・ベルト地帯からの移住者が多い地域と比較すると、その差は歴然としている。経済的な理由により、ラダック地域内での人口の移動は相当あるのかもしれないが。
地理・気候的に厳しい条件があるがゆえに、今後もラダックらしさが失われることはないのではないかと思われる。それとは表裏一体ということにもなるが、ラダックの今後については、「インドの中のJ&K州のラダック地域」としての位置付けではなく、ラダック独自の特別な扱いが必要ではないかと思うのである。それは、以前から要求のある州に格上げという行政区分上の事柄で片付くものではないように思う。
外部から訪れる人々があってこそ成り立つ観光業を除き、いまだにこれといった産業があるわけではない。しかしながら戦略的な要衝にあるため軍施設は多いので、これに関連した雇用やビジネスのチャンスは少なくない。だが電力は圧倒的に不足しているため、これを必要とする産業の育成は難しく、人口密度も少ないためマーケットとしての魅力も薄い。それでいながらも、限られた条件の中で日々やりくりしながら過ごしていく余裕はあるというところが興味深い。他者に従属しない気高さが感じられる。
蛇足ながら、個人的にはラダックでのヒンディーの通用度の高さには大変驚かされた。ヒンディー・ベルトとは、これほど地理的に離れた地域であり、民族的にも文化的にも大きな乖離があるにもかかわらず、農村のご婦人たちもごく当たり前に喋ることができる。J&K州の公用語がウルドゥーであるということもあるにしても、言語的にも文化的にも全く異質なコトバをこれほど広範囲に受容しているということは、ラダックの人々の柔軟さによるものであるとともに、中国を目の前にするインド最果ての地という地理条件によるものであろう。
インドにあって、インドではないとも言えるラダックについては、あまり多くを知らないのだが、極めて独自性の高いこの地域で、将来に渡って持続可能な発展とは、どのような形のものなのだろうか。
気温も湿度も高いこの時期、幸せ気分にさせてくれるのは夕方のビール。休日であれば仲間や家族と昼間の一杯も心地よい。
インドではいくつかの禁酒州(グジャラート州と北東部の一部の州)があり、その他のところでも聖地となっているような場所ではおおっぴらに酒が手に入らない場所もあるものの概ねどこに行っても幸福な黄金色の一杯が手に入るのはありがたい。
さて、隣国パーキスターン。かねてより訪れてみたいと思っているのが、名門マリー・ブルワリーの醸造所。1860年創立で、ビール醸造所としてはアジアで最も歴史があるもののひとつで、「マリー・ビール」のブランドは昔から大変有名だ。同社ウェブサイトでは、創業から現在までに至る歴史を簡潔に紹介されている。
この醸造所の様子については、ウェブ上でもいくつかの動画を見つけることができる。Hope in the hops (The Economist)
The World: Inside Pakistan’s Murree Brewery (Youtube)
5年ほど前にカサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷と題して取り上げてみたインドのヒマーチャル・プラデーシュのヒルステーションのひとつ、カサウリーにある醸造所も起源は同じ。パンジャーブ地方(当時はヒマーチャルもパンジャーブの一部)で手広く商売をしていたイギリス出身のダイヤー一族が始めたものである。1919年にアムリトサルのジャリアンワーラー・バーグで起きた悪名高き虐殺事件の指揮を執ったレジナルド・ダイヤー准将も彼らの身内である。
カサウリーではアジア最古のビール「ゴールデン・イーグル」が生産され、現在パーキスターンとなっているマリー地区のゴーラー・ガリーでは「マリー・ビール」が生まれた。現在はどちらも創業当時と経営母体は異なっているが、血を分けた兄弟の関係にあるといえる。
現在、マリー・ビールの醸造所はパーキスターンの首都イスラマーバード近郊のラーワルピンディーにあり、ビール以外にもウイスキー、ジンなどの蒸留酒に加えて、ペットボトルのジュースなども生産している。
1977年に、ズルフィカール・アリー・ブットー首相の政権が国内での酒類の流通を原則禁止しており、現在でもごく限られた場所で非ムスリムだけが入手できるという状況だ。同国の人口1億8千万人の中でムスリム以外の人々が占める割合は、わずか3%強(これらに加えて軍の将校からの需要)しかないことを思えば、あまりに小さなマーケットである。長らく日の目を見ることのなかったマリー・ブルワリーだが、最近、パーキスターン政府が自国からの酒類の外国への輸出を認める方向へと舵を切ったことは名門復活の好機到来といえるだろう。
同社ホームページによれば、チェコの酒造会社との提携を締結したとのことで、やがてイギリスその他の欧州にも販路を広げることになるらしい。ダイヤー一族がイギリスから導入した醸造法で生産を開始したマリー・ビールが250年以上の時を経て「里帰り」することになる。
さらに大きな話もある。隣国インドがパーキスターンからの直接投資を認める方向に動いていることから、マリー・ビールがインド企業との合弁で、インドでの生産を始めることになるというニュースが流れたのは今年5月のことだった。
Pakistan and India start new era of trade co-operation with a beer (The Guardian)
歴史的なブランドを引っ提げた古豪復活への期待はもちろんのこと、インドの飲兵衛たちにも高く評価されることになれば、なおのこと嬉しい。
経済制裁のため、クレジットカード(ヤンゴンの外資系の一部のホテルを除く)もATMも使用することができず、トラベラーズチェックを使うこともできないため、頼りになるのは米ドル紙幣のみといった具合が長く続いていたミャンマーだが、そうした不便は遠からずに過去のものとなりそうだ。
欧米先進国による制裁緩和(一部解除、期限付き停止等)が順調に進む中、もっぱら経済面で注目を集めている同国だが、当然のごとく金融・外国為替の方面での大幅な改善が見込まれている。
少し前に、ヤンゴン在住の方がFacebookでリンクをシェアしておられたが、近いうちにクレジットカードが利用できるようになったり、外貨送金も可能となる見込みのようだ。
Visa, Mastercard on the way, says banker (THE MYANMAR TIMES)
三井住友銀、ミャンマーに営業拠点 外国の銀行として初(日本経済新聞)
当然、トラベラーズチェックの換金も出来るようになるはずなので、滞在中の資金として持ち込むのが米ドル現金のみという不安も解消できることになる。
同様に、ミャンマーの人たちが海外に出る際にも利するところが大きい。少しまとまった金額の外貨となると、国外への持ち出しに制限がかかる現状は変わらないのかもしれないが、少なくとも正規の送金ルートが出来るということで、外国に留学する際などにも大変便利になることだろう。
ミャンマー在住の親御さんの支弁による日本留学はあり得ず(いかに裕福な両親であったとしても)、国外ないしは日本に住む身内が経費を支払うという前提でないと、ヴィザ取得不可という現状の不便さは解消されることになるはずだ。

クルマを予約した旅行代理店の前に、指定された午前6時に出向く。しばらくすると乗客6人が乗ることのできる大型の四輪駆動の乗用車がやってきて停車した。運転手に確認すると、これが私の乗るクルマであった。
レーから、チョグラムサル、ティクセー、シェイなどを経て、東に進む。チョグラムサルにはダライ・ラマが訪問される際の滞在先があるのだが、案外簡素な平屋建ての建物であった。インダス川沿いのこの道路脇には水路があり、背の高いポプラの並木が続き、中央アジアを思わせるような景観だ。
すでに乗っている人たちが本日の私の同行者たちということになる。今回は外国人ではなく、カルナータカのマイソールからやってきたインド人の家族連れであった。ご主人は家具販売会社経営、奥さんは地場の銀行勤務、娘さんは大学生だ。
最初のうち、家族同士はカンナダ語、私に話しかけるときだけ英語となっていたが、奥さんは金融機関勤務という割には英語が苦手なようで、こちらがヒンディーを理解することがわかると、車内でのほぼすべての会話がヒンディーとなった。このあたりの柔軟さはインド人らしいところだ。
夫妻は同じ大学の同級生で、互いに仕事を始めてから結婚したとのことだ。ご主人はムスリムで奥さんはヒンドゥーであるため、両家の家族に打ち明けた際にはもちろんいい顔をされなかったものの、幸いふたりの実家は互いに旧知の仲で、元々双方足繁く行き来する関係であったこともあり、無事ゴールインできたとのことだ。

シェイを過ぎて少し行ったあたりで、山間の道に入っていく。ここから高度がどんどん上がり、シェイから1時間程度で海抜5,320mのチャン・ラという峠に達する。見た感じはカルドゥン・ラよりも広々とした印象を受ける。クルマを降りて道路向こうのトイレに行くだけで、かなり息が切れることから空気の薄さを実感する。



ここからは下るいっぽうだ。過日のヌブラ行きに比べると、景色は比較的なだらかである。夫妻の娘、チャンドニーは写真が趣味とのことで、最近両親に買ってもらったというキヤノンのデジタル一眼で沢山写真を撮っている。最近はこういうカメラを持つインド人旅行者がとても多くなった。旅行先でいい写真を沢山撮って、いい思い出とともに帰宅してほしいものだ。


荒涼とした山間を走っていくと、途中でヤクを飼育している人たちがいた。ミルクを絞ってもいる。販売するためではなく自家用だというが、彼らが切り盛りする簡素なカフェもあった。見渡す限りの荒野だが、川が流れているところにだけわずかに緑が見られる。


レーを出てから5時間あまりで、目的地のパンゴン・ツォに到着。トルコ石のような鮮やかな青色の水を湛える湖だ。塩湖らしいが、魚は棲んでいるらしく、水鳥たちの姿がわずかながらある。靴を脱いで水に入ってみたが、とても冷たくてずっと足を浸けていられるものではなかった。

幸い今日も好天だが、ときおり雲がかかると深みのある青色の湖水はただの灰色に変わってしまう。再び眩しい陽光が差してきたと思えば、また雲がかかる。そして陽射しが照りつけてくるといった具合の空模様によって、湖の色合いが次々に変わっていく。


ここまでやってくるのにかかる時間と空模様の風景は言うまでもなく、一般的にどこの風景であっても早朝と夕方が最も印象的であることが多いことを考え合わせれば、時間さえ許せば、ここで一泊したほうが良いだろう。正午前後の景色でさえもこんなに美しいのだから、朝夕の景観はどんなに素晴らしいことだろうか。満月の夜の湖の様子もさぞ見ごたえがあることだろう。この細長い湖の南東部は、中国の実効支配下にあるアクサイチン地区だ。
湖畔の簡素な食堂で昼食を摂り、しばらく景色を楽しんだ後に一路レーへと引き返す。朝早かったためだろう、マイソールから来た家族連れは、走り出してからしばらくするとすっかり眠り込んでいた。この晩、深夜過ぎの夜行バスでマナーリーに向かうというから大変だ。ここからレーに戻ってもまだ午後6時あたりなので、ずいぶん時間がある。
パンゴン・ツォに向かう際も通過したチャン・ラでは、転落したとみられるクルマが崖の途中に引っかかったままになっているのに気が付いた。「えぇ、たまに落ちるんですよねぇ」と運転手は涼しい顔だが。ここはぜひとも安全運転を心がけてもらいたい。


朝5時過ぎに目覚めると、雨がパラついていた。高い山々に囲まれているため、フンダルの空は狭いのだが、西のほうを見上げると、少し晴れ間が見えていた。
フンダルの村の中では、ちょうどレー近くのストクの村がそうであるように、張り巡らされている水路が、家々や畑に豊かな水を供給している。総体としては、荒涼とした大地に見えるラダック地方だが、水を供給できれば瑞々しい緑豊富な緑地・農耕地とすることが可能であることから、決して痩せた土地というわけではないようだ。

村の中をしばらく散歩してみたが、まともに稼動できるのはほぼ6月から9月に限られるはずなのに、やたらと宿屋が多い。ほとんど季節限定ではあるものの、貴重な現金収入の機会なのだろう。先日も書いたとおり、このシーズンのために、ネパールのその他から出稼ぎに来る人々が多いことも特徴だ。仕事を求める側からすれば、ヌブラ渓谷のようにILPを取得して訪れる場所となると、レーその他のもっと開けた場所と比べて訪問者もかなり少なくなるため、総体的にみると稼ぎの面ではどうなのかな?という疑問も沸くのだが、どうなっているのだろう?

宿のすぐ近くにお寺があり、僧侶がひとり読経している。手招きするので、すぐそばに座らせてもらう。朝6時くらいであったが、すでに朝のお勤めは終わっているようだ。寺院の朝は早い。静寂の中でしばし瞑想をしてみる。ひんやりとした空気と静謐な雰囲気が心地よい。

お寺から出てしばらく歩いた先では、UKから始まるナンバーのクルマが停まっていた。運転手がいたので、尋ねてみるとウッタラーカンド州のデヘラドゥーンから来たのこと。フンダルには1年ほど滞在しているそうで、取り引きのお得意先である軍の基地に出入りしている業者さんであった。
宿に戻り、庭でのんびりくつろいでいると、同じ宿に滞在しているムンバイーから来たインド人グループが部屋から出てくるところだった。その中のひとりは、フリーランスでやっている商業写真家とのことで、主に人物のポートレート製作を中心に活動しているとのこと。ラダックには仕事ではなく、余暇で来ているとのこと。だがそれでもかなり精力的に写真を撮影していることは、昨日の砂丘でも、今日の宿の庭に咲いている花などを撮影していることからもわかる。
しばらくすると天気が回復してくると、空からジェット機の音が聞こえてくるようになった。民間機がこのあたりを飛ぶはずはないため、インド空軍機が巡回しているのだろう。
軍といえば、もちろんこのあたりでは軍と地元の関係は良好なものであるようだ。軍は国境向こうの中国、そして西側のパーキスターンを警戒しているわけであり、地元の人たちを抑圧するためにいるわけではない。そこがインドの北東州とは大きく違う。またJ&K州内でも、カシミール側は、パーキスターンへの警戒とともに、地元の反政府勢力や過激派の鎮圧の任務もあるわけで、そういう点では北東州と大いに共通するものがある。
午前8時に、ガビー、フランカ、パットと私の4人で2階のテーブルに集まって食べた。私以外はみんな女性で、とにかく皆さんおしゃべりなので朝から賑やかで楽しい。

食事を終えてから、クルマでデスキットに出発。ここでは川沿いの斜面にそびえるデスキット寺院と道路を挟んで反対側にあるカラフルで巨大な弥勒菩薩像を見学。2010年出来たものだというから、まだ2年しか経っていないのだが、ここからの眺めもまた壮大でいい感じだ。





今回、見学するのはここが最後。あとは昨日来た道をひたすら走り、一路レーに戻るだけだ。往路と同じ道路を戻ることになるのは、他のルートがないようなので仕方ない。それでも景色は非常にダイナミックであるため、飽きることはない。

昨日昼食を取ったカルサルを通過すると、次第に高度を上げていく。外の気温もどんどん下がっていく。カルドゥン・ラの手前の池、池の中にブッダの像があるところで、しばし休憩。天候はまずまずなのだが、雪がパラついてきた。それほど気温が低いのだ。陽射しは強いので、あまり寒さは感じないが。それでも池の向こう岸には残雪がある。ここの少し手前には先日触れた「世界で最も高いところにある集落のひとつ(?)」があり、アブラナの畑で黄色い花がまばゆく輝いている。

カルドゥン・ラが近づいてくると、道沿いに壁状になった残雪がところどころにある。外気はとても寒くなってきた。峠には道の両側にかなりの量の残雪がある。インド側での公称海抜5,600mの峠では、少し歩くだけ息が切れる。

峠を越えてまもなく、レーの町が遠くに見えてきた。次第に気温も上がってきて快適になってくる。さすがにもうこのあたりまでくると酸素が薄いとはあまり感じなくなる。
とても楽しい一泊二日の旅行を共にした彼女たちと別れるのが名残惜しい。
<完>

カルドゥン・ラを越えた先でも・・・もちろん中国国境により近くなるわけなので当たり前ではあるが、ところどころで軍の駐屯地や施設を見かける。いつ何時攻撃を受けても反撃できるようにしてあるということだろう。だが中国側では装備等々、インドよりもかなり良いであろうということは想像に難くない。
インド北西部にあるラダックとは反対側、北東側にあるアルナーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州では、インドの他の山あいの土地と同様、片側一車線分のスペースがあるかないかといった具合の道路が地域を繋いでいるのに対して、国境向こう側の中国では、片側複数斜線の見事な道路が整備されており、有事の際には即座に大量輸送の体制を取ることができるようになっている、という記事をインドのニュース雑誌で読んだことがあるのを思い出す。
それはともかく、ここから決して遠くない中国側でも同じように乾燥した荒々しい風景が広がっているのだろう。だがそちら側に点在するのは中国軍の基地であり、駐屯地であり、漢字の標識や看板ということになる。


カルドゥン・ラからは下るいっぽうだ。カルサルの集落で昼食を摂った後、この地を流れるシャヨク川東岸にあるスムルの村にあるゴンパを見物。そして来た道を戻り、ふたたび西岸へと橋を渡る。この走行した中では、この川にかかる橋はここしか見ていない。年間を通してこれほどの水量があるのかどうかはわからないが、少なくとも今のように豊かな水を湛えている状態では、川のこちら側と向こう側とでは別世界のようなものだろう。すぐそこに見えても、非常に遠回りして反対側の岸に着くことになるからだ。

今日の宿泊地であるフンダルが近づいてくると、こちら側の河岸に美しく連なる砂丘が見えてきた。こんな高地に風紋の刻まれた砂漠みたいな景観があるとは不思議なものだ。予想に反して、フンダルの村にはかなり沢山のゲストハウスがあり、その中のひとつ投宿することになった。庭にはアプリコットがたわわに実っている。


経営者の家族はとても感じがいい。このあたりの人たちは、ラダッキーでも少しアーリア系の血が入っているように見える。ここからさらに進んでパーキスターンにまたがるバルティスターンの一部を成すトゥルトゥクまで行くと、人々はアーリア系のチベット仏教徒という、チベット文化圏の中では総体的に珍しい地域となるようだ。
宿で食事関係からベッドメーキングまですべてをこなしている若い男性二人組みはネパールからの出稼ぎ人たち。こんなところまで仕事を求めて来なくてはならないとは大変だ。ラダックの観光地はどこでもネパール人や北インドのビハール州、U.P.州などから仕事を求めて来ている人たちが多いが、「シーズン・オフにはどうしているの?」と尋ねてみると、往々にして「ゴアで働く」という返事が返ってくる。
ラダックは、6月から9月終わりまでのシーズン以外は、長いオフシーズンとなることを考えると、確かにモンスーン期はオフになるゴアとちょうどいい具合に相互補完する関係にあるのだろう。ラダックとゴアというどちらも観光業への依存度が高いながらも、一見何の繋がりも無さそうに見えるふたつの地域を渡り鳥のように往復する労働人口の移動について、彼らがこの地域を行き来する誘因、リクルートの形態等について調べてみると興味深いものが見えてくるかもしれない。

すでに夕方近くになっているので、取り急ぎ荷物を部屋に放り込んでから、再びみんなでクルマに乗り込んで砂丘に出かける。ここには観光客用にフタコブラクダたちがいる。お客たちを乗せてしばらく歩き回るのである。ラクダ自体はこの地にもともと住んでいるわけではなく、運転手が言うにはモンゴルから連れてきたものだというのだが、実のところはよくわからない。中央アジアあたりから運んできたのかもしれない。

砂丘から望む川床はかなり広く、両側を壁のような乾ききった山々に囲まれており、息を呑むような絶景だ。音を立てて滔々と流れる手が切れるように冷たい水のせせらぎの音が心地よい。

<続く>









