ふと気が付くと、頭の奥で何か心地よい音が鳴っている。ここしばらく日に幾度となく繰り返しているのだが、頭痛や耳鳴りのような不愉快な類ものではなく、それとは真逆で実に快適なものなので、そのまま鳴るに任せている。
「何だっけ、これは?」と記憶をたどってみると、デリーに乗ってきた全日空のイメージ曲「Another Sky」であった。搭乗するときと、降りるときに流れていた気がする。
全日空はあまり利用しないので、すぐに思い出せなかったが、こんな良い曲が機内で流れるというだけでも、実に素晴らしいサービスだ。
投稿者: ogata
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Another Sky
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トリプラ州都アガルタラの空港「国際化」へ
東南アジアとの接続ということで、やがてバンコク便就航となるのだろう。アガルタラ空港の「国際化」のプロジェクトが完了する時期は示されておらず、北東インド・東南アジア間の行き来への需要がどれほどあるのかまだ判らないが、これまで世界の果てといった行き詰まり感のあった北東地域が東南アジアへの玄関口になることから、新たな時代の幕開けが期待される。また、これまで漠然と「北東地域」「North East」と一括りに呼ばれていながらも、その実この地域間での協調や連携には欠けていた部分についても、今後修正が求められることになるだろう。
すでにマニプル州のインパール空港は「国際空港」のステータスにアップグレードされており、今後の進展が注目される。マニプル州においては、ミャンマーとの国境のモレー(Moreh)を経由する陸路の輸送ルートによる人やモノの行き来の今後ますますの活発化が予想されるとともに、このモレー経由でインドからミャンマーへの鉄道接続の計画もある。
1990年代以降、減速した時期もいくつかあったが、基本的に順調な経済成長を続けてきたことによる変化の波が、ようやく北東地域にも及ぼうとしているかのようだ。近年は、隣国ミャンマーの民主化による欧米先進国を中心とした経済制裁が解除されたことも有利に作用している。これはインドの北東地域だけではなく、ミャンマー西部にとっても同様で、これらふたつの地域は互恵関係にあるといってもよい。
ただし不安材料も決して小さくない。現在においてとりわけ不安定なナガランド州においては、先行きを見通すことは困難だろう。
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ナガルジュナコンダ
ハイデラーバードを午前9時に出て、クリシュナ河を堰き止めたナガルジュナサーガルダムにより形成されたナガルジュナサーガル到着は正午を少し回ったあたり。この人造湖にある島、ナガルジュナコンダに行く船は1日往復している。ここから1時間ほどかかるらしい。できれば11時半の船で行きたかったのだが間に合わなかった。時は金なり、もう少し早く出れば良かったと反省。

ナガルジュナサーガルダム 今は湖底に沈んでいる、3世紀から4世紀にかけて存在したスリ・パルヴァタと呼ばれた土地では仏教が隆盛を極め、多数の僧院が存在するとともに、大学まであったとされる。インド各地はもとより、スリランカや中国からも仏法を学ぶために多くの人々が集まったとのことだ。そうした遺跡群がダム建設に際して、人工湖の建設により島となるナガルジュナコンダに移築されている。
船着場の近くにはホテルが数件あり、みやげ物屋や食堂などが軒を連ねている。軽い食事を済ませて、船が出る時間よりも少し前にチケット売り場で乗船券とセットになった入域料チケットを購入。

ナガルジュナサーガル ボートに乗り込んで出発を待っていると、柄の悪い手下たちの取り巻きが付いたヤクザの親分?みたいな中年男性が乗り込んできた。カービン銃を手にしている護衛までいて、なんとも物騒な雰囲気であったが、地元ではよく顔を知られている人物のようで、近くに座っている堅気の人たちに愛想よく声をかけたり、小さな子供を抱え上げて、記念写真など撮らせたりなどしている。
ずいぶん変わったヤクザもいるものだと思いきや、昨年アーンドラ・プラデーシュ州から分離したテーランガーナー州の州議会与党の議員であることがわかった。州の分離を推進した政党の議員だけあり、地元の誰もがよく見知っているらしい。農業を生業とする地主出身のようだが、支持基盤は庶民であるらしいことは、英語は得意ではない本人や彼が連れている人たちの様子から見て取れる。今日は彼の取り巻きたちへの「慰安旅行」であるそうだ。

船の中 専業のヤクザではないことはわかったので、船では親分の隣に座らせてもらう。相当酒好きな親分のようで、コーラのボトルに仕込んだウイスキーをぐいぐいやりながら、酒臭い息で
とても楽しかったという「フィリピンでのナイトライフ」とやらのお話が続く。
ナガルジュナコンダに到着 ナガルジュナサーガルの島に着いてから、博物館や周囲の小さな遺跡などを見物しながらも酒を楽しんでいる。酔うほどに声が大きくなってくるが、けっこう気配りの人物であることは、周囲の市民たちとまめに声を交わしていたり、手下たちにも使い走りみたいな若者に命じて水だの何だのを買いに行かせては配ってやっていたりしていることからも窺える。ヤクザな雰囲気とは裏腹に、なかなか気のいいオヤジさんという印象。

仏塔だが復元の状態は好ましくない 親分というものは、威張っているだけでは人はついて来ないので、なかなか大変なのだろう。最後に帰りの船へと向かう中、親分はベロンベロンになっての千鳥足で、おもむろに道端で立ち小便。その最中もカービン銃を手にした二人のSPたちは、きちんとポジションを取って周囲に目を光らせている。この人たちだけは、他の取り巻きの柄の悪い兄さん、オヂサンたちとは一線を画すプロフェッショナルな態度であった。
乗ってきたボートは、島で1時間強ほど停泊した後に、ふたたび湖の岸辺まで折り返す。遺跡は島内の各地に散在しているようで、着いてから最初に博物館を見学した後には、遠くまで足を伸ばす時間は残されていなかった。
移動の足の不便なところでは、早めに計画、早めの時間帯に出発することが肝要である。
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バングラデシュからのヒンドゥー移民に市民権をという主張について
隣国バングラデシュから経済的な理由からインドへ不法な移住を図る人々の流れは絶えず、常に政治問題となっている。
北海道の7割増程度の土地に約1億8千万人の人々が暮らすという人口があまりに稠密すぎるバングラデシュから雇用機会とより高い賃金を求めて、同じベンガル人が暮らす西ベンガル州、おなじくベンガル人たちが多く暮らす近隣州に出ようというのは自然なことでもあるだろう。もちろん彼らが移住する先はこれらに留まらず、インド各地の主要な商業地域や工業地域にも及ぶ。
そもそも同国が東パキスタンとして1947年にインドと分離して独立(その後1971年にパキスタンから独立して現在のバングラデシュが成立)したことが、悲劇と誤算の始まりであり、経済面・人口面での不均衡の根本でもある。
しかしながら、国家の成立には往々にしてその時代の流れに沿った必然と不条理が混じり合うものであり、その枠内で国家意識が形成されていくとともに、国民としての一体感も醸成されていくものだ。
そうした中でも、国境の向こうで異なる国籍が与えられることになった家族や親族に対して、こちら側の者はある種の憐憫の情を抱いたりすることもあれば、羨望の念を持つことも少なくない。同様に、宗教をベースとした分離の場合、ボーダーの向こう側にマイノリティとして残された、こちら側と同じ信仰を持つ者たちに対する「同胞」としての感覚には、社会で一定のシンパシーを共有することになることが少なくない。
ムスリムが大多数を占めるパキスタンにおけるヒンドゥー教徒たちの境遇については、インドでしばしば報じられるところであり、そこにも「国籍」の違いとは別次元の一体感があり、不幸にして異なる国籍を与えられることとなった「同胞」とでも言うような感情がベースにある。
さりとて、イスラームという宗教を旗印に、ムスリム主体の国家の建設を目指した東西パキスタンに対して、宗教的にニュートラルな「世俗国家」を標榜してきたインドとの決して相容れるところのない部分は、例えばカシミール地方の領有に関する両国の主張が平行線であるところにも現れる。
パキスタンと隣接する地域で、ムスリムがマジョリティであることが自国領であることが当然とすることがパキスタンの考えの根底にある。かたや宗教に拠らない世俗国家としてのインドにとっては、イスラーム教徒が多くを占めるからといってこれを隣国のものとするわけにはいかないのは当然のこととなる。現在、両国ともカシミール全域についてそれぞれ自国領であることを主張しているが、イギリスからの独立直後に勃発した第一次印パ戦争ならびに1965年の第二次印パ戦争の停戦ラインが実効支配線として、事実上の国境として機能することにより現在に至っている。
パキスタン建国に際して、多くのムスリムたちが当時の西パキスタンならびに東パキスタンへ流出するとともに、それらの地域からヒンドゥー教徒たちがインドに難民として逃れることになった。しかしそうした動きにもかかわらずインドを捨ててこれらの地域に移住することなく、あるいは経済的に移住することがならず、そのままインドに残ったムスリムたちも大勢いたわけだが、独立後はそうした人々が内政面での不安材料となることを避けるためもあり、インド政府は彼らの歓心を買うために様々な努力をする必要があったことは否定できない。ちょうど、欧州にて共産主義のソビエト連邦と隣接する地域で、高い福祉や社会保障制度が発達することとなったことと似ている部分がないでもない。
それが「世俗主義」を標榜しつつも、独立以降長年に渡って、少数派であるムスリムに譲歩する政策を継続せざるを得なかった理由でもあり、その世俗主義自体の矛盾と綻びであったとも言える。マイノリティとはいえ、規模にしてみるとの世界最大級のイスラーム教徒人口を抱えていることもあり、現実を見据えた上での選択であったはずだ。
しかしながら、このあたりが圧倒的なマジョリティを占めるヒンドゥーたちから成る社会の中での不満を醸成することになったのも事実で、宗教別に定められている民法について1980年代末あたりから、「統一民法」の制定を求める声が高まっていくこととなる。これがやがて90年代にはいわゆる「サフラン勢力」の核となるBJPに対する支持数の急速な伸張へと繋がっていく。
その後、国民会議派を中心とするイスラーム勢力や左派勢力を含む統一進歩同盟(UPA : United Progressive Alliance)とBJPがリードする保守から中道あたりの政党が集結した国民民主同盟(NDA : National Democratic Alliance)が一進一退の駆け引きを続けている。
さて、このほどインドの北東地域では、隣国バングラデシュからの不法移民について、バングラデシュから来たヒンドゥー教徒に対して市民権を与えるべきだと唱えるBJPに対して、国民会議派はヒンドゥー、クリスチャン、仏教徒(要は非ムスリム)の移民に対して市民権付与による保護を訴えるという形で、信仰を根拠とする論争が起きている。
こうした主張はインドの独立以来の国是である世俗主義に対する挑戦であるとともに、とりわけ国民会議派については、大きな方向転換のひとつの兆しであるのかもしれないようにも思える。
同時に、インドにおけるこうした動きについて、隣国バングラデシュ国内に与えるインパクトも少なくないかもしれない。同国内人口の一割近くを占めるヒンドゥー教徒たちの取り込みと捉えることも可能であるとともに、コミュナルな対立が発生した場合に、「インドによる差し金」を示唆する口実にもなろうし、敵性国民として排斥する動きに出ることもあり得ないことではないだろう。
宗教をラインとする国家形成を経てきた国と、世俗主義を国是として歴史を刻んできた国の間で、それなりのバランスが保たれてきた中で、後者が前者と近いスタンスを取ることになることについて非常に危ういものを感じる。
インド東北部におけるこうした動きが現実のものとなるようなことがあれば、やがてインドとバングラデシュの間での国際的な問題に発展する可能性を秘めていることから、今後の進展には注目していきたい。
BJP & Congress Raring to Provide Citizenship to Hindu-B’deshi Migrants (Northeast Today)
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チェラプンジーの雨
インド各地から猛烈な熱波のニュースが伝えられるこのごろだが、北東インドではすでにプレ・モンスーンの雨が降りはじめているとのことだ。その中でも「世界で最も多雨な場所」とされるチェラプンジーの降雨量には圧倒的なものがある。下記リンク先記事をご参照願いたい。
Pre-Monsoon: Heavy rain continues over Northeast India (skymet)
ベンガル湾から吹き上がって来る風が、ちょうど入江に集まる波のような具合に、北のヒマラヤ山脈と東のアラカン山脈に挟まれた行き止まりに衝突するのがインド北東部。当然、非常に多雨なエリアであるのだが、とりわけチェラプンジーにおいては、ちょっと想像もできないような豪雨となる。

印の付いている地点がチェラプンジー モンスーンの時期の北東インド観光地は閑散としてしまうのだが、例外的にチェラプンジーにおいては、「世界一の物凄い雨を体験するために」訪れる人たちが多いと聞く。
それでも、乾季には生活用水が不足して、給水タンカー車が行き来する、ちょっと皮肉な部分もある。つまり雨期にそれほど集中して降るということの裏返しでもある。
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Maggieの危機
かつて米国系の清涼飲料水メーカーが、製品から許容度を越える農薬成分が検出されたということで、激しい批判にさらされたことがあったが、今年の5月以降、スイス系企業ネスレ社のMaggiシリーズのインスタント麺に鉛成分が含まれることが判明したとのことで、各地で次々に販売が禁止されるなど、大きな波紋を呼んでいる。
Maggi sales plummet across India (THE TIMES OF INDIA)
India withdraws Maggi noodles from shops in mounting food-safety scare (theguardian)
鉛の含有に関する許容値が0.01ppmであるところ、17ppmという高い数値であったことに加えて、成分表に記されていないMSGつまりグルタミン酸ナトリウムが多く含まれていることが明るみに出たことが今回の騒動の発端だ。
Maggiブランドのインスタントヌードルは、1982年から現在に至るまで、実に33年間に渡ってインドで親しまれてきた。インド中、どこに行っても雑貨屋や食料品店で見かけるが、手軽に作ることができることから、育ち盛りの子供の好物であったり、一人暮らしの若者たちの定番アイテムであったりもする。また、冬季には外界との陸路ルートが閉鎖となるラダック地方などでは、そうした時期の食堂でもありつくことのできる外食アイテムであるなど、非常に存在感の高いインスタント食品だ。
最近、このMaggiのインスタントヌードルのCMに何本も出演していたマードゥリー・ディクシト、以前出演したことがあるアミターブ・バッチャンやプリーティ・ズィンターといった銀幕のスターたちも、ちょっと困ったことになっているようだ。
Madhuri Dixit gets FDA notice for endorsing Maggi noodles (The Indian EXPRESS)
Court orders FIR against Amitabh, Madhuri, Preity over Maggi row (THE HINDU)
食品類の安全性は、どこの国にあっても非常に大切なものであるが、果たしてネスレがこのような状態であったとしても、他のメーカーの様々な食品、食材、調味料などはどうなのだろうか?という思いもする。加工食品だけではなく、米や野菜のような第一次産品にも不安な要素を抱えている国だ。
私たちの日本で「食の安全」と言えば、その食料のかなりの部分を輸入に依存しており、とりわけその中で中国産のものが多いことから、常々やり玉に上げられることが多いが、比較的政府の管理が行き届きやすい中国と比較して、インドがその方面で安全性が高い国であるということは決してない。
今回、たまたま外資系の大会社の全インドでポピュラーな製品が取り上げられることになったが、この騒動がどのようにして収束を見るのか、かなり関心を引かれるところである。
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Namaste Bollywood+ 43

Namaste Bollywood+ 43 日本における唯一のインドのヒンディー語映画専門誌として知られる「ナマステ・ボリウッド」は、第42号から「ナマステ・ボリウッド+」として有料版に移行、このたび発売された第43号は、新創刊第2号となる。
今号のテーマは「ボリウッドで知るイスラーム文化」である。インドにおけるイスラーム教徒は、総人口13億に迫る(12.5億)巨大な人口を抱えるこの国のマイノリティ集団だが、ここに占めるムスリム人口は1億8千万人に迫るとみられることから、インドネシアの2.5億、パキスタンの1.8億に次ぐ、世界第3位のムスリム人口大国となる。
ちなみにアラビア半島の総人口は、7千7百万人(産油国における人口統計には、出稼ぎ等の外国人の数も含まれることに多少の注意が必要)程度なので、その規模の大きさは圧倒的だ。インド・パキスタン・バングラデシュの3国のムスリム人口を合わせると、その数は4億人を越えることから、イスラーム世界のマジョリティの一角と捉えて間違いないだろう。
また、アフガニスタンやパキスタンにおけるタリバーン運動の思想的なルーツでもあるデーオバンド派が始まったのは19世紀のUnited Provinces(現在で言えば州の分離前のUP州に相当)のデーオバンドでもある。タリバーン運動とは反対に穏健な原理主義として知られ、世界各国に活動を広げるタブリーギー・ジャマアトもこのデーオバンド派から生じたものであり、南アジアおよび周辺地域におけるイスラームに関わる宗教・政治運動に与える影響は大きい。
話は映画に戻る。インドの映画界草創期から現在に至るまで、俳優や監督等の中にムスリムは多く、その他製作や配給に関わるあらゆる映画産業関係者も含めると、さらに大きなものとなる。
昨今の日本では、イスラーム圏から観光や買い物等の目的でやってくる人たちが増えてきていることから、イスラームの作法によるハラール料理への注目が高まるなど、ポジティヴな面での関心の高まりとともに、イスラーム国による日本人の拉致殺害事件からくるネガティヴなインパクトも強く、正と負の両極端なイメージが混淆している状態だ。いずれにしても自分たちとの日常とはほとんど縁のない、理解しがたい人たちというイメージが強いのではないだろうか。
そんな中でも、やはり日本の書店には「イスラムとは」「イスラム入門」「イスラム国の××」といったタイトルの書籍とともに、イスラームについての特集記事を掲載する雑誌等が数多く並ぶようになり、多くの人々が注目するようになってきていることがわかる。
こうした書籍等で取り上げられる「イスラーム世界」の多くは、アラビア半島を中心とする宗教の歴史や文化史、あるいは日本から地理的な近いインドネシアやマレーシアのムスリムの人々のことであることが多く、南アジアのイスラーム教を中心にカバーしているものはあまり多くはない。また、往々にしてムスリムの人の視点に軸足を置いた主観的な「イスラーム観」が語られているように感じる。
南アジアにおけるパキスタン、バングラデシュのようにムスリムがマジョリティを占める国では、イスラームは社会の規範であり、アイデンティティの拠りどころでもあるわけだが、反対にインドにおいては、長い歴史の中で10世紀以降から幾度も大波のように西方から押し寄せてきたイスラームの浸透は、しばしば文化的な侵略として捉えられることは少なくない。
それでも必ずしもイスラーム教は侵略や略奪とともに到来したわけではなく、建築、医療、航海術、生活様式など、当時の先端文化をインドにもたらすものでもあった。たとえイスラーム教徒でなくとも、現在のインドの人々の思考様式、生活習慣、言語等々の様々な方面でイスラームがもたらした文化と日々無縁ではいられない。
先祖代々、ムスリムの人々と隣り合わせで生きてきたため、たとえイスラーム教について批判的な人であっても、イスラームという宗教やそこから生じた思想等に関する知識は非常に豊かで、イスラーム文化への露出度や経験値の高さには測り知れないものがある。
イスラーム王朝による被支配の過去の記憶に対する、19世紀半ば以降のヒンドゥー復古思想の高まり、20世紀に入ってからは英国支配からの独立運動は、マジョリティのヒンドゥー教徒を中心としつつも世俗的な政治思想で人々を率いた国民会議派とムスリムによるムスリム国家の樹立を目指したムスリム連盟との間で深刻な対立を生み、印パ分離独立という結果を見ることとなった。
印パ分離にあたっては、双方から空前の規模の避難民が国境を越えてヒンドゥーが主体のインド側、ムスリムが大勢を占めるパキスタン側へと流入する最中で発生した暴動や虐殺等により、100万人にも及ぶとされる膨大な数の市民が命を落とすという惨事となったことは多くの人々が知るとおりだ。
こうした近代史における大きな出来事が、印パ両国間に今なお横たわる大いなる相互不信の根底にあり、同じくインドにおけるイスラーム教徒、パキスタンにおけるヒンドゥー教徒に対する感情にも反映されて現在に至っている。
しかしながら、インドにおけるイスラームの伝統は今も古典音楽、歌謡、絵画等、文学の芸術分野でも脈々と受け継がれており、これらは「インドの文化」と切り離すことのできない重要な部分を成していることはもちろんのことながら、政治経済の様々な方面でも活躍するイスラーム教徒たちは非常に多い。
ときに緊張をはらんだ対立を生むことがあっても、長きに渡ってイスラーム文化から多大な影響を受けつつ、独自の文化・習慣を持つムスリムの人々と平和裏に共存共栄してきたインドという国は、「イスラーム理解の先達」と表現することができるだろう。
また、イスラーム教徒が大半を占める国ではなく、自国内に「世界最大級のムスリム人口」を抱えるインドだからこそ、イスラームとの関係においてはごく日が浅い私たちが、いかにしてムスリムの人々を理解して共存・共栄していくかということにおいて、学ぶべきことが大変多いことと思われる。それはときに反面教師的なものであったりすることも少なくないかもしれない。決していいときばかりではなく、幾多の辛く厳しい局面も体験してきた懐の深さを持つインドだからこそ、非常に有用な数々の叡智を掘り起こしていくことができるはずだ。
必ずしもムスリム自身からの観点のみではなく、イスラームの伝統や文化に造詣が深い非ムスリムによる視点、これとは反対にあまり好意的ではない意見も併せて、イスラームについて多角的に考察してみることが可能となる。複眼的な視野を持つことは、異文化理解において重要なことだ。
話は戻る。今号はインドというフィルターを通して見たイスラーム文化、イスラームという視点から切り込んだボリウッド映画という大きなテーマ。たとえ純粋に娯楽映画として製作された作品であっても、華やかなスターたちの姿、美しい映像やスリリングなストーリーといった視覚的な部分のみではなく、作品を生んだ土壌や社会文化背景まで広く理解することによって、さらに深く堪能できるのがヒンディー語映画の豊かな世界。
この号に取り上げられたイスラームに縁の深い作品を片っ端から鑑賞して、イスラーム教という宗教文化、政治性、ムスリムの人々について、硬軟織り交ぜたいろいろな側面に触れてみてはいかがだろうか。
蛇足ながら、今回テーマとなっているイスラームとは関係のない内容だが、手前味噌ながら私自身も「ボリウッド眺望紀行」と題した記事をちょこっと書かせていただいている。こちらも併せてお読みいただければ幸いである。
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炎天下のサイクルリクシャー

連日40数度で真夏のデリー。この時期、湿度は低いので木陰に入るとそれなりにしのげるのはいいが、日向で野菜や果物等を行商する人たち、工事等の肉体労働に従事する人たちは本当に大変だ。そうした中で、長いこと強い日差しに照らされてお客を待っていたり、照り返しの強い路上を進んでいったりするサイクルリクシャーもまた、なんと苛酷な仕事かと思う。「熱中症に注意しましょう」などという甘っちょろいことは言っていられない日常だ。

こうした人たちは若者ばかりではないし、総じて小柄で華奢な体格。エンジンが付いているわけではないので、ペダルを漕いだ分しか進まないし、ギアが付いているわけでもない。彼らが身体を強張らせて踏んばっている姿を後ろの客席から眺めていると、「ちょっと代わってやろうか」などと声をかけたくなったりもする。昔と違って、さすがにデリー市内のサイクルリクシャーの男たちは、身なりもずいぶん良くなった。ちょっと洒落た?シャツを着ていたり、ジーンズをはいて漕いでいたりするのだが、ランニングとルンギー姿でそうしているよりも、なおさらのこと暑苦しそうに感じられる。

これから先、まだまだ気温の高い時期は続く。その後、モンスーンがやってきたら、気温はやや下がるものの、強い雨や蒸し風呂のような空気の中での、これまた辛い日々となる。夏の暑さも冬の寒さも厳しいデリー。外で額に汗して稼ぐということはまったくもってたやすいことではない。
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マジヌー・カー・ティーラー
マジヌー・カー・ティーラーでチベット料理でも食べようと出かけてみた。
メトロのヴィダーン・サバー駅で下車して、サイクルリクシャーで少々進んだところのGurudwara Majnu Ka Tilla Sahibからアウターリングロードを少し北に進んだ道路反対側にある。

TIBETAN REFUGEE COLONYと書かれた門をくぐり、まずはチベット寺院にお参りしてから少し散策することにする。この街区だけはインド人の姿はあまり多くなく、行き交う人々の大半がチベット系の顔立ちで、インドにいることをつい忘れてしまいそうになる。

まずはチベット仏教寺院に参拝 とかく違法建築の多いデリー(デリーに限ったことではまったくないが・・・)にあっても、ことさら無秩序に大小の建物が並び、路地が極端に狭くなったり広くなったり。また、チベット仏教のお寺正面の広場以外には、空が見えるエリアはなく、規制とはまったく無縁の空間であるように見受けられる。

その割には、昔と違って小奇麗な店やレストランなどがかなり多いのは、他のバーザール地域とは異なる。そんな中の一軒に入ってみると、もう昼時を大きく回って午後3時くらいにはなっているのに、ほぼ満席に近い状態であった。


食事を終えて外に出る。ふたたびサイクルリクシャーでメトロの駅に向かう前に立ち寄ってみたYangdon’s Collectionという店では、飲み物、菓子類、女性の化粧品などとともに、マニ車などの仏具や様々なチベットグッズなども販売していた。

そんな中で少々気になったのがこの壁時計。チベット旗をモチーフにしたカラフルなもの。ショーケースから出してもらった直後に私はこれを購入していた。この店では、ときどきこのような具合にオリジナル商品を作らせては販売しているとのこと。このようなところは地域に他にいくつかあるようだ。
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NIZAMUDDIN URBAN RENEWAL INITIATIVE
久しぶりにフマユーン廟に足を踏み入れた。四半世紀ぶりくらいだと思う。デリーはしばしば訪れて、近くを通ることはしばしばあっても、中に入ってみようと思わなかった。この度はちょっと気が変わって、ごくごくそばまで来たついでに見学してみることにした。
ずいぶん見ない間に敷地内も建築物そのものも、非常にきれいに整備されるようになったのもさることながら、世界遺産(指定されたのは(1993年なので、もうふた昔以上も前のことになるが)となったことによる効果を有効に活用しているように見受けられた。
Nizamuddin Urban Renewal Initiativeというプロジェクトが実施されており、このフマユーン廟、その周辺地域のスンダル・ナーサリー、ニザームッディーン地域において、イスラームの歴史的モニュメントを保護・発展させていくため、地域の人々自身による史跡の建築の装飾を含めた伝統工芸の振興により、これを持続可能なものとしていき、雇用・就業機会の確保とともに、公衆衛生の普及等も図っていくという、いわば地域興し的な計画である。
このプロジェクトにおいて、フマユーン廟だけでなく、スンダル・ナーサリーやニザームッディーン地域の史跡等も整備されることになっている。
これに参画する官民合わせて五つの組織は、それぞれArchaeological Survey of India(ASI)、Municipal Corporation of Delhi (MCD)、Central Public Works Department (CPWD)、Aga Khan Foundation、Aga Khan Trust for Culture (AKTC)である。
同プロジェクトのホームページ上で写真やテキストで発信される情報以外にも、同サイトで公開される年報にて、様々な事業の進捗も報告されるなど、情報公開にも積極的に努めているようだ。
世界遺産を核として、地域社会の発展に貢献するとともに、その地域社会からも世界遺産の整備に働きかけていくというサイクルがすでに軌道に乗っているのか、今後そうなるように試行錯誤であるのだろうか。
いずれにしても、地域社会と遊離した、政府による一方的な史跡の整備事業ではなく、このエリアを歴史的・文化的に継続するコミュニティという位置づけで参画させていくという手法が新鮮だ。歴史的なモニュメントを含めた周辺のムスリムコミュニティにとって、これらの活動が地域の誇りとして意識されるようになれば大変喜ばしい。
世界遺産の有効な活用例として、今後長きに渡り注目していくべきプロジェクトではないかと私は思っている。
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バングラデシュ横断計画 西ベンガル州都コールカーター発、トリプラー州都アガルタラー行き直行バス運行へ
遠からず、西ベンガル州都コールカーターとトリプラー州都アガルタラーとを結ぶ直行バスが運行されることになるようだ。隣国バングラデシュを囲む位置にある北東州だが、とりわけ「本土」から見てバングラデシュの向こうに位置するトリプラー州へのアクセスがバングラデシュを横切る形で可能となることによるメリットは大きい。
これは同時に、本来ならばひとつづきの経済圏であったはずのインド東部地域にバングラデシュという他の国が成立してしまっていることの不条理さの裏返しでもある。
バングラデシュにおいても、過密すぎる人口とは裏腹に少なすぎる就業機会、乏しいインフラなどから、隣接する地域と断ち切られた形で存在する自国について、「もし印パ分離がなかったら」と思う人たちも決して少なくはないようだ。2014年おけるインドの1人当たりGDPが1,165ドルであるのに対して、バングラデシュは625ドルと、およそ半分でしかない。
パキスタンとともにインドから分離して英国からの独立を果たした東パキスタン(現在のバングラデシュ)だが、その後に高揚したベンガル人としてのナショナリズムにインディラー・ガーンディー政権下のインドがバングラデシュ成立を強力に後押しした。
いわばインドの傀儡とも表現できる形でスタートしたバングラデシュだが、その後は決してデリーの意向になびくことなく、独自の国体とナショナリズムを固持して歴史を刻んできた。
アッサムからの水運、物流は長いこと断ち切られ、歴史や言語、文化や習慣を共有する西ベンガル地域に第一次産品を大量に供給し、それと反対に工業製品の供給を受けるという分離以前には存在していた地域内の分業の機能を国境が阻害する。雇用機会やベターな賃金を求めて向こう側に出る人たちは、同じベンガル人ながらも不法移民ということになる。
これとは逆に、インド側にしてみても地域の真ん中に、あまり友好的とは言えない国が存在することにより、当然のことながらこのエリアにかかる国防費などの負担を抱えることとなる。独立以来、インド北東部が不安定であることの背景に、その地域の特色ある民族構成以外に、ベンガル北部の頼りないまでに細い回廊地域のみを経て到達できるという、地理的な要因もあるようだ。
イデオロギーによる国家の分断の悲劇は、固定された格差、域内経済の振興への足かせなどとともに今なお継続中である。コールカーターから、ひとつづきのはずのベンガル地域の北東端にあたる地域への直通バスが話題になること自体が、現状の理不尽さそのものである。
Direct Bus Between Agartala-Kolkata via Bangladesh (Northeast Today)
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ロヒンギャー難民(続き)
つい先日、「ロヒンギャー難民」と題して書いた内容の続きである。
ミャンマー国内に70万~80万人ほどが暮らすとされるロヒンギャーの人たちは、ベンガル語のチッタゴン方言を母語とする集団ということになっているが、英領時代に現在のバングラデシュを含む当時のインドとビルマ(現ミャンマー)が合邦していた時期に、農業その他の生業のため移住した人たちの子孫が多くを占めるとされる。
軍政期に隣国バングラデシュに大量に流出した時期もあったことを記憶している方も多いだろう。そのロヒンギャーの人たちが今もなお、とりわけ国際社会復帰を果たした「民主化後」のミャンマーから国外に難民として流出しているのは皮肉なことである。
対ムスリム感情の悪化もさることながら、同国での市民権を与えられない宙ぶらりんの立場が常に彼らを危機に晒し続けているともいえる。幾世代にも渡り、ミャンマーで暮らしていながらも、ミャンマー政府による「不法移民」という位置づけがなされている。
しかしながら、北海道の倍程度という国土に1億5千万人以上が住んでいるというバングラデシュ国内における人口圧力から察すると、ミャンマーと隣接するチッタゴン地域をはじめとするエリアから、ミャンマーに相当な規模の越境者たちが、バングラデシュの前身である東パキスタン、はてまた1971年のパキスタンからバングラデシュ独立後もミャンマーに相当規模の移住者があってもまったく不思議ではないという推測も可能だ。このあたりの事情について私はよく知らないし、この類のデータがミャンマー政府から公表されているのかどうかはよく知らないため、私自身の勝手な想像に過ぎない。
しかしながら、同じくバングラデシュと国境を接するインドの西ベンガル、アッサム州、トリプラ州をはじめとする東部地域に、雇用や農耕地等、要は稼ぎ口を求めてやってくる不法移民は後を絶たず、これが常に大きな社会問題、政治経済問題になっていること、ベンガル人移民が押し寄せる波は、バングラデシュ国内でもチッタゴン丘陵地域で、チャクマーと総称されるモンゴロイド系住民が居住する地域でも様々な軋轢を生んでいることなどから思えば、このような流入が相当規模あるとしても決して不思議ではない。まさにそれがゆえに、ミャンマー政府はヤカイン州周辺に定着しているベンガル系の人々をロヒンギャーと呼び、不法移民と位置付けているのかもしれない。
果たして、ミャンマー政府が言うところの不法移民(が多く含まれる)ことが事実であったとした場合、このあたりの発信力の弱さで、同国政府は実際の「悪業」以上に大きく損をしている部分があるようにも思える。さりとて、ミャンマーないしは、その前身のビルマ成立以前から居住しているロヒンギャーの人たちに市民権を与えることなく、幾世代にも渡り「違法に定住した外国人」扱いしていること、彼らが難民として周辺の国々に流出していることなどをはじめとする著しい人権侵害に対する非難から逃れることはできないのだが。







