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カテゴリー: society

  • フライトの振替 250km先から出発

    フライトの振替 250km先から出発

    グジャラート州カッチ地方の中心地ブジの町に滞在していると、夕方以降の遅い時間によく飛行機の爆音が聞こえてくる。民間機が発着する時間ではないため、おそらく軍の飛行機なのだろう・・・などと思いながら、ウトウトしているうちに眠ってしまった昨夜。

    今朝は早起きして出発準備。本日この朝7時半にチェックインとのことなので、6時50分に階下でチェックアウト。このホテルは空港までの送りをクルマでしてくれるとのことでタクシーを呼ぶ必要はない。午前7時でもまだまだ暗いのは、広大なインドの西端にいるがゆえのこと。

    空港にはまだ人影は少ないが、早く到着する分には損はない。警備の人たちの立ち話から、昨日夕方のエアインディアの便がキャンセルとなったことが判り、何故かちょっと気になる。私が利用するのはジェットエアウェイズのムンバイー行きのフライトであるが。

    預け荷物のXレイ検査機械の前で一番で待っていると次第に私の後に列が出来てくる。ジェットエアウェイズの人たちが次々に入ってきて、ようやくチェックインの始まりとなるようだ。

    ・・・と思っていたら「ロンドン行きの人は来てください」という案内があった。てっきりムンバイーからロンドンに向かう乗り継ぎ便がキャンセルとなった人たちがあるのかと思いきや、実は私が搭乗するはずのフライトがキャンセルになったとのこと。「ロンドン行きの人たち」を呼んだのは、国際線の乗る人たちを優先して振り分けようということだったようだ。

    振り分け作業も遅々たるもので、ようやく私の番となり、どうなるのかと思えば、アーメダーバードからムンバイー行きのフライトに振り替えるとのこと。クルマで空港まで送るとは言うものの、7~8時間の道のりだ。本日午後のブジからムンバイーへのフライトについて聞くと、満席のためチャンスはないとのこと。他の乗客についてもブジからの午後便に振り替えられた者はないようで、カウンターでの喧々諤々のやりとりを耳にする限りでは、誰もが他の空港からのフライトをあてがわれているようだ。

    「とにかく急ぐので」と頼むとラージコート行きのフライトとなった。これとて、ここから5~6時間くらいはかかるだろう。正午過ぎのフライトに間に合えばそれに乗れるし、それがダメだったら午後5時のものになるという。こればかりは仕方ない。ラージコート便への振替の他の乗客たちとともに、航空会社差し回しのクルマで出発する。

    つい先日、ラージコートからブジに移動したが、まさかこうして再び同じ道をたどるとは想像もしなかった。ムンバイーからのフライトを予約したとき、カッチ地方のみを見て回るつもりであったのでブジ往復で予約したのだが、ブジに到着してから思いついて、サーサンやラージコート周辺も訪れることにした私である。ラージコートに着いた時点で、ブジからムンバイーに戻るフライトをキャンセルして、ラージコートからムンバイー行きを確保すれば良かったではないか、などとも思うが、今さら仕方のないことだ。

    それにしても、フライトがキャンセルとなって、乗客全員を250km先の(ラージコート)、や400km先の(アーメダーバード)まで振替を実施したジェットエアウェイズだが、これが国営のエアインディアであれば、そのような措置はおそらくなかったことと思われるので、やはりジェットエアウェイズにしておいて良かったと思った。

    ブジを出てからしばらく経つと、クルマは大きな幹線道路に出た。カッチ地方とサウラーシュトラの境のあたりの広大な塩田と発電の巨大な風車がたくさんならんでいる景色を眺めつつ、クルマは進んでいく。ちょうどリトル・ラン・オブ・カッチのあたりである。

    カッチ地方とサウラーシュトラでは少し景色が異なるようだ。後者のほうが緑がかなり多くて畑も多いように思われる。さきほどの風力発電や塩田のあたりを境に、どちらも平坦ながらも急に風景のイメージが変わるのが面白い。ブジからラージコートに行くときにそう感じて、ラージコートからブジに帰る際にその印象を再確認した。またこうしてふたたびラージコートに向かっていてもそうなので、やはりこれでまちがいないのだろう。

    ブジを出てから4時間ほどでラージコートに到着。途中幾度も停車していくバスではなく乗用車なので、その分早かった。市街地の混雑した中をクルマが進んでいくと唐突に空港が現れた。人口規模130万人ほどの街だが、これほど中心部に近いところに滑走路があるというのは、他にあまり例がないことだろう。この時点で12時半。すでにフライトはドアを閉めたとのことで搭乗できなかった。よって午後5時のフライトとなった。

    それまでしばらくの間、他の振替え客たちとの雑談や日記書きの時間となったのだが、時間というものはいつもあれよあれよという間に過ぎてしまうものだ。やがてチェックインの時間となった。

    フライトは1時間ほどでムンバイーへ至る。広大なダーラーヴィーのスラムを眼下に見ながら着陸。こういうロケーションにあるスラムは、中国ならばとうの昔に取り壊していることだろうが、そうはならないのはインドらしいところである。

    着いて荷物を待っていると、同じジェットエアウェイズの午後便は、こちらよりも少し早く到着していたようで、乗客たちは荷物をピックアップしている。どうせならこちらにしておけば良かったのだが、こればかりはその時にならないと分からない巡り合わせなので仕方ない。キャンセルとなるとわかっていて、そのフライトを予約するわけではないのだから。

  • ゴーンダル3

    ゴーンダル3

    ナウラーカー・パレスの入口

    オートでナウラーカー・パレスに移動。こちらは前述のふたつのパレスに比べるとかなり古いが実に豪奢な造りである。オーチャード・パレスでもそうだったが、ここでも自由に歩きまわることはできず係員がついて周り、いちいちカギを開けて室内の電気を付けて、という具合になる。やはり管理上の理由からであろう。ここでのコレクションは主に古い文物であったりして、あまり印象に残らなかったが、それらとはかなり異なる展示物もあった。王家の子どもたち、おそらく女の子たちのための人形がたくさんあり、これらは欧米からのものだろう。いかにも俗っぽいところが、ちょっと微笑ましくもあった。

    王女たちの人形コレクション

    「藩王の執務室」であったのだとか。

    また子どもたちのものが中心と思われるが、膨大なミニカーのコレクションもある。現在の当主はロンドン在住だが、若いころはヨーロッパでレースに出場するなど、やはりクルマ好きであったそうだまた、ここの宮殿には馬車のコレクションがあるが、これまた大変な数である。これらの車両は英国からの輸入らしい。自動車出現前からこの一族はやはりクルマ狂であったらしく、やはり血のなせる業なのだろうか。

    オーチャード・パレスの自動車コレクション同様、ナウラーカー・パレスの馬車コレクションも秀逸

    パレスの塀には無数の割れガラスが刺してある。こうした「防犯装置」は庶民のそれと特に変わるところはない。

    過去の王家の人々のポートレート

    王家の子供たちの遊戯室

    朝、宿を出る前にトーストとチャーイしか腹に入れていないので、非常に空腹である。しばらく付近を散策してからマーケットで見つけたレストランで軽食。まったくもってひどい「ピザ」だが、まあ味は悪くない。

    食事を終えて、オートでゴーンダル駅に向かう。この駅からラージコートまでは10Rsと、バス代の四分の一くらいである。本数が少ないので日々の行き来に利用するのはたいていバスだろう。だがここからラージコートに向かう列車に乗る人たちはけっこうあった。ここには一日に数本の急行も停車する。

    バクティナガル以降はガラガラの車内

    ラージコートまでの間にひとつだけバクティナガルという停車駅がある。駅だ。さきほどまでは車内はいっぱいだったが、ここで大半の乗客が降りてガラガラになった。ラージコート郊外の住宅地である。スマホの地図を表示すると、Bhaktinagar Stations Slumというのが駅の西側に表示されたが、そちらに目をやると、周囲の落ち着いた住宅地とはずいぶん環境の異なるひどい状態のスラムが広がっていた。

    ラージコートに到着。駅に表示されている主な列車の中にラメースワラム行きのものが週に2、3本あることに気が付いた。ここからだとかなり時間がかかることと思うが、かつてはメーターゲージだったはずのこちら(ラージコート)とあちら(ラメースワラム)が直接繋がったのは、インド国鉄が全国的に進められている線路幅の共通化、つまりブロードケージ化への努力のおかげである。

    インド亜大陸の鉄道は、他ならぬ大英帝国の偉大なる遺産だが、かつては幹線鉄路はブロードゲージ、支線は往々にしてメーターゲージであったことから、旅客や貨物の輸送に支障をきたすという「負の遺産」も抱えていた。大量輸送と高速化に有利なブロードゲージで統一するという、大きなコストや手間と時間のかかる作業にインド国鉄は取り組んでいる。

    ちなみに、異なるゲージ幅の鉄路への対応として、隣国バングラデシュは、これとは異なる「デュアルゲージ化」という手法で対応している。つまりひとつの軌道に三本目のレールを敷設することにより、どちらの車両も走行できるようにするというものだ。

    線路は続くよ、どこまでも 3 (indo.to)

    鉄道輸送に依存する度合が相対的に低く、低予算という面からは効率の良い手法だろう。

    〈完〉

  • ゴーンダル2

    ゴーンダル2

    ゴーンダルのもうひとつの宮殿はオーチャード・パレス。これは比較的新しい洋館である。入場料は中のいくつかの展示と写真代を含めて120Rs。王家のクルマのコレクションが大変なものであった。とにかく大きくて豪華なクルマが好きであったようで、多くはアメリカ車だ。

    職員の説明によると、どれもが今でも走ることができるコンディションに保たれているとのこと。1950年代の黄金期のアメリカ車を中心にその前後の時代のクルマやその後のものもあった。こんなにたくさんのクルマを購入して、それらすべてを頻繁に乗り回すことはなかったのではないかと思う。収集癖というものだろう。

    こうした高価なクルマをしかもこんなところまで運ばせるには相当なコストがかかったことと思う。すでに藩王国が廃止されている時代以降のものでもあるわけで、インド独立により共和国に編入されてからしばらくは政府からの年金が補償的な意味合いで支給されていたにしても、それだけ多くの蓄えがあったわけである。独立前、1930年代に王は自分の体重と同じだけの金を貧窮のために寄付したこともあるとのことだが、それにしてもそれ以上に人々から収奪していたということになる。

    宮殿中は大半が洋風である。だがラウンジ(Baithak)のみは、室内は洋風であるものの、フロアーにマットレスを敷いて、枕状のものが置かれており、いかにもインド式だ。宮殿内は、豪華絢爛というほどではないが、美しくまとめられている。ゴーンダルの宮殿は、政府に接収されていないので、また王家が今でもメンテに費用をかける余裕があるということもあるのだろうが、実に美しく保っている。これが政府のものになっているところだと、かなり悲惨というか、過去の栄華をあまり感じさせない苔むした感じであったり、すっかり日焼けしてしまったりするものだ。ふと思い出したが、2008年にネパールの王室が廃止されてから1年余り過ぎたあたりの頃、博物館として市民に開放されるようになった王宮を訪れたことがある。当時、まだ王室が放棄してから日が浅かったため、とてもいいコンディションであったが、今はどんな具合だろうか。

    ゴーンダルの旧王家の人々は、現在ロンドンでビジネスを展開していているとのことだ。その中にはホテル業もあるという。時折、ゴーンダルに戻ってくることはあるとのことで、その際には本日見学した宮殿の少し裏手にあるもう屋敷に滞在するのだそうだ。

    ここで働くスタッフについて興味深いことに気が付いた。ここで働いている人たちの多くは、藩王国時代から世襲で雇われている人たちであることだ。王家の人たちとの長年の信頼関係ということのようだ。彼らは、ここの敷地内に住居が与えられている。

    宮殿のすぐ横にはロイヤルサルーンと書かれた、王家が鉄道で移動する際に使用した専用車両が置かれている。嬉しいのは、その車内に入って見学できることだ。キッチン、シャワー室、トイレ、リビングが装備されている。これまた豪華である。こうした車両で移動したならば非常に快適で疲れることはないだろう。こういう車両は、単独で機関車に接続して独自の時間で走ったのか、既存のエクスプレスに連結したのか、質問するのをつい忘れていた。

    王室専用車のキッチン

    王室専用車のシャワー室
    王室専用車のトイレは意外なほど普通な印象

    〈続く〉

  • ゴーンダル1

    ゴーンダル1

    朝8時ごろ、ラージコートのバススタンドにから乗車する。本日の訪問先はここから頻繁にバスが通じているところなので楽だ。1時間もせずにゴーンダルに到着、スワーミー・ナーラーヤン寺院の前で下車した。

    ずいぶん新しくてキレイでお金がかかっていると思いきや、デリーやアーメダーバードのアクシャルダム寺院で知られる天下のBAPS (Bochasanwasi Shri Akshar Purushottam Swaminarayan Sanstha)の寺院であった。

    具体的にどうやって大口の集金をしているのか知らないが、詳細は知らないがインドでも宗教法人への寄付は税制上の優遇措置がなされているはずとはいえ、宗教団体がやたらと多くてライバルがとの競争も盛んな中、しかも人々の収入がほぼおしなべて低い中、確実にサクセスを重ねてどんどん立派なお寺を建てていくには、大変優秀な凄腕の敬遠手腕を持つマネジメントが必要なはずだ。そうでなければ、場末の小さなお寺で終わってしまうからだ。もっともそういうケースのほうがはるかに多いのだが。

    寺院内を見学してから鉄道駅に向かう途中、ロワーミドルクラスくらいの住宅地が続いている。道はきれいにしているし、家々も豪華ではなくどちらかといえば簡素ではあるものの、規模はそれなりで清潔そうにしている。多くの家に屋号が付いている。たいていはマートリ・クリパーとかシュリーラーム・クリパーとかいう名前。こうした屋号がつけられているのは、ここに限ったことではなく、西ベンガルでも盛んだし、インドで広くそういうものはある。しかしながら、ここのようにどこの家もがそうしたタイトルを付けている家並みというのはあまり記憶がない。

    すぐに鉄道駅に付いた。小さな駅だが、それでもプラットフォームがとても長く、駅舎も日本のそれに比べるとずいぶんと立派なのがインドの鉄道駅である。一日にそうたくさんの停車する列車はないし、貨物列車もそんなに多いようではないにもかかわらず。現在のように道路交通網が発達してくると、こうしたローカル線の存在意義はかなり薄れているかもしれない。とりあえずここに来てみた理由は、ラージコートへの帰りは鉄道にしたいと考えているので、発車時刻を確認しておきたかったからだ。16時16分出発の各駅停車があるので、それを利用することにした。

    ゴーンダル駅時刻表

    その後、歩いてリバーサイド・パレスに行く。ここはホテルにもなっているそうだが、今はちょっとした改修中であるとのことで、入ることはできなかった。今も王家の所有だという。

    リバーサイド・パレス

    その隣にある非常に見事なコロニアル建築の巨大な学校は、藩王国時代に開かれたもの。若い頃にイギリスに留学した藩王が、ロンドンのテムズ河沿いのある学校を模して建てさせたとのこと。

    〈続く〉

  • モールビーへ

    モールビーへ

    先日、ブジからラージコートに向かう途中で見かけたマニ・マンディルが気になって、モールビーの町に来た。ラージプート建築と西洋建築の混交だが、キリッと端正な佇まいが印象的だ。

    宿近くのバススタンドからモールビー行きのバスに乗り、1時間半程度の道のり。モールビーにはバススタンドがふたつある。新バススタンドはラージコートに近い側にあり、古いほうはもっと奥にある。古いほうのバススタンドで降りて、町中を回る。

    Darbar Baghの入口

    まず向かったのはダルバール・バグ。この中には入ることはできなかった。このモールビー自体が小さな藩王国の王都であったのだが、旧王家の人たちはムンバイーに住んでいて、ときどきモールビーを訪れることがあるという。また旧王族の人たちの中には現在ロンドンに住んでいる人もあるのだとか。

    すぐ左手には現在ホテルに改修されている宮殿がある。料金は7000Rsが5室、9000Rsが2室である。それぞれの部屋にVijayaba Mahal, Kesarba Mahalといった名前がついている。

    7000Rsの部屋でもさらに税金が追加されるため、 今のレートで一泊15,000円くらいになるので高いのだが、部屋の内部はいかにもパレスという、なかなかいい感じだ。こうした見事なヘリテージホテルがあるのもインドのこの地域の観光の魅力だろう。ただし、このホテルに宿泊する客がそれほど多いとは思えない。町の見どころは限られているし、宿泊するならばもっと便利な場所が選択されることだろう。

    ホテルはオープンしてから7年目とのこと。宮殿自体は築150年とのことである。今も旧王家所有だが、ホテルのマネジメントはState Hospitality Servicesという企業に委託している。館内にはHaveli Reataurantというレストランもある。

    Darbargarh Palace
    State Hospitality Services

    この宮殿ホテルの脇には、背後を流れるマッチュー河に架かる吊り橋への入口がある。元々は木でできたものであったそうだが、現在は鋼鉄のロープで吊られており、鉄製の床板が敷いてある。付近には、これまたモールビーの王家所有の宮殿のひとつであったというカレッジがある。

    それからマニ・マンディルに向かう。2001年の地震でひどく損傷したとのことで、2年前から修復中とか。外装は完了したものの、内部はあと2ヶ月かかるとのことで入場することは出来なかった。よって外からの見学のみ。2001年のカッチの大地震の際にはこのあたりでもかなり被害が出たということは聞いている。

    さて、このマニ・マンディルが落成したのは1930年年代とか。隣のラージャスターン州とともに、グジャラートでも様々な藩王国が割拠して、イギリスはそれらを通じて間接統治していたのだが、各地の藩王が競って西洋文化を吸収していた時期には、新しい建築技術やスタイルを導入して、ユニークな建物があちこちで造られている。それぞれ趣のある旧王都を訪れるのは楽しい。

    建物だけではなく、イギリス当局との協力で鉄道を敷設したところもある。もっとも自らの積極的な意思というよりも、イギリス当局による強力な要請によりということもあったのかもしれないが。イギリスが去り、インド共和国成立後には、藩王国は共和国に吸収され、藩王国が敷設した鉄道もインド国鉄に統合された。

    マニ・マンディルの敷地内に食い込む形で立地するダルガー(聖者廟)がある。これを多様性の中の調和と見るか、ムスリムによる侵食と見るかは人それぞれだろうが、少なくとも近年までは無かったはずところに新たにダルガーが出現する過程を調べてみると大変興味深い事象があるはずだ。また、こうしてマニ・マンディルの修復に多大な資金を投入して作業が進行中である中、ダルガーの存続についても様々な議論、ローカルな政治的な駆け引きなども行われていることだろう。

    マニ・マンディルの手前に立地するダルガー

    その後、ネールー・ゲートに行く。インド独立前にはLloyd’s Gateと呼ばれていた門である。本日、こうしてマニ・マンディル以外のところも見たのには、昨日ラージコートで、モールビーに住んでいるというエンジニアの人と話す機会があったからである。いくつかの見どころを彼に聞いておくことができた。モールビーは小さな町なので、かつてラージコートで多く目にすることが出来たような古い建物や町並みがけっこう残っている。

    非常に大きな鍋でチャーイを淹れている露店があった。立ち上るチャーイの芳香が鼻をくすぐり、それだけでいい気分にしてもらえる。

  • ナガランド 暴徒による性犯罪者のリンチ殺害事件の背景

    2月24日にナガランド最大の街であるディマープルで起きたナガ女性に対する暴行事件で逮捕された男性が収監される刑務所が暴徒に襲われ、この男性が外の往来に引きずり出されて殺害されるという凄惨な事件が3月6日に発生した。

    Indian ‘rapist’ who was lynched by mob who broke into prison and beat him to death had ‘offered his victim £50 to keep quiet about the attack’, she claims (MailOnline)

    メディアが掲げるヘッドラインを目にする限りでは、インドで近年増加している性犯罪に対して業を煮やした市民たちの怒りが社会の秩序と正義を求めて暴発という具合に読めるだろう。もちろんそれには間違いないのだが、もうひとつの側面がある。

    文化も人種も異なる「抑圧者」インドに長年虐げられてきたとされる鬱積とベンガルやアッサムからの移民流入に対する不満の爆発で、こちらは前述の社会秩序や正義とは大きくベクトルが異なるコミュナルなものとなる。

    今回の事件については、ディマープルでしばらく続いていた市民による抗議活動の延長線上にある。

    Protest against Feb 24 rape rattles Dimapur city (Nagaland Post)

    レイプ事件を起こした犯人はアッサム州出身のムスリム男性(2月24日の事件発生後以降しばらくはそのように伝えられていた)であった。そして被害者は地元のナガ女性。ディマープルは、ナガランドの最大都市でありながらも、州内のその他の土地と異なり、アッサム州に隣接する平地にあり、人口の相当部分がナガランド州外の平地から来た日々とであるため、まったくナガランドらしくない普遍的な「インドの街」に見える。
    そんなディマープルの刑務所に押し掛けた数千人とも言われる群衆の大半は地元ナガランドの人々であったようだ。

    ナガランド州首相は、この事件の背景にコミュナルな対立の構図があることを否定しているが、同州内のいくつかの有力な在野政治団体がこの機を利用しないことはないだろう・・・というよりも、そうした組織がこれを絶好の機会とみて、市民による抗議活動の中に活動家を合流させて扇動し、数の力に任せてこの事件を起こしたと捉えるほうが正しいことと思われる。この事件は、現在それなりの安定を手に入れたナガランド州をふたたび不安定な状況へと陥れる導火線となり得るかもしれないため、今後の進展から目を離すことができない。

    また、2月24日にこの事件が起きた際の報道では、犯人の男性は「アッサム出身のムスリム」ということになっていた。また3月6日のこの事件を受けて、アッサム州首相は、おそらくこの事件がナガランドの野党勢力中の政治団体による反ベンガル人、反アッサム人のシンボルとして利用されていることを念頭に置いて、デリーの中央政府に対する治安強化を促す発言をしている。

    殺害された性犯罪者について、いつしかナガランドポストのような地元メディア、そして全国をカバーする大手メディアでもこの男性をアッサム人ではなく「バングラデシュからの不法移民であることが疑われる者」と報じるようになっている。「外国人による犯罪」とすることにより、国内でのコミュナルな色あいを薄めようという当局の意思が反映されているのか、報道機関による自制ということなのかもしれない。あるいは隣国から不法に移住したがゆえに、逮捕された際に自らのアイデンティティーを偽っていたことが後になってから判明したということなのかもしれないが。

    Centre concerned as tensions run high in Nagaland (The Hindu)

    北東インドでコミュナルな色合いの濃い流血事件が起きると、その背景には奥深い闇が横たわっていることが多々ある。

  • ラージコート 2

    ラージコート 2

    朝6時過ぎに近くのモスクからアザーンの呼びかけが流れてくる。今日は7時まで寝ているつもりであったので、「起きるものか」と頑張ってみるが、数秒の間を置いて他のモスクからも流れてくる。互いに反響するみたいにワンワンと鳴るので、やはり目覚めてしまう。

    しばしば思うのだが、この礼拝の呼びかけについて、スピーカーで電気的に拡声した声を流すというのはいつごろから始まり、どのようにして各国に広まっていったのだろうか。その過程でその是非について宗教者たちの間で議論などはあったのだろうか。

    朝7時ごろ、部屋に朝食を頼む。移動する日には時間の節約のため朝の食事は抜いている。こうしてゆっくり食べると気持ちに余裕が出来ていいものだ。

    オートでGO!

    ガーンディーが15歳のときまで暮らしていたという彼の父親の旧家へ。ここの藩王国の宰相であったという割には意外に簡素な家である。あまり大きくもない。建物内ではガーンディーや独立運動にまつわる様々な写真を中心とした展示がなされている。

    その後、Watson Museumに行く。1880年代のイギリス人行政官のコレクションが元になっている博物館である。彼が集めたサウラーシュトラ地域の文物以外に、自然科学関係の展示もあった。だが内容としては田舎博物館という感じで、あまり見応えがあるものではない。

    しばし徒歩で市街地の古い建物を見物する。この街を前回訪れたのはもう20数年も前のことになる。当時は快適そうなテラスや手の込んだ飾り窓などが付いた伝統的なたたずまいの建物がたくさんあり、テキスタイルを中心とする商業活動は盛んながらもひなびた雰囲気があったと記憶している。だが今はずいぶん様変わりしているようだ。レンガにコンクリートや漆喰、そしてペンキで塗られた四角い建物に置き換わっている。それこそ、インドネシアでもアフリカでも、つまり世界中どこにでもある普遍的な景色になっているといえる。地域性の希薄な建物だ。

    当時、かくしゃくとしたご隠居さんであった人たちの多くはすでにこの世を去り、元気に働いていたおじさん、おばさんたちは隠居し、あのころオギャアー、オギャーと盛大に泣いていた赤ちゃんたちがバリバリとよく働く商売人、でっぷりと貫禄のあるお母さんになっていたりするのだ。それほど長い時間が経過しているのである。もはやふた昔半くらい、つまり四半世紀くらい過ぎているのだから。

    だがそんな中にも古い街並みは少し残っていた。傾斜屋根の瓦、二階に突き出た出窓やテラスであったり、面白い意匠の飾り窓であったりする。なかなかいい感じだ。ただし、多くは残念なコンディションにあり、ところどころ崩れていたりもする。しばらく立ち話をした地元の人によると、2001年のカッチの大地震のとき、ラージコートでも相当な被害が出て、そうした古い家屋におけるダメージも相当あったとのこと。

    古くからの伝統的なスタイルの家屋は、街や地方の個性を無言のうちに主張していたものだが、そうしたものはどんどん消滅している。遅かれ早かれ、これらは街中から消滅してしまうことだろう。こうした様式で新しく今風の建材で作ってもいい感じなのではないかと思うが、そうしたものはだ見ていない。

    シンガポールやマレーシアのように、行政が主導して保存に取り組むことがなければ、こうしたものはすぐに消えてなくなってしまうであろうことは間違いない。街並み保存については、そうした措置を講じるほどの社会的な余裕があるかどうか、人々が今もそれらに愛着を抱いているか、保存にメリットを感じるかどうかによるのだろう。

    その後、サーリーを機織りしている工房へ。ここでは糸からすべて手作りで生産している。婚礼シーズンで使われるという絹のサーリーを製作中であった。糸は最初から染めてあり、その色の間隔できちんとデザインを組み上げていくという職人技の世界。オートの運転手に携帯で話をさせて場所確認して行ったのだが、普通の住宅地に見えるところなので、ここを通過しただけだったら、まさかここがそれらの工房が寄り集まっている場所であるとは気がつかないことだろう。

    通り過ぎただけでは機織職人たちのエリアとは判らないだろう。

    おそらくこれらの品物の単価が高いからであろうが、どの家もかなり立派だ。作業場はそれなりに散らかっているものの、外から家を見ると、ロワー・ミドルクラスやそれよりも少し上くらいのクラスの家に見える。かなり経済的にうまくいっているコミュニティであることが見て取れる。

    機織を見学してからしばらく徒歩で街中を散策してみる。途中、路上でハルモニウムを修理している人がいた。知的な風貌の人で、彼の名前のブランドでハルモニウムを製作しており、その顧客から依頼された修理をしているという。彼自身の作製したハルモニウムだというのだが、本当だろうか?

    〈完〉

  • ラージコート 1

    ラージコート 1

    サーサンの宿を朝7時過ぎたあたりでチェックアウトした。幹線道路に出たところで、ディーウ島近くのウナーから来てラージコートまで行く直通バスがやってきた。昨日やってきた時のように、ジュナーガルで乗り換える必要があるものとばかり思っていたので、ちょっとラッキーな気分だ。

    現在、グジャラート州営のバスは、どこもチケットは車掌が手にした電子機器からプリントアウトされるようになっている。昔のようにカバンから何種類かの金額別のチケットをちぎって渡すような具合ではない。乗車勤務が終わってからの精算も簡単なのだろう。

    サーサンからジュナーガルまでは一時間半か二時間弱くらいであった。ここまでの道の路面状態はあまり良くない。片側一車線ずつの道路で道両側に大きな木々が植えてある昔ながらの道路といった感じだ。よく茂っている場所では緑のトンネルを形成していて美しい。

    サーサン近くの湖のあたりのような、集落がほとんどないエリアでは携帯が2Gになったり圏外になったが、あとはほとんど3G環境。田舎道をバスで走っていてもフェイスブックで友人たちの動向がわかったり、書き込みをしたり、メールのチェックができたりするというのは、しばらく前には考えられなかったことだ。地元の若者たちにとっては当然のことになっていて、隣に座っている女子学生たちもスマホでいろいろやりとりしているようだった。

    昔々、インドの女の子に電話するのはなかなか大変だったもの。家の誰が出るかわからないし、とりわけお父さんが出たらとても緊張した。当然、電話することができる時間帯もごく限られてしまうなどということは当然として、家に自前の電話がないということもごく普通であったため、直接顔を合わせることが唯一の意志疎通の手段さえであったりもした。当時のソーシャルコードや環境が現在とは大きく異なることもあるが、以前は通信手段が男女交際のバリアーになっていたという部分もあるだろう。

    携帯電話の出現により、個々が自前の通信手段を持つようになり、誰が電話口に出るかわからないという不安が解消されるとともに、家族の監視の目から逃れることができるようにもなった。また、目の前で話していても相手が誰だか偽ることもできるし、時間の制約から解放されることとなった。そして通信費の大幅な下落がそれに拍車をかけることとなった。そしてスマホの爆発的な普及により、通話だけではない様々なコミュニケーションが可能となってきている。

    このような事情から、昔と違って結婚前の男女が交際することがごく容易なものとなり、同時に結婚してからの不倫なども簡単になった。親が決めた結婚のあともそれまで付き合っていた相手との交際が可能ということにもなってしまっているという部分もあるだろう。そんな家庭内でのトラブルは今ではよく耳にするものとなってしまっている。

    今では遠い昔となってしまった90年代前半までの若者たちと、現在のそれとではかなり大きな意識や行動の違いがあるのは当然のことだろう。こうしたことについては娯楽映画などを見ても内容が非常に変化していることが読み取れる。

    ラージコートに到着

    そんなことを思いながら、ジュナーガルを通過して、ラージコートに着いたのは午後1時ごろ。昨日朝にチェックアウトした同じホテルに投宿。ここは料金の割にきれいで広くて快適だ。

    料金の割に立派な感じの宿泊先

    私が宿泊するフロアーの廊下いっぱいに若者たちがいるので、何事かと思い尋ねてみた。この階の一室で、ある会社の就職試験の面接が行われているとのことだ。廊下で待っている誰もが緊張した面持ち。どこの国でも求職活動は大変だが、頑張ってほしいものだ。

    〈続く〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ4 

    サーサンギルの野生動物保護区へ4 

    サーサンの町の夕暮れ

    宿に戻ると、闇サファリを勧誘する男が来ていた。夜間閉鎖されている国立公園にバイクで乗り込み、徒歩でライオンに接近するのだという。基本料金が1,000ルピーで、ライオンに出会うことができたら、成功報酬として更に1,000ルピーだという。

    彼が曰く、大声を上げたり、駆け出したりしなければ危険はないのだという。そんなバカなことがあるだろうか。町中の夜間、野犬集団に囲まれても大変危険であったりするのに、大型肉食獣のライオンがそんなにおとなしいはずがない。

    「夜10時出発だがどうだ?」などと言う。

    おそらく、彼は客引きで、国立公園内の集落の住民が手引きするのではないかと想像したりする。ともあれ、たとえ間近にライオンを目撃することが出来ても、彼らのエサになるのは御免なので、当然お断りである。

    闇サファリの客引きを追い返して部屋に戻る

    〈完〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ2 

    サーサンギルの野生動物保護区へ2 

    朝目覚めてすぐに部屋に簡単な朝食を頼む。これをそそくさと済ませて宿をチェックアウト。近くにあるバススタンドの外から出るマイクロバスにて、ジュナーガルに向かう。ラージコートから3時間ほどで到着。プライベートバスはバススタンドまで行かなかった。下ろされたところから乗り合いオートでサーサンギル行きのバスが出る交差点まで向かう。

    さきほどラージコートから乗ってきたものと同じようなマイクロバスが現れて、これがサーサン行きであるとのこと。乗り込んでからしばらくは席がなくて立っていたが、ようやく何人か降りたので座ることができた。

    グジャラートは乗り物の中が混雑していても殺伐としていないのがいい。大声で言い合う人たちもいないし、人々がちゃんとしているという印象を受ける。ジュナーガルから乗ってきたバスの乗客、そして沿道にもスィッディーと呼ばれるアフロ系の人たちの姿がときおり見られるのは、いかにもカティアーワル半島の南側に来ているという感じがする。

    アラビアやアフリカ方面との海上交易が盛んであった地域であるがゆえに、黒人系インド人たちの姿がある。ディーウを領有したポルトガルによる部分も大きいようだ。今はインドの中の田舎となっているとはいえ、かつては大海原を越えての大きなスケールで人やモノの移動があったことを思い起こされてくれる。またこの地域が西方から見たインドの海の玄関口であったことも。

    さて、ジュナーガルから2時間ほどでサーサンに着くことになるのだが、そのしばらく手前で湖があり、景色を楽しむことができた。サーサンの町は小さいのだが、国立公園があるため、やたらと沢山の宿があるようだ。これならば予約しなくても宿泊できたのではないかと思うが、バスを降りたところで、昨夜宿泊したラージコートから予約しておいた宿に携帯で電話をかけてみる。ほどなく宿の主人のニティンさんがバイクで迎えに来てくれた。

    〈続く〉

  • サーサンギルの野生動物保護区へ1

    サーサンギルの野生動物保護区へ1

    今回のグジャラート訪問では予定していなかったのだが、ふと思い立って、サーサンギルの野生動物保護区を訪れたくなった。アジア最後の野生ライオンが棲息していることで知られる国立公園だ。

    ブジを出発

    ブジのバススタンドからラージコート行きのバスに乗り込むとほどなく出発した。隣にはブジに暮らすおしゃべりな青年。ひじょうに英語が流暢だが、すでに修士まで取得していて、現在はPHDをやっているらしい。同時にビジネスの関係の学校で講師もしているとのこと。非常に快活で頭脳もシャープそうで、いかにも前途洋洋という感じのする人だ。

    ガンディーダムを過ぎたあたりからだろうか、非常に良い道路を走っていることに気がついた。片側三車線くらいある。高速道路のような感じで舗装の状態も極上である。さすがにグジャラートは道路の質がいい。

    塩田が広がる
    風力発電の巨大な風車

    カッチ小湿原の地域に入ると道路の両側に塩田や巨大な風車が回転する風力発電機が無数に見える。このあたりを通過すると、カッチ地方を出ることになるわけだが、緑や耕作地も目に見えて増えて、何か大きな境界を通過したような気分になる。

    当然のことながら休憩地で降りる際に自分のバスの確認は大切

    国道8号線を進んできたわけだが、ちょうどカッチ地方を出たあたりのバススタンドで小休止のとき、大変うっかりしていて危うく荷物を失うところであった。車外にビスケット買いに出たのだが、バスがクラクション鳴らして出発を知らせたため、慌てて乗り込むと私のバスではなかった。政府のバスはどれも同じに見えるため注意が必要だ。その隣のバスも出発を知らせていたので、こちらだと乗り込むが、これまた違う。私のバスはその2台横であった。

    私のバスは幸いなことに出発までまだ少し時間があったから良かったものの、ほぼ同時に出ていたりしたら、バックパックとサヨナラしてしまうところであった。自分が乗ってきたバスがどれかよく記憶しておくのは基本中の基本だが、こんなことは初めてだ。気を引き締めよう。

    ブジからラージコート到着まで約7時間。そのままサーサンギルまで向かうには少々遅くなっていたので、翌日朝早く発つことにしてラージコートのバススタンド近くの宿にチェックインした。車内でビスケットをかじったくらいで、朝から食事をしていないため、かなりくたびれた。

    ラージコートの宿

    〈続く〉

  • カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    カッチ地方西部4 〈ラクパト〉

    港湾都市として栄えたラクパトを囲む城壁
    ラクパトの入口のひとつ

    コーテーシュワルから今度は北方向に向かう。このあたりまで来ると途中に集落は見かけない。しばらく走ると、40km位だろうか、やがて壮大な城壁のようなものが見えてきた。これがラクパトである。その威容に思わず息を飲む。長大な壁にしつらえられた門をくぐったところに小さなグルドワラーがあった。

    ラクパトのグルドワラー。スィク教の開祖、グル・ナーナクが中東方面に赴く際に立ち寄り、このラクパトから船出をしたということに因んで建てられたもの。グルドワラーのランガルで温かい食事をいただく。どこから来た人でも、どんな信条の人でもウェルカムな姿勢がありがたい。

    グルドワラーから少し西に向かうと小さな集落がある。今の時代にここで暮らしている人たちは、かつて繁栄したラクパトの時代から住んでいる子孫なのか、それとも衰退後に外から移住してきた人たちなのかはわからない。

    グルドワラー
    グルドワラー内部

    ラクパトを囲む7kmに及ぶ要塞のような外壁と外に通じるこれまた巨大な門構えから、港湾都市として、この地域の交易の中心のひとつとして栄えた過去を思わせるに充分以上の貫禄がある。

    スーフィーの聖者の墓
    スーフィー聖者の祝福により様々な色に変わったとの伝承がある池

    今では小さな村にわずかな住民たちが暮らしているだけだが、精緻な飾りが施されたモスクやスーフィーの聖人の墓やダルガーの存在から、ここに集積された富は相当なものであったはず。外壁に囲まれた内側だけではなく、外側にも人々の家や耕作地などが広がっていたことだろう。聖者の墓の前には小さな池があるが、その聖者の祝福により、池は様々な色に変わったという伝承があるとのこと。

    こちらもイスラームの聖者を祀るダルガー

    周期的にやってくるカッチ地方の巨大地震のひとつ、1819年に起きたそれは、ここを流れていたインダス河支流のコースを変えたことから、港湾都市としての機能を削いでしまうこととなり、急速に衰退へと向かう。えて当時、この地域の他の港町の台頭がそれに追い討ちをかけたという面もあるかと思う。

    ラクパトの周囲を取り囲む城壁内部
    Rann of KutchのKori Creekに面している。

    城壁に上ると海水と淡水が混じる広大な湿原が見える。Rann of Kutchの中のKori Creekと呼ばれる部分である。はるか彼方は見えないが、パーキスターンなのである。印パ間の係争地帯でもあるKori Creekの無人地帯が緩衝地帯として機能しているのだろう。

    ラクパトからは一路ブジへ。ラクパトへのパーミットはブジの町の警察署で取得したものの、行きも帰りもそれを提示するように求められることはなかった。しかしながらもし検問で引っかかったら困るので、やはり必ず取得すべきである。今回、私はクルマをチャーターしてナラヤン・サローワル、コーテーシュワル、ラクパトを訪れた。公共バスで行くと、本数と出発時間等の関係により、ナラヤン・サローワルとラクパトでそれぞれ一泊することになってしまう。

    辺境にあたる地域とはいえ、今日通った道路は非常によかった。軍用の目的もあるのかもしれないし、ここが先進州であることの証かもしれない。

    道路状況は良好

    〈完〉