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カテゴリー: disaster

  • インペリアル・シネマ

    インペリアル・シネマ

    Imperial Cinema

    デリーの宿泊先近くの映画館「インペリアル・シネマ」。もう何年も閉鎖されたままのようだ。

    今どきのインドの都会では、洒落たシネプレックス化が進み、古いシネマホールが単館でやっていくのは大変難しくなっているのを象徴しているようだ。
    それにしても都心で、こんなもまとまった箱モノが放置されたままというのはずいぶんもったいない気がする。

    また、南デリーでは、記憶に間違いがなければ90年代前半に火災を起こして死者まで出したウパハール・シネマという映画館の建物が、今でも事故後そのままになっている。

    地価がどんどん上がるデリー。どちらも大変引き合いがあるはずのロケーションで、こうした建物が処分されない背景には、建物か土地か、なにがしかの係争を抱えていると推測するのが妥当だが、実際のところどうなのかはよく知らない。

    すでに廃止されていても、オートの運転手などに、その名を告げると、誰もが判るのだから、シネマホールとしての機能の一部(ランドマークとして)は残っていることにはなる。

  • ゴールカー

    ゴールカー

    バンディープルからドゥムレーに出て、ゴールカー行きのバスに乗り換える。所用時間は前者が30分、後者が1時間半程度。ゴールカーまでの最後のバスで乗り会わせた若い男性は、ヒンディーを話す人で、なかなかおしゃべりであった。決して上手ではないし、言い回しの間違い等も私さえ判るくらいだが、インドに暮らしたことがないというのに、これだけ話せるとはたいしたものだ。

    さすがに山のほうに入ってくると、とりわけ女性であまり裕福ではなさそうな層では、ヒンディーを理解する人は多くないようだ。しかしながらインド国内のタミルナードゥやケーララに比べると驚くほど広く通用するといえる。

    こちらが言うことはある程度理解しているようで、返事がネパール語で返ってくることはよくある。すると、こちらは知っている言葉を拾って、推測で理解したような、そうでもないような気分になる。

    部屋に荷物を置いてから、昼食は宿の階下の食堂にて済ませる。ここの主人の娘たちはふたりとも美人だ。

    宿階下の食堂では、一日中、ヒンディーのエンターテインメント番組かニュース番組を流しているようだが、それでヒンディーが普通に通じるかといえば、そうでもない。とはいえ、やはりある程度は理解しているから観ているのであり、返ってくるのがネパール語まじりだったりするが、一応のコミュニケーションはとれる。

    ゴールカー・ダルバールはけっこう離れているとは聞いていたが、長い石段を30分ほど登った先にある。途中の斜面からはゴールカーの町の眺めが素晴らしい。

    ゴールカー・ダルバールへと続く石段

    ゴールカー・ダルバール入口

    ゴールカー・ダルバールは、少しかしいでいたり、壁が湾曲していたりする部分もある。2015年の地震による被害だ。現在は修復作業が進行していて、建物内部を見学することは出来なくなっている。

    ゴールカー・ダルバール

    ひどく崩壊している部分もあった。

    先の大地震の震源地はここからすぐ近いところであったのだが、その割には町の様子からは被害の影響はほとんど見当たらない。

    町中では、小さな寺をいくつか見物。そうこうしているうちに、午後4時を回ると、たいていの商店が扉を閉じる。どうやらこのあたりの「定時」は午後4時らしい。下のほうにあるバスの発着場では、もう少し遅くまで開いているのだろうか。最後のバスで乗り会わせた若い男性が言うには、午後3時までは、カトマンズに直行するバスが出ているとのことだ。

    午後4時を回るとほとんどの商店が閉まってしまう。

    本日、夕食をしているとスペイン人男女ふたりずつのグループが食堂に入ってきて、少し話をしたのだが、スペインからの旅行者たちは感じの良い人たちが多い。彼らはバルセロナから来たとのこと。

    昔は、旅行中のスペイン人といえば、英語がほとんどわからないひとが多かったように思うのだが、現在はそうでもないように感じる。とりわけ若い人たちは流暢な英語を話す人が少なくない。英語、英会話は、かつてよりも更に広く普及していると言えるのかもしれない。

  • バクタプル

    バクタプル

    夜明けとともに、カトマンズ近隣にあるバクタプルへ。
    確か、初めてカトマンズを訪れたときには、バクタプル行きの中国製トロリーバスが走っていた。その頃の中国でも同じようなものが活躍していたが、日本では『架線から電気を取って走る』バスなど見たこともなかったので仰天したことを覚えている。

    当時、静かな田園風景の中を進んでいったように記憶しているが、今はまったくそんなことはなく、バス往来の激しい幹線道路を進んでいく。大袈裟に言えばバスは100メートルごとにお客を拾ったり、下ろしたりしながら進んで行くのだが、そうした乗客の出入り、沿道の人々の様子を眺めているのもなかなか楽しい。

    カトマンズからバクタプル方面へのアラニコ・ハイウェイは、片側2車線の素晴らしい道路となっており、沢山のクルマが行き交っている。

    アラニコ・ハイウェイ

    バクタプルに到着して市街地に入ると、一見、昔と変わらないように見えるが、ところどころにつっかい棒で支えている建物があったり、無残にも壁が崩れ落ちたり、丸ごと崩壊していたりするものもある。























    非常に建て込んだ市街地で、ぽっかり空いた空間にレンガが積んであるのは、倒壊した建物を再建するための作業に着手するところのようだ。壁が崩れ落ちたままになっているものが目に付くいっぽう、もうかなり再建完成近くなっている建物も見かける。崩壊著しいところでは、複数の建物がまとめて倒れたかのように思われるところもある。たまたまその部分の足元が脆弱だったのか、あるいは崩れた建物が倒れ掛かることにより、連鎖的に倒れたのかな?と想像したりもする。煉瓦造りの家屋が道沿いにぴったりと密着して建てられているため、そういうケースもあったのではないだろうか。



    ダルバール・スクエアの歴史的建造物の中にも、大きな被害を受けたものは少なくなく、再建には、どのくらいの時間(と費用)がかかるのだろうか。このあたりについては、世界遺産指定されていることもあり、規模はともかく、内外から支援の手が差し伸べられることとは思うが、人々の住まいについては、崩壊した建造物の再建はオーナー自身がなんとか費用の手立てをしなくてはならないので大変だ。

    同じく地震多発国に住む者として、大変心が痛む。

    震災後もバクタプルの素焼き作りは盛ん

  • ダルバールスクエア(カトマンズ)

    ダルバールスクエア(カトマンズ)

    街の名前のカトマンズの語源(・・・だったと思う)のカスタマンダプが失くなっていたことは、一昨年の地震関連のニュースで聞いてはいたが、本当に跡形も無くなっている有様を目にすると、やはりとても残念な思いがする。
    消失している建物は他にもあり、旧王宮のダメージもかなりのものがあるようで、修復工事が進行中だ。
    市内でも地震の被害があまり無かったという地域も多いし、その反面、こうした大きな被害が出たエリアも少なくない。地盤の関係、建物の構造や規模等々、様々な要素が影響したのだろう。
    だが、こうした文化財の復興には、この国のもっとも大きな財源である観光業の振興は必須である。

    街の名前の起源となったと言われるKasthamandap跡
    王宮建物のニューロード側
    Gaddhi Baithak
    Kumari Bahal
    ここに限ったことではないが、震災後、つっかい棒で補助している建物はかなりある。
  • インド独立時のカラー映像

    ネルー、サルダール・パテール、マウントバッテン総督など、当時の要人の姿をカラー映像で見るのは新鮮な思いがするが、動画半ばで出てくる印パ両国からの難民の姿に、カラーであるがゆえの強烈な現実感をおぼえる。
    動画には出てこないけれども、独立のほぼひと月前に、当初の予定ではアッサム地方の一部としてインドに残るはずであったのに、かなり唐突に決まった住民投票で東パキスタン(現バングラデシュ)に帰属することになってしまったシレット(・・・と日本語で表記されるけど、本来はシルハトあるいはスィルハトとすべき)では、相当な混乱があったことと思う。
    印パ分離の悲劇については、両国の人々の間で広く共有されている体験だが、英国統治の前に統一インドが存在したことは一度もなく、英国による統一がなければ、現在の形でひとつにまとまったインドが実現することは、おそらくなかったであろうという歴史の皮肉を思ったりもする。

    1947 Indian Independence rare color video clip (Youtube)

  • 第四次印パ戦争の足音か

    インドがついに一線を越えた。

    国内世論と世界的な支持を集めるモーディー政権の自信か、それとも過信か。パキスタンの反応次第では、かなりキナ臭い事態へと発展してしまうかもしれない。

    文民政権は越境テロを繰り返す組織を抑え込む力はなく、政府と並立する軍という、二重権力構造のパキスタン。文民政権は、自国領への攻撃を黙認するわけにはいかず、テロ組織のスポンサーでもあり、文民政権とはしばし鋭く対立するパ軍はどのような応対をするのか。
    印パ対立という現象面以外に、パキスタン国内でのふたつの大きな権力の相克の行方が大変気になるところでもある。

    パキスタンで、クーデターによる軍事政権樹立という動きもあるかもしれない。また、インド側にしてみても、一度振り上げた拳をどこで引っ込めることができるのだろうか。

    様々な国内問題、外交問題で喧々諤々の議論を交わす民主主義国インドだが、例外は対パキスタン軍事行動。与党・野党を問わず、右から左まで、諸手を上げてのイケイケ状態となるので、ブレーキ役は不在となる。

    民生や汚職追放には熱心だが、これまで外交問題にはあまり関心のなさそうに見えたデリー首都圏のAAP政権でさえもこんな具合だ。

    第四次印パ戦争開戦は、もうすぐそこまで迫っているのかもしれない。核保有国同士の大規模な衝突へと突き進むことがないよう祈るしかない。

    Kashmir attack: India ‘launches strikes against militants’ (BBC NEWS)

    India strikes back, carries out surgical strikes on terror launch pads at LoC (THE TIMES OF INDIA)

  • シュリーナガルの官営シルク工場

    シュリーナガルの官営シルク工場

    2014年9月の洪水
    2014年9月の洪水
    2014年9月の洪水

    シュリーナガル周辺の緑と農産物豊かな盆地は、ジェラム河の賜物だ。しかし、2014年9月、まさにこのジェラム河の氾濫による発生した大規模な洪水は、大きなニュースになったので、記憶されている方は多いだろう。街中を歩いている分には、当時のダメージを感じさせるものが目に付くことはないとはいえ、人々に尋ねてみると、やはり自宅や店が浸水してしまい、「それはもう大変だった!」という話はよく耳にした。建物を指差して、「壁の色があそこから色が少し違うでしょ?あのラインまで浸水したのです。」というようなことも聞いた。

    もとより可処分所得の多くないこの州だけに、当時の被害による負債が後を引いているという人たちは少なくないことだろう。また、短期滞在者として、外面だけ眺めている分には気が付くことはなくても、人々の暮らしの中に入っていく機会があれば、そうした影響はまだまだ顕著に残っているに違いない。

    そんなことを思ったのは、シュリーナガル市内にある州政府系の絹織物工場を訪れたときのこと。シルク専門の工場としては規模が大きく、かつては「世界最大級の絹織物工場」とされた頃もあったそうだ。戦前、すなわちインド独立前の藩王国時代に藩営工場として創業開始。インド共和国成立後の経営は、州政府に引き継がれた。

    正面の建物がシルク織物工場
    シルク織物工場の壁にも当時の浸水の跡が見られる。

    その工場について、先述の洪水の約半年前に書かれたこんな記事がある。

    Once largest in world, Rajbagh Silk Factory ‘dying’ of official apathy (Greater Kashmir)

    歴史的な工場だが、近年は生産性がはなはだ落ち込み、好ましくない状態にあったらしいが、そこに追い討ちをかけるように、2014年の洪水でひどいダメージが与えられたとのことだ。工場内には30前後のラインがあるのだが、動作していたのはわずか三つのみ。それ以外は泥を被ったままであるのが痛々しい。

    敷地内には、私が見学させてもらった棟以外にも、いくつかの施設があり、絹織物工場としては相当大きなものであったことは容易に察しがつくだけに、なんとももったいない話である。

  • 燃える土地 ジャリヤー

    ジャールカンド州の州都ラーンチーから東に位置するダンバード地区の西ベンガル州境附近のジャリヤー(झरिया)は英領期から長きに渡って炭鉱で栄えてきた土地。最寄りの鉄道駅はダンバード・ジャンクション。ここはシャターブディー・エクスプレスその他のメジャーな列車が停車する大きな駅だ。

    現在、インドでは製鉄業を中心に、燃料の2/3は石炭が使用されるという。インド自身、世界第三位の石炭産出量を誇るが、実にその3/4はここから採掘されている。ここではCoal India Ltd.やBharat Coking Coal Ltd.といった、この分野ではインドを代表する大きな政府系企業が操業している。

    400平方キロメートルの面積に75もの炭鉱があるというほど集中しているが、そのエリアには100万人超の人口を抱えていることも特筆される。この地域では、石炭の埋蔵量が豊富であることだけではなく、地表近くに鉱脈があることでも知られており、それがゆえに採掘が容易である。ゆえに違法採掘が絶えないだけではなく、住民たちの中で炭鉱労働に従事してはない人たちも簡単に石炭を採取しては売りさばくといった形で、家計の足しにしていたりする例も数多いという。

    この地域に住む人たちは部族民が中心だ。しかしながらこれを取引するのは地域外の人たちである。地下資源に恵まれながらも、外界から搾取される存在であるという矛盾がある。
    こうした土地なので、政治で暗躍する人たちや炭鉱マフィアたちのパワーゲームが常時展開する暴力的な風土もあるらしい。

    地表近くに鉱脈があることによる利点と同時にデメリットも大きい。河川や土地の汚染はもちろんのことだが、住宅のすぐ脇から火が噴いていたり、100年以上も続いている燃焼により、地下が空洞となることから地盤が陥没したり、その上にあった建物が崩壊したりなどしているとのことだ。これによって廃線となった鉄道路線もあるとのこと。参考記事のリンクを以下に付しておく。

    India’s Jharia coal field has been burning for 100 years (CNBC)

    健康被害もまた甚大なようで、石炭で潤うことにより、田舎の部族中心の社会としては例外的に栄養問題がほとんどないとされるようだが、採掘と地下の燃焼による大気汚染による呼吸器疾患を抱える人々の割合が異常に高いとされる。

    観光で訪れるような場所ではないが、街から少し出ると石炭採掘現場があり、蔓延する違法採掘現場はマフィアが取り仕切っているため、カメラやビデオなどを回すとかなり高い割合でトラブルに巻き込まれるという話もある。

    ジャリヤーを取り上げたドキュメンタリー番組はいくつもあるが、下記リンク先が特に秀逸なので閲覧をお勧めしたい。

    INFERNO: JHARIA’S UNDERGROUND FIRES (PSBT INDIA)

  • インド北東部周辺の地震

    現在、日本では4月14日に発生した熊本地震の関係で、九州地方を中心に心配な状況が続いている。現在も余震が断続的に続いているとともに、16日未明に発生した大きな揺れが「本震」で、14日のものはその前触れに過ぎなかったというニュースや、熊本、阿蘇、大分の3地域で同時多発的に地震が発生しているという分析が報じられるなど、今後どのように推移していくのか、目が離せない。

    熊本地震 熊本、阿蘇、大分…3つ別々の地震が同時に発生(毎日新聞)

    熊本における最初の大きな揺れの発生の前日、4月13日にミャンマーで発生した強い地震の震源地。はアラカン山脈の南側。やはりヒマラヤやその支脈(アラカン山脈もそのひとつ)の南側は地震が少なくない。

    Myanmar shaken by 6.9 magnitude earthquake (BBC)

    地震の揺れ自体は巨大というほどではなかったため、甚大な被害には至らなかったようであるのは幸いだ。
    近年は、インド北東部を中心とする地震の可能性について云々されている。アッサム州は過去に周期的に巨大地震が発生しているところでもあり、南アジアと東南アジアの境目周辺の地域は今後、気をつけて見ていく必要がある。

    スィッキム州を含めて、この地域で大きな地震が起きたら、もともと地震に対して脆弱な建物はもちろんのこと、水利や発電などのために造られたダムや人造湖などがどうなるか?と想像すると大変恐ろしいものがある。

  • クリステンさん

    ルンビニーの華人宿での夕食は、青椒牛肉とご飯を注文。外の食堂よりもずっと高いのだが、やはりここの食事は本格中華なので大変美味しい。現在のネパールの状況を反映して、宿泊客は私を含めてふたりだけ。

    もうひとりの宿泊客は年配のアジア系の女性旅行者。今朝がた一度顔を合わせているのだが、そのときはてっきりここの経営者家族のひとりかと思っていたが、夕食の際に同席して話をして、日系アメリカ人であることがわかった。

    1950年代初頭にハワイで生まれた、クリステンという名前の彼女は、中国人、フィリピン人の血も引いているという。出自がどこであろうと、自由に恋愛して結婚もするのがハワイ流なのだと彼女は笑う。

    もっともハワイで過ごした時間は決して長くなく、ほどなく本土に移住。ここで、第二次世界大戦中に日系人が受けた苦しみを知っている両親は、彼女を徹底的にアメリカ人化することを心に決めたのだとか。家庭の中では英語のみを用い、アジア系コミュニティとも距離を置いて、アメリカ式のライフスタイルを貫いたのだという。

    「まだ戦時中の記憶が生々しくて、日系人への感情も悪かったの。私たちが、独自のカラーで生活していくことができるような雰囲気ではなかったから。」と彼女は言う。

    おそらく本人も努力家であったためだろう。彼女はUCLAバークレー校に入学することで、両親の期待に応えた。当時のアメリカの有名大学では、アジア系はもちろんのこと、黒人系の人さえもほとんど見かけなかったとのことだ。

    クリステンさんは、大学を卒業した後、アメリカと欧州で働き、しばらく前に仕事を引退して、悠々自適の暮らしをしているそうだが、今の時代のアメリカでは、出自が日本の人たちも中国その他の国々から渡ってきた人たちも、それぞれの背景にある言葉や文化をそれなりに守りながら生活していることについて、「いい時代になったものだ」とつくづく感じているとのこと。

    「私の場合は、そういう時代だったから、両親の方針は正しかったと思うし、いい教育を受ける機会を与えてくれたことにとても感謝しているの。おかげで満足のいく暮らしをしてきたし、リタイアした今だって、こうして人生を楽しむことが出来ているわけよね。本当にありがたいことよ。だけども私は日系人だし、中華系でもあるし、フィリピンから来た先祖もあるのに、それらのどこの言葉にも文化にもまったく通じていないことは、やっぱり残念に思うのよねぇ。」

    どこからやってきた人も、世代が違う人も「同じ旅人」。普段まったく接点がなく、旅先のこうした機会にたまたま居場所を同じくしたがゆえに、こうした話を本人から聞くことが出来るのも、自由気ままな一人旅の素敵なところだと私は常々思う。

  • 霧

    窓の外のふんわりした景色を眺めながら、お茶やコーヒーでも楽しむのには、なかなかムードがあって良かったりする。普段の鮮やかな色彩が霧に包み隠されたモノクロームな風景。モワモワした中から、人影や自転車などがジワッと現れてはスッと消えていく様子は幻想的でさえある。

    だが、そんな中で、土地の人たちはのんびり休んでいるわけではなく、慌ただしく仕事に出かけなければならなかったり、運転して移動しなくてはならなかったりする。
    路上の往来といえば、大きな音を立てて走る馬車以外は、私たちが徒歩で進むのと同じ程度のヒューマンなペースであったころには、霧によって視界が遮られることについて、それほど大きな問題はなかったことだろう。

    だが、今の時代は話が違う。霧の中から突然、自家用車やトラックが飛び出してきては、アッという間に姿を消していく。ごく手近にあるものさえも強いソフトフォーカスがかかり、5m先も見えないような日の路上は危険極まりない。外出している限りは、霧が晴れるまでの間、命に関わる一大事がずっと続くことになる。

    濃い霧により、運転者たちは普段よりもかなり速度を抑えているとはいえ、道路では事故が多発する。鉄道のダイヤは乱れ、とりわけ長距離をカバーする列車は、遅れを蓄積しながらノロノロと進んでいく。視界不良から空の便も遅延や欠航が相次ぐ。同じ機体が便名と発着地を変えて全国を飛び回っているので、霧の出る北インド地域外にも、その影響が及んだりする。

    この冬は暖冬とのことで、霧の出る日が例外的に少ないという。こういう天候であることが本当にその地域の環境として良いのか、そうではないのかはよくわからない。だが、旅行している身にとっては、交通の大きな乱れがないことはありがたい。同様にここで暮らす人々にとっても、あまりひどい寒さを感じることなく、霧で不便かつ危険な思いをすることが少ない冬というのは、そう悪いことではないだろう。

  • ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダック やけに訪問客が少ない2015年の夏

    ラダックの中心地レーのメインバーザール

    このところ4年続けて7月にラダックを訪れている。この時期はシーズン真っ盛りで、レーの中心部には各国からやってきた外国人観光客、国内各地からやってきたインド人観光客でごった返し、彼ら相手の仕事、土木工事、農繁期の作業のために来ているインド人出稼ぎ人やネパール人もまた大勢来ており、まったくもってどこの土地にいるのだか判らなくなりそうな多国籍空間・・・というのが例年のこの時期であったが、今年はだいぶ様相が違った。

    とにかく外国人旅行者が少なく、同様にインド人訪問客も多くない。「天候の不順により雨が多いこともあるかと思うが、やはりネパールで4月と5月に発生した大地震の影響だろう、それ以外に考えられない」というのが地元で暮らす人たちの大方の意見だ。

    ラダックのシーズンといえば、およそ6月から9月までの短い期間ということが、インドの他の観光地と大きく異なる。5月や10月あたりならばラダックへの陸路は開いているし、その他の時期でも飛行機で訪れることはできるのだが、ラダック地域でアクセス可能なエリアや楽しむことのできるアクティヴィティは限られるため、夏の季節の人気ぶりとは裏腹に閑散とした状態で商売にならないため、店や宿も閉めてしまうところが多い。ゆえに今シーズンの不振はとても痛いという話をよく耳にした。

    観光業は水物だ。現地の状況は決して悪くなくても、政治や経済の動向、隣接する地域(ラダックからネパールまでは1,000kmほどあるのだが、外国から来る人たちにとっては「同じヒマラヤ山脈」ということになるのだろう)での災害などが、如実に影響を及ぼしてしまうという不安定さがある。

    人気の宿はそれでも込み合っていたりはするものの、それ以外では閑古鳥が鳴いているし、とりわけ内外からのツアー客をまとめて受け入れていたような規模の大きな宿泊施設においては、例年の強気な料金設定とは打って変わって、かなり大胆なディスカウントを提供しているところも少なくないようであった。

    トレッキングに出かけてみても、やはりトレッカーの少なさには驚かされた。おそらくヌブラやパンゴンレイクその他、クルマをチャーターして訪問するような場所でもそんな感じだろう。

    インドにあっては西端にあたるラダックでさえもこのような有様なので、今年はヒマラヤ沿いの他の地域でもかなり厳しいものがあると思われる。