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カテゴリー: environment

  • ツォ・モリリへ 3

    ツォ・モリリへ 3

    せっかくのツォ・モリリ到着だが天気には恵まれなかった。

    道を更に進んで村の中心部に入る。ここまで来るといくつかのゲストハウスの看板が目に付く。結局、ゴンパのすぐ隣のゲストハウスに宿泊することにした。ちょうどこの日にダージリンからあるリンポチェがやってくるとのことで、出迎える人たちが集まっていた。この村の人々以外に、周囲の地域で遊牧をしている人たちも大勢来ているとのことで、ボロボロの恰好をした人たちも少なくない。外地から高僧がはるばる訪問するという特別なハレの日ということもあり、ラダックの伝統的な頭飾りと民族衣装をまとった女性たちの姿もある。

    遠来のリンポチェの到着を待つ人々

    しばらくするとリンポチェのお出まし。人々が急に列を成して出迎える。さきほど見かけた伝統衣装と頭飾りの女性たちが先導して、リンポチェのクルマがやってきた。この出迎えの儀式が終わると、みんなそそくさと帰っていく。

    「いよいよお出まし」の知らせとともに道路脇に整列する人々
    伝統衣装で着飾った女性たちがリンポチェの乗るクルマを先導

    幸いなことに雨は止んだ。しばらく湖の風景をカメラに収める。そうこうしているうちに晴れ間が出てきて、ほんのわずかな時間ながらも深い青色湖の姿を眺めることができた。この時点で気温はわずか12℃。夜間には零下になることもあるのだとか。天空には晴れ、曇り、そして雨天が混在し、広大な大地に複雑な陰影を投げかけている。湖対岸の山々にかかる雲の低さに、ここは海抜4,500mであることをしみじみと感じる。

    幸いなことに少し晴れ間が見えてきた
    喜んだのも束の間、すぐに厚い雲に覆われてしまったりする。
    負け惜しみみたいだが、大地に投げかけられる陰影が刻々と変化するのを眺めているのも楽しかった。
    彼方に見えるこの山は中国なのだそうだ。
    僧侶たち

    同行のマイクとキムと斜面の展望台まで上ると、村の子供たちが集まってきた。好奇心旺盛な彼らは、ちょっと照れくさそうにしながらも、私たちにずんずん迫ってきていろいろな質問をしてくる。そうでありながらも、やはり行儀が良くて控えめなのはラダック人らしいところだ。

    村の子供たち。みんなとても利発そうだ。
    マイクとキム、そして村の子供たち

    斜面を宿のあたりまで下り、ゴンパのお堂を拝観。ちょうど10日に一度のバスが到着したところのようで、正面の広場のところに停車している。

    10日に1回、レーとの間を往復するバス。ツォ・モリリ湖畔の村、コルゾクに到着した翌朝、レーへ折り返す。

    宿とゴンパの間のスペースに大きなテントを張って営業している食堂がある。ここはかなり繁盛していて、お客がひっきりなしに出入りしている。外国人の利用者も多いようだ。特にこれといった産業もなさそうなこの村で、手際よく、相当なハイペースで仕事を続けている姿を見ていると、おそらくここの女主人は稼いだお金でもっと立派な食堂を建てたり、旅行者相手の宿を開いたり、ということになるのかもしれない。

    テントの食堂の女主人は大変な働き者

    マイクとキム、そして本日のレーからのバスで到着したという西洋人たちと楽しい会話をしながらの食事。こういう気楽な時間を持てることも旅行の楽しみのひとつである。

    この村の野犬は毛足が長く、いかにも高地かつ寒冷地に適応したものであることがわかる。ロバも毛足が長めになっている。動物もやはりこうして環境に適応するようになっているのだろう。

    テントの中に座っているのも少々寒くて辛くなってきた。私たちが宿に帰ると、テレビではクリケットの中継が放送されていた。マイクとキムはオーストラリア人らしくクリケットフリークのようで、宿の人や宿泊しているインド人旅行者とクリケット談義に興じていたが、こちらはこのスポーツについては関心がないのでついていけない。本来ならば、インドにおいてクリケットは必須科目であることは間違いないのだが。

    天気さえ良ければ、灯の少ないコルゾクの村の夜には満天の星を楽しむことができたのだろうが、あいにく空模様はそういう具合ではない。それでも雲の切れ目から湖水に降り注ぐ月の光が美しかった。

    雲の切れ目から月が覗く

    〈続く〉

  • ツォ・モリリへ 2

    ツォ・モリリへ 2

    午前11時ごろにチュマタンという温泉が出ていることで知られる集落。小さな浴場の小屋がひとつあるだけで、温泉そのものが有効に活用されているわけではない。地表から湯が湧き出ているという現象自体がひとつの観光名所となっていることから、ツォ・モリリに行くついでに立ち寄るマイナーなスポットとなっているだけのことである。

    昨夜から天気は悪く、ときおり雨がぱらついている。晴れてくれないと、ツォ・モリリの湖の深い青さを堪能できないことになるので、ちょっと気がかりである。ここから先は少々険しい山道となり、雨脚も強くなってきた。道路にはところどころ水たまりもできている。こんな禿山ばかりのところで雨が降るとがけ崩れでも起きやしないかとちょっと気になったりもする。

    遠くに湖が見えてきた。

    しばらく走ると湖が見えてきた。これがツォ・モリリかと思ったので、想像していたよりもずいぶん小さくて拍子抜けした。だが周囲の開けた景色はなかなかいい感じだ。だが周囲に村や宿泊施設らしきものは見当たらず、果たして宿泊施設が湖からどのくらい遠いのかとも思った。私が同行のオーストラリア人カップル、マイクとキムと盛んに「ツォ・モリリ」について話しているのを耳にしたナワンが言う。「え?あの湖はツォ・モリリではありませんよ。」

    だがこの湖はツォ・モリリではなかった・・・。
    このあたりまで来ると行き交うクルマも極端に少なくなる。

    途中の道で遊牧の人たちのテントも見かけたが、道路沿いでしばしば見かけるのは、道路作業の人たちのテント。インドの他の地域から来た人たちが工事のためにそこに住んでいる。岩を砕いてバラストを作っている人たちもいるが、夜は冷え込んで辛いことだろう。もちろん身体を洗うこともままならないはずだ。

    道路工事の作業員のテント

    「本物のツォ・モリリ」は、さらに荒野をひた走った先に見えてきた。平地では考えられないような低いところに立ち込めている雲の様子を目の当たりにすると、このあたりで海抜4,500mもあるというのも頷ける。

    最後の橋を渡ってから左に進み、湖畔の道をどんどん進んでいく。天気もますます悪化していて、雨もさらに強くなってきた。どんよりとした灰色になってしまった湖は岸辺のあたりは不思議な青色をしている。湖の遠くの部分は晴れているようで、太陽の光が注いでいるのが見える。雨が降るようになると、それまで非常に視界が良かったラダックの景色が一変して、遠くが見えなくなってしまう。やはりラダックの眺望の良さは湿度が極端に低いためであることがよくわかる。

    湖の沿岸を進んだ先には軍のチェックポストがあり、そこで追い返されることになった。そこから先、民間人はオフリミットとなっているそうだ。さきほど橋の左手を進んだのが間違いで、本来は右手に行くべきであったらしい。それでも湖畔を余計にドライブできたことは良かったと思う。午後3時くらいにツォ・モリリ湖畔の村、コルゾクに到着。

    〈続く〉

  • 下ラダックへ 3

    下ラダックへ 3

    ダーまで来ると、海抜はかなり下がるためか、少々暑苦しく感じる。それでも優に標高3,000mはあるはずなので、高地であることは間違いないのだが。

    _

    さて、今晩はどこに滞在しようかと思い、アーリア人の村、ダーも魅力的なのだが、ここに来る途中で眺めの美しさに心打たれたスクルブチャンに向かうことにした。村では夕方遅くなってからも収穫作業中で、人々は忙しく働いていた。ゲストハウスの類はないので、どこかホームステイできるところはないかと尋ねまわってみたが、受け入れているところは見つからず、そのままラマユルに向かうことにする。

    スクルブチャンの村は収穫の時期

    カルツェ方面にしばらく走り、インダス川の対岸に渡り、カールギル方面への道を進む。ラダックはどこもそうだが、水があり、人々が耕作している地域以外は乾燥しきった大地が続き、木々の姿もない山肌が続いている。

    地層が垂直になっている巨大な岩盤

    地面がむき出しであるがゆえに、地層の激しい褶曲を目の当たりにすることができるため、太古の時代には海の底であった現在のヒマラヤ地域は、インド亜大陸とユーラシア大陸が衝突して持ち上がった結果、形成させてきたものであることがよくわかるとともに、現在もさらに成長しているということも納得できるのである。同時に、山肌や大地の色合いからして、場所により地質が大きく異なることも観察できるようになっている。

    おそらくラダックだけではなく、インドのヒマラヤ地域全域に共通することなのだろうが、他の地域では豊かな緑に覆われているため、そうとは気付かないものだ。

    ラマユル近くの通称「ムーンランド」。ここの地質も特徴的だ。

    ラマユルに到着すると、すっかり陽は暮れていた。ここはメジャーな観光地なので、ラマユル・ゴンパの周辺にはいくつもの宿が軒を連ねている。

    宿泊したところの中庭には、バイクでツーリングしているグループが食事をしていた。デリーからヒマーチャル・プラデーシュのマナーリーを経てラダックまで走行してきたメンバーはスペイン人とフランス人で、そのリーダーはツアーの主催者であるスペイン人のパブロさん。恰幅の良い中年男性だ。

    彼は、90年代にはデリーでラージャスターンの建築史を学ぶ学生であったという。その後、スペインで仕事に就いていたが、2年前から再びデリーにやってきて、旅行代理店を経営しているそうだ。彼の店はバイクによるツーリング専門で、お客がスペイン人、フランス人の場合は自分がツアーを率いて、それ以外の場合は雇っているインド人スタッフに任せていると言う。

    10月にはブータン行きのツアーを予定しているそうだ。そのツアーは12日間で、デリーからバグドグラに飛び、そこからスタートしてジャイガオンからブータン入りするものだという。1日あたり2,500ドルもするそうだ。宿泊代は込みというがやはり飛び抜けて高い。かなり富裕な層の人たちが参加するのだろう。

    自室に戻ってから、しばらく日記を書いていようかと思ったが、10時15分くらいで電気が消えてしまう。その後点灯することなく11時を回った。ノートPCのバーテリー駆動で日記を書いていたが、真っ暗な中ではとても目が疲れるのでやめて寝ることにした。

    〈続く〉

  • ポプラと水路の風景

    ポプラと水路の風景

    ちょっと奮発してチキンのシズラー

    レーの市街地をしばらく散歩してから、ポプラの木立の中に席を並べているレストランで昼食。背の高い木のさらに限りなく上に広がる高い空。ラダックらしい風景だ。

    こんな空を見上げるだけでいい気分になってくる。

    ポプラといえば、レーから郊外に出ると水路と並んで走る道の両側がポプラ並木になっているところが多い。村の中でも道、水路、ポプラ並木がセットになった景色をよく見かける。

    サワサワと流れていく水に心洗われるような気分

    仏教寺院の存在や家屋のたたずまいを除けば、中央アジアにも通じる雰囲気がある。古の時代には中央アジアとインドを結ぶ交易路にあったラダックだが、今もそうした地域と陸続きであることを思い起こさせてくれる。

    どこの国にいるのか判らなくなるような景色

  • デリーからレーへのフライト

    デリーからレーへのフライト

    早朝5時前に、枕元でけたたましく鳴るアラーム音で目が覚めた。スマートフォンを使うようになって久しいが、これのおかげで不要となったものは多い。目覚まし時計、メモ帳、システム手帳、音楽プレーヤー等々。中には「カメラも要らなくなった」という人も少なくないかもしれないが、写真についてはいろいろこだわりがあるので、私はそこまで割り切ることはできない。
    昨日予約しておいたタクシーで空港へ。日曜日早朝ということもあり、道路はガラガラで実に快適だ。飛行機はターミナル1Dから出る。数年前から操業している新しい空港ビルだが、それ以前の古いターミナルの時代の頃の混雑ぶりなどまるで遠い過去のこととなり、ゆったりとした気分で搭乗待ちできるのはいい。フードコートで注文したマサーラー・ドーサーをパクつきながら、空港でのヒマな時間は日記を書いたり、フェイスブックに投稿したりしながら過ごす。
    インドでもスマートフォンの普及は著しい。少し前まではその類の携帯電話を持っているのは一見してエリート風の人たちであったが、今ではそうとは決して思えないような人もそんなので写真を撮ったりしている。一頃は圧倒的な人気だったブラックベリーはすっかり影を潜めてしまい、高級機といえばやはりアイフォーンかギャラクシーの上級機種のようだ。写真といえば、インドでも携帯電話やスマートフォン普及の関係で、日常的に写真撮影する機会が増えているのだろう。
    フライトは定刻に出発した。雪山が連なる景色を見ることができることを期待して、窓側の席にしたのだが、そうではなかった。今年はモンスーンが派手に雨をヒマラヤ地域に降らせているためか、厚い雲に覆われている。それでも雲の切れ目から氷河の様子が伺えたりするのはさすが世界の屋根ヒマラヤだけのことはある。
    雲が厚い
    左下に見えるのは氷河
    氷河の拡大写真
    ようやくその雲が切れたかと思えば、まるで違う惑星のようなラダック地域に入っていた。どこまでも連なる水気のない、草木の存在感とは無縁の切り立った山々、水が流れて谷を形成したらしいにもかかわらず、水は流れていない。ごくわずかに水の流れが存在するところに緑があり、そこに人が生活していることがわかる。こうした景色はどこから始まり、どこで終わるのだろうか。
    この山々の向こうはチベットか・・・?
    荒涼とした景観の中でごくわずかに存在する緑。そこには水があり、人々の日々の営みがある証でもある。
    こうした厳しい風景はヒマラヤ地域西部のムスリム居住地域にもあるが、寛容でゆったりとした自由闊達さが感じられるチベット仏教圏とは異なる。もしラダックがイスラーム化されていたら、人々の気質はかなり違うものとなっていたことだろう。もちろんラダック地域そのものがムスリム地域に隣接しているためもあり、居住しているムスリム人口は決して小さくはないのだが。
    機体は次第に高度を下げて、空港近くに広がる軍のバラックの様子が目に入ってきた。
  • パンカム村への道4

    パンカム村への道4

    朝5時過ぎに起床。その1時間ほど前に竹で編んだ壁から光が漏れているので、もう外は明るくなっているのかと思い、トーチを出して時計を見てみると、まだ4時前であった。

    Kさんは午前3時半くらいにトイレに起きたそうだが、そのときには村の眺めが見えるくらい、月が煌々と照っていたのだそうだ。私が見た壁から漏れる光も月のものであったらしい。

    午前5時過ぎのパンカム村に朝日が昇る。
    パラウン族の仏教寺院

    朝5時半に隣の仏教寺院に行くと、朝の勤行はすでに終わりの頃合いであった。この時間帯の気温は20度と涼しい。やはり高度が少しあるからだろう。海抜1,000mもないとは思うが。

    朝食。一番手前はバニヤンの葉のスープ煮。こんなの初めて!

    朝食は、卵焼き、ナスの煮物、昨日と同じ米とバナナの花のおこげ、そして特記すべきはバニヤンの葉のスープだ。バニヤンといっても大きくなるバニヤンとは少し種類が異なるものだそうだ。このあたりでは野菜、野草以外にも食用となる木の葉も多いようだ。食物繊維の摂取にはいいだろう。

    泊めていただいた民家二階の寝室
    村を出発

    朝8時に村を出発。あとはほとんど下るだけである。昨日とは違うルートで、より緩やかな感じだ。このルートは雨季には使わないのだという。ところどころで川になってしまうからだそうだ。でもこのトレッキングを雨季に行なうのはかなり大変だろう。足元はぐじゃぐじゃになるし、ヒルも出るしで、苦痛を伴うこと必至だ。

    東南アジアの川らしくないほど澄んでいる。

    幾つかの川を渡る。簡素な橋もあれば、切り倒した木の幹を向こう岸に渡しただけのものもある。後者は浅瀬になっているから可能。イチジクの木もあり、実が落ちていたが、ここでは食用にはしないとのこと。割ってみても、においをかいでみても、間違いなくイチジクであった。日本のそれよりも固めで、外観はより赤いが。バニヤンの葉のような、まさか食用にするなどとは想像もつかないものが食卓で供されたかと思えば、我々にとっては当たり前の「果物」が食用にされないとは興味深い。

    画像奥のほうでは、村の子供たちが水に飛び込んで遊んでいた。

    川の水際の豊かな風景を楽しむ。子供たちが川にザブンと飛び込んで遊んでいる。増水期にはそうもいかないだろうが、この時期ならば小さい子供たちだけで戯れていても大丈夫だろう。日本の江戸時代の村の様子もこんな具合であったのではないだろうか。

    このところ経済面で大いに注目されているミャンマー。最大の商都ヤンゴンはこれから大きな変化の波に揉まれていくことになるわけだが、こうした山間の村々もまた同様に、スタート地点があまりに低かっただけに、今後の変化の度合いは非常に大きなものとなることだろう。

    だが気になるのは、多様な生活文化を持つ少数民族の人々が、これまで長く伝統的なライフスタイルを大切に世代を継いで継承してきたわけだが、その変化の大波の中でそうしたものが時代遅れで未開なものであるとして切り捨てられてしまうのではないかと、気になっている。

    村のコミュニティの中の人々で、経済的にベターな暮らしを得ることができるようになった人々が出てくると、彼ら自身もまたそのような価値判断を持って、自らの民族の文化を軽んじるような方向に行くようなことがないことを願いたい。

    スィーパウの町からパンカム村へは、日帰りも可能だ。朝5時過ぎか6時くらい出発して、少し早いペースで飛ばせば昼前には着くだろう。登りの傾斜もゆるやかなので途中キツイ場所もない。村でしばらく休憩してから午後1時くらいに出て、少々早足で下れば、スィーパウの町に日没までには到着できるだろう。

    だがこのルートの醍醐味は、やはり村に宿泊することにある。そう遠からず、もっと奥の村へのルートも旅行者たちの間で知られるようになり、ミャンマーのこのあたりといえば、少数民族の村々を訪れるトレッキングが楽しいということが、内外に広く知られるようになるのも時間の問題ではないかと思う。

    <完>

  • パンカム村への道3

    パンカム村への道3

    パンカム村に到着。左手はパラウン族の仏教寺院の門

    午後2時過ぎに、パラウン族が暮らすパンカム村に到着。本日宿泊する先の民家で昼食を出してもらう。米はもち米で、料理は菜食料理。西洋人の中には肉を嫌がるものがいるので、トレッカー相手には菜食にしているのだという。もちろん西洋人たちの間ではヴェジタリアンは決して珍しくないとはいえ、多くの場合は冷蔵保存施設などありもしない村という衛生上の理由、加えて目の前で鶏などが殺されるのを目にしたくないといったことなどが理由だろう。また民家側のほうとしてみても、やはり肉を出すのは高くつく。

    昼食。手前は米とバナナの花の炒め物である。

    出てきた昼食は、もち米、春雨のスープ、米とバナナの花の炒め物でおこげのようになったもの、ジャックフルーツの実の炒め物であった。魚醬は使われていないようで、何か発酵調味料が使用されているような気がする。ちょっと不思議な味わいだ。ちょっと洗練させれば面白い料理になるかもしれない。

    村のたたずまいは、プラスチック製品とわずかながら電気が来ている(川での自家水力発電かどうかは知らない)があること、バイクを持っている家があること、人々の多くが中国製の洋服を着ていること、屋根がトタンであることを除けば、数百年前とほとんど変わらないのではないかと思う。今も料理の燃料は薪だし。それがゆえに森林伐採が進むということもあるかもしれない。

    宿泊する家の隣は仏教寺院。木造の建物で、これまたそう言われないとお寺とは気が付かない。前にシャン州に来たときに、木造の仏教寺院が珍しく思えたが、実は村に来るとこういうのが普通にあることがわかる。村に来てこそ、その民族のオリジナルな文化の基層部分、根幹の部分に触れることができるともいえるだろう。

    宿泊先の民家
    村の中で最大級と思われる家屋

    山間の村ではあるが、元々は馬を乗り回していたというパラウン族たちはバイクをよく利用している。どれも安価な中国製だが、これを用いることにより、行動できる半径が何倍にも伸びる。村からスィーパウまではバイクで一時間ほどで着くということなので、飴で道がグジャグジャになるモンスーン期を除けば、町の仕事に就いて、ここから通勤することだって不可能ではないだろう。町からその程度の距離であれば、今に道路が舗装される日も来るだろうし、四輪が乗り入れることができるようになる日も来るはずだ。

    もちろんそういう時代になると、村の様子は大きく様変わりして、スィーパウの町角とあまり大差なくなっていることだろう。ここが少数民族の人々と出会うトレッキングの中継地として、観光客を多く呼び込むようになってくると、住民たちもパラウン族ばかりではなくなり、他の地域の人々、シャン族はもとより、ビルマ族、中華系、インド系の人たちも商機を求めて移住してくるということになるのではないだろうか。もとより商売にかけては、明らかにパラウン族よりもそうした人々のほうがノウハウも経験もある。

    しばらくのんびりして過ごしてから、ウィン氏に午後4時半に村の北側を1時間ほど案内してもらった。このあたりはまだ森林が少し残っている。やはりこの丘陵地はどこも一面鬱蒼と茂ったジャングルであったのだろう。ここでも斜面には茶が栽培されているが、やはりちゃんと手入れされてはないようで、植え方も乱雑で、まばらに植えてある。

    馬たちが草を食む姿もあった。パラウン族の人々がバイクに乗るようになる前に重宝していた日々の足である。

    茶摘み歌が聞こえてくる谷間。ショボショボと生えている灌木のようなものは実は茶の木。

    西側に開けた谷間に来ると、とても涼しくていい風が吹いている。遠くから茶摘み女の歌声が聞こえてきた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、その澄んだ声色に心奪われる。ぜひとも次代にも残してほしい村の風物だ。

    村の遠景

    村に戻り、すっかり日が暮れてきたあたりで、宿泊先の家で出された夕食は、よくわからない山菜やらいろいろあったが、特に印象的であったのはコンニャクだ。日本のそれよりももっと水分が多いようだ。これを炒めてある。それとナマスのようなものもある。昼食のときもそうであったが、火の通っていないものは遠慮しておく。これまた不思議な味で、正直なところあまり食欲は湧かないのだが、ここでしか食べることができない貴重な体験でもあるので、しっかりいただく。

    夕食。コンニャクという食材はパラウン族にもあるとは少々驚いた。左の皿はコンニャク料理。

    夕食時、そして夕食後には外で星を眺めながら、同行のKさんといろいろな話をする。少し雲がかかっているものの、満天の星の眺めは美しい。漆黒の天空に無数の小さな穴が開き、そこから光が漏れているような気さえする。

    9時半くらいに就寝。簡素な造りの木造家屋なので、人が少し動くと揺れる揺れる。誰かが寝返り打っただけで地震かと思うくらい家屋がグラグラッと激しく振動するので驚いてしまう。

    <続く>

  • パンカム村への道2

    パンカム村への道2

    シャン族の家
    村の「学校」

    点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。

    食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。

    もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。

    あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

    シャン族の寺

    通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。

    シャントラック
    トウモロコシの脱穀作業中
    旨そうなスイカ

    ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。

    他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。

    山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。

    ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。

    シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。

    さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。

    顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。

    ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。

    「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。

    山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。

    チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

    バニヤンに絞殺されつつあるチークの木

    パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

    普通の木のようになってしまっている茶の木

    収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。

    <続く>

  • パンカム村への道1

    パンカム村への道1

    ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

    町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

    午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

    小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

    スィーパウ郊外の田園風景
    牧歌的な風景

    畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

    シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

    このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

    禿山が続く

    昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

    1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

    現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

    スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

    このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

    民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

    穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
    ソーラーパネルが設置されている家があった。
    タワシとなるヘチマ

    発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

    <続く>

  • ガントクへ

    ガントクへ

    実に20年以上の年月を経て、スィッキム州を訪問することになった。前回訪れたのは確か5月だった。平地の暑気から離れてホッと一息ついたものだが、今回はその反対。心地よい気候の平地から入ってくると、西ベンガル州の山岳地のダージリンにせよ、スィッキム州にせよ、日が沈んでからの寒さがとてもこたえる。日本の冬と同じような気温とはいえ、基本的に暖房がないので着込むしかない。しんしんと冷え込む中、さっさと寝てしまえばいいのだろうが、日記その他を書いていると寒さが骨身に沁みるような気がする、などと言っては大げさすぎるだろうか。

    バケツに温水を溜めて髪と体を洗う。湯を浴びているときはそれなりに気持ちはいいのだが、前後左右から冷気が迫るため、すぐに身体が震えるほど寒くなってくる。バスタオルで全身を拭くころにはすっかり冷え切っていて、即座にカゼを引いてしまいそうなくらいだ。背中から布団や毛布を羽織り、ベッドの上で足を投げ出して座ってしばらく書き物をしていると、膝に載せたノートPCの温もりが心地よく、湯たんぽのような効果があることに気が付く。

    夕方以降の室内の寒さは、西日の当たり具合にも左右されるようだ。ガントクでの宿のこの部屋は、午後の陽がまったく当たりないロケーションになっているようで、日没後に外から戻ってくると、室内のほうが寒かったくらいだ。

    今回、ガントクの街に着いてみて、果たしてこれが同じ場所なのかと首をひねりたくなるくらいだった。前回の訪問から20年以上の時間が過ぎているため、いろいろと大きく変わるのは当然であるにしても、これほど景観が変わってしまうとは想像もしなかった。何が大きく変わったのかといえば、ガクトクの建物のタイプが昔と根本的に異なっている。州都ガントクの中心部、MGマールグ界隈では、「昔と今」の鮮やかな対象を目にすることができる。

    ガントクの建物新旧 木造二階建て「イグラー」を取り囲むコンクリートの高層建築
    「イグラー」の建物は、ガントクにはごくわずかしか残っていない。

    マーケットの中にごくわずかに残る「イグラー」と呼ばれる、スィッキム州独自の木造建築だ。普通、建物は緑色に塗られており、トタンで屋根を葺いた二階建てだ。一階部分は店舗、通常二階は住居や倉庫となっている。前に訪れたときには、州都最大の商業地区MGマールグ沿いの店舗のほとんどは木造のこんなスタイルであった。現在、ガントクではこういう建物で新築する人はいない。斜面の街の限られた土地を有効活用するため、いきおい高層化することになる。建物がローカル色のあるものから、全インド共通のコンクリ柱とレンガで作る普遍的なものに置き換わったこと、加えて高層化により空が狭くなり、昼間でも通りが暗く、往々にして陽当たりも悪くなったといえる。

    2011年9月に発生したスィッキム地震の際、斜面という元々地盤の軟弱な土地であることもあり、多かれ少なかれ被害を蒙った建物はかなりあったという話は聞くが、全壊してしまったビルもあったというから恐ろしい。地盤がゆるく、傾斜のきつい場所には不釣り合いなほど高層であったことが災いしたということだ。

    2011年9月のスィッキム地震で全壊したビルの跡地
    しばしば地震が起きるスィッキム州。こういう建物もかなり危険なのではなかろうか。

    それはともかく、MGマールグ界隈では、申し合わせがあるのか、それとも条例で定められているのか知らないが、コンクリート造の建物の外装は薄緑色になっているため、ガントクらしい雰囲気と統一感はある。現在では車両乗り入れ禁止の遊歩道となっており、通りの中央には花壇がしつらえてあるなど、なかなか洒落た感じになっている。ライトアップされた夕方以降など、なかなかいいムードになる。

    なかなか洒落た眺めのMGマールグ

    それでも午後8時を回ると、開いている商店もごくわずかとなり、まるで深夜のような静けさとなるため、これが州都の中心地であるとはにわかに信じ難い気もする。

    こんなカフェも現在ではあって当然の州都ガントクのMGマールグ

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  • ダージリンティーの茶園訪問2

    ダージリンティーの茶園訪問2

    ハッピーバレー茶園の製茶工場

    昨日カルスィヨンのマカイバリ茶園訪問で失敗したので、本日はダージリン市街地のすぐ外にあるハッピーバレー茶園に前もって電話してから訪問する。たがあいにく「ウチでは冬の茶摘みはしませんので、工場のラインは止まっていますが、それでもよろしければ・・・」という回答。この茶園では収穫期は春・夏・秋の3シーズンのみなのだという。

    茶園に到着すると、ちょうどそこにやってきたポーランド人の夫妻があり、茶園の職員に率いられて、一緒に工場内を見学する。この茶園は150年くらいの歴史があり、インドで茶の栽培が始まった初期のあたりからあることになる。茶の木の寿命を尋ねると、かなり長いらしい。茶園が始まったころからある木がまだ沢山あるとのこと。

    茶摘みの仕事をするのはすべて女性で、年代ごとにチームを編成し、若い人たちほど遠くのエリアで収穫作業をして、年上になるほど工場に近いエリアで茶摘みをするとのことだ。工場で働くのはほとんどが男性で、女性は数えるほどしかいないとのこと。茶摘み労働者たちの日収は90ルピーと少ないが、その代わりに住居、子供の教育のための学校、診療所は無料となっているそうで、家族のうち数人が茶園で働いていれば、なんとか食べていくことはできるだろう。ちょうどスリランカなど他国の茶園もそんな感じだ。

    加工ライン
    加工ライン
    加工作業に用いられる送風機
    これも加工ラインの一部
    ここで加工の最終段階を経て最後の選別場に作業は移る。
    ここで手作業にて茶葉を等級ごとに選別

    収穫期ではないので、空っぽになっている作業場を見学。コンベアの上の茶葉に、最初に常温の風を大きなファンで送り、続いて熱い風を送る。これにより、茶葉が握ってもちぎれることなく、ソフトになるとのこと。その後階下で発酵・熟成の過程があり、最後に茶葉をグレード別に選別するというラインになっている。摘みのシーズンにより、加工の時間は適宜変えるとのこと。通常、茶葉はサイズが大きいほどグレードが上になる。ひとつだけ「ALOOBARI」という別の茶園の名前が記されている加工ラインがあった。同じオーナーが所有する茶園だが、工場が併設されていないため、ここに持ち込んで加工しているとのこと。

    ハッピーバレー茶園工場のオフィス

    茶園のオーナーは外資系が多いらしい。インド人所有のものではマールワーリーのビジネスマンが経営するものが多いとのことで、このハッピーバレー茶園もまたマールワーリーの所有だ。地元民族であるブーティヤー、レプチャー、グルン等の民族が運営する茶園は存在しないそうだ。

    一緒に工場と茶畑を見学したポーランド人夫妻は仏教徒であるとのこと。日本国外でも盛んに布教活動を展開する創価学会かと思いきや、なんとカギュー派とのことで、チベット仏教徒である。ポーランドに僧院があり、そこで入信する人が少なくないとのこと。チベット仏教寺院がそんなところにあるとは驚きだ。これからスィッキムに行き、あるリンポチェに教えを乞うところなのであるそうだ。つまりこれは英語で行われるわけで、先述のポーランドにある寺院とともに、チベット仏教にはなかなか国際的な側面もあるかもしれない。

    三人でしばらく茶園を散歩する。茶園の中の集落で、ここで働いている女性に声をかけてみた。茶摘みのオフシーズンには何をしているかと尋ねてみると、それなりに仕事はあると言う。主に茶園の整備や木の手入れであり、この時期にはしばしば茶畑の専門家が来て、茶の木の健康状態をチェックしたり、病気等の駆除の手当等を行なったりするのだそうだ。

    茶畑

    茶畑の中に点在する集落の家屋は、どれもここで働く労働者のためのものであるようだが、どれもかなり清潔感があり、ある程度の居住スペースはきちんと確保されているらしいのは幸いである。

    茶畑従業員の住宅

    <完>

  • ダージリンティーの茶園訪問1

    ダージリンティーの茶園訪問1

    トイトレインのカルスィヨン駅
    トイトレインでカルスィヨン駅に着いてから、そのままシェアジープでダージリンに戻るのはもったいないので、しばしマカイバリ茶園を訪問することにしたのだが、製茶工場に着いてみると、あいにくこの日は休日とのことであった。せっかくインドのSIMが入った携帯電話を持っているのだから、事前に一本電話確認しておくべきであった。
    マカイバリー茶園の工場
    そんな訳で工場を後にして、坂道を下っていくと、普段は茶摘みの仕事をしているという地元の女性たちが、スマートフォンを大きなスピーカーに付けて音楽をかけて踊っていた。こうしたところで作業に従事する人たちの間でも、スマートフォンを持つことが決して珍しくない時代になっている。
    踊って休日を楽しむ茶園労働者の女性たち
    ところで「ダージリン」と一口で言っても、かならずしもここダージリンやそのすぐ近くで収穫されたものばかりであるわけではない。スィリグリーやブータン国境のジャイガオン等も含めて、北ベンガルの丘陵地やヒマラヤ斜面等に茶園が広く分布しており、その数83もある。茶葉の収穫時期は、春、夏、秋、そして現在の冬とあり、その時期によって味わいが違うということになっている。
    短く刈られた茶の木
    斜面に広がる茶畑に入ってみると、どの木も短く刈られているが、ちょうど12月から1月にかけての収穫期なので、本日のような休日以外には、茶摘み労働者たちが働く姿を目にすることができる。
    茶園のオフィス
    茶園のオフィスに日本語の看板もかかっており、「紅茶・緑茶・ウーロン茶」などと書かれているので、ここの製茶工場からは日本にも輸出されているのだろう。本日、話を聞いたり見学したりすることかできなかったのは残念だ。
    汽車が来ない時間帯はパーキングと化す
    カルスィヨンの町で遅い昼食を摂った後にダージリンへはクルマで戻ったが、汽車が通らない時間帯はレール上がパーキングのようになっている。日の上り・下りそれぞれ4本ずつしかないとはいえ、この緊張感の無さは何だろう。商店の軒先をレールが走っていたりもするが、幼児のいる家では大変な注意が必要だろう。ダージリンに至る前の名所「ループ」では、汽車の通行しない時間帯には店開きしている商売人たちの姿が多数ある。
    軒先を走る鉄路
    「ループ」で店開きする人たち
    そのループでは、インド国旗がこんな具合に翻っていた。思わず敬礼したくなる。
    敬礼!
    <続く>