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カテゴリー: greater india

  • 彼方のインド 1

    ピンウールィン特産のイチゴ
    ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
    1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
    その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
    開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
    ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
    同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
    またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
    鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
    ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
    ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。
    ピンウールィン駅
    同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
    カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
    その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。
    イチゴジャムも美味であった

  • ヒルステーション

    家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
    結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
    今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
    だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
    同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
    たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
    植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
    スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
    また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
    なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
    日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
    そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
    チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
    数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
    他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。

  • 背中に記したメッセージ

    先日、池袋で開催された『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』にて、揃いの黒ヴェストを着用している男性たちを見かけた。
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    東京都大田区蒲田にある礼拝所への寄付を募っている人々で、背中にURLがプリントされている。
    東京都内にあるモスクとしては、トルコ大使館が音頭を取って建設した東京ジャーミィ、パーキスターン人が中心になって運営している大塚モスク、サウジアラビア大使館関係施設であるアラブ・イスラーム学院内の広尾モスクなどがよく知られている。
    また、東武伊勢崎線沿線にデーオバンド系で、厳格な教義を持つタブリーギー・ジャマアト関係の小さなモスクや礼拝所がいくつか存在している。
    ひとくちにイスラーム教の信仰といっても、現実にはいろいろあるし、居住地や勤務先と遠く離れていては用をなさない。礼拝施設は同時に同胞たちとのコミュニケーションの場でもあるため、どれでもいいというわけにはいかないだろう。
    そのため、都心各地の繁華街で働く信徒たちが、雑居ビルの中の一室を礼拝用に借り上げていたり、雑貨屋の店舗内を近所で働く同胞たちの金曜礼拝のために提供していたりすることはよくある。
    蒲田の礼拝所は、そうした場所のひとつで主にベンガル人ムスリムたちが出資して借りている場所らしい。母国から遠く離れた彼らの信仰の場であるとともに、同胞たちとのつながりを保つためにも必要な集会施設としての機能も持ち合わせていることだろう。
    ウェブサイトにはいくつかの写真が掲載されているが、もともとは住居として作られた建物のようで、ごく限られた空間に沢山の人たちが集まっている様子がうかがえる。
    在住する年月が長くなり、集まる人数も増えてくると、それなりにしっかりとした施設を持ちたいと考えるのは当然の成り行きである。
    もちろん礼拝施設のみならず、結婚して所帯を持てばやがて子供たちも生まれてくるだろう。教育の問題もあれば、人生の通過儀礼の実施についての事柄もある。
    イスラーム的な環境の存在しない日本で信仰と日常生活の折り合いをどうつけていくかということについても考えるところいろいろあるだろう。そして誰もがいつかは死を迎えることになるが、日本で土葬が認められている場所はごく限られてもいる。
    現時点では、日本で暮らす一般的な日本人の間に彼らの声が届くことはまずないし、そうした認識を持つ人もほとんどないと思われる。日本に定住するムスリム人口が拡大していくということは、こうした問題を抱える人の数が増えていくということであり、やがて社会的に大きな発言力を持つ人も出てくることだろう。
    彼らの声がすぐそこで聞こえるくらいに大きくなってきたとき、初めて日本の人口の中で無視し得ない一角を占めるようになった彼らに対する処遇を慌てて検討することになるのではないかと思う。
    多くは日本人やその社会に対する好感と敬意を表してくれている友好的な隣人たちであり、こちらも同様に敬意と誠意を持って対応すべきであることは言うまでもない。だが果たして私たちにそうした度量や用意があるのかどうかについては、正直なところ今はまだ自信を持てない。
    これまで、少なくとも私が知る限りでは、2001年に富山県で起きた事件を除き、在日ムスリムの人々が日本の大衆の目に付くところで、私たちに訴えの声を上げた例はまずなかった。
    件の黒ヴェストの人たちが背中にウェブサイトのURLとともに記したメッセージは、今彼らが暮らしている社会に対して、理解と協力を求めるよう動きつつある兆候であるかもしれない。

  • 池袋に集うベンガルの人々

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    4月18日(日)に東京の池袋駅すぐ近くの袋西口公園にて、今年で11回目となる『カレー フェスティバル & バングラデシュ ボイシャキ メラ』が開催された。
    池袋駅にごく近いこともあり、人の出入りは大変激しかったが、会場にいる人々の姿を見渡してみると、半数近くがベンガルの人々であったようだ。
    会場のあちこちで、友人や知人たちの姿を見つけては、大げさに喜んだり、挨拶を交わしたりしてている。もともと異郷で暮らす彼ら自身が新年を祝うイベントとして始めたもののようだが、駅前広場というあけっぴろげなところで、どこの人間であれ来る者拒まずというオープンな姿勢は、彼らの多くが日本に定住し、今後もこの国を構成する一員として暮らしているというスタンスを象徴しているようだ。
    一般的に、日本に暮らすようになったバーングラーデーシュの人々といえば、ごく一部の例外を除き、バブル期以降に来日した人々がその大半を占める。日本とバーングラーデーシュの間では、観光目的の短期滞在について、ヴィザの相互免除の取り決めがあったため、ひとたび航空券の代金を負担することができれば、比較的簡単に来日できた時期があった。
    言うまでもなく、そうした人々の大半の滞日目的は物見遊山などではなく、『好景気』『円高』で注目されるようになっていた当時の日本で、とにかく仕事を得て稼ぐことであった。当時は『人手不足』と言われる時代であった。
    とりわけ特に3Kと称される職場では、仕事の担い手が足りず、バーングラーデーシュ以外にもパーキスターン、イランといった、やはり日本との間で観光査証の相互免除の措置がなされていた国々からやってきた人々が、日本人のやりたがらない仕事を肩代わりしてくれていた。
    彼らを必要とする現場は多くとも、外国人が単純労働目的で来日することを認めていないこと、在留資格の内容とは異なる目的で入国・在留している人々が多いことを重く見た行政は、そうした人々の摘発に積極的に乗り出すこととなり、また外交上でもそれらの国との間の査証相互免除を停止することとなった。
    入国の戸口が大幅に狭められることによって新規来日者が大幅に減り、既存の在留者たちの中からは、それなりに出稼ぎの目的を果たして帰国する者や摘発を受けて退去させられる者などあり、その数を漸減させていくこととなった。
    日本のバブル期に、彼らとほぼ同時にその数を急増させていたのは、ブラジルやペルーなどからやってきた日系人たちだ。バーングラーデーシュやパーキスターンなどの人々が短期滞在ヴィザで来日して就労することは非合法であったのに対して、こちらは日系人であるがゆえに在留資格『定住』が与えられるため、日本国内で仕事に従事することについて何ら問題もない。
    従前は、日系二世にまで与えられてきた『定住』の資格だが、1990年の入管法改正により、これが三世にまで認められるようになると、入国者数増に拍車がかかった。そうしたこともあり、バーングラーデーシュその他の人々が減った分、彼らがその後を占めるようになった。
    その後の景気後退により、就業機会が減ったこと、条件も悪くなったことと合わせて、在留資格上問題のある人を使用すると雇用者側にも罰則が与えられるようになった。短期滞在の資格でしかもオーバーステイという立場の人々は、日本での雇用機会から締め出されるようになっていった。
    バブルの頃にやってきた人々の大半は帰国するなり、第三国に向かうなりして、この国からいなくなってしまっているが、それでも今なお少なからず日本に定着した人たちもあった。『投資・経営』『技能』といった滞在資格を得て、日本で中古車取引や食品関係等の事業を行なうようになったり、日本人との結婚により『日本人の配偶者等』(『定住』と同じく活動に制限がない)の資格を得た人たちなどである。
    後者については、時代は違えども19世紀初頭から20世紀はじめにかけて中国から東南アジアに移住した華僑たち、また中南米に移住したラテン系の人々と共通した背景がある。
    外国へ出稼ぎに向かう人々の相当部分が20代の未婚男性であることが多い。在留国と自国を定期的に行き来できるような気楽な身分ではないこともあり、交際することになる異性、やがて人生の伴侶となる相手とは、滞在先での存在がほとんど無に近い自国の女性ではなく、現地の女性となるのはごく自然な成り行きである。
    そうしたカップルの間から生まれた、バーングラーデーシュと日本というふたつの国の血を受け継いだ二世たちは、すでに高校生くらいの年齢に達している者もあり、そろそろ社会人として、日本で世の中にデビューする人たちも出てくるだろう。
    またこれらとは異なる形でやってきた人たちの姿もある。国費(日本政府の奨学金)ないしは私費にて留学生として来日した人々である。とりわけ前者については、圧倒的に理系学生が多く、しかも修士あるいは博士といった学位まで取得することを目指す高学歴志向であることも特徴だ。
    大手通信企業、広く名前の知られた外資系IT関連企業等に職を得て活躍する人たちは多く、もちろん中には自らそうした分野で起業している例もある。
    こうした人たちの場合、自国との行き来に障害があるとすれば、経済的な要因ではなく、往々にして仕事が繁忙であることくらいであるためもあってか、少なくとも私の見知っている範囲では、自国で身内が決めた相手と結婚している例が多いようだ。
    経済的に安定しているため、自身や妻の兄弟といった身内の日本留学の便宜を図ったり、あるいは学費・生活費等丸抱えで支弁するという例も目立つ。
    バブル期に出稼ぎに来た人たちと留学生としてやってきた恵まれた立場の人たちの間で共通する点として、日本への定住志向があるようだ。すでに日本を終の棲家と定めて国籍を取得した『ベンガル系日本人』として生活している人も少なくない。
    こちらの流れからも毎年次々に日本での留学や卒業後日本国内での就業を目指して来日する人々があるとともに、新たに生まれてくる子供たちも加わり、大半は外国人学校ではなく、普通の日本の公立小学校へ入学している。
    今、日本国内でアクティヴな南アジア系の定住コミュニティといえば、こうしたバーングラーデーシュを祖国とするベンガル系の人々である。大半が日本語も堪能で、この国に対する知識も深い。日本人社会の中にどっぷり浸かって仕事や生活をしている人が多く、文字通り『日本に骨を埋める』覚悟の人々が占める割合がとても高いという点からも、将来に渡り、日本で彼らのコミュニティは発展には注目していきたい。
    コミュニティの成長とともに、母国からの人の流れは今後も活発に続いていくことだろうことから、ある時期を境に新規の流入がほぼ途絶えた中南米の日系社会とは対照的に、長きに渡ってベンガルらしさは保たれるであろうし、祖国の『伝統』や『今のトレンド』も確実に吸収したうえで、日本における生活文化が築かれるのではないかとも思われ、とても興味深いものがある。

  • 最高峰への挑戦

    世界最高峰エヴェレストの標高といえば、8,848mであると思っていたが、長きに渡りネパールと中国の間で論争が続いていたようだ。『頂上』についての定義の違いによるものであり、前者は文字通り一番高くなっている部分、雪や氷に包まれた頂がそれであり、後者によれば氷雪の下にある岩石部分こそがエヴェレストの頂であるというもの。
    8848mとは、前者の主張に沿うものであり、中国側の言い分ではそれよりも4mほど低くなるらしい。だがこのほど中国はネパールによる『8848m説』を受け入れたことにより、この論争に終止符を打ったのだという。
    Official height for Everest set (BBC NEWS South Asia)
    だが上記BBCの記事の最後にあるように、US National Geographic Societyの計測によれば、8,850mであるとのことで、まだ『標高8,848m』異論を唱える人たちはいるようだ。
    ところで、エヴェレストといえば、言うまでもなく世界最高峰であるがゆえに、ベースキャンプからの最短時間登頂、最多登頂回数、最高齢登頂等々、数々の記録が話題になる山である。
    偉大な記録の樹立は、人々の大きな喝采と祝福とともにメディアを飾ることになるが、まさに記録とは破られるためにあるという言葉のとおり、更に上を行く人物が出てきて世間を驚かせてくれるものだ。
    こうしている今、新たな記録樹立を狙いネパール入りしているアメリカ人の少年がいる。彼、ジョーダン・ロメロが目指しているのは最年少登頂記録だ。1996年7月12日生まれの13歳である。
    American boy, 13, to attempt Mount Everest climb (ABC News)
    もちろん彼は素人などではなく、近年タンザニアのキリマンジャロ、アルゼンチンのアコンカグア、アラスカのマッキンレーその他の高峰を制してきたキャリアを持つ、極めて早熟なクライマーである。

    これまで最年少記録といえば、2001年5月に16歳17日で頂上を極めたネパールのシェルパ族のテンバ・ツェリ。それを大幅に下回る年齢での登頂が成功したとしても、後にその記録を塗り替える例はなかなか出てきそうにない。
    登山家としてはあまりに低年齢すぎる子供にこうしたチャレンジをさせることについて、医学面ではもちろんのこと、倫理的に問題であると捉える意見も多い。
    私自身、ジョーダンよりもいくばくか年下の息子を持つ親としては、登頂の成否云々よりも、彼が無事に帰還することを切に願いたい。
    同時期に、インドからは16歳の少年アルン・ヴァジペィーが同じくエヴェレスト山頂を目指しており、こちらもメディアで話題になっているところだ。
    Not eyeing records, says youngest Everest challenger (The Hindu)
    ちなみに女性でエヴェレスト登頂最年少記録を保持しているのはインド人。ヒマーチャル・プラデーシュのマナーリー近郊の村に暮らすディッキー・ドルマが1993年5月に19歳35日で登頂に成功している。

  • 今年の東京での『ダヂャン』は4月11日(日)

    在日ビルマ人の方々のイベント『ダヂャン』は、今年で19回目の開催となるのだそうだ。長らく北区の飛鳥山公園で行なわれていたが、昨年から吉祥寺の井の頭公園に場所を移しての実施となっており、今年は4月11日(日)に開催されるとのことだ。
    日程については、ビルマならびに在日ビルマ人関係のウェブサイト『バダウ』の落合氏に教えていただいた。詳細は同サイトのイベント情報&報告をご参照願いたい。
    今年もまた好天に恵まれて、在日ビルマ人の方々と知り合ったり、食べ物やステージでの催し等を見物したりと、楽しい集まりとなることを願いたい。

  • 4/18(日) 池袋がミニ・バーングラーデーシュとなる日曜日

    まだひと月ほど先のことだが、今年で第11回目となる『カレーフェスティバル&バングラデシュ ボイシャキ メラ』だが、今年は4月18日(日)に東京の池袋西口公園で開催される
    『おぉ、バーングラーデーシュの人たちは、こんなに沢山住んでいたのか!?』とびっくりするくらい大勢集まるにぎやかな催しだ。
    まだ肌寒い東京だが、屋外イベントのシーズンももうすぐそこまで来ている。当日好天に恵まれることを祈りたい。

  • ストーンハウスロッジの記憶 3

    あれからずいぶん長い年月が過ぎた。ストーンハウスロッジのことなど、すっかり忘れていたのだが、今年夏にカトマンズを訪れた際にニューロード界隈に来たので、ちょっと覗いてみようと思い、あの宿へと続く路地へ足を踏み入れた。
    私の記憶が変質してしまっているのか、それともこの路地が変わったのか?道の両側の隙間なく建物が並ぶ様子は以前と同じだが、ずいぶん背の高いものに置き換わっているようだ。建物の高さもせいぜい三階建てくらい(?)であったように記憶しているが、今や五階、六階は当たり前、それ以上に大きな建物もニョキニョキ生えている。
    元々、市街地の密度が高くて狭かった空がさらに狭くなり、また狭いながらも様式や高さなど統一感のあった街並みが、まったくてんでバラバラの無秩序な空間となっている。
    この路地に限ったことではないが、他のカトマンズの路地同様、もともと人間が徒歩で通るために出来ている細い道を無理矢理走るバイクやクルマなども増えていて危なっかしい。
    その反面、様々なモノが溢れ、非常に活気のあるエリアとなっていた。人々の暮らしぶりもかなり向上していることだろう。
    ストーンハウスロッジがあった場所にたどりつくと、そこにあるのはふた周りほど大きな建物。以前ここにあった木造の建物は、こんな風に二棟が直角に寄り添う形で建っていたのだが。家電製品を扱う店や雑貨屋などが入った小ぶりな商業ビルとなっている。写真左下部分には、何故だかロッジの敷地入口にあった門柱の部分のみ、昔のたたずまいのまま残っている。当時宿泊したことのある方の中には、『ああ、そうそう・・・』と思い出す人もあるのではないかと思う。
    ストーンハウスロッジ跡地
    ストーンハウスロッジ跡地からさらに小路を奥に進むと、かつてはほとんど居宅であったエリアであったのが、すっかり商業地化していた。ネワール式の古い建物もコンクリート柱とレンガ壁の今どきのものに建て変わっている。
    辻ごとにあった祠もまたフェンスで囲まれるなど、キレイに整備されたものが目についたりする一方、他にもあったはずの祠がずいぶん減っているようであったり、神々の姿が人々からやや遠い存在になってきたような気もする。
    『ずいぶん変わったなあ』という思いともに、昔のいろんな記憶がどんどん胸の中に蘇ってくる。半ば放心状態で立ち尽くしていると、『パパ!こんなところいてもつまんないよ。どこかに行こう!』と言う息子の声で我に帰る。
    時は移ろうもの。時間の経過とともに、目に見えるもの、見えないものもどんどんカタチやありかたを変えていく。街並みも然り、自分自身の立場も然りである。安旅行者だった私は、今や子供を連れて家族旅行のオトウサンとなっているのだから。
    〈完〉

  • ストーンハウスロッジの記憶 2

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    歩くと床全体がユラユラと振動して、階段を通して上下によく音が抜ける老朽家屋、ベニヤで細分化された部屋ということもあり、足音や話し声がどの方向から来ているのかよくわからなかったりした。
    ずいぶん昔の話になるが、この宿に滞在していたとき、他の宿泊客から『帰って来る幽霊』の話を耳にした。何でも、私が宿泊したときから数年前に、この宿で亡くなった日本人客があったのだという噂だった。その人が生前に滞在していた部屋にときどき帰って来るという伝説みたいなものが流布しつつあった。
    『夜1時過ぎくらいに帰って来るんだ、奴が。この宿って11時が門限で、玄関のカギを閉めてしまうから、その後に入ってくるはずないんだよ。昨日も奴は帰って来てた。宿の人は、チェックアウトした人の部屋の掃除に使用人を寄越すくらいで、よりによって遅い時間に上がることはないって言ってた。思い出すだけで気味悪いよ。重たい足取りで、トン、トン、トン、トン・・・と上がってきて、この階の端っこの部屋のドアを開けて入るんだ』
    彼が言うには、隣室には他の旅行者が泊まっているため『霊が帰って来る』のはその脇の部屋に違いないのだという。
    『昨日も、奴が帰ってきてから、ちょっと怖かったけど、確かめるためにドアの外に出てみたんだ。するとあのドアは、外から南京錠がかかっていた・・・』
    こちらもちょっと背筋が寒くなる思いがした。私が滞在する部屋ちょうど真下に、幽霊が帰って来るなんて、気分のいい話ではない。
    ひとつ下のドミトリーに宿泊していた男性も彼の言葉を裏付けた。
    『昨日、ちょうどそのあたりの時間だろうな。寝ていたけれども階段を上る音がしていたこと、その後ドアがバタンと閉まる音も耳にしたよ』
    『昔いた場所に帰って来るってのは、アンタ、そりゃ地縛霊だよ。タチの悪いのもあるって言うから気をつけてね』などと、したり顔で無責任なことを言う者もあった。
    そんな怪談じみた話がしばし続いてから『そろそろ夕食に行こう』ということになり、数人で近所の食堂に出かける。部屋に戻ってからも、ドミトリーに顔を出して、そこに滞在している人たちと、ひとしきり話していると、いつの間にか夜は更けて午後11時。
    『おやすみなさい』と、彼らのスペースを辞して自室に戻ってから、ステンレスのマグに電熱コイルを放り込んで湯を沸かして茶を淹れる。いつものとおり日記を書き、今朝方買った新聞を広げてみたり、ガイドブックを眺めたりしながら過ごす。そんなことをしているうちに、いつものことながら1時を回ってしまうのだ。
    『さて、歯磨きをするか』と、お茶沸かすときに汲んで来た残りの水で口をゆすいで、無作法ながら、窓の外にペッと吐き出す。歯ブラシでシャカシャカ磨いてから、洗面台があるひとつ下の階にそうっと下りる。階段脇の水道の蛇口を静かに開いて口の中をゆすいで歯磨き完了。
    癖で、階段を上るときに足の裏を叩きつけるようにして上ってしまうが、途中で『あ、この時間はみんな寝てるんだ』と、なるべく音を立てずに上がることを心がけたりするのもいつものことだ。
    建て付けの悪い部屋のドアをバタンと閉めて、中から金属のカンヌキをかけると、下の階でドアが開く音。誰かが数歩進んでから、『やべぇ!』など声を上げている。彼は即座に自室に駆け戻ったようで、バタンとドアが閉まる音が聞こえてきた。どうやら『帰って来る幽霊』とは、私自身のことであったらしい。
    翌日、下の階の男性は『昨日も幽霊が帰ってきた』などと吹聴していた。ドミトリーの宿泊客たちは『マジかよ!』と眉を顰めて話に聞き入っている。
    私は『幽霊自身が種明かし』をして、せっかく定着しつつある『怪談話』がオジャンになってしまってはつまらないので、とりあえずあまり興味のないふりをして聞き流すことにした。

  • ストーンハウスロッジの記憶 1

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    昔、カトマンズのニューロードにあるネパール航空事務所の反対側の路地を少し進んだところに、ストーンハウスロッジという格安の宿があった。
    宿泊客はほとんど日本人ばかりで、インド亜大陸各地をめぐるとか、アジア横断してアフリカに向かうなどといった長期旅行者が多かった。インターネットもなかった頃なので、こういうところでいわゆる『情報ノート』が貴重なインフォメーションのリソースでもあった。かつて、私もこの宿に幾度か宿泊したことがある。
    古いネワール式の木造の建物で、最下階の狭い入口のところに受付があり、細くて急な階段を上ってすぐの階には家主の家族が暮らしており、そこより上の複数の階に宿泊客を泊めていた。 各階ともに、もともと狭いフロアーを無理やりベニヤで仕切って、やけに幅の狭いベッドが置かれているが、これで部屋の中は一杯。確かひとつだけ四つのベッドが入った『ドミトリー』があったと記憶している。
    当時からタメル地区はかなり繁栄しており、すでに旧王宮近くのジョッチェン地区に宿を取る旅行者は少なくなっていた。どちらからも離れたストーンハウスロッジになぜ日本人旅行者が集まるようになったのかは不明である。シーズンは常に満杯、雨季のオフシーズンでも部屋が空いていないということは珍しくなかったようだ。
    いつ購入されたのかわからないボロボロの古いベッドの上に敷かれているシーツは、これまたいつ洗ったのか知れず、身体を横たえていると、南京虫の執拗な攻撃に悩まされるようなところなのだが、何故かとても繁盛していた。
    ひどく狭くて汚いかわり、宿泊費がそれ相応以上に低料金であった。『お金はあまりないけど、とにかくあちこち訪れてみたい』という安旅行者には重宝される宿であった。ただ安いだけならば他にいくつもあっただろうと思うが、安宿が集中するゾーンからは離れているものの、ニューロード裏という便利なロケーションも良かったのかもしれない。
    いつだったか、すぐ隣にレンガ積みの真新しい建物が出来上がった。ストーンハウスロッジよりも料金は高くとも、ずっと設備が良くて、新築であるがゆえにピカピカで快適な部屋が用意されていた。ストーンハウスロッジの利用客が『こっちのほうがいいや』と移動してもいいような気がしたが、そうはならなかったようだ。
    こちらはまったく流行らず、数年で廃業してしまった。流行る宿というものには、理論的に説明がつかない『旅行者とうまく合う波長』のようなものがあるような気がする。人と人との相性のようなものかもしれない。別に宿の人の愛想がいいとかいうわけでもない。その場所が持つ『気』のようなもの(?)とも言えるだろうか。
    古い長屋のような建物であるがゆえに、隣接する棟とぴったりくっついた建て込んだ地域であるがゆえに、家屋での人々の暮らしぶりが、特にそれを覗こうとしなくとも、ごく間近に感じられる楽しさはあった。人々の会話や赤ん坊の泣き声など、様々な生活音がジャンジャン聞こえてくるし、どこかの世帯で作っている料理の匂いも漂ってきて、下町に暮らしている気分になったりもした。
    もともと人口密度の高い空間なので、人通りは多かった。何せニューロードの真裏である。それでも野菜売りが沢山出て賑やかな朝の時間帯、様々な用事で人々が行き交う昼間の時間帯を過ぎて夕方の帰宅時間を過ぎれば、ガランとしていたものである。
    用事等でタメルに徒歩で出かけて、帰りが午後7時過ぎると人通りがとても少なくなり、午後8時を回るとほとんど誰もいない路地をトボトボ歩くことになった。出会うのは野犬ばかり、灯もまばらでほとんど暗闇のようなもので、懐中電灯を照らして宿まで歩いたものである。
    ダサインやディワーリーの時期にも滞在したことがあるが、路地という路地では、無数の小さな素焼きの器の中に火が灯されて、幻想的な眺めが出現していた。辻ごとにある小さな寺や祠に詣でる人々が行列していて、窓から見下ろしているだけでもワクワクしたものだ。
    先に書いたとおり、もともと狭いフロアーが、薄いベニヤで極小の部屋として細分化されていたものの、プライバシーはまったくないようなものであった。視覚的には遮られていても、壁の向こうから屁の音、着替える音などがそのまま聞こえるのである。相手が起きているのか寝ているのかもはっきりわかる。厚さ数ミリの非常に薄い壁を背にして寝ていると、そこを境に数センチからせいぜい30センチくらいのところに隣人が存在しているのだから。
    不思議と閉塞感はあまり感じなかった。隣の人がかなり親しくなった人だったりすると、壁越しに会話が弾み、まるで同室に滞在しているかのようであった。

  • ポーカラーの日本語教室

    H学院
    半日歩き回って、レイクサイドに戻るとかなり暑くなっていた。この時期、ポーカラーの午前中早い時間帯は涼しくて快適なのだが、昼前くらいからずいぶん気温が上がってきて、午後になると汗だくになる。WiFi付きのレストランでしばし休憩する。
    ここの上階は、H学院という日本語教室になっている。レストランの従業員の中の1人もここで学んでいるとのこと。彼が言うには、教え方が非常に上手くて理解しやすいとのこと。しばらくすると、その教室で学んでいるという人たちがポツリ、ポツリと集まってきた。午後4時半からレッスンが始まるそうだ。こうした彼らからヒンディーで話を聞けるのだから、隣の大国インドの言葉は重宝する。
    ネパールでは広くヒンディーが通じる。これを母語とする人は総人口のわずか1%程度でしかないというし、この言葉による出版活動はほとんど無に等しいようだが。もともとネパール語がヒンディー語圏の外縁部にあり、文法や語彙の点で近似する部分が多いこと、インドに出稼ぎに行く人がとても多いことに加えて、テレビ番組や映画などを通じ、ヒンディー語に触れる機会が非常に豊富だ。ゆえに人によって置かれた環境により差はあれども、自然と素養が身につくものらしい。
    広く通じるからといって、またエンターテインメント等で馴染んでいるからといって、諸手を挙げてこの言語に親しみを感じているかどうかはわからない。最近、このヒンディー語に関して大きな問題が生じている。昨年ネパールの初代副大統領となったパルマーナンド・ジャー氏が就任式の宣誓をヒンディーで行なったことは違憲であるという議論について、司法判断を仰ぐ事件にまで発展しているのだ。
    SC orders VP oath in 7 days (Himalayan Times)
    パルマーナンド・ジャー氏は、テライ地方のマデースィーと呼ばれる民族の出身。インド側では主にビハール州北部に、ヒンディーの方言であるマイティリーを話す同族が住んでいるわけだが、これまでネパールで政治的に不利な待遇を受けていた彼らの地位向上を目指すマデースィー人権フォーラムのリーダーである。
    事の本質はもちろん、ヒンディー語に対する感情論などではなく、ネパールの国政をあずかる副大統領という地位に就く者が、憲法によれば当然ネパール語により宣誓を行なうべきであると解釈されるところを、他の言語で行なうことがふさわしいものであるかどうかということであるのだが。
    話はH学院に戻る。しばらく生徒たちと話をしていると、ここで教えているという男性が姿を現した。ここの経営者であり、教員でもあるL氏は、10年ほど前に始めて日本語に触れ、その後は研修生として日本で暮らした経験があるのだということで、しばし日本語で話をうかがう。
    彼は毎日午前6時、正午、午後4時からと、それぞれ2時間ずつ教えている。『もしよかったら授業を見ていってください』とのことなので、生徒たちと階段を上り、教室にお邪魔する。
    生徒たちは、ほぼ全員が商売で日本語を使おうとしている人たちで、年齢は20代前半から40代までと幅広い。授業開始後が始まったが、しばしば生徒たちの携帯電話が鳴り、教室の外に出て話などしている。
    教えている内容は特にどうということはなく、先生が教える文法には怪しげなところが少なくないし、語彙の面でも不足している部分が多い。また漢字にいたっては、ごく基本的な文字以外は知らないようだ。正式な日本語教育を受けたことがないらしく、こればかりは仕方ない。
    それでも、ゆったりと自信に満ちた余裕ある態度で、また先生らしい威厳を保って教壇に立つ姿は、ここで学ぶ人たちに信頼感を与えるのだろう。持てる日本語知識は決して高いとは言えないものの、持てる力をフルに活用して創意工夫を加え、日本語とネパール語を交えて、豊富な実例を挙げながら生徒たちに教えている。教授能力はかなり高い人物であるようだ。
    基本的に板書はしないし、それに重きを置いていないので授業にスピード感があるが、生徒たちは積極的に反応しており、見ていて気持ちがいい。生徒たちは、先生の問いに対して競うように答え、新たな言い回しが出てくると級友同志ですぐに実践してみたりと、早く日本語を身につけたいという旺盛な意欲が感じられる。
    一応、教科書らしきものはある。しかし会話が中心で、あまり読み書きは重んじていない。教える側の日本語能力の関係もあるのだが、生徒たちの目的である『商売人として日本人とある程度の会話ができるようになる』というニーズに適うものとなっている。
    教室に集まる生徒たちは、基本的に仕事を持っている人たちであるため、授業開始からだいぶ経ってから教室にノッソリと入ってくる人たちもあるが、それでも着席してから熱心に学ぶ姿勢は同じだ。
    授業がある程度進んでから、L先生に『日本の文化について話してください』と言われた。突然のことで、何を話そうかと思ったが『日本の時間感覚』について話すことにした。
    日本では時間に対して厳格であること。通勤電車がトラブルで10分遅れただけで新聞記事になるほどである。仕事のスケジュール等も同様で、個人的にはもうちょっと応用でもいいのではないかと思うのだが、まあそういう風土なので仕方ない。日本に住んでいる南アジア系の人々が、日本人も交えて何かを行なう場合、『時間はJSTで!』という言い方をすることがある。これはJapanese Standard Timeの略だが、ネパールよりも3時間15分進んでいるということではなく『日本式の時間感覚で』という意味である・・・などといったことを話してみた。
    この後、先生は私が話した『日本の時間感覚』をテーマにして授業を進めていく。その中で、『日本では出勤に10分遅れるとその日の給料はパーになる』と話しており、彼が研修生として働いていた場所では、そうした慣習がまかり通っていたことがうかがわれ、気の毒になった。
    そうした話の中で、ある生徒は『ネパールの時間の感覚は、私たちの大切な文化でーす』と答えて皆の笑いを誘っている。眺めている私には、この気取らなさが楽しい。
    言葉を習うには人それぞれの動機や目的がある。学術目的で学ぶ者があれば、仕事や生活その他必要に迫られて習う者もある。今回訪れたのは後者だが『新たな言葉を身に付けたい』という意欲に満ちた教える側の熱意と教わる側の意欲がぶつかり合う現場に身を置くのは久々で、なかなか新鮮な体験であった。

  • 先達なき道

    やはり実績ほどモノを言うものはないということなのだろう。今年5月にLTTE最高指導者を殺害することにより、1983年から長期に渡り続いた内戦の終結を高らかに宣言したスリランカがパーキスターンに教えうるものは少なくないらしい。
    Sri Lanka to train Pakistani army (BBC South Asia)
    スリランカは、パーキスターン軍に対する訓練を与えることを打診されているのだとか。上記の記事中には、スリランカのすでに同様のトレーニングを米国、インド、バーングラーデーシュおよびフィリピン対して実施しているとのことだ。
    パーキスターンにおいて、バルーチスターンで長く反政府武装組織による活動は続いてきた。だがそれとは比較にならない大きな問題が、近年イスラーム原理主義過激派武装組織の著しい台頭だ。近年は、大規模なテロ事件をはじめとする様々な挑発や破壊行為、こうした組織による特定地域の実行支配とその拡張、本来の行政機構とりわけ警察や軍との緊張等々、気になるニュースが日々伝えられるようになっている。
    彼らの存在は、不安定な同国の政治基盤をゆるがすものとなりかねない。2008年2月の総選挙後にはおそらく国政を担うことになると思われたベーナズィール・ブットー氏がその前年2007年12月の遊説後に暗殺されたことは記憶に新しい。そのわずか2ヵ月ほど前に帰国する前後から、彼女を好ましく思わない組織から幾度も脅迫を受けていたことは周知のとおりである。
    またパーキスターンを本拠地とする組織による、隣国インドへの度重なるテロ事件は外交上の大きな障害になっている。これらの組織を取り締まるべき政府の当事者能力の問題もさることながら、今後パーキスターンそのものが、自国ならびにインド以外の第三国対するテロ実行犯の出撃基地となるのではないかという、さらに大きな危惧もある。 加えて、近い将来に事実上の核保有国が、こうした勢力を含む原理主義的なスタンスを取る勢力に乗っ取られたらどうするのかという悪夢さえも決して否定できるものではない。
    こうした事態に至るまでに長い伏線があった。パーキスターンの歴代政権が、軍政・民政両時期を通じて対アフガニスタン工作ならびに内政の運営においても、こうした勢力を温存しつつ利用してきた過去のツケであるといえる。かつては時の政権に都合よく操られてきた勢力も今では力を充分蓄えており、政府そのものと競合するところにまで成り上がってしまった。
    そうした中、パーキスターン軍が、国内の騒擾を鎮圧した先達としてのスリランカから学べるものは少なくないのかもしれない。だがスリランカにしてみても、長らく政府と対峙してきた武装組織が壊滅し、その首領も死亡したとはいえ、そもそも長く続いた武装闘争の原因としての、政府に対するタミル系の人々の反感との土壌となっている部分が解消されたわけでもなく、根本的な解決に至ったと評価することはできない。
    腕力で捻じ伏せた相手がそのまま黙って服従するのか、あるいは彼らの胸の中で大きな渦を巻く怒りの奔流がふたたび堰を切って立ち上がるまで、束の間の『空白期間』に過ぎないのか、まだよくわからない。
    スリランカのタミル人たちによる分離活動は、当初複数の勢力が並立する形であったものが、次第にLTTEという組織に集約されるようになった。その中でも最高指導者であった故プラバーカラン議長の存在は突出していた。そのため昨年後半からのスリランカ政府軍による大攻勢と『LTTE首都』キリノッチ陥落、北東海岸地域に背走する残党を掃討、親玉のプラバーカラン殺害による『反乱終結』という構図は明解であるように見える。
    パーキスターンの不安定要因のひとつとなっているイスラーム武装組織の場合、LTTEのようにひとつの核からなるものではない。そうしたグループないしは運動が多極的であり、特定の指導者を叩いてみたところで、それが終わるものではない。これは民族の枠組みの中に限定される運動ではなく、彼らの理想、教条、行動に感化される可能性のある人たちが住んでいるところならば、どこにでも広がり得るという特徴もある。
    攻撃の矛先が向くのも、居住国の政府はもとより、彼らが自分たちの運動に敵対的な立場を取る国ならばどこでも攻撃対象となり得る、極めてユニバーサルなリスクだ。アフガニスタン、パーキスターンに続き、同様の窮地に陥る国が今後出てくるかもしれない。
    8月5日、米軍の空爆により、パーキスターンのタリバーン運動の指導者、ベートゥッラー・メヘスードの死亡を伝えるニュースが流れていたが、このほど彼の直近の部下であったズルフィカール・メヘスードがその地位を継いだことが確認されている。死亡した旧指導者は、まだ34歳という年齢であったが、彼を継いだズルフィカールは28歳とさらに若い。『向こう見ず』という評もある彼は、今後どんなプランを練っているのか。
    彼らと対峙するパーキスターンが模範とすべき前例は存在しない。彼ら自身が事例を積み上げていくことになる。先達なき道を歩んでいかなくてはならないことから、この国の指導者たちの知恵が試されるところだ。同時に、周辺国を含めた国際社会は、パーキスターンに対して、どういう形で協力の手を差し伸べることができるのかという意味でも、まさに世界全体の英知が問われているといっても過言ではないだろう。
    昨年11月に起きたムンバイーのテロ事件は、決して印パ二国間の問題であると割り切れるものではなく、次の10年には他の国々にも降りかかってくるかもしれない脅威の前触れかもしれない。パーキスターンの現状から、私たちが学ぶべきこと、試みるべきことは多いに違いない。さりとて誰が何をすれば良いのか誰にもよくわからないのが現状だ。
    手本とすべき先達がなく、頼りになる道しるべさえもない危険なルートに踏み込むパーキスターンを独りで歩ませるのは、果たして賢明なことなのだろうか。