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カテゴリー: environment

  • 地雷博物館

    地雷博物館

    地雷博物館を運営しており、地雷除去の団体を率いているアキ・ラさんの話が大変興味深かった。5歳のときに両親がポル・ポト派に殺害されて孤児に。ポル・ポト派のもとで成長していくわけだが、やがて少年兵として各地を転戦。彼は「私は元クメール・ルージュの兵士でした」とおおっぴらに話す。普通はそのような過去は隠しているものらしいが、この人はバンバンしゃべる。ちょうど西洋人のツアーグループが来ていて、その中に混じって彼の話を聞いたのだが、私はぐいぐい引き込まれていった。

    行く先々で地雷を敷設したり、戦闘で人を殺害したり、味方が落命したりという大変な思春期を過ごしたという。それでも少年だったその頃は、一般の市民よりも上の立場であることに誇りを感じ、夜には兵士仲間たちと食べて踊って、余興のひとつのように銃を夕暮れ空に撃ったりするのも楽しかったという。

    そして「当時の兵士生活は楽しかった。市民よりも上の立場にある優越した存在であったから」とか、「クメール・ルージュの兵士として首に巻く赤いスカーフは誇らしかった」と、ギョッとすることまで言うだけではなく、「戦闘で相手をたくさん殺した」ことまで口にする。彼は少年兵としてポル・ポトの軍隊に放り込まれ以外に生きていく選択肢はなかったし、当時は洗脳されていたであろうから、当時はそのような心境であったのは自然なことであったのかもしれない。

    そんな彼に転機が訪れたのはベトナム軍との戦闘。味方が散り散りになり、彼は沼に身を沈めて戦闘が止むのを待ち、水から上がってしばらく歩くと、ベトナム兵に捕まり、一緒にいた仲間たちはその場で射殺された。アキ・ラさんはその中でとびきり若かったためか、情けをかけてもらい命拾いしたとのこと。

    その後は、持ち前のフレンドリーさとマメさでベトナム兵士たちの心を掴み、食料調達で銃によりゾウを倒したところ、ベトナムの部隊に大変喜ばれ、兵士として登用されたのだという。その結果、つい先日のまでは味方だったポル・ポトの軍隊に銃を向ける立場となったが、「こればかりはどうしようもなかった。選択の余地なし」とのこと。それが戦争というものの残酷さと虚しさなのかもしれない。

    「ついこの間まで私が所ほ属していた軍と戦い『元味方の兵士』を殺害することについては何の躊躇もなかった」と言う。投降した兵士ということもあり、戦闘が始まると常に最前線に送り込まれていたとのこと。まさに「捨て駒」の立場だが、相手が誰であろうと、とにかく戦って死なずに生き延びなければ現在の彼はなかったわけだ。

    平和な時代がやってきて、除隊して故郷に帰ると、村や周囲には地雷により足などを失う人たちが絶えず、かつて敷設していた自身を後悔するとともに、「敷設のプロ」から「除去のプロ」に転じ、国際機関等での専門家としての勤務を経て、自身の団体を立ち上げて現在に至る。とにかく明るくてエネルギーに満ちた感じの人なので、そんな暗い過去があったというのはにわかに信じ難い。

    本日、彼の団体はシェムレアプ近郊とタイ国境で除去活動をしているとのこと。こういう人たちの地道な活動があと100年続けば、これまでに敷設された地雷はほぼ無くなるというから、気の遠くなるような話だ。

    ※この人を題材にしたマンガがある。書名等は以下のとおり。

    タイトル:密林少年-Jungle Boy 1&2

    著者:深谷陽

    出版社:集英社

  • スンダル・ナーサリー

    スンダル・ナーサリー

    ここがオープンしたのは最近のことではないのだが、私自身が訪問するのは初めて。フマユーン廟、ニザームッディーンのダルガー、ローディーガーデンなどの近くにあり、アズィームガンジと呼ばれたムガル時代のキャラバンサライを含むムガル時代の遺跡が点在するエリアでを遺跡公園として整備したものだ。

    敷地内には美しいペルシャ庭園もしつらえてあるが、これは往時からここにあったのではなく、公園としての演出のようだ。ペルシャ庭園自体は、ムガルその他のイスラーム王朝が造ったように、ペルシャ起源ながらもインドに定着した伝統的な庭園スタイルと言える。

    ここで面白いのは、通常遺跡の遺跡整備はASI(インド考古学局)が実施するのだが、スンダル・ナーサリーは官民協働の事業であったことだ。ASIとPWDいずれも政府機関が民間のアガー・カーン財団と手を組んで整備したものである。そんなこともあって、遺跡の修復と保存のみならず、新たな市民の憩いの場の創出としての事業となったのかな、と想像している。

    ペルシャ庭園、そして子供たちのための遊び場、遺跡敷地内での洒落たカフェの営業、日本の盆栽庭園などもあるなど、通常の遺跡整備では見られない、なかなか画期的なものだ。

    それにしてもデリー市内なのに、木々が生い茂る環境下で、まるで鳩かカラスみたいにクジャクたちがウジャウジャたくさんいる。特徴的な声もなかなかうるさい。

    ここのみならず、実はデリー市内には今も手つかずの原生林がある。野生動物たちにとっては大都市のすぐ傍らに残された楽園なのだろう。

    その深い森、英語でインドを含めた南の国々の生命力に満ちた、同時に人間にとっては危険を秘めた森のことを「jungle」と呼ぶが、これはインドの言葉「jangal」をそのまま借用したもの。イギリス人にとってこの地の深い森は彼らの国の「forest」とは明らかに違う異質なものと認識されたのかもしれない。

    SUNDER NURSERY紹介サイト

  • レイクビュー

    レイクビュー

    朝食を食べようと出かけたのだが、どうやら入る店を間違えたらしい。「レイクビュー」という名前に惹かれて入ってみたのだが。

    古いハヴェーリーの屋上にあり、眼下の湖やガートはもちろん、プシュカルを見渡せる位置にある。サヴィトリー・マーターの山もその向こうに見える。前日登ったときには近くに感じたが、こうして見るとけっこう距離がある。  

    しばらくすると注文していないパンケーキが出てきた。よく見ると何やらフィリングが入っているので、どうやら私が頼んだ「アールー・パラーター」のつもりらしい。

    こういう店では「サンドイッチ」「トースト」にしておいたほうが良かったらしい。

    手を伸ばしてみたが、たぶんロクに調理をしたことのない男が「たしかウチの母はこんな感じでやっていた気がする」というおぼろげな記憶で手を動かしたのだろう。

    超厚焼き、生焼け、なぜかターメリックを「これでもか!」とブチ込んでオレンジ色に近くなったジャガイモとタマネギのフィリング。ターメリックの臭いが鼻を刺激してくしゃみが出そうだ。

    一等地にあるのに、食事どきにお客がひとりもいない食事処にはワケがある・・・らしい。

    それでもここからの眺めは素晴らしい。ガートからの喧騒を耳にしながら、このひとときをしばし楽しみたく、チャーイのお代わりを注文する。

  • サヴィトリー・マーター寺院へ

    サヴィトリー・マーター寺院へ

    プシュカル郊外の丘の上にあるサヴィトリー・マーター寺院へ。今はロープウェイがあると聞き、利用するつもりだったが1時間以上待つとのことなので歩く。

    しかしこの暑さの中ではなかなかたいへんで、登るまでに1リットルの水を消費し、寺の横にある売店で半リットルのコーラを飲み干す。下りはまだ楽にしても単純化して言えば上りと下りで3リットル消費しそうな勢いだ。

    でも上からの眺めは素晴らしく、30年前の記憶よりもプシュカルが大きく広がっている。緑が多くなったように感じるのは雨季という季節柄だろう。

  • もうひとつのワールドカップ

    国として承認されていない地域の代表たちが参加する大会。チベット代表選手たちには大いに頑張ってもらいたい。

    チベット代表に限ったことではないかと思うけれども、みんな仕事を持っているため選手を招集しても来られるとは限らず、チームのマネジメント側も大変らしい。

    そして他国から合流する選手もいるし。もとより資金集めからして容易ではなく・・・という具合であることダラムサラにあるをTNSA(チベットナショナルスポーツ協会=事実上のチベットサッカー協会)事務局でお話を伺ったことがある。

    それでもサッカーこそがチベット亡命社会では心の支えになるのだとも。

    インドにおける亡命チベット人社会で「ナショナルスポーツ」とはクリケットではなくサッカーであるとのこと。クリケット大国インドでチベット人が同じことをやってもなんぼのもの、ということに加えて独自性とより多くの国々との交流の可能性となると、やはりサッカーであるらしい。

    年に一度、ダラムサラではインド各地のチベット人コミュニティ代表が参加する全国大会「GCM Golden Cup」が開催される。

    個人的に興味があり、開催時期に滞在して選手たちから話を聞いてみたいと考えている。

    TNSA Dharamsala

     

  • サンガムへ

    サンガムへ

    宿での朝食

    宿での朝食後にオートでサンガムへ向かう。

    ここにクンブメーラーの開催時にはボートの客引きがたくさんいるのだが、いずれも大変吹っかけてくるため、乗る気を失う。単に観光だけでなく散骨のために来て入る遺族たちもある。

    とにかく汚い河岸だが、ここでクンブメーラーの大きな祭礼が行われ、たくさんの行者たちと無数の信者たちが押し寄せるわけだ。

    ここにはムガルの巨大な城もある。アクバル・キラーだ。ムガル時代の城塞で、現在はインド軍駐屯地になっている。ちょうど廃藩置県の後の日本で、お城を警察や軍隊が使用したように、インドでもかつての王宮や城が軍施設となった例は多い。まとまった広さがあること、城壁内なので秘密とセキュリティーが守れること、そして権力の象徴を継承するという意義もあったことなど、その理由はだいたい同じだろう。

    アクバル・キラー

    ごく一部だけ、お寺が入居していて、参拝することができる。お寺と言っても建物らしい建物があるわけではなく、地下に掘った細くて狭い構内に数々の神々が鎮座しており、それぞれに専属のプージャーリーが付いている。みんなものすごい売り込みようで際限なく賽銭を巻き上げるシステム。

    城塞の中には、このお寺以外は特に見るべきものはない。大半が軍施設となっており、立ち入り禁止であるからだ。

  • サナータン・ダルム

    サナータン・ダルム

    近年は、「サナータン・ダルム」(永遠不朽の教え)という言葉をしつこいほど耳にするようになっている。

    昔からヒンドゥー教のことを、そう表現することはあったが、最近はイスラー厶教、キリスト教などと対比させての「真理」というような具合での言質であったり、インド固有の文化背景をも含めたそういう物言いであったりする。

    とりわけBJPのリーダー、活動家などが口にしてきたが、今や市井の人たちもよくそういう言い方をするようになった気がする。テレビなどで幾度も幾度も耳にすると刷り込まれてしまうものらしい。

    私ですらインドの人と話していて、ついつい「サナータン・ダルム」などと言ってしまうほどだ。影響されやすいのは誰もが同じ。

    The Science Behind Sanatan Dharma (Sadhguru)

  • 素性の良さそうなお寺

    素性の良さそうなお寺

    マニカルニカーガートからしばらく上がると、素性の良さそうな洒落たお寺があった。

    ビハールの人が寄進した寺とのことで、建てたのはまだ100年ほど前とのこと。お寺と植民地建築が合体したかのようで、背丈の高さの部分はいかにもお寺だが、上階は往時に流行った印洋折衷のハヴェーリーにしか見えない。

    不思議なお寺があるものだ。ここでは祭司としての若い見習いの者たちもいたが、お坊さんになるにも、小洒落たところに住むことが出来るのは、なかなかいいなぁと思う。

  • カーシー・ヴィシュワナート・コリドール

    カーシー・ヴィシュワナート・コリドール

    バナーラス訪問の目的のひとつは、「カーシー・ヴィシュワナート・コリドール」を訪れること。かつてゴチャゴチャした迷路のような路地にあった通称「ゴールデン・テンプル」ことカーシー・ヴィシュワナート寺院のために周辺地域の建物をことごとく壊して更地にしたうえで、大きなゲートと壁に囲まれた聖域を「ゴールデン・テンプル」を中心に構成し、ガンガーのガートからこの寺の本殿まで直進できるようにするという壮大なものだ。

    ガンジス河岸から直接ヴィシュワナート寺院に入れるようにしてある。

    これは選挙区をお膝元のグジャラートから、地縁のないバナーラスに移したナレーンドラ・モーディーが公約として掲げたプロジェクトのひとつで、コロナ禍の時期に一気呵成で進めて完成している。もちろん2017年に成立して現在2期目のヨーギー・アディティヤナート率いるBJPによる州政権あってのことでもあるが、よく言われるところのダバルインジャン・サルカール(double engine goverments=中央のBJP政権+州のBJP政権)により、たったの3年間あまりで仕上げたものである。

    政治と鉄道を中心としたインドウォッチングを趣味とする身としては、ここの見学はマストであるため、早朝の比較的空いている時期に向かうことにした。この「コリドール効果」はてきめんなようで、4割近く訪問者が増えているのではないか?という街の声もある。(途中、コロナ禍の時期を挟んでいるため、真相は定かではない)

    身分証とお金以外、あらゆるモノの持ち込みが禁止(腕時計すらダメ)されているため、宿にすべてを残して早い時間帯に出かけてみたが、入場に何時間もかかると思われる行列にたじろぐ。

    しかし事前にここ「ゲートNo.4」にはVIP用出入口と有料出入口が設けてあり、インド人は祭司にプージャーをしてもらうという名目と権利(300Rs)を買い、外国人はプージャーの権利なしで外国人料金(600Rs)を払って、行列することなく入場することができるようになっている。いかにもインドらしく、お金がなくてもその目的を果たせるエコノミーなルートとお金を払って面倒を回避するシステムが用意されている。

    結局のところ、衣食住すべてが同様で、限りなく安く済ませることは当然可能で、そこからくるしんどさ、不衛生さ、面倒くささをそれなりの対価を支払って避けることができるようになっているのだ。

    空調の効いたラウンジのような専用のチケット売り場でパスポートを提示して支払いを済ませると、作成した係の人がプージャーの権利を買ったインド人家族とともに特別入場口へと杏奈してくれる。そういう待遇を受ける身であることがひと目でわかるように、肩から大きな目印がかけられる。

    ひとつ残念なのは中は撮影禁止であるどころか、携帯も持ち込めないため、写真が1枚も手元に残らないことだが、こればかりは仕方ない。

    大きな門や境内の各種建物を抜けた先に、あの「ゴールデン・テンプル」が姿を現している。「コリドール」が出来る前は、ヒンドゥー郷土以外は入ることが出来なかった(ときどきチョロっと潜り込んで、ちゃっかり写真を撮って出てくる旅行者はいた)はずなのだが、今は万人に開かれた寺となっている。そういう「Inclusive」な姿勢が今のインドの右翼政権の特徴で、一般的な意味での保守ではないし、復古主義でももちろんない。昔はなかった新しいヒンドゥー思想を軸にした動きと言える。

    昔々、このお寺のすぐ隣にあった宿に泊まったことがある。その建物のすぐ下にこの金色のシカラーを持つお寺を目にしていたが、いまや周辺すべてが取り壊されて、大きな境内となっているのが何とも不思議な気がする。

    この寺を中心とした「コリドール」とセットで見学したかった「ギャーンヴァーピー・マスジッド」だが、このコリドールとぴったり隣り合っていることがわかった。ゲートナンバー4から入り、まず目にするのが金属フェンスで囲まれたそのモスクであるからだ。

    ここはかつてヴィシュウェーシュワル寺院であったとされ、ムガル帝国のアウラングゼーブ帝の次期に取り壊されてモスクになったとされる。「地元のヒンドゥー教徒の主婦たち」が裁判所に訴えをおこし、「ヒンドゥー教徒たちがここでプージャーを行う権利」のためという訳のわからない裁判が進行中。もちろん主婦たちというのは表の顔で、背後で操作しているのは右翼団体であるようだ。

    提訴当時はただの話題作りや反ムスリムの機運醸成ともみられ、早々に棄却されるとの観測もあったが、裁判の中で原告側の巧みな策略のため、「それでは本当にそのような過去があったのか長座せよ」とインド考古学局(ASI)に命令が下り、昨日から調査団がモスク内に立ち入って調べを開始している。現在もここでムスリムの人たちの礼拝は実施されているが、トラブルを避けるため、ムスリム以外の入場は禁止されているとのこと。

    それにしてもモスクなどイスラーム教徒の礼拝施設で、ペルシャ語やアラビア語から来た名前ではなく、「ギャーンヴァーピー(知識の泉、知識の井戸)」というサンスクリット語の名前が付いているモスクなど他にあるのだろうか?単に「カーシー・ヴィシュワナート寺院」というバナーラスを代表する名刹の隣にあるだけでなく、このような名前であるがゆえに、象徴的なものとして攻撃の対象になるのではないだろうか。

    この「ゴールデン・テンプル」訪問後、さきはどのラウンジみたいなチケット販売所でプラサード(神様からのお下がり)をいただき宿に戻る。

  • 「チョウク」のある家

    「チョウク」のある家

    ワーラーナスィーでの宿は昔ながらのお宅という感じの建物。おそらくもともとそうだったのだろう。子沢山世帯とか、複数世帯で暮らせるようになっているのは、昔の「ジョイントファミリー」という生活形態が普通であった頃のもの。

    時期が下ってからは、下宿人を住まわせていた時期もあったはず。建物の形はいびつだが、中央には大空に通じる吹き抜けがあり、それを囲む形でたくさんの部屋が配置されている。ちょうど家族用の「広場」という感じだ。これは団欒の場としてのリビングと庭をも兼ねている。

    とてもざっくりとした言い方をすれば、欧州の地中海沿岸も北アフリカ、そしてアラビアやイランを経て中央アジアやアフガニスタン、パキスタンやインドなどの南アジアでも普遍的な家屋のありかた。おそらくイスラーム教の伝播やその文化的な影響とともに広まったのだろう。

    家屋は四方を壁で囲まれているため、外からは中を窺うことはできないが、大きな家の中がひとつの小さな世界として機能する。吹き抜けの広間は家族の段落の場であったり、外からのお客さんをもてなす場であったり、商取引の場でもあったりする。

    ここワーラーナスィーの話ではないが、ラージャスターンのシェカワティ地方のハヴェーリーでは、こうした空間を「チョウク」と称するが、市内のチョウクつまり2つ以上の通りが交わり賑わう地域のことだが、家屋の中のそうした場所なのだ。

    大きな邸宅になると、出入口近くの来客用のチョウク、そして奥のほうにある女性を含めた家族だけのためのチョウク、ときにはさらに多くのチョウクを持つ、もはや宮殿に近いような特大邸宅もある。

    それはさておき生活空間の中にこうした「広場」があるような家屋は、日本でも応用できたら評判になるかもしれない。雨の多い日本では合わないということもあるかもしれないが、こうした家屋が普遍的にある国々にも多雨の地域はある。

    ただし時代に合わないということはありそうだ。何しろ頭上は大空なので、冬は暖房は効かないし、夏は冷房など利用できるはずもない、

    やはりちょっと無理だなぁと思わざるを得ない。

    客室内
  • どこに行くのも自由自在

    どこに行くのも自由自在

    往来が簡単になったバナーラス旧市街の路地裏。環境が完全に変わってしまったことに驚愕した。もはや旧市街の路地がまったく迷路ではないのだ。

    昔は一度ガートに出てから目標の場所にたどり着けなかったし、知らない路地裏奥深くで夕暮れ時となると、大変心細かったものだ。人に尋ねて教えられたとおりに歩いたつもりでも、どこか違って見当違いのところをまだウロウロしていて、日没後元気になった野犬たちに吠えられて大いに困ったものだ。

    雨季に来てみて、ガンガーの増水のためガート最上部あたりまで水に沈んでいるため、ガートからの迂回が出来ず、ダメだこりゃ!と気弱になったのだが、そんな心配はまったく不要であった。環境が驚くほど変わってしまったため、路地裏歩きがまったく難しくなくなっているのだ。目的地までスイスイと行けるし、混雑したメインストリートを避けて、空いている路地でショートカットという、昔は絶対に出来なかったことがカンタンに出来てしまう。

    ・・・と書くと、クネクネと捩れた、そして細くなったり、少し太くなったり、行き止まりになったりする、あの難解なバナーラスの路地が大規模な区画整理で整然としたものになり、見通し良くまっすぐに歩けるになったのかと思う方がいるかもしれないが、それとは全然違う。

    路地は何十年前と変わらない。佇まいも変わらない。でも私たちの環境が完全に変わったからだ。何がといえば私たちが手にするスマホのGoogleマップである。あの難解な路地裏構成が、きちんとマップに反映されており、目的地を入れれば、最短ルートを即座に示してくれる。こんなことになっているとは想像すらしなかった。これでは迷子になること自体があり得ない。

    こうなると苦手だったこの街の路地裏歩きが俄然楽しくなり、気の向くままにズンズン歩いてみるのである。どこにいるのかわからなくなったらGoogleマップで現在地を確認。さて、どこに行こうかと目的地を決めて、あとはマップの示すルートを辿ればどこにでも行くことができる。

    ゴチャゴチャの路地への苦手意識が完全に払拭されて、もうバナーラスのどこでも行けと言われれば、まるで地元の人にでもなったかのようにスタスタとこの迷路を自由自在に往来できるのだから素晴らしい。

    もはやバナーラスの路地で、あなたの行く手を邪魔する「難解な迷路」という障壁はもはや存在しない。あなたはどの路地裏でも無敵のセルフナビゲーター。くれぐれもスマホの電池切れにはご注意を。

     

  • ワンポイントリリーフ

    ワンポイントリリーフ

    開封前

    昔からこんなのがあるのだが、わずか1回の用足しで役目を終えてしまう、巻きがあまりに小さなトイレットペーパーはどうなのか?と思う。そこに作り手の良心はあるのか?とも。

    開封後