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カテゴリー: life

  • 現代を生きるムガルの『王女』

    コールカーターのスラムに暮らすマードゥーという33歳の文盲の女性が、政府系企業のCoal India Ltd.で小間使いの仕事を得たことにより、極貧生活から救われるという記事がメディアに取り上げられていた。
    なぜそんなことがトピックになるのかといえば、ムガル朝につながる『世が世なら・・・』彼女の家系がその理由だ。この女性は1857年の大反乱に加担したかどでビルマのラングーン(現ビルマのヤンゴン)に流刑に処せられたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー・ザファルから数えて五代目の直系に当たるという。これまで彼女は母親のスルターナーとともにとコールカーター市内でチャーイの屋台を営んでいたのだそうだ。
    これまでもメディアで幾度かムガル皇帝の末裔たちを取り上げたニュースを幾度か目にした記憶がある。政府の下級職であったり、下町の小さな部屋を家族とともに間借りしていたりと、すっかり庶民の大海の中のひと滴となっており、昔日の栄華をしのばせるものは何もなくなっている。
    この『救出劇』は、デリー在住のジャーナリストの働きかけによって実現したものであるが、150年以上も前の大反乱の旗印に担ぎ出された老皇帝の子孫の『名誉回復』の背後には、政治的な背景や意図もあるのかもしれない。なんでも西ベンガル州の石炭担当の大臣から直々に辞令が手渡されるのだというから、まあ大したものだ。
    その女性、マードゥーの就職先は、1773年にベンガル初代総督ワレン・ヘイスティングスの命により、現在の西ベンガル州のラーニーガンジに開かれた炭鉱に端を発する歴史的な企業体であり、ムガルを滅ぼしたイギリスとの因縁めいたものを感じなくもない。
    しかしながら直系の末裔といえども、ムガルの末代皇帝から数えて五代目という血のつながり以外には、先祖から輝かしい文化や伝統を受け継いできたわけでもなく、ただ『ムガルである』がゆえに救いの手が差し伸べられるというパフォーマンスに対して大いに違和感を抱かずにはいられない。
    それまで誰も知らなかったまったく無名の人物が、こうして多くのメディアに取り上げられるのは、やはりムガルであるがゆえの潜在的な話題性のためである。
    余談になるが、時代の流れの中で世襲の地位や権力を失っていった支配者層でも、後に政治家に転進したり、実業界等に活路を見出したりした名門は珍しくないものの、対抗する勢力により一気呵成で滅ぼされた王朝の子孫は、たとえ命ながらえても世間の大海原の中に姿を消していくのが常だ。
    日本での知人の中に、清朝の皇帝の末裔がいる。十数年前に日本に渡ってきたときから知っているが、中国ではごく普通のつつましい市民であったようだ。言うに及ばず文革期に彼の一族は、庶民よりはるか下の非常に厳しい環境に置かれていたと聞いている。
    ムガル朝が滅亡しようとも、清朝の歴史に終止符が打たれようとも、それぞれの子孫が生きている限り、たとえそれを記録していようがいまいが、家族史は連綿と続いていく。また偉大な王朝の末裔であるという『事実』は、その家系に連なる人々を除き、他の誰にも手に入れることができないものであることは間違いない。
    Mughal emperor’s descendent gets a job (The Times of India)

  • RICKSHAW CHALLENGE

    RICKSHAW CHALLENGE
    言うまでもなく、オートリクシャーはインドを代表する乗り物のひとつである。だいぶ前に『オートでGO !』というタイトルで取り上げたことがあるが、この自動三輪によるレースがインドを代表するレース?と言えるかどうかはともかく、業務用車両が爆走するということに、興味を抱く人は少なくないだろう。
    このレースは、なかなか広がりを見せているようで、インド国内でいくつかの大会が開催されるようになっている。
    RICKSHAW CHALLENGEのサイトにその概要が記されている。直近のレースは、MUMBAI XPRESS 2009だ。7月31日から8月13日までの14日間で、チェンナイ出発後、ヴェロール、バンガロール、マンガロール等を経て、パンジム、アリーバグ等を駆け抜けてムンバイーにゴールインする。
    その次がTECH RAID 2009というレースで、こちらは10月16日から同22日までの7日間で、チェンナイからバンガロール、アナンタプルなどを経て、ハイデラーバードに至る。
    年内最後のスタートは、CLASSIC RUN 2010という大会。こちらもチェンナイを発ってから、マドゥライ、ラーメーシュワラム等を通過して、カニャークマーリーでゴール。12月29日から1月8日まで11日間の行程だ。
    それに続いてMALABAR RAMPAGE 2010は、4月2日から同20日までの19日間という長丁場。スタートもゴールもチェンナイだが、タミルナードゥとケーララの両州をぐるりと一周する形になる。
    他にもカスタムメイドのYOUR ADVENTUREという企画も可能だそうだ。
    インディア・トゥデイ6月17日号でもこれらのレースのことが取り上げられていたが、かなり外国人の出場もあるようだ。同誌記事中には、『参加者の中には、70歳のカナダ人男性以外にも、英国のAV男優、元ミス・ハンガリー、元俳優の日本人男性も含まれている』と書かれている。
    RICKSHAW CHALLENGEのウェブサイトには、エントリーに関する情報も載せられている。腕に自信があれば出場して上位入賞を目指してみてはいかが?
    参加するには相応の費用がかかるとはいえ、その部分をクリアできるチームであれば広く参加の道が開かれており、敷居の低い国際レースである。

  • ヒトもまた大地の子 2

    現代のヒトは、野山で狩猟採集生活を送っているわけではないし、そうしたやりかたでは大地が養いきれないほど膨大な人口を抱えている。私たちがこうやって暮らしていくことができるのも、自らが造りだした文明のおかげだ。今後とも発展を続けていくことこそが、私たちの社会が存続していくことの前提なのだから、私たちの生産活動を否定するわけにはいかない。
    古の彼方、ヒトという生き物が地上に現れたころ、命を維持するのに必要な水や食料の関係で、生活できる地域は限られていた。河、湖、池、泉といったものが必要で、すぐ近くの海、山、野原などから様々な産物等が容易に手に入ることが必須条件だった。
    その後時代が下るにつれて、世界各地で耕作が始まり、ヒトが集住する規模が拡大し、富が蓄積されるようになってくる。やがてそれらの富を広域で動かして交換、つまり交易という活動が盛んになってくる。
    文明の発展は同時にヒトの持つ様々な知識を向上させ、技術を進歩させていくことになる。ヒトが集住する地域では都市化が進み、交通や地理学的な知識の蓄積から、生活圏や経済圏は次第に拡大していく。長距離に及ぶ陸や海のルートが確立され、シルクロードに代表される長距離に及ぶ貿易が実現されるようになった。
    その後、やがて欧州は大航海時代に入り、世界各地に進出して植民都市を建設していくことになる。様々な富を様々な形でそこから持ち出すことが、彼らの最も大きな目的のひとつであったとはいえ、鉄道敷設が始まる前に建設された市街地の多くは、海や河の岸辺から広がる形のものが多く、まだまだ人々が生活できる条件が揃う地域は限られていたといえる。
    だが、いまや国や地域によってはなはだしい格差はあれども、各地に道路、水道、電気等々の生活インフラが行き渡り、蛇口をひねると水がほとばしり、スイッチを入れれば電気が使えて、調理や暖房などのためガスが利用できるようになっている。どこにでもエンジンのついた乗り物で、道路、空路、海路などで簡単に移動できるようになっている。かつては地理的、物理的にヒトの生活に適さなかった土地であっても、ちゃんと生活環境が整うのが今の時代だ。
    そうした技術や交通手段の進歩により、都市も拡大している。鉄道、バス、メトロなどの発達により、それらが導入される以前よりも日常的に行動できる範囲が広がっている。これにより、都市の周辺に大きく広がる『郊外』を出現させ、その郊外はさらに近隣の町を呑み込んで市街地をさらに拡大させていく。こうした市街地に生まれ育ったおかげで、自然との関わりを、日々あまり意識できないのは私に限ったことではないだろう。
    もちろんそうした技術の進歩や経済活動等の拡大により、産業革命以降、とりわけ20世紀以降はエネルギーの消費量が飛躍的に増えている。近年、先進諸国が停滞している中にあっても、いわゆる新興国の発展にともない各地で大規模な開発が進んでいる。これらにより、環境に与える負荷がますます大きくなっていることは言うまでもない。
    生態系システムから大きく逸脱してしまったヒトの社会活動そのものが、大自然というシステムに対していかにリスクの大きなものであるかという認識が広まっている。日々の暮らしや生産活動等が環境に与える影響をなるべく小さくしようと、熱帯雨林保護、CO2排出量の規制、CNGを燃料とするエンジンやハイブリッドエンジンを動力にして走る自動車の導入、日本発の『クールビズ』の呼びかけ等々、世界各地でさまざまな取り組みがなされている。
    だが、それらの試みは、これまでの間に失われた環境を取り戻すものではないことは言うまでもない。私たちが自然環境に対して与えるダメージを、今後なるべく小さくしていこうというものでしかない。そのため、われわれ人間が環境や自然に対して与える影響や圧力はどんどん蓄積していくいっぽうなのだ。
    ヒトもまた、もともとは自然の生態系の中で育まれた生き物のひとつである。建物やクルマ、電化製品や通信機器といった多くの無機物に囲まれて暮らす私たちだが、大自然という大きなものに対する畏れと愛情を忘れてはいけないと思う。
    私たちのこの大地は広大にして精緻なるもの。先述の緑の革命のように、近代的な技術により土地にもともと備わっていた条件を克服したかのように見えても、実は長期的にはその成功は不完全なものであり、背後には厄介な問題が控えていることが判ったりする。
    私たちヒトが、母なる大自然への反逆者ではなく、大地の子として周囲と共存していくためには、私たちの存在が自然に対して及ぼす影響の本質について、今後もっと大きく踏み込んだ取り組みが必要であろう。

  • ヒトもまた大地の子 1

    近年、インド各地で農民たちの自殺のニュースをよく目にする。緑の革命に成功したはずのパンジャーブでさえもそうした事例が多い。1961年の大飢饉以降、近代的な農業が導入され、記録的な増産を実現したものの、塩害の問題が取り沙汰されるようになっている。
    インドの穀倉地帯、パンジャーブ州の農業の基盤となるのはもちろん広域にわたって張り巡らされた灌漑だが、これらの維持管理の不手際が指摘されている。また河川からの取水だけではなく、地下水も盛んに利用されているが、これは過剰揚水につながり、地下水位の下落につながっている。
    また地下水中の含塩量の問題等が指摘されている。これらは国境をまたいだパーキスターン側でも同様であるとともに、はるか西のエジプトにおいても、塩害が深刻な問題になっているという。どの地域も大規模な灌漑に成功し、水利のコントロールと農作物の収穫増に大きな成果が上がったと自負していたはずの地域である。
    都会の街中、しかも建物の中にいると、窓の外の気候の変化はまるでテレビの画面の中の出来事のようで、あまり現実感がないといっては言い過ぎだろうか。あるいは大きな建物に囲まれた中に身を置いていると、本来地上の生き物としてあるべき空間、外界とのつながりが希薄になってくる。
    空気の乾湿、気温の高低以外に自然界の影響というものをほとんど感じなくさえなってくる。 都市生活の中で、『大自然の脅威』を感じるのは、それこそ大地震であるとか、予期せぬ規模の豪雨のため洪水といった大災害の発生時くらいのものではないだろうか。
    ヒトとは、実に環境負荷の大きな生き物だ。地下に巣を掘ったり、樹木を立ち枯れさせるほどに旺盛な食欲を見せる動物たちはいるが、大自然の中に都市というヒト専用のコロニーを造って平野の景色を一変させたり、河を堰き止めて広大な湖を作ったり、ときには山を跡形もなく消失させてしまうなど、大地の有様さえも一変させてしまうほどの大きな力を行使する生き物は他にないだろう。地形だけではない。大気や水さえも汚濁させて、それまで生活していた動植物を駆逐させてしまうことも多々ある。
    しかもヒトの生活圏において、動植物を含めたあらゆる有機物は、ヒトにとって有用であるものだけが存在することを許され、多くの場合は飼育・栽培といった形でその数量まで管理される。しかしながら有益でない、あるいは害があると判断された生物は、そこにいることさえ許されず、駆逐や駆除といった形で殲滅が図られるという厳しい掟がある。

  • 邦字メディア

    このところ、タイの政治の動きが気になり、同国の英字メディアに加えて邦字紙バンコク週報のウェブサイトを眺めていたらこんな記事が目に止まった。
    インドの民間航空、バンコク便を延期 (バンコク週報)
    ここにある民間航空とは、キングフィッシャー・エアラインのことで、今年3月からバンガロール・バンコク便を毎日運行させる予定であったのだそうだ。しかし機材繰りの関係でこれを今年10月に延期。また発着地もバンガロールの代わりにムンバイーとコールカーターからそれぞれバンコクに就航させる予定だという。 今のところ、首都デリー便は予定されていないようだが、日本からバンコク経由でインド行きの選択肢が増えるのは喜ばしいことである。
    ところでバンコク週報といえば、ご存知のとおりバンコクをベースとする週刊の邦字紙。昨日は、想像を超える多数のアクセスがあった模様で、日中一杯はまったくつながらなかった。もちろんタークシン元首相支持者たちのデモ活動、政府が鎮圧に乗り出し、軍隊と衝突して死者まで出る騒ぎになっているがゆえのことである。
    1976年の創業当時は週間バンコクと称していたそうだ。他にも海外の邦字紙といえば、シンガポールの星日報、フィリピンのマニラ新聞、インドネシアのじゃかるた新聞等、各地でいろいろ出ている。
    現在これらは紙媒体のみならず、多くがウェブサイトも開設しているため、昔は現地の日本人社会周辺でしか見かけることのなかったこれらのメディアに、いとも簡単にアクセスできるようになっている。たまに覗いてみると、日本で発行されるメディアには取り上げられないトピック、日本のメディアとは違った視点なども感じられ、なかなか興味深いものがある。
    海外の邦字メディアへのリンクをまとめて掲載しているところはないかな?と探してみると、ちょうどいいサイトが見つかった。
    海外の日本語新聞 (岸波通信)
    こうした電子媒体をも含めた邦字メディア、つまり海外発の日本語による報道といえば、おおまかに分けて三つに類型できる。
    ?在留邦人向け
    まず第一に、先に上げた仕事などのために現地に在留している日本人たちのためのメディアだ。往々にして駐在期間が数ヶ月から数年と限られており、往々にしてその国や地域の事情にあまり通じておらず、コトバの問題もあり地元メディアによるニュースをなかなか得にくい人たちが主な購買層となるだろう。現地ニュースを噛みくだいて伝え、これと合わせて在留邦人たちに役立つ生活・娯楽ニュースなどを提供することに意義がある。
    ?日系人ならびに定住者向け
    サンパウロ新聞ニッケイ新聞に代表される、海外に移住した日系人たちを対象に発行されているものだ。在住国のニュースが日本語で書かれている点では前者と似ているとはいえ、読者層の大半にとって『故郷』とは在住国そのものであるため、日本に対するスタンスがずいぶん違う。『父祖の国』の日系人に対する処遇がしばしば記事になったりもする。また『納骨堂詐欺にご注意』などという見出しが目に付いたりするのも、そこに根を張って生きる日系人たちの立ち位置が感じられる。また日系人たち(おそらく年配の方々が中心か?)の間で、日本の出身地を単位とする県人会活動が盛んなことも、そうした記事が多く含まれていることから推測できる。
    ?と?は、かならずしもはっきりと境界を区切ることができるものではないかもしれない。タイやインドネシアなどで生活の糧を得る生業を持ち、長年定住して家庭をもうけ、終の棲家としている日本人は少なくないし、ブラジルをはじめとする日系人社会の中に出入りする非定住型の日本人もある。
    ?日本語版外国メディア
    最後に前者ふたつとは明らかに発行主体と目的が異なる邦字メディアがある。日本から見て外国の報道機関が、自国その他のニュースを日本語により日本人読者を相手に発信するものだ。必ずしも発行主体のある現地在住日本人を対象とするものではなく、日本で暮らす日本人たちに自分たちの国の様子を伝える役目をも担っている。ウェブ版の韓国の朝鮮日報、中国の人民日報などがこのタイプに当たる。もちろんロイター・ジャパンのような外国通信社が発信する日本語ニュースもここに分類できるだろう。
    ?はともかく、?と?については、一時滞在も含めて相当まとまった数の現地在住の日本人ないしは日系人の人口がなくては存在しえない。それがゆえに、アジアを中心とする各地で、新たな邦字メディアが生まれたり、日本語による主に娯楽関連のミニコミ紙が登場したりと活発に推移しているのとは裏腹に、中南米の邦字メディアについては、日系人の世代が下るにつれて、日本語を理解しない人が増えていること、父祖の国への文化的な関心も薄れていくことから、かなり苦戦しているところが多いということも耳にする。
    インドの邦人人口はまだそれほど多くはないとはいえ、今後日印関係がより緊密なものになっていくのだとすれば、いつの日かインドで発行される邦字新聞というのも出てくるのだろうか。『日本語で読むインドニュース』を標榜する有料のウェブサイト、インド新聞や無料のインドチャンネルなどというものがあり、活発にインド関連のニュースを発信しているものの、これらはちょっと違う気がする。内容もさることながら、メディア自身が立つ軸足の関係である。
    今、広く知られている邦字紙によるウェブサイトは、言うまでもなく既存の紙媒体のメディアが時代に合わせてウェブ版でも発信するようになったものだ。今の時代に発刊する邦字メディアは、紙面作成や頒布に人手やコストがかかるうえに、流通するエリアに限りがあり、保存性もよろしくない紙媒体をスッ飛ばして、直接電子媒体で・・・というのがいいのかもしれない。
    ともあれ、メディアは社会の公器とはいうもの、れっきとした商売でもあるので、やはりそこはそれなりの需要があり、採算が見込まれることなしに存在しえないことは言うまでもない。

  • もうすぐNANOがやってくる

    ターター・モータースの10万ルピー車、NANOの発売が正式に発表となった。
    10万ルピーといえば、インドにおいて、従来の自家用車の最安値クラスよりも3割ほど安く、バイク3台分よりは少ない費用で購入できるという価格。
    原音に忠実に表すと、カタカナで『ナァェーノー』と綴ることになろうが、『ナ』の後に小さい『ァ』と同じく小さい『ェ』が並ぶ不自然な表記となるので、あえてNANOとローマ字で記すことにする。
    NANOの生産につき、西ベンガル州内の工場用地をめぐる大掛かりな争議に巻き込まれたものの、救いの手を差し伸べたナレーンドラ・モーディーが州首相を努めるグジャラート州に生産本拠を移してようやく発売にこぎつけた。
    これによって、共産党がチカラコブを入れて誘致したターターを蹴り出すことにより、マムター・バナルジーに率いるトリナムール・コングレスが、同州与党(共産党)の顔にドロを塗り、勝ち点を稼いだ格好となった。
    しかしながら内外からの投資先としての西ベンガル州総体としては、『とかく政治や争議関係がややこしく面倒な土地』として、痛い失点を記録したといえる。

    (さらに…)

  • ネットでテレビ 3

    ヌールテレビというインターネット上で視聴できるプログラムがある。初めてアクセスしたときにはイスラームの宗教プログラムが放送されていたが、言葉が流麗なウルドゥー語だったので、てっきりパーキスターンの放送かと思った。
    この放送局のウェブサイトを見てみると、『自社ウェブサイトからライヴ放送する唯一のアフガン放送局』とある。さらに面白いことに、発信元はアメリカのカリフォルニア州フリーモント。アフガーニスターン生まれ米国育ちの三兄弟が2007年夏に立ち上げた会社だそうだ。
    発信地がカリフォルニアであることからわかるように、主にアメリカとカナダ在住の同胞向けに衛星放送するとともに、欧州や祖国アフガーニスターンでも受信可能となっている。さらに他の地域においては、自社ウェブサイトGLWIZ.comを通じて視聴できるようになっており、基本的にはダリー語で放送しているそうだ。
    ちなみにGLWIZ.comとは、ペルシャ語圏のいろいろなテレビ放送を視聴できるようになっているサイトだ。そこに出てくる様々な放送局名やロゴが出てくるので、インドやパーキスターン同様に、民間放送事業者が活発に展開するようになっていることがわかる。残念ながら、私はペルシャ語がわからないので、それらのコンテンツはまったく縁がないのだが。
    ともあれブロードバンド環境が世界各地に拡大したことにより、各地で広がりつつあるネット放送。既存の視聴エリアをはるかに越えて世界中で受信される。今後の発展と充実が期待される。

  • ネットでテレビ 2

    そういえば先日行なわれたワールドカップアジア三次予選、日本対バーレーンの試合はJustin TVから無料中継されていたそうだし、その録画ならば今でもLiveSports.jpで丸ごと観ることができる。(・・・といっても出来の悪い試合だったので、そのためにわざわざ時間を割く必要もないと思う)
    FREEE TVはカバーする範囲が広く、インド以外にも世界中の主要国の番組を見ることができる。日本の読売やTBSも含まれているが、こちらは録画のみ。
    とはいえ、電波が届かないところにいながらにして、その日に起きた主要な出来事を映像にて目にすることができることに大きな価値がある。アンテナでは拾うことのできないプログラムにアクセスできることが大きなメリットだ。

  • ネットでテレビ 1

    iDesiTv
    昨年11月、ある方に無料にてインドのニュースやエンターテインメント番組を視聴できるサイトを教えていただいた。iDesiTvというのがそれだ。

    似たようなサービスを提供するサイトとして、Babu Tvというものもあり、どちらもインドやパーキスターンのチャンネルにアクセスすることができる。ヒンディー語およびウルドゥー語によるプログラムが主体だが、英語のニュースチャンネルも含まれている。
    国外からでもアクセスできるのもさることながら、パソコンで忙しく作業しながらでも画面端にそれを表示しておいたり、音声だけ聴いたりという利用の仕方もいいだろう。
    通信の質はいまひとつだったりするが、ニュースにしても映画にしても何をやっているのかわからないということはないし、音もまずまずで聴き取れないことはないため、それなりに早い回線が確保できる環境下にあれば充分実用の域にある。
    今後、通信技術の更なる進化、ブロードバンド環境の拡大などにより、従来型のテレビ受信機が役目を終える時代はそう遠くないのではないだろうか。少なくともこうした形での受信が広まれば、大画面で映画を楽しむのでなければ、パソコンで済ませてしまったほうがいいのではないかとも思う。
    テレビ放送自体も、さまざまな放送局が電波に乗せるだけではなくネットに流すことも開始しているがゆえに、このようにパソコンでリアルタイムに受信することが可能になってきているし、一部の国では人気番組を好きなときにオンデマンドでアクセスできるサービスも始まっている。
    こうした分野への進出に消極的なのは日本の大手テレビ局だが、ひとたび『変わるぞ』となると各社横並びに一気呵成で物事が進むのが日本なので、5年後、10年後にはずいぶん違う状況になっているかもしれない。
    ともあれ、インドあるいはパーキスターンで何か大きな出来事があれば、すぐにこれらのサイトにアクセスしてみるといいだろう。事件が起きた現場のシーンやその背景についての解説等々がリアルタイムに目の前のパソコン画面に飛び込んでくるのだ。

  • トイレ 洋の東西をひとつに 1

    しゃがむか?座るか?相反するスタイル
    近世において都市部をはじめとして広く公衆衛生の普及がみられるようになった。しかし西洋式のトイレ文化の導入により、他のアジア諸国でもそうであったように、従来の土着のスタイル『しゃがむ』タイプの様式と外来の『座る』タイプのものが並存することとなった。
    前者と後者の分布は地域差や立地によりいろいろ違うため一言でまとめるわけにはいかないが、概ね個人の住宅では『しゃがむ』もの、富裕層・中間層が出入りする場所では『座る』ものの普及が顕著で、その他不特定多数の大衆が行き来するエリアでは前者・後者ともに並存するという形が多いようだ。
    トイレ文化の違いで困ること
    今あるタイプのトイレが一般化した20世紀以降、一見すると平和裏に共存しているように捉えられがちなトイレだが、その実ふたつの異なる文化が激しくせめぎあう物騒な空間だ。それは21世紀に入っても変わることなく続いている。
    たとえば日本の例を挙げてみよう。主に省スペースという目的から住宅等で設置されるトイレの大半が男女・大小兼用の洋式となっている昨今、私たちは『座る』ことにすっかり馴染み、和式よりも快適に感じるようになっていることは否定できない。そうした背景もあり、より高度なコンフォートを求めて便座が一定の温かさに保たれていたり、事後に自動で洗浄してくれたりする便利な製品も多い。
    しかしながら一歩自宅の外に出てみるとどうだろうか。一般の公衆トイレはいざ知らず、ホテルやデパートといったきちんとメンテナンスの行き届いた空間においても、誰が使ったかもわからない便座に尻を乗せる行為を不快と感じる向きは少なくないようだ。その結果、消毒用アルコールを含んだジェル状の便座クリーナーであったり、薄いビニールや紙の使い捨て便座カバーが用意されていたりする。どちらも『しゃがむ』トイレでなら不要なものである。
    しかし事後の処理をトイレットペーパーではなく、水で行なう地域においてはさらに大きな問題を利用者に突きつけることになる。それは座ることと水で洗浄することが極めて両立しにくいことだ。
    右手に持った手桶から流す水を、左手を用いて洗うという行為は、尻をくるぶしの位置にまで深くしゃがみ込んだ姿勢でこそ可能なのだが、洋式トイレに座った姿勢つまり中腰の状態ではきちんと実行できず、下手すると洗った水が太腿の後ろ側を伝って流れ落ちるという大失敗にもなりかねない。加えて『しゃがむ』タイプに比較して、『座る』ものだと手元が便器脇の蛇口からも非常に遠くなるので苦痛がさらに増す。
    苦痛が生み出す結果
    そうした不便や苦痛を克服するために私たちはどう対処すればよいのか。誰もが思いつくことはただひとつ、便座を両足で踏みつけてしゃがむことである。かなり不安定な姿勢になるが、下半身や衣類を汚さないためにはこれしかない。私たちは洗い用の手桶を持ったまま、恐る恐る片足を便座にかけてヒョイと乗っかるのである。
    すると便座は床の水やら汚物やらでまみれて、次に使用する人は決してそこに腰掛ける気にはならない。また次の人も便座を踏みつけてしゃがむ、そのまた次の人も・・・。
    便座にやさしく足をかける人もいれば、ドカッと乱暴に踏みつける人もあるだろう。体重が軽い人もいればレスラーのような巨漢もいる。もともと優しく座ることを前提に設計してある楕円状のプラスチックの物体は、左右2箇所の極めて狭い部分に繰り返し圧力を与えられることでいつしか壊れる。仮に修理されても、また人々はそこに足を乗せてしゃがむことがわかっているので、設置者は敢えてこれを直すこともない。これがインドおよび周辺国でよく見かける『便座なし洋式トイレ』が発生する普遍的なメカニズムだ。
    まだ便座があるうちは、ステップがそれなりにグリップして?安定したしゃがみ込み姿勢が取れた洋式トイレだが、これが失われてしまうと縁に置いた両足が非常に滑りやすく、特にゴムサンダル履きでの利用は決して勧められない。
    洋の東西をひとつにする快挙
    上記のような状況はインド亜大陸のみならならず、東南アジアや中東などでもかなり広く見られるものだ。しかしこれに対する根本的な解決策を打ち出したのはインドであったようだ。西洋と東洋というふたつの異なるトイレをひとつにまとめあげるアイデアを打ち出したのは。そのアイデアが商品として結実したのが、先日取り上げてみた現在『ユニバーサル』そして『アングロ・インディアン』といったネーミングで販売されている東西両用トイレなのだ。
    他にもこのタイプのトイレを指す商品名は複数あるようだが、本稿においては便宜上『ユニバーサル式』と呼称することにしたい。
    これが考案・発売された時代のことを私は知らないが、おそらく当時の世間は驚愕し、稀代の発明に惜しみない賞賛を与えたことだろう。『しゃがむ』トイレを地上に少し浮かせてそこに便座をつけて『座る』トイレと兼ねたトイレに対して。あるいは『座る』トイレの左右に張り出したステップを取り付けて『しゃがむ』ことも可能にしたというべきかもしれない。
    さらには、通常の『座る』トイレよりも背を少し低くして乗りやすく、かつ洗い桶用の蛇口が近くなるようにしてあること、ステップをやや左右に開くことにより安定した『しゃがみ』を可能とするなど、ユーザーフレンドリーな心遣いもなされていることも見逃してはならない。
    今後の課題
    せっかくの大発明(?)だが、おそらく『しゃがむ』『座る』どちらのタイプよりも割高なのか、極めて実用的ながらも見た目がスマートでないことなどもあってか、普及度はいまひとつであるのがはなはだ残念だ。
    利用者の評判は決して悪くはないようであるため、おそらく設置者側の都合によるものと思われる。このタイプのトイレを製造している各メーカーは、販売促進活動を通じて世界に誇るべき『ユニバーサル式』トイレに対する認知を向上すべく活発に啓蒙活動を行なって欲しい。
    特に公共施設ならびに鉄道施設等については、衛生的なトイレの利用を促進する観点からも、新規設置のトイレはすべて『ユニバーサル式』とすることを原則とするなどの取り組みが望まれるところだ。
    『ユニバーサル式』を賞賛する私は、インドのみならず、事後の処理を水で行なう広い地域に及ぶ各国への普及を図るべきではないかとも私は考えている。また水ではなく紙を用いる諸国においても、最近の住宅に有無を言わさず作りつけになっている『洋式トイレ』に違和感を覚える層が存在する?日本に加えて、他の国々でも『私もホントはしゃがみたい』派の存在もあるかと思われる。
    インドでの需要のみでくすぶらせておくのは実に惜しい。インドで思われているよりもさらにグローバルなポテンシャルを持つ『ユニバーサル式』トイレである。

  • トイレ 洋の東西をひとつに 2

    自らの奥行き深い文化に加えて、長い歴史の中で周辺地域から大小さまざまな影響を受けつつも、それを借り物としてではなくじっくりと消化して独自のものとしてきたインド。絵画、音楽、建築、言語etc…どの分野においてもそうしたハイブリッドさが顕著で、インド文化のリッチさや多様性をするひとつの要素といえる。
    さて突然卑近な話で恐縮ではあるが、私たちが日々使用するもののうち、私が心底惚れ込んでやまないものがある。それはこれだ。
    その名も『ユニバーサル』!
    昔々からある便器だが、まさにインドだからこそのアイデアと社会的な実情に対応した高い機能性を実現している。このタイプのものが果たしていつ考案されたのか知らないが、トイレ事情に関する深い考察と旧習にとらわれない柔軟な思考なしでは成しえない偉業ではないだろうか。
    メジャーなところでHSIL社から『ユニバーサル』という商品名で、またReliance Sanitarywares社からは『アングロ・インディアン』という名前でそれぞれ販売されているが、どちらもズバリ的確なネーミングがなされている。このトイレについて、私なりの考えをまとめてみたので後日掲載することにする。

  • 日々の糧は天から届くのか?

    コトの背景については詳しく報じられていないのだが、ちょっと気になる・・・というよりも、あんまりなニュースを目にした。『アフガニスタンで物乞い禁止』というのがそれだ。
    物乞いをする人たちは犯罪の餌食になったり、いいように搾取されたりしがちであるから保護しましょう、福祉施設に収容しましょうというのが表向きの理由らしいが、そんな余裕のある国情ではないはず。
    さりとてこういうお触れを出す政府にしてみても、それが現実的でないことは重々承知のはず。すると真の目的とは何だろうと、あれこれ考えてみたりするが、そんな呑気なことをしていられるのは、遠く離れた国の暖かい部屋の中で、今日明日の糧の心配もなく暮らす赤の他人。
    日々路上で物乞いを続けている当人たちにしてみれば、生存を賭けた最後の手段を否定されようと取り締まられようと、おそらく命ある限りそれを続けていくしかない。本格的な冬の訪れはもう目前に迫っている。
    Afghanistan bans street begging (BBC South Asia)