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カテゴリー: railway

  • ムンバイー・メトロ 来月着工

     インドで『メトロ』といえばコルカタとデリー。ここにきてもうひとつのメガ・シティで新たに導入が予定されている。10月からムンバイー・メトロの工事がいよいよ開始されるのだ。コラバからチャールコープまでの38kmを越える長いルートである。
     またワルソーワーからガートコーパル、バーンドラーからマーンクルドまでの路線も計画されている。後者は巨大スラムとして内外に知られるダーラーヴィーの目と鼻の先をかすめて走ることになることから、同地区の再開発計画にも弾みをつけることになることだろう。この路線が開通するのはいつになるのかわからないが、『かつてここは世界最大級のスラムであった』と言われてもピンとこないような洒落たコマーシャル・エリアに変貌する日がやがて来るのかもしれない。
     ともあれ既存の郊外電車のルートと合わせると、ムンバイーの鉄道交通ネットワークはずいぶん密なものになり、まさにインドきっての商都らしいものとなる。MUMBAI METRO SYSTEMをご参照いただきたい。
     メトロといえば、他にも近年成長著しいアーメダーバード、そしてなんとコーチンでも導入の計画がある。
     都市部では本格的なマイカー時代が到来しているインドだが、都会の公共交通の分野ではメトロの時代がすぐそこまで迫っているのだろうか。将来にわたり都市交通の質の向上が見込まれることは実に喜ばしい。

  • 時代が下るとともに遅くなる列車の意味するところ

    indian railways
     堂々とした立派な駅舎、長大なプラットフォーム、乗り降りする利用客以外に駅職員やクーリーその他、ここで働く人々の姿もやたらと多く、牛、ヤギ、犬など様々な動物たちも行き交うインドの鉄道駅。どこに目をやってもとにかく時代がかっており、他の様々な国と比べても、インドの鉄道というのはどこか違う、やたらと味わい深い(?)思いがする。それだけに旅情に満ちているのがインドの汽車旅だ。
     それでもインド国鉄は頑張っている。この国を走る列車の中で、エアコンクラスの車両の割合は増えてきており、首都デリーと遠方の主要都市を結ぶラージダーニー急行、国内の主要都市をつなぐ中距離のシャターブディー急行といった特別急行の本数やそれらが結ぶネットワークも拡大するとともに、サンパルク・クラーンティ急行と呼ばれる長距離高速特急、短距離のジャン・シャターブディー急行といった新しい特別急行の導入がなされた。
     以前はゲージの幅が違う路線が混在することから、直行することができず乗り換えなくてはならないということは珍しくなかったが、従来は狭軌が敷かれていた路線についてもブロードゲージ化が進んだ。ジャイサルメールなどはその好例で、どちらから来てもジョードプルで乗り換える必要があったのだが、今ではデリーから直行することができるようになり、ずいぶんアクセスが良くなった。
     このようにインド国鉄は着実に発展しているのは間違いない。少なくとも新たな施設の導入や運用面ではずいぶん改善されてきていると思う。だがその反面、今の時代にあって技術的な遅れが目立つようになってきているようだ。
     いささか古い記事になるがインディア・トゥデイ3月15日号によれば、1969年にデリー・ハウラー間に導入された最初のラージダーニー急行は、1451キロの距離を17時間で結んでいたという。それから36年が過ぎた今では、18時間かかるようになっている。トゥーファーン・メールという列車にいたっては、1928年に28時間でデリー・ハウラー間を走っていたのだが、現在では36時間かかるようになっているのだという。
     この原因は、停車駅の増加だと書かれていた。ラージダーニー急行の場合、開通当時は途中停車駅わずかひとつだったが今では五つ、トゥーファーン・メールはかつて42の停車駅があったが現在は86駅と大幅に増えているのである。もちろん単に停車駅が増えただけではなく、同じレールの上を走る便数も増えることによる運行ダイヤの過密化したことにも関係があるだろう。停車駅の増加は鉄道システムが充実してきた結果であるし、地方が力をつけてきた証でもある。
     もちろん個々の事例を持ち出せば『遅くなった』例があるにしても、先述の特別急行のネットワークが全国に広がることにより、従前から運行していた急行列車よりも短い時間での移動が可能になっていることは間違いない。
     しかし仕事や生活のペースがかつてよりずっと速くなってきている昨今にあって、同じ列車が数十年前に比較して、より時間がかかるようになっているというのは問題ではある。
     そもそもインドの『特別急行』というものは、車両内の空調や座席や寝台の質を除き、通常の急行列車との本質的な違いといえば停車駅が極端に少なく、優先的に運行させていることだけである。走行性能が特に高いわけではないのだが『あまり止まらず、通過待ちもない』ため、結果的に目的地に着くまでの時間が短いだけのことである。
     また客車定員数に対する大幅な需要過多が常態であることがいまだ解消されていないことから、ラールー・プラサード・ヤーダヴ鉄道大臣が発表した新年度鉄道予算の中に、急行列車の24両編成を標準化することがうたわれているのは、まさにこの輸送力不足に応えたものであるのだが、乗客の利便性という観点からも列車そのものを相当数増発しなくてはならないように思う。
     インドの鉄道チケット販売のオンライン化は進んだが、列車の運行についてはまだまだ昔ながらのマニュアル作業である。『西暦2000年問題』について議論されていたころ、世界各地で金融、運輸、通信その他の分野での混乱の可能性について取り沙汰されていた。 
     もちろんインドのメディアでも自国のさまざまな分野について検証されていたが、列車の往来については、ほぼすべてが現場の人々による手作業なので問題なしという扱いで、拍子抜けさせられたことを記憶している。
     それだけハードの部分での進化が遅れているのがインド国鉄の現状だ。鉄道史に残るような大事故が毎年のように起きていること、その原因が単純な人為的ミスであることが多いのはまさにその問題点をあぶり出しているかのようである。
     現象面だけ眺めているとかなりの速度で変わりつつある国鉄だが、本質的な部分であまり大きな進化は見られない。今後のインド国鉄の課題は本格的な長距離高速鉄道の導入と在来線の運行システムや車両の近代化と効率化および安全性の向上である。この153年の歴史を持つインド最大の『輸送会社』において、外界の急激な変化に比べて変化が遅々としているのは、政府の力を背景にした独占市場であるがゆえのことであろうか。何しろ本来の国家予算とは分離した『鉄道予算』を持つ特別な立場の国営企業である。
     旅客輸送手段として考えてみた場合、鉄道とバスのどちらかを選択できるとすれば、車両や道路の質から見ても特に長距離での移動において前者のほうがはるかに有利であるし、昨今路線拡大を続けているエアー・デカンやスパイス・ジェットといった格安フライトは、鉄道のACクラスを利用する人々をターゲットにしているものの、ネットワークがカバーする目的地の広がりはとうてい鉄道にかなうものではない。
     こうした具合に外圧が少ないことがインド国鉄の近代化を阻んでいるといえるかもしれない。現状のままで充分やっていけるからである。だからこそ『遅々として進む』という昔ながらのインド的速度(?)で進化を続けてきたのだろう。
    しかし今後高速道路網の建設や各地で空港の増設が予定されていることから、旅客のみならず貨物輸送の面からも鉄道は大きなチャレンジを受けることになる。余力がある今だからこそできること、しなくてはならないことは沢山あると思う。あるいはインドのさまざまな分野で進んだ変化の波が、国鉄のありかたにもおよぶ日はそう遠くないかもしれない。

  • 近未来のデリー お出かけは便利な地下鉄で 

      インドの(途上国はどこもたいていそうだが)公共交通機関を利用するのにはなかなかパワーが要る。都会は広いだけに、乗り物をうまく利用しないことにはにっちもさっちもいかない。通常、インドの都市部では公共の足といえばくまなく張り巡らされたネットワークを持つ市バスということになるだろう。郊外電車、路面電車を走らせている街もあるが、ごく限られた路線を行き来しているだけなので、利便性では前者の足元にも及ばない。
     だが線路といういかにもわかりやすいルートを往復するものと違い、道路にバス路線 が矢印で描かれているわけでもなし、しばらく長く住んでいなければどの番号のバス がどう走っているのか見当もつかない。そうであっても普段の自分の行動圏からはみ 出せば、やはり文字どおりの異邦人となってしまう。
     また膨大な人口を背景とした需要に対する供給が追いつかないため、朝夕には出入口まで乗客で鈴なりになっていたりするのを目にした途端乗る気が失せてしまうし、運行間隔がアバウトためか、同じ番号のバスが立て続けにやってきたかと思えば、その後首を長くしてもなかなか来なかったりする。バス停で完全にストップせずに「徐行」中にステップから乗り降りしなくてはならなかったりするのはお年寄りや身体に不具合を持つ人たちにはさぞ大変なことだろう。
     バスはともかく歩いていてもそうだ。「歩道」の縁石が階段の三段分ほども高く、一応足元に注意を払っていないと、蓋が失われたマンホールの中にスッと消えてしまうこともありえるし、コンクリートの敷石もあちこち欠落しているのでつまずいたりするし、急に野犬が飛び出してきたりもする。早朝にジョギングを楽しめる環境ではないから、歩いていても快適とは言いがたい。
     片側複数車線の大通りの中央分離帯は、反対車線から対向車が大きくはみ出してくることのない「安全地帯」だ。半分渡ってここで一息ついてから残りを渡ることができるのだが、これがない通りではかなりの勇気と判断力が必要になってくる。日本と違っておおむね街の灯が暗いこともあるが、特に見通しが悪くなる日没後はこれらに加えて「視力」も大切になってくる。

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  • テレビで体験 ダージリンのトイトレイン

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     6月16日(木)午後8時から放送のNHKの番組「探検ロマン世界遺産」で、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道が特集される。
     1879年から建設がはじまり1881年に開通したダージリン・ヒマラヤ鉄道。海抜100メートルのスィリグリから2200メートルのダージリンまで全長86キロのルートを走る。開業当時から客車を引っ張ってきたのはマンチェスターのアトラス・ワークス社製の蒸気機関車。オーストリアのサマリング・アルパイン鉄道に次いで、世界で二番目に古い狭軌の山岳鉄道といわれる。
     1999年に世界遺産に指定されてからも赤字続きだ。存続のためにフランス資本へ協力打診の話があった。老朽化した蒸気機関車に代わるディーゼル機関車の投入を検討すればユネスコによる世界遺産の取り消しの警告を受けた。このときはマハーラーシュトラ州のネーラルとマーテーラーンの間を走るもうひとつのトイトレインで使用中の蒸気機関車を慌てて移送するなどいろいろ大変だったようだ。その後、一部ディーゼルのエンジンが導入されているので、この問題については一応の決着はついたらしい。 
     世界遺産とはいえ自然や遺跡などと違い、歴史的背景への価値が認められたものの基本的には鉄道という運輸事業。今後どれほど長きにわたって存続するのかわからない。皮肉ではあるが、やがて消えてなくなるかもしれないがゆえに「遺産」としての魅力がさらに増すともいえるだろう。

  • またもや鉄道事故

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     インドではとかくアクシデントのニュースに事欠かないが、やはりまた列車同士の衝突事故が起きてしまった。
     本日(4月21日)インド時間午前3時過ぎ、ウッタルプラデーシュ州のヴァーラーナスィーからグジャラート州のアハムダーバード行きのサーバルマティー急行が、ヴァドーダラー地区のサムラーヤー駅付近で貨物列車に衝突した。事故現場に軍が出動、車内に閉じ込められた乗客たちを含めて全員救助されたものの、現在まで確認されただけで17名死亡、80名を超える負傷者が出ているとのことだ。
     日々1300万人を運んでいるといわれるインド国鉄は、文字通り世界最大級のネットワークを誇るが、同時に大小合わせて年間300件の事故が起きるという不名誉なレコードでもよく知られている。
     サーバルマティ急行といえば、2002年のゴドラ駅で起きた焼き討ち事件(それが引き金となり、グジャラート州で大規模な暴動に発展した)を想い起こすが、今回の事故もあり、なんだか厄にとりつかれた急行列車のような気がしないでもない。
     現場に急行した鉄道大臣のラールー・ヤーダヴは投石等に遭い大変な思いをしたようだ。幸いケガはなかったようだが、クルマの窓ガラスなどがひどく割れるなどの被害があった。(そのクルマを焼こうと試みた者さえあったとの話もある)
     同大臣は、この騒動が地元グジャラート州のBJP政権により組織されたものであるとして、「明らかに私の命を狙ったものである」として、州首相のナレーンドラ・モーディーの辞任を要求する発言をするなど、強く非難するなど、政争の火種も生じている。
     こういう出来事はしばしば政争の具になり、しばらく騒いだ後に話題にさえのぼらなくなる。今回もやはり事故の本質から離れたおかしな政治問題に発展してしまいそうな気配が感じられる。
     それにしても鉄道の事故が報じられるたびに思うのだが、メディアにいつも同じような写真が掲載されている。車両が原型をとどめないほど崩れていたり、他の車両のうえにまるで積み木のように乗り上げていたりといった具合だ。少なくとも素人目には、運転手が衝突直前まで事故回避の努力をほとんど行わず、減速なしにそのまま突っ込んだかのように見えるほどだ。事故の頻度はもちろん、規模が大きなものが多いことも気になるところである。
     近ごろ着実に近代化を進めているインド国鉄、サービスや利便性の向上は誰もが認めるところだが、人命の重さを肝に銘じて同じような事故がいつまでも繰り返されることのないよう安全面でも真剣に努力して欲しいものである。
    Sabarmati Express rams into goods train; 17 killed (Hindustan Times)

  • 英領インドに旅する 4 観る・遊ぶ

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     各地の遺跡や寺院等の紹介については、今のものとそう大きく違うわけではないのであえて言及するまでもないが、やはりイギリス人ならではの視点が感じられる部分も多い。「タンジャーウルのBRAHADESHWARA寺院には、英国人かオランダ人のどちらかと思われる像が彫られている」と書かれている部分がある。また在地勢力やフランス勢との抗争にかかわる戦跡をめぐる記述が多いことは特徴的である。
     クーラーのない時代、夏の暑さは耐えがたかったのだろう。各地のヒルステーションは彼らの大のお気に入りであったようだ。なんでもコダイカナルは「世界の気候三選」に入る(?)とまで絶賛されている。
     マドラス(現チェンナイ)のマウントロード(現在のアンナー・サライ)にあった「マドラスクラブ」は、インドで最も格式の高いクラブのひとつ。だが「街」としてはそれと比較にならない避暑地ウータカマンドの「ウータカマンドクラブ」はそれに次ぐほどの格式の高さを誇ったという。ニールギリーは英国人お気に入りの避暑地だったらしく、高級ホテルや高級なクラブがいくつもあり、テニス場やゴルフ場などの設備も備えた豪華なものも少なくなかったようだ。
     質実剛健で鳴らす英国紳士たるもの、故郷をはるか遠く離れても身体を動かすことを忘れるわけにはいかないのだろう。各地の紹介記事末尾には「Sport」という項があり、いきなりトラ、鹿、ヒョウ・・・などと動物の名前だけが羅列してあったりするのにはビックリだ。
     助太刀してくれる勢子や地元猟師、装備や獲物を運搬する苦力を現地で調達できるかどうかについても紙面が割かれている。現在ならば密猟は犯罪になってしまうし、動物愛護の観念が浸透している現在、狩猟を娯楽として楽しみたいという人はそう多くないと思うが、当時の身分ある男性としてはごく当然のたしなみであったのだろう。
     ちなみにこの頃、トラはまだ各地に沢山生息していたようである。また湿地帯での「クロコダイル・ハンティング」なんていう言葉を目にして心ときめかせた英国紳士たちは少なくなかったのではないだろうか。
     もちろんイギリス人といっても、とりわけインド貿易が東インド会社による独占状態から自由化された1830年代以降、相当数の商売人やその取り巻きたちが海を渡ってやってきたわけだし、在印のイギリス人自体が上から下までいろいろいたわけで、必ずしも支配者側の立場にあったとも限らない。また彼らとて外地にあれど「一枚岩」であったわけでもない。
     ボンベイ生まれのイギリス人小説家キプリングの小説「少年キム」の主人公のような浮浪する英国人孤児のような存在(この小説自体は決して悲惨なものではなく、冒険と機知に富む少年の活躍を描いたものだが)も実際にあったのではないかと思うのだが、これはまた別の機会に触れてみたい。
     1926年という、まだ「観光旅行」が一般的ではなかった時代に、植民地という今とはまったく違う体制にあった南インドの旅行事情を概説したガイドブックの復刻版のおかげで、支配層から見た植民地時代の世相も想像しながら時遡る旅することができる。現地を訪れる前に、予備知識としてぜひ一読されることをお勧めしたい。
    書名:Illustrated Guide to the South Indian Railway
    ISBN:8120618890
    出版:ASIAN EDUCATIONAL SERVICES
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  • 英領インドに旅する 3 移動する

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     鉄道駅では三等車乗客に対するアメニティは何もなかったが、一等、二等には待合室その他の施設があった。有料で新聞を読むことのできるREADING ROOMを設置している駅もあった。これは今のネットカフェに相当することになるだろうか。
     鉄道利用者数全体から見れば圧倒的に少ない白人乗客に対して手厚いサービスがなされており、インド人乗客のものとは別に専用のリフレッシュメントルーム(カンティーン)やリタイヤリングルームがあった。善し悪しはともかく、外国勢力による植民地支配とはこういうものなのだろう。
     食堂車やリフレッシュメントルームのケータリングサービスは、在印イギリス資本のスペンサー商会(Spencer & Co., Ltd.)による請負業務であった。
     この会社は創業者のジョン・ウィリアム・スペンサーにより1863年にマドラスで主にイギリスからの輸入雑貨を扱う商店を開いたのがはじまりだ。ごく短期間に急成長した同社は大規模な買収合併を繰り返して、欧州とアメリカ以外にある小売業者としては最大とまで言われるようになり、まさに当時のインドを代表する有力企業となっていた。デパートや商店などといった販売業に加えて、前述のケータリング、葉巻製造、ホテルやレストランの運営等にも手を伸ばすなど、非常に多角的な経営でも知られていた。 スペンサー商会にゆかりのあるホテルとしてはコネマラホテルが有名である。
     インド独立とともに経営陣の現地化が図られ、もちろん今でも存続している。周囲の地元資本の成長もあり、同社の影響力は相対的に低下して今ではかつてのような影響力はなくなってしまっているのだが。スペンサー商会発祥以来のゆかりの地であるマドラスのマウント・ロード、つまり現在のチェンナイのアンナー・サライにある大きなショッピング・コンプレックスのスペンサー・プラザは同社による経営である。
     このスペンサー商会についてまた別の機会に取り上げてみたい。
     メーターゲージの区間にはそれなりの料金を払えば専用のツーリスト・サルーンを連結させることも可能で、お金持ちがこれを利用して大名旅行をすることもあったのだろうか。
    ちなみにロンドンに本社を置く南インド鉄道会社の現地本部があったティルチラッパリは、世界最大級のルビー市場でもあったそうだ。
     英領から仏領への「国際列車」についての記述もあり、旅行者が越境するにあたって必要な税関等の手続きについても触れられているのは面白い。
     南インド域内には、COCHIN STATE RAILWAYのように別会社となっている路線もいくつかあるなど、今の国鉄のように経営が統合されているものではなかったようだ。

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  • 英領インドに旅する 2 泊まる・食べる

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     宿泊について、マドラスにはイギリス人を中心にしたヨーロッパ人経営のホテルが相当数あったらしい。19世紀半ばまで、欧州勢がインドで築いた街の中で最大規模を誇ったと記されているポンディチェリーに、GRAND HOTEL DE L’EUROPEと HOTEL DE PARISといった高級ホテルがあったそうだが、これらは今どうなっているのだろうか?
     当時各地自治体や藩王国などが運営していた宿泊施設「トラベラーズ・バンガロー」についての記述がよく出てくる。旅行そのものが盛んではなかった時代、キャパシティは数名程度とごくわずかだ。
     現在の各地の州政府の観光公社によるホテルの多くに、昔は「ツーリスト・バンガロー」というよく似た名前がつけられていることが多かったが、この古くからのシステムの系譜を引き継いだものなのだろうか。いつか調べてみたい。
     だがどうも解せないことがある。場所にもよるが「3日まで宿泊無料、それ以降は所定の料金がかかる」と記されていることが多いのだ。つまり3泊以内でどんどん移動していけば宿代はまったくかからないことになる。営利を目的としたものではなかったのかもしれないが、実際のところどうなっていたのだろうか?
     仏領のカライカルには欧州人旅行者用宿泊施設はなく、唯一のトラベラーズ・バンガローはフランス人役人の出張者専用であったというから、当時から各地にあった公務で訪れる人たちのためのP.W.Dレストハウス、ダーク・バンガローのような性格を持つところもあったのだろう。

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  • 英領インドに旅する 1 案内書を手にして

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     旅行ガイドブックも時代を経るとそれなりに歴史的価値が出てくる。1979年に起きたイスラム革命前のイランについた書かれたもののページをめくってみると、「物価の高いイラン」節約旅行するためのアイデアあり、「高給のイランで仕事にありつく」ためのヒントあり。遺跡や歴史的名所などの見どころは今も同じでも、時代が移れば旅行事情はずいぶん変わるものだ。
     さて、時代はるか遡った1920年代の南インド鉄道旅行ガイドブックである。当時2ルピー8アンナの「Illustrated Guide to the South Indian Railway」というタイトルのこの本は、南インド鉄道会社の沿線ガイドということになっているが、今でいうロンリープラネット社の「SOUTH INDIA」に相当する包括的な地域ガイドとみなしてよいだろう。
     なにしろ民間航空機による定期便運行が始まる前で、自動車による大量輸送システムも充分に発達していなかった時代、当時盛んであった船舶による移動は沿岸部に限られる。当時「モーター・バス(今でいうバス)」の運行区間は長くても60数キロ程度であったため、旅行の移動手段の王道はやはり鉄道であったからだ。
     もちろん沿線ガイドであるがゆえに、現在のガイドブックにはまず紹介されていない非常にマイナーな土地についての記述もあるので、意外な穴場を見つける手助けにもなるかもしれない。

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  • クラーンティ(革命)!

     かつては地域によりブロードゲージ、メーターゲージ、ナローゲージと軌道の幅が異なる路線が混在していたインド国鉄だが、着々と進められてきたゲージ幅の統一(ブロードゲージ化)が進んだことにより、ずいぶん使い勝手がよくなったと思う。昔はいちいち乗り換える必要があったルートでも、今では直通列車が走るようになってきている。たとえばデリー発ジャイサルメール行きの急行などもその一例だ。
     近年着々と進化を遂げているインド国鉄。2002年から新しい特別急行路線を導入している。それは長距離を走るサンパルク・クラーンティと短い距離をカバーするジャン・シャターブディーだ。サンパルク(接続、連絡)のクラーンティ(革命、前進)とは、なんとも大げさなネーミングだが、日本の新幹線やフランスのTGVのような超特急が導入されたわけではもちろんない。
     従来から少ない停車駅とスムースな走行で国内各地を結んできた長距離特別急行ラージダーニーや短距離のシャターブディーのルートと一部重なる部分があるのだが、これらとは少々性格が異なるようである。新しい特別急行にはエアコン無しの二等車も連結しており、鉄道による高速移動の大衆化がはかられている。
     またこの新しい特別急行の路線の一部には、以前メーターゲージ区間であった部分も含まれているようで、前述のブロードゲージ化を進めてきた恩恵のひとつともいえるだろう。

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  • ラージャスターンからスィンドへ

     インド・パキスタン両政府が、ラージャスターン州のムナーバーウ駅からスィンド州のコークラーパール間の列車運行を再開することで合意した。
     もともとはインドのジョードプルからバールメールを経て越境、パキスタンに入ってからはミールプル・カースを経てハイデラーバードへと続いていたこの砂漠越えルートは、英領時代の地図を開けば明らかなとおり、かつては首都デリーと貿易港カラチを結ぶ幹線ルートの一部であった。
     ちなみに現在ラージャスターン州とスィンド州を分けるインド・パキスタン国境は、植民地時代にはいくつもの藩王国による自治領ラージプータナと植民地政府が直接支配するボンベイ管区北西部との境界でもあった。イギリスからの分離独立後も1965年までこの路線が存続していたものの、両国間の関係悪化により廃線となっている。
     突如注目を浴びることになったムナーバーウ駅だが、現在ここへはバールメール駅から鈍行列車が毎日一往復するのみだ。
     カシミールからグジャラートまで、ずいぶん長い国境線を共有していながら、今のところ陸路ではパンジャーブ州のアタリー・ワガー国境しか開いていないことを思えば、新たにこのルートが開かれることの意味は大きい。
     ただこの鉄道再開が話題になったのはこれが初めてではない。80年代後半もまさにこの路線についての検討が進められていたようだが、やはり浮き沈みの多い両国関係の中で立ち消えになったという経緯があるのだから今回もどうなるかわからない。

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  • コロニアル鉄道

     イギリス時代の面影を残すクラシックな鉄道は、ダージリンやシムラーのトイトレインくらいかと思ったら、マハーラーシュトラにもあった。綿花を栽培する地方のルートであるムルティジャープルからヤヴァタマール間を毎日一往復するシャクンタラ・エクスプレスがそれだ。
     どんなものかと簡略版時刻表「TRAINS AT A GLANCE」をめくってみたが、「エクスプレス」なのに出ていない。小さな支線や各駅停車まで詳しく記載されている「INDIAN BRADSHAW」を開いてみると、全行程112キロ(下記リンク先の記事中には189キロとあるが)の狭軌を走る二等客車のみの鈍行列車であることがわかった。
     インドの鉄道草創期には「藩有」も含めた私鉄路線は少なくなかったが、ここは現在もなお民間の所有であるだけではなく、オーナーは植民地時代から引き続いてイギリスの会社だというのは驚きだ。実際の運行はインド国鉄が請け負っている。
     1994年にディーゼル機関車と交代するまでの1923年から70年ほどの間、マンチェスター製の蒸気機関車が列車を引っ張っていたのだという。
     特に鉄道に興味があるわけではないが、建物や街並み同様、英領時代の面影を今に伝えるものに大いに関心がある。近々廃線となる可能性もあるらしいので、今のうちにぜひ利用してみたい。
     コロニアル風といえば、インド国鉄そのものがそうした雰囲気に満ちていると言えなくもない。今でも各地の主要駅で、英領時代に建てられた立派な駅舎が利用されているが、客車もエアコンクラス導入以前からある従来型ものは、我々の目から見るとデリーの鉄道博物館に保存されている大昔のものと、車内の基本的な造りはあまり変わらないように見える。
     だがどこもかしこも着実に近代化が進む中、インドの鉄道も急速にアップデートされているため、そうした面影を感じることのできる時間はそう長く残されていないようだ。
    A railway ride into history (BBC NEWS)