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  • パキスタン・バザールと桜チャリティバザールともに中止

     3月26日(土)と27日(日)に東京都渋谷区の代々木公園での開催が予定されていたパキスタン・バザールと4月上旬に同千代田区にある在日インド大使館敷地中にて予定されていた桜チャリティバザールが、ともに中止となった。 

    桜の開花も間近で、少しずつ春らしくなってきているこの時期、今年の屋外イベントのシーズンに入ろうかというあたりではあるものの、先の震災の関係のため他にもこうした決断をした催しものはいろいろあったようだし、今後もこうしたイベントの中止や延期等が続くことと思われる。 

    中止された催し物それぞれに独自の理由があるのだろうが、仮にこういう時期なので開催を手控えるという風潮だからという、『今の空気』による後ろ向きの姿勢によるものであるとすれば、ちょっと危ういものを感じる。 

    開催が危ぶまれていた春のセンバツ高校野球についても、その実施が最終決定された際には、残念なことに「何もこんな時期にしなくたって」という街の声も少なからずあったようだ。 

    殻の中に閉じこもっていても何も始まらない。こういう時期に世間を覆う重苦しい空気を追い払うべく、人々が元気に動くことは良いことだ。イベントでもスポーツでも何でもいい。そうした機会を利用して被災地支援の輪を広げるという積極的な取り組みがあってもいいだろう。人々が前向きな姿勢でいてこそ、ニッポンは再び元気を取り戻すことができることと思う。

  • 地震・津波そして原発 2

    地震・津波そして原発 2

     現在、東日本の多くの地域が輪番による計画停電の対象となっている。買い占め等により、生活物資やガソリン等の供給に支障が生じている。沖縄県の友人によると、彼が住んでいる石垣島でもスーパーマーケットの棚からインスタントラーメンが姿を消したとのことだ。 

    被災地に立地していた工場からの供給や交通の途絶という部分もあるが、多くは一時的に需要が極端に膨張したことに対して供給が追いつかないことによるものであることから、時間とともに解消していくはずだ。 

    電力不足のため、鉄道も便数を減らして運行している。商店も夕方早く店じまいするところが多くなっており、企業その他も普段よりもかなり早い時間に職員を帰宅させるようになっている。 

    このたびの震災により、身内の安否を心配したり、家にいる時間が長くなったりしたことにより、家族との絆、自分にとって一番大切なものは何であるかに気付かされたという人は少なくないことと思われる。 

    今回の災害に関する一連の報道において『未曾有』『想定外』という表現が頻出しているが、そもそも気象その他に観測史というものは決して長くないし、数十年という短いスパンの生涯を送る人間と違い、地球のそれは比較にならないほど長い。そのため自然界で起きる事象について、私たち人間が知らないことはあまりにも多い。ゆえに『想像を絶する』現象は今後もしばしば起きるはずだ。 

    普段は『あって当たり前』であった電力の供給が不足することにより、被災地でなくとも交通や物流等で大きな混乱を生じることとなっている。被災地の外であっても、東日本地域で暮らしていれば、ここしばらくは今回の地震による影響を忘れることは片時もないだろう。 

    今回の地震にから教訓を得て、新たな天変地異に備える心構えは大切だし、災害により強い街づくりも必要だが、これを機に私たちの暮らしのありかたを見直す必要もあるのではないかと思っている。生活や仕事のインフラがいかに脆弱なものであるかということが明らかになるとともに、これまで『地震に強い』『絶対に安全である』とされてきたものへの信頼感は完全に崩壊してしまった。 

    同時に日本という国への信用という点でも大きく傷ついたことは否定できない。良好な治安状況は変わらないにしても、地震という固有のカントリーリスクが今後さらに重く意識されることになる。 

    ただでさえ危機的状況にある国の財政事情だが、これからは甚大な被害を出した地域への復興支援という重圧がのしかかる。これを機に衰退してしまうということはないにしても、将来へ明るい展望を抱くことができるようになるには、当分時間がかかりそうだ。 

    だがここが私たちの国である。不幸にも被災された方々に手を差し伸べることができなくとも、何か自分のできることを行ないたいし、同様に日本人である自分たちが日々取り組んでいる仕事が、間接的ではあるものの何がしかの形でこの国の復興に貢献していると信じて一日、一日を大切に過ごしていきたいものだ。 

    <完>

    ※サートパダー2は後日掲載します。

  • 地震・津波そして原発 1

    地震・津波そして原発 1

    このたびの地震による災害により亡くなられた方々にお悔やみ申し上げるとともに、被害に遭われた方々の一日も早い回復と被災地の復興を切に願いたい。 

    未曾有の災害を引き起こした巨大地震、震源地は東北地方の沖合であったことから、言うまでもなく地震そのものによる建物の倒壊等の被害はさほどでもなかったようだが、その後この地域の太平洋沿岸を襲った大津波が主たる原因である。もちろんそれを引き起こしたのが、複数の震源地が連動する形で起きた巨大地震だ。 

    地震発生当初は、電話等の通信手段の途絶、交通の遮断等により、被災地の様子がよくわからなかったものの、やがて現地から刻々と伝えられる情報から、地震大国日本であってもこれまで経験したことのない規模の災害であることがわかってくるまで時間はかからなかった。 

    被災前の福島第一原子力発電所

    そのあたりまでは被災地の状況、被害者の現況等々に集中的にスポットが当たっていたのだが、まもなく福島県の原子力発電所が危機的状況であることが明らかになるにつれ、こちらに軸足を移した報道が多くなってきた。 

    やや押さえたトーンで伝えていた日本国内のメディアと違い、とりわけ日本国外のメディアの中でとりわけ影響力の大きなものが率直な意見を述べると、原発事故関係の報道は一気に加熱した。 

    日本語による報道でも『東日本大震災』であったり『東北・関東大震災」であったりと一定していないが、海外への伝わり方は報道や単なる伝聞を含めてさらに混乱している模様。メディアといっても、その質や信頼性は様々であるため、流言蜚語の類も少なからず見られた。インターネットの掲示板等による伝聞ともなるとなおさらのことだ。とりわけ地震発生直後、そして原発の異常が伝えられた直後には、ずいぶん飛躍した噂の類が広く流布したケースもあったようだ。 

    そんなわけで、ある国々では日本の東北地方太平洋沿岸で起きた地震と津波の災害について『東京に大津波来襲、市街地大半壊滅状態』とか、原子力発電所の建屋の中で水素爆発が起きたことについて、日本国外では『自衛隊基地に格納されていた水素爆弾の破裂により大惨事』といった、事実と異なる認識をした人も少なくないことに気がついた。その後、様々なソースから現状が伝えられることにより、そうした明らかに誤りである伝聞を信じている人はほとんどいなくなっているはずだが。 

    確かに地震の規模や津波被害、そして大地震が連鎖するかのように長野県、静岡県で異なる震源による大きな揺れを記録するなど不穏な状況にあるが、それよりもかなり高いレベルの放射能漏出と、立て続けにあまりにも多くの不安材料が表出したことが重く受け止められているようだ。これに対する各国の対応、在日外国人たちの反応も素早かった。

    在京のドイツ大使館が機能の大半を大阪・神戸の領事館に一時的に移転させたように、西日本の都市に大使館業務を『疎開』させた国はすでにいくつもある。また在日の自国民に退去勧告を出したり、帰国のためのチャーター便を用意したりした国も多い。アラブ首長国連邦、サウジアラビア、タイ等から政府派遣留学生として日本に来ている学生たちにも早々に帰国指示が出て、多くはすでに自国に戻っている。 

    外資系企業では、社員を国外や西日本方面に退避させたり、自宅勤務させたりしているところもかなり出てきている。また日本に出稼ぎに来ている外国人たちについても、相当数が急いで出国したり、今後速やかに帰国することを予定したりしているようだ。そうした人々の多くは、チケット代金に糸目を付けず、席が確保できるならば何でもと買い求めるケースも少なくないと伝えられることから、彼らの緊張感がうかがわれる。 

    もちろん放射能漏れに対する認識や考え方による相違はある。だが一昨年の新型インフルエンザ流行初期における日本国内の激しい動揺ぶりを思い起こせば、もし同様の事故が他国で起きたとすれば、日本政府はその土地に在留する邦人たちに対する『速やかな国外退去』へと動くことは間違いない。ただ今回はその事故が日本国内で起きた。それがゆえに逃げようにも行く先がないため、抑制した反応をするしかないというのが正直なところだろう。 

    これまで『安全である』とされてきた日本。国土や周辺地域に多数の活断層を抱える地震の巣のような面があるため、ときおり大きな地震が発生して局地的に相当規模の被害を出すことは珍しくなかった。それでも今回のように外国人住民たちが大挙して国外へ脱出するような『危険な状態』と認識されるようなことが起きるなどとは、想像しがたいものであった。

    現在、様々な国々で日本から輸出される食品について、放射能汚染の検査が実施されるようになっている。

    Radiation checks stepped up on Japanese food imports (asahi.com) 

    同様に日本から到着する旅客についても同様にチェックがなされるようになっているところが多い。そうした中でやはり検出される放射線レベルが高い乗客が見つかっている。 

    Radiation trace found on Japan air passengers to S.Korea (REUTERS) 

    Tokyo passengers trigger off radiation detectors at Chicago airport (YAHOO ! NEWS)

    今のところ公衆衛生に支障を来たすような数値が検出された乗客の存在は認められていないものの、そうしたケースが生じた場合にどういう対応がなされるのかはよくわからない。 

    インドでもすでにデリーならびにチェンナイの国際空港にて、日本からの乗客や荷物に対する放射線のモニターが開始されている。 

    Radiation counter opens at airport but yet to hear a bleep (THE TIMES OF INDIA) 

    そうした中、ムンバイーの国際空港はこれに関する対応が遅れていることを憂慮する記事もあった。

    Is city exposed to radiation? (MID DAY) 

    被爆した人物と接触することにより、どれほどの影響があるのかはよくわからないが、人の行き来はさておき、今後は世界各地で日本製品・産品に対する買い控え等の影響が出ることは想像に難くない。 また日本から帰国したインド人の談話を掲載したメディアもある。

    Nightmare in Tokyo: Indians tell tales of horror (Hindustan Times) 

    またフェイスブック等でも、このたびの一連の騒動の中で帰国あるいは第三国へに出た人たちによるコメント等が書き込まれているのを目にすることができる。

    今回の一連の騒動を受けて、各国で原子力発電事業そのものを見直そうという動きさえ出ている。インドでも同様の懸念の声が一部から上がっている。 

    Japan nuclear meltdown raises concerns in India (ZEE NEWS)

    原子力発電所における地震や津波による被災と同様に懸念されるのは、テロあるいは他国による攻撃といった人為的なファクターだろう。たとえそれにより最悪の事態を引き起こすことがなくても、その国のイメージを著しく損ない、大きな社会不安を引き起こす。 

    2001年にアメリカで起きた同時多発テロでの標的がツインタワーやペンタゴンではなく、原子力発電所であったとすれば、また違った次元の恐怖を引き起こすことになったはずだ。

    <続く>

    ※サートパダー2は後日掲載します。

  • SCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)のトライバル博物館

    SCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)のトライバル博物館

     先日、コーラープトでジャガンナート寺院関係の団体が運営しているトライバル博物館について触れてみたが、オリッサ州の部族に関する博物館といえば、ブバネーシュワルにあるものが秀逸である。 

    ここはSCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)という、指定カーストと指定部族の人々に関する民族学的な見地による研究ならびに各コミュニティの社会的・経済的な発展等を図るといった活動をする機関によって運営されている。 

    敷地内は研究施設、博物館、実物大の各部族の家屋の屋外展示などからなる。指定カースト・指定部族に関わるワークショップや会議なども活発に開催しているようだ。ブバネーシュワル郊外のCRPスクエアというエリアにある。 

    入場料は無料、展示物は見応えがあり、しかも各コーナーで専属のスタッフたちが詳細な説明をしてくれるうえに、こちらから投げかける様々な質問にも丁寧に答えてくれる。だが休日であってもガラガラだ。訪問者は必ず入口で記帳することになっているが、一日に訪れる人数は一桁だったりする。テーマがテーマだけに、多くのインド人たちの興味の対象外であろうことは想像に難くない。 

    館内には四つの大展示室があり、中庭には各部族の信仰の祭壇がしつらえてある。戦術にとおり、建物の裏手には主要なマイノリティの家屋が再現されている。館内は撮影禁止であるのが惜しい。 

    詳細に説明してくれるスタッフたちは、この機関で調査・研究をしている若手のリサーチャーたちである。この中には自身が指定部族の出身という人も少なくないようだ。 

    部族の人たちの地位向上とともに言語や文化の保存に力を入れているこの機関としては、彼らの経済水準の向上も目指しているものの、彼らが「オリッサ人化」「インド人化」されることなく、自身が誇りを持って民族の伝統や価値観を維持することを目指しているとのことである。 

    そのために特に女性の地位向上のために伝統的な手工芸品を振興させているという。各民族の文様の意味等をまさにその人々に理解させ、同時にそれを商品化することにより、市街地でのマーケットにそれらの品物が並ぶようにして、現金収入を得る、ともに民族の伝統や価値に目覚めてもらうというようなプロジェクトも展開しているのだとか。 

    留保制度により、政府職員となる人もあれば、大学等に進学したりする部族の人々も多くなってきているそうだ。さらには地域の政治に進出する人もかなり出ているようで、まだまだ厳しい環境にある人が大半であるものの、確実に変わりつつあるとのこと。

    『私なんかもその一例ですよ。こういう機関で部族の人々についてリサーチする専門家になっているのですから』と、コーヤー族出身のスタッフの一人はにこやかに語る。 

    オリッサ西部は丘陵地が多いが、地形は決して急峻なものではない。それらの地域の高度だってさほどではないのに、他の地域と較べて格段に多くのマイリノティコミュニティ、しかも独特な文化を持つ人たちが存在してきた。 

    ひとつの理由はやはり人口密度が比較的希薄であったこと、そして経済的に後進地であったこともあり、地域に道路が引かれたのはだいぶ時代が下ってからのことらしい。それ以前は部族地域においては外部との行き来があまりなかったため、そうした民族や文化が維持されてきたとのことだ。 

    2001年のセンサスに基づけば、総人口の22%、人数にして81,45 lakhsもの人々が部族。実に62ものトライバルが住んでおり、そのうち13の部族はPTGs (Primitive Tribal Groups)というカテゴリーのものである。 

    だが部族の人々の大半は、ヒンドゥー文化と無縁の存在であったわけではなく、その外縁部に位置づけされる。しかしクリスチャンの宣教活動も盛んで改宗者も多いことから、そうした部分で衝突がしばしばあるとのがこの地域である。 

    比較的近い時代まで、部族の人々の間で生贄に習慣があったとのこと。他の村から誘拐してきた人にその晩豪勢な料理を振舞い、酒を飲ませて女性も抱かせて一晩過ごさせ、翌朝所定の生贄を捧げる場所に連れて行き、斬首あるいは刃物で突き刺すなどにより殺害して神に捧げたという。 

    今の私たちにとっては野蛮な習慣でしかないが、英領期に当時の政府がラージャスターン等でサティーの習慣を廃止させたりしたのと同様に、この地域でもこうした風習を廃止させるように動いたとのこと。それでもかなり時代が下るまで行われていたらしい。 

    ほとんどの部族社会では飲酒が盛んで、男女一緒に酒飲む習慣のある部族もあるそうだ。米や穀類から造られることが多いが、中には花から作るものもあるとのことだ。醸造酒以外に蒸留酒も造っているとのこと。 

    沢山のコミュニティがある中で、サンタル族は居住地域が最も多岐に渡り、人口規模が大きいだけではなく、豊かで開明的なコミュニティという印象を受ける。 展示品についてもかなり精緻に造られたものが多く目に付く。

    漁労に関する展示もあった。日本のハヤ採りビンに相当する仕掛けの竹細工製品、酒や水を入れるひょうたん、畑仕事で頭に被る笠といった、日本のそれとそっくりなモノがいくつかあり、とても親しみを感じた。場所はまったく違うし、互いの接触もないのだが、人々は同じものを考案して使ってきたのだ。 

    人々が金属の装身具を付けるのは、それにより身体の動きがスムースになると信じている場合、また銅や銀といったメタル類が体によい作用をもたらすと考えられている場合などがあるそうだ。彼らの装身具のデザインには、他のインドの人々の中にも相通じる柄なども多々あり、彼らが古い時代のインド文化に与えた影響、また反対にインド文化に影響されたことも少なくないことが感じられる。 

    女性の装身具、髪をまとめる長い棒状のクシのようなもの等には、ずいぶん長くて尖っているものもある。ちょっと危険ではないかと思い質問してみると、それらは山の中での護身具も兼ねているそうだ。確かに山の中では自分の身は自分で守らなくてはならない。 

    この博物館については当初あまり期待していなかったのだが、展示物の質の高さと学芸員の人たちの懇切丁寧な説明のおかげでとても興味深く見学することができた。半日くらいとってじっくり見学してもいいくらいだ。 

    オリッサ州内の部族地域を見学するならば、事前にここに立ち寄っていろいろ予備知識を仕入れておくと良いだろう。とにかく情報が豊富である。この団体は部族に関する出版活動も行なっている。館内で販売されている書籍等については、こちらを参照願いたい。

  • 部族の人々の木曜市 2

    部族の人々の木曜市 2

    帰り道では、さきほどの日本人グループのクルマが道路脇に停めてある。乗客である年配の人たちが木立の中に集まっているのを見かけた。私も興味を覚えて運転手に停車してもらいそこに行ってみると、ちょうど彼らはクルマに戻るところであった。

    横に太いストライプが入った民族衣装の女性たちがいる。彼らはガダバーという部族である。女性は20人くらいで、男性が5名。彼らはタブラーに近い形をした楽器を地面に置いている。

    彼らの中の親分格らしき風采の男性に声をかけてみると、毎週木曜日にオンカデリーで市場のある日、村人たちがこうして集まって、通りかかる観光客たち相手に音楽を演奏して踊りを披露しているのだという。もちろん現金収入が目的で、一回100ルピーなのだとか。 『ネパールでもそうでしょう?各地でいろんな衣装や踊りあるでしょう。ここでは私たちガダバー族のものをみなさんに披露しているんですよ』と言うからには、彼は私をネパール人だと思っているらしい。

    この人物は、彼らの中の取りまとめ役のような具合なのだろう。ある程度の教育があり、それがゆえに目先も利くため、村人たちを木曜日に集めてこういう風にして収入を得ることを画策したものと思われる。

    ただし、彼らがこうしていることを知っているガイドは帰りにここに立ち寄り、観光客たちを喜ばせて、村人たちに現金収入をもたらすのだろうが、そうと知らなければ道路から少し先の木立でそんなことをしているとは気がつかないだろう。そのあたりはこれからやり方を学んでいくのだろう。

    男性の話によれば、みんな普段は田畑で農作業をしているとのことだ。彼はけっこう正直な人で、尋ねてもいないのにこんなことを言って笑う。

    『こうした格好をしているのは、観光に来たお客さんたち相手に稼ぐためです。普段はこういう服を着ていませんがね』

    観光化されつつあるとはいえ、まだまだ素朴である。

    ここに集まっていたガダバーの女性たちは端正な風貌の人が多く、その中にとんでもない美人も幾人か見かけた。撮影を断られたため写真はないのが残念である。コーラープトの町中で野菜売りたちの中にもガダバーの人の姿があるが、この部族には見目麗しい人が多い気がする。都会の人のそれとは違う、豹のようにしなやかで凛とした野性的な美しさと力強い輝きがある・・・としては言い過ぎだろうか。

    いつごろからこうした部族民見学ツアーが静かに広がってきたのかは知らない。だが向こう5年、10年くらいでオリッサ観光のひとつの目玉となることは確実だろう。一部を除いて比較的観光資源が少ないと認識されがちなこの州だが、これだけ個性的な少数民族がかなり固まって住んでいること、定期的に開かれる市があるということは、なかなか魅力的なことである。オンカデリーの他にもチャティコーナー、クンドゥリーなどが知られている。

    おそらく今後、ロンリープラネットを初めとする旅行ガイドブックでオリッサの部族が取り上げられることが増えてくるのではないかと思う。同様に隣接州チャッティースガル州東部も同様に部族が多い地域である。

    ただしネックとなるのは、交通機関だろう。バス等の交通機関でアクセスできないため、クルマをチャーターするしかない。ある程度の人数がいればいいのだが、単独で行くとなるとかなり割高になる。開催日が異なる複数の定期市等を回るつもりならば、なおさらのことである。こうしたツアーを組む地元のオペレーターも少なくないが、メジャーな観光地を訪れるパッケージと違ってかなり高額なものとなる。

    部族の村々を訪れたり、トライバル地域でキャンプしたりといった行程も組まれていることから、なかなか面白そうではあるが、かなり経済的に余裕のある層の人たちが対象といった感じだ。

    もしかすると同時にインドの他の地方の部族たちのことについてもスポットライトが当たるようになるかもしれないが、このあたりのアーディワースィーたちは周囲の「インド社会」の影響が比較的少ないようで、その独自性また魅力なのかもしれない。

    ただしオリッサとチャッティースガル両州の部族地域は、同時にマオイストの活動が盛んでもあることには留意が必要だろう。”Koraput” “Maoist”とふたつのキーワードでGoogle検索してみるだけで、マオイストによるずいぶん沢山の事件のニュースが引っかかってくる。

    このあたりの村では稲藁を木で組んだ簡素な梁と柱の上に屋根のごとく積み上げる。そんな「東屋」の下で昼寝でもしたら気持ちよさそうだ。ゆるやかな山あいの土地で緑と豊か水にも恵まれた大地。そうした環境であるがゆえに、様々な部族の人々が自給自足の環境下で独自の暮らしを営んでくることができたのだろう。

    インドの中では後進地とされるオリッサ州の中でもとくに発展から取り残された地域とされる内陸部だが、そこで独自の生活様式を築いてきた部族たちの存在は、これとは裏腹にこの国の奥行きの深さと文化的な豊かさを感じさせるものがある。

    <完>

  • 部族の人々の木曜市 1

    部族の人々の木曜市 1

    オンカデリーという集落で定期市が開かれる日である。

    簡単な朝食を済ませて、昨日約束しておいたクルマに乗り込んで出発したのは午前8時。緑と水に恵まれた美しい丘陵地の中を通る州道をひた走る。途中の町で右折すると、そこから先はクルマ1台が通れるくらいの幅で路面もガタガタの田舎道となる。

    このあたりからは丘陵地というよりも、山道といった感じになってくる。傾斜はさほどでもないが樹木が多い。そうした中にところどころ耕作された土地が見られる。この地域を含むオリッサ州の内陸部は、インド有数のトライバル・エリアとして知られている。

    地形としては「ゆるい山間部」とでも形容しておこうか。他の地域とそれほど隔絶した世界というわけでもなさそうなのに、どうして様々な部族が多く残されているのだろうか。このエリアが発展から取り残された地域であることと、州自体の人口密度が高くないため、人口圧力もあまりないということがあるかもしれない。

    ただしオリッサ州は地下資源が有望な地域でもあり、そうした資源開発と先住民の権利との間に生じる摩擦も絶えない。近年話題になっているものとしては、インド系英国資本(ムンバイーで創立され現在本社をロンドンに置いている)の ヴェーダンタ社によるオリッサ州のニヤームギリーでの操業は、元々ここに暮らしてきたドングリヤー・コンド族に対する『迫害』ということになり、深刻な人権侵害として複数の市民団体等から告発されている。

    The Story of a Sacred Mountain (Tribal International)

    Niyamgiri and Vedanta (Environmental Protection Group, Orissa)

    運転手はオンカデリーに行くのは初めてのようで、このあたりからは途中で人に尋ねながら走っている。そうした相手の中には普通のオリッサ人もあれば、見るからに部族らしき人もある。オンカデリーに着いたのは午前11時くらいであった。コーラープトから3時間ほどかかった。

    普段は静かなごく小さなマーケットであるが、毎週木曜日だけは近隣地域から部族の人たちが大勢集まって交易する場所として知られている。オリッサ西部の部族地域ではこうした場所がいくつもあり、場所により曜日は様々なのだが、こうした形で市場が開かれているらしい。

    オンカデリーの集落の入口あたりでクルマから降りるが、通りにはずいぶん沢山の人々が集まっているのに驚かされる。その中には街中では見かけない格好をした部族の人々の姿がとても多い。ボーンダー、ガダバー、ディダイその他の部族たちである。

    弓矢を持って歩くボーンダー族男性の姿が目立つ。この部族の女性たちはカラフルなビーズをあしらった頭飾りと特徴的な衣装を着ている。皆かなり小柄である。女性たちはマーケットで自家醸造の酒を売っている。大根から造ったものと米から造ったものがある。世の中に大根から出来た酒があるとは今日初めて知った。密造酒ということになるが、少数民族の生活習慣なので、定期市ではお目こぼしなのだろう。

    ボーンダー族の男性たちにしてみれば、弓矢を身につけているということは、ちょうどスィク教徒にとってのキルパーンのように、男性としての象徴的な意味があるのだろうが、武器を手にしている男たちが酒を飲んで酔うという図には穏やかでないものがある。

    ここに来てちょっと驚いたのは、外国人のツアー客らしき人たちの姿がかなりあることだ。最初に見かけたのは5名の西洋人グループ、そして7、8名の日本人グループがいた。オリッサの部族地域についてインターネットで検索してみると、地元オリッサや外国のツアー・オペレーターによる企画ものを紹介するサイトが引っかかったりするが、このようにして訪れる人々は決して少なくないようだ。

    そのためだろう、普通に市場の眺めを撮影している分には問題ないが、特定の人物を近くで撮る(もちろん相手の同意が必要)場合、10ルピーを撮影対象の人物に渡すことが習慣になってしまっている。

    都市部において、社会の周縁部から出てきた部族の人たちは、バーザールで売られているごくありきたりの衣類を着ているものだ。作るのに手間ヒマのかかる民族衣装よりも、バーザールで購入する大量生産された安価な衣類のほうが経済的に楽だろう。

    また民族独自の衣装は、自らのアイデンティティを象徴するものではあるが、そうした『記号』的なものを見に付けることにより、インド人の大海の中では差別ないしは軽視される対象としての目印ともなり得る。

    オンカデリーのような集落の外の山々はまるごと部族社会であり、彼らの普段の生活圏内であるためだろう。まだまだ伝統的ないでたちをしている人たちが多い男性たちの間では洋服を着ている人々がかなりあるが、女性は民族衣装を着ている割合がとても高い。部族の人たちにとっては、山あいの村から『町に出る』週に一度のハレの日であるため、こうして着飾りたいということもあるのだろう。

    もちろんそういう格好で各部族の人々が集まってくるがゆえに、そうした定期市を見学するツアーが企画されていたりもするわけである。そうしたツアーでは部族の村などにも訪問するようだ。

    さらに観光化が進めば、こうした場で民族衣装を纏う動機が『観光客に撮影させて報酬を得る』という具合になっていくことも考えられる。ちょうどタイ北部の山岳少数民族でそういうケースが多いように。少なくとも前述の『撮影=10ルピー』という慣習から、これを臨時収入の手段として認識していることは間違いないだろう。

    あるいは各民族の日用品等が『伝統工芸品』として販売されるようになったり、特徴的な衣装(往々にしてオリジナルをかなりアレンジしたもの)が観光客目当てに製造・販売されるようになったりすることもあるかもしれない。

    定期市が開かれるのは、オリッサ人が主体の集落の中にあるマーケットである。そのため建物の中や常設のマーケットのスペースで商うのは、主にオリッサ人たちである。それに対して路上や空きスペースなどで、部族ごとに集まって品物を広げているのは集落の周辺地域(・・・といっても山道を数時間もかけて徒歩でやってくる人々もある)からやってきたマイノリティの人々である。

    部族の人々は、酒以外には主に村で収穫した野菜や果実といった農作物を販売している。定期市は、彼らが現金収入を上げる手段であり、同時に村では手に入れることのできない工業製品を購入する機会でもある。

    ロンリープラネットのガイドブックには『Onkadelli should only be visited with a professional guide』などと書かれていたため、一体どんなところかと思っていたが、案外普通の田舎のマーケットである。

    ただ普遍的なマーケットと視覚的に異なるのは、様々な格好をした部族の人々が大勢来ていることだ。加えて密造酒が堂々と販売され、主に部族の人々がこれをおおっぴらに酌み交わしていることだろうか。

    ただしここに集まっている部族の人々の姿をいろいろ目にしても、彼らの具体的な文化背景等が皆目わからないのはもったいない。そういう意味でやはりこの地域に精通するガイドを雇って訪れたほうがいいだろう。

    少数民族目当てで定期市を訪れる外国人客がチラホラいるため、オンカデリーのマーケットでもガイドを自称する者たちが存在する。だが彼らの知識は非常に限られたものであり、ひどくブロークンな英語(並びにその程度のヒンディー)しか使えない人たちなので、敢えて雇ってみるメリットはあまりないように思う。

    ただしこの地域の住民である彼らは、少数民族の村に囲まれたこの小さな町で生まれ育っているため、幼い頃から公立学校でそうしたマイノリティの子供たちと学校で机を並べ、また現在も日常的にそうした人々と接しているという生活環境下にあるため、近隣の民族の専門的な知識はほとんどなくても、彼らの中に知己が多く生活習慣等日常的なトピックにはけっこう詳しかったりするのだが。

    <続く>

  • コーラープト 1 近郊のコートパドへ

    コーラープト 1 近郊のコートパドへ

     列車内で目が覚めた。窓の外は起伏のある緑豊かな大地。ところどころに川が流れる田園風景が美しい。 

    ダマンジョーリーという駅では沢山のタンク車両が線路上に停車している。どれもNALCOと書かれている。National Aluminium Company Ltd.という政府系企業の略称である。 

    地域で採れるボーキサイトを原料とするアルミの生産を行なう拠点となっており、ここは丸ごと『NALOの町』であるらしい。 

    朝9時半にコーラープット着。町は駅から少し離れており、乗り合いオートを利用する。このあたりは海抜870 m前後。高原というほどでもないが、お茶の栽培ができそうな丘陵地帯である。 

    ここでの宿泊はRaj Residencyという2009年開業のホテル。まだ新しいので部屋等はきれいだが、ちゃんと手入れされているわけではない。そのため順調に『標準化』が進んでいるため、今後ずっと快適であるという保証はない。 

    客室内の照明が明るいのは助かる。日記を書く習慣があるため、机があるとないとでは効率も疲労度もずいぶん違う。だがエコノミーな宿で、室内に机があるところは案外少ないものだ。何かしら書く習慣のある人以外にはほとんど無用のものであるからだろう。 

    昼からクルマでコーターパドという町に行く。ここの町外れにある職人たちが暮らしている一角では、多くの家庭で手作りの布地を作っている。糸をつむぐところから仕事が始まり、染色から機織まですべての工程が手作業である。 

    多くは綿地だが、タサルつまり野蚕を紡いだ糸で織ったショールもあった。タサルといえば、ビハールやジャールカンドで採れるものがよく知られているが、ここオリッサでも産出しており、アーディワースィーの人たちが収穫してくるとのことだ。 

    コーラープトからジャイプルを経由して行ったが、ところどころ道がかなり悪い部分がある。ジャイプルはローマ字では新聞等でしばしばJaipurと書かれることがあるものの、概ねJeyporeと植民地時代風の綴りで書かれる、 

    <続く>

  • プリー 4   ラグラージプルへ

    プリー 4   ラグラージプルへ

     プリーからブバネーシュワル方面に向かって15キロくらいのところにあるラグラージプルという村へ。元々手工芸が盛んであったところだが、Dedicated to PeopleというNGOが活動を始めてからはその度合いがさらに高くなっているらしい。 

    アジトという30代の男性の運営による村の女性たちの地位と経済力向上を目指す団体である。彼自身はこの村の出身でプリーで大学を出た後、しばらくデリーで会計士の仕事をしていたのだという。 彼にとって都会での生活も悪くなかったが、思うところあって里帰りして2004年から開始したのがこのNGOである。

    この団体が運営するワークショップで地元の女性たちに手工芸製作技術を教えるとともに、彼女たちが生産したものを買い取っているという。運営資金の大半は、女性たちから購入した手工芸品を大口の契約先へ納入することによって得ているという。 

    同時にエコツーリズム振興のための構想も練っており、文化遺産等とはまた違った村の人々の生活を理解するためのスタディーツアーのようなもの、また環境と両立するツーリズムの創出を構想しているところだと語っていた。 

    しかしながらそうしてみると、結局普通のビジネスとしての手工芸生産と観光業といったものと何が違うのかよくわからないのだが。このラグラージプルでは似たような形で手工芸品を生産して各地に卸している業者はいくつもあるようで、実際のところ同じようなことをしているようだ。 

    ともあれ村にとっても、そこで生きる女性たちにしてみても、就労機会と現金収入の手段が増えるのは喜ばしいことであることは間違いないだろう。 

    ただしこうした「手工芸生産」基地はこの地域にとても多い。もともとそんなに良い収入になるものではなかろうし、それらの生産が増えたところで需要がそれに比例して増えていくとも思えないため、これでもって村おこしというのならば、今後かなり軌道修正が求められるのではないかと思う。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 4

    コールカーターのダヴィデの星 4

     

    ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

    元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

    内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

    ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

    ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 3

    コールカーターのダヴィデの星 3

     

    先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

    同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

    実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

    そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

    そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

    Nahoom & Sons Private Limited

    Shop No. F20, New Market 

    リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

    『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

    そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

    私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

    ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

    ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

    それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

    外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

    <続く>

  • 禁煙先進国

    世界のたいていの国で喫煙者は肩身の狭い思いをするようになっている昨今。日本の首都圏ではこんな本が売れているらしい。

    最新版 東京 喫煙所マップ  東京喫煙愛好会著 (PHP研究所)

    ISBN-10: 4569793258

    ISBN-13: 978-4569793252

    著者が『東京喫煙愛好会」となっているのも面白い。もはや喫煙という行為は、かつてのように大人の嗜みではなく、一部の好事家の変わった趣味といった具合だろうか。

    それでもまだまだ喫煙者に対して甘いという声も聞こえてくるようだ。それにタバコの価格だって他の先進国に較べてまだまだ安いではないかとも。世界で最も喫煙者に対して厳しい国はと言えば、欧米ではなく南アジアのある国のこと。ブータンでは法律上では『麻薬並み』に厳しい扱いになっている。 

    もう何年も前にヒマラヤの禁煙国として、ブータンの禁煙化について書いてみたが、それから6年以上経った今、同国で人々から尊敬される存在である僧侶が、タバコに関わる罪状で5年の実刑判決を受けたことがニュースになっている。 

    国境の町プンツォリンと接するインド側のジャイガオンで購入した噛みタバコ72パケットを密輸したというのが罪状だが、タバコで『5年間の服役』とは厳しい。 その商品とは、インドのどこの街でよく見かけるBABAブランドのものようだ。 

    Charged for handling tobacco (KUENSEL ONLINE) 

    Enforcing the ban (KUENSEL ONLINE) 

    同国ではすでにタバコの販売が禁じられており、個人的な消費目的である場合のみ外国から関税を支払い持ち込むことができるようになっている。ただし関税の支払いのレシートを保管しておかないと、タバコが見つかった場合密輸と判断されるとのこと。 

    また地域によっては条例等により、屋外や公共の場での喫煙行為自体が違法となっている場所もある。アッサム国境の町ゲレチューでは、今年1月1日から自室のみOKということだ。罰金は500 Nu(ブータン通貨ニュルタム、インドルピーと等価)だ。アッサム側の町と接しているため、市内に流通するタバコが後を絶たないため、思い切った策に出たものと思われる。 

    闇で出回るタバコといえば隣国インドから入ってくるものが大半だが、値段のほうは例えばWILLSがインドで40 Rsであるとして、ブータンにおいては首都で流通の中心地でもあるティンプーでは60~80 Nu、インド国境から遠い地域に行くと100 Nuあるいは150 NUという価格にもなるというから、喫煙者の経済的な負担も大きい。とても喫煙という行為を楽しむ環境ではない。 

    是非はともかく、禁煙環境という意味ではブータンは世界最先端にある。

    ※コールカーターのダヴィデの星 3は後日掲載します。

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>