ただいまメンテナンス中です…

投稿者: ogata

  • 『旅』5月号はブータン特集

    『旅』 2009年5月号
    新潮社の旅行月刊誌『旅』の現在書店の店頭に並んでいる5月号で、ブータンの特集が組まれている。
    表紙に書かれたキャッチフレーズにあるように『ブータンは世界でいちばん幸福な国』であるかどうかについては、そうともいえないがゆえに、ネパール系住民との軋轢や同住民が難民として流出したりしているわけだが、非常に興味深い国であることは間違いない。
    首都ティンプーや地方の町などの美しい景色、人々の暮らし、寺院のたたずまいや手工芸品等の生産の様子、旅行事情、グルメスポットに宿情報など、写真を豊富に使って70ページあまりをヴィジュアルに展開している。
    インドのすぐ隣にありながら、なかなか訪れる機会のないブータン。現在までのところ、同国政府の方針により、外国人はツアー参加が原則で、これまたかなり高額な費用が設定されているため、目下の私には文字通り『手も足も出ない』といった具合。
    ちょうど昨年の今ごろ、ブータンでは総選挙が行なわれた。これにより、大衆からの要求もないのに、この国を支配してきた絶対君主自身により『上からの民主化』が実施され、自らの権力の大部分を放棄して民政移管し、立憲君主制に移行するという、世界でも極めて稀な手続きによる政治体制の大きな変更が実現している。
    これにより、理論的には社会の様々な層からの民意を汲み上げた政治が実施されていくことになり、それまでの政治や社会のありかたに相当な変化が出てくるであろうことは想像に難くない。
    『ブータン 個人旅行受け入れへ』という情報が世界を駆け巡る日もそう遠くないのかもしれない・・・と私は思う。
    ブータンのツーリズムといえば、元々は政府系の事業体のみが取り扱うものであったが、80年代後半から90年代後半にかけて、『民間でできることは民間で』というグローバルな潮流は、ヒマラヤ奥深く位置するこの小国のこの分野にも及び、1991年に旅行業の民営化が実施され、現在では200社を超える大小の民間企業がこの分野のビジネスを取り仕切っているといわれる。
    たとえ事実上の鎖国状態にあるにしても、世界の動きとは無縁ではいられない。これまでブータンの外交といえば、ほぼインド一辺倒であった。しかし民意を広く反映した複眼的な国家運営がなされるであろうことから、南の大国との特別な関係について、今後何らかの見直しが図ろうという動きが出てくることもあり得ない話ではないだろう。
    ときどきインドから少し視点をずらして、視界の片隅に入れておきたい国である。

  • ジェイド・グーディー亡くなる

    先日から危篤状態にあった、イギリスのリアリティーショーのスター、ジェイド・グーディーが亡くなった。享年27歳。ご冥福をお祈りしたい。
    Reality TV star Jade Goody dies (BBC NEWS)
    ………………………………………………………………………………..
    彼女の命を奪った病、子宮頸ガンは、よく知られているとおり、ヒト・パピローマ・ウイルス(HPV)への感染が大きな原因であるとされる。
    他のガンに比べて、若年層の患者が多いことも特徴だが、日本ではこの病についての検診の受診率が低いことも問題とされている。
    現在では、HPVへの感染に対する予防ワクチンという、有効な手立てがあるが、少なくとも日本ではまだそれは普及していない。しかし今年中には承認される見込みらしい。
    性交渉未経験の10代前半の女児を対象とする公費負担による接種を求める声が高いという。

  • ジェイド・グーディー

    ジェイド・グーディーが危篤状態にあるとのこと。2007年にリアリティショー『ビッグブラザー』にて、シルパー・シェッティーに対して執拗に投げかけた問題発言により、人種差別だとして内外に大きな波紋を投げかけたあの人だ。
    差別的な発言をしたのは彼女だけではなかったようだが、その口火を切り、同様の発言を繰り返したことに加えて、普段メディアを通じて彼女が視聴者に与えていたイメージもあったことから、袋叩きに遭うことになったようだ。
    この出来事がいろいろなメディアで取り上げられるまで、私はこの人がイギリスでとても有名なタレントであることさえ知らなかった。実のところ、私はこの人がテレビに出演しているところを直に見たことはなく、YouTube他の動画投稿サイトで彼女が出ているクリップを片っ端から閲覧しただけだが、それでも彼女の強烈な個性は充分伝わってくる。
    その後、ジェイドはインドへ謝罪旅行に赴き、シルパーとともにインド版ビッグブラザーのビッグボスに出演するなどして、彼女と和解しているが、もちろんインドでは彼女に対してネガティヴなイメージは根強いだろう。
    もともと歯科医院で看護婦の仕事をしていた彼女は、2002年にビッグブラザーに『ちょっと可愛らしい看護婦さん』として出演する機会を得て、一気にスターダムを駆け上ることになった。
    しかしながら、とりたてて外見がどうというわけではなく、なにか人を魅了するものを持ち合わせているわけでもない。私でもセレブになれそう、と思わせる『普通さ』とは裏腹の毒舌マシンガントークが多くの人々の非難を巻き起こしつつ、瞬く間に悪役としての地位を築いたようだ。
    自身の名前を冠したパフュームをプロデュースしたり、フィットネスのDVDに出演したり、自伝を出版したりと、テレビ以外の場所でも活発に動いていた。
    昨年夏に末期ガンであることが判明してから、様々な治療を受けてきたがすでに病巣は多臓器に広がっており、あと数週間の命らしいと各メディアに報じられていたのは今月前半のこと。
    その深刻な病状について、彼女に知らされたのは先述のビッグボスに出演時。番組中のアナウンスで『出演中に電話を使うことは許されないが、事があまりに重大であるときにはそれが許可されることもある』とあったように、実に深刻な事実がイギリスの主治医から彼女に伝えられ、ジェイドはイギリスに緊急帰国した。
    インドを、インド人を侮辱したと大騒ぎになったしばらく後で、インドを訪れてから受けた重篤な宣告。何か因縁じみたものを感じたのは私だけではないだろう。
    以前交際のあったボーイフレンドとの間にもうけた5歳と4歳の息子の母でもあるが、現在同棲中のボーイフレンド、ジャック・トゥィードと今年2月に挙式、晴れて正式な夫婦となった。しかしこのカップルに残された時間はあまりに短かったようだ。
    昨日夜から容態が急激に悪化し、すでに意識のない状態にあるという。天敵から友人へと転じたシルパーは、ムンバイーからイギリスへ向かっている。
    ジェイドは、自分に与えられた定めを受け入れて、最後の瞬間までメディアの前に姿を見せ続けることを宣言し、人々の注目を一身に集めるタレントであることを天職としてまっとうしようという、非常に芯の強い女性である。
    ・・・だが、彼女自身はまだ27歳。二人の幼い子供たちの母親でもある。あまりに酷な運命の仕打ちだ。

  • ルピーのカタチ

    パソコンのキーボードにいくつかの主要通貨名を入れて変換すると、£、$、\、€といった記号が出てくるが、現在インド政府も自国のルピーを象徴するシンボルの制定に向けて模索中とのことだ。
    各国通貨はISO4217による3文字から成る略称で表記できるようになっている。最初の2文字がISO 3166-1 alpha-2による国・地域コード、最後の1文字は通貨のイニシャル。これにより、たとえばインド、パーキスターン、バーングラーデーシュの通貨が、INR, PKR, BDTと表記される。
    ISO 4217 currency names and code elements
    (ISO International Organization for Standardization)
    各国内で自国通貨を表す独自の記号が用いられることが多いとはいえ、国外でも広く認知された通貨記号を持つ国は少ない。
    インド政府の試みは、自国通貨を意味するグローバル・スタンドな記号を創造しようというものだ。果たしてINRは、どんなカタチになって私たちの前に姿を現すのだろうか?
    India seeks rupee status symbol
    (BBC NEWS South Asia)

  • 多文化共生ってなんだろう?

    日本のバブル景気の時期に、パーキスターン、バーングラーデーシュその他の国々から大挙してやってくる労働者たちの姿があったが、その後の景気後退にともない多くの人々が帰国したり、この国を離れたりした。しかし日本で配偶者を見つけて定住した人たちは少なくないし、数は決して多くないが起業して運命を切り拓いた人たちもある。これらの人たちが日本で生まれた子供の親となったり、故郷から身内を呼び寄せたりするのはごく自然な流れだろう。
    この時期に移民してきた人たちの子供たちは、すでにティーン・エイジャーになっており、あと数年もすれば社会に出て働くようになってくるのだろう。ふと気がつけば、今年成人式を迎えた人たちは、すでに平成の時代になってから生まれているのだ。昭和生まれの世代が旧人類扱いされるのもそう遠い将来ではないのかもしれない。
    それを思えば、バブル時代の移民者たちで比較的早い時期に日本で配偶者を得た人たちの子供たちは、すでに中学生あるいは高校生くらいになっていてもおかしくない。多くは日本で普通の公立学校に通い、かつて私たちがそうしてきたのと同じような教育を受けて成長しているようだ。
    出稼ぎで3Kと形容される仕事に従事する人たちだけではなく、景気が良かったバブル期には、『国際化』が標榜されていた頃でもあり、留学生や企業内転勤その他様々な形で来日するいろいろな国々の人々の姿があった。こうした人たちの中にもその後日本に定着したケースが多いことは言うに及ばない。
    こうした人々が日本で定着してから母国の身内の人々、兄弟姉妹や、従兄弟その他の親戚が日本で大学あるいは大学院に進学するために面倒を見るというのはよくあることだ。そうして世話してもらったニューカマーの人々もまた、年月を経て同様に結婚して子供をもうけたり、他の身内の人々を何らかの形で呼び寄せたりといったことを経て、彼らのコミュニティが次第に拡大していくことになるのだろう。
    そんなわけで、特に外国人が多く暮らす地域の小学校、中学校などでは、昔とは比較にならないくらい様々な顔立ちの生徒たちが教室で机を並べているようだ。
    もちろんこうした外国にオリジンを持つ生徒たちの親の中には、特に父親の母国の方式の教育ないしは民族教育を受けさせたいと思う人は少なくないようだ。日系ブラジル人たちのように、日本での在留や就労が容易な人たちの場合は、家族を伴って来日するケースが多く、一定の年齢までブラジルで育った子供たちは言葉の問題もあることから、彼らの人口が多い地域ではブラジル人学校がいくつも設立されることとなった。

    (さらに…)

  • BS1の『内偵員』

    すでに放送が終わってしまった番組で恐縮だが、NHKのBS1で、本日午後8時から9時まで、『BS世界のドキュメンタリー 内偵員〜インド・人身売買との闘い〜』がオンエアーされていた。
    NHKのウェブサイトの番組紹介にもあるように、ムンバイーの歓楽街で売春を強要されている少女たちを救うために取り組んでいるNGO,Rescue Fondationで内偵員としての任務に従事するスタッフの活動を追ったドキュメンタリー。
    定期的に髪型を変え、必要に応じて変装して隠しカメラを持って売春宿に客を装って入る。あらかじめ情報を得ている少女本人と接触するなどして情報を得て、警察と協働して摘発に臨む様子を描いている。
    Rescue FoundationのNewsletterのページをクリックすると表示される内容は、この番組で取り上げられていた。
    この内偵員という仕事、もちろんアンダーグラウンドな世界の仕事に干渉することになるため、探りを入れる相手に身元が割れると命の危険があり、またその社会で面が割れてしまうと仕事にならないため、なかなか成り手が見つからず、慢性的な人手不足の状態にあるようだ。
    この団体の代表者は、創設者であり、最初の代表者であった人物の妻。ご主人は、救出活動を行なった帰りに、乗用車が大破する事故に遭い亡くなっている。その背景にはマフィアの関与も取りざたされていたのだとか。その遺志をついでこの責につくことになったということだ。
    またこの団体では、保護された後のリハビリや社会復帰を助ける施設も運営しており、ウェブサイトでは、そうした活動を紹介するギャラリーも設置されている。
    内偵の様子や警察と協働での摘発・救出活動の映像については、よく日本の民放であるような『摘発 歌舞伎町24時』といった番組でも見かけるような構成であった。
    よくわからないのは、この団体そのものの背景だ。専従のスタッフを抱えて施設もかなりしっかりしたものを持ち、相当な資金力があることを感じさせる。
    売春させられている個々の女性の動向についても、近々他の店に移る予定であることを把握していたり、仕事がムンバイーからデリーに移ったことやそこで働いている店が特定できたりするなど、相当な情報網を持っているようだ。
    しかも警察と合流して現場の摘発に参加しているようなので、単に被害女性の保護と更正のために市井の人が取り組んでいる運動というわけではないように思う。
    たぶん、かなり政治的なコネクション、相当有力なパトロンあってこそのことではないかと思うのだが、そのあたりについて番組が踏み込んで取り上げているわけではない。
    もちろん、それだからといって、彼らの活動の価値が否定されるわけではないし、賞賛されるべき取り組みであることは何ら変わりがないのだが、この活動のアウトラインを知るうえで重要なファクターなので、とても興味をおぼえずにはいられない。
    現在のところNHKのウェブサイト、BS世界のドキュメンタリーには示されていないが、いつかこの番組が再放送される機会があるのではないかと思うので、ご関心のある方はぜひご覧いただきたい。

  • 丈夫なデジカメも良さそう

    これまで幾度となく『インドでどうだろう、このデジカメ?』というスタンスで、日常生活と旅先で肌身離さず持ち歩くカメラについて考えてみた。
    カメラは繊細な道具である。気候が良いときには問題ないのだが、雨季にはなかなかカメラを取り出しにくいことも少なくない。街中や遺跡などでは問題なくても、海岸に行くとき、トレッキングに出かけるときなど、持ち物の中で特に水とホコリに弱いカメラがウィークポイントになってくる。
    そこそこ適当に写る程度でいいから、そのかわり雨の中、水滴を気にせずに撮影できて、うっかり手が滑って水溜りの中に落としてしまっても心配なく、砂浜の上に無造作に放り出しても大丈夫、ちょっと汚れたらそのまま水洗いできる、そんなカメラがあったらどんなに気が楽かと考えたことはないだろうか。
    近ごろ防水タイプのカメラがいくか出ている。以前は防水といえば、海中で写真を撮るためプラスチック製のプロテクターを装着するか、工事現場用のいかつい業務用カメラくらいしかなかったものだが。
    最近はどこに行くにもデジカメを持参する人が増えるにつれて、浸水、ホコリ、衝撃等で故障するケースがいろいろあるのだろう。とにかく丈夫なことを売りにする『格好いいイメラ』が出てきている。これから気温が上がり、アウトドアでのアクティヴィティの機会が増えるにつれて、需要も高まっていくことだろう。じきに他社も同様のモデルを出してきて、これまでなかった新しいジャンルを形成していくのではないかと私は予想している。
    水深4m防水のペンタックスのOptio W60、水深3mまで耐えるオリンパスのμ tough-6000あるいは水深10mまで大丈夫な上位機種のμ tough-8000水深3m防水のパナソニックのルミックスDMC-FT1ということになる。
    ペンタックスOptio W60
    オリンパスμ tough-6000
    オリンパスμ tough-8000
    パナソニックLumix DMC-FT1
    これらの機種は、どれも防水であるがゆえに防塵でもあるわけだが、ペンタックスのモデルを除いて、オリンパスμ tough-6000とパナソニックのルミックスDMC-FT1は1.5mの落下に耐える構造となっており、オリンパスのμ tough-8000にいたっては、2mからの落下と100kgfの加圧に耐えるという非常に丈夫な造りとなっている。
    こういうヘビューデューティーな機種に、カメラとしての性能・機能面で期待するものは特にないので、その部分については敢えて言及しない。だがいずれも広角端が35mm判換算で28mmとなっているため使いやすいだろう。
    防水以外の他のモデルに目を移しても、ちょっと前までのデジカメではあまりなかった現象が広がりつつある。広角端が28mmあるいはそれ以下というズームレンズ搭載のデジカメが急に増えてきているのはうれしい限り。なお望遠端は、Optio W60が140mm、μシリーズが102mm、DMC-FT1は128mmとなっている。
    こういうカメラを手にしたら、どこかキレイな島にでも行ってみたい。ダイビングをしたことはないし、これからトライする気もないのだが、手軽にシュノーケリングでもしながら海中の魚や珊瑚などの写真を撮ってみたいのだ。
    『ああでもない、こうでもない』と、海の中で試行錯誤するうちに丸一日過ぎてしまい、たっぷり陽光に照らされた背中が真っ赤に日焼けしてしまい、因幡の白ウサギ状態になって『イタい、イタい』とのたうち回る自分の姿が目に浮かぶ。
    個人的には、オリンパス製品については、記録メディアがxD-ピクチャーカード、microSDカード、microSDHCカードとなっているため、他のカメラとメディアが共用できないのでパス。残るW60かFT1ということになると、耐衝撃性があるという点から後者のほうに、より高い関心がある。特にサフラン色?のモデル(メーカーのパナソニックによれば『サンライズオレンジ』とのこと)がちょっと気分なのである。
    サフラン色のFT1
    これをベースにして、国旗風に中央部を白、下部を緑に塗り分けた『インド仕様』なんていうのを売り出してみてはいかがだろうか、パナソニックさん?

  • スポーツ用メガネはいかが?

    クリケットや野球はともかく、ホッケーやサッカーのように相手選手との接触プレーが多いスポーツにおいて、通常はネガネの着用はご法度。自分自身にとって危険だし、同時に相手に危害を与えてしまう可能性があるからだ。
    だが装身具ではなく、視力が悪くてよく見えないがゆえに矯正しなくてはならないので、眼が悪い人はたいていコンタクトレンズを使用している。しかしソフトコンタクトであっても、どうも眼に異物を入れることに抵抗感がある、着用がどうも合わないようだという声もときに耳にするものだ。
    私自身、コンタクトレンズを使ってみようと思ったが、しばらく装着していると眼が充血したり、また違和感になじめなかったりで、やめたことがある。
    その後、どうしたかといえば、裸眼で我慢した。私が休日に楽しむのはサッカーやフットサルといった、比較的大きなボールを使うものであるがゆえに、あまり問題はなかった。
    ・・・とはいえ、試合前にメガネを着けたままでしばらく練習してみると、見えかたに大きな違いがあり、裸眼で見える像がかなり甘いとずいぶんハンデを負っているな、とつくづく感じたものである。曇っている日、夕方になって日が傾いてからは、なおさらのこと見えづらかった。
    そこにきてパソコンを使う頻度が多いためか、近ごろ視力がさらに落ちたらしく、メガネを作り変えた。裸眼でプレーするのが以前にも増して難しくなってきて、これは何とかしないといけない・・・と思った。
    先日、私と同じく近眼のチームメイトが、ユニフォームに着替えてから、コンタクトレンズではなく、ちょっと変わったメガネにかけ直していた。一見、ゴーグルのようで、春先の時期ということもあり、『花粉症?』と尋ねてみると違った。
    Rec Specs
    サッカーやフットサルに対応するメガネとのことで、少なくとも日本の地域リーグでは使用が認められているものだそうだ。Rec Specsというブランド名で販売されているが、どこのメガネ屋でも扱っているわけではなく、アウトレットは限られているようだ。
    フレームは柔軟な材質でできている。両脇のツルの部分はなく、代わりにゴムバンドで装着するようになっている。レンズが曇ってしまうので気密性はないが、水泳のゴーグルをイメージさせるようなスタイルだ。
    レンズは非常に丈夫なポリカーボネート製だが、さらに追加料金を払えば『絶対に割れない』とされるより強度が高いものに換えることも可能。
    眼に対する損傷発生例が多いとされるバスケットボールをプレーする際のアイガードとしてこういうものがあったらしいが、コンタクトレンズが嫌いな人のスポーツ用度付きメガネとして使用できるようになっている点が新しい。
    実際に装着してみると、通常のメガネに比べてレンズが目に近いこと、少々フレームのためか、視界がちょっと狭い感じがしないでもない。
    それでもちゃんと目の前が鮮明に見えること、ボールの回転もハッキリ見えることから、ずいぶんプレーがしやすくなって、急に上手くなったかのように錯覚してしまうくらいだ。
    こればかりは、いつもの『インドで云々』とはほとんど関係ないのだが、新しいモノを手に入れてこんなに感激したことは、これまでそうそうなかったので、ついついここに書いてしまった次第である。良く見えるということは、本当にありがたい。
    もちろんインドでスポーツされる方にもぜひお勧めしたい。インドで手に入るかどうかわからないが、渡印前か一時帰国あるいは第三国を訪問した際に、このRec Specあるいは類似の商品のアウトレットがある国で手に入れておくといいだろう。
    Rec Specs (LIBERTY SPORT)

  • チベット代表を応援しよう!

    Tibetan National Sports Association (TNSA)に、チベット代表チームについて問い合わせをしてみたところ、丁寧な返事とTNSAならびにサッカー代表チームにかかわる簡単な資料をいただいた。
    その中からチベットのサッカーならびに代表チームに関わる部分の要略を柱に、その他必要と思われる情報等を私なりに付け加えてお伝えしたい。
    チベット人たちの間でのサッカーの歴史はなかなか古く、20世紀初頭にチベットのギャンツェにイギリスの貿易代表所が置かれていたときに、ここに駐在する彼らがチベット人たちの間に広めたのが始まりである。
    続いて1913年にラサに駐屯した英軍、そしてチベットに初めて近代的な軍隊と警察組織が導入されたことも、さらにサッカーというスポーツを広めるきっかけになった。
    ある程度定着を見せたサッカーは、チベットに1950年の中国の武力侵攻以降も、50年代にはポタラ、ドラプチ、治安部隊といったポピュラーなチームが出現し、人気を得ていたということだ。
    1963年以降、チベットから外地への大規模な人口流出が始まってから、それまでラサで活躍していたプレーヤーたちが、インドのダラムサラで新たなクラブを結成したものの、在印チベット人コミュニティでのサッカー熱が高まったのは、60年代に彼らの手でチベット人学校が各地に建設されてからのことだ。それ以降、世代を問わずサッカーの人気が彼らの間で定着することとなった。
    1981年、現在のダライラマの母親の名前を冠した最初のクラブレベルでのトーナメント、Gyalyum Chemo Memorial Gold Cup (GCMGC)が開催され、この大会の運営に関わる評議会が結成され、その後GCMGC 大会は、在印チベット人サッカープレーヤーたちの間で最もプレステージの高いサッカー大会となっている。 ちなみに今年は5月31日開幕予定で、会場はTCVスクール・グラウンドとのことである。
    ちょうどこの時期にダラムサラに居合わせることになる方は、そこで行なわれているものが単なる草サッカー大会に見えたとしても、日本で言えば天皇杯に当たり、チベット人サッカー界にとって、チベット亡命社会のサッカー界における最も重要なトーナメントであることを記憶していただければ幸いである。

    (さらに…)

  • サッカー チベット代表は実在する

    チベット代表ゲームシャツ前面
    自宅パソコンのモニター上に浮かび上がるこのゲームシャツの画像を目の前にして、『うーん、欲しいなあ!』思わず腕組みして考えてしまっているのである。
    かつて、寝ても覚めてもサッカー漬けの青春時代を送った私は、今でもこのスポーツが大好きなのだが、不覚にもつい最近までチベット代表チームの存在を知らなかった。
    きっかけは、たまたまウェブサイトで見つけたサッカーのチベット代表ゲームシャツのレプリカ。言うまでもなく、現在チベットは中華人民共和国のチベット自治区、つまり同国の一地方となっているため、単独でFIFA加盟するチベットサッカー協会はないし、そういうナショナルチームも公式には存在しないことになる。
    それでは架空のチームかな?と思いきや、このゲームシャツを日本で販売するLOVE FOOTBALLというサイトによれば、前回ドイツで開催されたワールドカップ開催直前、2006年5月から6月にかけて同国で開催された2006 FIFI Wild Cupなる大会にて、成績はともかく実在したチベットのイレヴンが熱い闘いを繰り広げたのだという。
    ハンブルグでの試合を伝える記事中には、1名スイスのSchaffhausen Football Clubというチームに所属する唯一のプロ選手がいたこと除き、他のプレーヤーたちの背景は記載されていないのが少々残念である。
    果たして『チベット国』を代表する選手たちはどこからやってきたのか?亡命チベット人の大きな人口を抱えるインドからの参加が少なからずあったであろうことは想像できるのだが。
    チベット代表チームは、その他どこで試合をしているのだろうか?と疑問に思えば、インターネットの普及のおかげで、自宅のパソコンですぐにその答えが見つかるのだから、近ごろは何かと便利になったものである。こんな映像を見つけた。

    チベット対マニプルの試合のひとコマだそうだ。またチベット対ブータンという映像のもあった。今まで知らなかったが、チベット代表チームは、インドで盛んに活動しているのかもしれない。同国における亡命チベット人たちの人口を思えば、じゅうぶんうなずけることではある。

    また国際試合ではこんな映像もあった。どういうチームか知らないが、オーストリアのF.C.Stadlauというクラブとの試合の映像も見つかった。

    この代表チーム、マイナーな大会やイベントながらも、欧州方面を中心に幾度か遠征試合をこなしているようだ。
    Tibetan National Sports Association (TNSA)のウェブサイトによれば、この協会の所在地はヒマーチャル・プラデーシュのダラムサラとのことだ。
    同協会は、草創期から競技種目の中で特にサッカーに力を入れているそうで、別組織でTibetan National Football Association (TNFA)を立ち上げたとのこと。これがチベット代表チームを組織する母体であることから、やはりこのナショナルチームの中核を成すのは在印チベット人たちということになるのだろう。
    TNSAのウェブサイトは、残念なことにあまり出来栄えが良くない。今後の予定については昨年のままだし、リンク切れも多い。メールで問い合わせを出してみたので、ナショナルチームの今後の予定について何か情報が得られたら後日掲載するつもりである。
    近ごろ年齢的にキツくなってはいるものの、長年サッカーの最底辺、つまり週末の草サッカーでプレーしつつ、この競技を愛してきた私である。不利な環境にありながらも、精力的に(おそらく・・・)続け、幾度か海外遠征をも果たしているチベット代表チームに、遅ればせながら精一杯のエールを送りたい。
    チベット代表ゲームシャツ背面

  • シグマDP2発表

    DP2
    昨年3月に発売され、その評価については賛否両論だったシグマDP1の姉妹機、DP2が発表された。発売時期は未定だが、今年前半には発売となる模様。
    35mm判換算で、画角が28mm相等のDP1に対し、DP2は41mm相当である。昔でいうところの『標準レンズ』に近いものであるところから、前者よりも汎用性が高いと感じる人もあるだろう。またF.2.8と比較的明るいレンズを搭載しているのも好感が持てる。
    私自身、DP1を1年間使用してみて、操作性以外の部分ではレンズの暗さが気になった。開放でF.4.というのはちょっと・・・。他のデジカメならば余裕で手持ちにて撮れるシチュエーションでも、DP1だとかなり工夫が必要になってくる。
    ボディのデザインやボタン等のレイアウトは、DP1を踏襲したものとなっており、操作系統もほぼ同一のようだ。画像処理エンジンは新たに開発したものが搭載されるようだが、果たしてDP1の弱点・・・というよりも、今どきの他のデジカメに比較すれば、『欠陥』と言われかねないほど緩慢な処理速度はどうなっているだろうか?
    デジカメの時代に入ってから、カメラを手にした人々がシャッターを押す回数が飛躍的に増えているという。フィルムと現像にお金をかけないと、自分が撮影した内容を目にすることができなかった時代には、ひとコマひとコマに当然ながらコスト意識が働き、趣味で撮るのであれば、対象をじっくり観察してから、シャッターを押すというのが普通であった。
    写真を撮る、撮ったものを見るということがタダになったおかげで、特に一眼レフカメラについては、新製品が出るとシャッター耐用回数何万回云々ということがしばしば話題にのぼるようになっているようだ。
    言うまでもなくDP1は一眼レフではないが、そんなせっかちな時代に、一枚撮影してから次のアクションに移るまで、メディアへの書き込み中であることを示す赤ランプが点滅するのをじっと待つのは面倒。併用している他のカメラとついつい比較してしまうので、いくら画質の面で突出したものがあっても、なんだかじれったい、ドン臭いカメラだなあ、ということになってしまう。
    加えて、RAWで撮影後に現像ソフトで仕上げた画像は、他のコンパクトデジカメをまったく寄せ付けない画質や描写力があり、さすがはコンパクト型で唯一のAPS-Cサイズのセンサー、しかもFOVEONセンサー!と感心するのだが、JPEGで撮るとそれほどの魅力を感じさせるものはなかったりする。RAWで撮影するときとほとんど同じくらい書き込みに時間がかかるのだが。
    ただし、このあたりが解決され、サクサクとスピーディーな操作感で、JPEGでも相応に良く撮れるとなれば、DP1に対する世間の評価、賛否両論から賛美へとも大きく変わってくることだろう。私自身についていえば、いまだに愛用しているリコーの初代GRDを放り出して、こちらを常日頃持ち歩くようになるに違いない。
    DP2は、画角が違うこともあり、DP1の後継機ではなく、姉妹機という位置付けである。しかし発売時期が1年違うだけに、そのあたりは相応の改良を加えていることを期待したい。
    41mmという画角自体、いろいろと使いやすいし、大型センサーによる背景のボケを生かすという面では、21mmのDP1よりも有利ではある。コンパクトデジカメとしては飛びぬけて金額の張るものではあるが、コアなファンの多いDP1ユーザーの中で、現在所持しているそれに加えてDP2も並行して使うという人も少なくないのではないだろうか。
    レスポンスとJPEG撮影の部分で大幅な進歩が見られたとすれば、『インドでどうだろう?この一台』の有力候補になり得るのではないかと思う。
    シグマDP2 スペシャルサイト
    DP2製品カタログ

  • 香港飯店の昼下がり

    以前、香港飯店で取り上げてみたコールカーター華僑の鐘さん兄弟が経営する食堂の話である。昼下がりのヒマそうな時間帯に、『やぁ、どうも!』と店内に入ってみると、なにやら彼ら兄弟が一人の男性と話し込んでいる。
    『古い友人がオーストリアから帰ってきたんだ』とのことである。彼もまた中華系で鐘さんたち同様、この街で生まれ育った客家人とのこと。 一見、ダージリンあたりからやってきた人か?と思ったと思わせるような印中混血の風貌と肌色ではあるが。
    彼の実家はコールカーター市内中心部のチッタランジャン通り界隈にあり、父親は大工をしているそうだ。鐘さんの香港食堂の内装はその人の手によるものだという。
    男性は20歳になる前からオーストリアに出て、いくつかの職場を転々としながら16年間、中華料理のコックとして働いてきたそうだ。『みんな私はもう二度とコールカーターに戻らないと思っていたようだし、自分自身もそう考えていた』と言う。
    インドに戻ってきたのは一時帰国というわけではなく、思うところあり、オーストリアでの生活をたたんでインドに再定着するつもりで帰ってきたとのこと。ちょうど近くを通りかかったので、旧知のこの店に顔を出してみたというわけらしい。
    年の中印紛争後、コールカーター在住の華人人口は急減し、多くは海外に出たとされるが、それ以降もより良い機会を求めての移住はなかなか盛んなようだ。沢山兄弟がいるようだが、アメリカに住んでいる者、台湾に住んでいる者、オーストラリアに住んでいる者といろいろいるらしい。今の時代、世界各地で中華系の人々の移動はますます盛んである。
    もちろんその背景には、インドでの環境の問題があり、ベターな暮らしを得ることを目的に海外に出て行く動機となっているのだが、さしあたって必要となる資金を調達できることや移住先での仕事等のツテといった、移住や出稼ぎにあたって必要な手立てを自らのネットワークを通じてちゃんと持ち合わせているのはたいしたものだ。
    男性の兄弟でオーストラリアや移住した人、台湾に住んでいる人がいるということだし、この店の経営者である鐘さんの姉だか妹だかもカナダに住んでいる。その子供たちが、たまにコールカーターを訪問することがあるそうだ。
    『でもインドでの様子には馴染めないみたいだよ。あの子たちの故郷はこの街なのにね』と鐘さん。
    普段は兄弟家族同士では客家語で会話している鐘さんだが、今日はこのオーストリア帰りの男性を交えてヒンディーで話している。彼自身は中華学校で教育を受けたわけではないし、中華コミュニティにどっぷり浸かって育ったわけではないとのことで、華語よりむしろヒンディー語のほうが話しやすいそうだ。
    『まぁ、中国語も一応できるんだけど・・・』
    それにしても、本来土地の言葉であるベンガル語ではなく、ヒンディー語であるというのは、コスモポリタンのカルカッタ商業地育ちらしいところかもしれない。
    彼は、しばらく両親ところに世話になり、これからインドで何をして生計を立てていくか考えてみるとのこと。
    『焦る気はないけど、まあ何か始めてみる。いつか結婚だってしたいし』
    この香港レストランは、サダルストリートに近いことから、外国人旅行者の姿も少なくないのだが、近隣や周辺地域在住らしき華人たちの姿、インドに仕事でやってきた中国人たちの姿をよく目にする。ときにそうした彼らの話をいろいろ聞く機会を持てるのは楽しい。