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カテゴリー: railway

  • ダージリンでトイトレイン乗車

    ダージリンでトイトレイン乗車

    ダージリン駅
    整備中の蒸気機関車
    イン鉄ファンの聖地、ダージリン・ヒマラヤ鉄道の終着点、ダージリン駅に行く。ダージリンにはこれまで3回訪れたことがあるが、事故で運休中であったり、数日先まで予約が一杯であったりして、ここからひとつ先で、インドにおける最高地点にある駅(海抜2,258m)のグムまで行き、そこにある鉄道博物館を見学してからダージリンに戻るという「ジョイライド」の経験しかない。
    グムの博物館は、トイトレインの歴史を知るうえで貴重な写真や資料が沢山展示されているし、今残っているスィリグリーとダージリンを結ぶ路線以外にも、かつてはカリンポンまで伸びている路線、ビハール州北西部のキシャンガンジまで結ぶ路線もあったことを知ることができるなど、いろいろ興味深いものがある。どちらの路線も崖崩れ等の事故により不通となり、モータリゼーションの時代に入りつつあったこともあり、廃線となっている。
    ダージリン駅に着いたときには、すでに午後4時を回っていた。ジョイライド以外の正式な出発便は、8 AM, 10:15AM, 1PM, 4PMとあるのだが、ちょうどこの日一番最後の汽車が出たところであり、シャッターチャンスを逃してしまった。
    窓口で、明日10:15 AMのチケットを予約できないかと尋ねてみると、案の定満席であるとのことであった。現在、トイトレインの運行はダージリンから四つ目の駅のカルスィヨンまでとなっている。そこから先は、2011年6月の大雨による崖崩れ、同年9月に発生したスィッキム北部を震源とする大地震の揺れとそれに加えての大雨による地滑り、2012年7月にも大規模な崖崩れが発生するなどして、ずいぶん長く国道55線の一部が閉鎖されているため、クルマはバイパスを迂回するようになっており、これに沿ってレールが敷かれているダージリン・ヒマラヤ鉄道もカルスィヨンから先への運行は停止されている。ダージリン・ヒマラヤ鉄道のウェブサイトにはその状況についての写真報告がなされているのでご参照願いたい。
    2011年8月撮影画像 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    2012年1月撮影画像 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    2012年1月撮影画像 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    2012年7月撮影画像 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    撮影時期不明 ティンダリア駅周辺の惨状1 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    撮影時期不明 ティンダリア駅周辺の惨状2 (ダージリン・ヒマラヤ鉄道)
    そんな具合で中途半端なところまでしか行くことができないので、ひょっとしたら前日でもチケットが手に入るのではないかと期待していたが、そうはならなかった。今ではネット予約できるようになっているので、事前に購入しておけば良かったのだろうが、今回は旅程が直前まで定まらなかったため仕方ない。
    ただし駅の窓口で「明日朝9時半に駅長室に行けば、クォータがあるかもしれない。」と言われたので、こちらに賭けてみることにする。突然、要人や任務を帯びた役人等が利用することがあるかもしれないので、多くの場合、鉄道では出発ギリギリまでそうした割当を留保しているものなので、出発直前になってそれらが売りに出されたりすることがある。
    もっとも、同じようなことを言われて来る人が他に何人もいるはずなので、馬鹿正直に言われた時間に出向いたりすれば、そんな席はとっくになくなっているに決まっている。その足で駅長室をノックして頼み込んだ結果、首尾よくチケットを手にすることができた。駅長氏の計らいと自分自身の幸運に感謝する。
    こんな装置も相当年季が入っているのだろう。
    翌朝、少し早めに駅に到着して、しばし写真撮影。やがて機関車とともに列車が入線してくる。昨夕のカルスィオン行きは蒸気機関車の牽引であったが、今回私が乗るものはディーゼル機関車であった。それでも200%の満足感がある。初めてダージリンを訪れて以来、22年間温めてきた夢であるからだ。カルスィヨンまでは3時間くらい。乗合ジープならばその半分くらいの時間で着いてしまう。それほど遅いのだ。
    駅構内
    トイトレインは発車
    130年以上の歴史を誇るこの鉄道は、地滑り以外にも、しばしば道路を横断するため、クルマとの衝突事故もたまに起こしている。おそらく道路交通との兼ね合いで、線路敷設してある場所を移した場所もあるようで、現在鉄路が走っているのとは違う部分にレールの痕跡が見られる箇所がある。タイガーヒルに行く途中にある「ループ」をグルリとトレインは周り、さらに高度を上げていく。
    楽しい車窓風景
    車窓からの景色は、シェアジープのものとはまったく異なって見える。窓の背が高いこと、スペースに余裕があることなどもあるが、やはり鉄路を走っているからということもあるだろう。イギリス時代には、このトイトレインとそのシステム自体が、とんでもないハイテクであり、民族主義という観念が頭を持ち上げる前には、ただひたすらイギリスからもたらされた新しい技術に、人々は感嘆していたに違いない。
    グム駅
    今ではずいぶん古びた乗り物になり、時間もジープの倍かそれ以上かかるので、まったく時代遅れで非実用的なものとなっているが、1999年に世界遺産に指定されたことでその存在意義を新たにしている。
    トゥング駅
    車内風景
    ダージリンからカルセオンまでの間、グムともうひとつの駅があり、そして今のところ臨時的に終点となっているカルセオンとなる。駅間の距離はかなりある。カルスィヨンは、イギリス時代から続く、もうひとつのヒルステーション。こちらにもまだイギリス時代の苔むした建物がいくつか残っており、なかなか味わいのある町並みを楽しむことができる。
    車窓風景
    カルスィヨン駅はもうすぐ先
    崖崩れで不通のため、当分の間終着駅はカルスィヨン
  • TRAIN IMPOSSIBLE

    インドの隣国バーングラーデーシュの首都ダーカー近郊のトンギにて、毎年1月あるいは2月に、3日間に渡って行われるビシュワ・イステマーは、ムスリムの人々が一堂に集まる催しとしては、サウジアラビアのメッカにおけるハッジに次ぐ規模の人々がやってくるという。

    北インドのデオバンド学派の流れを汲むタブリーギー・ジャマアトの呼びかけにより、1946年に始まったものであるというから、まだ歴史は浅いものの、近年ではそこに集う人々の数は400万人とも500万人とも言われるようになっている。タブリーギー・ジャマアトの影響力の大きさを感じずにはいられない。

    一国の首都に匹敵する規模の人数がその祝祭のために各地からはるばるやってくるということになるから大変だ。そんなわけで、交通機関も大変混み合うことになるようだが、その典型的(?)なラッシュぶりや祝祭の様子を伝える写真を掲載したウェブサイトへのリンクが、Facebookでシェアされていた。

    こちらがその驚異的な混雑ぶりだ。機関車の形や客車の色合いさえもよくわからないほどで仰天してしまう。

    願わくば、トンギに集うすべての善男善女たちに幸多からんことを。

  • インドで高速鉄道計画

    2017年までに、インド西部で最高時速200キロの高速鉄道を導入することが計画されている。

    Railways looks to run Delhi-Mumbai trains at 200 kmph (The Times of India)

    これにより、たとえばムンバイー・デリー間の列車移動にかかる時間が相当短縮されることになるらしい。プネー・ムンバイー・アーメダーバード間については、日本の新幹線システムを採用する方向にあるという点にも注目したい。

    インド、日本の新幹線システム採用軸に協議 両首脳合意 (asahi.com)

    現在のインドの「高速鉄道」といえば、ラージダーニー急行、シャターブディー急行といったところだが、どちらも最高速度は時速120キロ程度。ゆえに日本の新幹線システムや他国の高速鉄道技術の導入が計画されているわけだ。

    インドの場合、どの分野にあってもシステムとしては良いものであっても、現場のクオリティ・コントロールが粗雑であるがゆえ、いろいろと問題が生じているケースが多い。鉄道についてはどうだろうか?

    ときに、同じ線路の上を両方から走ってきた列車が正面衝突したり、古い橋梁が崩壊して車両が落下したりといった、信じられない惨事が起きたりするのもインドの鉄道。

    輸送の高速化はもちろんのこと、安全管理についても飛躍的な向上が見られることを願ってやまない。

  • インドの豪華列車

    インド国鉄の関連団体IRCTC(Indian Railway Catering
    and Tourism Corporation)による豪華列車ツアーはいろいろあるが、本家本元といえば1982年にサービスを開始したPalace on Wheelsである。

    豪華な設備の整った車両で、デリーから出発し、アーグラーに加えてラージャスターン州のいくつかの土地を巡る7泊8日の行程で、その模様はPalace on Wheelsのウェブサイト上にて動画で公開されている。

    費用についてはこちらをご参照願いたい。提示されているのは一泊当たりの料金であることに注意が必要だ。

    Palace on Wheelsは、アーグラー以外の訪問地はラージャスターン州内であるのに対して、行程もカージュラーホー、バナーラスといった他州の観光地も含まれることに加えて、設備もモダンなバージョンが、2009年に開始されたRoyal Rajasthan on Wheelsだ。

    Palace on Wheelsの南版といえるのが、2004年に運行開始したDeccan Odyssey。ムンバイーを出発し、7泊8日でマハーラーシュトラ州内に加えてゴアを訪れる。東南部に目を移せば、2008年に開始されたThe Golden Chariotという豪華列車もある。こちらはThe Pride of Southと題したバンガロール出発でカルナータカ州内とゴアを訪れる行程と、Southern Splendorという、同じくバンガロール発だがタミルナードゥとケーララの両州を訪れるツアーがある。

    こうした豪華列車によるツアーの売り上げがなかなか好調なのか、2010年からはMaharajas’ Expressというサービスも開始されている。他の豪華列車と異なるのは、お決まりの7泊8日の行程が、ムンバイー発でアジャンターからラージャスターン各地、そしてアーグラーを経てデリーが終点となるHeritage of India、デリー発ではアーグラー、ラージャスターン州の複数個所、M.P.州はU.P.州を経てデリーに戻るIndian Panorama、デリー発でラージャスターン州を経てムンバイーに至るIndian Splendor、3泊4日でデリー、アーグラーとラージャスターン州を訪れるTreasures of IndiaGems of Indiaがあるという力の入れようだ。

    個人的には、こうした豪華列車にどの程度の関心があるかといえば、正直なところまったくないのだが、かねてより乗車してみたいと思っているものがひとつだけある。Fairy Queenというのがそれで、デリーからアルワールの区間のみ、いつか利用してみたい。

    蛇足ながら、ツーリスト・トレインのパッケージは、必ずしもひとつの行程が数千ドルもする高額なものばかりというわけではなく、数千ルピー程度から参加できるものも用意されている。もちろんこれらは「豪華列車」ではないことは言うまでもないが。

  • IRCTC (再々アップデート)

    前回は、今年7月にIRCTC (再アップデート)と題して、ウェブでのインド国鉄のEチケット予約について、携帯電話(インドの携帯電話会社のSIM利用)に送られてくる認証パスワードが必要になっていることについて触れたが、それを含めてインド人の間でもインド国鉄予約サイトの使い勝手は評判がよくないようだ。

    その不便さを解消する目的で、これまでのクレジットカードでの支払いに加えて、近々RDS (Rolling Deposit Scheme)なるものが開始されることになるようだ。要はネット予約を扱っているインド国鉄関連会社のIRCTCに「プリペイド」でお金を預けておき、そこから予約するチケットの代金が差し引かれるという仕組みだ。

    このシステムを利用することにより、これまで予約作業途中にエラー表示が出たり、携帯電話で受信しなくてはならなかった認証パスワードが不要になったりという面倒が解消されるという触れ込みではある。

    詳しいことはまだ明らかになっていないので、インド国内からの銀行送金以外にどのような「プリペイド」方法が可能になるのか、その「プリペイド」の支払い手段としてクレジットカードが使用できるのかも今のところ不明。

    IRCTC to launch deposit scheme for faster bookings
    (Times of India)

    IRCTC mulls prepayment cards to reduce
    transaction failure rate (The Indian Express)

    詳細が明らかになるまでは批評を差し控えたい。だがiPhoneやiPadのアプリケーションで、『Indian Railway Booking』アプリケーションが出てきて、サクサクと簡単に予約すれば、予約代金はiTunesに登録してあるカードから引き落とされ、あとは乗車後に『My Booking』のアイコンにタッチすると表示される予約内容を車掌に見せるだけ・・・という具合になればありがたい、と思うのは私だけではないだろう。

    南アジアの鉄道で、ウェブ上での予約・発券が可能な国はインド以外に存在しない。現状でもインドは『大変進んでいる』ので、あまり多くを求めるのは酷かもしれないが。

  • IRCTC (再アップデート)

    またインド国鉄時刻表改定の時期の7月となった。先月末の時点で、同鉄道のウェブサイトにアップロードされているTrains At A GlanceのPDF版は、2012年7月以降(2013年6月末まで)の内容に改められた。

    ひところ、インド国鉄のウェブ予約を扱うIRCTCのサイトでは、インド国外発行のクレジットカードによる支払いができず不便であったが、cleartripという助け舟的な旅行予約サイトの存在があることは、1年半ほど前にIRCTC (アップデート)と題して取り上げてみた。

    だがしばらく前から、事前にIRCTCのサイトで手続きして、インドで入手した携帯電話に送信される認証パスワードを入力しないと購入できなくなっている。厄介なのは、インドの携帯電話でないとこれを受け取ることができないため、もともとそうしたものを所持していないとか、持っているけれどもインド国外にいるという場合だ。

    そうしたケースの場合は、IRCTCにその旨の電子メールを送れば、メール宛に認証パスワードを送信してくれることになっているのだが、パスポートの写しを送信しなくてはならないし、返信が来るまで1日か2日程度かかるので、「ああ面倒!」と思う人も少なくないだろう。

    そのあたりについては、『インド鉄道利用法:予約から乗車まで』というウェブサイトに詳しく書かれているのでご参照願いたい。

    予約内容をプリントアウトすることなく、携帯電話やiPad等に送信された予約内容をそのまチケットとして利用できるという措置が取られるようになっている一方で、予約手続き自体は利便性の向上と逆行しているのがもどかしいところだ。

    目的は、クレジットカードの不正利用、そして乗客に対するセキュリティ対策の一環といったところに尽きるのだが、運用されるシステム自体はいかにも「お役所的」である。つまり何か対策が取られるべき問題があるとして、それに対していかに効果的に実施するかという方向ではなく、「これを実行しました!」「こういう対策を取りました!」といった具合に、場当たり的な『私たち、仕事してます』というアリバイ作りに終始しているように思われる。

    クレジットカードの不正使用はともかく、仮に犯罪をもくろむ人物が狙いをつけた列車のチケットを入手しようとするならば、駅の窓口や旅行代理店などいくらでもある。ちょうど、鉄道駅のセキュリティ対策と同じようなものだ。

    大きな主要駅のエントランスから入場する乗客たちに大げさなセキュリティチェックを施していても、実は沿道からプラットフォーム脇に入ることができるようになっていたり、駅構内にテナントとして入っている食堂等を経由したりすれば、保安要員の検査を受けることなくプラットフォームに入ることができてしまうことが往々にしてある。また中途駅ではそのような措置さえないところが少なくない。

    ペーパーレスのチケットが有効となっているならば、いっそのことIRCTCがAppleのiPhone / iPad用あるいはGoogleのアンドロイドの予約用アプリケーションでも開発して、それらを経由して予約・支払いができるようにでもしてくれたら、販売側も管理は楽になるだろうし、利用者側ともによほど助かるのだが。

    今のところ、IRCTC用のそうしたスマートフォンやタブレットPCからアクセスできるIRCTCのモバイル用サイトを除けば、アプリケーション自体でインド国鉄のスケジュールや路線のチェック、PNRステイタスの確認等が出来るものはいくつか存在しているのだが、直接予約をできるようにはなっていない。

    今後の進展に期待したいところだ。

     

  • 泰緬鉄道終点

    泰緬鉄道終点

    ヤンゴンから夜行バスでモウラミャインに着き、宿に荷物を置いて少々仮眠してからタンビュザヤ行きのバスに乗り込む。

    混雑していても、そこは人々のマナーの良いミャンマーなので、ガサついた感じはないのだが、窓から差し込む強い陽射しを避けようと、車内窓際の座席で日傘を広げる女性が少なくないのには閉口する。邪魔なだけではなく、危険ではないか!

    このバスは、沿道の人々の貴重な移動手段となっているため、あちこちで客を降ろしては、少し先で乗せてということをチョコチョコと繰り返しながら進むため、行きは3時間もかかってしまった。帰りは乗り合いのピックアップを利用したのだが、その半分の1時間半ほどでモウラミャインに戻ることができたのだが。

    それはともかく、モウラミャインの町に着いた。かつて泰緬鉄道で使われていたという蒸気機関車、ミャンマー側の終着駅であった場所、連合軍墓地などを見物したかったので、とりあえずバイクタクシーにそれらの場所に向かってもらうことにした。

    タイでもミャンマーでも、揃いのベストを着用した運転手たちによるバイクタクシーは各地にある(走行するバイクを見かけないヤンゴンを除く)が、ふと思ったのは、インドにおいては、ゴアのような一部の地域を除けばこうした開業が手軽で、利用者にとっても手頃な交通手段がないのかということ。とりわけ、山間部にあるヒルステーションのように、街全体が斜面にあり、道路は狭くて勾配も急であったりして、バスやオートリクシャーなどが往来できないような土地では、ずいぶん重宝される可能性がある。

    だが、よくよく考えてみるまでもなく、インドにおいては、運転手との距離が近すぎて、身体的な接触があることについては、とても抵抗感があるはずだ。もちろん公共交通機関に関する法的な規制等の関係もあることだろう。私自身、運転手とのこの距離感はどうも馴染めないし、それにタイの若いバイクタクシーの運転手のようにカッ飛ばす者に乗せてもらいたくないので、やはりミャンマーでも落ち着いた感じの中年運転手に頼むことにしている。

    町中から少し出たところに、かつて泰緬鉄道で使われていたという日本製の蒸気機関車がひっそりと置かれていた。C56型のこのタイプの機関車は泰緬鉄道に導入され、第二次大戦が終わってからも、タイ・ミャンマーそれぞれの国鉄で用いられていたという。この車両が置かれているところから、古びた単線のレールが南方向に延びているが、少し先からは茂みの中に消えていく。

    C56蒸気機関車
    おそらく泰緬鉄道のレール

    タイで走っていた機関車のうちの二両は、その後タイから日本に「帰国」し、一両は靖国神社の遊就館に展示されており、もう一両は大井川鐵道にて現役で走行している。

    タイのバンコクから北西方向、カンチャナブリーを経て、タンビュザヤに至った泰緬鉄道は、第二次世界大戦時に日本軍がその建設を決行するより以前から、当時のビルマ(現ミャンマー)を統治していたイギリス当局により、このルートの鉄道敷設の構想はあったものの、地理条件により断念されていたとされる。

    建設にあたり、日本の担当者は5年程度の歳月が必要であると見積もっていたが、日本軍はこれをわずか1年とひと月で強行した。これにより、連合軍捕虜1万6千名ならびにアジア各地から徴用された8万人を超える労働者たちが死亡することとなった。

    この鉄道建設については、デヴィッド・リーン監督による1957年公開のThe Bridge on the River Kwai(邦題:戦場にかける橋)にも描かれており、旧日本軍による苛烈な捕虜虐待と戦争犯罪の一例として、世間でよく知られているところである。

    タンビュザヤ駅

    市街地に戻り、そこから少し西に進んだところには駅舎があった。新しい枕木が置かれていたり、レール上部が光っていることからもわかるとおり、とうの昔に泰緬鉄道は廃線となっているものの、この駅自体は遺蹟化しているわけではない。モウルメインからイェー経由でダウェイに向かうルート上にあり、今でも毎日数本程度の客車や貨物車が往復しているようだ。

    ダウェイへと続く鉄路

    さらに西­方向に行くと連合軍墓地がある。広大な敷地の奥に慰霊塔では、オーストラリアの国旗が掲げられるとともに大きな花輪が捧げられていた。何かの記念日に当たるのか、セレモニーが開かれているようであった。参列している人たちの多く、といっても十数名程度だが、白人の人たちであった。おそらくオーストラリアの人たちなのだろう。リーダー格と見られる人は中年男性、その他は小さな子供を含めた家族連れであった。

    広大な連合軍墓地
    慰霊塔に掲げられたオーストラリア国旗と花輪

    ちょっと話をしてみようかと思ったが、集っている人たちも私も戦争を知らない世代ではあるものの、ここに埋葬されている人々にとって、彼らを散々苦しめた加害国の人間であるがゆえに、非常にためらわれた。結局、声をかけることなくその場を後にした。こうした場でのセレモニーであるだけに、日本人であることを非常に重荷に感じてしまう。

    数多くある墓標の中には、やはり名前がわからず記されていないものも多い。身元がわかっている人物の場合、記されている享年は多くが20代あるいは30代。またある墓標には花が供えてあった。ちょうど開かれていたセレモニーに合わせて、誰か身内の人が訪れたのかもしれない。

    花が供えられていた

    タンビュザヤから乗り合いのピックアップでモウラミャインに戻る。着いたのは午後4時。見物に夢中になったり、適当な食事処が見当たらなかったりで、昼食を抜いたり、ずいぶん遅くなってから食事したりということは多い。

    この日も、ほとんど夕食に近い時間になってしまったが、河沿いにある食堂に入ると、ヤンゴンからの夜行バスで一緒だったイギリス人青年がちょうどビールを飲んでいたので相席する。よく冷えたビールが喉に心地よい。彼と軽食をつまみながら二杯ほど飲んでから、午後8時くらいに付近にある他の場所で待ち合わせて一緒に夕食をすることになった。

    1943年の泰緬鉄道を建設に関わった旧日本軍の人々も連合軍側の人々も、やがてこういう平和な時代が訪れるとは夢にも思わなかったことだろう。すべての人々にとって不幸な戦争、国家の名のもとに敵味方に分かれて命を奪い合うような時代を繰り返すようなことは、今後決してあってはならない。そのためにも戦争の記憶を風化させてはならない、歴史を曲解させることがあってはならない、と私は常々思っている。

  • バンガロールからマイソールまで30分で駆け抜ける!

    チェンナイからバンガロール経由でマイソールまで繋ぐ高速鉄道建設計画があるのだとか。バンガロールからマイソール間には、なんと30分で到着してしまうものだというから驚きだ。

    最高時速は350kmというから、速度もまさにワールドクラス。だが気になるのは、それが実現した際の安全性か。どうも中国の新幹線のことが脳裏をよぎる。

    Bullet train may connect Mysore-Bangalore in 30 mins (YAHOO ! INDIA FINANCE)

    上記リンク先に出ている画像は、世界各国の高速鉄道の車両。インドの新幹線構想のプロトタイプではないので念のため。

  • ジャイプル・メトロ

    昔々のデリーは、とてもクルマが少なかった。スズキのマルティが独り勝ちしていた頃のことだ。他の自家用車といえば通常はアンバサダー、パドミニーくらいと、非常に車種も少ない時代で、今やもう大昔ということになる。二輪の類も古いヴェスパのモデルをバジャージがインド現地生産したスクーター、あとはバイクといえば排気量125cc程度の小さなものくらいしか見かけなかった。

    乗用車にしても、バイクやスクーターにしても、購入できる層が限られていたため、道路は閑散としており、「渋滞」という言葉さえも知られていなかった。同じ頃、まだ首都圏の高速道路網が無く、BTSや地下鉄もなかったバンコク市内は各所でひどい渋滞で、どこに行くのも一苦労。それに比べてインドの大都市の道路は何て空いているのだ!と思ったものだ。市バスでもオートでもビュンビュン飛ばしてすぐに目的地に着くことができた。

    やはり転機は90年代前半以降であった。経済成長が軌道に乗り、デリー首都圏の人口が急増、人々の可処分所得も急上昇していく中、政府の外資の積極的な導入姿勢と外資による新興市場インドへの期待感から、様々な四輪・二輪メーカーがインドに続々進出していき、それとともに道路を急速に様々なクルマたちが埋め尽くしていった。

    そんな中、デリー・メトロ建設の槌音が聞こえてくるようになったときには大きな期待感を抱いた。このネットワークが完成した暁には、昔みたいにスムースにあちこちに出かけることができる、いやバスのルートを知らなくても、簡単にどこにでも行くことができるようになるのだろうと。

    そして現在、デリー・メトロのネットワークが広がり、市内の長距離移動が格段に楽になった。とりあえず目的地の最寄駅まで乗車して、後はオートでも利用すれば非常に短い時間で到着することができる。便利なものである。

    昨年10月からはラージャスターン州都のジャイプルでも建設が始まっている。市内各地で工事が進行中だ。

    Jaipur Metro

    完成時のネットワークはこのような具合になる。

    他にもムンバイー、バンガロール、チェンナイ、ハイデラーバード等でメトロ建設が進められており、同様にアーメダーバード、ラクナウー、コーチン、ルディヤナー、チャンディーガル等でもメトロ建設着工の計画がある。多少の紆余曲折があっても、これからも引き続いて右肩上がりの経済成長が見込まれるインドはまさに日の出の勢いといった具合だ。

    一昔、二昔前を振り返れば、現在との大きな違いを実感でき、今後も更にベターな明日を思い描くことができるインドが、とても眩しく見える。

  • Trains at a Glance 2011年7月改定版

    日々が過ぎ去っていくのは早いもので、2011年もすでに半分以上が終わってしまった。インドにおいて7月は鉄道時刻表改定の時期だ。例年のごとく国鉄のウェブサイトにこれがPDF形式でアップロードされている。

    Trains at a Glance (July 2011 – June 2012)

    なお今年5月から7月までの夏季特別列車の時刻表も閲覧できる。

    All India Summer Specials Time Table (April-July2011)

    インターネットでの鉄道予約といい、ウェブで閲覧できる時刻表といい、かつて列車の予約が大仕事だった時代がまるでウソのようだ。

     

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • 日帰りトレック2

    日帰りトレック2

    最初はお互いよそよそしくても、行程が進むにつれていろいろ話したりしながら打ち解けてきた。時間の経過とともに、だんだん『ひとつのチーム』になってくる。昼食を取ったあたりから、誰もがよく話すようになってきて、ちょっとした小休止のときも車座になって話が弾む。

    鉄路

    鉄路に出た。まさにこの鉄道建設のために、19世紀末から20世紀はじめにかけて多くのインド人たちがこの地にやってきたのだ。そこからしばらくは線路上を歩き、次の村に到着する。ここでは鍛冶屋もある。農耕具を作っているのだそうだ。

    ちょうどガーリックを収穫して干しているところであった。もち米で作った煎餅状のものを干してある。これを焼いて食べるのだそうだ。日本の煎餅と同じようものができることだろう。

    焼き上げる前の煎餅

    そこから少し下るとカリフラワーと豆の畑と水田があった。水量豊かで新鮮な野菜が採れる里。一瞬、理想郷という言葉が脳裏をかすめるが、そこに暮らしている人たちはそれが理想であるとは思っていないかもしれないし、山村での暮らしは楽であるはずもない。

    次の集落にたどりつく直前の坂道では、沢山のヒルがうようよしていた。今日も昨日以前のような調子でずっと雨が降っていたならば、きっと手足をひどくやられていたことだろう。

    本日最後に訪れたのはシャーマンの家。様々な生薬を配合した薬を作っているという。それで私たちはそれらを少しずつ味見する。たしかに生薬の味がする。それらが何か効果があるのかどうかは知らないが。

    シャーマン

    このシャーマンは代々長く継承されてきたものだというが、現在82才だというこの人物で途絶えることになりそうだという。彼の息子は複数いるが、誰一人として継がないのだという。

    その家のある集落を後にして再び線路の上に出る。そして他の7人とはお別れだ。さて、ここからはネパール人ガイドと二人でカローまで戻ることになる。予定では午後6時か7時には宿に帰着することになっていたが、ちょっと遅くなったようだ。

    もう陽がすっかり傾いている。じきに辺りは暗くなってしまうだろう。夕方の山の景色は美しかった。だが写真を撮る気にならないのはちょっと気が急いているからだ。治安の良好なミャンマーとはいえ、真っ暗になった山道を歩くのは決して誉められたものではない。

    人を襲うような獣が出てこなくても、足元に毒ヘビがいたところで、ボンヤリした懐中電灯の光では気が付かないかもしれない。本来ならまだ雨期入り前のはずだが、このところ雨が多いため田畑脇の道端などでヴァイパーの類の有毒ヘビをしばしば見かけたし、昼間の山道でもそうした毒蛇に遭遇した。そんなわけで夜道で一番気になったのがこれである。

    トレッキング中ではないが、町中で見かけた。雨が降ると乾いた場所を求めてニョロニョロ移動してたりする。

    ほとんどすれ違う人もなく、黙々と進む。ときおり反対側からやってくる帰宅途中の村人の姿がある。すでに真っ暗になっているのに牛を連れて帰る人たちもいた。すっかり周囲が見えなくなってから、私たちは懐中電灯を手にしているが、彼らは手ぶらだ。よく足元が見えるものだ。

    空は雲行きが怪しい。こんなところで真っ暗になってから大雨にやられたらたまらない。幸いにして宿に着くまで降らなかったが。

    しばらく進んで町に近くなってきたあたりに寺があり、そこにはネパール人がよく出入りするのだそうだ。サラスワティー寺院ということになっているが、ビルマ族、シャン族などは仏教の寺として参拝しているとのこと。

    カローの町はまだしばらく先であった。鉄路に出て枕木の上をしばらく歩く。枕木が等間隔で敷いてあればいいのだが、そうではないのでけっこう疲れる。細い川にかかる小さな鉄橋の上の線路を歩く。暗くて左右がどうなっているのかよく見えないためちょっと緊張する。水場に近いところでがチラチラと飛び回るホタルの灯が美しかった。

    ようやくカローの郊外に出た。カローホテルという政府経営のホテルの脇を通過する。20世紀初頭からの伝統を持ち、カローでもっとも古いホテルである。

    やがて裁判所等がある大きな通りに出て、モスクが見えてきた。ホテル到着は夜9時近かった。連れて帰ってくれたネパール系の道案内人に「外にメシでも食いに行かないか?おごるよ」と声をかけるが、彼は「もうおそいし、家がちょっと遠いので・・・」と夜道に消えていった。この人は宿の家族ではなく、必要に応じて呼ばれる日雇いの案内人である。

    デイパックを部屋に置き、近所のネパール食堂に行く。疲れた身体と空っぽになった胃に温かい食事が心地よい。ビールの酔いもまた最高だ。

    <完>