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カテゴリー: language

  • 「旧○☓領だったから○☓語が通じる」という幻想

    「ミャンマーは英領だったので英語が通じる」という人がいたり、これとは反対に「ミャンマーは英領だったのに英語がなかなか通じない」という人がいたりする。これは後者が正しい。

    たしかに昔は英領だったという地域では、今も英語の通用度が高くなる可能性は高い。例えばマレー系の国でも旧英領のマレーシアとオランダ領だったインドネシアでは英語の通用度が天地の差であるように。

    だが「かつてイギリス領だった」からと言って、それがすべてではない。

    ミャンマーのように外国人相手のビジネスや観光関係の仕事をしている人、留学などの目的があって英語を自ら学んだ人たちを除けば、普通はなかなか通じない人たちばかりだ。その一方で、旧英領ではなかったのに広く通じるネパールやブータンのような例もある。

    旧英領といっても独立後に教育仲介言語としての英語、行政や法務等々における公用語としての英語のレガシーを引き継いだ国々もあれば、それらを植民地時代の残滓として一掃し、地元言語に置き換えてしまった国もある。インドやマレーシアなどは前者で、ミャンマーやバングラデシュなどは後者に当たるだろう。

    同様に、旧英領でなかった地域においても、英領地域と隣接していたため、近代的な教育システム導入の際に大いに影響を受けた過去があったり、現在も隣の大国の動向が影響したりする国々、ネパールやブータンのような例もある。

    ブータンについては1970年代以降、学校教育の仲介言語を英語に変更している。これはイングリッシュミディアムに通う生徒たちの割合が、地域によるが20数%程度とされるインドと較べて非常に高い数字だ。(ブータンでは100%と言える)

    旧英領だったということは、その後同地で引き続き英語が広く使われるようになるための大きなインフラではあるが、必ずしもそれが活用されるとは限らない。また英領ではなかったのにこれが公用語として採用されて深く定着する例もある。

    また英領期において果たして英語が広く浸透していたのかどうか?という疑問もある。インドやパキスタンなどで、学校教育が行き届くようになったのは独立後現在に至るまでの努力の結果であり、人々が地方から都市へ、地方から他の地方へと大勢移動するようになったのは、公共交通機関が発展してからだ。

    それ以前は、ほぼ村落や地域内で生業が完結していた(ゆえにカーストによる分業が生きていた)時代、そうした地域社会で英語が通用していたとはとても思えないし、都市化が進む前には人口の大半がそうした農村等を生業とする地域に暮らしていたわけだ。

    つまり旧英領の国々においても、広く英語が普及するようになったのは独立後であり、さらには厳しい貧困から抜け出すことが出来つつあった70年代、80年代以降という例も少なくないだろう。

    「英語が第1言語」などと言うインド人家庭は都市部に珍しくはない。家の方針がそうであったり、親子ともにイングリッシュミディアムの教育を受けてきたりしたわけだが、新聞や読書も当然英語。ヒンディーその他の現地語は普通に話すが、文字になったものは読みにくくて内容も俗っぽいので縁がないという人たちだ。彼らは英領時代からそうなのではなく、やはりそう遠くない昔に富裕層化ないしは中間層に入った人たちであり、英領のレガシーなどではない。

    かつて「○☓領だったから○☓語が通じる」というのならば、「ゴアは旧ポルトガル領だったのでポルトガル語が通じる」「インドネシアは旧オランダ領だったのでオランダ語が通じる」のかといえばそうではない。かつて旧宗主国時代にそれらである程度までの教育を受けた人たちがまだ大勢いた頃には、そうした言葉を理解する人たちはいたはずではあるが。

    つまり何を言いたいかと言えば、土着ではない特定の言語が通じるかどうかについては、旧宗主国の言葉云々ではなく、独立後の現地の社会・政治状況次第で決まっていくということだ。

    またグローバル化の進展により人々の移動が煩雑、広範囲かつ大規模なものとなり、さらにはインターネットの普及によりコミュニケーションの手段として英語の占める地位や割合がたとえば90年代よりもはるかに高くなっているのが現在。

    昔からあちこちをよく旅行している人たちの間で「昔よりもずいぶん英語が通じるようになった」と耳にすることは珍しくない。そういう時代なのだろう。

    今の時代のインドにおいて、英語がどのくらい広く通じるのか?については、実は私はよく知らない。インドを旅行してヒンディー以外で話すことはまず無いからだ。

    ただ久々に年始とGWにヒンディー語受容度が極めて低いタミルナード州を訪問した際には、英語で話しそうな相手を見た目で選ばないといけないので不便だなとは思ったものの、人により程度の差はあってもかなり広く英語が理解されていることを感じた。

    こういう環境は、英領であったから当たり前なのではなく、同じように多民族・多文化の国ミャンマーにあっては真逆なのは、1962年のクーデター以降に全権掌握したネ・ウィンによる「ビルマ語化政策」により、英語が一掃されたためだ。

    旧仏領のインドシナで、現在はフランス語は用いられないのも同様に教育や行政の仲介言語の現地化あり、学校教育における外国語をフランス語から英語に切り替えたりといったことが背景にある。

    もちろん西アフリカ地域のようの旧仏領で現在も広くフランス語が用いられるエリア、ラテンアメリカのように旧スペイン領、旧ポルトガルであったため、今もそれらが日常の言語という地域も多いのだが、「旧〇×領であったから現在も〇×語が通じる」という理解は安易過ぎると言える。

    「旧〇×領であり、独立後も旧宗主国の言語が必要とされ、引き続き多民族・多文化の現地社会を繋ぐ共通言語としての役割が求められ、行政、司法、経済、教育その他のあらゆる分野でその言語が引き続き使用される公用語としての地位を確立したから通じる」のである。

    その地域が他の宗主国を戴いていた地域に吸収される(ゴア、ポンディチェリー等)、民族構成がシンプルで地元のひとつの言語で用足りる(韓国、台湾、ベトナム等)、あるいは多民族地域でもその中でマジョリティを占める民族の言語が英語に取って代わる(ミャンマー)といった具合であれば、旧宗主国の言語は即、用済みとなるものだ。

  • 巡り合わせの隣席

    成田からバンコクへのひたすら退屈なフライトと思っていたが、なかなかどうして楽しい時間となった。隣席の若い女性が話好きで、この人が取り出すトランプで遊んだり、いろんな話をしたりしているうちにアッと言う間に着いてしまったからだ。

    こういう巡り合わせがあると暇な飛行時間が俄然楽しくなる。

    この人はスペインからの旅行者で、この月初めに日本に関空に到着して、長野県で山歩きをしたり、お城を見たり、そして関東も何ヶ所か訪れて、東京も気に入ったらしい。

    20代後半くらいだろうか。自国では博物館での仕事をしていたが、契約を打ち切られてしまったため、とりあえず次の職探し前に人生初のアジアを訪れたとのこと。

    私にとってはごく当たり前の日本だが、彼女にとっては目にするものも食べ物も、何かと物珍しかったらしい。そういう話を聞くと、「へぇ、そんなに面白いならば行ってみようか」と思いそうになるが、それらは私たちの日常風景であった。

    生まれ育ち、今も住んでいるのは「とても田舎の村」とのことで、大阪や東京のギガサイズの街並みにも仰天したという。欧州の近隣国以外はどこも訪れたことがなかったとのことなので、ちょうど昔々に私が生まれて初めての海外旅行でインドを訪れたときのような感激であったらしいことがひしひしと伝わってくる。

    たまにこうして旅行に出ると、いろんな国の様々な年代の人たちと話ができるのも楽しい。

    近年感じるだが、かつてはスペイン、イタリア、フランスなどのラテンヨーロッパから来た旅行者の中には英語をあまり理解しない人が多かったり、中にはほんの片言のみの人たちもけっこういたりしたのだが、今やもうそんな具合ではなくなっている。特に若い人たちはそうだ。

    「グローバル化」というのは、様々な分野で進んだが、言葉もまた同様なのだなあと思う。

  • レーワーリー到着

    予約していた宿は駅出口から徒歩1分というのは本当だった。だが驚いたのは、そんな便利な場所にあるいくつもの宿が経営難のようで、私の宿泊先の並び計4件がすべて「OYO」になっていること。いずれも「1泊599Rs」という看板を掲げている。

    私はそんな具合とは知らずにネットの大手予約サイトで取っており、廃墟のような有様に驚くとともに、その料金ではないため(むやみやたらに大きな差ではなかったけど)マネージャーに抗議すると、「確かにその条件と違うわなぁ」とかなんとか呟きながら、近隣の壊れた建物に連れて行かれた。

    すぐ隣であったが、古い宿の再建(?)工事中。どう見ても営業しているようには見えないのだが、水と電気は通じているという中途半端な有様。

    明日は朝から活動。テキパキ片付けて再び鉄道乗車の予定があるため、最も駅近の宿を予約サイトで取ったが、宿の名前にOYOが出てきたらそれは避ける、敢えて利用するならOYOサイトから予約すべき(他サイトからだと割高になる)と痛感。

    そもそも乗降客の多いメジャーな駅にまともな時間に到着するのに、他のついでに予約などしてしまったのが余計であったと反省。

    昼まで滞在していたプシュカルでは、地元のお店の人たちと近隣の村からなどを含めたローカルな人々の会話はまったくわからなかった(ラージャスターン方言といってもいろいろあるのだろうけど、首都圏から比較的近いアジメールやシェカワティーでも、ローカル同士の会話はわからなくなる)が、ここは駅前で聞こえてくるのは普通のヒンディー語であり、周囲でのやりとりがわかるので「おぉ帰ってきた」という感じがする。

  • 手書きの説得力

    手書きの説得力

    「ゲート前は駐車厳禁」と書いてある。

    「ゲート前への駐車厳禁!」と書かれている。印刷なような書体だと、ともすれば形骸化してしまうものだが、手書きであるためか気持ちがこもっている。「見なかったとは言わせないぞ!」とういうような具合だ。

  • SHER-E-PUNJAB(パンジャーブの獅子)

    SHER-E-PUNJAB(パンジャーブの獅子)

    店の名前は「Sher-e-Punjab」と書いてある。

    シェーレーパンジャーブ(SHER-E-PUNJAB)と言えば、スィク王国を打ち立てたマハーラージャー・ランジート・スィンであったり、不屈のフリーダムファイター、ラーラー・ラージパト・ラーイであったりする。

    実はパンジャーブ料理店でもこの「SHER-E-PUNJAB」を名乗る店がとても多い。いったいインド全国でいくつの「パンジャーブの獅子」を名乗るダーバーやレストランがあるのだろうか。こんなにたくさんあるくらいなら、「SHER-E-PUNJAB会」でも作って、全国で横断的に連携してみてははどうか?

    この「– E –」で繋ぐ言葉はペルシャ語からの影響から来たものなので、インドで皆さんよく耳にするであろう。「– E –」繋ぎの言葉としては、死刑、極刑を意味する「SAJA-E -MAUT」であったり、クラシック映画の金字塔「MUGHAL-E-AZAM」であったり、パキスタンのテロ組織の「LASHKAR-E-TOIBA」であったりするかもしれない

    かといって、インドやパキスタンで「☓☓の○○」を「○○-E-☓☓」と言うようなことは無く、慣用句での定形的な使用がなされるのみ。それでもこの「-E-」は廃れたり、忘れ去られたりすることなく、受け継がれていく。

  • バンコクのインド人ナイトスポット

    バンコクのインド人ナイトスポット

    フライトまでの2泊はバンコクのナーナーに滞在した。ちょっと良いホテルに投宿。朝食バフェが付いているのだが、有数の繁華街にあるため、食べているのは男性客ばかりで、女性客はほとんどいない。その数少ない女性客は男性客の連れのようだが、どう見ても夫婦にも恋人同士にも見えないというケースがほとんど。隣のテーブルのふたりも、互いに言葉すらロクに通じないのであった。

    そんな界隈にはインド人観光客の増加を反映してか、インド人専用の夜遊びスポットがある。「専用」というのは、店の前の客引きがインド人客にしか呼び込みをしないからだ。

    このあたりでは大音響でアラビアのポップスも流れているため、おそらくアラビア人用のスポットもあるらしい。このあたりは商圏を同胞に定めているようで、ランダムに声をかけてくるわけではないようだ。

    通りには、いわゆるストリートガールがずらりと並んでいて、その数と年齢層の幅広さと多国籍ぶりには驚く。おそらくタイ人に見える中にはラオス、カンボジア等々周辺諸国からも来ているのだろうし、アフリカのどこかから来たと思われる街娼の姿もある。

    そんな中のひとり、黒い被り物をしたアラブ人女性は観光客ではないようで、同じところに立ってアラブ圏から来たと見える男性たちに声をかけては話し込んでいる。こちらも街娼らしい。

    インド人ナイトスポットのあたりでは、けっこう高価そうなシャルワール・カミーズを着用した女性がインド人男性二人連れと何やら話し込んでいる。

    インド雑学研究者としては、こうしたインド女性たちがどこからやってくるのか、どういうきっかけで渡泰したのか、なにかリクルートのルートがあるのか、どのような形態で活動しているのか、何年くらい続けているのか、どのくらいの人数規模があるのかなどと、社会学的な観点からの関心が頭を持ち上げる。

    商談中のふたりの横で、スマホをいじりながら彼の次に話をしてみようと終わるのを待つ。女性はインドでは耳にしないアクセント。タイ生まれのインド系の人たちの訛りなので、インド系タイ人ではないかと思われた。

    そうこうしているうちに、話がまとまってしまったようで彼女は男性二人とそこを後にしてしまい、ちょっとガッカリ。

    道路反対側に東南アジア系ではない女性たちが数人いたので移動してみると、やはりそこにもインド人と思われる人がいた。やはりインド人に特化して活動しているらしく、欧米人や私のような日本人が近づいても顔すら向けることはなかったが、こちらから「Kya haal chaal hai ? (調子どうよ?)」と声をかけてみる。

    一瞬かすかな戸惑いのような表情は見えたものの、こちらが彼女に関心を持っていることはわかったようだ。

    ラージャスターン州から来たという30代前半と思われる女性。ここでは2年になるとのこと。見た感じは観光客としてバンコク訪問のインド人客に見えなくもない。先ほどの女性のようなタイ訛りはないので、本当にインドから来たのだろう。ヒンディー語は何かと役に立つ言葉である。

    どこかの店の客引きをしているわけではなく、彼女自身がフリーランスで活動しているとのこと。昼間は他のどこかで仕事をしているわけではなく専業だと言う。(VISAはどうなるのか?)基本、夕方から毎日ここに立っているそうだ。

    そんな話をしばらく聞いた後、「これからどうですか?1,000バーツだけど、部屋代は別途300バーツ払ってね。ここの路地のすぐ裏だけど遊びませんか?」とかなんとか。

    この流れだと、インド人客であれば「料金融通利きますか?600バーツでどうでしょう?近くに泊まっているので、私の部屋でも大丈夫ですよ、ノープロブレム。さあ、行きましょう!チャロー!」と口走る人が大半ではないかと思う。

    界隈では、数はけっして多くはないものの、インド人と思われる姿はたしかにチラホラと見られるため、インド雑学的見地から興味関心はそそられる。

    しかし、こればかりはそうした当人たちのお客さんにならない限りは、本格的な調査は容易ではなさそうだし、深い話を聞きだそうとすれば、常連さんになる必要があるような気がする。

  • デリー書籍漁り

    デリー書籍漁り

    フィローズシャー・コートラーを後にして、オートでアサフ・アリー・ロードのデライト・シネマへ向かう。そのすぐ隣がヒンディー・ブックセンター。

    店に入ると、店主のAさんはすぐに気がついてくれた。ここで辞書をふたつといくつかの書籍を購入。辞書はいずれも「ヒンディー→ウルドゥー」もの。久しぶりにしばらく世間話をすることができて良かった。

    彼による「最近のインド出版事業」を拝聴する。要点は以下のとおり。

    ・オンデマンドによる少数出版が可能となり、トレンドになってきている。ウチも大きな在庫を持つ必要がなくなった分野がある。

    ・新興の出版社が増えてきた。デリーにもそういうものがいくつもある。

    ・しかしヒンディー語出版については電子化は進んでいない。読者層が紙媒体を選好するという事情もある。このあたりは英語出版とは異なる部分だ。

    今回は訪れていない出版社でもそうなのだが、会社トップに立つ経営者がやたらと忙しい。細かなことまで次から次へと、常に指示を飛ばしていないとならず、たいへんそうだ。

    ここヒンディー・ブックセンターで何冊か購入。

    左の上下2冊は今どきの右傾化インドでよくある「近年になって突然スポットライトが当たった愛国憂士」。上は「アングロ・マニプル戦争時代のこと。下は英国支配べったりだった藩王国の王子ながらも愛国心を発揮した人士らしい。真ん中の上はインドにおける革命と反革命、下は2020年に突然、インド憲法第370条廃止により、J&K州の他州にはない格別な地位が無くなるとともに、州のステイタスも剥奪されて連邦直轄地化されたことについて書いたもの。一度ちゃんと本にまとめられたものを読まなくては、と思っていたのでちょうど良い。右側のふたつは新しく追加購入してみた辞書。

    ヒンディー・ブックセンターからデリー門を越えて向かったダリヤー・ガンジには良質なガイドブックで知られるJAICOショールームがある。ここで何冊か買っておいた。今の時代、ロンリー・プラネットのような旅行案内書はもはや要らないけど、こういうのが役に立つ。今の時代、ガイドブックに旅行情報は要らなくなったが、各地で見るべき建築物その他について事細かに的確に解説してある本こそ意味がある。

    大判の書籍、シャージャハナーバードを復元/検証する試みの本。大ぶりな古地図の復元版も折込みで同封されている。ちょうどこの界隈を書店巡りを兼ねて徘徊しているため「おお、スンヘリー・マスジッドのあたりはそうだったのか!」などと、感激する。

    あとはいわゆる「今どき読まれている本」の並んでいた中から。民芸品やインド服などは一切買わないので、個人的な買い物はすべて書籍となる。

  • औषधि (アウシディ=薬)されどऔषधी(アウシディー=薬)

    同じくデーヴァナガリー文字を使うヒンディーベルトでは通常दवा(ダワー=薬) あるいは複数形でदवाइयां と書いてあるが、マハーラーシュトラでは薬局にऔषधी(アウシディー=薬)と書かれている。マラーティーではऔषधि は「औषधी 」と語尾が長くなるらしい。

    दवा (ダワー)もऔषधि (アウシディ)も意味するものは同じく「薬」なのだが、前者はアラビア語からの借用語、後者はサンスクリット語から入ってきたもの。

    ヒンディー語その他のインドの言葉は様々な言語からの混成であることが多いことから、同じ物を示す名詞にも元々の地場の言語起源のものとアラビア語、ペルシャ語などからきたものと、複数の語彙が控えていることが多い。

    人物の名前や装いのみならず、そうした語彙の使い分けなどからも聞き手は話者の教育や経済の水準、リベラルあるいは保守、ヒンドゥーかムスリムか、などといったあたりについても見当が付くという言語環境がある。

    その一方で、同じ意味あいの語でも、しばしば語彙の起源によりニュアンスが大きく異なることにもなる。たとえば「音楽」でもम्यूजिक (ミューズィック=音楽)といえば、映画ポップスやラップであったりするが、संगीत (サンギート=音楽)となると、古典や伝統音楽だろう。あるいは映画音楽でも「キショール・クマール」や「ラーフィー」などといったおじいちゃん、おばあちゃん世代が馴染んだものは、今の人々からするとこの「サンギート」の範疇にもなるかもしれない。

    そんな具合に、ヒンディー語では一般的に「दवा ダワー=薬」と言えば西洋医学の薬を指す。そして「औषधि アウシディー」と言えば、アーユルヴェーダの薬のことを思い浮かべることが多いだろう。

    テレビで盛んに宣伝しているスワーミー・ラームデーヴのパタンジャリブランドの製品群。この中で医薬品類も販売しているが、CMで幾度も「アーユルヴェーダによるアウシディー」「生薬のアウシディ」と強調しているのは、まさにこれが生薬を配合した伝統的なものであり、混じりけのないシュッド(ピュア)なアーユルヴェーダ薬であると視聴者に訴求しているわけである。

    しかし同じ語彙も言語圏つまり言語文化圏が変わるとニュアンスに違いが生じてくるわけで、西洋医学の医薬品であってもためらいなく「アウシディ」を名乗るようになるのが面白い。

    インドは文字の宝庫でもあり、全国各地で様々な異なるアルファベットが用いられている。これほど文字の種類が多い地域は世界にもないし、しかも単一の国内でこれほどのバリエーションを持つ国は世界広しと言えどもインド以外には存在しない。

    他の言語にもインドの古語起源の語彙はたいへん豊富なので、それらの多くを読み分けることができたら、街なかで看板を眺めているだけで、ずいぶん楽しい発見がありそうに思う。

    インドという国はのほほんと散歩しているだけでもなかなか面白いものだ。

  • マラーティーの綴り

    マラーティーの綴り

    マハーラーシュトラ州の街なかで店の看板を眺めていると、マラーティー語における外来語(英語)の綴りがヒンディー語圏におけるそれと異なるものが目につく。

    画像の店では「Welness Forever」と書いてある「Forever」の部分、ヒンディーであればफॉरेवर(forevar) あるいはफोरेवर(forevar)となるところ、फोरेव्हर(forevhar)とある。

    फोरेव्हर(forevhar=forever)

    同様に銀製品の店ではसिल्वर(silvar)ではなく、सिलव्हर(silvhar)とあった。英語の「ver」の部分が「var」ではなく、「vhar」となるらしい。

    Zeroxについてはजेरॉक्स(jeroksあるいはzeroks)またはजेरोक्स(jeroksあるいはzeroks)などではなく、झेरोक्स(jheroks)と、最初の音が帯気音化するようだ。

    झेरोक्स(jheroks=ゼロックス)

    系統は近いとはいえ、異なる言語なので、綴りも違ってくるのは当然ではあるものの、マラーティー語に限らず、ネパール語でもサンスクリット等古語が起源の語は、綴りにほとんどブレがないのに比べると、英語からの借用語であったり、英単語の音写においては、かなり違ってくるのが興味深い。

    また「औषधि (aushdhi)」とは薬のことだが、ヒンディー語圏では、アーユルヴェーダの薬のことであり、西洋医学の薬のことは指さない。だがこちらでは西洋医学の薬を販売する薬局が堂々とその看板を掲げている。またこちらでの綴りは「औषधी (aushdhii)」となり、尾が長くなるらしい。

    औषधी (aushdhii=薬)

    時間と機会があれば、マラーティー語を習ってみたい気がする。

  • ヴァルマー姓

    ヴァルマー姓

    Verma姓をよく「ヴェルマ」「ベルマ」とする表記をよく見かける。インド人の名前のローマ字による表記には揺れ珍しくなく、「Verma」は「Varma」姓のローマ字表記の別バージョン。日本語で表記する場合「ヴァルマー」となるはずだが、ヒンディー語を始めとする北インドでは「ヴァ」と「ワ」を区別しないため、「ワルマー」でもよい。あるいは「ヴァ」が「バ」となる和式表記で「バルマー」でも可かもしれない。

    (地名「Varanasi」を日本で「バラナシ」と書くこと、インド人はこの「Varanasi」を「ヴァーラーナスィー」ではなく、「ワーラーナスィー」と発音するなど、「ヴァ」はたいてい「ワ」となる。)

    それはともかく「Verma」は「ヴァルマー」もしくは「ワルマー」なのである。

    ※「ヴァルマー」はカーヤスタに多い姓。

  • Ole ! = Wah Allah !

    Ole ! = Wah Allah !

    この本がとても面白い。イスラム世界とヨーロッパ世界の関係性。前者が伝えた高い文化と技術があったからこそ、後のヨーロッパが大きく発展することができた。そしてユダヤ人たちに対するヨーロッパの不寛容さとイスラム世界の寛容さ。今のアラブ世界とイスラエルの対立とはまったく異なる密接な関係性があった。

    また、各署に散りばめられているトリビア的なものもこれまた興味深い。

    スペイン語には今なおアラビア語起源の言葉が4,000語ほどあり、その中にはアラビア語の定冠詞「al-」を残したものも多いとのこと。また、サッカーや闘牛の応援などで耳にする「オーレ!(Ole !)」は、アラビア語の「Wallah(Wah Allah)ワッラー!(神に誓って!)」が訛ったものであるとのこと。

    スペインの人たちは普段から意識することなく、唯一絶対の存在の名を口にしているわけだ。「啓典の民」である3宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教における神の概念は同一であるため、なんと呼ぼうと意味する対象は変らないわけだが。

    書名:イスラムがヨーロッパ世界を想像した

    著者:宮田律

    出版社:光文社新書

    ISBN-10 ‏ : ‎ 4334046088

    ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334046088

  • たかが名前、されど名前

    たかが名前、されど名前

    今どきのマハーラーシュトラのバスチケット。車内で車掌が集金に来るが発券日時、乗車地と目的地、料金、車掌氏名などが記載されている。本日の車掌はシンデーさんと言うらしい。マラーティーのクシャトリヤによくある苗字。

    これが北だとスィンディヤーになる。グワリヤル旧藩王国のスィンディヤー姓も観念上はシンデーに繋がる。名は体をあらわすで、インドの苗字はある意味あからさま。カーストや出自がそのまま苗字となることが多いからだ。

    その反面、時代が下ってからの傾向として、石工などの職能集団が一族で苗字を変えてタークル風の姓にしたり、現在の職業を苗字にしたりということもある。「コントラクター」「パイロット」など。ダリットなどが一族でクリスチャンに改宗する際などにも、元の西部を捨ててクリスチャン風の苗字に改めることも多い。

    そうかと思えば、原則的には姓のないムスリムの間で、これとは逆に先祖がヒンドゥー時代の苗字「チョードリー」「セート」といった苗字を引き続き使っている場合もある。

    たかが名前、されど名前、である。