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カテゴリー: society

  • magzterで読むインド

    magzterで読むインド

    在米のインド系ビジネスマンが起業したmagzterが頑張っている。

    いろいろな雑誌の取扱いが増えており、インド関係以外にも東南アジアやアメリカ等の国の雑誌類、中には日本のものもわずかながら含まれている。

    magzterの利用により、インド国外からも雑誌類が購読できるのはいいことだろう。インドの主要都市に居ても普段は見かけない北東州のニュース雑誌の取り扱いもある。magzterの出現以前は、インド国外から雑誌類を購読しようとする場合、それを取り扱うサービスはあっても、手元に届くまで時間がかかったり、郵便事情等により欠配することもあったはずだ。紙媒体で流通しているものと同じ誌面で販売されていることはもちろん、オンタイムで購入できるのが有難い。

    ただ欠点もある。年間購読するように誘導しているためであるが、単号で購入するのと半年ないしは1年間の契約にするかで、ずいぶん単価が異なることだ。前者だとかなり割高に感じられてしまう。

    一度購入したものは、同じアカウントでサインインしている限り、他の端末でも閲覧できて便利だ。しかし、iPad、Android、Windows RT等々のタブレット用のmagzterアプリが用意されているのはいいのだが、タブレットのOSによって操作感がかなり異なることに少々戸惑ってしまうため、改善されることを望んでいる。

    少々注意が必要な部分もある。定期購読の場合、少々注意が必要なのは、購読者側から解約手続きをしない限り、自動更新になってしまう。そのため契約月についてはしっかり覚えておかないといけない。

    私自身は、ニュース雑誌を定期購読しているが、旅行関係ではNational
    GeographicのTraveller Indiaというものがなかなか興味深いことに気が付いた。昨年7月のヒマラヤ特集は充実していたし、他の号でもなかなか興味深い記事が掲載されているのは、さすがNational Geographicである。

    National Geographic Traveller India

     

    ただし、他の版元から出ているインドの旅行関係雑誌については、インドの人々の間での旅行に関するトレンドを知るにはいいかもしれない、といった程度のことが多いため、あまり期待しないほうがいいだろう。

    ともあれ、今後ますますの充実を期待したいところだ。雑誌のみならず、将来は電子書籍なども購入できるようになるとありがたい。

  • ミャンマー 民間の新聞復活

    ミャンマーで、1962年に起きた軍部によるクーデター以降、約半世紀ぶりに民間の新聞が復活しているというニュースが流れたのは、ごく先日のことだ。

    ミャンマー、民間日刊紙が半世紀ぶりに復活 (asahi.com)

    この民間の新聞の中で、おそらくほとんどがビルマ語紙で、ひょっとしたら英字紙も含まれているのかもしれない。旧英領といっても、英語の通用度はインドと比較のしようもないほど低いミャンマーには、それなりの理由がある。

    イギリスによる支配の歴史がインドに較べるとかなり短いこと、そして独立後のインドにおいて英語が果たしてきた大きな役割とは裏腹に、支配的な立場にあるビルマ族による「国粋化」により、日常の商取引や教育の場から英語が駆逐されたミャンマーとでは、英語の位置付けそのものが大きく異なる。インドにおいて、英語は(たとえそれを理解しない人が過半数を占めているとしても)インドの言葉の中でも重要な地位を占めているが、現在のミャンマーにおいては、英語は外国語にしか過ぎない。

    英字紙はともかく、おそらく1962年のクーデター以前には、ヤンゴンその他の都市部では広く流通していた中国系住民のための華語紙、インド系住民を対象としたウルドゥー紙その他の外来の言語によるメディアの復活はありそうにはないようだ。

    ミャンマーでは、新聞や雑誌等に対する事前検閲は廃止されたものの、発行後の事後検閲は継続している。管理に手間のかかる外国語によるメディアについてはなかなか許可が出にくいものであろうと想像される。また、1962年以前は都市部人口にかなり高い割合を占めていた中華系、インド系の人々が軍政の始まりとともに、大挙して国外に流失してしまったという事情もある。

    話者人口の規模が縮小するとともに、世代交代が進むにつれて、自然と父祖の母語を理解する人々は減り、理解度という面においても水準は下がっていくのは当然のことだ。

    ヤンゴンのあるヒンドゥー寺院では、地元のインド系住民の若年層を対象にした「ヒンディー語教室」が開かれている。そこで教えている男性に話を聞いたことがあるのだが、話者人口や世代交代だけではなく、インド系の言語によるメディアが廃止されたことによる言語面でのインパクトはかなり大きかったようだと語ってくれたことを思い出す。

    「だって、あなた、読み書きする機会が減れば、語彙も乏しくなるでしょう。言葉が乏しくなれば不便になって、あまり使わなくなってしまいますよ。するとどんどん先細りになっていく。喋った先から消えて行ってしまう話し言葉だけじゃなくて、やっぱりきちんとした文章を日常的に読むということは大切ですから・・・」

    20世紀初頭のヤンゴンでは、住民の半数以上がインド系の人々が占めていた時期もあり、非インド系の人々の間にもヒンディー/ウルドゥーが通じるというのがごく当たり前といった状況であったようだ。

    ヤンゴンで、今のインド系住民の間で、インド系の言語による新聞が復活することはないだろう。それでも、ダウンタウンのインド人地区でモスクの中や周辺では、ウルドゥー語による会話が聞こえてくることはしばしばあるし、ヒンドゥー寺院に出入りする人々の会話にしばしばヒンディーによるやりとりが含まれることはよくあるようだ。

    やはり言葉というものには、単に意思疎通の手段としての道具という以上に、民族のアイデンティティとしての意味合いも大きい。インドから移民して数世代経過している人々の間では、地元ビルマ語が母語になっているとはいえ、宗教施設での説法や人々の会話の中にそうした父祖の言葉による会話が挿入されることが多いのは当然のことなのだろう。

    そんな環境の中で、曲がりなりにもヒンディー/ウルドゥーを理解するということに対する、インド系の人々の反応のポジティヴさには驚かされる。インドではずいぶん粗末に扱われている印象を拭えない言葉に対する人々の愛着には心動かされずにはいられない。

    ミャンマーで、ヒンディーやウルドゥーの新聞や雑誌が復活することはないにしても、コストのかからないウェブ上でのニュースサイトが出てくることは、有り得ないことではないように思う。

    報道や表現の自由度の拡大や経済発展へと向かう中、これにより本国とは遠く離れた環境下で細々と続いてきたインド系言語環境が利するところはあるのか、今のところはまだよく判らない。

  • 桜バザー 2013 最終日

    桜バザー 2013 最終日

    桜バザー会場

    3月27日(水)から5日間に渡り、インド大使館敷地内で開催されていた桜バザーの最終日、3月31日(日)に訪れてみた。

    もうだいぶ前、大使館が改築されて現在の姿になる前には、外交官の家族たちが自ら作った料理や菓子などを販売していたりもしていたものだが、何かにつけてアウトソースするのが時流の昨今らしく、このイベントで出店しているのはすべて外の業者となっている。

    その分、開催が1日のみであったものが、ここ数年来、つまり大使館の改築後からは複数の日付にまたがって開かれるようになっている。

    開催する側の都合や目的あってのことなので何とも言えない。少なくとも訪れる人々に対して複数の機会が用意されていいかもしれないが、中身はずいぶんよそよそしい感じになったと言えるし、訪れる人々の数も減ったと思う。開催日が数日間に渡るようになったため、延べ人数では多いのかもしれないが、1日の訪問客数で見ると、明らかに少なくなっているに違いない。

    もちろんタイミングも良くなかった。桜の開花時期とはいえ、すっかりピークを過ぎてしまっており、もはや花見を楽しむという具合ではなくなってきているし、天気もすぐれなかった。桜が一気に開花した先週末であれば、また少し違った様子になっていたかもしれないが、事前に準備しなくてはならないので、こればかりは仕方ない。

    インド大使館の前では、現在スリランカで起きている重篤な人権侵害を糾弾する座り込みの抗議活動が展開されていた。参加している人たちは、タミル系の人たちで、インド国籍の人たちもいれば、スリランカ国籍の人々もある。

    剛腕でLTTEを壊滅させたラージャパクサ大統領については、その手腕に高い評価を与える向きも少なくない反面、あまりに行き過ぎたやりかたについて、内外からの批判も多い。現在もLTTEの残党狩りは続いており、治安当局による不当な拘束、監禁、拷問、殺害などが続いている。

    だが、これらについて日本では人々の関心は非常に薄い。そうした状況であることを知らない人も多いのではないだろうか。通りかかる人たちの無関心ぶりには考えさせられるものがあった。

    スリランカにおけるタミル系市民への迫害を糾弾する座り込み活動
  • 鉄道市場

    インドの話ではなくて恐縮である。日本からインドに向かう場合、往々にして上空を通過あるいはバンコクでの乗り換えといった形で縁のあるタイの鉄道に関するものである。

    バンコク郊外のメークローン駅界隈では、今も水上マーケットが残っており、古き良き時代を体験できるエリアとして知られているが、それにも増して魅力的なのは、鉄道の路線にまたがって広がる市場だ。

    ・・・と書いてみたが、実は私自身、まだここを訪れたことがない。

    Thailand railway track market (YoutTube)

    列車通過に備えて店頭の片づけをする人々の手際の良さに感心するとともに、車両最後尾が過ぎ去るやいなや店開きを始める様子には、市場で働く人々の旺盛なバイタリティを感じずにはいられない。

    感銘を受けたのは、市場の人々の有様だけではない。上記リンク先の動画の中に出てくるように、多数の観光客がカメラやビデオで撮影している姿があることからも判るかと思うが、バンコク近郊の有名スポットである。

    タイ政府もこの危険なコンディションのマーケットを貴重な観光資源のひとつとして位置付けているのかどうかは知らないが、当この状態を容認しているため、長年に渡ってこうしたシーンが日々繰り返されているわけであり、当局の鷹揚さと柔軟さを感じずにはいられない。

    マーケットの立地が危険であることは間違いない。でも常時神経過敏症的で、些細なことで大げさに騒ぎ立てるヒステリックな日本社会から眺めると、このようなおおらかさは実に羨ましく感じられないだろうか。

  • インドと中国を結ぶ「しがらみ」

    第三国を経由することなく、インドから中国両国のキャリアによる二国間の直行便が飛ぶようになったのは確か2003年あたりのことであったと記憶している。
    中国東方航空が中国の首都北京からインドのデリーを結んだのが最初だ。いっぽう、エアインディアのほうはムンバイーからデリーを経て、バンコクを経由して上海に到着といった具合で、途中で乗り換えこそないものの、隣り合う国の二都市を直接結ぶという感じではなかったのは、途中タイの首都バンコクでのストップが入ったからだろう。
    だが今では状況は大きく変わった。現在は、デリー・上海、デリー・杭州、デリー・北京、デリー・広州、ムンバイー・成都、コールカーター・昆明、バンガロール・成都といったノン・ストップのルートがあり、エアインディア、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空が両国間を運行している。これらに最近加わったのが、インドのLCCのひとつであるスパイスジェットによるデリー・広州の路線だ。
    そんな具合なので、インドあるいは中国で国内線への乗り継ぎを含めれば、両国各地への乗り継ぎはずいぶん良くなった。
    印・中両国は4,000 km余りの長い国境線を分け合っているとはいえ、政治的にも地理的にも、ごく一部の例外を除けば、公式に行き来できる環境にはない。インドにおいて、1949年以降の中国によるチベット侵攻、さらに1962年に勃発した中印紛争により決定的に悪化した対中感情の背景には、中国という国や中国人という人々に対する知識等の欠如という要素も否定できない。
    また当時はまだ貧しかった中国ではあるが、同様に経済的には苦しかったインドにとっては、とても拮抗できない強大な敵として浮上してきたこともあるだろう。反対に、中国からしてみれば、インドはさほど怖い相手ではないため、インドにおける対中感情と比べて、中国における対インド感情は悪くなかったりする。
    歴史的なしこりや感情的な好き嫌いは、そう簡単に克服できるものではないかもしれない。だが人やモノの行き来が盛んになることにより、相手国における自国資本の投資、自国企業の操業その他さまざまな交流が盛んになるのは安全保障上も決して悪いことではない。
    「絆」を結ぶことはできなくても、活発な経済活動によって生じるしがらみが、外交面で両国が衝突するような事態になったとしても、お互いに利益をもたらす二国間の経済活動を犠牲にしてまで、軍事衝突を起こすには至らない安全弁として働くことは、尖閣諸島問題を抱える日中両国が、緊張の度合いを高めることはあっても、また一時的にデモや不買運動等で経済活動が冷え込むことはあっても、そうした異常な状態が決して長続きはしないであろうことからも明らかだ。
    今のところ、中国系メディアが大げさに報じているほどには、インドで中国語学習がブームになるような具合にまでは至ってないようだ。
    だが中国語学習の需要が高まってきていることは驚くに値しない。インドと違って英語が非常に通じにくく、現地の言葉が不可欠の中国において、中国語が判るということは計り知れないメリットになり、それを習得した個人にとっても語学そのものが貴重なスキルになるからだ。
    インドと中国の間で、さまざまな「しがらみ」が今後ますます増えてくることを期待したい。それは将来の両国の繁栄のためになるだけではなく、アジア全体の安全保障にも繋がることであるからだ。
  • 横浜にある英連邦戦没者墓地

    横浜にある英連邦戦没者墓地

    英連邦戦没者墓地

    今年1月、東京で数年ぶりの大雪が降った数日後に、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦没者墓地を訪れた。

    沢山の墓標が並ぶ

    この墓地は、1945年に開かれたもので、第二次大戦中に日本軍の捕虜となった英連邦軍人・軍属で、日本への移送中に亡くなった方々ならびに捕虜として日本国内で抑留中に死亡した方々1,555名に加えて、戦後の日本進駐中にこの世を去った方々171名、加えて朝鮮戦争での犠牲者の方々等が埋葬されている。

    墓標は他国にあるCWGC管理下の墓地のものと共通のデザイン

    墓地を管理しているのはイングランド南東にあるバークシャーに本部があるCWGC (Commonwealth War Graves Commission)だ。敷地は日本政府の国有地だが、終戦後に進駐軍に接収されるとともに、1951年のサンフランスコ講和条約により、英連邦戦没者墓地としてCWGCに永久無償貸与されている。一種の戦後賠償である。

    インド兵たちが埋葬された一角
    インド人に埋葬れているのはほとんどがムスリム
    ムスリム兵士・軍属の墓標の中、唯一のヒンドゥーであるグルカ連隊所属のネパール人傭兵のものがあった。

    同じCWGCが管理しているため、墓標のデザイン、記念碑の形状、敷地レイアウト等々、私が以前訪れたことがある他の英連邦戦没者墓地とよく似ており、墓地内を歩いていると、日本国内にいる気がしない。

    柔らかな陽射しに包まれた墓地

    ~インドとミャンマーにあるCWGC管理の英連邦戦没者の墓地に関する記事~

    マニプルへ5 インパール戦争墓地 (indo.to)

    ナガランド3 コヒマ戦争墓地 (indo.to)

    泰緬鉄道終点 (indo.to)

    アクセス:JR保土ヶ谷駅あるいは関内から横浜市営バスにて「児童遊園地前」下車

  • オーム・シャーンティ・オーム 3月16日土曜日から

    オーム・シャーンティ・オーム 3月16日土曜日から

    オーム・シャーンティ・オーム(2007年公開)が、「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」と題して、3月16日から東京渋谷のシネマライズおよび大阪梅田のシネ・リーブル梅田にて上映される。

    今世紀に入ってからのボリウッド映画で最高クラスのひとつであるとともに、子連れでも安心して楽しむことができる作品でもある。より多くの方々に観賞してもらい、感動・感激をシェアしていただきたいと思う。

  • ふたたびコールカーター中華朝市へ

    ふたたびコールカーター中華朝市へ

    「中華朝市」とはいえ、売り子の多くはインド人

    コールカーターでは必ず早起きして中華朝市に出かけることにしている。ラール・バーザール近くで旧ユダヤ人地区にも近い場所のかつての中華街(といっても往時の繁栄は見る影もないが)で毎朝夜明けとともに開かれている。タクシーで乗り付けるならば、Lu Shun Saraniの中華朝市と言えば、運転手はすぐに判ってくれるはずだ。

    中華朝市では豚肉入りの肉まんを食べた。この旧中華街は、現在では事実上のイスラーム地区となっており、中華系の人が営む店で働くムスリムたちも多いのだが、そういうものも売られている。朝食をつまみに出てくる華人たちの姿もあるが、週末ともなると地元カルカッタのインド人たちはもちろんのこと、他州からやってきたインド人観光客たちの姿もある。

    いつもどおり、ここで祖父から三代に渡って中華食材・漢方薬の店を開いている客家系のCさんのところに挨拶に出向く。このお店にいると、お客たちはもとより、地元の写真家やジャーナリストたちと出会うことも多く、それもまた楽しい。Cさん自身がおしゃべりでとっつきやすい性格であるということもあるが、コールカーターのチャイナタウンや中華系社会に関する情報通であるため、取材に来るというケースが多い。

    ときおり、インドのメディアで取り上げられたり、ジャーナリストが著した本などが出ることはあるものの、地元カルカッタ華人により書かれた、インサイダーとしての立場からの華人コミュニティ史の書籍は存在しないようだ。

    多くの語るべきものがあり、文化面でも歴史面でも貴重なものであるはずだけに、残念なことだ。今の時代を謳歌して繁栄している状態であれば、そういうものを書いたり、書かれたものを編纂したりということが起きてくるのだろうが、すでに衰退してしまったコミュニティの場合は、なかなかそういう風にはいかないようだ。この地域にいくつかある、華人たちの出身地ごとの同郷会館には、この方面についておそらく大変貴重な資料が眠っているのではなかろうか。これから更に世代を継いでいくに従い、コールカーター華人史が当人たちによって書かれる機会はますますなくなってくるはず。相変わらず、華人たちのインド国外への流出は多いということもある。

    この街からカナダに移住した華人たちは多く、「インド華僑」のアソシエーションがあるくらいなので、カナダから遠い故郷を想う書き手が出てくることはあるかもしれないが。

  • ラヴァングラー ボン教寺院とブッダ・パーク

    ラヴァングラー ボン教寺院とブッダ・パーク

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    ラヴァングラーの町からYundrung Kundraklingというボン教の寺院を訪れた。スィッキムでは唯一のボン教寺院であるとのこと。

    見た目はチベット仏教の寺院と同様に見えるため、そう言われなければ気がつかない。入口のところにチョルテンがあるのも同じ。寺院建築や中の壁画はもちろんのこと、祭壇や堂内の様子、タンカ、高僧の高い席も似たような感じである。宗教用具も共用しているものが多いのではなかろうか。僧侶の装いも似ている。

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    チベット仏教自体がボン教の強い影響を受けているが、同様にボン教もチベット仏教の影響を多く受けているためではないかと思う。ともあれボン教の寺院を訪問するのは初めてであったため、非常に新鮮な体験であった。寺院は小さいものの、いろいろと感じるものがある。やはり来て良かった。寺院内ではボン教に関する資料(100Rs)が頒布されており、一部購入した。

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    ボン教寺院からラヴァングラーに戻り、坂道を登ってブッダ・パークに出る。ここはラヴァングラーの新しい名所となることが期待されている。今年3月にここを訪問するダライ・ラマによる大仏の開眼式が執り行われることになっており、これをもってこのブッダ・パークが開園することになる。現在はすでに園内はほぼ完成しているようだが、開眼式までは大仏には目隠しがなされている。

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    新しい宗教モニュメントにはあまり関心はないのだが、よくよく考えてみるまでもなく、どんなに由緒ある寺院等であっても、出来立てのホヤホヤの時代もあったわけで、その後歴史を刻んでいくことになる。

    こんな小さな町の割には、ずいぶん大掛かりでしっかりしたものを造ったものだと驚かされてしまう。資金やアイデアはどこから来たのかといえば、当然町の外のどこかに違いないはずで、このブッダ・パーク建立の背景には大きな政治経済力学があるに違いないと見るのが当然だ。スィッキム州政府の先導のもとに、地元仏教界、その他の有力者等の綱引き等があったようだが、どちらかというと施設そのものよりも、そちらのほうに興味がいってしまう。

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  • ペリンから一日観光

    ペリンから一日観光

    朝一番の眺めはいまひとつだった。
    ペリンといえば、この町からのカンチェンジュンガ峰の眺めで知られているが、夜が明ける前に起きだしてみたが、残念ながらちょうど峰の部分に雲がかかっていた。これはこれで奥ゆかしくていいかもしれないが。
    幸いなことに雲が移動して眺めが良くなった。
    本日のクルマ。フロントガラスのヒビ割れの補修がなかなかイカしてる。
    本日は日帰りでこの地域をクルマで観光するつもりにしていたが、明日にはユクソムに行くつもりであったので、本日の行程が終わったらユクソムで降ろしてもらうことにした。
    大きな吊り橋
    滝。珍しいものではないが・・・・。
    最初に大きな吊り橋と滝を訪れる。このあたりは水にも恵まれているため、緑は豊かだ。山あいに広がる段々畑、村落、日を浴びてのどかな村の風景を楽しむ。日向にいると陽射しはそれなりに暖かいのだが、日陰に入ると非常に寒い。自宅にあるダウンの中で最も厚いものを着てきて良かったと思う。
    晴れ渡った空に草木の色が映える。
    こんな感じの家屋が多い。
    蒸篭を日常的によく使うのだろう。
    日本の信州を思わせるような景色
    日陰はやけに寒い
    ケチョパリ湖に行く。ここには土産物屋を経営している日本人女性がいらっしゃるという情報はウェブで得ていた。
    すぐに判るだろうか?と入場チケット売り場から中に入ってすぐのところであった。小さな日の丸が店の壁に貼られているので人に尋ねなくてもそれと判り、お会いすることができた。だがここに立ち寄るインド人観光客たちは、まさか日本人がここで店を開いているとは想像もしないようである。
    湖自体は、ブーティヤー族仏教徒の聖地ということになっているらしいが、一般の観光客が多く、参道に列を成している状態だ。夏のシーズンには大混雑になっているのだろう。
    湖の手前にはチベット仏教寺院がある。ブータンやチベットから来た僧侶も滞在しているとのことで、山間の小さな集落にあるとはいえ、なかなか「国際的」なお寺でもあるようだ。
    仏教寺院
    ケチョパリ湖
    ビューポイントへの道
    湖の眺め
    山間の集落にも携帯電話のタワーが建っており電波がちゃんと届く。
    彼女に勧めていただいたビューポイントまで歩いてみることにした。湖のすぐ東側の斜面を登ったところにある。展望台脇にある店の主らしき男が、芝の上で昼寝をしている。日常は分刻みで仕事をしている身としては、時間がふんだんにあるという点について、少々羨ましくならないでもない。
    そこからもうひとつの滝に行く。ここは高低差が大きく、筋もみっつある。一番大きなものはかなりの水量で迫力がある。
    ふたたび滝
    本日はペリン周辺の景色を楽しむことができて良かった。午4後時半くらいにユクソム到着。のんびりした感じの集落だ。宿もなかなか新しくてキレイだ。ペリンから同行のUさんとビール飲みながらの夕食を楽しんだ。
    ユクソムでの宿
    夕食(の一部)
  • 11年後の処刑台の露

    2001年の国会議事堂襲撃事件に関わったかどで収監されていたアフザル・グル死刑囚に対する絞首刑が執行されたのは今月9日の朝。デリーのティハール刑務所で処刑され、同刑務所内に埋葬された。事件から11年2か月後であった。

    この事件によってエスカレートした緊張は、南アジアの事実上の核保有国同士が睨み合う、世界最初の核戦争まで一発触発の危険が揶揄されるまでに至り、日本その他の国の政府が自国民をインド・パキスタン両国からの退去を促す事態にまで発展した。

    Afzal Guru hanged in secrecy, buried in Tihar Jail (The Hindu)

    今月21日にアーンドラ・プラデーシュ州都ハイデラーバードで起きた連続爆破テロとアフザル・グルの処刑に関する関連性の可能性を指摘する声も一部ではある。

    Hyderabad Blasts and Afzal Guru hanging link a mere sham? (One India News)

    処刑は国内外で波紋を呼ぶことになったが、とりわけこの件によるインパクトが大きかったのはアフザル・グルの故郷カシミールであり、反政府活動の活発化の強い兆しが見られるようになっている。

    近年は情勢が沈静化しつつあり、騒乱が始まった1980年代後半以前の主要産業であった観光業の復興の確かな進展がみられつつあった中、今後の成り行きが心配されているところである。

    Afzal Guru’s secret execution raises concerns in India (DAWN.COM ※パーキスターン)

    The hanging of Afzal Guru is a stain on India’s democracy (The Guardian ※イギリス)

    カシミールのインドからの分離要求運動は、当局による逮捕、拘禁、投獄等の恐怖を前にしても怯むことのない活動家たちによって支えられている。もちろんその背後には、外国、つまりパーキスターンのISIや同国を本拠地とする原理主義過激派団体のサポートがあることはよく知られているものの、地元に暮らす人々多数が支持・共感する運動であるがゆえに政府の弾圧を乗り越えて継続されているわけでもある。

    マハトマー・ガーンディーが中心となって率いた、イギリスからの独立運動の中で、ガーンディー翁自身も含めて多数の活動家たちが当時の政府当局に拘束され、投獄され、場合によっては命を落としたりしながらも、運動は粘り強く継続されていき、独立を手にするという輝かしい歴史と経験を持つインド自身の過去が、現在のカシミールという土地やそこに暮らす人々の痛みと苦しみと重なるように思われてならない。

    テロや暴力を肯定するわけではないが、アフザル・グルの処刑はカシミールの分離を支持する人たちにとって、1929年4月に国会議事堂で爆弾を投げて「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)」を叫んで逮捕・収監され、1931年3月にラーホールの刑務所で処刑されたバガット・スィンのイメージと近似したものになるような気がしてしまう。

    将来、カシミールがインドから分離独立ないしはパーキスターン側に編入されるようなことは決して有り得ないと私は信じている。それでも、万が一そのような時代がやってくるようなことがあれば、国会議事堂襲撃事件を後方支援したとされるアフザル・グルならびに襲撃実行犯たちは、故郷カシミールのインドからの分離のために自らを捨石とした憂国の志士として、祀り上げられることになるのだろう。

    だが民族自決のために血で血を洗うような抗争がこの世にあってよいものなのか、私は大いに疑問である。とりわけインドのような民主主義国家にあっては、「共和国」の名に恥じない平和的な解決がなされることを望みたい。

    「外国からの干渉」により、カシミールの政情不安が20数年間も続いているということは、問題の解決を強権による解決を求めた当局の大失態であり「世界最大の民主主義」の至らない部分にツケ込んだ隣国に足をすくわれてしまった結果であるともいえる。

    「独立の志士」を生むことなく、異なる土壌に暮らす異なる民族、異なる伝統や信条を持つ人たちが、それぞれ異なる夢を抱きながら、共存・共栄していくことができる平和なカシミール地方を築いていってもらえるよう切に願いたい。

  • ペリンへ

    ペリンへ

    午前中はガントク市内を散策。せせこましい斜面の街並みに高層建築が増えているため、街路は陽当たりが悪く、寒々とした感じがする。
    ガントクの乗合ジープスタンドから出発
    予約した乗合ジープは昼過ぎの出発。できればもっと早い時間に出たかったが、いかんせん本数が少な過ぎる。州内の交通の大半が乗合ジープであるのは、道路が細くて舗装も貧弱であるため仕方ない。だが他州に較べると格段に人々の移動が少ないのではなかろうか。もちろん、それだけ人口が希薄であるということにもなる。
    決して豊かな州ではないし、これといった産業があるわけでもない。その割には極端な貧困層は多くないように見えるのは、やはり人口が少ないことと、中央政府が予算配分で優遇しているということもあるだろう。国境線を巡って幾度か痛い目に遭わされてきたインドとしては、すぐ北にある中国に対する警戒心を解くわけにはいかない。
    ガントク市内を南に下る。家並みが密集している中、ぽかんと開けた空間があった。Iリーグのスィッキム・ユナイテッドの本拠地グラウンドである。元インド代表ストライカー、バイチュン・ブーティヤーは現在ここに在籍している。この時期なのにピッチの緑がつやつやと輝いているのは、まさかグラウンドの整備が行き届いているためというわけではなく、おそらく人工芝なのだろう。
    行けども行けども、山また山。スィッキム州の景色は素晴らしい。同じチベット仏教地域でもラダックのあの月面のような風景とはまったく違い、つやつやとした豊かな緑に恵まれている。水も豊富でところどころで岩清水が湧いては流れ落ちている。自然の恵みの豊かさを感じる。ラダックに較べると、チベット仏教色がやや薄く感じられるのは、仏教徒以外の住民も多いからに他ならない。
    クルマに乗り合わせている人たちの大半はベンガルからの旅行者たち。私の後ろには四人の家族連れと最後の列の席にはカップルがいる。それにしてもジープに11人乗るので、かなりきつい。私は最前列の左側。運転手の横に私含めて二人座っている。それでも最前列はまだいい。後ろの席はもっと窮屈そうだ。乗合ジープはたくましい駆動力で山道を進んでいく。やはり4WDのクルマは、きれいに舗装された市街地で乗るものではない。悪路で荒っぽく使いまくるためにあるのだ。
    街道沿いの茶店で休憩
    タルチョが風にはためく
    ガントクからペリンまで5時間半ほど。道のりを半分ほど来たあたりで、食事休憩が入った。天気は良く陽射しもいいのだが、気温はかなり低くてカゼを引きそうだ。休憩後走り出して間もなく、ラヴァングラーの町を通過する。スィッキム州では、山道を走っていると、いきなり町に入るのでちょっとビックリする。それだけ人々が密集して暮らしているということなのだろう。あまり広がりすぎると往来が困難になるとともに、おそらく電気や水道等のインフラの整備の関係もあるのではなかろうか。狭くコンパクトにまとまることにより、限られた費用で生活や産業の基盤を整えることができると考えられる。
    どこもかしこも山景色
    市街地に入ったときだけ、スマートフォンでインターネットに接続できるようになる。そして郊外に出ると可能なのは通話のみ。人口が希薄でアンテナ等施設の設置と維持に費用がかかる割には投資分の回収を期待できそうにない地域では、相変わらず民間の携帯キャリアではなく、BSNLが強いらしい。
    それでも、ここ10年ほどでインドの通信事情は飛躍的に向上している。インターネットが普及してきたころ、ネットカフェで30分くらい費やしてもメールチェックさえできなかったりすることが珍しくなかったことが、ずっと遠い昔のことのように思える。今ではスマートフォンで手軽に見ることができるし、フェイスブックで友人・知人たちの近況を知ったり、こちらから投稿したりすることができる。インドの場合、スタート地点が低かっただけに、その成長ぶりには目を見張るものがある。
    スィッキムはインドの東のほうにあるため、夕暮れどきがずいぶん早い。午後5時にはもう真っ暗。日没は4時半過ぎくらいではないだろうか。その理由のひとつに山並みが太陽を遮ってしまうことも挙げられる。
    ペリン到着まであと少し
    5時を回って「夜になる」と、満月が美しかった。山あいに点々と光る電光を目にすると、それらの場所に人々の暮らしがあることを気づかされる。スィッキム州の給電事情は良好だ。水力発電が盛んであるためだろう。すぐ隣のブータンもインドに売電しているくらいだから、スィッキムも州外に電気を売るくらいの余裕があるのかもしれない。
    午後6時にペリンに到着した。アッパー・ペリンの宿の前で降車。小さな町ではあるが、正面には24時間営業の銀行ATMがあるのにはちょっと驚いた。チェックインの手続きをしていると、日本人旅行者Uさんに出会った。ちょうど明日は周囲を観光するとのことなので、クルマをシェアさせてもらうことにした。