本来ならば、昨日書いた『オートリクシャー・スター・クラブ? デリーの路上の星たち』の続きを掲載するところなのだが、昨日のテレビニュースでインドに滞在中の日本人にまつわる気になるニュースがあったため、『オートリクシャー・スター・クラブ?』は後日アップロードすることにしたい。
ZEE NEWSで、インドにおいては珍しいことに、政界人でも財界人でもない日本のある一個人について長々と取り上げられていた。生後10日あまりのマンジちゃん(ある記事にManjと書かれていたが、漢字でどう書くのかは不明。Manjiという綴り自体に間違いがあるかもしれないが)という赤ちゃんのことである。
ヤマダさんという日本人男性を父親に持つ、この女の子の赤ちゃんの帰属が、法律の壁によって宙に浮いた形になっているとのことだ。ヤマダさんはインド在住者ではないが、妻のユキさんとともに昨年後半に来印、アーメダーバードで現地女性と代理母契約を取り交わした。
ヤマダ夫妻が代理母に託した受精卵は、代理母の胎内で順調に成長。彼女は7月25日に元気な赤ちゃんを無事出産した。しかし不幸なことに、そのひと月前の6月にヤマダ夫妻は離婚していた。赤ちゃんの誕生の報告を受けた両親のうち、母親のユキさんは彼女の引き取りを拒否し、父親のヤマダさんだけが、彼の母親とともにインドに渡航することになった。
7月26日アーメダーバードで連続爆破テロが起きたことを受けて、治安上の不安からヤマダさんは仕事の関係で日本とのつながりを持つ友人が住むジャイプルへマンジちゃんとともに移動。彼女は現在ジャイプル市内の病院で世話を受けている。
ヤマダさんは、親権者たる父親として赤ちゃんを日本に連れて帰ろうとしているわけだが、彼が日本大使館から意外なことを伝えられた。赤ちゃんにはインドパスポートと出国許可書類の取得が必要だと。
カテゴリー: life
-
親子の絆 法律の壁
-
極小にして秀逸な辞書

使うことはほとんどないけれども、手元にひとつあったらいい。可能な限り小さくて、それでいて充分実用に耐えるものがいい。英和と和英合冊の辞書で何か良いものはないものか?としばしば思っていた。通常、小型辞書といえば、三省堂のコンサイス英和・和英辞典、旺文社のハンディ英和・和英辞典といった、掌くらいの丈の細長いものが頭に浮かぶだろう。それでも厚みや質量からして『文庫本以上、単行本未満』の存在感があるので、特にそれを必須アイテムと考えなければ、旅行や出張といった際にわざわざ荷物に加える気はしないだろう。
もっと小さくて内容が優れたのがあればいいのだが、往々にして極小辞書は内容に乏しいもの。たとえばYOHAN ENGLISH – JAPANESE, JAPANESE – ENGLISH DICTIONARYという、例えはヘンだが体積にしてリコーのデジタルカメラGR DIGITALほどしかないものがある。サイズは魅力的なのだがコンテンツに乏しく、実用に耐えるとは思えない。
やはり先述のコンサイスくらいが限界なのかな?と長年思っていたのだが、このほど優れもののミニ辞書を見つけた。コンサイスと同じく三省堂から出ている。ジェム英和・和英辞典だ。私はその存在すらまったく知らなかったのだが、古くから出ている辞書だそうなので『あぁ、持っているよ』という方も多いのではないかと思う。同社のウェブサイトにはこう紹介されている。
日本で一番小さな本格的実用英和・和英辞典の全面改訂版。
天・地・小口の三方を本金塗り、表紙には最高級の皮革を使用した豪華装丁。
日常生活から海外旅行まで使える内容豊富な珠玉の辞書。贈り物にも最適。
今改訂では、現代生活を反映する活用度の高い語彙を網羅。
英和3万3千項目、和英3万1千項目収録。
サイズはYOHANのものよりもやや小さいくらいなのでさらにびっくり。非常に薄い紙を使用しているものの、スペースの都合上収録語数はそれほど多くはない。しかしながらボキャブラリーが精選されているため、実用度ではひとまわりもふたまわりも大きな版形の辞書に匹敵しそうな印象を受ける。英和部分の紙面が尽きたところから和英のコンテンツが始まるのではなく、どちらもオモテ表紙から始まるようになっている。英和の表紙を見ている状態で、これを表裏・天地さかさまにひっくり返せば和英の表紙となっているのだ。使い勝手も良さそうだ。
初版が出たのは大正14年とか。西暦にして1925年。カーンプルでインド共産党が結成された年である。ちょうど10年前にガーンディーが南アフリカから帰国して、非暴力・非服従運動を展開していた時代である。同年に日本に逃れていたラース・ビハーリー・ボースが日本に帰化したのがこの2年前の1923年。現在販売されているのは1999年に改訂された第7版。
もしこの辞書を見かけることがあれば、ぜひ手にとってご覧いただきたい。表紙に本革をあしらった高級感ある装丁はもちろんのこと、その極小な版形に納められたコンテンツの秀逸さはまさにGEM(宝石)の名にふさわしい。初版以来、現在にいたるまで83年という長きにわたり世に出回ってきたロングセラー。その歴史は伊達ではない。
書名:ジェム英和・和英辞典
出版元:三省堂
ISBN-10: 4385102392
ISBN-13: 978-4385102399 -
双子の母は70歳
インドのU.P.州ムザッファルナガル在住の70歳女性、オームカーリー・パンワールさんが双子を出産したとのニュースがインド内外のメディアで話題になっている。2005年にルーマニアで66歳での出産、2006年にはスペインにて67歳で出産した例があるが、これらを上回り70代という大台に乗せての堂々世界新記録ということになる。しかしこの年齢については、やや疑問符が付いているようだ。彼女の出生についての記録がなく、自身が『インド独立時に9歳であった』ということが、70歳という年齢の根拠であるからだ。
予定日よりもひと月早く、男の子と女の子を帝王切開にて出産。容態が悪化して病院に担ぎ込まれたときは出血がひどく意識も朦朧として危険な状態にあったらしいが、母子ともにその後の経過はまずまずとのことで何よりだ。
体外受精医療の進歩と普及を受けて、近ごろのインドでは代理母出産に加えて高齢での出産も増えているとのことで、メディアでしばしばそうした例も取り上げられているのを目にする。どうしても子供が欲しいという気持ちについては一定の理解を示していても、往々にしてそうした傾向に好意的というわけではなく、母体への危険とともに倫理的にどうなのか、親として責任を果たせるのかどうかといった疑問符が付く。これには私も大いに同意するところだ。
オームカーリーさんの77歳の夫は、土地をカタに借金し、家畜を売り払って資金を工面したと記事中にある。とうの昔に成人した二人の娘と五人の孫がいるということで、曾孫であってもおかしくないような子供を出産したことになる。わざわざ体外受精で妊娠したのには、どうしても男の子が欲しかったためとのことだが、ぜひとも男の子をという伝統的価値観あるいは相続の問題など具体的かつ実質的な問題によるものなのか、具体的な背景には触れられていない。
しかし相当な高齢での出産が、リスクが大きいとはいえ技術的に可能になっている今、70歳での出産という事例よりも重要なのが、『それでも産もう』と夫婦を決心させる動機にあたる部分ではないかと思う。
医療技術の進歩に感嘆し、母は強しと畏れ入るとともに、他人事ながらもその年齢での子育て(たぶん親族内でなんとかなるんだろうが)や夫婦に残された時間と子供の成長を思い合わせると、なんだか複雑な気持ちにもなる。
念願かなっておめでたいことであるのには違いないとはいえ、いろいろと考えさせられることの多い世界最高齢出産である。もちろん他人がとやかく口出しすることではないことは言うまでもないのだが。
ともあれ、無事生まれて何よりだ。今後、双子の赤ちゃんたちとオームカーリーさん夫婦の幸せを祈ろう。
70-year-old grandma gives birth to twins? (DailyIndia.com)
Gran, 70, gives birth to twins (The Sun)
70-year-old woman becomes world’s oldest mother with birth of twins (Daily News)
70歳ママが双子産む、インドで世界記録 (日刊スポーツ) -
愛が凶器に変わるとき
近年のインドのニュースで、恋愛のもつれに起因する凄惨な事件をよく目にするなあ、とは思っていたが、インディア・トゥデイ6月25日号によれば、国内で発生する殺人の三大動機のひとつだそうだ。特にパンジャーブ、デリー、グジャラート、マハーラーシュトラ、アーンドラ・プラデーシュにおいては、殺人事件における最も大きな割合を占める原因が男女関係であるとも記されている。
同誌英語版では、6月23日号にこの内容の記事『Crimes of Passion』が掲載されている。近年の男女間のトラブル、恋人同士、夫婦間、不倫等を発端とする事例の数々を提示したうえで、その背景にある社会的な要因を探る努力がなされている。詳しくはP.38からP.45までの記事内容を参照いただきたいと思う。大局的に価値観やライフスタイルのありかたなどで、旧来の価値観と新しい世代のそれとの間の齟齬が大きく、それらが衝突を起こしているがため、というステレオタイプなまとめかたがなされるのではないかと思ったが、そうではなかった。
社会的にも経済的にも独立して着実に地位向上を目指す女性たちが増えている昨今、強くなり進歩的になった女性とそれについていけず男性主導型の考えに固執する男性たちとの間の摩擦が主要な要因であるとし、今を性革命の時代とすれば一歩も二歩も先んじているのは女性であり、男性たちは後塵を拝していると指摘する部分が新鮮だった。
政治であれ、コミュニティーであれ、従来力関係に変化が生じたときには新たな秩序を組み上げるにあたり、自らをより有利なポジションに置くために、積極的なパワーゲームが展開されるものだ。中世の王家などで、後継者を定めずに支配者が没した際の世継ぎをめぐる熾烈な争いなどもその典型だろう。
だがたとえ男女のありかたが変わっていっても、人の数だけ出会いはあり、恋愛はひとつひとつ中身が違う。しょせん生まれも育ちも違う他人同士が好き合うのだから、楽しいこともあれば、互いに理解しがたく堪忍袋の緒が切れることもあるだろう。いつの時代にあっても、男女の仲は睦まじくも難しいもの。
しかしながら人間として越えてはならない一線を踏み外してしまった人たちの事例とその背景にあるものの分析は、今の世相を考えるうえで示唆に富むものであった。 -
E-タバコ
嫌煙権と言うコトバが生まれたのは30年くらい前のことだという。もちろんその背景には、世間でタバコの害について認知が進んだことが背景にある。非喫煙者の副流煙による間接喫煙を原因とする健康被害にあいたくないという、ごくまっとうな意見が静かにしかし着実に浸透し、分煙化が進んでいくことになった。
確かに古い映画、ドラマ、報道番組などを目にすると、事務所内がタバコの煙でもうもうとたちこめていたり、デスク上の灰皿がてんこ盛りになっていたりして、画面から匂ってくることはないとはいえ、今とはずいぶん違う雰囲気を感じる。
当初は交通機関や多くの人々が利用するスペース等に『禁煙車両』『禁煙コーナー』といったものが設けられ、煙がくることを望まない人が特別にしつらえた環境下でそれを避けることが可能となったが、その後さらに喫煙規制が進んだ結果、『喫煙車両』『喫煙所』という形で、タバコを吸う人たちを特定の場所に囲い込むことになる。つまりスタンダードな立場が喫煙者から非喫煙者たちのほうに移ったわけで、地道に進められていった喫煙規制運動の勝利といえる。
もちろんこれは日本に限ったことではなく、世界中でほぼ共通の現象であり、特に規制の進んでいる地域に比べて、日本では人々の所得水準に比してまだまだタバコの小売価格が安いが、喫煙率も同様に比較的高い水準にあるのもそのためだろう。
日本のメディアのウェブサイトに、以下のような記事があった。
…………………………………………………………..
世界のたばこ事情
価格水準 先進国の中では低め
(北海道新聞)
…………………………………………………………..
そういえば、インドもそうだが諸物価に比してタバコが高い国々では、しばしば10本入りパッケージが売られている。あまりにお金がかかるので「やめよう」と思いつつも、『この小さい一箱で終わりにしよう』なんて手を出してはそのままズルズル・・・という姿や、禁煙3日目あたりの人が『ちょっとだけ、この小さなパッケージだけ・・・』なんて妥協しては元の木阿弥なんていう人の姿が目に浮かぶようだ。
だが一本ずつのバラ売りというのは、それ以上に注意を要する存在である。やめるつもりでも日に数回禁煙を『いとも簡単に中断』できるし、『スパッとやめたぜ』などと公言しつつも、ポケットからコインを出して一本買っていたりする。それでも箱で購入していないので、禁煙の誓いに負けたなんていう気がせず、『オレはタバコやめた』という自信が揺るがないのが不思議だ。しかし手元にあるタバコの数を制限できるので、節煙になることは間違いないが。
現在の私自身はといえば、喫煙者とも非喫煙者ともいいがたいものがある。たとえばどこかで酒を飲むときはタバコが欲しくなって吸うし、自宅をしばらく離れて旅行するときには一時解禁ということにしている。もちろん帰宅するとスパッとやめているつもりだ・・・とはいえ、やはり未練が残っているので完全にタバコから縁が切れたとは言い難い。
ところで『オレは止めないぞ』と喫煙意思の固い人たちも決して少なくはない。そういう人たちは、禁煙時代の飛行機での移動、とりわけ国際線の利用となるとかなり困るらしい。ターミナルビルの外で吸いだめしてみたところで、出発2時間ほど前にチェックインし、目的地にもよるが概ね長いフライト時間、到着してからも行列しての入国手続きや両替等を済ませ、ようやく外に出てからタバコに点火。『やれやれ、これだから飛行機は嫌だなあ』といった具合なのだそうだ。
何かと便利なモノが次から次へと出現して、あの手この手で消費者の懐をうかがうこの世の中、そういう人にピッタリ(?)な商品がすでに出ているようだ。電子タバコなる代物で、その名もSUPER SMOKER。どんな味なのかよくわからないが、どうせならもうひと捻り加えて、世界的にメジャーな銘柄のテイストを選択できるようにすると、かなり好評を得るのではないかと思ったりもする。
電子タバコ「Super Smoker」がヘビースモーカーの命を救う!? (MSMデジタルライフ) -
解禁から2年 東京の店頭にインド産マンゴーは並ぶのか?
2年前からインドからのマンゴー輸入が解禁となっているが、なぜか日本国内・・・というか少なくとも東京都内の店頭ではトンと見かけず、あるのは『メキシコ産』『フィリピン産』『タイ産』といった従来どおりのラインナップ。いったいどこで売られているのだろうか・・・と不思議に思っているところだ。でもよくよく目を凝らすと、加工品の類はそれなりに出回っていることに気がつくこのごろ。
あるスーパーでマンゴージャムなるものを見かけた。ごく普通の小さな瓶入りのもので、価格は1480円とある。どんなものかと興味を引かれたが、ちょっと高すぎて手が出ない。その横に並ぶのはマンゴージュースで200ml入り350円。インド料理レストランと食料品輸入とを行なう日本の会社が手がけているもので、同社は他にもインドからその他のマンゴー加工製品や蜂蜜なども扱っているようだ。
ジュース、ジャム、缶詰といった具合になってしまうと、どれも同じような味になってしまうので、やっぱり期待したいのは生の果実がドカンと大量に入ってくること。インドのマンゴーを、日常的にアメ横あたりでダミ声のオジサンが台車で叩き売りするくらいになってくれるとうれしいのだが。品種豊富な中で、好みもいろいろかと思うが、とりあえず生果実がふんだんに入ってくることがあれば、何であっても御の字である。
マンゴーの世界での総生産高のおよそ半分が収穫されるというマンゴー大国インド。日本の食卓に供給する余力充分(・・・たぶん)と思いたいところだが、時期が時期だけに、今の時期までに店頭になければ本格的に期待できるのは来年以降になってしまうのが寂しい。 -
お寺が遠くなる
本日6月2日の朝日新聞朝刊第3面に『寺離れ 地方も都会も』という記事が出ていた。地方は過疎や高齢化のため、都会では地域の共同体の希薄化で、お寺離れが進んでいるのだそうだ。また総体として核家族化の関係もあり、各世帯が経済的負担を敬遠することもひとつの要因だという。
日本の『お寺』には、三つのタイプがあるのだそうな。まずはお布施の収入中心の檀家寺、そして拝観料で稼ぐ観光寺、交通安全などの祈祷料が大半の祈祷寺だという。日本にある8万6千ほどの寺の9割以上が檀家寺であると書かれている。そうしたお寺が、檀家獲得のためにいろいろな対策を打ち出していることも触れられていた。法要の際の送迎サービスを提供したり、地方の寺が都会のマンションの一室を借りて『分院』を設置したりといった具合に。 -
一人の妻と複数の夫
インディア・トゥデイの5月28日号でちょっと興味深い記事があった。ヒマーチャル・プラデーシュのキンナウル地区での一妻多夫制度のことである。この地域に暮らすヒンドゥーのあるコミュニティの人々は、兄弟で一人の嫁を娶ることが伝統だったらしい。昔から嫁には相続する権利もなく、兄弟である複数の夫が配偶者を共有するということで、女性が複数の男性をかしずかせて支配するという構図ではない。
もちろん今の時代、法的にはこういう結婚の形態は認められていないのだが、なにぶん保守的な土地で片田舎ということもあり、今でもこうした形で兄弟が一人の女性を娶るという習慣が続いている。記事中で取り上げていた実例は一人の妻に二人の夫というパターンだが、中には4人も5人もの夫を持つ妻もあるのだという。いずれも複数の夫は兄弟同士であるようだ。
この記事でこの習慣を『奇習』として取り上げているのではもちろんなく、むしろ耕地に限りがある山岳地での生活の知恵といった具合に、好意的に書いてあるようだった。いくつかの一妻多夫家庭の実例を取り上げたうえで、この習慣がむやみな人口増加や土地が細分化を防いで人々の生活水準を一定に保つ役割を果たしてきたかをわかりやすく説いている。また複数の男性が一人の女性と愛を営みそして世帯を持って子供たちを育むという、仮にそれが代々続いてきた習慣であるにしても、精神的にも物理的にもけっして易しいとはいえない状況下で、家族が円満に生活していくうえでの互いの気遣いなどにも言及されていた。
ただしさすがに今の時代には、誰もがこうした慣わしで結婚していくわけではなく、『近ごろ一妻多夫結婚は2割にも満たない』ともある。辺鄙なところに暮らしていても、やはり外界からの影響は及ぶとともに、ここから都会へと出て行く人も多い。これまで自らが暮らす地域でほぼ完結していた社会がもっと広がりを持つようになってきたことから、土地伝来の結婚のありかたや家族のありかたが大きく揺らいできている。
インディア・トゥデイの英語版では、この巻は5月26日号ということになり、件の記事は58ページから61ページにかけて掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
関係ないが、この号の表紙には先日ジャイプルで起きた爆弾テロ事件で、サイクルリクシャーに乗ったまま犠牲になった若い男性の写真が大きく使用されている。亡くなった本人やその遺族のことを思うと、こういう画像がマスメディアに堂々と使用されることについて、なんだかやりきれない思いがする。
だがテロの悲惨さについて、文字だけで伝えようとしても言葉に尽くせないものがあるはず。だが一枚の画像には、千も万もの言葉以上に強く訴えかけてくるものがある。物事の本質を伝えるため、ときにはそういう露骨な写真が使用されるのもやむを得ないと私は考えている。むしろ刺激が強すぎるものすべてに覆いを被せて見えなくしてしまっては、何か大切なものを見失ってしまうことも往々にしてあるのではないだろうか。
しかしながらインパクトの強さのみをアテこんで、これでもかこれでもかと生々しく憐れな写真が次から次ぎへと出すようなメディアには決して感心できないことはもちろんだ。その点、この雑誌はいつも適度に抑制が効いていると思う。
こういう事件は決してあってはならないし、いかなる理由があっても正当化されるものではない。でもこんな出来事が毎年のように起きていることに、インドが置かれている困難さを感じずにはいられない。ジャイプルの事件で、不幸にして命を奪われることとなった方々のご冥福をお祈りしたい。 -
三国は世界なり
『三国一の花嫁』『三国一の幸せ者』云々といった表現があるが、平安時代後期にはすでに定着していた言い回しのようだ。もともとこの『三国』とは、日本・唐土・天竺のことで、当時の日本の人々にとって、これはまさに『世界』を意味するものであった。
自らが暮らす日本はともかくとして、様々な新しい文物や高度な思想の源泉たる先進地中国への敬意、釈尊が教えを説いた大地インドへの憧憬がある。人々がこの時代の唐土や天竺がどのくらいの広がりをもって認識されていたか、そもそもどういう地理的観念を持っていたかについて私はよく知らない。
それでも極東の地日本から西側にある大陸部が、地理的に日本に近い部分に位置する唐土とそれより西方にある天竺としてとらえられ、その周辺に存在していた様々な国々については、これらふたつの大きな『二国』に集約されるものという考え方がなされていたのではないだろうかと想像している。
ただし人物の往来が盛んであったことから、唐土の文化なり人物なりに直接触れた経験を持つ人々から伝えられた。しかし天竺についてはこの唐土という分厚いフィルターを通して眺めたものであったことから、非常に具体性を欠くものであり一次情報の極端な不足からこれを把握するには相当なイマジネーションを要するものであったことは言うまでもない。
日本からタイなりカンボジアなりのインドシナ地域の国々を訪れると、中国からの色濃い影響とともに、インド文化からの強いインパクトも感じる。伝統的な建築、衣装、舞踊といったものだけでなく、人々が使う言語の中におけるインド系語彙の豊富さ、年中行事や宗教儀礼や式典等にも見て取れるだろう。おそらく生活してみると他にもいろいろ目に付くところがあることだろう。
こうした地域でも自国に中国・インドを加えて『三国一の・・・』という言い回しがあるのかどうか知らないが、長いこと中国とインドという二大国は圧倒的な存在感を持って認識されていることは確かだ。両国は、欧米列強の蚕食下ないしは植民地支配期にしばらく影の薄い時代があったものの、前者は1980年代以降世界経済の表舞台に台頭、後者もまたそれに一足遅れて90年代半ば以降から脚光を浴びることになっている。どちらもかつての強大さを取り戻すべく驀進しているように見えないだろうか。
両国が今後さらに経済力と国際社会での発言力を増すにつれて、アジア地域において『三国』という言葉が今後よく用いられるようになるのではないかと予想している。つまりどこの国であれ自身が生活の軸足を置く母国に加えて、アジアの中で突出した存在である中国とインドを合わせて『三国』と呼ぶ時代が今にやってくるのではないかと思うのだ。
たとえば、アジア地域で自国、中国、インドで人気を博すことを『三国一のメガヒット商品』『三国の市場を席巻する大ブーム』なんていう風に言うと、それら三つの国々の周辺にある国々はすでに含まれていることは言わずもがな、アジア全域に及ぶセンセーショナルな大ヒットといった表現になるのだろう。 -
バイオの御名において
原油高に加えてバイオ燃料ブームで、食用の穀物等の需要が逼迫して食料品価格が高騰・・・というのは、昨今の世界共通の現象のようだ。幸い日本の場合は、近ごろの円高傾向が両方の影響を緩和していることから、その影響は比較的軽いようだ。しかしインドのような途上国においては特に庶民の台所へのインパクトはかなり大きなものとなる。もともとエンゲル係数の高い世帯においてはなおさらのことだろう。
石油に代わる新たなエネルギーの開発と普及への努力は、環境問題等と合わせて今後大切な取り組みであることは間違いないとはいえ、一定ライン以下の人々の食料事情を無視してまで、とにかくバイオ、バイオと突き進んでしまうのはいかがなものかと思う。おカネの力がモノを言う、市場至上主義からくる負担を上から順繰りにツケ回していき、最後にはこれを他者に転嫁することのできない末端の人々に、その対価を空腹と引き換えに支払わせておきながら、『代替燃料です』『効率がいいです』『環境に優しいです』ときたものだ。どうやら燃料は胃袋に優先するものらしい。
下衆の勘ぐりかもしれないが、畑で燃料(の原料)を作るという発想については、そこに栽培される作物の品種についても何だか不安なものを感じる。食品のパッケージ上で『遺伝子組み換えトウモロコシは使用していません』とか『遺伝子組み換え大豆不使用』なんていう表示を見かけるが、燃料目的ならばなんでもアリだ。遺伝子組み換え作物の安全性についていろいろ議論されているところではあるが、害虫抵抗性、除草剤耐性だのといった特性を持つ品種が『バイオ畑』でどんどん栽培されるようになると、これらが受粉という自然な現象を通じて、あるいは過失や故意により周囲に拡散してしまうことがないのだろうか?
そうでなくとも、昨今の穀物等の価格高騰により、遺伝子組み換え食物が今後次々に食用として流通するようになるようだ。そんなモノを食卓に登場させてホントに大丈夫なのだろうか?たぶんボクらが今後何年間も食べ続けて『証明していく』ことになるのだろう。やはり市場はすべてに最優先するらしい。
ところでバイオ燃料、ついに自宅で(?)生産する機器が発売されるらしい。飲食店での飲み残しのアルコール飲料のように、これまで捨てていたものを再利用できるという利点はあるようだが、取り扱いや備蓄について、しっかりとした知識と細心の注意が(量が多ければしかるべき資格も)必要な燃料という危険物を気楽に自家生産するようになるとしたら、これもまた怖い。どうかこれを悪用した犯罪やテロなどといった憂鬱なニュースがニュースのヘッドラインに載ることがありませんように!
遺伝子組み換えトウモロコシ製品 食用に供給開始 日本食品化工、原料入手困難で (Fuji Sankei Business i.)
砂糖からつくるエタノール燃料の「自家用スタンド」登場 (MSNデジタルライフ) -
因果な遺伝子
イギリスに暮らすインド系・インド人住民たちの間では、心臓病にかかる割合が白人よりもかなり高いのだそうだ。在米の南アジア系の人々についても、同様の事柄について書かれた記事を複数見かけた記憶がある。別に欧米の風土がインド系の人々の健康に良くないというわけではもちろんない。だが世界総人口のおよそ四分の一を占めるインド人、2020年には世界の心臓血管にかかわる病気の患者の四割を占めるであろうとの予測もある。こうした状態を招く諸悪の根源は肥満であるとのことだ。
その理由について、食生活やライフスタイルに求める論調も多いが、同時に持って生まれた資質に言及するものも少なくない。このたび肥満を引き起こす可能性を高める遺伝子を持つ割合が、インド系の人々の間で高いことが発見された。食欲や体内に取り込んだエネルギーの消費や保存などをつかさどる機能に影響を与える。その遺伝子に書き込まれたプログラム次第で、現代の食生活や生活パターンでは栄養過多になってしまう。
人の生活は自然環境に大きく左右される。自らが暮らす土地で採れたものを食べて自給自足していた時代には、それぞれの土地に適合した作物が栽培あるいは採集され、そこでの暮らしにおいて持続可能な形での食生活が営まれていた。ふんだんな食料に恵まれていた土地もあれば、恒常的に飢えと隣り合わせの状態で人々が代々暮らしてきた土地もある。気が遠くなるような膨大な時間の流れの中で、人々はそれぞれの土地の食糧事情にうまく合った体質を作り上げてきた、あるいはそういう形で淘汰されてきたということになる。
南太平洋の島々などもその良い例らしい。熱帯とはいえ、四方を海洋に囲まれた珊瑚質の土壌の島での生活は、こと食料事情に関しては非常に貧しかった。そうした住環境に適合するために、わずかな食料から最大限の栄養を吸収できるような体質が形成されていったと考えられている。加えて不足がちな食料を高いカロリー値となる調理法で処理する傾向があり、滅多に口にできない祝祭時のご馳走は往々にしてそれに輪をかけてボリューム満点で豪華な料理となる。
だがそうした地域にあって、第二次大戦後の復興期を経て、西側諸国が急速な経済成長を遂げると、リゾート地として注目されるようになり、盛んに資本が投下されて開発が進み、そのインフラを基に以前は存在しなかった観光という一大産業がその地域に住む人々に大きな収入をもたらすようになった。同時にこれは人々の食生活を大きく変化させる引き金となる。食糧事情の飛躍的な向上により、以前の世代の人々が普段口にできなかったような贅沢品が毎日でも食べられるようになり、当然の結果として人々の身体は巨大化。長い歴史の中で築き上げられてきた『燃料効率の良い体質』が、飽食の時代では仇になってしまうのだ。
カロリー過多の傾向は結局のところインド系の人々の間でも同様らしい。伝統・文化・歴史どれをとっても『豊かな大地』インドでは食文化もまたバリエーション豊富かつリッチだ。しかし概ねこの地域はもともと食べ物について量的にさほど恵まれていたわけではない。むしろ大規模な飢饉にしばしば襲われる食糧難の土地であったといえるだろう。緑の革命はパンジャーブ州をインドの穀倉地帯に変えたがこれは農業の現代化の賜物だ。近代以前のパンジャーブの農村風景は、今とはずいぶん異なるものであったはず。インド系の人々は、どちらかというと食料の窮乏への耐性が高い体質らしい。それを裏付けるのが、このたびの遺伝子云々ということになる。
もちろん程度の差こそあれ肥満はインド系の人々に限らず、今の時代に生きる私たちの健康にかかる共通の問題だ。『地産地消』とは程遠い生産・消費パターン、季節感のない食卓といった点も考え合わせたうえで、可能な限り自然の理にかなった食生活をこころがけるようにしたいものである。
Genes ‘up Indians’ obesity risk’ (BBC NEWS) -
犬ってやつは・・・
もともと犬が嫌いな私。こちらが特に何もせずとも、人間に対して何がしかの警戒心ないしは関心を持つこの動物のおせっかいな習性からして好きになれない。猫のように人影が近づくと一方的に逃げるとか、あるいは牛のようにこちらに対して無関心でいてくれるといいのだが。
暗い夜道でどこからともなく現れた複数の犬たちにガウガウ吠えられると不安になるし、田舎の小さな町の細い路地を徘徊する犬なんかは、ヨソ者をすぐに見分けて(嗅ぎ分けて?)てバウバウ吠えてきたりする。『ええいっ、俺に構うな!』と怒鳴りつけたくなるが、そんな言葉が通じるわけでもなし。
愛犬家には申し訳ないのだが、まったくもって不愉快千万な動物だ。ちゃんと躾けられた『文化的な』ワンちゃんならいいのだが、それでも正直なところ、『けっきょく本能の部分ではああいうのと同じなんだよなぁ〜』と思うと、やっぱりちょっと引いてしまうのである。
ところで一昨日、こんな記事を目にした。
『Bitten by dog, shunned by hospitals』 (Hindustan Times)
デリーで犬に噛まれた12歳の少年が、狂犬病ワクチンの注射を求めていくつかの政府系病院を回ってみたものの、行く先々で『持ち合わせのワクチンがない』と言われて断られたという内容だ。
インドで、どこかの自治体が野犬の捕獲を始めると、きまって動物擁護団体とかその手の活動家たちが大声で批判を始める。しばしばメディアもそれに同調する。でもよくよく考えてみるまでもなく、野犬が多数徘徊しているという状態は危険であり、特に小さな子供たちや高齢者たちとってはかなり大きなリスクでもあることは間違いない。
加えて『狂犬病』という、発症して回復したらそれこそギネスもの(発病したにもかかわらず回復した人物がギネスブックに記録されている。それほど稀なケースであるということだ)という恐ろしい病であることを思えば、『野犬狩りはならぬゾ!』と息巻く人々には、野犬ならびに狂犬病の危険を防ぐために、実際的かつ有効な対案を出して欲しいと思う。
まったく野犬ってやつは・・・。
