朝6時にチェックアウトしてシーロム駅からホアランポーンに向かう。
東南アジア各地で路上に面したATMが多いが抵抗感はないのだろうか。もっともこういう場所でまとまったお金は下ろさないのかもしれないが。
路上にむき出しのATMの前にて。



朝6時にチェックアウトしてシーロム駅からホアランポーンに向かう。
東南アジア各地で路上に面したATMが多いが抵抗感はないのだろうか。もっともこういう場所でまとまったお金は下ろさないのかもしれないが。
路上にむき出しのATMの前にて。



空港からエアポート・レール・リンクに乗車。パヤータイ駅でMRTのブルーライン乗り換えてシーロム駅で降りる。地上に出たところは、かつてロビンソンデパートのあったあたり。バンコクのこのエリアについては相当昔の記憶しかないため、頭上は鉄道の高架で空がとても狭くなり、どこにいるのかわからなかったほど。

宿は「Good One Poshtel & Cate」。1Fがカフェ。そこから上は宿泊施設。宿の人たちの感じは良く、真新しくてエアコンが効いているのだが、香港の重慶マンションを思い出す狭い部屋。廊下から見た客室は寝台列車のキャビンのように描かれている。シャワートイレ共同だがいずれもきれいだ。決して悪くないのだが部屋に窓はないし、転落すると怪我しそう。ベッド下は荷物置きになっている。冷房を切ることができず、風邪を引きそうである。




7Fに共用スペースがあり、自由にキッチンを利用したりエアコンかけたりコーヒーなど飲めるようになっている。これで515Bなので、今どきのバンコクの宿泊費はずいぶん高くなったと感じる。この料金帯で他のところではドミトリーであることが多い。コロナ禍でお客がほとんどいなかった頃の京都・奈良では、ビジネスホテルが2千円前後で泊まれていたので、だいたい同じくらいか。
安い宿泊施設は割高感がある一方で、中級クラスのホテルはバンコクでは供給過剰のため、かなり割安な感があるのは面白い。まあ、寝ているときは部屋が広くても狭くても、立派でも簡素でも何ら変わりはないものだ。
融通の効くタイの秀逸なコンセント。世界でコンセントの規格がバラバラなので、タップ側のほうでこういうフレキシブルなのがスタンダードになるといいかも。複数の異なるものが使用可能。

明日は早いので宿でさっさとシャワー浴びて着替えて食事に出ようかと思ったが、すでに時間も遅くなってしまったので、近くで弁当を買い、部屋でそそくさと済ませることにする。
宿を出てすぐのところにあるコンビニでこういうものがあった。チキンティッカマサラとビリヤーニーがコンビになっているらしい。監修したシェフはディーパンカル・コースラーのパンジャービーだ。バンコクには世代を継いで暮らすインド系の人たちが多く、パンジャービーがバンコクのインド系の人たちの間で占める割合は高い。飲食業に携わる人たちも少なくない。日本において今や普遍的な存在となったインド料理だが、バンコクっ子たちにとってはそれ以前から慣れ親しんできているのであろう。在住の歴史が長く、インド系財閥まであるほどだ。


さて、このコンビニのセットの味はといえば、やはりコンビニ飯なので云々言うようなものではないのだが、バンコクとインドとの縁の深さを改めて感じさせるものがある。

空港の両替レートは悪いのは当然だが、具体的にどのくらい悪いのかはよく知らず、漠然と「損」と思っていた。しかしバンコクのスワンナプーム空港到着後、そのままどこか地方の都市に行くケースもあるだろうし、夜遅く着いて空港近くの宿を利用して早朝出発ということもあるはず。とりあえずある程度まとまったバーツの現金が必要というケースはままあるだろう。
市内での両替でおそらく最もレートが良いと思われるスーパーリッチのラージダムリ店における本日の店頭レート(店舗により微妙に違う)を表示してみる。
「0.2575」とあるので、1万円が2,575バーツとなる。円安のためずいぶん下がったなあと思う。空港の両替所はどこも統一されているのか、「0.23」、つまり1万円あたり275バーツ、つまり1万円替えて1,100円くらい損、1割以上悪いレートになるということだ。やはりかなり違いますね、「空港レート」は。
だが、空港B2階にあるBTS駅改札の向こうには、市中レートと遜色ない率で替える店が多いと聞いていたので立ち寄ってみる。明日は早朝に列車でバンコクを発つので少しまとめて替えておきたいが、市内につく頃には宿泊先界隈では両替空いていないかもしれないからだ。
ここでも先述の「スーパーリッチ」が出店しており、市内ラージダムリ店よりは低いが0.256なので、短い滞在中の費用はここでまとめて替えておくことにした。たぶん市内であんまりレートよくない店とか、田舎で両替するとこんなもんだろう。(翌日、ホアヒンの私設両替商でチェックしたら0.253であった。つまり僅差だがスワンナプーム空港のエアポートレールリンクの駅改札裏手のほうがマシだった。ここで両替しておくのが正解であったということだ。
同じ空港内施設なのに、ここは空港ではなく鉄道駅構内なので、「空港レート」が適用されないのだろうか?と想像する。


本日も部屋にトーストとチャーイを頼んで朝食。宿のすぐ隣にあるバススタンドからバスに乗ると40分程度で到着。バススタンドの表記は州の公用語であるグジャラーティーのみなので、デーヴァナーグリー文字あるいはローマ字表記も併記してもらいたいところだ。
小さな町だがそれとは裏腹にバススタンドはきれいでなかなか近代的。やはり州内で統一的なデザインがあるようだ。車内の乗客にとって「どこのバススタンドに到着したのか」一目でわかるように地名が大きく表示されているのも良い。ただしプラットフォームの行先表示はグジャラーティーのみなので、デーヴァナーグリー文字あるいはローマ字表記も併記してもらいたいところだ。

スーリヤ・マンディルことサンテンプルは、バススタンドから上り坂を進み、登り切ったところからの下り坂を下りきったところで大きな道路を越えた先にある。 そのバススタンドからの小道を上がる途中に見事な大理石で作られた寺院があった。なんでもない小さな町にもゴージャスなお寺が忽然と姿をあらわすのはグジャラートらしいところだ。



スーリヤ・マンディルの敷地はきれいに囲まれており、パータンのラーニー・キー・ワウ同様、きれいな遺跡公園となっている。スーリヤ・マンディルはきれいに修復されているとともに寺院手前にある階段井戸がこれまた見事だ。お寺と沐浴のタラーブがセットというのは太古の時代からインドの東西を問わずヒンドゥー教圏では同じ。




日本であれば、このような階段井戸の手前で規制線がありそうだし、彫刻に触ることもできないかもしれないが、こうして子供たちが水遊びをしたり、大人もベタベタと石面をなでて、文字通り「体感」したりできるのがインドの良いところ。





遺跡の寺院はすでに宗教施設としての役割を失った史跡であるはずだが、内陣に新しい祭壇がしつらえられていたり、ASI(インド考古学局)管轄下の敷地なのに、大きな祠があたかも遺跡の寺院の一部であるかのように「併設」されたり、さらには常駐するプージャーリー(祭司)がいたりすることも珍しくないのはいかがなものかとは思う。









ともあれ「こうあるべき」「こうあってはならない」との狭間の余白部分が広いのはインドらしいところだろう。加えて羨ましいのは石造建築物の多さ。日本だと木造なので保存にかかる手間、木材自体の耐久性からくる制約もあるが、万一の火災で燃えるという致命的な弱点がある。
遺跡公園にはレストランも併設されている。民間の企業が委託を受けて運営しているもののようで、スタッフは暇そうだった。人数ばかり多いのは人件費が安いからだろう。

スーリヤ・マンディルの敷地近くにあるハワー・メへルの手前に「階段井戸」がある。それも見学したかったのだが鉄の柵で囲われているとともに扉には鍵がかかっていて見学することはできない。文化遺産登録されているらしいことは標識でもわかるのだが、せっかく遺産と認識されていながらも打ち捨てられている状態というのは残念な限り。
ここに面した大きな道路を牛たちを引き連れた牧童(といっても年配者だが)が悠々と進んでいく。このあたりの悠久感は変わりゆくインドにもまだ多数残されている。

バススタンドに戻り、マデーシュワリー・マータンギー・マンディルへ。大きなダラムシャーラー(宿坊)、ゴーシャーラー(牛舎)併設の大きな寺院。牛の福利もお寺の大切な仕事である。そうしている間もけっこうな数の人々が大きなスーツケースとともにダラムシャーラーに入っていったり、滞在中らしき人が建物から出てきたりしている。ゴーシャーラーについては大きな看板に寄附金額なども提示されている。




モデーラーでの見学を終えてメーへサーナーに向かう。ここはモデーラーやパータンなども含めた行政単位の中心地域。バスで30分程度の距離だ。バススタンドの真横にある有名なシュリー・スィマンダール・スワーミー・マンディルを見学してからパータンに戻ることにする。


帰りのバスは満員で立っての乗車。途中でブレークダウンにより、どこかのバススタンドで停車。
「あいやー、ブレーキ壊れてまったく効かへんねん」と運転手氏が言えば、「あらぁ、そらあきまへんな」と、そそくさと降りて代車を待つ乗客たち。

電車が少し遅れただけで駅員をどなりつけたり締め上げたりする人がけっこういる日本から見るとインドから学ぶべきところは多い。ちょうどバススタンドだったためか、代車が早く来てよかった。そそくさとみんな乗り込む。






グジャラート州のスィッドプルにあるシーア派ムスリムのダウーディー・ボーハラーのコミュニティーの屋敷町。端正かつ壮麗な街並みに腰を抜かす。建物の多くに建築年が示されており、1900年代から1930年代にかけて、一気にこの街並みができ上がったという不思議。その時期にはどんな爆発的なブーム、好景気がボーハラーのコミュニティーで共有されたのだろうか。スィッドプルのラヒームプラ(Rahimpura)からサイフィープラ(Saifeepura)という地域にかけてこうした景観が広がっている。





それぞれの建物は、非常に大きな造りで、横に長く屋敷が連なっており、コミュニティーの結束の強さを感じさせる。外から大きな南京錠がかかっている世帯が多いが、たいていは地域外で活動しているため、ここに戻ってくるのはせいぜい年に一度程度なのだとか。今でも住んでいるところも少なくはないようで、そうしたところからは開け放したドアや窓の向こうに見える日用品等に生活感が感じられる。







特徴的なのは、シェカワティーのハヴェーリー、チェッティナードのハヴェーリーと同様に特定の商業コミュニティーの人々の邸宅なのだが、それらひとつひとつが独立した屋敷となっているわけではなく、欧米のタウンハウスのような形で展開していることだ。ずっと現地を離れているオーナーたちがテナントに貸し出すことなく、世話人を雇って日々手入れさせていること、定期的に修復なども実施しているがゆえ、現在も美しい街区がそのまま保存されているのだ。フレスコ画で有名なシェカワティーのハヴェーリーで、しばしば邸宅内部を細分化して貸し出したり、一階部分を壁で仕切って店舗として貸したりしていることが多いのとはまったく異なる。







これらの建物内での所有形態がどうなっているのか知らないが、シェカワティーのハヴェーリーに同一のジョイントファミリー内の複数の世帯が共同生活していたように、ここではひとつのタウンハウスのように見える建物がひとつの親族グループにより建築・所有されているのかもしれないが、そこのところはよくわからない。いずれにしても極めて都会的な邸宅の様式と言えるだろう。











これに近い形の「タウンハウス的ハヴェーリー」はビーカーネールにも見られるのだが、陸上交易時代にはビーカーネール自体が大きな稼ぎの場であったのに対して、ボーハラーの人たちがこうした屋敷を建てた時代には、すでに鉄道や道路による大量輸送の時代になっており、館の主たちの多くはインド各地及び東南アジアから中東、アフリカにかけての広大な地域での交易で財を成した人たちだ。家の入口あたりに「ワドナガル・ワーラー」「スーラト・ワーラー」「カルカッタ・ワーラー」などと書いてあるのは、その家族がビジネスで定着した土地を示している。中には「アデン・ワーラー」「シラーズ・ワーラー」など、外国の地名が書かれているものもある。ダウーディー・ボーハラーはインド亜大陸だけでなく、中東やアフリカにも広く展開している世界的な商業コミュニティーである。こうした屋敷群の中では見かけなかったが、日本でも神戸あるいは横浜のようにかなり昔からインド系商人が出入りした土地には、長く現地で事業展開してきたボーハラーの「コウベ・ワーラー」「ヨコハマ・ワーラー」などが存在しているのではなかろうか。













このような形で集合住宅を、20世紀前半になってから建てることにどういう合理性があったのか、ぜひ知りたいところである。建築時期が遅いものになると、1960年代になってからという建物すらあるのだ。



Slice of Europe in Sidhpur Bohra Vad, Gujarat


蛇足ながら、スィッドプルにあるルドラ・マハーラヤ。かつて存在した壮麗な寺院遺跡だが、入場禁止となっている。今にも倒壊しそうな部分もあるので仕方ないだろう。近く修復の手が入るらしい。修復が完了して見学できるようになったら、ここもまたマストな見先ということになる。



グジャラート州のパータンからワドナガルへと向かう。直行のバスは少ないため、途中ウィスナガルで乗り換えだ。州内のバススタンドは各地で一気呵成で改装したのだろうか。多くは共通したデザインで造りも似たきれいな建物になっている。
スマホの利用が普及してからというもの、乗り物で移動中に自分が今どのあたりを通過しているのかよくわかるのがありがたい。それ以前は、ようやく目的地に入ってくると店などの番地表示にその市の名前が入ることから「どうやら着いたらしい」ことはわかるものの、それまではまったくわからないし、人に聞いてもかなり適当な返事が返ってくることが少なくなかった。また、自分の目的地と「まさに今通過している場所」がどういう位置関係にあるのかよくわからなかったため、何度か来たことがある場所でもない限り、とりあえずはその街のバススタンドまで行くことが多かった。結果としてずいぶん遠回りになったり、バスで通ってきたルートを戻って目的地まで行くということもよくあったように思う。
スマホに表示されたGoogle Mapでは、ワドナガルのバススタンドから鉄道駅までは少し距離があるように見えたが、実際にはほぼ斜向かいであった。小さなローカル駅を想像していたが、案外大きなホームを持ち、建物も立派になっている。聞くところによると、ごく近年になってから大改修がなされたとのこと。小さなローカル駅だし、幹線ではなく支線の駅がなぜこんなに大きいのかと不思議に感じるが、ナレーンドラ・モーディー首相に由緒ある駅だからなのかもしれない。



ワドナガルへの私の訪問の目的地は、まさにこのワドナガル駅なのだ。かつてこの駅でモーディー首相の父親がチャーイ屋を開いており、少年時代のモーディー首相は、よくその手伝いをしていたという。父親が淹れたチャーイをお客に手渡したり、代金の受け渡しなどをしていたのだ。テーリー(油絞り)カーストであることからOBCs(Other Backward Classes)のカテゴリーの出自、貧しい生い立ちのモーディー首相は、世襲の政治エリートではない庶民の出自であったことも、高い人気の背景のひとつである。
駅のプラットフォームには、モーディー首相が子供時代に父親の手伝いでチャーイを売っていた「T13」という店番号が付された小さなティーストールが残っている。「T/13」という店番号が付いている同じ形状のレプリカも建っているが、一段低いところに残されているものがオリジナルだ。駅改築の際にホームの高さが上がったため、掘り抜いたところにあるように見える。ここで「ナレーンドラ少年」は、父親やお客たちからときにどやされながら忙しく駆け回っていたのだろう。



ついでにモーディーの生家も訪れてみたいものだが、すでに地所は売り払われており、建物も残っていないのは少々残念。
駅を出てしばらく歩いたところには、ハトケーシュワル(シヴァの別名のひとつ)寺院があり、そのすぐ近くには大きな門がある。かつてはここも城壁に囲まれた町であった名残である。古くて趣のある家並みを眺めながら進んでいくと、シャルミスタ・タラーブという池に出るが、そこからさらに進むと「キルティ・トラン」が見えてくる。これは大きな寺院の門であったと考えられているが、その寺院自体が発掘されていないため、実際のところはよくわかっていないようだ。






小さな田舎町ながらも見どころはいくつかあり、地域内各地からのアクセスもまずまず。グジャラート州のパータン周辺には見どころが多いが、とりわけモーディー首相の生い立ちに興味のある方であれば、ここも訪問先のひとつに加えてみると良いかもしれない。





グジャラート州パータンでの投宿先は、私が訪問する1年半前に開業したとのことで、設備は新しく快適だった。「開業以来初、外国人のペヘラー・グラーハク(ファースト・カスタマー)」が私だったそうだ。コロナ禍のため外国からの訪問者が大幅に減ったためなのだろう。
国外との往来は、ほぼコロナ以前同様に自由になったとはいえ、今もインバウンドの観光客誘致は不振が続く。コロナへの警戒感はともかく、各地を結ぶ国際線の減便から来る料金の高止まりもあるし、ウクライナ危機から来る燃油代の高騰もさらに航空券代高騰に拍車をかけている。加えてユーロや円など米ドル以外の主要通貨レートの急落などもあるため、なかなか元に戻るには時間がかかりそうだ。
外国人客の現象とは裏腹に、国内需要は堅調であるところに、今のインドの力強さを感じる。

前日は遺跡として管理されている古いワウ(階段井戸)を見学したが、現在も使用されているものはどうなっているのかと思い、KHODAIYAR MANDIR の中にあるものに行ってみた。
内部はタイル貼りでよくある今どきのお寺といった感じで、階段深く下ったところから水が湧いておりご本尊が鎮座している。






グジャラート州では、アーメダーバードのような大都会にあっても、カラスや鳩みたいな感覚(ちょっとおおげさか?)でクジャクたちの姿を目にする。

ついでにもうひとつ「現役のワウ」。こちらはASHAPURA MATA MANDIRという小さなお寺の裏手にあるが、立ち入り禁止となっており、物置として使われているなどしており、現代も使われている施設内のワウというのは、どうも旗色が良くない。






オートでエリス・ブリッジを渡る。左右から新しい橋が挟み込み、オリジナルは普段は通行禁止になっている。
これはアムダーバードを象徴する橋で、ちょうどコールカーターのハウラー・ブリッジに相当するようなものであり、幾度も映画のロケにも使われている。
英領時代の19世紀後半に木造の橋が築かれ、その後鋼鉄製のものに架け替えられた。それが現在目にすることのできるエリス・ブリッジのオリジナル部分だ。
橋の名前は、英国植民地当局の幹部であったSir Barrow Helbert Ellisに因むものである。ユダヤ系英国人の彼は英領インド政府の要職を歴任し、最後は総督のEXECUTIVE COUNCILのメンバーにまで上り詰めた。現在の内閣に相当する機関であり、閣僚級のポストにあったと言える。
メジャーなランドマーク的な橋でありながらも、独立後にインドやグジャラート州の偉人の名前に置き換えられることなく、往時と同じ名前で知られていることは特筆すべきことかもしれない。

グジャラートにはVAV(ワウ)と呼ばれる階段井戸が多い。当然大きな街、アーメダバードの旧市街周辺には、ググッてみると山ほどある。中にはゴミで埋まってしまっているものもある。建て込んだ住宅密集地にあると、そうなるのだろう。
言うまでもなく、世界遺産指定されているADALAJ VAはその対極で非常に壮麗かつ見事なものだが、それ以外にも行きたくなるようなVAVが見つかるのがgoogle mapのありがたいところだ。
そんな中、BAI HARIR VAVというのが市内東部のアサルワという地域にあることがわかり、オートで出かけてみた。着いてみると、外からでも豪華さがわかる佇まいだ。引返すはずのオートの運転手すら「おお、これは!私も見てみたい」と一緒に付いてきたほどだ。(入場料無料)
そうした中で、私は彼と話をするようなったのだが、このジュナイド(29歳2児の父)は、「こんなところにきれいなワウがあるとは!」「今日は来てよかった!」などと盛んに喜んでいた。オートワーラーでも若いと、好奇心旺盛な者がたまにいる。
「今度家族と来ればいいじゃん。奥さんも子供も喜ぶぞ」と言うと、「そうします」とニコニコしている。まあ、こんなことがあると私もうれしい。








背後にあるのはお寺かと思いきや、モスクであった。礼拝自国の表示もあり、今も礼拝施設として機能している。ワウは沐浴池としての機能もあるためお寺とセットであることが多いが、こちらはムスリムの建築。グジャラート・スルターン朝時代にメヘムード・シャー1世時代、1485年に造られている。
階段井戸はどこもそうだが、雨が降るとそれらの水を効率よく溜め込む機能もある。雨が強くなってくると、どこからともなく集まった雨水が階段をたどって下へ下へと流れ落ちてくる。インド西部の地下水位は年々低下しているため、建築当時は水はもっと満々とたたえていたのかもしれない。
ここは先述のとおりモスクの境内の一部になっていることから、イスラームとヒンドゥー文化の共存ということも感じられるし、さすがに境内でゴミを捨てる日とはいないのか、それとも日々清掃がなされているためか、階段井戸もきれいに保たれているのも良かった。
個人的には世界遺産クラスの大きな遺跡よりも、中堅どころの秀作みたいなものを見て歩くのが好きなので、このBAI HARIR VAVくらいのものに出会えると、とても嬉しい。







インドのモスクはどこも程度の差こそあれ、どこのものも地域独自のカラーがあるものだ。
アムダーバードのイスラーム建築は、持ち送りといい庇といい、柱といい壁面の紋様といい、はてまた相輪(のようなもの)等々、土着文化(ヒンドゥー文化)の影響を凄まじいまでに反映させていることに改めて驚かされる。これらのパーツを単体でみると、とてもモスクであるとは感じられなかったりするほどの強烈な個性とインパクトだ。
例えば、この「Ahmed Shah’s Mosque (Shahi Jam-e-Masjid)」。1414年創建のこのモスクは、イスラーム建築特有の大きなグンバド(大ドーム)とイーワーンの組み合わせから来る内部に柱のない広大な空間を持たず、まるでヒンドゥー寺院のような柱の多い内部空間を構成していることから、同じくヒンドゥー建築の影響が顕著なカシミールの木造モスクを彷彿させるものがある。このようなタイプのモスクはアムダーバード市内に多い。インドはイスラーム建築も多様性に富むため、地域が違うととても同じ国内に居るとは思えない。
同様に、ヒンドゥーの人たちの寺院建築、伝統文化、風俗習慣や日常生活もイスラーム文化による強い影響を受けていたり、スィク教においても同じくイスラームから取り入れられた特徴も多く、インドひいては南アジアという地域の重層性をひしひしと感じさせられるものである。
こうした建築物の傑作の数々を直に観て触れて、その紋様を指でなぞったりしながら体感できるのはとても嬉しい。博物館でガラスのショーケースに収まっている構造物の一部を眺めるのではなく、その建物に入って細部を撫でながらダイレクトに体感できるのだから。















ユネスコ世界遺産の登録されているアーメダーバード旧市街では、古いハヴェリー(屋敷、邸宅)が多く残っており見応えがあるが、宿に転用してあるものがいくつかある。このハヴェリーはそんな中のひとつ。グジャラート州は今後も来たいし、アーメダバードに滞在することもあるだろうからいくつかチェックしておいた。こちらは「FRENCH HAVELI」という名前で宿泊施設として運営されている。オーナー家族はヒンドゥーの商業コミュニティの人たちだが、米国に移住しており、ホテル運営会社が借り受けて運営しているとのこと。部屋ごとにサイズや雰囲気は異なり、実際に泊まる場合には部屋を見て決めたい。





近ごろ思うのは、ガイドブックなるものをほとんど使わなくなったことだ。スマホには一応キン版のロンプラのガイドブック「INDIA」は入っているものの、ほとんど開いてすらいない。スマホ+グーグルの時代になってからは様々な面からも実に旅行しやすくなった。
良くできたガイドブック、便利なガイドブックは多いのだが、今は観光地情報、宿情報、移動手段情報は書籍からは要らなくなったため、ネットからは入手しにくい何か特別なことに特化あるいは深化した部分がないと、なかなか購入する動機がない、という具合になっているのが昨今のガイドブック事情ではないかと思う。
こちらも宿に転用されている「MANGALDAS NI HAVELI」。先程のFRENCH HAVELIよりも少しアップマーケットになるが見ておきたい・・・のだが、訪れたときには誰もいなかった。外から南京錠が下りていたので、おそらく宿泊者も本日はいないのだろう。外から見る限りでは、とてもきれいに修復してあるようだった。







宿ではないのだが、本日見かけたハヴェリーの中では、これが最も重厚感があった。20年前、30年前であれば、こういうのがけっこう健在だったのかもしれない。こうした柱といい、持ち送りといい、なんかシビレる。家屋の中もさぞかし素晴らしいことだろう。









このハヴェリーにグジャラート語で書かれた碑文みたいなのがあったので、近くにいたおじさんにヒンディー語に口訳してもらった。それを聞いて「ほう、そうなのか」と思ったが、歩いていると次から次へと興味深い建物があり、ちょっと「公式外」の変わったジャイナ教寺院と図書館が一体となった木造建築の中を見学したりと興奮したためか、先ほどの口訳してもらった内容をすっかり失念してしまった。やはりその場でメモするか、おじさんの喋りを録音しておかないとダメだと痛感。


往時を偲ばせるハヴェリー等が散在するアーメダバード。こうした伝統的な建物の集合具合の密度がもっと高いとなお良かった。そういう意味ではカトマンズの旧市街はもちろんのこと、ネパールのバクタプルのような伝統家屋がほぼまるごと残っている街並みというのが、いかに価値のあるものかということをひしひし感じる。一度失われると二度と取り戻すことができないだけに。

























旧市街は、それぞれ固有の名前のついた「ポール(POL)」が構成されており、それぞれにこうした門が付いている。「ポール」とは、宗教、カースト、氏族、職業などの共通項を持つ家族たちで構成させている街区のようなものだが、これについても説明してくれるであろう旧市街ツアーに申し込んでいたのだが、私が訪れた時期には申込みが少ないとのことで、開催されなかったのは残念。またグジャラートは来るし、必然的にアーメダバードにも泊まるので、次回の楽しみとしよう。




