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投稿者: ogata

  • マッチが結んだ日印の縁 2

    matches imported from Japan
     日清戦争期(1894〜95年)には日本在住の華僑たちが帰国したことによる物流ネットワークの停滞、戦時のため労働力が不足するなどといったこともあったようだが、それでもマッチ産業は順調に成長を続けていたという。
     黄燐マッチの製造禁止は、それまで主にこれを製造していた大阪のマッチ産業に打撃を与えた。それでも第一次世界大戦(1914年〜18年)のころには、当時のマッチ大国スウェーデンからの輸入がほぼストップしたスキを突いて、インド市場では日本製マッチがシェアを拡大させた。
     この際に取引の中で重要な役割を担ったのが、当時すでに上海や香港といった中国大陸の拠点に進出していたインド系商人たちだ。彼らは日本での足がかりを神戸に定めて祖国での日本製マッチを普及に力を注ぐ。
     この時期、すでに横浜にもインド人コミュニティが出現しており、1923年に起きた関東大震災で在住のインド人28人が犠牲になっている。この際に彼らが横浜市民から受けた援助に感謝して寄贈されたのが山下公園にある『インド式水塔』で、現在は横浜市の『歴史的建造物』のひとつに指定されている。
     それ以降にはそれまで日本から輸出していた国々でも盛んにマッチ製造が行なわれるようになったこと、スウェーデンが巻き返しを図ったこと、インド政府がマッチ輸入に対して高率な関税を課するようになったことから、日本のマッチ産業は苦境に立つ。それを見計らったように進出してきたスウェーデン資本に国内生産のおよそ7割を抑えられてしまう。
     マッチ生産三大大国の一角とはいえ、当時の日本のマッチ製造といえば、ちょうど現在のインドのビーディー製造のごとく、家内手工業的な生産方法が主体であったらしい。近代的な技術で大量かつ安価にマッチを生産するスウェーデンの会社が進出してくるにあたり、地場資本の小規模な業者はこれに太刀打ちできずに姿を消していき、日本におけるマッチ産業は衰退していった。日本在住のインド商人たちは、『日本製マッチ』という有力なアイテムを失うことになった。
     やがて1930年代に入り、世界各地で排他的なブロック経済化が進み、続いて第二次大戦期に入ると、反英米的な地域に居住して商いを行っていたインド系商人たちには受難の時期であった。枢軸国のひとつであった日本在住のインド人たちも例外ではなく、彼らの立場は『連合国側の市民』ということになってしまう。彼らが得意とした当時の英領各地との貿易が困難となったことは、多くのインド系の人々が帰国ないしは第三国へと移動する契機となった。

    燐寸博物館

  • マッチが結んだ日印の縁 1


     日本ではいまやマッチを手にすることはほとんどなくなった。ある時期までは飲食店や宿泊施設などに、名前やロゴマークなどが刷り込まれたマッチがよく置かれていたものだ。 
     喫煙者は肩身の狭い世の中となり、私自身もタバコをやめてしまったので特に気をつけて見ていないが、こうした需要もかなり減っているのではないだろうか。
     そのいっぽうインドではマッチがまだまだ元気だ。ワックス軸を使用したタイプもあるが、ささくれだった木製の頭薬の量も形状も一本一本違い、手作りの小箱にカラフルな絵柄の入ったマッチはなかなか味があり、切手同様に収集する人は少なくないようだ。
     マッチの歴史は1827年にイギリスで塩素酸カリウムと硫化アンチモンを使った摩擦マッチが発明されたのが始まりだ。まもなく1830年にフランスで黄燐マッチという形に改良されたものが市場を席巻することになる。
     だが黄燐の特徴として毒性が強いことによる被害が社会問題化したこと、そして頭薬部分を何に擦り付けてもパッと発火するので便利ではあったが、思わぬところで自然発火することによる事故も多発した。たとえばブーツの底でチャッと擦って点火したマッチでタバコに火をつけていたりしていたアメリカのカウボーイたちが、乗馬中に衣服のポケットに突っ込んでおいたそのマッチが突然発火し、同じ箱に入っていたいくつものマッチの頭薬とともに炎上して本人は火だるま、なんていう事故もあったようだ。また商品としてのマッチを移送中、あるいは倉庫に保管しているときに自然発火で火事ということも散発していたという。
     こうした危険性がゆえに20世紀初頭に黄燐禁止の条約が採択されて欧米諸国はこれに批准。マッチが主要な輸出商品であった日本がこの流れに同調するには1921年までかかった。
     人々はかつて日々の暮らしの中で火を起こすのに四苦八苦していたが、マッチという便利な道具の出現によりその労苦から開放された。黄燐マッチが禁止されたといっても、この手軽なツールを手放すわけにはいかなかった。
     そこで登場したのが現在販売されている安全マッチというタイプのものだ。頭薬には赤燐を使い、マッチ箱側面のザラザラしたいわゆる『横薬』で擦らないと火が付かないため安全性が飛躍的に向上した。
     日本のマッチ産業は、旧金沢藩士であった清水誠がフランス留学の際に学んだマッチ製法を持ち帰り、新燧社という企業を設立して黄燐マッチの製造に取りかかかったのがはじまりと伝えられている。先見の明のある彼は黄燐マッチの将来性を見限るや、今度はスウェーデンに渡って赤燐を使った安全マッチの製造法を学び、1879年からは早くもこちらの製造に取りかかっている。
     後に日本の主要な輸出産業にまで成長するマッチ製造業は、明治維新以降失業した旧氏族たちへの雇用対策の意味もあったという。主要原料である硫黄や木材も豊富だった日本にはまさにうってつけの産業であった。ただし労多くして実入りの少ない製造現場の仕事はそう長く続かず、これと入れ替わるようにして女性たちがこの職場に進出してくることとなる。
     マッチ産業の先駆者、新燧社に続いていくつもの後発企業がこの分野に進出してきた。日本のマッチ産業は順調に成長を続け、20世紀初頭にはアメリカ、スウェーデンとともにマッチの世界三大生産国に数えられるまでに成長した。生産量の8割が輸出に回され、貴重な外貨獲得の花形産業となった。
     当時は開拓地であった北海道で、製軸工場が地域振興の一翼を担うとともに、外界に開かれた貿易港としての性格を持つ神戸と大阪では、時宜を得た成長産業となり、ここで生産されたマッチは中国方面に盛んに輸出されることになる。この時期すでに当地に住み着いていた華僑たちの役割も大きかった。
     1880年代、そして続く90年代は日本製の黄燐マッチが中国大陸での需要とともにインドへも盛んに輸出されるようになった。インドへの輸出の際には途中で積み替えをしなくてはならなかったが、1893年には日本郵船がボンベイ直行航路を開設したことが契機となり、同国向けの輸出が急増する。商標のデザインはやはり輸出相手国の趣味に合わせたものが多い。インドへは神々、牛や象の図柄が多かったようだ。
     主な輸出先としては、インド、中国以外に東南アジア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ロシアなどがあった。

    日本マッチ小史

  • 第17回インド家庭用品展

     5月23日(火)から25日(木)まで、マイドームおおさかにて第17回インド家庭用品展http://www.itpotyo.org/2005tenzi/katei17.htmlが開催される。
     インド貿易振興局(ITPO)主催のこの催しには50社が出展し、インテリアファブリック各種、リネン類、ラグやカーペットその他が展示される。
     同じ会場で7月25日(火)から27日(木)まで第27回インド衣料品展も開かれる予定だ。こちらは衣類に加えてアクセサリー類や布地等が展示されるとのことである。
     日本におけるインド貿易振興局主催で毎年開かれているこれら展示会は、東京でも行なわれたこともあるが、開催数は大阪のほうが圧倒的に多い。インド産品の大口顧客は関西地域に集中しているのだろうか。
     インド貿易振興局の海外支部は、東京、ニューヨーク、フランクフルト、モスクワ、サンパウロの5ヵ所にある。日本は同国の貿易振興のカギを握る重点国のひとつであるようだ。

  • エヴェレストが不調?

    エヴェレスト
     かつて世界最高峰エヴェレスト(8850m)登頂は『不可能』であるとされていた。しかし『奇跡』を達成したのは1953年に頂上を目指したエドムンド・ヒラリー、テンズィン・ノルゲイ両氏。1969年にアポロ11号が世界初の月面着陸に成功したのと同じく、彼らは人類の歴史に燦然たる足跡を残したと言って差し支えないだろう。
     その後、山岳や気象等に関する情報や知識の充実、登山技術の発達や装備の進歩などにより登頂がより容易になるにつれて、各国の登山隊が登頂を記録するようになり、世界最高峰征服は『快挙』に格下げとなる。
     エヴェレスト他の八千メートル級の峰への登山経験の蓄積がクライマーたちの間で共有されるようになるとともに、登山隊を送り出す各国の経済発展を背景に、登山隊の資金力も増大したことがこの傾向に拍車をかける。
     英国山岳会により1921年から始まった登山史だが、当初は測量や地理調査などを目的とし、究極的には政治的・軍事的な意図を背景とする事業であった。だが第二次大戦後は登山という行為そのものがスポーツとして世の中に定着することになった。男性たちにやや遅れてやがて登山の世界に進出してきた女性たちも果敢に挑戦し、その中から次々と登頂者が出てくるようになってくる。
     このころには単に頂上を目指すのではなく、無酸素登頂やどのルートから登るかということに新たな価値が出てくることになった。つまり頂上という同じ地点を目指すにあたり、より難しい条件を付けて他者よりも高いハードルをクリアすることが目標とされるようになってきた。
     そうした中で近ごろ一番ホットなのは、ここ数年次々と記録が塗り替えられている『スピード登頂』記録ではないだろうか。ベースキャンプから頂上に到達するまで20時間台であったものが、12時間台、10時間台、そしてついには8時間10分と、どんどん短くなっていく。このあたりは若手シェルパの独壇場で、他国のクライマーにはつけ入る余地はないようだ。
     またエヴェレストをどう攻めるかだけではなく、2002年に63歳で頂上に立った渡邉玉枝氏(女性最高齢登頂)、2003年5月に70歳で登頂した三浦雄一郎氏(世界最高齢登頂)といった年齢に挑戦するものもあれば、世界の他の名峰を含めた『七大陸最高峰征服』という荒行や『全八千メートル峰制覇』などという神業であったりもする。ところで地球上に存在する八千メートル級の山14座、つまりエヴェレスト、K2、カンチェンジュンガ、ローツェ、マカルー、チョオユー、マナスル、ダウラギリ、ナンガーパルバット、アンナプルナ、ガッシャーブルム?&?、ブロードピーク、シシャパンマとすべてがヒマラヤ山脈にあるのだから、まさに『世界の屋根』の偉大さを感じずにはいられない。
     これらの中で最も広くその名が知られているのはいうまでもなくエヴェレストだが、登頂すること自体が達成可能な現実となるとともに、この山の『大衆化』(・・・といってもズブの素人である一般大衆がそこを目指すわけではないが)が始まることになった。今ではいわゆる『ヤマ屋』の人たちがそれぞれのレベルで実行可能な『目標』となったと言って差し支えないだろう。それなりの素質とガッツのある人たちにとって、もはや『信じることができる』現実的な夢なのだ。現在、エヴェレストでは1シーズンに数百人ものクライマーたちが行動するのだという。初登頂から半世紀以上経った今、エヴェレスト登頂の意味は大きく変わっている。
     エヴェレスト登山の裾野の広がりは、同時にいくつかの問題をも生んでいる。 登山家の野口健氏の『エベレスト清掃登山』http://www.noguchi-ken.com/message/cate/ev_clean/index.html活動により日本でも広く認知されるようになったように、『世界の屋根』という本来ならば辺境であるはずの地域におけるゴミ問題もそのひとつだ。シーズンにおいては登山許可の申請が込み合うことのみならず、登山ルートで物理的に渋滞が起きていることも一般に知られるようになった。
     また登山の大衆化による事故の増加も懸念されている。Jon Krakauerによるノンフィク ション作品『Into Thin Air』(ISBN ISBN: 0385494785)で取り上げられたように、 1996年は不順な天候のためもありエヴェレスト登山史上最悪といわれる年であった。このシーズンはエヴェレスト以外でもヒマラヤの各地で多くの事故が相次ぎ、日本人女性も犠牲になっている。  世界的に有名なクライマーが経験の浅い登山者を率いて頂上を目指すいわゆる『ガイド登山隊』が増えてきていることについて、一般に知られるようになったのもこのころからである。
     2003年のシーズンにはエヴェレスト頂上に立ったクライマーは過去最高の261名を数え、翌2004年には登頂者数が通算2200名を超えたと日本山岳会会報(2005年2月号) に記されている。
     物理的に『地域振興』が難しいヒマラヤ地方にあって、現実的な『村おこし』とはやはり観光ということになる。登山人気は単に頂を目指す玄人のみならず、日帰りのハイキングから始まり一週間程度の軽いトレッキング、あるいは山岳の景色をゲストハウスのベランダから眺めて満喫、滞在先付近の山里の様子を見物するなど、様々なカタチで風光明媚な土地を楽しみたい観光客たちをもひきつけてくれる。いや数のうえではむしろそういう人たちのほうがはるかに多く、本格的な登山の季節以外でも日々地元にお金を落としてくれるのだ。
     自国の高峰を舞台にした登山家たちの活躍のニュースとともにメディアに流れるヒマラヤの風物は、そうした観光振興のため非常に有効な宣伝にもなることは言うまでもない。こうしたものがなければ、この地域の自然や風物、人々の暮らしや文化が今ほどに外の人々の関心を引くこともなかったのではないだろうか。
     登山家ならずとも、私たちそれぞれの興味の範囲でいろいろと楽しむことができるヒマラヤは、それをいただく国々はもちろんこの大地に暮らす私たちみんなが共有する貴重な財産でもある。
     だがこのエヴェレスト周辺地方で近年の気象の変化が懸念されている。それは氷河の後退や降雪の減少であったりするが、ここ数ヶ月の間でも従来はなかった現象が見られるのだという。それはほとんど雪が降らない冬と春先の豪雪。はてまた4月に入ってから3日間続いた吹雪などである。
     気候というものは毎年同じものではなく、時に暑くときに寒く、多雨であったり少雨であったりといろいろデコボコがあるもの。『平年並み』とは近年の平均値でしかなく、何をもって異常気象と呼ぶのかよくわからないこともあるが、とかく自然や気候といったものは相互に作用しているもの。ヒマラヤの変調については、私たちもちょっと気にかけていたいものだ。海原や大地でさえぎられていても、結局ひとつづきの同じ地球なのだ。
    Everest weather’s ups and downs (BBC South Asia)

  • 『旅行仕様』の楽しいカメラは 3

    Nikon Coolpix8400
     なるべく軽量に・・・ということで、コンパクトデジタルカメラという選択肢も当然出てくる。近ごろのそうしたモデルのトレンドは高倍率なズームレンズと手ブレ補正の搭載だろう。ズームレンズで気になることがある。倍率が大きい反面、広角側が不足するモデルが多いこと。  多くは35mmカメラ換算で35mmから38mmからというものがほとんどだ。ちょっと高目のものになると広角側は別売りのワイドコンバージョンレンズを装着して対応なんていうものも少なくない。しょせんコンパクトカメラ、ズームアップした際の画質はかなり悪くなるので、テレ端はせいぜい80mm程度あれば充分なのではないかと思う。しかし建物を撮るにしても室内で撮影するにしても広角側28mmはぜひ確保したいところだ。
     手ブレ補正については、もともとはフィルム時代と違い液晶モニターを見て撮影するスタイルが定着していること、先述の高倍率ズームが普及してきているためブレが生じやすくなってきていることから有効である。もともとは一眼レフなどの望遠レンズを安定して撮影するために開発された機能ではあるが、三脚を使用することなしに手持ちでスローシャッターを切ることができるなど、撮影できるシチュエーションが従来よりも確実に広がるため極端な話広角レンズであっても大いに役立つ。
     手元にある小さなモノを撮ってみることも多いので、本格的なマクロ機能も欲しい。そして測光方式も評価測光、中央部重点平均測光、スポット測光を任意に選択できるものでありたい。撮影モードもプログラム、絞り優先AE、シャッタースピード優先AE、マニュアル露出と用意してあって欲しい。これらの機能を選ぶ際の使い勝手も良くなくては困る。 
     もちろん電源入れてからの起動は早く連写にも強いものがいい。三脚に固定して撮影するときにレリーズを使いたい。液晶モニターはバリアングルが欲しい。液晶モニターが付いていても、最近増えてきているファインダー省略したようなカメラはあまり好きじゃないなあ・・・なんて注文を挙げていると、いつの間にかコンパクトカメラらしいサイズのものでは適当なモデルが見当たらなくなってしまう。
     それでもちょっと前まではかなり魅力的なモデルは存在していた。たとえばニコンのCOOLPIX 5000であり、その後継機種の同じく5400やこのタイプ最終型の8400といったシリーズがそれに当たると個人的には思っている。
     前者ふたつは28mmから最後のモデルは24ミリから始まるズームレンズを持ち、機能・描写ともに評判の高いものであった。外付けのフラッシュが使用できるようにホットシューも付いている。
     私はこのタイプ最初の5000を持っていたのだが、秒進分歩といわれるデジカメの世界にあっても、画質は今売られているコンパクトカメラ上級機種に比較しても遜色ないといわれるほど現在でもなかなか評判は高いようだ。
     私も購入した当初は大いに気に入ってきた。ある一点を除いては・・・。それは取り回しが非常に悪いことである。電源の起動が遅く、ボタンを押してからシャッターが切れるまで数秒かかる。そして次にシャッターを切ることができるようになるまで10秒ほど待たなくてはならない。非常にじれったいのであった。また多彩な機能を搭載しているにもかかわらず、そのひとつひとつを使うにあたりいくつもの面倒なボタン操作をしなくてはならなかった。
     おそらく最終型の8400になってからはずいぶん改善されたことだろうし、さらに次代のモデルが続いていれば相当良いカメラになったことと思うが、そうはならなかった。ニコンに限らず、どのメーカーでもコンパクトデジタルカメラの高級機種は軒並み姿を消している。
     デジタル一眼レフの価格が下がったことにより、コンパクトタイプのハイエンド機のユーザーはそちらにシフトしていることがある。購買層の大部分はデジタル一眼レフが欲しくても手の届かない人たちであったため、価格帯がほぼ同じなってしまうと存在意義がなくなってしまったのだろう。加えて高性能な『ディマージュ』シリーズを製造していたコニカミノルタのような有力メーカーがカメラ事業そのものから撤退してしまったことなどが理由として挙げられるだろう。
     現在のところ気に入って使用しているのはリコーのGR-DIGITALで、使用感はなかなか良い。28mm単焦点というのが気に入っているポイントのひとつだが、これ一台ですべて満足というわけにもいかない。やはり便利なズーム付きのものも欲しくなってくる。
     今までのところデジタルコンパクトカメラの分野で、銀塩カメラ時代のCONTAXのG1G2、または富士写真フィルムのTIARAなどのように長く大切に使いたくなるようなモデルは存在していない。
     現時点で少々気になっているのは、リコーのCaplio GX8の後継機がそろそろ発表になりそうなこと。それとキヤノンのPOWER SHOT S80も悪くないかなと思っている。だがどちらも積極的に『欲しい!』と思わせるものではない。ここのところのデジタル一眼レフのブームがひと息ついて、手軽だけどちょっと贅沢な高級コンパクトデジタルカメラの需要が高まって来ないものかと思っているところだ。 
     まあ人間の『物欲』というものは際限のないものだが、待望の面白いカメラを手に入れて、早速インドの風景などを撮影してみたいが、せっかくの愛機が『盗られちゃいました』なんてことにならないようにお互い気をつけたいものである。

  • 『旅行仕様』の楽しいカメラは 2


     一眼レフ市場に新規参入を予定しているもう一社、ソニーはどういうモデルを準備しているのかこちらも気になるところだ。他社による既存のシステムの中で自社独自の味付けをしたパナソニックの堅実路線とは趣を異にすることになるのではないかと予想している。 
     しかもこちらはカメラ事業から撤退したコニカミノルタ社の同事業部をそっくり継承しており、独自の技術力に加えて常に前向きな社風からして、新規参入の分野ともなれば必ずや『おおっ!』と人目を引くセンセーショナルなモデルを投入すべく、私たちの知らないところで一大プロジェクトが進行中なのだろう。
     加えてもうひとつ、今までのところ注目度はイマイチだが国際的なコラボレーションが進行中。カメラ老舗メーカーのPENTAXが、なんと韓国のSAMSUNGとの共同開発モデルをこの秋に発売する計画があるのだ。後者としては初のデジタル一眼レフカメラだ。韓国本国はもちろん、携帯電話その他の電化製品でそれなりのブランドイメージを築き上げたインドでは、もちろん『SAMSUNG』ネーム最高峰のカメラとして派手に宣伝することになるのではないだろうか。今回開発されるモデルをきっかけに、初めてこのタイプのカメラに手を出すインドのミドルクラスの人々が結構出てくるのかもしれない。
     このところカメラメーカーが家電系メーカーとタイアップする動きの背景には、CCDなどの電子部品の開発や生産の負担がある。デジタルカメラの分野では、銀塩時代に比べて光学部品やアナログ的な機械部分に対する電子系の構造部に依存する割合が高くなってくるにつれて、得意なフィールドを分業しなくては開発が難しくなってきているようだ。
     だがもともとこうした分野にも明るいキヤノンや富士写真フィルムなどは、現在までのところ家電メーカーとの共同開発は行なっていない。資金力も技術力も豊かな前者は、おそらく今後もそうした必要はないのかもしれない。
     キヤノンとニコンでは、35mmの銀塩カメラと同じ大きさの画角を持つ、いわゆる『フルサイズ』CCD搭載カメラが一般ユーザーにも手が届く普及価格で登場することを待ちわびる声が高いものの、依然としてこれらはプロ向けの高級機だ。今までのところ主流はやはりAPS-Cフォーマットのモデル。そうした中で前回取り上げた第三の流れともいうべきフォーサーズ規格はオリンパスの開発によるものだが、今回取り上げたパナソニックを含めて全部で7社が参入を表明しており、今後の成り行き次第では普及価格帯の一眼レフ市場の流れを変えることになる可能性を秘めている。
     私自身は結局何でもいいのだが、一眼レフの操作性とデジタルの利便性が軽量コンパクトにまとまり、ホコリや振動にも強く丈夫でしかも安価・・・といったモデルが出てくるのを楽しみにしている。これぞまさに『旅行仕様』カメラではないだろうか。
     私は写真家ではないので撮ることが目的ではない。けれども写真は好きなので、必要最低限の機材を持って最大限に楽しみたい。旅先へ持参する身の回り品は少なめの私だが、それに比較してカサと重量が張るのはカメラ関係。これらを取り出してみればスカスカでとても身軽なリュックになるのに。
     コンパクトデジカメ一台だけならずいぶん楽だろうとも思う。かといっていつものカメラ一式を放り出して出かけてみると感動的な景色や興味深い風景を目の前にして非常に心残りだったりする。やはりテキトーなところで自己満足させてくれる機械が必要らしい。

  • 『旅行仕様』の楽しいカメラは 1

    パナソニック LUMIX DMC-L1
     以前、デジタルカメラ市場の一眼レフの分野へ進出を狙う家電メーカーについて『家電メーカーのデジタル一眼に期待』として取り上げたが、そのうちのひとつパナソニックのモデルLUMIX DMC-L1 は今年の夏以降発売予定であることがすでに発表されている。
     オリンパスと同じフォーサーズシステムを採用、同社およびシグマから発売でこの規格に準拠したレンズが使用できるとはいえ、35ミリ換算で2倍の焦点距離となること、バリエーションはまだ豊富とはいいがたいこと、また超広角域をカバーするレンズは高価なものしかないところは弱みである。今後のレンズラインナップの充実具合は、この新モデルを含めた同システム採用のカメラ群の売れ行きいかんにかかっている。
     言うまでもなく、一眼レフはレンズやストロボその他の様々な周辺機器を自由に組み合わせて使うことができることにその価値がある。そうした既存のコンポーネントを持たない会社が新規参入するのは、技術の蓄積やブランドへの信頼感に欠けるのみならず、実はこの部分が特に難しいのではないかと思う。利用できる機材が何もないようでは、カメラ自体が魅力的でもそれをあえて買おうというユーザーはそういないだろう。
     フォーサーズとは撮像素子つまりセンサーとレンズマウントの共通規格だが、このパナソニックのカメラではオリンパス製品との包括的なシステム互換性を持たすことを想定しているらしい。つまりパナソニックブランドによる最初のモデルが登場する前から、利用できる機材がすでにこの世に存在するということは大きな強みである。
     それだけではない。DMC-L1と同時発売予定の『LEICA D VARIO-ELMARIT 14-50mm F2.8-3.5』がとっても気になるレンズなのだ。『ライカ』ブランドであることについて特に関心はないのだが、その名前を冠しているからには相当良いモノであることを保証しているのだろうと期待するのはいうまでもない。そしてズームにしてはかなり明るいF値を持つことも特筆すべきだが、しかも3〜4段分の手ブレ補正つきということだから、手持ちでの撮影のチャンスがグッと広がる。
     ボディは丈夫なマグネシウム合金ダイカスト構造、記録メディアは軽量コンパクトなSD(新規格のSDHCにも対応)メモリーカード、内蔵フラッシュはバウンス撮影も可能、オリンパスのE-330同様に(カラクリは違うそうだが)背面のモニターではライブビューモードも選択できる。それなのに1/3段刻みのシャッターダイヤルが付いていたり、先述のライカブランドのズームレンズには絞りリングがあったりと、まるでマニュアル機みたいな雰囲気がある。
     私は現在キヤノンの20D を使用している。利用可能なレンズのバリエーションの豊富さとカメラ自体の機能面では大変満足しているものの、特に埃っぽいインドにあってはレンズ交換のたびにゴミやホコリが容赦なくドシドシ入ってくるのにはとても困るので、愛憎半ばするといったところだ。
     しかしパナソニックのDMC-L1には、オリンパス社のEシリーズダストリダクションシステムと同様のものが搭載されていること、そしてコンタックスのG2 並みにコンパクトであることに注目している。フォーサーズ規格の他のコンポーネントはさておき、このボディDMC-L1とレンズLEICA D VARIO-ELMARITの組み合わせだけでも充分すぎるほどの魅力がありそうだ。
     やはり予想していたとおり、カメラ界の老舗にして巨大メーカーであるキヤノンやニコンと真っ向から衝突するようなモデルではないようだ。おそらく同価格帯の他社モデルと比較したスペック面、AF性能、連写機能、操作性、画質等々のうち、どれをとってもあまり勝ち目はないのではないかと思う。だが秒進日歩のデジものの世界にあって、めまぐるしい進化に目を奪われて次から次へと興味関心が移ることなく、そろそろ長く使えるお気に入りモデルが登場して欲しいところだ。すぐに飽きがくるようなものではなく、写真好きな大人が趣味の機械として愛着を持って使っていけるような。
     日常的に小さなショルダーバッグに無造作に放り込んで使うのはもちろん、ちょっとがんばって本格的な撮影にも挑戦できる頼もしいカメラなのではないかと今から気もそぞろなのは私だけではないはず。

  • 日経ビジネスもINDIA !!

     
     このところ日本のビジネス誌もこぞってインド特集を組んでいるが、現在発売中の日経ビジネスもこの大市場をカバーしている。IT産業の隆盛が何かと注目されがちなインドだが、昨今の経済成長と世界的市場としての発展について、この2年で2倍になるほどの急成長ぶりを見せていても、GDPに占める割合がわずか4%強に過ぎないITにそれほどの購買力の底上げ効果があるはずはないとしてその背景を探っている。
     これについて関税率が段階的に下がったこと、つまり1991年以前には最高150%だったものが現在では最高でも12.5%となっていることもあり、ちょっといいモノがリーズナブルな価格で手に入るようになったこともあるが、それよりもインドの消費拡大は金融事情の変化、つまり規制緩和によるものが大きいと解説している。
     具体的には『銀行もノンバンクも、インドの金融機関はカネ余りになっていて、貸し出し競争が起こっている』とし、ローンや割賦販売の普及により、耐久消費財を購入しやすくなり市民がおカネを使いはじめたことを挙げている。
     また『工場』としての中国とは違う視点から、『売り』から入れる途上国として切り込み、1994年にインド進出したソニーが2004年にインドでのテレビ生産を中止して、タイにある自社グループ工場製の輸入品販売に切り替えたことが取り上げられている。この年からインドとタイの間でFTA(自由貿易協定)が結ばれていることから可能になり、インドで現地生産するメリットがなくなったためとのことで、裏を返せば製造基地としての足腰が弱いことにもつながる。販売市場としての期待されるインドではあるが、『購買力に比べて販売にインフラが未成熟なのが特徴』であること、いわゆる白物家電の分野で圧倒的に強いのはサムソンやLGといった韓国勢であることなど、日系企業が苦戦している様子も描いてある。
     日本との関係においても、中国における在留邦人が10万人であるのに対してインドでは2000人(もっといるのではないかだろうか?)に過ぎないとし、空の便は日系航空会社だけで毎週274便が中国の主要都市に飛んでいるいっぽう、インドへは首都デリーに週3便しかないなど、まだまだ相当な距離感があることにも触れている。
     こうした状況を踏まえたうえで、これまで東南アジアや中国などへ進出する際の日本企業の特徴であった『日本企業文化の浸透』『低コストの生産拠点としての活用』『日本人駐在員の大量投入』といったやりかたから脱して、『欧米的な経営管理方法の導入』『欧米での留学、職務経験のあるインド人や印僑の登用』『欧米拠点での成功体験がある日本人社員の活用』を提言している。
     とりあえずそんな具合に意欲的な記事が並んでいる。その反面路上の白いコブ牛を『水牛』と呼ぶのはまだしも、『カーストが職業を保証している』(記事中では留保制度のことを言っているわけではない)というくだり、都会でも娯楽施設がまったくない国であるかのように書かれて(たとえばバンコクのタニヤやパッポンといったエリアに出入りすることを『娯楽』と思っている人にはそうかもしれない)いるなど、インドに対する変な誤解や先入観を植え付けるような記述があるのはどうかと思う部分はある。
     だがとりもなおさず経済の分野でインドの何が日本企業の関心を集めているのかわかりやすくまとめてあり、なかなか興味深いものがある。

  • 新時代の辞書

     今年3月に新たなヒンディー語・日本語辞典が刊行された。株式会社大修館書店から出た『ヒンディー語=日本語辞典』(古賀勝郎/高橋明 編)である。もとより日本語で解説された南アジアのコトバの辞典は少ない。地域の大言語であり、話者人口も世界有数のヒンディー語でさえも一般の書店で手に入るものといえば、これまで1975年に初版が出た大学書林の『ヒンディー語小辞典』(土井 久弥 編)しか思い当たらなかった。
     日本でバブル期あたりからの海外旅行ブーム、そして90年代半ばあたりから経済の面でもインドが注目されるようになってから、ヒンディー語のフレーズブックや入門書の類はポツポツと出ていたものの、さすがに本格的な辞書が出てくることはなかった。
     日印間の距離が近くなってきたとはいえ、中国やタイなどにおいてのそれぞれ中国語、タイ語といった地元のコトバの占める立場と、インドにおけるヒンディー語のありかたには大きな違いがあるので、こうした具合になるのは無理もない。およそ人々の動きの中で『経済活動』、つまり日々の糧を得るための仕事が占める部分がとても大きい。そのためちょっとかじってみる・・・程度ではなく、わざわざ貴重な時間とお金を費やして本腰入れて学ぶとすれば、やはりそのあたりが強く意識される場合が多いこともあるだろう。
     もちろん英語で書かれたものならば、従来からインド国内はもちろんOXFORDやHIPPOCRENEといった英米の版元によるものを含めていろいろあるので、「辞書がなくて困る」なんてこともない。今の時代、インド国外のどこの国にいたってネットの通販でいろいろ手に入る。
     ただ自国語により解説された××語の辞書があるかどうか、あってもバリエーションが豊富かどうかといったことは、その××語を話す人々と自分の国との距離を暗に示しているようだ。
     たとえば英・日辞典の数はいったい何種類出ているのか見当もつかないくらいだ。また中・日辞典は大陸系のものと台湾系のもの双方流通しているし、韓・日辞典もいろいろ売られている。日本国内で出版されたものだけではなく台湾や韓国で発行されているものもあり、これらの国々の人々にとっていかに日本語が身近なものであるかということもうかがえる。タイ語辞典にしてみても、タイ語から日本語を引くあるいは日本語からタイ語を調べるもの以外にも、タイ語ことわざ用法辞典なんていう便利そうなものも書店に並んでいる。
     今の日本で人気の外国語といえば何だろうか?おそらくNHKの語学講座で扱っているコトバがそれらに相当することだろう。先述の英・中・韓に加えて、スペイン、ドイツ、フランスなどといったヨーロッパ諸語がある。そして数年前から突如としてアラビア語が登場したのにはやや驚いたが、ちゃんと継続しているところを見ると視聴者の関心はそれなりに高いのだろう。
     テレビとラジオ双方にアラビア語語学講座があるが、後者には東京港区元麻布にあるアラブ イスラーム学院の文化・広報担当者が出演している。サウジアラビアの政府予算で運営される同学院は、在京の同国大使館付属機関であるとともに、『イマーム・ムハンマド・イブン・サウード・イスラ-ム大学東京分校』という位置づけを持ち、実績次第でイマーム大学リヤード校又は他のイスラーム諸国の大学への留学の道も開かれているなど、かの石油大国は日本でのアラビア語普及にかなり力を注いでいるようだ。
     そんな中で、今年3月に出てきたヒンディー語=日本語辞典。アラビア語、ペルシャ語、英語等からの借用語を含めた8万語収録、前者ふたつの言葉を起源とする単語についてはウルドゥー語表記も付加してあるし、イディオムや用例もなかなか豊富である。日本語解説による本格的な辞書の登場だ。
     編者は大阪外国語大学の先生方。辞書の編纂には深い学識とともに非常に緻密で膨大な作業がともなうものなのだろう。充実した収録内容と情報量、それとは裏腹に出版部数がそれほど多くないであろうことを考え合わせれば、これが日本で18,900円(税込)で手に入るとはちょっと安くないだろうか?
     この新しい辞書の登場は、日本におけるインドのコトバに対する関心の高まりや両国間の距離が以前よりもさらに近くなってきたことを象徴している・・・とは言いすぎかもしれないが、そうあって欲しいと願っている。
    『ヒンディー語=日本語辞典』
    古賀勝郎/高橋明 編
    ISBN: 4469012750

  • 日本でインド系放送の輪広がる


     昨年から日本で東京のMOLA TVと大阪のHUMTUM TVがインド、パーキスターン、バングラーデーシュのテレビ番組をウェブ上で配信するサービス(番組配信事業において両社は提携関係にあり、契約パッケージ内容・料金ともに同一)を行なっており、この一年ほどで取り扱いチャンネル数が次第に増えてきた。
     当初はヒンディー番組のみであったが、今ではパンジャービー、グジャラーティー、マラーティー、ベンガーリー、ウルドゥーと放送言語のバリエーションも広がっている。BTV(バングラーデーシュ)、PTV(パーキスターン)に加えて、南アジアのさらに他の国の放送をラインナップに加える予定もあるのだ。各現地語による放送番組をそのままウェブ上で流す、いわばケーブルテレビのインターネット版といえるだろう。
     この盛況を受けて、新たな会社がこの業界に新たに参入する動きが出てきている。IP電話を利用した安いプリペイドカード国際電話の取り扱い、国際線航空券の販売、自動車の輸出などを手がける株式会社ユアチョイスコーポレーションである。
     この手のサービスの広がりはADSLや光ケーブルによる大容量回線の普及を背景にしたものであることはいうまでもない。ZEE TV等の各放送局により国ごとに指定の番組配信取扱業者があり、これらの業者が番組を流すのは日本国内のみであること、番組で使用されるのはどれも現地の言葉であるため顧客の大部分が日本在住の南アジア系の人々であるため、日本における彼らの人口規模の相当な拡大が感じられる。
     契約者の大部分を占める南アジア系世帯の中で、番組視聴時間が最も長いのは主婦であるといわれる。在日の南アジア系の人々の中に占める勤労者は男性が圧倒的に多い。彼らは日中ずっと仕事で出払っており夕方の帰宅時間も決して早くはない。そのためあまりテレビを見る時間はない。だが夫の赴任についてきた奥さんたちの多くは専業主婦で小さな子供がいるケースも多いので家にいる時間が長くなる。そのためこうしたサービスが必要とされるのだ。結局のところネット経由のインド系テレビ番組の普及のカギを握るのは主婦らと小さな子供たちなのかもしれない。
     80年代末のバブルの頃から日本の街角では南アジア系の人々の姿が急増したのだが、当時は短期滞在において日本との間に査証の相互免除の取り決めがあったパーキスターン、バングラーデーシュ(そしてイラン)の人たちが工場や建築現場などで働いていたが、ほとんど例外なく単身で日本に来ていた。
     やがて日本の景気の悪化とヴィザ取得の義務付けと審査の厳格化により、彼らの数は次第に減少していくのとちょうど入れ替わるように増えてきたのがIT関連の業界で働くインド人エンジニアたち。やはり彼らもまた比較的若い年齢層の人たちが多いが、前者と大きく違うのは合法的な在留資格を持ち、いわゆる3Kの職場とはまったく違う環境での業務に従事するエリート的な立場であることはもちろんのこと。しかし日本での生活面でも大きく違う面がある。若い層が多いことから単身者も決して少なくないものの、奥さんや子供を伴って来ている人が非常に多いことである。日中多くの時間を家の中で過ごすことが多い彼らにとってこそ母国の放送がリアルタイムで受信できることのメリットは大きい。
     
     もちろんインドだけではなく、東南アジアや南米など各国の放送がネット経由で流れるようになっている昨今。在日の外国人等を相手に小さな会社が番組のパッケージを細々と切り売りする状況にも変化が現れるのではなかろうか。大手通信系会社が一手に複数の国々からなる大量のチャンネルを扱おうと試みることがあるかもしれないし、各国での大容量通信回線の普及が進めば、外国のそうした業者が日本国内に拠点を構えることなく、直接切り込んで来ることもあるのかもしれない。
     いうまでもなく、現在インド系テレビプログラムを日本国内で配信する業者たちは、各放送局と正規の契約を交わしたエージェントであり、放送されるコンテンツについては著作権等の関係も含めて法的に守られていることから、他社が勝手な真似をすることは許されない。それでも第三者によるプログラムの二次利用や再配信、そして『海賊放送局』など、いろいろ出てきそうな予感はする。
     かつて海外のテレビ放送受信といえば、巨大なパラボラアンテナを設置して海外のテレビ局による衛星放送を受信なんていう大掛かりでマニアックなものであったが、ここのところ急速に手軽で簡単なものになってきている。時代はずいぶん変わったものだとつくづく思う。こと通信や放送について、世界は本当に小さくなったものだとつくづく思う。

  • 池袋にショヒード・ミナール

    池袋のショヒードミナール
     1999年にユネスコの第30回総会で宣言された『国際母語の日』は2月21日。この日をShaheed Dayと呼び国民の祝日とするバングラデシュの強い働きかけにより実現したものである。 民族固有の言葉と文化の大切さをアピールし、1952年に自国の言語運動で大勢の犠牲者を出したこの2月21日を採択することを提案し、数多くの国々から賛同を得たのである
     本物のショヒード・ミナールが建つバングラデシュは、多くの尊い命と引き換えに自主独立を達成した国だが、暮らすチャクマ族をはじめとするモンゴロイド系少数民族との摩擦などからくるチッタゴン丘陵問題をかかえていることは皮肉ではある。この世の中はさまざまな力関係が幾重にも折り重なってできている。だから被抑圧者は同時に抑圧者でもあり、強者と弱者の連鎖は果てしなく続いているものなのだ。
     本題に戻ろう。このたび国際母語の日の象徴でもあるダッカのショヒード・ミナールのおよそ1/10ほどの大きさのレプリカが池袋西口公園に登場した。昨年7月12日、来日中のバングラデシュのジア首相から東京都豊島区に寄贈されたもので、同日定礎式も行われている。今年4月16日にこの場所で開催された『ボイシャキ・メーラー』の開会に先立ち、このモニュメントの完成式典が執り行なわれた。
     今、このモニュメントが建つ公園とバングラデシュの縁といえば、毎年ここで開かれるボイシャキ・メーラー以外に思い当たるところはない。だがその催しが開かれるまさにこの場所に、かの国の首相が訪日の際にわざわざ手みやげとしてわざわざ私たち市民のために持ってきてくれるという親日的な姿勢は実にありがたいものだ。
     南アジアのどの国をとっても、日本に対して特に友好的な国ばかり。外交辞令として、あるいは観念的な『友好』のみならず、よりお互いの顔が見える身近な関係を築いていきたいものである。
    ダッカのショヒードミナール

  • 宝の山 2

    Dharavi
     東西を海に挟まれたインド随一の商都ムンバイーは、水際ぎりぎりまで市街地が迫る高密度な都市空間だ。地理的には一等地となりえる地域がスラムとして放置されているということは、行政にとっては大きな損失であろう。劣悪な生活・労働環境とともに、住民たちのおおまかな人口さえもつまびらかでないようでは治安面からも心もとないし、経済面でも本来期待できるはずの大きな歳入を逸失しているといえよう。インフォーマルな経済が中心で取引はほとんど現金でなされるため、経済の実態を把握するのはかなり困難なのだ。
     だがここはムンバイーの街で建設現場、家庭の使用人や小さな工場の作業員その他の労働者や臨時雇いといった形で社会を下支えしてくれる人材を豊富に供給してくれるだけではなく、実に意外な側面がある。ダーラーヴィー自体が活発や工業地帯であるため、年間10億ドル近い収益を上げているのだ。
     主な産品は皮革製品、陶器、衣類、装身具等々で製品は国外にも輸出されているほど。先のふたつは前回取り上げたごとく、ダーラーヴィーの市街地化(=スラム化)が始まって以来の伝統産業である。同様に盛んな食品工業については、甘味類を中心とした製品がムンバイーやその周辺のローカルな市場で消費される。
     ビジネスシーンとしての大きなポテンシャルを秘めているのは、スラムとしては特筆すべきものであろう。 信じられないことにダーラーヴィーの住民たちのおよそ半数が中間所得層に属し7万5千〜50万ルピーほどの年収があるという非常に極端な説もあり、この地域では収入面よりもむしろ生活・衛生環境のほうが問題であるともいわれる。
     こうしたスラムで一生を終わる人々の姿が無数にあるいっぽう、毎年およそ1000世帯もの人々がベターな環境を求めて北郊外のミドルクラスの住宅地に居を求めて移転していくという。どん底にあっても旺盛な上昇志向と智恵や才覚があれば『ムンバイー・ドリーム』を実現する夢はそこらに転がっているのかもしれない。
     ダーラーヴィーには立地の良さと地場産業の活況を背景とする大掛かりな再開発プランがある。 政府は行けどもバラックが続く風景を改め、製品の海外輸出を念頭に置いた宝石や装身具の加工ユニットを建設して職工5万人分の雇用を創出し、そこで働く人々が8千〜20万ルピーの収入を上げることができるようにするという青写真とともに、地域を九つのセクターに区分し、広い道路の建設、適度なオープンスペースの確保し、学校巣や病院を建設し、上下水道が完備した住宅地などを建設することを構想しているのだ。 
     そして現在のバラックのオーナーたちには225 sq ftのフラットを無料で提供し、『ミドルクラスの』生活環境を用意するなどという計画もあるようだが、本当にうまくいくのだろうか。
     こういう議論が出るということは、90年代以来続く好調な経済成長のおかげで、ある種の余裕が出てきたということかもしれないし、成長の果実が社会の底辺にも及ぼうとしていることの表れなので決して悪いことではない。
     だが経済や所得水準などにおける大きな地域的な格差が引き金となり、この商都に人々が押し寄せてくるという構造をなんとかしない限り、第二、第三のダーラーヴィーがさらに北郊外のほうに出来上がることだろう。
     ところで再開発の本当の狙いとは、現在ここに暮らしている人たちのために雇用を創出したり、環境を整備したりというものではないと思う。本音は土地が限られたムンバイーで貴重なこのまとまった広がりを持つダーラーヴィーを『収用したい』のだろう。もちろんここに暮らす人々を追い出したうえでのことだ。雑なスケッチをいかに美しい見事な絵に見せるかという一種の手品こそが、どの時代どこの国にあっても為政者の腕の見せどころである。
     再開発にはこれまでにないとても強力な指導力と実行力が求められる。問題は議論されていても、いざこれに着手する勇気を持つのは一体誰なのか? その号令がかかるのをじっと待ち構える人たちがいて、官民さまざまな分野からなる再開発事業から生じる大規模な特需、不動産売買や住民たちのリロケーションや補償等々さまざまな利権をめぐり闇でうごめいていることだろう。
     ダーラーヴィーというスラムを必要としているのはここに暮らす人々だけではない。ここから外へ働きに出てくる安い労働力をアテにしてきた産業もあるだろう。ダーラーヴィーという地域の潜在的な宝の山を活用するという視点からは、この再開発構想には大きな意味がある。しかしその『宝』とはいったい誰のものなのだろうか。この世の中どこを眺めても立場が違えば、人々の利害は相反し対立するもの。行政の描くスケッチがそのまま実現するかどうかよりも、これをきっかけに住民その他関係者たちを含めて、人々がどのような落としどころを見つけていくのかというところに注目したい。
     ダーラーヴィーの絶好のロケーションからして、この巨大なスラムがこの先10年、20年もそのままであるとは思えないのだ。