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カテゴリー: society

  • OMAXE CHOWK in Chandni Chowk

    OMAXE CHOWK in Chandni Chowk

    OMAXE CHOWKという豪奢なモールがデリーのチャーンドニー・チョウクにできるらしい。あんなカオスな場所に?と思うかもしれないが、もともとチャーンドニー・チョウクはムガル皇帝一族や宮中の貴人たちを相手にするマーケットがあったところ。噴水と水路が流れる(イスファハーンのそれを想像するとよい)を持つ目抜き通り。1857年のインド大反乱後にムガル朝が終焉を迎えてからも引き続き大きな屋敷が立ち並ぶ瀟洒なエリアであった。

    それが今のような人口密度の稠密な商店街となったのは、印パ分離の際、ここに多く住んでいたムスリムの上流層が大挙してパキスタンに移住したため。それと入れ替わるように、地元の庶民たちやパキスタンから流入したヒンドゥー教徒たちが空き家となった屋敷や敷地を占拠、そして又貸しするなどして、それぞれの物件が細分化されていくとともに、オリジナルな構造にさまざまな改造が重ねられるとともに、メンテナンスの欠如から崩壊していくこととなった。

    そんなわけで、元々あったような形に一部が戻る?というような具合であるかもしれないのだが、現在あの状態にあるエリアでこのようなモールが出来上がってちゃんと意図したような形で繁盛するのだろうか。あるいは建物は立派でも、やっぱりチャーンドニー・チョウクがそのまま入居したような具合になるのか。

    オープンしてから、近くにあるムグライやカシミーリーの旨い店を訪れるついでに立ち寄ってみるのが楽しみである。

    OMAXE CHOWK (OMAXE)

  • 真冬のコールカーターで30度超え

    真冬のコールカーターで30度超え

    コールカーター在住の方から送られてきたヒンディー語のニュースクリップで、「カルカッタ及び周辺で30℃超え」を報じる動画があった。

    ググッてみると、やはり本日1月10日(日)のカルカッタの気温がこんなことになっている。

    比較的海に近いためパンジャーブ、デリーやガンジス平原部ほど厳しい寒さにはならない(東京の冬と同じくらい寒い。期間は東京ほど長くはない)とはいえ、今ごろの時期はセーターや上着を着て、ほおっかむりまでして「寒い、寒い」と言っているはずの時期なのに。

    いったいどうしたのだろう?

    寒すぎる真冬の東京も30℃とはいわずとも20℃くらいになってくれるといいんだが。

    寒すぎて外に出るのに勇気が要る。

  • 昔々の習慣

    さすがに今はドミトリーに泊まることはないのだが、最近ムンバイ利用した宿は、金額(2,135Rs/泊)の割にはバストイレが共同であった。

    昔からムンバイは宿泊費が高いことで知られている。かつてバックパッカーをしていたころは、コラバ地区、フォート地区で可能なオプションは、コラバにあるサルベーションアーミーのドミトリーであった。それでも当時の私がデリーやカルカッタなど、他の大きな街でのシングルルームに払う宿泊費(安宿)よりも高かった気がする。それは当時の貧しかったインドにおいて、ムンバイが突出した商都であったこと、周囲に郊外地域が広がる余地のない半島の形状などが背景にあった。

    現在では、デリー周辺には隣接するUP州西部やハリヤーナー州なども含めて、工業団地が発展しており国外からの投資も佐官になっている。またアーメダーバード、バンガロール、ハイデラーバードなども同様で、宿泊費がどんどん高くなっている地域が多い。そのため今ではムンバイだけが非常に高いという具合ではなくなりつつある。

    話は戻る。その共同バストイレで思い出したのは、カイロのバックパッカーの常宿だったオックスフォードホテルのドミトリーでのこと。当時はアジア人バックパッカーといえば、ほぼ日本人しかいなかった(ときどき香港人はいた。海外旅行が自由化された直後の韓国からは中高年の団体旅行者はときおり見かけたが若者のバックパッカーはほとんどいなかった)ためもあってか、ここの宿のドミトリーは「西洋人部屋」と「日本人部屋」に分けられていた。なぜそうだったのか、管理上そうすると楽なのかは知らないが、いつ利用してもそんな具合であった。

    大きくヘリテージな感じの見事な石造りの 建物上階にあり、清潔で広々としている割には宿泊費は安く人気の宿だった。確かギリシャ系のエジプト人による経営である。ときどき映画やCM出演者を求めるブローカーがやってきて、そうした機会と小遣い程度野お金を得る人もいた。

    ドミトリーの日本人部屋では、夕方に連れ立って食事に出た後はトランプに興じるのが常となっていた。そんなあるとき、「大富豪」をやっている輪の中のAくんが突然、「やべー!」と叫んで脱兎のごとく廊下へ駆け出して行った。

    みんなビックリして、しばらく固まっていたが、しばらくすると青ざめた表情の彼がドミトリーに戻ってきた。

    「やられたー!」

    なんでもシャワーを浴びる際、所持金やパスポートなどの入った貴重品袋をビニール袋に入れて、シャワー室内の壁に掛けておいたのだそうだが、ついそれを忘れてドミトリーに戻り、トランプに興じていたというのだ。

    ドミトリーにいた旅行者たちは、手分けしてフロントに聞いたり、他のドミトリーや浴室に出入りする人たちに尋ねまくったが、出てくることはなかった。A君自身は気の毒であったし、持ち去った者は、その晩に宿の中に居た者であることか確実なので、とても気分の悪いことでもあった。

    彼は翌朝、警察に出向いて盗難の証明書を発行してもらい、アメックスに出向いてトラベラーズチェック(当時の旅行者はこの形で大部分の旅費を所持していた)の再発行を申請してきた。

    そんな一件があってから「毎日のことだから共同シャワーへの置き忘れって、いつかやりそうだよな。」という会話がドミトリーの中で広まり、しばらくの間は新しく入ってきた宿泊者たちにもAその「レガシー」が引き継がれていたようだ。ネット出現前の時代であったため、情報交換の意味もあり、同宿になった者たちは互いにいろんな話をしたものだ。A君自身は大変だったが、同じ旅行者仲間たちに身を以って注意喚起してくれたことになる。

    実はそのしばらく後にも同じようなことがあった。日本人宿泊者のひとりがシャワー室に入ったら誰かの貴重品袋がドア内側にぶら下がっていたというのだ。そのときはすぐにフロントに知らせて、中に入っていた旅券で所持者がわかり、シャワーから上がってきたばかりの本人にマネージャーから引き渡せたので事なきを得た。貴重品袋に変なことがないようにと、僕らははしばらくそこで立会っていたのだが、持ち主は西洋人だった。知らされるまで本人は置き忘れに気付いてさえいなかったのだが、事情を呑み込むと、言いようもないほど狼狽していた。

    そんなこんなこともあり、先述のムンバイのコラバのホテルの共同シャワーを出るとき、かつて安宿を泊まり歩いていたときの如く、「貴重品袋よーし!」「確認完了!」と小さく発声しながら指差し確認をしていたのであった。昔々の古い習慣が、ひょんなことから自然と蘇ってくることはあるものだ。それまですっかり記憶の彼方にあったA君の青ざめた表情が脳裏に浮かんだ。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ENGAGED

    ENGAGED

    こちらはトイレ のドアの表示。「occupied」とあるよりも、少し厳粛な感じがする。中の人が真剣に取り組んでいるような印象を受けるではないか。

    少なくとも便座に腰掛けてスマホでもいじっているような、待たされている側にとっては腹の立つイメージは浮かばない。

    電話にしても、そうだ。話中で「busy」と考えると、無駄話のせいで繋がらないような気もするが、「engaged 」であれば、何か真面目な会話が進行中であるようなシーンが目に浮かんでこなくもない。

    なぜこのように違ってくるのかといえば、occupied、busyは、いずれも単一の人物Aさんの行動を反映したものであるのに対して、engagedであれば、Aさんの意思にかかわらず、自然現象や第三者との関係により、その状態にあることを余儀なくされているというイメージをも想起され、「それならば仕方ない」というムードを醸成するのだ。

    仕方ないは仕方ないのだが、トイレを待つというのは、まさに一日千秋の想いである。実に切ない・・・。

    ※内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 夜遅く着いたときの宿

    こんな思いをしたことのある人は少なくないだろう。

    路地裏にあるホテル、夜遅い時間帯に戻ろうとすると、行く手を阻む野犬集団。通りかかる人があれば、テキトーにくっついてやり過ごしたいところだが、あいにく誰もやってくることなく時間が過ぎていく。

    そんなこともあるので、あまり路地裏深くにある宿はなるべく利用しないようにしている。できれば表通りにあればなお良い。クルマの騒音だの街のざわめきなどというのはまったく気にならないほうだ。普段生活している環境がいつも騒々しいからということもある。

    遅い時間帯に鉄道やバスで到着した場合、駅やバススタンドすぐ近くのエリアの宿が取れるといいのだが、これらがひどく街外れに立地していることだってあるので、いつもそうとは限らない。

    ちょっとした大きさの鉄道駅の場合、「リタイアリングルーム」が利用できるとたいへんラッキー。今は空きがあればネット予約することも出来るため、鉄道に乗って目的地の宿をまだ決めていなかったら、ウェブで確認してみると良いかもしれない。最大48時間しか滞在できないとはいえ、鉄道好きな人にとっては「駅に宿泊」というのもなかなか良いものだし、深夜あたりになって到着してクタクタの身にはとても助かる。

    BOOK INDIAN RAILWAY RETIRING ROOM ONLINE (IRCTC)

  • ハザーリーバーグの食事処

    ハザーリーバーグの食事処

    ハザーリーバーグの食事にはまったく期待していなかった。宿泊施設はとても快適なところが当たり、こういうホテルならば旨いものを出すレストランは併設していても、ここは田舎町なので外にはダーバーしかないだろうとタカをくくっていた。

    ホテルの隣にある「ムグライ・ミルチ」というレストラン

     

    「時間がないので、すぐに出てきて食べられるものを」と注文したライスとダルフライ。これだけで大変美味しかったので料理の腕・質ともに高いことがわかった。
    夜も再訪した「ムグライ・ミルチ」

    ところがどうして、ホテルから徒歩圏内にいくつもちょっとアップマーケットで美味しいものを提供するレストランが複数あるのだ。嬉しい誤算だ。

    「NEW FRONTIER BAKERY」の上にある「Frontier’s Cafe」も良かった。
    田舎町にはそぐわない感じの洒落た店内
    チキンロールがオススメとのこと。
    宿泊費に込みのホテルの朝食。シンプルだがとても良質であった。

    また美味しいケーキを作って販売している店もあり、食後の散歩がてらデザートを買いに出るのも良い。店番をしている女性もフレンドリーで世間話をするのが楽しい。

    ケーキの製造・販売をしている店。開いているときに撮影しておけば良かった・・・。

    田舎町なのに、食事情もなかなか好ましいハザーリーバーグである。

     

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ハザーリーバーグの快適なホテル

    ハザーリーバーグの快適なホテル

    ジャールカンド州のラーンチーからバスで3時間ほどでハザーリーバーグに到着。

    サイクルリクシャーで、ガーンディー・マイダーンの端にあるHotel A. K. Internationalに向かう。1泊あたり3332Rs。(税込・朝食付)と高いだけあって、とてもキレイだ。

    Hotel A.K. International
    ロビー
    エレベーターもこんな感じ

    とにかく新しくてピカピカ、設備もモダンだ。手入れは行き届いていてスタッフのサービスも良い。普段の私の居住空間でも仕事空間でも、こんなに清潔で快適な場所はない(決して大げさではない)ため、滞在していて快適の極みである。

    客室内

    ときにこういう贅沢をしてみるのも良い。こんな田舎町に、こういう良いホテルがあるというのは幸運なことだし、田舎であるがゆえにこのクオリティながらもずいぶん割安になっているともいえる。いまどきインドの都会であれば宿泊費はかなり上がっているため、このくらいの料金でラグジュアリーな体験をというのは、無理な相談であるからして。

    ここは大当たりなホテルである。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • ラーンチーを出発

    ラーンチーを出発

    8時過ぎに宿をチェックアウト。バススタンドは歩いてすぐのところにあった。

    チケットをカウンターで買って乗り込むと、ほどなくバスは出発した。ラーンチー市街地を出るまでがかなり渋滞のためなかなか進まなかった。オンボロなバスではあるが、ちゃんとクッションは効いているのが昔の直角シートとは違うところだ。

    バス車内では、映画「HUM SAATH SAATH HAIN」を大音響で上映中。1990年代末にリリースの作品。今ではほとんど見かけなくなった、ダンスシーン満載で、家族愛を取り上げた啓蒙的な作品。インドの親御さんたちが「ハリウッド映画と違って国産映画ならば子供たちと一緒に安心して観ていられる」と言っていた時期の最後にあたる。

     

    サルマーン・カーン、サイーフ・アリー・カーン、タッブーなど、今も人気の高い出演者たちが出ているが、今こうしてみると、みんなずいぶん若くてキラキラしている。母親役で出ているリーマー・ラグーも素敵だ。映画公開当時の私には、ただのおばさんに見えたが、こちらも年齢を重ねるとミドルエイジの美しい女性に見える。立ち位置が変わると見えるものが違ってくるものだ。

    リーマーは、駆け出しの頃は、ヒロイン役を演じる女優さんだったが、かなり若い頃から母親の役回りが多かった。当初はほぼ同年代の男性出演者の母親を演じることも少なくなかったが、年月の経過とともに自然とそれらしくなり、ずいぶん長いこと「母親と言えばリーマー」の時代となり、ヒンディー語映画の母親役のイメージを占め続けた。そんな時代も3年前に終わってしまったのだが。リーマーが心臓疾患でこの世を去ってしまったからだ。享年58歳であった。

    映画は時代を写す鏡。20年前のインドが画面上で展開するこの日のバス車内であった。

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー⑤

    「ヒルステーション」としてのラーンチー⑤

    乗り合いオートで出発!

    昔のインドの博物館、とりわけ地方のそれといえば、失礼ながらホコリまみれのゴミ箱みたいであった。展示はいい加減でメンテナンスもされておらず、ホコリやゴミが溜まるいっぼうであった。

    だが近年は大きく進歩している博物館が多い。ラーンチーの州立博物館もそうだ。展示物は多くはないものの、とりわけ少数民族に関する展示は良かった。村での暮らしがなんとなくイメージできるジオラマがしつらえてあるのだが、よく30幾つの少数民族が住むと言われるジャールカンドの田舎の様子をうまく再現してある。

    rpt

    州立博物館の上階には絵のギャラリーもあった。こちらはあまり面白くなかったが、ひとつだけ煌めきを放つ作品があり、寄って見てみると製作者名は「Parvati Devi (Hazaribag)」とあるではないか!そう、あの民俗画の村の鬼才パルヴァティ・デーヴィーの作品である。

    パルヴァティ・デーヴィーの作品

    やはりこういうところに置いても、彼女の作品はまったく別格なのだ。田舎の村で自宅の壁を飾るだけで終わってしまっては、あまりに惜しすぎる。世界で広く認知されるべき才能だと私は思う。

    その後、再び移動してトライバル博物館へ。先ほどの州立博物館における少数民族の紹介展示と傘鳴る部分はあるのだが、ここではその少数民族のみに焦点を絞った展示。内容も良くて楽しめたのだが、どうしても許せない展示物が複数あった。

    トライバル博物館

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    その許せない部分とは、せっかく良いものを置いているにもかかわらず、ショーケース内の電気が点いていないので見えないことだ。点灯させ忘れか、電球が切れているのか知らないが、点灯しておらず見えない展示がひとつやふたつではなく、たいへん多いのだ。何たる怠慢・・・。

    このように照明がなされていないものも少なくなかった。

    しかし今の時代の私たちには力強い味方というか、頼もしいツールがある。スマホカメラをショーケース内の漆黒の病みの中に向けて、夜景モードにして覗いてみると肉眼では見えなかった展示をスマホ画面上で観察することができるのは幸いである。

    消灯していてもスマホの「暗視能力」でこのとおり。
    消灯していてもスマホの「暗視能力」でこのとおり。

    〈完〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー③

    「ヒルステーション」としてのラーンチー③

    英領期の名残を求めて次に訪問したのはゴスナー福音ルター派教会(Gossener Evangelical Lutheran Church)。「ゴスナー」という部分から想像できるとおり、ドイツから渡ってきた宣教師たちによる福音派の教会だ。植民地時代のインドでは、英国国教会だけでなく、実にいろいろな国からの教会が活動していた。

    中を見学してみるつもりだったが、ちょうど結婚式が進行中であった。しかも外で何組も待っているため、それぞれの式が順番に執り行われた後、それぞれの披露宴の会場へと向かうのだろう。敷地内は賑々しく、楽しげなムードに満ちていた。末永く幸せに!!!

    ラーンチーには、「War Cemetery」として知られる連合軍墓地もある。ここを訪問すると言ったら、地元の複数の人たちから「あのあたりはミヤーンローグ(ムスリムの兄ちゃんたち)が多いからバチケーレへナー(気をつけて)」と言われた。このあたりは確かにムスリム地区だ。ガラの悪いのが多いのかどうかは知らないが、ときどき問題が起きたりしているのかもしれない。

    兵士たちの墓碑を見て回ってみると、ずいぶん若くして亡くなった人たちが多い。18歳、19歳、25歳、21歳、23歳・・・。中には40代の者の墓碑もあるが、言うまでもなく最前線で戦うのは階級の低い若者たちなので、当然そういうこととなる。英国系の名前が多いが、英国人、豪州人、ニュージーランド人などが含まれる。墓標の多くには十字架が刻まれているが、少なからずダビデの星のものもある。ユダヤ教徒の兵士たちだ。また当時のアフリカの英領地域から出征した人たちのものもある。

     

    私たちの祖父の世代の人たちが、この墓碑の下に眠る人たちと死闘を繰り広げた。世話人によると、埋葬されているのはビルマ語戦線及び日軍によるインパール侵略の防衛にあたった兵士たちであるとのこと。日本ではインパール作戦は全く無謀な、最初から勝ち目のなかった作戦であったと言われているがそうではなかったという話が防衛する側にはある。

    守備側にとっては、インド東部全体が日本軍の手に落ちるかもしれないと、大変な危機感を持ってインド各地からはもちろん、東南アジアやアフリカなどの英領地域から兵員をかき集めて、これまた必死に防衛に努めるという、英国側にとっても「負けることの許さるない厳しい戦い」であったのだ。

    個人的には相互に傷つけ合う理由さえない若者たちが上官の命令により、国のためという建前のために大切な命を落としてしまったのだ。戦の大義はどうあれ、戦争で命を落すことは「究極の無駄」だ。個人の命の重さは国家の大義にはるかに勝る。何が起きても「国のために死ぬ」などということは決してあってはならない。

    以前、ナガランドのコヒマにある連合軍墓地を訪問したことがある。記念碑に刻まれていた言葉が胸を打たれた。兵士自身が残した言葉かどうかはわからないが、若くして亡くなった兵士たちの無念さが伝わる一文だ。

    WHEN YOU GO HOME

    TELL THEM OF US AND SAY

    FOR YOUR TOMORROW

    WE GAVE OUR TODAY

    命を投げ出すこととなった彼らへの供養があるとすれば、戦争のない未来が永劫に続くことしかあり得ない。

    連合軍墓地のすぐ近くには、英領期から続くクリスチャンの墓地もあり、広大な緑の芝生の敷地の中に白い十字架や墓標が散在していた。残念ながらここの場所に気が付いたときには夕方になっており、ゲートも閉鎖されていたため見学することはできなかった。

    こらちは英領期から続く現地在住クリスチヤンたちの墓地

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー②

    「ヒルステーション」としてのラーンチー②

    おそらくラーンチーの英領時代の面影を色濃くの残す地域は、ラージバワン(州首相官邸=英領時代は統治責任者の舘)界隈なのだと思うのだが、それらしきものはあまり残っていないようだ。

    そんな中にオードリー・ハウスという建物があり、現在はラージバワンの敷地の一部となっており、ここの敷地内が往時をしのぶのにちょうど良さそうだ。外から見る限りでは、後世に加えられた不自然な構造物はほぼないように思われる。

    建てた当時とは社会環境が異なるのでかなり改変が見られるのが常。典型的なものとしては、「天井」の例がわかりやすいだろう。インドでは暑季に高温となる地域が多く、暑季節そのものも長いため、英国本国の同時期の建物よりも、かなり天井が高くなっているのが常だ。

    ところが今の時代になると、空調を使用することが多いが、果てしなく高い天井であってはエアコンをいくら回しても冷えないため、オリジナルの状態からは想像もつかないほど、低いところに天井をしつらえている。他にもいろいろあるが、英領時代とは仕事や生活のインフラが異なるので、建物の内外が必要に応じていろいろ改変される。

    だがラーンチーの比較的冷涼な気候が幸いしてか、このオードレー・ハウスは、建築当初ほぼそのままの姿を今に伝えているようだ。ゲートから向かって左側のウイングがアートギャラリー、右側のウイングは文化イベントの開催用に使用されている。建物自体がオリジナルの状態に近いため、オードリー・ハウスの敷地内だけは、今も「ブリティッシュ・ラージ」の雰囲気が濃厚に感じられる。

    前にも触れたが、かつてラーンチーは「ヒルステーション」として知られていた。政府や軍その他の業務に従事していた英国人たちの中で、熱病や結核はもちろんのこと、心を病む人も多かったという。慣れない土地での勤務からくる心労は多く、今でいう適応障害に苦しむ人もあれば、パワハラなどに悩まされた人たちも多かったことだろう。もとよりまだ「人権」の概念が確立していない時代である。

    そんなわけで、ヒルステーションにはサナトリウムや各種病気の治療のための施設は付き物であった。冷涼な気候が患者の負担を軽減し、治療に利するとされたのは言うまでもない。

    そんな中で、当時で言うところの「癲狂院」が沢山あったと言われるラーンチーだ。今となっては不適切な呼称だが、今でもヒンディー語では一般的にそう呼ばれている。「パーガル・カーナー」。文字通りの「癲狂院」であるが、驚くことに、新聞などメディアでもそう表記しているのを見かけたりする。

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。

  • 「ヒルステーション」としてのラーンチー①

    「ヒルステーション」としてのラーンチー①

    ラーンチーと言えば、2000年にビハールから分離して成立したジャールカンド州の州都となる前まで、「ヒルステーション」として知られていたが、ロンプラには「特に観るべきものものはなし」という風に書かれていたように記憶している。よく出来たガイドブックではあるが、そこに「見るべきものはない」と書かれていても、実際に何もないわけではないことが多いように個人的には思う。

    たしかここは、暑季の保養地というよりも軍の駐屯地としての性格のほうが強かったように思う。ヒマーチャルプラデーシュ州にあるシムラーに対して、そこからさほど遠くない場所、つまりチャンディーガル方面に少し下ったところにあるカサウリーもそうだ。「夏の首都」として行政の中心地としての前者に対して、後者は軍のために用意されたヒルステーションであった。

    現在もカサウリーにはインド軍が駐屯している。アングロ・インディアン作家のラスキン・ボンドがカサウリーの生まれということだけで、何かロマンチックな場所のように思われている面もあるが、シムラーのような華麗な場所ではない。それでも「アジア最古のビール」で知られるゴールデン・イーグルの醸造所が最初に開かれたのもカサウリーであった。

    ウッタラーカンド州のマスーリーでは、軍の傷病者の治療施設が多く作られるとともに、結核患者用のサナトリウムも多かったなど、「ヒルステーション」とひとことでは括ることのできない、それぞれの特徴があった。

    それはともかく、ゴチャゴチャと混雑している街、ラーンチーが、かつて「ヒルステーション」「保養地」として知られていたのは信じられない向きも少なくないかと思う。土地もほとんど平坦で、山の斜面に位置しているわけではなければ、丘さえも見当たらない。

    ただ、ここは標高のある高原のため、気温は周辺地域よりもかなり低いため、夏季は比較的過ごしやすく、冬季はかなり冷え込む。

    昔、ラーンチー出身の英国人に会ったことがある。1980年代終わりくらいの時期だったが、イギリスで仕事を引退して故郷を訪問していたとのこと。ラーンチーについてはとりわけ思い入れが深いようで、いろいろ話をしてくれた。前述のとおり、当時のロンリープラネットのガイドブックには「これといって観るべきものなし」みたいなことが書かれていたが、案外そうでもないのかも?と彼の話を聞いて思った。

    英領時代は今のビハール地域で暑い季節だけパトナーに替わる夏の都として機能しており、英領期の建物などはけっこう残されている。独立運動に関わった政治犯を処刑した絞首台なども現存していると聞く。ラーンチーが今のような大都会になったのは、2000年にビハールから分離してジャールカンド州都となったからのことらしい。

    州都だけに良質で美味しいものを食べられる場所には事欠かない。

    〈続く〉

    内容は新型コロナ感染症が流行する前のものです。