オーム・シャーンティ・オーム(2007年公開)が、「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」と題して、3月16日から東京渋谷のシネマライズおよび大阪梅田のシネ・リーブル梅田にて上映される。
今世紀に入ってからのボリウッド映画で最高クラスのひとつであるとともに、子連れでも安心して楽しむことができる作品でもある。より多くの方々に観賞してもらい、感動・感激をシェアしていただきたいと思う。

オーム・シャーンティ・オーム(2007年公開)が、「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」と題して、3月16日から東京渋谷のシネマライズおよび大阪梅田のシネ・リーブル梅田にて上映される。
今世紀に入ってからのボリウッド映画で最高クラスのひとつであるとともに、子連れでも安心して楽しむことができる作品でもある。より多くの方々に観賞してもらい、感動・感激をシェアしていただきたいと思う。

コールカーターでは必ず早起きして中華朝市に出かけることにしている。ラール・バーザール近くで旧ユダヤ人地区にも近い場所のかつての中華街(といっても往時の繁栄は見る影もないが)で毎朝夜明けとともに開かれている。タクシーで乗り付けるならば、Lu Shun Saraniの中華朝市と言えば、運転手はすぐに判ってくれるはずだ。
中華朝市では豚肉入りの肉まんを食べた。この旧中華街は、現在では事実上のイスラーム地区となっており、中華系の人が営む店で働くムスリムたちも多いのだが、そういうものも売られている。朝食をつまみに出てくる華人たちの姿もあるが、週末ともなると地元カルカッタのインド人たちはもちろんのこと、他州からやってきたインド人観光客たちの姿もある。
いつもどおり、ここで祖父から三代に渡って中華食材・漢方薬の店を開いている客家系のCさんのところに挨拶に出向く。このお店にいると、お客たちはもとより、地元の写真家やジャーナリストたちと出会うことも多く、それもまた楽しい。Cさん自身がおしゃべりでとっつきやすい性格であるということもあるが、コールカーターのチャイナタウンや中華系社会に関する情報通であるため、取材に来るというケースが多い。
ときおり、インドのメディアで取り上げられたり、ジャーナリストが著した本などが出ることはあるものの、地元カルカッタ華人により書かれた、インサイダーとしての立場からの華人コミュニティ史の書籍は存在しないようだ。
多くの語るべきものがあり、文化面でも歴史面でも貴重なものであるはずだけに、残念なことだ。今の時代を謳歌して繁栄している状態であれば、そういうものを書いたり、書かれたものを編纂したりということが起きてくるのだろうが、すでに衰退してしまったコミュニティの場合は、なかなかそういう風にはいかないようだ。この地域にいくつかある、華人たちの出身地ごとの同郷会館には、この方面についておそらく大変貴重な資料が眠っているのではなかろうか。これから更に世代を継いでいくに従い、コールカーター華人史が当人たちによって書かれる機会はますますなくなってくるはず。相変わらず、華人たちのインド国外への流出は多いということもある。
この街からカナダに移住した華人たちは多く、「インド華僑」のアソシエーションがあるくらいなので、カナダから遠い故郷を想う書き手が出てくることはあるかもしれないが。

ラヴァングラーの町からYundrung Kundraklingというボン教の寺院を訪れた。スィッキムでは唯一のボン教寺院であるとのこと。
見た目はチベット仏教の寺院と同様に見えるため、そう言われなければ気がつかない。入口のところにチョルテンがあるのも同じ。寺院建築や中の壁画はもちろんのこと、祭壇や堂内の様子、タンカ、高僧の高い席も似たような感じである。宗教用具も共用しているものが多いのではなかろうか。僧侶の装いも似ている。
チベット仏教自体がボン教の強い影響を受けているが、同様にボン教もチベット仏教の影響を多く受けているためではないかと思う。ともあれボン教の寺院を訪問するのは初めてであったため、非常に新鮮な体験であった。寺院は小さいものの、いろいろと感じるものがある。やはり来て良かった。寺院内ではボン教に関する資料(100Rs)が頒布されており、一部購入した。
ボン教寺院からラヴァングラーに戻り、坂道を登ってブッダ・パークに出る。ここはラヴァングラーの新しい名所となることが期待されている。今年3月にここを訪問するダライ・ラマによる大仏の開眼式が執り行われることになっており、これをもってこのブッダ・パークが開園することになる。現在はすでに園内はほぼ完成しているようだが、開眼式までは大仏には目隠しがなされている。
新しい宗教モニュメントにはあまり関心はないのだが、よくよく考えてみるまでもなく、どんなに由緒ある寺院等であっても、出来立てのホヤホヤの時代もあったわけで、その後歴史を刻んでいくことになる。
こんな小さな町の割には、ずいぶん大掛かりでしっかりしたものを造ったものだと驚かされてしまう。資金やアイデアはどこから来たのかといえば、当然町の外のどこかに違いないはずで、このブッダ・パーク建立の背景には大きな政治経済力学があるに違いないと見るのが当然だ。スィッキム州政府の先導のもとに、地元仏教界、その他の有力者等の綱引き等があったようだが、どちらかというと施設そのものよりも、そちらのほうに興味がいってしまう。














2001年の国会議事堂襲撃事件に関わったかどで収監されていたアフザル・グル死刑囚に対する絞首刑が執行されたのは今月9日の朝。デリーのティハール刑務所で処刑され、同刑務所内に埋葬された。事件から11年2か月後であった。
この事件によってエスカレートした緊張は、南アジアの事実上の核保有国同士が睨み合う、世界最初の核戦争まで一発触発の危険が揶揄されるまでに至り、日本その他の国の政府が自国民をインド・パキスタン両国からの退去を促す事態にまで発展した。
Afzal Guru hanged in secrecy, buried in Tihar Jail (The Hindu)
今月21日にアーンドラ・プラデーシュ州都ハイデラーバードで起きた連続爆破テロとアフザル・グルの処刑に関する関連性の可能性を指摘する声も一部ではある。
Hyderabad Blasts and Afzal Guru hanging link a mere sham? (One India News)
処刑は国内外で波紋を呼ぶことになったが、とりわけこの件によるインパクトが大きかったのはアフザル・グルの故郷カシミールであり、反政府活動の活発化の強い兆しが見られるようになっている。
近年は情勢が沈静化しつつあり、騒乱が始まった1980年代後半以前の主要産業であった観光業の復興の確かな進展がみられつつあった中、今後の成り行きが心配されているところである。
Afzal Guru’s secret execution raises concerns in India (DAWN.COM ※パーキスターン)
The hanging of Afzal Guru is a stain on India’s democracy (The Guardian ※イギリス)
カシミールのインドからの分離要求運動は、当局による逮捕、拘禁、投獄等の恐怖を前にしても怯むことのない活動家たちによって支えられている。もちろんその背後には、外国、つまりパーキスターンのISIや同国を本拠地とする原理主義過激派団体のサポートがあることはよく知られているものの、地元に暮らす人々多数が支持・共感する運動であるがゆえに政府の弾圧を乗り越えて継続されているわけでもある。
マハトマー・ガーンディーが中心となって率いた、イギリスからの独立運動の中で、ガーンディー翁自身も含めて多数の活動家たちが当時の政府当局に拘束され、投獄され、場合によっては命を落としたりしながらも、運動は粘り強く継続されていき、独立を手にするという輝かしい歴史と経験を持つインド自身の過去が、現在のカシミールという土地やそこに暮らす人々の痛みと苦しみと重なるように思われてならない。
テロや暴力を肯定するわけではないが、アフザル・グルの処刑はカシミールの分離を支持する人たちにとって、1929年4月に国会議事堂で爆弾を投げて「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)」を叫んで逮捕・収監され、1931年3月にラーホールの刑務所で処刑されたバガット・スィンのイメージと近似したものになるような気がしてしまう。
将来、カシミールがインドから分離独立ないしはパーキスターン側に編入されるようなことは決して有り得ないと私は信じている。それでも、万が一そのような時代がやってくるようなことがあれば、国会議事堂襲撃事件を後方支援したとされるアフザル・グルならびに襲撃実行犯たちは、故郷カシミールのインドからの分離のために自らを捨石とした憂国の志士として、祀り上げられることになるのだろう。
だが民族自決のために血で血を洗うような抗争がこの世にあってよいものなのか、私は大いに疑問である。とりわけインドのような民主主義国家にあっては、「共和国」の名に恥じない平和的な解決がなされることを望みたい。
「外国からの干渉」により、カシミールの政情不安が20数年間も続いているということは、問題の解決を強権による解決を求めた当局の大失態であり「世界最大の民主主義」の至らない部分にツケ込んだ隣国に足をすくわれてしまった結果であるともいえる。
「独立の志士」を生むことなく、異なる土壌に暮らす異なる民族、異なる伝統や信条を持つ人たちが、それぞれ異なる夢を抱きながら、共存・共栄していくことができる平和なカシミール地方を築いていってもらえるよう切に願いたい。






実に20年以上の年月を経て、スィッキム州を訪問することになった。前回訪れたのは確か5月だった。平地の暑気から離れてホッと一息ついたものだが、今回はその反対。心地よい気候の平地から入ってくると、西ベンガル州の山岳地のダージリンにせよ、スィッキム州にせよ、日が沈んでからの寒さがとてもこたえる。日本の冬と同じような気温とはいえ、基本的に暖房がないので着込むしかない。しんしんと冷え込む中、さっさと寝てしまえばいいのだろうが、日記その他を書いていると寒さが骨身に沁みるような気がする、などと言っては大げさすぎるだろうか。
バケツに温水を溜めて髪と体を洗う。湯を浴びているときはそれなりに気持ちはいいのだが、前後左右から冷気が迫るため、すぐに身体が震えるほど寒くなってくる。バスタオルで全身を拭くころにはすっかり冷え切っていて、即座にカゼを引いてしまいそうなくらいだ。背中から布団や毛布を羽織り、ベッドの上で足を投げ出して座ってしばらく書き物をしていると、膝に載せたノートPCの温もりが心地よく、湯たんぽのような効果があることに気が付く。
夕方以降の室内の寒さは、西日の当たり具合にも左右されるようだ。ガントクでの宿のこの部屋は、午後の陽がまったく当たりないロケーションになっているようで、日没後に外から戻ってくると、室内のほうが寒かったくらいだ。
今回、ガントクの街に着いてみて、果たしてこれが同じ場所なのかと首をひねりたくなるくらいだった。前回の訪問から20年以上の時間が過ぎているため、いろいろと大きく変わるのは当然であるにしても、これほど景観が変わってしまうとは想像もしなかった。何が大きく変わったのかといえば、ガクトクの建物のタイプが昔と根本的に異なっている。州都ガントクの中心部、MGマールグ界隈では、「昔と今」の鮮やかな対象を目にすることができる。


マーケットの中にごくわずかに残る「イグラー」と呼ばれる、スィッキム州独自の木造建築だ。普通、建物は緑色に塗られており、トタンで屋根を葺いた二階建てだ。一階部分は店舗、通常二階は住居や倉庫となっている。前に訪れたときには、州都最大の商業地区MGマールグ沿いの店舗のほとんどは木造のこんなスタイルであった。現在、ガントクではこういう建物で新築する人はいない。斜面の街の限られた土地を有効活用するため、いきおい高層化することになる。建物がローカル色のあるものから、全インド共通のコンクリ柱とレンガで作る普遍的なものに置き換わったこと、加えて高層化により空が狭くなり、昼間でも通りが暗く、往々にして陽当たりも悪くなったといえる。
2011年9月に発生したスィッキム地震の際、斜面という元々地盤の軟弱な土地であることもあり、多かれ少なかれ被害を蒙った建物はかなりあったという話は聞くが、全壊してしまったビルもあったというから恐ろしい。地盤がゆるく、傾斜のきつい場所には不釣り合いなほど高層であったことが災いしたということだ。


それはともかく、MGマールグ界隈では、申し合わせがあるのか、それとも条例で定められているのか知らないが、コンクリート造の建物の外装は薄緑色になっているため、ガントクらしい雰囲気と統一感はある。現在では車両乗り入れ禁止の遊歩道となっており、通りの中央には花壇がしつらえてあるなど、なかなか洒落た感じになっている。ライトアップされた夕方以降など、なかなかいいムードになる。

それでも午後8時を回ると、開いている商店もごくわずかとなり、まるで深夜のような静けさとなるため、これが州都の中心地であるとはにわかに信じ難い気もする。

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あまり料金が高いところに宿泊することはないのだが、それよりも個人的にちょっとこだわりたい部分はある。こだわりたいといっても、そうでないと泊まらないとか、その条件を求めて右往左往するというわけではないので、「あると嬉しい」といった程度ではあるが。
1. 居室以外の「居住空間」的スペース
ロビーが気楽に長居できるようになっていたり、何か簡単な食事や飲み物でも注文して口にすることができるようなスペースがしつらえてあったりするといい。同じように旅行している人たちと話す機会が増えるといいし、それもまた旅行の楽しみのひとつであるからだ。
2. 充分な照明度の室内
そして部屋の中は、往々にして薄暗いことが多いが、日本の家屋の室内並みに煌々と明るいといい。そうでないと、本などを読んでいても目が疲れて仕方ない。
3. 書き物空間
室内にはちゃんとしたデスクと椅子があって欲しい。ベッドに腰掛けて、あるいは足を投げ出して、膝の上にノートPCを置いて書き物をすると肩が凝るし、どうもリラックスできない。
1については、ホテルの料金帯に関わらず、そういう環境があったりなかったりする。もっとも、あまり高い宿泊施設になると、客層自体があまり気楽に声をかけられる感じではなくなったりもする。
2についても、料金レベルに比例するとはいえない。インドに限ったことではないが、南アジア以西の宿では室内がどうも薄暗い傾向は否めない。
3は、料金帯に比例するというか、ある程度以上の料金帯のホテルになると、用意されていることが多い。だが、もちろんそれ以下のレベルの宿でこれらがあると非常に嬉しくなる。経営者にとっては、往々にして無駄な投資ということになるのだろうが。
ダージリンで宿泊したDekeling Hotelは、これらの条件をすべて満たしたうえで、チョウラースターのすぐ下のクラブサイドの斜面に建っているため、ここからの眺めは抜群に良い。

上階にあるカフェ兼レストランの大きな窓からも坂に広がる街並みや遠くに望むカンチェンジュンガ峰の威容も目にすることができる。もうひとつ上の階にもソファの置かれたラウンジがあり、ここからの眺めも同様に素晴らしい。

宿泊した部屋の一角には、小さな「書斎」といった感じのスペースが作ってあった。こういうのはなかなかないので、さらに嬉しくなる。ただし窓際で、折しも寒さの厳しい時期であるため、そこで何か書くという気にはならなかったが。
Dekeling Hotelの女主人は、てっきりブーティヤー族だとばかり思っていたが、実は両親がシガツェから難民として逃れてきたというチベット人であった。インドに移住した二代目にして、このような人気の宿を経営するようになるとは、商いの才覚とともに大変な努力があったことだろう。ダージリンの町外れにもチベット難民居住区はあるが、そうしたところに暮らしている人たちの暮らし向きは決して豊かであるとはいえない。
このホテルが入っている建物(下のほうの階には別のホテルがある)のグラウンド・フロアーには、Kunga’sといういつも込み合っているレストランがあるが、こちらもまた同様にチベット難民の経営だ。狭いスペースにテーブルとイスを無理やり押し込んであり、いつも誰か知らない人と相席になるが、この店が出す料理が旨い証拠でもある。

滞在先自体が魅力あふれる場所であれば、宿は「寝に帰るだけ」とも言えるが、宿泊先の居心地が良ければ、なおさらのこと滞在すること自体が楽しくなる。



昨日カルスィヨンのマカイバリ茶園訪問で失敗したので、本日はダージリン市街地のすぐ外にあるハッピーバレー茶園に前もって電話してから訪問する。たがあいにく「ウチでは冬の茶摘みはしませんので、工場のラインは止まっていますが、それでもよろしければ・・・」という回答。この茶園では収穫期は春・夏・秋の3シーズンのみなのだという。
茶園に到着すると、ちょうどそこにやってきたポーランド人の夫妻があり、茶園の職員に率いられて、一緒に工場内を見学する。この茶園は150年くらいの歴史があり、インドで茶の栽培が始まった初期のあたりからあることになる。茶の木の寿命を尋ねると、かなり長いらしい。茶園が始まったころからある木がまだ沢山あるとのこと。
茶摘みの仕事をするのはすべて女性で、年代ごとにチームを編成し、若い人たちほど遠くのエリアで収穫作業をして、年上になるほど工場に近いエリアで茶摘みをするとのことだ。工場で働くのはほとんどが男性で、女性は数えるほどしかいないとのこと。茶摘み労働者たちの日収は90ルピーと少ないが、その代わりに住居、子供の教育のための学校、診療所は無料となっているそうで、家族のうち数人が茶園で働いていれば、なんとか食べていくことはできるだろう。ちょうどスリランカなど他国の茶園もそんな感じだ。






収穫期ではないので、空っぽになっている作業場を見学。コンベアの上の茶葉に、最初に常温の風を大きなファンで送り、続いて熱い風を送る。これにより、茶葉が握ってもちぎれることなく、ソフトになるとのこと。その後階下で発酵・熟成の過程があり、最後に茶葉をグレード別に選別するというラインになっている。摘みのシーズンにより、加工の時間は適宜変えるとのこと。通常、茶葉はサイズが大きいほどグレードが上になる。ひとつだけ「ALOOBARI」という別の茶園の名前が記されている加工ラインがあった。同じオーナーが所有する茶園だが、工場が併設されていないため、ここに持ち込んで加工しているとのこと。

茶園のオーナーは外資系が多いらしい。インド人所有のものではマールワーリーのビジネスマンが経営するものが多いとのことで、このハッピーバレー茶園もまたマールワーリーの所有だ。地元民族であるブーティヤー、レプチャー、グルン等の民族が運営する茶園は存在しないそうだ。
一緒に工場と茶畑を見学したポーランド人夫妻は仏教徒であるとのこと。日本国外でも盛んに布教活動を展開する創価学会かと思いきや、なんとカギュー派とのことで、チベット仏教徒である。ポーランドに僧院があり、そこで入信する人が少なくないとのこと。チベット仏教寺院がそんなところにあるとは驚きだ。これからスィッキムに行き、あるリンポチェに教えを乞うところなのであるそうだ。つまりこれは英語で行われるわけで、先述のポーランドにある寺院とともに、チベット仏教にはなかなか国際的な側面もあるかもしれない。
三人でしばらく茶園を散歩する。茶園の中の集落で、ここで働いている女性に声をかけてみた。茶摘みのオフシーズンには何をしているかと尋ねてみると、それなりに仕事はあると言う。主に茶園の整備や木の手入れであり、この時期にはしばしば茶畑の専門家が来て、茶の木の健康状態をチェックしたり、病気等の駆除の手当等を行なったりするのだそうだ。

茶畑の中に点在する集落の家屋は、どれもここで働く労働者のためのものであるようだが、どれもかなり清潔感があり、ある程度の居住スペースはきちんと確保されているらしいのは幸いである。

<完>




























