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投稿者: ogata

  • ムンバイのヒンディー語映画「ANEK」にナガランド出身のヒロイン

    ムンバイのヒンディー語映画「ANEK」にナガランド出身のヒロイン

    ナガランド出身でムンバイで活動するモデル、アンドレア・ケヴィチュサー。15歳の頃から時折モデルの仕事などもしていたとのことだが、メガーラヤ州都シローンで高校を卒業した2019年、ムンバイに拠点を移して本格的にモデルの仕事に従事するようになった。そしてこのほど封切となった作品「ANEK」で映画デビューを果たした21歳。

    私たちと同じモンゴロイドでボリウッド映画に出演する人は皆無ではないものの、ハードルの高い世界。今後も役柄に恵まれて活躍する場を持てるとよいと思う。北東部出身の人たちへの差別感情の解消にも繋がることを期待したい。

    こちらは映画デビューに際しての本人、アンドレア・ケヴィチュサーさんへのインタビュー動画。日本でJRに乗っていたら誰も「インド人」とは思うはずもない「和風顔」である。

    Andrea Kevichusa on Anek: ‘A day will come when actors will get cast not for their ethnicity, but for their talent’ (Firstpost)

    NAGALAND MODEL ANDREA KEVICHUSA’S FEATURE MOVIE ‘ANEK’ RECEIVES POSITIVE RESPONSE (Youtube)

  • インドとロシア

    ロシアへの武器依存度が高いインドがリスクヘッジのため新たな調達先を広げる動き。

    それでもロシア非難へとスタンスを変えることはないだろう。インド自身、1971年に武力による現状変更を実施した(第3次印パ戦争、これにより東パキスタン解消、バングラデシュ成立)ことがあるだけでなく、POK問題(パキスタン占領下のカシミール)過去がある。

    2年前にJ&K州からラダック地域を分離させ、ともに連邦直轄地としたインドだが、その分離前の州議会総議席111のうち、24議席はPOKに与えられている。(他国支配下にあるため、この24議席分の選挙区からは立候補も選挙の実施もなく空席)分離後のカシミールでもPOKの24議席は保持される。そう、隣国支配下にあるカシミール西部はインドからすると不可分の自国の領土。

    インドにとってこの地域でのパキスタンとの境界は一事的な停戦ラインにしか過ぎないLOC(実効支配線)であって、国境ではない。パキスタン+中国の同盟関係及び核の保有などもあり、LOCが西方に移動したり、POKがインドの手に戻る可能性は限りなく低いとはいえ、もし将来何かあって、力関係がインドに俄然優位に傾くことがあれば当然、インドは現状変更へと乗り出す可能性は高い。ウクライナ問題の向こうに透けて見えるのは、中国と台湾の関係だけではない。

    かつてインドによる武力行使のため、国土を大きく削られるとともに人口の半分以上(1971年当時、西パキスタン人口5,900万人、東パキスタン転じてバングラデシュ人口6,500万人)を失った過去があるパキスタン。今回のロシアによるウクライナ侵攻をメディアで目の当たりにしたことにより、核による抑止力を持つことの重大さを確信していることだろう。

    それだけではない。インドと友好的な関係にあり、両国国民が旅券なしで国境を往来することができ、査証なしで居住することも出来る特別な関係のネパール。近年は大きく中国の側に傾倒するとともに、印中両国の間でバランスを取っているように見えるが、将来中国軍の基地を置かせるような動きがあれば、インドは軍事行動を含めた大変厳しい態度で応対するはず。それに対して国連で非難決議が提出された場合、これを握り潰してくれるのはロシアということになる。そう、東パキスタンを潰したときも当時のソ連の後楯がなければ無理だったかもしれない。印露の仲は実に深い。

    インド、武器調達先の多様化模索 ロシア依存脱却へ (REUTERS)

  • リンガムか噴水か

    ギャーンヴァーピー・マスジッドで見つかったとされるシヴァリンガムの画像とのこと。右翼はリンガムであると主張し、彼らに同意しないものは噴水だとか。裁判所の仲介により、モスクに調査団を受け入れさせる前から、メディアではモスク内のヒンドゥー的な意匠、つまり建物内の持ち送りの梁や柱の構造であったり、壁面に掘られたヒンドゥー的なデザインを含む彫物であったりをも映し出しており、意図的にヒンドゥー寺院では?という視覚的な誘導を行うなどといったこともあった。

    しかし昔からヒンドゥーがマジョリティーであったインドの環境下でムスリムの建築物にヒンドゥー教徒の職人集団が関わることは、ごく当たり前のことで、ムガル全盛期の代表的な建築物郡群すべてにヒンドゥー的な要素は見られる。それは中東地域ではほとんど見られない庇であったり、インド起源のヒンドゥーや仏教の象徴でもあるハスの花の意匠であったり、ベンガル式のジョールバングラー型の屋根であったりと様々だ。もともとそうした多文化融合の造形がインドのイスラーム建築の特徴でもある。

    それにしても不思議なのは、このモスクの「ギャーンヴァーピー」という名称。普通はアラビア語やペルシャ語で、それらしい命名をするものだが、なぜサンスクリットで「知恵の泉」と名付けたのか。実に珍しい。

    まさにこれこそインドの多文化社会を象徴するようなもので、本来ならば内外に誇れるもののように思うのだが、その名前がゆえに標的になっているとすれば、なんと皮肉なことだろうか。

    Shivling or fountain in Gyanvapi mosque? Here’s what IIT-BHU experts say (INDIA TODAY)

  • アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン

    アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン

    インディア・トゥデイの今週号。特集は「アビー・ナヒーン・トー・カビー・ナヒーン(今やらなければ金輪際あり得ない)」。

    内容は惨憺たる状態にあるインド最古かつ南アジアの最古の伝統ある政党、国民会議派。もういいかげん、ここで巻き直すことができなければ全国政党の座も危なくなる。表紙になっているのはまさにそれで、会議派のシンボルマークが今にも水の中に呑まれそうになっているという図。

    会議派のシンボルは、ただの3色の掌のイラストではない。この掌が示すのは、ヒンドゥー教、仏教などでおなじみのムドラー(手印)。つまり私たちにしてみれば仏様のハンドサイン。手印はインドのヒンドゥー、ジェインそして日本の仏教徒が共有している文化でもある。

    言うまでもなく、これは施無畏印。「おそれるな。私があなたを保護してあげる」という、日本でも仏像でよく目にするありがたいムドラー。

    そんな頼もしい手印を国民に示してきた国民会議派がこのまま沈んでいき、国政の表舞台から姿を消すのではないか?いくつかの地域でのみ存在感を示す地域政党へと転落するのではないか?と危惧される現状はあまりに哀しい。

    INDIA TODAY 2022年5月25日号
  • 34年前の過ち

    ナウジョート・スィン・スィッドゥー。元クリケット選手で、インド代表の花形選手として活躍もしていた。その後、テレビタレントとして数々の番組に出演。

    2004年からは政治家に転向してBJP選出のパンジャーブ州議会議員として活動を開始。その後2017年には国民会議派に鞍替え。州観光大臣であった2018年には、同じくクリケット選手で南アジアを代表する名選手だったパキスタンのイムラーン・カーン首相を相手に「クリケット外交」を演じ、アムリトサルからすぐ国境向こうにあるスィク教の名刹、カルタールプルのグルドワラー・ダルバール・サーヒブへ、インド側からヴィザ無し訪問のスキームを実現させて脚光を浴びた。その後、国民会議派のパンジャーブ支部のトップの座に就くなど、順風満帆の時期が続いていた。

    そんな中でパンジャーブ支部内での内紛、それに続いての州議会選挙敗北と、なかなか大変なことになっていたのだが、このたび1988年、つまり彼のクリケット選手現役時代に起こした危険運転のかどで、懲役1年の判決が下りたのは一昨日。実は危険運転というよりも、危険運転が生んだトラブルの中で、当時25歳だったスィッドゥーが65歳の男性を殴ったことにより、その男性の死を招いたという事件。本来ならば殺人事件あるいは暴行及び傷害致死として扱われるべきところ、一貫して「road rage」として報道も裁判も続いていた。

    この件について、幾度も裁判を重ねており、選手時代、タレント時代、政治家となってからもつきまとう彼自身が抱えるリスクであったが、被害者の遺族による粘り強い闘いにより最高裁でまで争われ、ついに彼はその償いをすることになった。まさにその事件が起きてから34年後になった今になって、である。

    事件後で被害者は亡くなったが、いっぽうでスィッドゥーはさらにクリケット選手としてのキャリアを積み、タレント業でもスポットライトを浴びて、政治家としても活躍した。もう充分に華やかなキャリアと人生を謳歌しておいて、いまごろになって、わずか懲役1年の判決。やるせない話だ。

    ニュースによると、彼にはまだ法的に争うことができる余地は残されているものの、それがうまくいく可能性は限りなく低いとも言われている。

    SC sentences Navjot Singh Sidhu to one year in jail in 1988 road rage case (Hindustan Times)

  • 奇妙な捻じれ

    最高裁の命令により調査チームを受け入れさせたバナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッド。ヒンドゥー寺院であった確固たる証拠があったとして、ここでプージャーを行なうことを求めるヒンドゥーの原告側が「バーバーがおられた」とし、ムスリム側は「何も見つからなかった」。シヴァのリンガムらしきものの痕跡が見つかったとのことのようで、さらに確固たる証拠として、リンガムに向かい合わせるナンディの姿がないか調べるという方向らしい。

    ここにあったヒンドゥー寺院をモスクに転用したということは、もともと古くから伝えられてきた史実のようで、そのような例はここに限らず、とりわけインド北部や西部には多い。

    ここはムガル朝のアウラングゼーブ帝の時代に転用されたとのこと。1991年にアーヨーディヤーのバーブリー・マスジッド(ラーマの生誕地とされる場所にあった寺院で、やはりムガル帝国時代にモスクに転用された。1992年に右翼に率いられら暴徒たちが破壊。インド各地にコミュナルな暴動が連鎖)問題のとき、こちらもやり玉に上がっていた。

    現在はムスリム以外は立ち入り禁止の施設として現在に至っている。近年、右翼勢力はこうしたムガル時代に起きた賛ムスリム的な事象を反ヒンドゥー=反民族=反国家的な過去で、それを取り戻すことが愛国的な行いであるかのように煽る。同時に植民地時代の反政府テロリストたちを反英愛国者と持ち上げ、さらには1857年の大反乱を「インド最初の独立闘争」と位置づける。

    するとこの時代の歴史解釈の根本的な部分に、奇妙で大きな捻じれが出てくるのだが、これについてはどう辻褄をつけるつもりなのだろうか。

    多数はヒンドゥーのインド人傭兵たちの勢力がインド各地で当時の東インド会社軍に対して反乱を起こし、その勢力が合流しながら当時の統治の拠点を次々に陥落させていった。火の手がデリーに及んだときに彼らが集結して反乱のシンボルとして担ぎ出したのはムガル最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファル。

    それまで英国人指揮官の元で働いてきた無名のインド人兵士たちが求めた権威は、当時すでに権勢は衰えて威光の及ぶ範囲は「デリー周辺」でしかなかったムスリム王朝の当主であった。劣勢に継ぐ劣勢で追い込まれたイギリス側は、それでも内部の立て直しと反乱の及んでいなかった南部等からの援軍などで反攻に出たわけだが、その際に大きな力となったのはパンジャーブ及びその近隣地域のスィク教徒勢力。

    英国当局が比較的短期間に力を回復して、反乱勢力を退治して粛清、軍の再編、英国人社会の綱紀粛正、英国本国では東インド会社の解体とインド省による直接統治へと急転換していくことになる。現在も軍や警察などでスィク教徒のプレゼンスが高いのには、反乱平定後に親英・尚武の民として重用されたことが背景にある。つまりムガルこそが独立運動の先駆けの象徴であり、スィク教徒は親英の売国勢力であったことになってしまうため、極右勢力によるムガルを「侵略者」と位置付けと、極右勢力を含めたインドの広範囲での「1857年の大反乱はインド最初の独利運動」という定義は相反するものになるのだ。

    Decoded: What is the controversy over Varanasi’s Gyanvapi Masjid? (India Today)

  • 熱波のインド

    記事によると、デリーで観測史上の最高気温が45.6℃とのことだが、それとて一定の条件での計測なので、路上や空調のない車両の中などではこれよりも数度高かったり、50℃を超えていたこともあるはずだ。

    先日は49度を超過とのことで、従来の記録を4度ほど上回ったことになる。これも同様に実際街なかで働く人たち、路上で商う人たちは実質55℃のような過酷過ぎる環境で働いていたのだろう。

    今の東京のような快適な気候からはちょっと想像が及ばないし、お盆あたりの東京の状況とも比較にならない。いくらこの時期のインドは湿度が低く、日本のお盆は湿度が高いとはいえ、ベースになる気温がまったく違うので、比較にすらならない。

    たとえ湿度が低くても、体温を超えると相当消耗するし、さらには風呂の温度を超えると、とても耐えられるものではない。50℃という気温は死の世界とも言える。26℃と30℃がぜんぜん違い、30℃と34℃も相当異なるように、45℃と49℃もずいぶんな差だろう。

    地球温暖化で氷河が痩せ細ったり、海岸沿いの低地が海の下に沈むことなど、懸念されていることは多いが、インドあたりの緯度の内陸部の酷暑季では人々の生存が困難なものになりそうだ。

    India heatwave: Delhi records highest ever temperature at 49C (The Telegraph)

  • パーンバン・ブリッジ

    タミルナードゥ州本土とラメースワラムを結ぶパーンバンブリッジ。海上の築100年以上のこの橋は、当時の技術の粋を集めて造られたのだろう。列車が徐行してそろりとそろりと進む車窓からの海の眺めは、ちょっとスリル感がある。

    このパーンバンブリッジに代わる「新パーンバンブリッジ」が架けられるとのこと。国土も鉄道網も広いインドにはまだまだ古い橋梁はあるのだが、こうやって次第に古いインフラが更新されていく。

    New Pamban Bridge: Indian Railways engineering marvel! Watch video on India’s 1st Vertical Lift Rail Sea Bridge (FINANCIAL EXPRESS)

  • Taj MahalかTejo Mahalayaか

    Tejo Mahalaya (荘厳で偉大な棲家)という名前を聞き慣れない方はググッていただきたい。いくつもの関連記事が出てくる。

    ヒンドゥー史上主義者たちの主張によると、このTejo Mahalaya は現在誤ってTaj Mahalと呼ばれており、ムスリムの皇帝の妃の墓廟であると誤解されているが、本当はMahadeva Mandirつまりシヴァ寺院であるのだという。元々そこにあった寺院をシャージャハーンによるタージマハルの構造物が呑み込む形で「併合してしまった」というのだ。インド考古学局によって閉鎖されている謎の20の部屋(メディアによっては22の部屋とも)があり、そこにはこれがムスリムの墓廟などではなく、ヒンドゥー寺院であるという証拠が隠されている、ゆえに誰も入ることができないように固く閉じられていると主張している。

    確固たる史実をまったく無視した、何の合理性も道理もない主張だが、ついにアラーハーバード高等裁判所へ、インド考古学局に謎の20の部屋を開けて調査チームを受け入れよという訴え出たのだ。バラエティ番組的な興味関心は覚えるものの、そしてヒンドゥー史上主義者に勝ち目はないように思えるのだが、もし芳しい結果が得られなくとも、すぐに次の一手を容易しているはずだ。そんなこんなで、どんどん外堀が埋められて、いつしかヒンドゥー寺院であるとの既成事実みたいなものが積み上がるとも思えないのだが。

    1989年代後半からサフラン勢力が頭を持ち上げ始めて、90年代には檜舞台に躍り出るまでになった。そして今世紀に入ってからは、まるで19世紀後半のヒンドゥー・ルネサンスのごとく、これまでの共通理解や社会通念を覆すような「ネオ・ヒンドゥー・ルネサンス」を展開している様には、もう驚きしかない。その「ルネサンス」は地域、カースト、社会的地域を超えて人々を強く結びつけ、それ以前は排除あるいは無視されていた層や部族も大手を広げて歓迎される一方で、ムスリム、クリスチャンといった外来の思想を奉じるコミュニティーに対しては非常に敵対的だ。

    高等裁判所は訴えを退けたが、この原告団は最高裁まで争う構えを見せている。仮にこのTejo Mahalayaの「調査」が近い将来実施されたとして、結果がどのようなものになるのか、それがメディアでどう消化されて人々に伝えられるのか、社会がどのような反応を見せることになるのか。

    この件もそうなのだが、時を同じくして、デリーのクトゥブ・ミーナール、マトゥラーのクリシュナ・ジャナムブーミー、バナーラスのギャーンヴァーピー・マスジッドと似たような文脈での訴えがなされて、同時期に並行して進行していくというのは、どう考えても偶然ではないだろう。

    また、ムスリム支配を背景に持つ地名に対する改名が相次いでいることも然り、一連の嫌ムスリム的な事象が相互に作用しあっている部分もあるようだ。現在のインドが急速に変貌しているのは経済面だけでなく、こうした思想面においても同様だ。

  • United Hindu Frontって何者だ?

    メディアにUnited Hindu Frontというヒンドゥー右翼団体の名前をよく見かける。検索してみるとデリーのヤムナ河東岸のアーナンド・ヴィハールの北にあるシャーハダラーに本部があるようだ。HPは見つからないがFBページにいろいろ主張を載せている。

    クトゥブッディーン・アイバクの時代、この地域にあった多数のヒンドゥー寺院、ジャイナ教寺院を破壊してモスクが建設された。このモスクが擁する巨大なミーナールは現在「クトゥプ・ミーナール」として知られており、世界遺産にも登録されている。文化、民族、これに付随する信条なども時代とともに移ろう。ときに外来勢力に征服され、ときに別の民族に蹂躙され、あるいは平和的に融合して歴史は形作られていく。

    そんな悠久の歴史を象徴するモニュメントのひとつがクトゥブ・ミーナールであるわけだが、ここで地面に置かれた神像、上下さかさまな状態で建造物の中に組み込まれている神像、織の中に取り込まれたような具合になっている神像などをめぐり、またこうした神像がふんだんにあるにもかかわらずプージャーを執り行うことができない(インド考古学局管理下の遺跡であるため)現状などに抗議していた団体United Hindu Frontが、クトゥブ・ミーナールの改称を求めて開始した新たな運動が各メディアに報じられている。

    クトゥブ・ミーナール」ではなく「ヴィシュヌ・スタンブ(ヴィシュヌの柱)」と呼ぶようにせよ、と。もともとどういう背景を持ち、どんな属性を持つ人たちが、どのように活動に参加しているのかちょっと興味がある。決して彼らに賛同するわけではないが、右傾化するインドの今後が透けて見えるような気がするからだ。

    Right-wing activists demand renaming of Qutub Minar as Vishnu Stambh, detained (The Indian EXPRESS)

  • 中華民国駐印軍

    ある記事を目にして「中華民国駐印軍」という軍隊がかつてインドに駐屯しており、彼らの墓地があることを知った。概要としてはこのようなものらしい。そして駐インドの中華民国(台湾)代表処は、年に2回、お彼岸の時期に職員を派遣して慰霊祭を行っているとのことだ。

    印での中華民国軍共同墓地、中国大陸が観光地への変更を強要か (台北駐日経済文化代表処)

    だが、これについて中華人民共和国はインドに観光地化を要求。台湾側は歴史的価値を損なうと反発しているとも書かれている。

    インドの「中華民国」軍墓地 中国が観光地化要求で波紋 台湾は「歴史的意義をおとしめる」と反発 (産経新聞)

    グーグルマップで検索してみると、州都ラーンチーからハザーリーバーグに行く中間点だ。これは立ち寄ってみたい。

    これらの記事で気になるのは、地名を「ランガルー」「ランガル」と書かれていること。『ラームガル」(ラーマの砦)なのだが、産経新聞のような大手メディアで書いてしまったせいか、検索して出てくる他メディアでもそのように表記されているのが残念。グーグルマップの日本語表記をよく見ると、ここにも「ランガル」と表記されているため、間違いの元はここかもしれない。

  • パハールガンジの「見どころ」

    パハールガンジの「見どころ」

    ニューデリー駅で降りて宿に寝に行くだけのパハールガンジ、とりあえず泊まるだけのパハールガンジとしておいてはちょっともったいない部分もあるアメ横みたいな雑踏。

    ムガル時代の城塞に囲まれたシャージャハナーバード時代は、このあたりが「郊外」であり、今のパハールガンジあたりは主に穀物を扱うマーケットとなっていたという。その頃のデリーは大した広がりはなく、すぐ外は農村だったため、ここに農民たちが持ち込んだ米穀だの豆類だのが取引され、それが牛車に載せられて城門の中へも運ばれていったのだろう。(城壁は1857の大反乱平定後、ほとんどが撤去され、城門は今も北デリー各地に「アジメーリーゲート」「カシミーリーゲート」等々多数残る。)

    そんな牧歌的だったはずのパハールガンジが大きく変容したのは20世紀に入ってから新都市地域、ルティヤンス・デリー、つまり計画都市として、カルカッタから首都移転させるために築かれた都市地域の建設がきっかりだったようだ。コンノートプレイスのすぐ北側に位置し、ムガル期からのデリー市街地と接続する地域に当たるため、当然活況を呈することになったようだ。

    当然、この地域で相当儲けた人たちもあったわけで、豪壮な住宅も実は点在している。

    同様にパハールガンジの商業としての発展の大きな背景としては、まさにそのデリー遷都の1931年に合わせてニューデリー駅の開業。これでインドの新首都の玄関口の街となり、さらには1947年の印パ分離独立により、パキスタンから流入した人たちが日々の糧を得るための稼ぎの場を提供する場ともなり、今のような人口稠密なエリアになることが運命づけられたらしい。おそらく、場所柄、オールドデリーの商業地同様に、ムスリムの有産階級の中から新生パキスタンに脱出する者も少なくなく、空きとなった屋敷をチンピラたちの仕切りで細分化し、店舗や住宅として貸し出したりもしたはずだ。

    そんな中でも、よくよく目を凝らしてみると、珠玉の逸品では?と思われるような物件を見つけることは珍しくない。この建物なども、駅からバハールガンジの奥の方向に向けて進んだ野菜マーケットすぐ手前あたりにあり、特に顧みられることもないのだが、なかなか立派なたたずまい。往時は相当立派なハヴェリー(お屋敷)だったことと思われる。

    個人の住宅だと、おいそれと「中見せてください」とは頼めないのだが、ここは幸いにして自治体が運営する小学校。(ナガルニガム・プラートミク・ヴィデャーライ」とあり、ちょうど学校が終わるあたりの時間帯で、勤めている先生に話をすれば見学くらいさせてくれるだろう。その日は帰国前日で翌日は休日で学校は閉まっている。また次に来るときにしよう・・・と思っているうちにコロナ禍で2年以上過ぎてしまった。

    「東洋のローマ」「遺跡と共存する大都会」デリーでは、数えきれないほど見どころが多いので、わざわざパハールガンジに残る古いお屋敷に構っている必要もないのかもしれないが、よく宿泊するエリア内で、朝食や夕食に出かけるその途中に何か風雅なものが転がっているのならば、そこを訪れてみない理由はない。また、こんな混雑していて、四六時中観光客が往来しているエリアであっても、そうしたものとまったく縁のない人たちにとっては、初めて直接接点を持つ外国人だったりすることも珍しくなく、いろいろ興味深い話を聞かせてくれたりすることもある。こうしたところで新しい会話の糸口を持つことも、インドを旅行する楽しみのひとつであったりする。