AMULのシリーズのこのふたつがとても好きだ。上はエライチ(カルダモン)、下はケーサル(サフラン)。いずれも深い味わいが楽しめる。インドならではの濃厚なミルクベースの嗜好品である。




アフマドナガル郊外のマドラサへ。ここはアウラングゼープゆかりの施設である。大柄なモールヴィーが簡単に説明してくれた後、「後は彼に話を聞きなさい」と中年男性を私に付けてくれた。アウラングゼーブの最期を目的に訪問する外国人は多くないようで、やたらと親切だ。
アウラングゼーブはここにある小さなモスクで礼拝中に倒れて帰らぬ人となったそうで、モスクのすぐそとにある基壇状のものは、亡骸となったアウラングゼーブがそこで清められたことを記念するものであるとのこと。
そのすぐかたわらにあるバーラーダーリーは入ってみるととても風通しが良くて気持ちがいいのだが、まさにここが晩年の彼のお気に入りの場所であったのだとも。その上階では彼の配下の軍団の長が地面から大声で報告するのを聞いていた場所とやらがあり、説明してくれる男はあたかも自身が昨日、アウラングゼーブがそうしていたのを見ていたかのように話す。

また、朝一番の礼拝は地下室で行っていたとのことで、その場所は今も残っている。もともとは南北に細長かった地下室は壁で塞がれて二分されているのを除けば、形状はそのままであるとのこと。

アウラングゼーブ自身はこの施設で自身のためにかかる費用は一切、自身の帝国の予算からの支出は許さず、彼自身が達筆で書写したコーラン、彼自身が刺繍して仕上げたトーピーなどからくる収入を充てていたとも。さすがにこのあたりにまでくると、この人が実際に昨日まで直に接して見てきたかのように言われても、にわかには信じられないのだが、とにかくこの場所にゆかりの偉人であり、比類なく高潔な人物であったと伝えられているわけなのだろう。
本日案内してくれた男性が「まさにここ、この場所でアウラングゼーブが突然崩れ落ちて・・・」と、あたかも先月目にしたばかりのような臨場感で話す言葉を前に、私自身もあたかもそこで、まさに目の前にで皇帝が膝から崩れるように転倒して、周りが大騒ぎになっている有様を追体験したかのような気分になる。やはりここに来てみて良かった。まさにそれに尽きる。




アフマドナガル・フォートは、ムガルによる占領そしてその後は在地のヒンドゥー勢力の手に渡り、さらには英国へと所有が移り、20世紀には政治犯(独立運動家)の収容施設となったり、さらに時代が下ると軍の駐屯地となり現在に至っている。
広大な城壁の敷地全体が軍用地となり、私たちを含めた市民の入場は認められないのだが。ごく一部、市内に面する大きな「ハーティー・ダルワーザー(エレファント門)」と宮殿のあった部分のみ、インド陸軍兵士によるチェックを受けてから訪れることができる。
ただし宮殿というのが軍用地内であるため保護活動がなされていないのか、荒れ放題、崩落寸前であり、とても見学すべき価値のあるものには思えなかった。崩れそうな入口からはコウモリの糞尿の強烈な臭いとともに「キキキィ〜」という癪に触る鳴き声が聞こえてくる。夜になると、このあたりではドラキュラが徘徊しているものと思われる。
国に接収された城が軍用地となる例はとても多い。市街地近くに広大な敷地が用意できるのはそのような場所であるがゆえであること、さらには統治の中心でガバナンスの力の源泉であったところから権力者がいなくなるという「権力の真空」を放置しておくわけにはいかず、「新たな権力機構の象徴」であり、騒擾が起きた場合には即刻弾圧を加えることが出来るよう、新たな権力による暴力装置を据えておく必要があったからという理由もあったのだろう。ちょうど日本で各地の藩が解体された後、藩主の城に明治新政府の警察や軍が駐屯地したのと同じようなことだ。
城内を歩いていると、幾度も地元の見学者、家族連れであったりカップルであったり・・・に呼び止められて、どこを観ると良いかと尋ねられる。聞けばこういう人たちは州内のいろいろな街からやってきた観光客のお上りさんたちであった。
元宮殿のお化け屋敷、ハーティー・ダルワーザー、城壁の上の遊歩道などを見学して帰る頃になると、まずまずのアドバイスをしてあげられるようにはなった。ほとんど訪問者の姿がない城内とはいえ、どこから見ても詳しそうに見えない私なんかに聞いてとうするの?という気がするが、まあ田舎からのお上りさんというのは得てしてそんな人がけっこういるものだ。















マハーラーシュトラ州のアフマドナガルは陸軍駐屯地の町だけあり、こんな博物館があった。主に第二次世界大戦時期の戦車や装甲車、加えて1970年代までインド陸軍が使っていた車両が展示されている。













あのロールスロイスが戦闘車両も製造していたとは、ここを訪問するまで知らなかった。


地雷除去車両、橋架車両などといったあまり取り上げられることのないものもあった。

それにしてもこういう殺人道具の開発と発展に血眼の人間社会というのは実に業が深い。
ムンバイがまだ7つの島だった頃、今のマズガオンが「インド最高のマンゴーの産地」としてムガル朝からは評価されていたという。シーズンにははるばるデリーの皇帝まで、そのマンゴーを急送するシステムまであったとのこと。
マズガオンはサンスクリットでMatsya Grama、現代のヒンディーで言えばMachch Gramという意味となり「魚の村」である。ここはコーリーの人たちが暮らす漁村だったところでMachch Gavとマラーティーで呼ばれていたものが、Mazagon、そしてMazgaonとなっていったようだ。
島と島の浅瀬からどんどん埋め立てていき、やがて7つの島は繋がり、今の半島の形のムンバイとなっていく。マヒムもマラーバールヒルもそれぞれ島であったわけで、コラバコーズウェイもかつては島と島を結ぶ土手道だった。今で言えばシンガポールとマレーシアのジョーホールバルーを結ぶコーズウェイのようなイメージか。
ポルトガル時代まではのどかな7つの島だったムンバイだが、ポルトガルのカタリナ王女が英国王室に輿入れする際のダウリーの一部として英国に割譲されからは、スーラトに代わるイギリス東インド会社の欧州や中東に向けたメインの港町となるべく、埋め立てと開発がどんどん進められて行った。
英国のものとなって以降のマズガオンは港湾地域となり、「最高のマンゴー」の生産地としての名声は歴史の中に刻まれた過去の話となった。


1リットルのミネラルウォーターのガラス瓶で思い出したのだが、1980年代のインドではウイスキーの空瓶を水筒として使う人たちがけっこういた。
バーザールではちゃちなプラスチックの水筒は売られていたのだが、今のような堅牢で見てくれも良いものはまずみかけなかった。清涼飲料の類もガラス瓶で、ペットボトルが出回るようになったのは、そのずいぶん後のことだ。
80年代後半にはビスレリ等のミネラルウォーターは売られていたが、当時の価格で確か12Rsだったと思う。1ドルが13Rsとか14RS。当時あった闇両替で16Rsだか17Rsだかといったところ。現在の1ドル83Rsとかの時代に20Rsは当時よりもはるかに安い。インドの人たちの所得も大きく上がったが、当時はペットボトル入りの水は高級品だったのだ。そんなわけで鉄道やバスに乗ると、水を入れたウイスキー瓶を持った人たちが大勢いた。
そういう人たちが皆酒飲みだったわけではないだろう。当時は空いたガラス瓶だって売られていたのだ。用途は水筒にしたり、油をいれたり、はてまた燃料を入れたり。当時は大きな街を除けば食べるところと言えば粗末なダーバーが大半。大きな街で高いと頃といえば、多くはメニューの文字すらよく読めないくらい低照度の暗い暗いレストランだった。
今から思えば、その闇がパルダーの役を果たし、種種雑多な人々がごちゃりと揃って食事をしているわけではない、家族や仲間だけの孤食を演出する意味があったのかもしれない。
カフェらしいカフェもなかった。立ってすする道端のチャーエ屋、席は用意されているけど、せせこましく忙しいチャーエ屋しかなかった。カフェがあちこちに出来るようになったのは90年代後半以降だ。
この時代はメジャーな観光地の主役は外国人だったが、それでも外国人料金という概念がなく、タージマハル入場料はわずか50パイサ。何かと外国人料金の設定が多かった中国を旅行してからインドに来ると、「なんと良識とホスピタリティに満ちた国なのか!」と誤った感心をしたものだ。
そんな昔のインドが良かったかと言えば、全くそうは思わない。当時私が社会人であったならば、休暇でインド旅行というのはあり得なかった。
なぜならば鉄道予約は駅に出向かなくてはならず、まずは「ブッキング窓口」で目的地までの乗車券を買い、続いて「リジャルウェーシャン窓口」で予約をする必要があった。
大きな駅だとそれぞれ方面別となっており、間違えるとまた最初から並び直し。行列は長く、割り込みを防ぐために人々は密着し、それでも窓口前では、とにかく自分が先に窓に手を突っ込もうと熾烈な闘いが繰り広げる、そんな感じだった。列車予約ひとつで1日が軽く終わる、みたいな具合。
それも始発駅ではなく途中駅だと、「15日先まで寝台なし」「向こう20日間は満席」などと言われて途方に暮れる、そんな大変なインドであった。今のインドのほうがいろいろ便利ではるかにありがたい。

一昨年の11月からインドのアマゾンでKindle書籍が購入できなくて困っていた。「インド国外発行のクレジットカードの利用は不可」となったためだ。インドの金融当局からの指示とのこと。インド国内の航空券も鉄道チケットも国外から日本発行のカードで買えるのに何で?と思ったが仕方ない。

それが先日、「今もそうなのだろうか?」と思い、「ゴアのコロニアルキッチン」なるKindle書籍を買えるかどうか試してみると、すんなり購入できた。
そうか、すでに禁が解けていたのか。
これはありがたい。これまでインド帰り買う本のうち、Kindle版があるものはインドアマゾンで手に入れることができる。
書店では、スマホ片手に良さげな書籍を検索して、無ければ店頭で紙媒体で買い、Kindle版があればインドアマゾンのカートに入れておき、宿に戻ってからまとめて買う。
私は雑貨や衣類などは買わないので、身軽なままで帰国できると嬉しい。本はとても重いものだし、自宅のスペースの関係もあるため、なるべく電子版で手に入れられるとありがたい。

アハマドナガルに到着して最初に訪問したのがここ。

アフマドナガル王国時代の宮殿のひとつ。形状からして居住や執務その他の実用的な目的ではなく催事などイベント用の場所だったのではなかろうか。広大なホール内に空いている大穴は噴水がしつらえられてあったスポットそうだ。今は遺跡だが往時は漆喰で美しく仕上げてあったはずなので、さぞかし雅な空間であったことと思われる。

昔のこうした宮殿に限らず、近世に建てられたインドのハヴェリー(屋敷)でも往々にしてそうなのだが、階下の広間で催される演奏や舞踊などを上階のテラスからも鑑賞出来るような構造になっているものがよくある。おそらく視界を遮らないようにという配慮からかと思うが、床面の終わるところに壁や柵もなかったりする。




往時は今のように強い調光による照明はなかつたし、近眼の人が視力を補正するメガネもない。うっかり踏み外して下方はるか彼方の床へ落下して絶命・・・というのがしばしば起きていたはず。あるいは宮中の陰謀により、そんな事故を装う事件もときどき起きていたかもしれない。




アウランガーバードのバススタンドからアハマドナガルに向かう。今の時代、目的地までの距離、見込時間などが手に取るようにわかるのはありがたい。
紛らわしいのだが、州内のさほど大きく離れていないところに同じ読みの「アハマドナガル」なる町がもうひとつある。バスチケット買う際に「プネー行く途中のこの街まで」とGoogleマップほ見せて確認できるし。
本当はこういうのをどちらか「改称」すると良いように思う。政治的な意図とともに、インド各地で様々な街の名前が変えられているが、近くにあって紛らわしいこのようなケースこそやったらいいのではないだろうか。
今回のインド訪問のテーマはアウラングゼーブ帝。アウランガーバード周辺には当地に居を移した彼ゆかりの史跡等が沢山あるとともに、数々のムガル建築が本来ならば「ムガル圏外」だったデカンのこの地に残されることとなった。
先代までの皇帝が少数派であるムスリムの自分たちが「ヒンドゥーの大海」の中で統治をしている現実を踏まえ、マジョリティに対して融和的な政策を取ってきたのとは裏腹に、今で言うところの「イスラーム主義者」であったアウラングゼーブは大きな対立と禍根を残したことでも知られている。
そうした意味では、アウラングゼーブはこの地にあって「災厄」でもあったわけで、はるか後世の人たちが地名から彼の痕跡を消して「サンバージー」と入れ替えたことは、当時彼の圧政で苦しんだ人たちへの供養と言えなくもないかもしれない。
いずれにしてもムガル最盛期を代表する皇帝のひとりで、タージ・マハルに葬られているムムターズの息子のひとり。数多くいた息子たちのうち、病気その他で亡くなることの多かった当時、無事成人できたのはアウラングゼーブを含めて4人。
ダーラー・シコー、シャー・シュジャー、アウラングゼーブ、そしてムラード・バクシュ。この4人は同じ父母から生まれ、おそらく母親ムムターズのもとで一緒に育った(一夫多妻のムスリム貴人たちの家庭で母親と自身が生んだ子供たちが直近の生活単位を構成する)彼らは跡目争いで激しく攻防を繰り広げることとなる。
最有力だったダーラー・シコーに対して、当時ベンガルの統治を任されていたシャー・シュジャーは皇位継承をかけて挑むも押し返され、なんとか講話を結ぶ。同時にアウラングゼーブとムラード・バクシュも共同で戦線を組み、強大なアウラングゼーブを攻略していき、苦戦を強いられるも、最後にこの長兄を殺害して除去に成功。
講話後はダーラー・シコーと協力関係にあったシャー・シュジャーは、進路を絶たれ、地盤であったベンガルをも後にしてアラカン地方(ビルマ西部)へ逃亡したが、そこに安住の地を得ることなく、その後の足取りはよく知られていない。
これで皇位継承有力候補のダーラー・シコー、そしてこれまたまともにやりあっては抗し難い強大な勢力の一角であったシャー・シュジャーは倒され、強い紐帯に結ばれたアウラングゼーブ、ムラード・バクシュの兄弟が天下をどう分け合うかというところにまできた。
しかし当時の各地のイスラーム王朝の多くでそうであったように、敵の敵は味方、昨日の友は今日の敵。宴会の席を利用したアウラングゼーブの策略にて、シャー・シュジャーは拘束されて幽閉されてしまう。当然、彼の手下たちも首尾よく処理されてしまったのだろう。
そして不運なシャー・シュジャーはアウラングゼーブの命令により処刑されてしまう。
同じ母親のもとに生まれて、母ムムターズの愛情をたっぷり注がれて仲良く健やかに育ったであろう4人の王子たちが血みどろの抗争を展開していく背景には、個人的な確執だけではなく、取り巻きの家臣たち自身の将来、しかもまさに「Dead or Alive」という、熾烈な生存競争による支援・支持、敵対や裏切りなどもあったはず。
あたかもカタツムリが新たな宿主を求める寄生虫にマインドコントロールされて、わざと目立つ行動をして鳥に食われてしまうように、彼ら王子たちも自らに寄生した家臣たちにより、操られていた側面もあったのではないかと想像する。取り巻きにちやほやされて長じた王子たちが、老練で手管に長けたタヌキオヤジ家臣たちにそそのかされて、いいように操られるという構図は想像に難くない。
古今東西、王家のお家騒動というのは、そうしたものであったというのはよくある話。皇位継承抗争の本当の主役たちは王子たちではなく、彼らの背後に控える腹黒タヌキたち同士で、現実にはそうした影の主役たちによるパワーゲームだったのかもしれない。



アウランガーバードのバススタンドからプネー行きバスに乗車。途中にあるアハマドナガルが本日の目的地。昨年2月下旬にアウランガーバードが「チャトラパティ・サンバージーナガル」に改称されることが決まった。
アウラングゼーブ帝の時代にムガル帝国の領域は最大となる(以降は衰退期に入った)とともに、デリーからこちらに居を移し、当地ゆかりの歴史的人物となった「アウラングゼーブ」の名前が消されて、この街で活躍したわけではないサンバージーが街の名前となった。
この改称には単に中央政府の反ムスリム志向だけでなく、まさにこの地域のマラーター民族主義がある。90年代、州のシヴセーナー政権時代に空港、鉄道駅、博物館などに「シヴァージー」の名前を冠せられ、街の名前もマラーティーでの「ムンバイー」と改称された。
実は、それまでヒンディーでは当時の「ボンベイ」を「バンバイー」と表記していた。「ムンバイー」への改称を機に、ヒンディーでの表記も次第にマラーティーでの表記に寄せて同じく「ムンバイー」となっていき、現在では「バンバイー」という表記は見かけなくないし、耳にもしなくなっており、「死語」と言って差し支えないだろう。
「バンバイー」から「ムンバイー」への変更は呼び方の地域性をシフトするのみで、鉄道駅の「VT(ヴィクトリア・ターミナス)」から「CST(チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス)」は象徴的なシンボルの植民地時代のからの現状変更だったため抵抗感はほとんどなかったものと思われる。
しかし「アウランガーバード」から「チャトラパティ・サンバージーナガル」については、先述のアンチムスリムの意図あってのことであることは誰もが知っているため、嫌悪感を抱く層はかなり多いかと思う。
歴史の書き換え現場のひとつを目にした気がする。