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カテゴリー: society

  • スーラト4 パールスィーの病院その他の施設

    スーラト4 パールスィーの病院その他の施設

    先日取り上げたモーディー・アーターシュ・ベヘラーム界隈は、パールスィー地区となっている。

    社会事業、慈善事業が盛んなパールスィーのコミュニティー。このエリアには彼らが建てた病院もあるのだ。古ぼけているが建物を見れば開業した150年前には当時としては高い水準の立派なものであったことが容易に想像できる。街で最初の西洋式総合病院であったのではなかろうか。

    幸い、ここで事務職として働いている人と知り合い、中を簡単に案内してもらうことができた。立派な建物とはいえ、すっかり古ぼけており、今では地域の先進的な病院というわけではないことは一見してわかる。敷地内には職員や医師のための居住施設もある。

    病院から見て道路を挟んで向かい側のブロックは、まるごとパールスィーコミュニティーの施設。ゾロアスター教寺院(先日取り上げたモーディー・アーターシュ・ベヘラーム)、パールスィーのパンチャーヤト(顔役たちの寄り合いというか理事会というか)、パールスィー学校、そして孤児院が入っている。

    パールスィーのパンチャーヤトの建物
    パールスィーの学校
    こちらの建物には孤児院が入っている。

    学校については今やスーラトのパールスィー人口はとても少ないので大半が英語での教育を求めるヒンドゥーその他のコミュニティーの子供たちだそうだ。孤児院については完全にコミュニティー外の地域社会への奉仕事業。

    インドで他に栄えた外来コミュニティー、ユダヤ人、アルメニア人も植民地体制下では支配する側との太いパイプを築き、白人側に深くコミットする人材を輩出した。その中でパールスィーに特徴的だったのは、地元社会へも富を厚く還元することにより、白人の支配層と親密な関係を築きつつも、インド人たちをも敵に回さなかったことだ。

    インド独立ともに立場の悪くなったユダヤ人、後ろ盾を失ったアルメニア人たちの多くはインドを去るが、パールスィー資本は、インド独立をバックアップし続けてくれた愛国資本として、新生インドの体制下で引き続き発展を続けていく。

    実は植民地体制で英国を始めとする支配層の買弁として暗躍したことには変わりはないのだが、世の中か大転換する前から、ちゃんと「保険をかけてあった」とも言える。

    また、ムスリム勢力に追われたパールスィーの先祖たちが現在グジャラート州となっている地域に定住するにあたり、当時の地元の王にパールスィーの統率者が交わした誓い(布教せず、そして新たな母国に尽くす)を守り続けているとも言えるかもしれない。

    パールスィー所有の古い家屋。趣のある建物であることが多い。
  • スーラト3  墓場も面白いインド

    スーラト3 墓場も面白いインド

    これらの風景を目にして、何の遺跡と思われるだろうか。
    実は、「英国人墓地」なのだ。

    場所はスーラト。東インド会社が拠点とした港町のひとつ。私が確認できた、この墓地で最も新しい墓標が1850年のものであったので、まさに英国政府による統治に移行する前、東インド会社が支配した、いわゆる「カンパニー時代」の英国人墓地。墓標を見たところでは、大半は東インド会社軍の軍人とその家族たち。

    そのあたりまでは、英国人でも改宗してヒンドゥーになって、毎朝沐浴したり、プージャーをしたりする後の時代のヒッピー的な英国人も少なからずいたと聞く。
    もちろん、高級官僚やエリートコースに乗っている英国人は、その限りではなかったとはいえ、それ以外で何かしら縁あってインドに渡ることになった、あんまり堅苦しくなくてカジュアルな英国人たちの中には、自国と違う気候、文化、食事の中で戸惑いつつも、「インドってすげー!」と、すっかり感化されてしまう人たちが後を絶たなかったらしい。

    それはそうだろう。今の私たちでも「インドってすごい!」と感嘆しているのだから。当時、「ツイッター」「Facebook」等があったら、彼らのオドロキやインドへの憧憬が多々綴られていたはずだ。
    だが当時の人々は、相当な知識人でもない限り、いわゆる日記のようなものをしたためる習慣もなかったので、現代に生きる私たちが、当時のインドの市井の人たちの日常の喜怒哀楽を知るのは容易なことではない。

    「インドかぶれ」については、1857年の大反乱以降の英国当局による綱紀粛正により、いわゆる当時でいうところの「ネイティヴ(インド人)」と英国人の間の「けじめ」のようなものが徹底されることになった。そのため、墓地についても、その後のものは、このような墓地ではなく、英国人らしいものとなっている。19世紀と20世紀を境にして、「アングロ・インディアン」を示す意味が、「インドで生まれた英国人」から「英印混血の人」と変化していったのには、こうした背景もあるに違いない。

    インドという国は、ごく平凡に観光していても、実に興味深い事柄に満ちているのだ。こんな国は広い世界を見渡しても、他に無いだろう。各地の英国人墓地を巡るだけでも、実は大変面白いインドなのだ。

    〈続く〉

  • FRANKEN WATCH

    FRANKEN WATCH

    「フランケン・ウォッチ」なる聞き慣れない言葉を耳にしたのは、先日デリーの時計店でのことである。その数日前に私が他の店で購入した時計を見た時計店主が言う。
    「面白いデザインだが、フランケン・ウオッチだね。」

    彼が言うにはこういうことだった。
    「HMTはかつてインドのマーケットシェアの大半を占めていたので、あちこちにパーツの在庫がたくさんあった。出回っているモデルの大半が共通の規格で造られていたので、これらをアセンブルしたうえで、オリジナルとは異なる文字盤を作成して売ることは容易だ。時計メーカーHMTがなくなった今でもそういう在庫はあるところにはある。もちろん、中古時計、破損した時計から利用できるパーツを取り出すこともある。」

    もともと高価な時計ではないため、ボディーやムーブメントもHMT社製であることがほとんどだが、出荷されたときと同じ状態ではない、オリジナルのラインナップにはなかった変造版がけっこう出回っており、外観は新しくても中身はポンコツのムーブメントということもあるとのこと。

    ちなみに「フランケン・ウオッチ」という言葉は、腕時計コレクターの間では、ごく普通に使われているもので、クラシック時計の変造品や偽物のことを指すそうだ。
    先日、HMTマニア(インドにはそういう人たちがいるのだ)たちのフォーラムに、この写真を上げてみたら、やはり「これはフランケンである」という回答が出てきた。
    残念な回答ではあったが、コレクターではない私自身は、オリジナルにこだわる必要はなく、デザインさえ気に入ればオリジナルだろうが、フランケンだろうがどちらでも良いのだ、と思い直すことにした。

    ・・・とはいえ、自宅に十数個あるHMT時計を改めてみると、もう30年前に購入したもの、20年くらいになるものなどは、今でも正確に時を刻む。1週間、半月経ってもズレはなかったりする。設計は古くてもさすが日本のシチズンのインドにおけるライセンス生産品だ。

    それに較べると5月にいくつか購入した「HMT Pilotブランドの」「フランケン・ウォッチ」らしきものは、精度がいまひとつだ。やはりアセンブルや調整いかんで、こういうものはズレが生じるのかもしれない。
    リンク先の動画の内容に従えばオリジナルと判断できる30年来の時計は大変正確なので、やはり往年のHMTというのは、なかなか偉大な時計メーカーであったようだ。

    Original vs Franken HMT Pilot watch(Youtube)

    ※「スーラト3」は後日掲載します。

  • スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー

    スーラト2 ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー




    ダルガー・ハズラト・クワジャー・ダーナー(Dargah Hazrat Khwaja Dana)に参拝。あまり建物としては取り立てて素晴らしいということもないのだが、やはり佇まいであったり、隣に広い墓地があったりするのがダルガーらしいところだ。
    不思議だったのはその墓地だが、もっと沢山ぎっしりと墓があってもおかしくないのだが、かなりまばらなことだ。こういうところに埋葬できる期限でもあるのだろうか。またここに埋葬した場合、定期的に徴収されるお金はあるかと思うが、どういう名目でいくらくらい支払うのだろうか。

    〈続く〉

  • スーラト1  モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    スーラト1 モーディー・アーターシュ・ベヘラーム

    濁った海水の上のさざ波と黒々とした砂州というか干潟というか・・・が大きく広がっている。その黒い砂州には塩田もあり、砂鉄分ともヘドロともつかない土壌の上で作られる塩のミネラル分だか有機分を思うと、工場でケミカルに作られたもののほうがちょっとはマシかねぇ?などとぼんやり思っているうちに、飛行機はスーラト空港のランウェイに滑り込む。

    スーラトの空港に到着

    スーラトの街は想像以上の大都会だった。しかも豊かで華やか。街自体や建物の造りも大きく、まるでムンバイあたりに来たかのような気さえする。先進的だ。

    94年にペストが発生して50名以上が亡くなったり、700名にも及ぶ人々が感染したりするという出来事が起きたのはこの街だったため、なんとなく「物凄く不潔な街」という先入観が刷り込まれていたのだが、このパリッとした清潔感は一体なんだ?とひっくり返りそうになる。

    スーラトの宿泊先

    宿からオートでモーディー・アーターシュ・ベヘラームへ。オートの運転手は、パールスィーの人たちが礼拝から戻るときの姿を見て、ムスリムだかパールスィーだかよくわからないようで、「ありゃ、これはマスジッドかな?いやアーターシュ・ベヘラームと書いてあるからパールスィー寺院だ。」などといっている。確かに装いは見た目似ているし、これがオールドデリーなどだったら、この姿を見るとムスリムであると認識されるだろう。

    ちょうど着いたところでバールスィーの参拝客の人たちが出てくるところであったので、少し話をしてみる。パールスィーの女性たちの中には信じられないくらい美しい人がいる。今日の女性もそうだった。パールスィーでない相手と結婚するとパールスィーではなくなってしまうため、物理的にパールスィーの人たちにはイラン系の形質が引き継がれていくことになる。そのためとりわけ数人集まっていると、パールスィーであることがまちがいないことが見てとれる。ここもまたパールスィーでないと入ることはできないのだが、敷地入口のところまでは入れるので、そこから首を伸ばして敷地内を覗いてみる。

    〈続く〉

  • バスタル観光の今後

    その後もいくつかのハートを回ってみた。どのハートも曜日を違えて週1回の割合で開催されているため、毎日違うハートを見学することは可能だし、品物を売りに行く人たちもそのように複数のハートに出入りしていることは多いようだ。例の青空バーの美人ママも毎週いくつかのハートをかけ持ちしていると聞いた。

    ハートにやってくる独自の装いの部族の人たち。装身具は独特のものが多いが、衣類については、まとい方や着衣の色の傾向は部族独自のものがあるものの、その衣自体は大量生産されて、特に安くマーケットに出回っているポリエステル製のサーリーを使って独自のまとい方をしたり、一部加工して着たりしているようだ。

    昔は部族がそれぞれの村で衣類を作っていたようですが、やはり工業化が進むと安い化繊がたくさん出回るようになるため、部族が手間暇かけて作っていたものは駆逐されてしまうのだろう。これは部族に限ったことではない。

    部族以外、一般の人たちの間でも、かつてはサーリーの柄や模様で地域やカーストが判ってしまう(ラージャスターンやグジャラートなどでは特に)ものであったのが、今は地域やコミュニティーの特色を排したニュートラルな柄が大手メーカーから大量に市場に投入されているため、サーリーを見て「この人は××地域の××コミュニティーの人だ」と言うことはまずできなくなっている。

    またそのサーリーにしてみたところで、今は洋装や「パンジャービー」と俗称されるシャルワール・カミーズ(元々はこれを着る習慣のなかった地域にも広く普及してしまっています)に取って変わられているので、サーリーを着た女性を見かける機会さえも、とても減っている。

    そんなわけで、かつては「着るものはその人の出自を示す」と言われていたインドにおける装いだが、今はあまりそういう意味合いがかなり薄くなっている。

    アーディワースィーの人たちの衣装が前述のようになっている以上、彼らが洋装やパンジャービーを着てハートに出てくる日はそう遠くないだろう。とりわけ若い人たちについては。

    その一方で、今後バスタルが観光で注目されるようになってくると、敢えて伝統的な装いでハートにやってきて、お金を取って写真を取らせて収入の足しにするというようなケースも出てくるだろう。まさにそのために伝統的衣装が復活するという皮肉なことが起きるかもしれない。

    すくなくとも今回私がハートをいくつか回ってみた中では、外国人はもちろんインド人観光客の姿さえ見かけない。ごく当たり前に村から出てきた先住民たちが必要な日用品を得るための場であり村の産物で現金収入を得るための機会、その他の住民にとっては定期市に来る先住民相手に収入を得るチャンス以外の何物でもなく、そこに観光の要素が入る余地さえないように見える。そういう意味では、現在までのところのバスタルのハートは大変貴重なものだ。

    でもこの状況は、今後バスタルが観光化されていく中で、避けられない近未来のこととなると予想される。インドは他にも観光地がたくさんあり、バスタルは「マオイスト」の活動でイメージが良くないため、一気に観光化されることはないにしても、そういう危惧があることは間違いない。

    先住民が占める人口が4割近いこと、インフラの整備が遅れているため、村々でこうした定期市(ハート)の開催が必要であることは今後も変わらないはず。そこに観光化の進展が与えるインパクトは大きなものになるだろう。竹を収穫して加工して裁断して組み上げるという大きな手間をかけて30Rsにしかならないが、伝統的衣装を若い娘さんに着せて、それで写真撮らせればそれくらいの金額が数秒で手にできるわけだが、である。
    また、足にはめるニッケルの輪は、ただ付けていても何の現金収入ももたらしませんが、観光客に売れば、気前の良い人なら500ルピー、1000ルピーくれるかもしれない。

    まぁ、今のところはハートで売り買いする先住民と彼らを相手にする地元の小さな行商人以外は来ていないようで、私たち外国人は、ただの闖入者に過ぎないのだが。

    外国人観光客の訪問が増えてきたら、私が部族の村人であれば「今どきの娘たちは昔のアクセサリー付けたがらないからなあ。家で寝かせていても仕方がないから、ハートにやってくる外人来ていたら声かけてみようか?いくら払ってくれるかなぁ?」とか、「嫁さんのネックレス、売り払うわけにはいかないけど、似たようなのを作れば外人さん買ってくれないかなぁ?今度村の鍛冶屋に安手のやつを頼んでみよう」などと、いろいろ考えることだろう。

  • 部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    部族の村とハート(4) ハートの眺めあれこれ

    通常のインドのマーケットと異なり、品物をドカッと積んで量り売りするのではなく、小さな山にして並べている。先住民の人たちの間で度量衡の感覚がないため、「ひと山でいくら」とするのがわかり易いためとのこと。
    稀にハカリでキロ売りしている人もいるが、それは近年出てきた「新しいやり方」とのことで、まだまだ一般的ではないそうだ。








    部族の女性たちのアンクレットが面白い。ニッケルコインを溶かして作るのだそうです。まだ子供のうちからはめるそうで、当然成長していくと外れなくなる。

    テラコッタの鍋、かまど、炊飯用の釜などを売る部族の女性たち。今のようにアルミやステンレスの厨房用品が出回るまでは、すべてこうした調理器具であったとのこと。そして皿も木の葉を編んだものが使われていたとのことで、身の回りのものすべてが「すぐに、あるいはやがて土に還る」ものであったそうだ。


    こちらは、マフア(という名前の木の花)の蒸留酒を作るための道具。

    謎の干物状のものはタバコとのこと。

    特大のカゴは穀類の貯蔵のために使われる。




    村から何十キロも歩いてハートに到着したおばちゃんたち。こうした部族の人たちは20kmとか30km以上離れたところからも徒歩で荷物を持って来ているとのこと。強靭な肉体を持つ人たちだ。

    この地域の部族の人たちのハートで特徴的なことのひとつに、チャープラーと呼ばれる赤アリとその卵が食用にされることがある。どこのハートに出かけても、葉っぱの皿の上に山盛りになっているのを目にすることができる。


    またドークラー(ロストワックス鋳造)の神や動物の像も地域の特産品のひとつだ。

    2000年11月にマディヤ・プラデーシュ州から分離したチャッティースガル州だが、その南部に位置するバスタル地方は、隣接するオリッサ州西部とともに、部族の人々が占める割合が高く、独自のカラーが強い地域だ。
    〈完〉

  • 部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール

    部族の村とハート(3) ナングールとナンガルナール


    バスタルは、ヒンディー語圏であるチャッティースガル州にあるため、部族の人たちは身内ではそれぞれの部族語で会話しているとはいえ、ハートに出てきている人たちの間で個人差は大きいものの、ヒンディー語でコミュニケーションするのに困ることはあまりない。

    部族の人たちの装身具

    ガイドのAさんと私はヒンディー語で話している(Aさんは流暢な英語も話す)が、彼がいてありがたいのは、ゴンディーその他の部族語への通訳という意味ではなく、地元の文化や習慣に通じているがゆえに、私ひとりで訪れていると、「フレンドリーだった」「カラフルだった」で終わってしまい、気付かなかったであろうことについて、細かくレクチャーを受けられることだ。それにより、不思議かつエキゾチックに感じられたものが、合理的かつ現実的なものとして理解できるようになることだ。
    サゴヤシの樹液の発酵酒サルフィーが入っている。


    ハートに来ている人たちの部族名、居住地域なども教えてもらうことにより、具体的にどういう分布をしているのか、どういう傾向を持つ人たちなのか、なんとなくイメージできるようにもなる。

    例えばこういう眺めである。どこのハート(定期市)にも必ずいるこういう人たち。

    普段、村では手に入らないモノをハートで買うわけなので、現金が必要となるわけだが、地べたに野菜やカゴを並べて販売する人たち以外に、穀類、野蚕の繭などを持参して、こうした仲買人に販売して現金を得るケースも多い。ちょうど私たちが日本から外国に渡航して、とりあえず到着した国の通貨を両替するのに近いイメージだろうか。ハートにおいて、穀類や野蚕の繭は相場が決まっていることから、通貨に近い性格を持つようだ。部族の人たちがハートで買う日用品として大切なものとして、工業製品以外に塩があるとのこと。村では採れないからだ。
    野蚕の繭


    ナングールのハートで、誰かが私のことを呼んでいる。ガイドのAさん以外は私のことを知っている人はいないはずなのだが、振り向いてみると、先日ダルバーのハートの青空バーにいた美人ママさんであった。ご主人は運転手で三児の母だが、週に幾度かハートで酒を売っているとのことだ。

    マーケットはすでに始まっている時間帯だが、まだまだ品物を運び込んでいる部族の人たちは多い。縦に長く行列してハートの広場に入ってくる女性たちがいた。軍隊的に規律正しく見えるのだが、そういう訳ではなく、居住地としているジャングルの中の小道を通るときの動きがそのまま習慣となっているとのことで、確かに横に広がることなく縦一列で移動している人たちは少なくなかった。この人たちを含めて、インドらしからぬ装いと風貌の部族の人たちは多い。

    工業化と大量生産された衣類の低廉化の流れの中、インド各地の衣類の民族色が薄れているのは、チャッティースガルの部族の人たちも同じ。マーケットで安く入手できるサーリーの布を自分たちのやり方で身にまとっている。こういう時代になる前には、もっと異なるいでたちであったことだろう。




    本日もうひとつの訪問先のハートが開かれるナンガルナール村近くの光景。巨大な製鉄所がある。先住民たちの土地をほぼ強制的に収容して得た広大な土地に、民間企業であるターター製鉄に安く譲渡して建てさせたそうで、同義上も手続き上もかなり問題の施設なのだとか。
    民間大資本による製鉄所

    このナンガルナール村は、バトラー(Bhatra)族が主体の村。この若い女性もバトラー族だが、25kmくらい離れたところから重い荷物を持って山道を30kmくらい歩いて定期市(ハート)までやってきたそうだ。


    バトラー族の男性はやや大柄で精悍な顔立ちの人が多く、頭の被り物がなかなかいなせだ。女性もまた豹を思わせるような強靭な感じがする人が少なくない。彼らの装いもまたインドらしくない。ノーズリングは左右両側につけるのがバトラー族の流儀とのこと。











    〈続く〉

  • 部族の村とハート(1) ドゥルワー族の村

    部族の村とハート(1) ドゥルワー族の村

    この日は地元で長年、主に部族の村やハート(定期市)に関するガイドをしているAさんに案内を依頼した。

    朝9時にホテルを出発してマルヴィーパダル(Mavlipadar)村に行く。ここにはドゥルワー(Dhulva)族の村で、Aさんの昔からの家族同然の付き合いだという人の家に立ち寄る。

    家の外壁は石積みであることが多い。

    Aさんはムスリムでジャグダルプルの育ちだが、いろいろな部族の言葉で会話することができ、訪れる先の村やハートに品物を出している人たちの中にも彼の知己が多い。彼の父親の仕事の関係で、さまざまなアーディワースィーの人たちとの交流が幼少時から多かったことが背景にあるそうだ。

    この地域の部族民たちの言葉はいろいろあるのだが、その中で優勢で広く通用するゴンディー語の挨拶「ジョーハール(Johar)」というのを覚えた。「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」など、いろいろ使えて便利なようだ。

    その「家族同然」という人は、Aさんよりも一世代上の人なのだが、彼は夫と子のある女性と恋に落ちて、そのまま結婚することなく所帯を持ったとのこと。そういうケースはここの先住民の中では珍しいことではなく、それで色眼鏡で見られたり人付き合いに支障をきたしたりということもないそうだ。男女の関係についてはオープンであり、男女間の上下もないとのこと。そういう社会がインドのヒンドゥー教徒の大海に囲まれた中にあるというのは興味深い。

    当人はせっせとカゴを作っていたが実にうまいもので、見ている前でどんどん仕上げていく。ハートで売ると、ひとつ30Rsの収入となるのだそうだ。家の前は畑になっており野菜を栽培しているが自家消費用。現金収入はとても少ないが、かといって生活に困ることはないらしい。

    器用にカゴを編み上げていく。
    カゴを作るための下準備
    家の前は畑

    村の中ではサゴヤシが生えている家があり、上のほうに樹液を取るための壺がかかっている。採取してから数時間で発酵して弱い酒ができるのだそうだ。これもまたハートでよく売られている。この酒をサルフィーと呼ぶ。

    ここの部族の村で不思議なのは乳製品を摂取する習慣がないとのこと。それでチャーイもブラックティーとなる。理由は動物の乳は、牛でもヤギでも、それぞれ牛やヤギの赤ん坊が飲むべきもので人間が飲むものではないという考えとのことだそうだ。

    〈続く〉

  • Darbha村の定期市(ハート)

    Darbha村の定期市(ハート)

    村から品物を運んでくるアーディワースィーの人たち
    同じ村の人たちとジープをチャーターしたりもする。

    バスタル地方といえば、カラフルなハート(定期市)で知られるが、だいたい大きなスペースに屋根や幌が張られているところで工業製品、野菜、軽食などを商うのは町の人。

    そのまま何もないところにムシロを広げて野菜、竹のザルやカゴ、手作りのホウキ、酒、野蚕の繭など村の産品を売るのは先住民が多い。どちらも近くに集まって商っており、先住民とのその他の市民が隣り合って商売しているという図はなかなかないし、アーディワースィー(先住民)が屋根や幌の下で何かを売っているというのもないようだ。きちんとしたマーケットプレースの場所で商売するのが普通の市民、先住民はその脇や空き地で物を売るといった棲み分けになっているらしい。

    野蚕の繭

    生鮮食品でも町の人たちとアーディワースィーの人たちが売るものには違いがある。私たちに馴染み深く、大量に栽培・収穫できる野菜類などを沢山積み上げて売るのは町の人たち。商業作物としてあまり栽培されない野菜についてはアーディワースィーの人たちが扱っているようだ。

    町の人たちが売る野菜

    アーディワースィーの人たちが売る野菜

    魚類については、大きな鮮魚類は町の人たち、小魚などの干物はアーディワースィーといった具合だ。

    町の人たちは鮮魚を売る。

    アーディワースィーの人たちは小さな魚の干物を売る。

    マフアの花から造った地酒マフア、米から醸造したドブロクみたいなのを売っているのは女性たち。こうした「青空バー」は、地域の様々な村からやってきたアーディワースィーの男たちの社交場となる。ちょっとした美人ママのところにそうしたお客たちが集まるのは、いずこも変わらないようだ。

    青空バー
    米から造ったドブロク
    こちらはマフアーの花。これを使ってマフアーの酒が造られる。
    マフアーの酒を売る美人ママ
  • ティーラトガルの滝

    ティーラトガルの滝

    ジャグダルプルを出てからしばらくの間は良い道路が続く。昔ながらのインドの幹線道路では、これよりもっと大きく天を突くような大木が道路両側に等間隔で並んでおり、スケールの大きな景観を提供していた。中央アジア地域や中国の新疆でも道路両側に大きなポプラ並木が見られるが、樹木の種類は違えども、目的は同じだろう。緑のトンネルが遮光して往来する車両や人を強烈な日差しから守る、交通にかかる「インフラ」のひとつであった。

    英領期から計画的に植えられてきたものだが、モータリゼーションの大衆化、物流の大量化、高速化に伴い、全国各地で幹線道路が複数車線化していく中で、当然こうした国道沿いの緑のトンネルは急速に姿を消している。おそらくパキスタンやバングラデシュでも同様だろう。幹線道路脇の並木は伐採されて、道路幅が拡張されていくのだ。

    やがて周囲は森となり、勾配のある山道となってくる。こういう眺めを目の前にすると、マオイストが潜んでいるのはそういう地域なのだろうかと想像する。バスタルは「チャッティースガルのカシミール」などとも表現されることがあるが、高度がありスイスのような景観のカシミールとでは、美しさが異なる。

    マオイストたちはこんな具合の森に潜んでいるが、夏季にはマラリアに大変苦しめられるという。

    この地域ではやたらとサルが多い。ニホンザルの近縁のアカゲザルである。私には区別さえつかない。これほどたくさんいたら、このエリアを徒歩で行くのはかなり危険であろう。これは滝に着いても同様で、周囲にはサルがとても多かった。

    やたらとサルが多い。

    さて、そのティーラトガルの滝だが、天然の階段状になった小高い斜面を流れ落ちるという視覚的に面白いものはあるのだが、格別といえるような風情や眺めがあるわけではなかった。この日の目的地は他にあり、ここは途中で立ち寄っただけなのだが、もしここに期待して訪れていたら、かなりガックリきていたかもしれない。

    滝の近くのマーケットで売られていたみやげ類
    いまひとつパッとしない。
  • ダンテーシュワリー寺院

    ダンテーシュワリー寺院

    バスタル地方のダンテーワーダーの町にあるダンテーシュワリー寺院。シャンキニー川とダンキニー川のサンガム(合流点)にあるこの名刹は、秋に全インドで祝われるダシェーラー祭の中でも、その盛大さと祝う期間の長さは格別であることで広く知られる「バスタルのダシェーラー」の中心地のひとつでもある。

    お寺によって外国人はお断り(全国的にところどころにある)とか、上半身裸で下は白のドーティーを着ないとダメ(ケララの某寺院)とか、女人禁制(カルナータカのサバリマラ寺院が代表的)いろいろローカルルールがあるお寺は珍しくはない。
    このダンテーシュワリー寺院は、男性は白のドーティーかサフラン色のルンギーを着用するようにというローカルルールがある。

    それを知らずに行列して、寺院最奥内陣の御本尊であるダンテーシュワリー女神の神像の前までたどり着き、手を合わせたところで、参拝客たちにプラサード(参拝者たちに手渡されるもの。通常コンペイトウ的な糖菓子少々であることが多い)を手渡しているプージャーリー(司祭)に、咎められ「履き替えて出直し」を命じられる。
    ドーティーあるいはルンギーについては、入口にある靴預けのところで借りることか出来るとのこと。

    他の地域からやってきたインド人たちの中にも、私のようなミスをしてしまった人たちがいた。ローカルルールというものは、よそ者にはなかなか判りづらいものがある。