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カテゴリー: travel

  • 達人たちのバンド 2

    ラージダーニー・バンド

    予約していたホテル玄関は蛇腹式のシャッターを閉めてあり休業中みたいに見えるが、門番がカギを開けてくれて中に入れてくれる。グラウンドフロアーにあるレセプションとレストランでは通常通り人々が働いていた。

    この日のバンドはムンバイーでの連続爆破テロへの抗議と与党への圧力なのだとホテルの従業員は言う。うまくそれにタイミングを合わせた感じではあるが、固く閉ざされた焦点のシャッターに無造作に貼られたシヴ・セーナーのバンド呼びかけのポスターには、留保制度反対!牛殺し反対!物価上昇に対する対策を講ぜよ!などといった内容のものもあった。

    テレビをつけてみると確かに国会のモンスーン・セッションのはじまりに合わせて、シヴ・セーナーの友党であるBJPの人々が鐘を鳴らすなどして政府、つまりコングレスとその連立政権に対するアピールとしてなにやら騒いでいる様子が映し出されているため、こうした動きと歩調を合わせて行なわれているものであるらしいことはわかる。

    バンドの達人たるシヴ・セーナーだが、実はこの半月ほど前の7月9日に地元ムンバイーでバンドを試みて失敗している。バンドの理由が党幹部関係者の個人的な問題に起因するものであり『公共性』を欠いたものであったということもあるが、このところナラーヤン・ラーネー、ラージ・タークレーといった大物幹部が離反して党を離れていったため、求心力が大幅に低下してしまったのがその原因と言われている。

    そこで『セーナーは本拠地を遠く離れたこんなところでも威力を振るうことができるのだ』と、彼らにしてみればまさに面子回復を賭けているのが今回のバンドかもしれない。

    2000年11月にU.P.州から分かれて成立したウッタラーンチャル州の州都となったデヘラードゥーン。それまで学園都市として知られてきたことを除けば分割以前の旧U.P.州に数多く存在する中規模の街のひとつにしかすぎなかった。この街で前例のないトータルなバンドであったらしいが、やはり『州都』ともなれば政界への影響やパブリシティーといった面でこの類の行動を起こすメリットが出てくるのだろう。

    家族をホテルの部屋に置いて出歩いてみた。暴徒に出くわしては困るのであまり遠くまで行くつもりはないのだが、そうでなくてもバスやオートは一台も走っていないので徒歩圏内しか訪れることはできない。雨が降っては晴れての蒸し暑い気候の中、喉が渇いても店がどこも開いていないので水さえ買うことができない。だから結局ホテルの近所をウロウロするほかないのである。十字路では交通警官がヒマそうに椅子に座っていた。『バンドは日中一杯。午後5時で一応終わりらしいよ』とのことだ。

    静かな往来をボーッと歩いていて道路の突起でつまづいてしまった。すると靴底が三分の一ほど剥がれてしまった。こういう日なので路肩にデンと座り込んだ修理屋も見当たらない。突然壊れてしまった靴がうらめしくなる。

    通りには誰もいないがガーンディー公園ではヒマつぶしにトランプに興じている中年男性たち、デート中の若い男女などの姿をチラホラ見かけた。街地中心のクロックタワーのあるあたりは大きな商業地になっている。ここでは消防車や『ダンガー・ニヤントラン』と書かれた暴徒対策の機動隊車両が駐車してある。このクルマの天井には催涙弾とその発射装置が搭載されているのが見える。治安部隊の人々がこのあたりに集結して警戒していた。

    どこも歩いてみても閑散としていたが、午後4時過ぎあたりになると一部の商店が扉を開き始めていた。3年前、ムンバイー・バンドが終わるあたりで次第に街が息を吹き返していった様子を思い出す。だがインド随一の商都とは違い、デヘラードゥーンでは本日一杯休みにしたところのほうが多いらしい。のんびりした地方都市らしいところだろう。少しずつ人通りが出てくると新聞屋の姿もチラホラ見かけるようになってきた。

    ウェーリー・メール(वैली मेल)というというタブロイド版ローカル紙を手にとってみると『未明から90台ほどのバイクに分乗したシヴ・セーニク(シヴ・セーナーの活動家)たちが出動。午前4時半にISBTに到着して2台のバスの窓ガラスを割るなどの破壊行為を働いた』『デヘラードゥーン市内複数の地域で公共バスを破壊』等々、今日のバンドについていろいろ書かれていた。こんな具合でシヴ・セーナーのバンドをまだ良く知らない市民たちにお得意の強烈な先制パンチで明け方前から存在感を示したわけだ。

    記事には『朝から学校、郵便局その他の公私さまざま機関、会社、商店などが閉まっていた。路上の物売りたちも一部を除きことごとく姿を消していた。オートリクシャーやタクシーもいなかった。シヴ・セーナーにしてみれば彼らのバンドは大成功』ともある。

    破壊行為で逮捕された活動家がポリスのクルマの中に座っている写真も掲載されていた。まだ20代に見えるが、シヴ・セーナーの創設者であり現在同党を率いる息子のウッダヴ・タークレーの後ろ盾でもあるバール・タークレーばりの細身で裾の長いクルターを着て粋がっている様子。シヴ・セーナーの連中にとってはあのBALASAHEBことタークレー親分のいでたちがたまらなく魅力的に映るのだろう。

    パルタン・バーザールを抜けたところの ラーム・ラーイ・ダルバールという墓廟兼グルドワラーをしばらく見物して外に出てみると薄暗くなってきた。さきほどまでは人の行き来がまばらだった通りには、昼間まったく見かけなかったオートが何台か客待ちしている。

    蒸し暑い中を歩きずくめで疲れた。ガタガタと揺られつつも腰掛けたシートに疲労が吸い込まれていくようだ。

    <完>

  • 達人たちのバンド 1

    rajdhani band
    ひと月半くらい前の7月24日のことである。ウッタラーンチャル州の避暑地マスーリーのタクシースタンドからデヘラードゥーンの市街地まで行くところだった。

    本来ならば400ルピーらしいのだが運転手は『今日ちょっとねぇ。遠回りすることになるから』などといって500要求してきた。少し離れたところで客待ちしていた別のドライバーにたずねてもまったく同じことを言う。どこかで工事でもしているのだろうか。面倒なのでそのままクルマに乗り込んだ。

    数日前にデヘラードゥーンからここに来るとき、山の斜面に入ってからの九十九折れのカーブの連続で子供がクルマ酔いして困った。それを教訓に今日は『ほら、クルマ酔いの薬だよ』とテキトーに騙してトフィーを与えた。息子は翌月に5歳になる。このくらいの年ごろだと『薬』がどういうものだかわかっているし、まだ素直なので暗示にかかりやすい。そういう意味では小学校に入学する前後の子供が一番扱いやすいのではないだろうか。おかげで下りは車窓の景色を眺めてはしゃいでおり、気分が悪くなる兆候もない。これは助かる。

    南方に平地を見ながら下っていく山道の風景は本当に素晴らしい。緑が多く雲もところどころに溜まっているのが見える。ときに町中が雲の中に入ってしまったり、晴れ渡ったりと5分たてば違う風景になってしまうのがこの時期のマスーリーである。

    妻と子供と三人で過ごした避暑地の週末はなかなかよかった。英国時代からの古い教会、古いショッピングモールには設立年が書かれている。道路わきで見かける水道の古い蛇口も植民地時代のもの。これを住民たちが世代を継いで利用しているのは興味深い。とかく植民地時代の面影が濃い町である。

    涼しい気候はもちろんのこと、避暑地のウィークエンドは都市の中産階級の人々でごったがえしていた。身なりがよく華やかで購買力のある人たちばかりがモールを歩いているので、ごくひとにぎりの豊かな人たちと大多数のつつましい庶民からなる普通の町中とはずいぶん違う雰囲気であった。

    タクシースタンドを出てからずっと下り坂だ。タクシーはデヘラードゥーン郊外に出るまでエンジンをかけずにブレーキを踏むのみである。インドではバスもタクシーも坂道でこういう運転をする人は多い。昔、自動車教習所で教わった恐ろしいヴェイパー・ロック現象というのは、そうそう簡単に発生するものではないらしい。

    街の入口にさしかかろうというあたりから上り坂になる。運転手はようやくここでイグニッションを回してブォブォブォンッとエンジンをスタートさせた。彼はポケットからおもむろに携帯電話を取り出して誰かと話を始めた。相手はデヘラードゥーンの街にいる知り合いにかけているらしいのだがちょっと様子が変だ。まさかここを初めて訪れるわけでもあるまいが市内の様子を詳しく質問している。

    住宅がまばらに広がる郊外を抜けて市街地に入るあたりまでやってきた。すると道路の様子がちょっとおかしいことに気がついた。平日の昼近いのに他に走っているクルマがやけに少ないのだ。ドライバーはクルマを停めた。何かと思えばそこから先の状況を、ときおり向こうからやって来るバイクなどを呼び止めてたずねている。

    『えっ?ひょっとして暴動か?バンド(スト)か?』と彼に聞くと答えは後者であった。どこ(誰)がやっているものかと問えば答えは『シヴ・セーナー』であった。もともとはマハーラーシュトラの地域政党である彼らがここウッタラーンチャル州都でゼネストを行なうのはやや意外であった。北インド各地でもしばしばトラの顔をデザインしたトレードマークを描いたセーナーの支部があるのをチラホラ目にするものの、この地でそれを強行できるほどの地盤があるのかどうかはよく知らない。

    だが彼らセーナーのバンドは徹底していて怖いことは広く知られているため人々はそれに従う。そんな彼らはいわば『バンドの達人たち』である。それならさっき乗るときにそう言ってくれればマスーリーでもう一泊したものを。

    繁華街の方角からやってきたある運転手は『破壊活動していた連中は捕まったよ』と言い残して郊外へと走り去っていったが、おおいに気になるところである。さきほど携帯で市内の人に電話していたのも様子をうかがうためだったのだ。

    こういうときなら通常よりもタクシーの料金が高いのもわからない話ではない。ちゃんと目的地のホテルまで連れて行ってくれるならもっと払ってあげたい気分。彼が気にしているのはもちろん黄色いナンバー・プレートで営業車だとわかってしまい、『アクティヴィスト』たちによる攻撃の対象になってしまうためだ。もちろんクルマ自体や運転手だけではなく利用している乗客にとっても危険であることは言うまでもない。

    ドライバーはその後市街地方向からごくたまにやってくる何台かのバイクやクルマなどをつかまえては状況をたずねていたが、まあ大丈夫そうだと判断したようだ。

    タクシーは発進した。白昼だというのに往来がすっかり途絶えている大通り、ありとあらゆる店がシャッターを下ろし、路上の物売りさえも姿を消している街中を滑るように進んでいく。
    デヘラードゥーンの中心地の繁華街らしきエリアに入った。大きな時計台の少し手前のガーンディー公園が見えてくると運転手はクルマを路肩に寄せた。『繁華街らしきエリア』と書いたのは、建物等の具合からしてそうと思われるのだが、あたりに誰もいないし店もすべて閉まっているためよくわからないのだ。白昼なのにまるで深夜過ぎの雰囲気である。

    『早く降りて。早く早く』と私たちを急かして放り出すように降ろしたドライバーは、アクセルを踏み込んでUターンして今来た道を一目散に飛ばして退散した。乗ってきたクルマのエンジン音が遠ざかるとインドの街中にいるのが信じられないほどシーンと静まり返った空気。木々のこずえでさえずる鳥たちの声しか聞こえない。クルマや店先のスピーカーなどによる騒音さえなければインドの街はこんなにも静かなのだ。ということは自動車や電気のなかった中世のインドはさぞ静粛であったのだろう。

    数年前の7月にちょうど居合わせたムンバイー・バンドを思い出した。あのときも主役はシヴ・セーナーだった。今回のバンドは『ラージダーニー・バンド』と銘打ってある。ウッタラーンチャルの州都(ラージダーニー)で打って出たゼネストだ。

    <続く>

  • 熱暑にご注意

     今日も暑い一日だった。モンスーンのためしばしば激しい雨が降り、酷暑の時期よりはるかにマシとはいえ、外を歩けばやはり暑い。
     まだ日は高いけど、部屋に戻ってクーラーを効かせてしばしうたた寝でもしようか・・・と滞在先のホテルに戻ろうとすると、入口すぐ脇でバックパックを放り出して地べたに座り込んでいる大柄な白人男性がいる。彼は炎天下で頭を両手で抱え込んだままピクリともしない。 
     ちょっと様子が変だと思い声をかけてみると、トロンとした目で意識は朦朧としているらしい。こちらの質問にはかすかにうなづいたり首を横に振ったりするが、声を発することができない。ひどい日射病らしい。状況から察するに、この町に到着してホテル探しをしているときに気分が悪くなってしまったようだ。
     この人はかなり高齢のようで、見たところ60代後半から70代前半といったところ。姿格好や荷物の様子からしてけっこう旅慣れていそうな雰囲気なので、普段は元気な「高齢バックパッカー」として世界各地に出没しているのかもしれない。南アジアでも中東でも、およそ旅行者の出入りするところでは欧州からやってくる年配の安旅行者は珍しくなく、西ヨーロッパ先進国における『旅行文化』の厚みと歴史の長さを感じさせるものがある。
     身に着けているTシャツにオランダ語のプリントがなされているからといって彼がオランダ人だと断定するのは早計だが、こういう年齢での一人旅といえば、フランス、ドイツ、スイス・・・といった今でも『旅行大国』として知られる国々、つまり所得が高くてしかも夏のヴァカンスなどの休暇が長い国の人たちの占める割合が圧倒的に高い。
     本人が口を利ける状態にないので、いったいどこの国からやってきたのかわからないのだが、ともかく危険な容態にあることは見て取れた。とりあえず宿のチョーキダールと彼を日陰に運ぶ。近くの店でミネラルウォーターを買ってきてあげたが、自分で飲むことができる状態でさえなかった。
     そうこうしているうちにホテルからフロント係の従業員が出てきて、携帯電話で彼を病院に運ぶクルマの手配をしている。ふと気が付くと私たちを大勢の野次馬が取り囲み、あたりはまさに黒山の人だかりになっている。
     年配の方々が家に閉じこもるのではなく、興味のある土地へと、世界各地で元気に一人旅を楽しむのは素晴らしいことだと思う。しかし日射病のような突発的な異変ならずとも、そのくらいの歳になれば身体の中にひとつやふたつの慢性的な不安がある人、定期的な加療が必要な不具合を抱えている人も多いだろう。 
     ぜひ体調に充分な注意を払い良い旅を続けて欲しいと思う。
     同時に日射病で倒れている人を見て日陰に連れて行く、水を与える以外にどうしたらよいのかわからなかった自分自身の知識不足(病院に搬送する前に周囲の人が確認すべきポイントがいくつかあるらしい)について反省させられたし、彼の容態を見てこの症状の恐ろしさが少し理解できた気がする。
     高齢者でなくとも、暑い時期に無理をすれば誰でも日射病・熱中症にかかる。今後私自身充分注意していきたい。

  • 時流

     西ベンガル州で、シャンティニケタンからビシュヌプルまで移動したときのことだ。早朝に出るという直通バスを逃してしまい、ドゥルガープルまで行きそこから乗り換えることになった。
     シャンティニケタンから2時間で到着したドゥルガープルだがそこからが長かった。午前11時に出て、地図を眺めて午後1時前には着くだろうと踏んでいたが、バスは途中あちこち迂回して走った結果、目的地に着いたのは午後3時であった。
     実はドゥルガープルのバススタンドで、電話屋の人に『公営バスのほうが早く着くよ』とは言われていたのだが、次に出るのが午後1時であるとのこと。2時間もボーッとしているよりは・・・と、タイミング良く現れた民営バスに飛び乗ったのが裏目に出た。
     近年、インドのどこに行っても公営バスのルート、発着数ともに激減しているのが見て取れる。左翼勢力が強い西ベンガル州とて例外ではない。シリグリーやラーイガンジといった州内の交通の要所にあっても、バススタンドで幅を利かせているのは民営バス。
     公営バスが道路交通の中核を担っていたころ、同じバスがいつも決まったプラットフォームから出るため、利用者とくに私のようなヨソ者にはわかりやすかった。そして決まった時間に(たとえ車内がガラガラであったとしても)出発するので時間が読みやすかった。走行ルートもそれなりに理にかなうものであったと記憶している。
     かつてはインドのどこでもバススタンドといえば公営バス専用で、民間のものは道路脇などに構えた小さなオフィス前から出るのが当たり前だったのに。だが当時のように市内各地(それでも往々にしてバススタンド付近であることが多かったが)からバラバラに発着させていた状態よりも、こうして一箇所から各社のバスが出るようになると効率がいいし、利用者にとっても便利であることは間違いなく、大きな進歩である。こうやって民間でできるようになったのだから、政府がわざわざやる仕事ではないから手を引く・・・というのが万国共通の行政側の論理なのだろう。
     そして今、色もカタチも違い行き先表示もあったりなかったりする民間バスが主体となってからは、これらの車両がどこに行くものなのか『経験的に』理解している者でなければ、何がなんだかよくわからないのだ。
     ちゃんと定められた時間どおりに走行しているものもあるが、おおむね『満員になり次第』発車し、走行中に空席が目立つようになれば市街地に入ってから車掌がドアから身を乗り出して可能な限り多くの乗客を乗せようと呼び込みに没頭するようでは到着時間が予測できない。秩序と定時走行の概念が消えるという現象面だけ眺めてみれば、時代に逆行しているようにも思える。
     公営・民間ともに同じところを走れば当然競合することになるが、それなりの棲み分けはなされているようだ。概ねこのベンガルでは公営は要所と要所を短時間で直行するもの、民間は回りまわって寄り道しながら大きな街とそれ以外の小さい町や村を結ぶといった具合に分業しているように見える。
     高い経済成長率に沸くインドだが、その伸びの背景には元々のスタート地点がやたらと低かったからという面もある。それだけに都市部から離れるとまだまだ貧しさばかりが目に付くような土地も少なくない。それでも『小さな政府』『民間でできることは民間で』という大きな流れの中で人々が生きていることは、この地球上のどこにあってもほぼ同じであるようだ。もちろんそれが正しいことなのかどうかは、後世の人々が判断することになるのだろう。

  • 車内の人間模様

     通路挟んで隣に座った家族連れの人たちは気の毒であった。夫婦と小学生くらいの息子の3人連れ。ガタゴトと揺れる車内で、携帯電話に入ったショートメッセージを深刻な表情で見つめていた夫は、それを深いため息とともに妻に見せた。とても驚いた表情をしていた彼女は、やがて泣き崩れてしまった。突然の出来事で落ち着かない表情の夫だが、子供と一緒に彼女の手を取り、しきりになぐさめている。
     なんでも奥さんの身内に不幸があったとのこと。本当はこれから空路マレーシアへと向かうつもりでコルカタに出てきたそうなのだが、急な出来事のためそれを取りやめなくてはならなくなったが、この列車の終着駅ハウラーに着いてからどうすれば良いのかわからず戸惑っている様子。
     こうしたことがわかったのは、向かいに座ったU.P.州在住のムスリム老夫婦連れがこのベンガル人男性と話をしていたためだ。ともかくこの人は妻をなぐさめつつ、また携帯電話で彼女の身内らと連絡を取りながらも、正面に座る老人に一部始終を話していたので事情がよくのみこめた。こんなシリアスな状況下でも実によくしゃべるものだと感心。
     周囲の人たちは悲しみに打ちひしがれたこの家族連れに気を使い、彼らの取るべき行動、彼の奥さんの実家へたどり着くためのルートなどについて、さまざまな助言を与えている。
     ついさっき車内に乗り込むときの座席をめぐっての殺伐としたムードとは打って変わり、暖かい人情味あふれる空間に入れ替わっていた。
     しばらくパニック状態にあった夫はしばらく考えた末、カルカッタの親族だか知り合いだかと携帯電話で連絡を取り航空券の手配を頼んだ。しばらくして三人分の席がジェットエアウェイズで確保できたとの連絡が入っていた。彼らがハウラーに着いたら電話の相手が駅で出迎えてくれて、そのまま空港へと向かうことになったそうだ。
     やがて列車はハウラーに着き、家族連れは相席の人々に見送られて駅出口へと急いだ。

  • 遺跡の民営化

     やや古い話になるが、インディアトゥデイ6月14日号にちょっと気になる記事が掲載されていた。ラージャスターン州が史跡運営の民営化に踏み出したという記事である。新たな収益の見込みだけではなく、これまで顧みられることのなかった史跡へのケアをも視野に入れているのだという。
     現在同州政府管轄下にある250の史跡があるが、これらの入場料収入は年間5千万ルピーにしかすぎないのだという。収入不振の原因として体制、スタッフ、セキュリティ等の不備が指摘されており、改善には巨額な投資と多くの熟練した職員たちが必要とされる。
     だがこれらの財源がないため、ラージャスターン州政権は大胆な策に打って出た。保護指定を受けた史跡の管理と整備、運営させる権利を与えることと引き換えにロイヤルティー収入を上げる道を開くため、史跡運営委託に関する法律の整備を行なったのだ。現在、30の史跡が『民営化』の俎上に上がっており、ジャイプルのハワー・マハル、ナーハルガル、ジャイサルメールのパトワー・キー・ハヴェリー、ブーンデイーのラーニー・キー・バーウリーなども含まれている。
     史跡等の管理当局のエライさんの談話も取り上げられている。『マルチメディア・センター、カフェテリア、みやげもの屋やここで繰り広げられるプログラムなどによる収入が見込める』とある。やっぱり史跡民営化の本当の目的は商業化らしい。行政による直接の関与から切り離すことによるコスト削減、民間資本による観光開発による歳入の増加による一挙両得を狙っているようだ。
     州首相のワスンダラー・ラージェー自身のコメントにも『史跡のより良い保存はもちろん、年間10億ルピー(現行の20倍)の収入を上げること』とある。もちろん財政的には史跡管理にかかる費用等を史跡自身の収入から拠出することができればそれに越したことはないだろう。史跡だけではなく州内の18の博物館の民営化も検討されている。

    (さらに…)

  • ネットで体験する世界遺産

    ネットで体験する世界遺産
     World Heritage Sites in Paranography というサイトがある。ここでは各地の世界遺産のパノラマ画像を360℃の角度から眺めることができるのだ。(閲覧にはQuick Timeのインストールが必要)
     日本やロシアのコンテンツは今のところアップされておらず、このサイト自体がまだ発展途上といった印象を受ける。しかしここで見ることのできる画像の美しさはもちろんのこと、画角の広さからその場の雰囲気もよく伝えていて興味深い。イランのイスファハーンの画像などは、卒倒しそうなほどに美しかった。最初は『ああ、こういうサイトもあるのか』と何の気なしにブラウズしていたのだが、知らぬ間に『呑み込まれて』しまい、ずいぶん時間が経ってしまった。
     もちろんインドについてもかなり手厚く25か所のパノラマ画像が掲載されている。南アジアの周辺国のものなども含めて、訪れたことのあるところ、ないところをあれこれと眺めてみるのも面白いだろう。
     どういう技術でこういう画像の作成が可能なのか、ハイテク音痴の私には皆目見当つかないのだが、こうした手法で各地の旧所名跡や風物を記録したギャラリーが増えてくるといい。遺跡の外に広がる景色をしばらくたどって行くことができたり、最寄りの町までの沿道風景をそのまま画像でフォローできたりする『仮想旅行体験』が用意されているとなお楽しそうだ。
    WH Tour

  • 『情報ノート』に想う 2

     イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
     そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
     ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
     バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
     そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
     そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
     有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
    当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
     こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
     この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
     コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
    トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
     この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
     私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。  
     世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
     Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
     そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
     彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
    『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
     もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
     こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。

  • 『情報ノート』に想う 1

     インドを紹介するガイドブックは数多いが、東北部に特化したものはこれまで少なくとも日本語で書かれたものはなかった。
     このほど旅行人ウルトラガイドのシリーズの『アッサムとインド東部』が発行されたが、これが初めてのものとなるのではないだろうか。インド北東部七州のうちの四つ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メーガーラヤ、トリプラーの各州の旅行情報が記載されている。おかげでこの夏以降、この地域を訪れる日本人が急増(?)するのだろうか。
     この旅行人ウルトラガイド/旅行人ノートと題するガイドブックのシリーズには『客家円楼』『海洋アジア』『西チベット』といった、旅行先としてはマイナーな地域をカバーしたもの、そして『シルクロード』『アジア横断』『アフリカ』のようにまとまった期間で長距離を旅するバックパッカー向けの本もあり、日本国内の他社から出たガイドブックとは一線を画している
     この中にはインドものもけっこう出ており、先述の『アッサムとインド東部』以外にも『ラダック』『インド黄金街道』『バングラデシュ』が発行されている。
     読者層が幅広く、利用者たちからの豊富やフィードバックも多いロンリープラネット社のような古参の大手会社と違い、新たなガイドブックを編纂するのはとても骨の折れる作業に違いない。それだけに手にとってめくってみれば、作り手の情熱や書き手の思い入れが伝わってくるようだ。旅行を産業として眺めた場合、かなりニッチな市場に特化しており、対象となる地域も記事内容もまた商売っ気がないのだが、旅に必要な情報を淡々と語る生真面目な旅行案内書だ。
     そんな飾り気のなさからだろうか、インターネット出現前に旅行者たちの溜り場に置いてあったり、コピーが旅先で出会う人たちの手を介して伝えられていったりした『情報ノート』を彷彿させるものがある。
     今ではちょっとネットにアクセスするだけで、いろいろな旅行関係のサイトや掲示板などで情報が入手できたり、何か大きな出来事が起きれば、まさに『今この瞬間』の情勢を伝えあったり意見を交換できたりする。だから書いた先から内容が風化してくる雑記帳の存在意義はなくなった。
     けれども『情報ノート』が重宝がられていたのはそんな大昔のことではない。世の中の誰も彼もがパソコンでインターネットに接続するようになり、どこに行ってもネットカフェの看板が見られるようになったのは、Windows95が発表とともに爆発的に売れ始めたころ、そう90年代半ば以降からのことだと記憶している。
     ともあれ、取材者(たち)が額に汗して現地をリサーチしてまとめてくれた旅行ガイドブックの価値は今も昔も変わらない。情報ノートの書き込み同様、これとて時とともに事情は変わってしまうのだが、大量の断片的な情報が手のひらのうえでひとつの本の中に系統立ててキチッと納まっていること、目次や索引などから必要な情報を必要とするときにすぐに取り出せることに存在意義がある。『案内書』とは本来そういうものだ。

  • 目の前はブータン 7 やがて個人旅行解禁か?

     ブータンもようやく総選挙による民政移管が予定されている。2008年までに現在のジグメ・ワンチュク国王が退位して子息のジグメ・ケサール・ナムギャルに王位を譲り、総選挙による多数政党による民主主義体制へと移行するというものだ。
     昨年末にはその王子がデリーを訪問してインドのマンモーハン・スィン首相その他要人たちとの顔合わせを済ませている。その際に新聞に掲載されていた写真を見て私は「キャプションが間違っている。写っているのは王子ではなくて現国王ではないか」と思ってしまったほど父親の国王によく似ている。しかも年齢もほぼ同じに見えるという老け顔(失礼!)の持ち主である。なにしろ額の後退具合も父親そっくりなのだから。それでも父親譲りの知的でハンサムな風貌であることは言うまでもない。
     ブータンでの体制が大きく変わるということ、それによって民主化が実現されるということの意味はとても大きい。社会の様々な分野から民意を問うことになるので、「鎖国」という極端な政策を続けることはできなくなるのではないだろうか。
     本来民主化と商業化は決して同義ではないのだが、民主主義というシステムの中で『オカネ』のパワーがいかにすさまじいものであるかということは、私たちがすでに日々の体験から学んでいることである。結果として実業界の発言力がとても強くなるはずだ。
     それは観光の面でも相当大きな変化をもたらすような気がする。グループツアー以外の外国人の観光が一気に解禁となるかどうかはさておき、少なくとも段階的には自由化されていく、あるいは相当緩和されるのではないだろうか。
     ブータンの人々は、ネパールやインドなどの周辺国を見て、観光収入による恩恵の大きさについては重々承知しているはずだ。その恩恵にあずかることを期待する人々は多いだろう。ブータンの強みとしては、インドやネパールの経験から学べることがとても多いことである。
     今はまだ産業としての『観光』は政府によってガッチリ管理されているが、それでも『Xデイ』に向けて、様々な調査や研究が着々と進められていることと思う。諸外国から観光開発に関する専門家なども少なからず招聘されているのではないだろうか。そして近い将来の自由化を期待してひそかに事業展開の構想を温めている実業家たちも少なくないのではないはず・・・と想像している。
     観光化にあたってブータンの強みは豊かな観光資源と桃源郷のイメージだけではない。英語が広く通じるということも加えられる。またインドから入国する観光客からしてみれば、インドルピーがそのまま等価で通用することもメリットとして挙げられるかもしれない。
     こうした動きについてインド側とて期待せずにはいられないのではないだろうか。「ブータンへの道」にあたる北ベンガル、そして周辺地域としてのアッサムその他東北諸州の観光発展への一助となる。ひょっとするとインド東部を含めたこの地域が、南アジア観光のひとつの大きな目玉になってくることもありえない話ではないだろう。
     それだけにはとどまらないかもしれない。2007年までにインドとミャンマー間の鉄道をリンクさせる計画もある。まずは東北諸州国境地帯の政治と治安の安定が先決だが、『観光圏』として将来的にはさらなる広がりが期待できそうだ。このあたりが「後背地」から脱皮して経済的にも自立したひとつの「核」となる可能性も秘めているのかもしれない。
     経済発展という観点からは、あまりパッとしない東部インドだが、現状が振るわない分、今後大きく伸びる余地も大きい。良くも悪くもインドとブータンは友好国以上の関係であり、ひとたび外国人の旅行がブータンで自由化されれば、その効果はインドの東部にも及ぶことが期待できるのは間違いないだろう。
     まだ自由に訪れることができなかった80年代後半までのラオスをふと思い出した。当時、旅行者たちはタイの国境の町ノンカイで、メコン河対岸の密林地帯を眺めて、「ああ対岸はラオス」と想ったものである。しかし89年に個人旅行解禁となり、渡し舟でメコン河を渡り「ああ、やっとラオスに来た」と喜んだものだ。  
     その後、タイとの間は渡し舟ではなく大きな橋で結ばれるようになり、行き来がより簡単になった。ラオスでは旅行ブームが続き、タイなどの近隣国からも、欧米その他の先進国からも人々が大挙してやってくるようになり今に至っている。
     かくして旅行事情なんてあっという間に大きく変わってしまうものだ。向こう五、六年のうちには「あのときはジャイガオンまで来たのに隣町のプンツォリンに入れなくてね」なんていうのが昔話になっていることと思う。

  • 目の前はブータン 6 恩田くん

     早朝、バスの中で出発を待っていると外で騒ぎがあった。一人の二十歳そこそこくらいの若い男が即東部から血を流している。タオルで押さえているが、ひどい怪我のようだ。 周囲の人たちはしきりに「誰にやられたのか」とたずねている。
     そうこうしているうちに、彼のケンカ相手らしき30代くらいの男が、すごい形相でやってきて怒鳴り散らしてさらに殴りかかっていく。若い男は体を丸くして必死に耐えている。あたりの人々は黙って険しい表情で見ているだけだ。暴力を振るっている者は、地元のヤクザかチンピラなのだろうか。
     すぐ近くの三叉路のロータリー に、いるはずの(まだ時間が早すぎたのか?)の警官たちがいない。ポリスステー ションもここからすぐ目と鼻の先だというのに。
     こんな具合でドタバタしていたブータンゲート前のバザールだが、ここからバスは定刻の午前7時に出発。私がこの日利用するバス、実はインドのものではない。ブータンのバス会社による運行である。ローカル交通機関もなかなかインターナショナルなこの地域だ。今日の目的地カリンポンまではおよそ6時間の道のりである。
     隣に座ったのはブータン人学生。カリンポンでエンジニアリングカレッジに通っているのだそうだ。ブータンには大学がふたつしかないため競争が激しく、こうしてインドに進学する学生は多いのだそうだ。
     彼の名前はONDAという。日本人によく似た顔立ちのため、漢字で「恩田」という文字が頭に浮かんでくる。同じ学校にオランダ人学生がふたりいるのだそうだ。何を学んでいるのだろうか。家族やガールフレンドの写真だと、カメラ付き携帯電話の画面を見せてくれた。こういう機器の普及は、日本もインドも同時進行である。
     平地では見渡す限りきれいに刈り込まれた茶畑の美しい景色が続く。そして山地に入ってからは、渓谷や眼下を流れる青い流れ。日本のそれとあまり変わらない山の風景となる。 
     川にはニジマスなどがいるのではないだろうか。天気は快晴、日差しがポカポカと暖かく心地よい。何かの仕事でこういうところにしばらく滞在できたらいいなと思う。
    オンダ君はインドで10年近く学んでいるらしいが、この国はあまり好きになれないという。「不正直な人が多いし、なにかとゴタゴタが多いし、町中の人々のマナーも悪い。とにかく疲れるね」とのこと。
     またブータン人の間にはインドに対して複雑な感情があるのだともいう。ひとつはさまざまなものがやってくる先進地であり、ファッションなどの影響も大きい。しかし政治的にインドに首根っこを押さえられているため反発も少なくないという。圧倒的なスケールを持つ大国に従属国する小国の弱みであろう。
     だがよくよく話してみればボリウッド映画ファンにしてクリケット狂の彼にとって、インドでの学生生活はまんざらではないようでちょっと安心した。
     途中ストップしたドライブインで、彼とダール、ナーンそして魚のフライの昼食。オンダ君の父親はバスやタクシーなどのオーナーだそうだ。彼はときどき帰郷しては、外国人相手のツアーガイドのアルバイトをしているとのこと。チップがけっこういい収入になるのだという。
     その後、山地に入りときにゆるやかでときに険しい坂道をバスは進む。カリンポンが近くなると、英語の看板でナントカリゾートとかナントカロッジ、ゲストハウスホテルなどといった看板がいくつも見えてきた。

  • 目の前はブータン 5 早朝のアザーン

     ホテルの裏手ではかなり大きなモスクの建築工事が進行中であった。他にもいくつか作りかけのモスクがあることから、この新興地ジャイガオンにもムスリム人口が急速に相当数流入していることをうかがわせる。
     今朝は午前5時過ぎに近所のモスクから信者の人々へサラート(礼拝)を呼びかけるアザーンの大音響で目覚めた。イスラーム教徒たちは集住していることが多いものの、都市部ではかなり入り組んでいたりするし、ムスリム地区に隣接する他コミュニティの住宅地域だってある。大まかにムスリム地区とくくられるとこにあっても、すべての住民がそうであるとはいえない。 非ムスリムの人も幼いころからそうした環境の中で暮らしていれば、ごく当たり前の生活音として慣れっこになっているかもしれないし、インドには朝早い人が多い(?)ので、ちょうど目覚まし代わりになって便利なところもあるかもしれない
     しかし不幸にしてそう思わない人々もあるかと思う。近隣にモスクがない場所に生活してきた人が引っ越してくると、「何だ、こりゃ!」ということになるのではないだろうか。 
     特に出自、信仰、出身地の違う人々が混住する都会にあって、コミュニティ間の距離感というか、ある種の緊張感というものには、こうした音に由来するものも少なからずあるのではないだろうか。そうでなくても『音』というものは、どこの国にあっても住民間のトラブルの原因の最たるもののひとつなのだから。
     それはともかく、アザーンの呼びかけにスピーカーを使用するようになったのは20世紀前半あたりではないかと思うのだが、そもそも一番はじめにこれを始めた地域は一体どこだったのだろうか。古来ずっと行なわれてきたムアッジン(アザーンを行なう人)の肉声を電気的に拡大することについての是非をめぐる議論も、きっとどこかであったのではないかと想像しているのだが、実際のところどうなのだろう。どなたか詳しい方があればぜひ教えていただきたいと思う。