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  • パンカム村への道3

    パンカム村への道3

    パンカム村に到着。左手はパラウン族の仏教寺院の門

    午後2時過ぎに、パラウン族が暮らすパンカム村に到着。本日宿泊する先の民家で昼食を出してもらう。米はもち米で、料理は菜食料理。西洋人の中には肉を嫌がるものがいるので、トレッカー相手には菜食にしているのだという。もちろん西洋人たちの間ではヴェジタリアンは決して珍しくないとはいえ、多くの場合は冷蔵保存施設などありもしない村という衛生上の理由、加えて目の前で鶏などが殺されるのを目にしたくないといったことなどが理由だろう。また民家側のほうとしてみても、やはり肉を出すのは高くつく。

    昼食。手前は米とバナナの花の炒め物である。

    出てきた昼食は、もち米、春雨のスープ、米とバナナの花の炒め物でおこげのようになったもの、ジャックフルーツの実の炒め物であった。魚醬は使われていないようで、何か発酵調味料が使用されているような気がする。ちょっと不思議な味わいだ。ちょっと洗練させれば面白い料理になるかもしれない。

    村のたたずまいは、プラスチック製品とわずかながら電気が来ている(川での自家水力発電かどうかは知らない)があること、バイクを持っている家があること、人々の多くが中国製の洋服を着ていること、屋根がトタンであることを除けば、数百年前とほとんど変わらないのではないかと思う。今も料理の燃料は薪だし。それがゆえに森林伐採が進むということもあるかもしれない。

    宿泊する家の隣は仏教寺院。木造の建物で、これまたそう言われないとお寺とは気が付かない。前にシャン州に来たときに、木造の仏教寺院が珍しく思えたが、実は村に来るとこういうのが普通にあることがわかる。村に来てこそ、その民族のオリジナルな文化の基層部分、根幹の部分に触れることができるともいえるだろう。

    宿泊先の民家
    村の中で最大級と思われる家屋

    山間の村ではあるが、元々は馬を乗り回していたというパラウン族たちはバイクをよく利用している。どれも安価な中国製だが、これを用いることにより、行動できる半径が何倍にも伸びる。村からスィーパウまではバイクで一時間ほどで着くということなので、飴で道がグジャグジャになるモンスーン期を除けば、町の仕事に就いて、ここから通勤することだって不可能ではないだろう。町からその程度の距離であれば、今に道路が舗装される日も来るだろうし、四輪が乗り入れることができるようになる日も来るはずだ。

    もちろんそういう時代になると、村の様子は大きく様変わりして、スィーパウの町角とあまり大差なくなっていることだろう。ここが少数民族の人々と出会うトレッキングの中継地として、観光客を多く呼び込むようになってくると、住民たちもパラウン族ばかりではなくなり、他の地域の人々、シャン族はもとより、ビルマ族、中華系、インド系の人たちも商機を求めて移住してくるということになるのではないだろうか。もとより商売にかけては、明らかにパラウン族よりもそうした人々のほうがノウハウも経験もある。

    しばらくのんびりして過ごしてから、ウィン氏に午後4時半に村の北側を1時間ほど案内してもらった。このあたりはまだ森林が少し残っている。やはりこの丘陵地はどこも一面鬱蒼と茂ったジャングルであったのだろう。ここでも斜面には茶が栽培されているが、やはりちゃんと手入れされてはないようで、植え方も乱雑で、まばらに植えてある。

    馬たちが草を食む姿もあった。パラウン族の人々がバイクに乗るようになる前に重宝していた日々の足である。

    茶摘み歌が聞こえてくる谷間。ショボショボと生えている灌木のようなものは実は茶の木。

    西側に開けた谷間に来ると、とても涼しくていい風が吹いている。遠くから茶摘み女の歌声が聞こえてきた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、その澄んだ声色に心奪われる。ぜひとも次代にも残してほしい村の風物だ。

    村の遠景

    村に戻り、すっかり日が暮れてきたあたりで、宿泊先の家で出された夕食は、よくわからない山菜やらいろいろあったが、特に印象的であったのはコンニャクだ。日本のそれよりももっと水分が多いようだ。これを炒めてある。それとナマスのようなものもある。昼食のときもそうであったが、火の通っていないものは遠慮しておく。これまた不思議な味で、正直なところあまり食欲は湧かないのだが、ここでしか食べることができない貴重な体験でもあるので、しっかりいただく。

    夕食。コンニャクという食材はパラウン族にもあるとは少々驚いた。左の皿はコンニャク料理。

    夕食時、そして夕食後には外で星を眺めながら、同行のKさんといろいろな話をする。少し雲がかかっているものの、満天の星の眺めは美しい。漆黒の天空に無数の小さな穴が開き、そこから光が漏れているような気さえする。

    9時半くらいに就寝。簡素な造りの木造家屋なので、人が少し動くと揺れる揺れる。誰かが寝返り打っただけで地震かと思うくらい家屋がグラグラッと激しく振動するので驚いてしまう。

    <続く>

  • パンカム村への道2

    パンカム村への道2

    シャン族の家
    村の「学校」

    点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。

    食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。

    もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。

    あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

    シャン族の寺

    通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。

    シャントラック
    トウモロコシの脱穀作業中
    旨そうなスイカ

    ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。

    他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。

    山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。

    ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。

    シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。

    さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。

    顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。

    ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。

    「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。

    山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。

    チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

    バニヤンに絞殺されつつあるチークの木

    パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

    普通の木のようになってしまっている茶の木

    収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。

    <続く>

  • パンカム村への道1

    パンカム村への道1

    ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

    町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

    午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

    小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

    スィーパウ郊外の田園風景
    牧歌的な風景

    畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

    シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

    このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

    禿山が続く

    昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

    1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

    現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

    スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

    このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

    民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

    穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
    ソーラーパネルが設置されている家があった。
    タワシとなるヘチマ

    発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

    <続く>

  • Hotel Everest View

    Hotel Everest View

    ヒマラヤのシーズンに入っている。私は本格的な登山をしたことはないのだが、山の景色を眺めたり、トレッキングに出かけたりするのは好きだ。

    ネパールのサーガルマーター国立公園内にある、海抜3,880 mのところにある「世界一高所にあるホテル」を称するHotel Everest Viewは、日系資本による宿泊施設。

    このホテルからの眺めの動画もYoutubeにアップロードされているが、やはり素晴らしいロケーションのようだ。

    トレッキングついでに、いつか泊まってみたい。

  • ヤンゴンのクリスチャン墓地

    ヤンゴンのクリスチャン墓地

    ヤンゴン郊外のクリスチャン墓地

    先日取り上げたミャンマーのヤンゴン郊外の日本人墓地のすぐ北にクリスチャン墓地がある。英国人をはじめとする欧州系の人たちの墓が沢山あるのではないかと予想していたが、そうではなかった。

    墓地に埋葬されている方々のほとんどはミャンマー人

    敷地内の墓石の大部分はミャンマー人のもので、クリスチャンネームとともにビルマ名も刻まれている。世俗の生活の中で、もっぱら使用していたのは当然後者のほうだろう。この国においては、ヒンドゥーもムスリムも日常用いているのはビルマ名である。

    無造作に積まれている墓石

    欧州人たちの墓は、ごく小さな一角にまとめてあった。想像していたよりもはるかに少ないが、相当整理されてしまったに違いないことは、墓石が無造作に積まれている有様からも見てとれる。

    時は移ろう。世を支配する立場の側にあった人たちも鬼籍に入り、世間に影響を及ぼすことはなくなる。人々の間の記憶から忘れ去られていき、歴史の過去に消えていき、この世に生きる私たちとは無縁の存在となっていく。

    付近にはシーア派ムスリムの方々の墓地もある。当然、インド亜大陸からの移民(および少数ながらイラン系の移民)ということになるので、ぜひ訪れてみたかったが、すでに日没の時間となってしまったので断念せざるを得なかった。

  • SEASONS OF YANGON

    SEASONS OF YANGON

    SEASONS OF YANGON
    SEASONS OF YANGONの客室へ

    ヤンゴンの空港の国際線ターミナル正面にあるSEASONS OF YANGONというホテル。かつては、アメリカのラマダグループのホテルであったが、90年代前半に撤退した後を受けて、オーストラリア系資本が買収し、現在に至っている。

    元々が『外資系のちょっといいホテル』であったため、施設は古びている部分もあるが、それでもずいぶんお得感があった。5、6年前には一泊25ドル、2年前は30ドルであった。それが昨年には35ドルと上がったのだが、今年は一気に50ドルにまで上昇している。

    それでも市内の宿の料金が軒並み急騰している中、相場や建物の質や部屋の内容等を考え合わせると、まだまだ割安感はあるといえる。今のところはまだ部屋でwifiを利用できないが、現在ではロビーでは使用することができるようになっている。

    数年前に、支配人で華人系マレーシア人のTさんと飲んだことがある。個人でフラリと訪れているお客に自分のワインを振舞って話し込むことができるという暇な時代であったわけだが、当時は私以外に宿泊客が2人とか3人とか、そんな状況であった。

    「この国がこのままであるはずがない。今に大きく変わると信じているから続けているのだ」と熱く語るTさんであったが、閑古鳥の鳴く大型ホテルにこの程度の宿泊客数、この程度の料金設定で、よくやっていけるものだと思った。

    今、Tさんが期待していた、まさにその時期がやってきたといえるだろう。今晩宿泊しているのは何と60人という。道理で、次から次へとレセプションに新しいお客が到着しているわけだ。

    「ウチみたいに、周囲に何もない、空港近くにあるトランジットホテルは、何泊もするものではない。まさに乗り換えが目的でお客さんたちが利用するホテル。だから空港により多くの人たちが乗り降りする状況になることが大切なんだ。」とも言っていたことを思い出す。

    まさにそういう状況になりつつある。乗り入れている航空会社、そして本数も大幅に増えてきた。そして各フライトの搭乗率も着実に上がってきている。スタート地点が低かっただけに、これからの伸びしろは大きい。

    客室内

    今後、市内では大小、高いものからエコノミーなものまで、様々な宿泊施設がオープンする方向にあるようだが、まだまだ宿泊施設は著しく不足しているため、クラスを問わず、今後もしばらくの間は宿泊料金の上昇は続くものと思われる。

    ミンガラードン・タウンシップにある空港とこのホテルだが、今のところ周囲には特に何もない状態ではあるものの、いくつか新しい飲食施設が出来上がっていて、それなりにお客が入るようになっている。

    少し北東方向に向かうと、小規模なバスターミナルやそれなりの規模のマーケットもあり、そのあたりから商業地が延伸してくることも充分あり得ることだろう。

    このミャンマーという国、とりわけ商都ヤンゴンは、ほんのチラリと目をやっただけでも、無限大の商機と可能性を秘めているように思えてならない。

    避難経路を示す図。ラマダホテル時代のものらしい。
  • ヤンゴンの日本人墓地

    ヤンゴンの日本人墓地

    ヤンゴンの日本人墓地
    ミャンマー最大の都市、ヤンゴンの空港から北東方向にクルマで20分ほど進んだ地域に、日本人墓地がある。もともとはあちこちに埋葬されていたものを、ある時期にこの場所に集合させたものであるとも聞いている。背景には在ヤンゴンの日本人会による尽力も大きかったとのこと。
    大正時代に亡くなられた方の墓石
    連合軍墓地のように高度に組織化された感じではないが、様々な異なる背景を持つ日本人たちがこの地に眠っている。石の表面が摩耗して、もはや判読することすら難しくなっているものも多いが、古くは没年が大正時代のものあったし、昭和一桁に亡くなった人の墓もかなりある。第二次世界大戦が始まる前の当時のミャンマーで、個々の人たちにとって具体的にどんな縁があって移り住むことになったのかはわからないが、大英帝国の海外植民地の大都市のひとつとして繁栄したこの街だけに、様々な商機があったのだろう。この時代に日本から渡ったからゆきさんも少なくなかったようだ。
    戦没者関係の慰霊碑や墓石が目立つ
    連隊の従軍概要についても記されていた。
    戦没者たちへの鎮魂碑
    戦没者関係の石碑は非常に多い。
    「ビルマの竪琴」の主人公のモデルとなった人物の関係の石碑もあった。
    亡くなったご本人もまた軍国主義の時代の被害者。決して繰り返してはならない歴史である。
    墓地内で、最も存在感があるのは、やはり戦没者関係である。大きな石碑が多く、具体的な記述があるためでもある。個々の墓碑、所属していた連隊等の戦友たちによる慰霊碑、戦没者の出身県による同類の石碑等々。だがこの時期の墓碑に特徴的なのは、個人の名前も何も刻まれていないものがかなりあることだ。これらの人々が亡くなったとき、個々の身元確認が困難であったり、混乱を極めた時代であったりしただけに、埋葬先にまで故人の基本的な情報の伝達すらうまくいかないという状況があったのではないかと推測できる。
    また先述のとおり、各地に埋葬されていたものを、この地にまとめて改葬したということもひとつの原因かもしれない。日本人の墓であることは判っていても、そこに葬られているのが誰なのかが分からなくなっているというケースもあってもおかしくない。
    戦没者埋葬エリアでは氏名も亡くなった日付もない墓石が多い。
    個人的に存じ上げている、戦時中に航空通信連隊に所属して終戦を迎えたという方があるのだが、まさにその方が戦友たちのために個人で建立された石碑を見かけた。世間というものは案外狭いものだ。
    この方の出身地は平安北道。現在は北朝鮮となっている。
    戦時中に亡くなった方々の中で、明らかにコリアン系の方々の名前も少なくなかった。日本と併合されていた時期に他界した人々であるがゆえに、日本人という扱いになるのだろう。この写真の方の場合、没年が昭和12年となっているので民間人であると思われるが、その後マレー半島への侵攻に始まる東南アジア方面への日本軍の展開の中で、軍人や軍属としてこの地を踏んだコリアン系の方々も少なくなかったはずなので、この時期に日本人名で埋葬されているケースもあるのではないかと思う。
    1978年の航空機事故で亡くなった日本人技術者たちへの慰霊碑
    戦後に亡くなった方々のものもある。1978年に起きたヤンゴン発ミッチーナー行きの国内線墜落事故で亡くなった、援助プロジェクトの関係で来緬した日本人技術者6名の慰霊碑、そのあたりの時代から2,000年代に入るまでの間に、当地で亡くなった日本人たちの墓である。
    隣国タイなどと異なり、対外的に非常に閉鎖的な体制が続いていたこの国だけに邦人在住者の数や在留していた目的等もごく限られるため、戦後のこの国の激動の時代をつぶさに目撃するという稀有な体験をしてきた人たちであると言えるだろう。
    埋葬された時代を問わず、日本の墓地と大きく異なる点として、大半のものに戒名がないということがある。ごく一部にこれが刻まれている墓石があるが、それらは日本で遺族が菩提寺からもらったものであろう。
    故郷から遠く離れた熱帯のこの地で安らかに眠る人々の魂がここにある。
  • 日本発のEVオートリクシャー

    日本発のEVオートリクシャー

    人力車発祥の地である日本だが、まさにこの日本発の電動三輪がアジア諸国をはじめとする途上国の市場を狙っている。

    すでに色々なメディアで取り上げられているが、テラモーターズが注目されているのは、四輪の分野と違って、これまであまり注目されてこなかったEVの二輪や三輪の開発と販売を推進しているだけではなく、目指すマーケットがグローバル規模であり、従前は各国の地場産業の舞台であったオート三輪の世界をフィールドに飛翔することを狙っているからだ。すでにフィリピンでは本格的に始動している。

    テラモーターズ、フィリピンの電動トライシクル事業に参入(自動車新聞社)

    「テラ モーターズ」三輪EVのプロトタイプを公開、日本発のベンチャー企業が世界に挑む!(マイナビニュース)

    電動バイクのアジア戦略 (THE INDEPENDENTS)

    乗り心地のほどはどうかわからないが、流麗なボディのフォルムはなかなかいい感じだ。日本発祥の電動オートがインドの街を駆け巡る日がやって来るかもしれない。

    テラモーターズの「電動トライシクル」
  • GREAT INDIAN RAILWAY

    GREAT INDIAN RAILWAY

    ナショナル・ジオグラフィックによるインド国鉄特集のビデオGREAT INDIAN
    RAILWAY」「
    がYoutubeで公開されている。

    といっても、ナショナル・ジオグラフィック自身がコンテンツを広く公開しているわけではないようで、要は海賊版ということになってしまうのだが、インド国鉄の魅力をうまく伝えている作品である(・・・がゆえに、ぜひオリジナルを購入したいところだ)ので、取り上げてみることにした。

    蒸気機関車が登場したり、2001年に事故死したマーダヴラーオ・スィンディヤー(旧藩王国の王族で国民会議派議員)が登場したりしているので、いつ作製されたものなのかと思えば、1998年1月にリリースされた作品であった。

    興味深いインド国鉄の世界であるとともに、今や事情が少し違ってしまっている部分もあるため、鉄道史を語る貴重な記録であるともいえる。

  • magzterで読むインド

    magzterで読むインド

    在米のインド系ビジネスマンが起業したmagzterが頑張っている。

    いろいろな雑誌の取扱いが増えており、インド関係以外にも東南アジアやアメリカ等の国の雑誌類、中には日本のものもわずかながら含まれている。

    magzterの利用により、インド国外からも雑誌類が購読できるのはいいことだろう。インドの主要都市に居ても普段は見かけない北東州のニュース雑誌の取り扱いもある。magzterの出現以前は、インド国外から雑誌類を購読しようとする場合、それを取り扱うサービスはあっても、手元に届くまで時間がかかったり、郵便事情等により欠配することもあったはずだ。紙媒体で流通しているものと同じ誌面で販売されていることはもちろん、オンタイムで購入できるのが有難い。

    ただ欠点もある。年間購読するように誘導しているためであるが、単号で購入するのと半年ないしは1年間の契約にするかで、ずいぶん単価が異なることだ。前者だとかなり割高に感じられてしまう。

    一度購入したものは、同じアカウントでサインインしている限り、他の端末でも閲覧できて便利だ。しかし、iPad、Android、Windows RT等々のタブレット用のmagzterアプリが用意されているのはいいのだが、タブレットのOSによって操作感がかなり異なることに少々戸惑ってしまうため、改善されることを望んでいる。

    少々注意が必要な部分もある。定期購読の場合、少々注意が必要なのは、購読者側から解約手続きをしない限り、自動更新になってしまう。そのため契約月についてはしっかり覚えておかないといけない。

    私自身は、ニュース雑誌を定期購読しているが、旅行関係ではNational
    GeographicのTraveller Indiaというものがなかなか興味深いことに気が付いた。昨年7月のヒマラヤ特集は充実していたし、他の号でもなかなか興味深い記事が掲載されているのは、さすがNational Geographicである。

    National Geographic Traveller India

     

    ただし、他の版元から出ているインドの旅行関係雑誌については、インドの人々の間での旅行に関するトレンドを知るにはいいかもしれない、といった程度のことが多いため、あまり期待しないほうがいいだろう。

    ともあれ、今後ますますの充実を期待したいところだ。雑誌のみならず、将来は電子書籍なども購入できるようになるとありがたい。

  • その名も「GR」

    その名も「GR」

    1990年代後半から2000年代初頭にかけて人気を博した広角単焦点の銀塩カメラGRシリーズのデジタル版として、GR-DIGITALが発売されたのは2005年10月のこと。

    その後、3回のモデルチェンジによる改良を経て、非常に良く熟成された高級コンパクトカメラに仕上がっている。

    今年5月下旬には、初代GR DIGITALから数えて5世代目となるモデルが登場するのだが、こちらはまさに「フルモデルチェンジ」という様相になる。ここで「フルモデルチェンジ」と表現したのは、カメラの心臓部であるセンサーのタイプの大幅な変更だ。1/1.7型 CCDから、ローパスレス仕様のAPS-CサイズのCMOS、つまりデジタル一眼並みのものが搭載されることになるからだ。

    それでもボディの寸法はこれまでのGRシリーズとほぼ同じのコンパクトさであることも特筆すべきだろう。あんなに小さくてAPS-Cサイズのセンサーを搭載するとは驚きだ。

    GRシリーズとしては、2012年4月に「RICOH」と「PENTAX」ブランドのカメラ関係事業が、ペンタックスリコーイメージング株式会社に統合されてから最初の記念すべきモデルだ。

    カメラの機構そのものの大きな変更を行なうことからか、現行のGR DIGITAL ⅣからGR DIGITAL Ⅴとなるのではなく、世代を示す番号はもちろんのこと、DIGITALという表記をも外した「GR」となる。もはや名機GRのデジタル版を名乗る必要はなく、まさにこれぞGRの真打ちであるとする開発陣の意気込みと熱意が伝わってくる。

    レンズの開放側がF2.8と少々暗め(GR ⅢとGR ⅣはF1.9)ではあるものの、センサーの面積は約9倍となることから、画質の飛躍的な向上はもちろんのこと、ラティテュードの幅も格段に広がるため、明暗差が大きな場面でも盛大に白トビさせることなく、自然な表現が可能となる。感度を上げても荒れは非常に少なくなることから暗所に強くなり、手持ちで撮影可能なシーンがグッと増えることにもなる。

    このモデル性能等の詳細については、今後多くのカメラ関係のウェブサイトや写真雑誌等で様々な紹介や解説がなされるはずなので、ここで敢えて云々するつもりはないし、その必要もないだろう。

    「インドでどうだろう、この一台?」ということで、発売前で実機に触れてもいないのだが、力を込めてイチオシしたくなるGRシリーズの最強モデル。発売がとても楽しみである・・・と、私自身すっかり購入モードに入ってしまっている。

    GRシリーズ最高画質のコンパクトデジタルカメラ「GR」新発売 APS-Cサイズセンサー搭載、速写性を追求し小型ボディを実現 (ペンタックスリコーイメージング株式会)

    GRスペシャルサイト(ペンタックスリコーイメージング株式会)

  • タイフェスティバル2013は5月11日(土)と12日(日)に開催

    東京都渋谷区の代々木公園で開かれる恒例の年中行事になって久しいタイフェスティバルだが、今年は5月11日(土)と12日(日)に開催される。

    4月14日(日)には、豊島区の池袋西口公園にて「第14回カレーフェスティバル&ボイシャキメラ バングラデシュ正月祭」が開催されることは先にお伝えしたとおりだが、春先から梅雨入り前までの季節における屋外イベントというのは実にいいものだ。

    タイフェスティバルについては、近年は混雑がひどくなってきていて、会場内は押し合いへし合いといった具合で非常に窮屈ではあるものの、スペースに余裕のある代々木公園なので、会場とは少し離れた場所でレジャーシートを敷いてのんびり過ごす人たちの姿も多い。

    日がなのんびりおしゃべりをしながら、ときどき何か食べ物をつまんではビールをゴクリと、お気楽な休日を楽しみたいものだ。好天に恵まれることを期待しよう。