ただいまメンテナンス中です…

カテゴリー: society

  • 中華民国駐印軍

    ある記事を目にして「中華民国駐印軍」という軍隊がかつてインドに駐屯しており、彼らの墓地があることを知った。概要としてはこのようなものらしい。そして駐インドの中華民国(台湾)代表処は、年に2回、お彼岸の時期に職員を派遣して慰霊祭を行っているとのことだ。

    印での中華民国軍共同墓地、中国大陸が観光地への変更を強要か (台北駐日経済文化代表処)

    だが、これについて中華人民共和国はインドに観光地化を要求。台湾側は歴史的価値を損なうと反発しているとも書かれている。

    インドの「中華民国」軍墓地 中国が観光地化要求で波紋 台湾は「歴史的意義をおとしめる」と反発 (産経新聞)

    グーグルマップで検索してみると、州都ラーンチーからハザーリーバーグに行く中間点だ。これは立ち寄ってみたい。

    これらの記事で気になるのは、地名を「ランガルー」「ランガル」と書かれていること。『ラームガル」(ラーマの砦)なのだが、産経新聞のような大手メディアで書いてしまったせいか、検索して出てくる他メディアでもそのように表記されているのが残念。グーグルマップの日本語表記をよく見ると、ここにも「ランガル」と表記されているため、間違いの元はここかもしれない。

  • パハールガンジの「見どころ」

    パハールガンジの「見どころ」

    ニューデリー駅で降りて宿に寝に行くだけのパハールガンジ、とりあえず泊まるだけのパハールガンジとしておいてはちょっともったいない部分もあるアメ横みたいな雑踏。

    ムガル時代の城塞に囲まれたシャージャハナーバード時代は、このあたりが「郊外」であり、今のパハールガンジあたりは主に穀物を扱うマーケットとなっていたという。その頃のデリーは大した広がりはなく、すぐ外は農村だったため、ここに農民たちが持ち込んだ米穀だの豆類だのが取引され、それが牛車に載せられて城門の中へも運ばれていったのだろう。(城壁は1857の大反乱平定後、ほとんどが撤去され、城門は今も北デリー各地に「アジメーリーゲート」「カシミーリーゲート」等々多数残る。)

    そんな牧歌的だったはずのパハールガンジが大きく変容したのは20世紀に入ってから新都市地域、ルティヤンス・デリー、つまり計画都市として、カルカッタから首都移転させるために築かれた都市地域の建設がきっかりだったようだ。コンノートプレイスのすぐ北側に位置し、ムガル期からのデリー市街地と接続する地域に当たるため、当然活況を呈することになったようだ。

    当然、この地域で相当儲けた人たちもあったわけで、豪壮な住宅も実は点在している。

    同様にパハールガンジの商業としての発展の大きな背景としては、まさにそのデリー遷都の1931年に合わせてニューデリー駅の開業。これでインドの新首都の玄関口の街となり、さらには1947年の印パ分離独立により、パキスタンから流入した人たちが日々の糧を得るための稼ぎの場を提供する場ともなり、今のような人口稠密なエリアになることが運命づけられたらしい。おそらく、場所柄、オールドデリーの商業地同様に、ムスリムの有産階級の中から新生パキスタンに脱出する者も少なくなく、空きとなった屋敷をチンピラたちの仕切りで細分化し、店舗や住宅として貸し出したりもしたはずだ。

    そんな中でも、よくよく目を凝らしてみると、珠玉の逸品では?と思われるような物件を見つけることは珍しくない。この建物なども、駅からバハールガンジの奥の方向に向けて進んだ野菜マーケットすぐ手前あたりにあり、特に顧みられることもないのだが、なかなか立派なたたずまい。往時は相当立派なハヴェリー(お屋敷)だったことと思われる。

    個人の住宅だと、おいそれと「中見せてください」とは頼めないのだが、ここは幸いにして自治体が運営する小学校。(ナガルニガム・プラートミク・ヴィデャーライ」とあり、ちょうど学校が終わるあたりの時間帯で、勤めている先生に話をすれば見学くらいさせてくれるだろう。その日は帰国前日で翌日は休日で学校は閉まっている。また次に来るときにしよう・・・と思っているうちにコロナ禍で2年以上過ぎてしまった。

    「東洋のローマ」「遺跡と共存する大都会」デリーでは、数えきれないほど見どころが多いので、わざわざパハールガンジに残る古いお屋敷に構っている必要もないのかもしれないが、よく宿泊するエリア内で、朝食や夕食に出かけるその途中に何か風雅なものが転がっているのならば、そこを訪れてみない理由はない。また、こんな混雑していて、四六時中観光客が往来しているエリアであっても、そうしたものとまったく縁のない人たちにとっては、初めて直接接点を持つ外国人だったりすることも珍しくなく、いろいろ興味深い話を聞かせてくれたりすることもある。こうしたところで新しい会話の糸口を持つことも、インドを旅行する楽しみのひとつであったりする。

  • 長大なプラットフォーム、遠大な貨物列車

    京都駅の0番線は、「日本一長いプラットフォーム」として知られる。全長なんと558mもあるのだ。もっとも実際に0番線として使用されている部分は323mで、実質同じ構造物上の延長線上は、関空直行の特急はるか専用ホームとなっている。これらを合わせて558mという途方もない長さとなっているとのこと。

    インド国鉄は、というと、これまでしばらくの間、インドナンバルワン、つまり世界でも最長のホームを誇っていたのは、ゴーラクプル駅の1,366mという途方もないものであった。これに次いでカラグプルが1,072mでインド2位で世界でも2位、世界3位はアメリカのシカゴ駅1,067mだそうだ。そしてインド3位以降はビラースプルの802m、ジャーンスイーの770m、ソーネープルの738mという具合になる。なお、この記録はすでに昨年半ばに塗り替えられており、現在は最も長いプラットフォームを持つのはフブリー・ジャンクション駅で、1505mという、端から端まで見渡すことのできない長さのものだ。

    インドの特急、急行などの長い旅客列車は25編成となり、一両はおよそ24mの長さ。つまり合計で600mくらいにはなるため、インドの特急や急行が停車するホームは総じて長く、初めて訪印する人はたいてい驚くはず。それでも1kmを越える長さは、必要ないように思えるかもしれないが、インドは貨物列車大国でもある。積荷に上げ下ろしや積み替えのハブとなる鉄道駅では、長大な貨物列車が停車するため。

    貨物輸送といえば、昨年のデルタ株が猛威を奮った際、インドのニュース番組でその雄姿が繰り返し伝えられていた。重篤な肺炎を起こすケースが全国で多発し、これに対応して中央政府が全力で治療用酸素ボンベの調達に奔走したときのことだ。国内のメーカーによる努力はもちろんのこと、シンガポール、マレーシア、UAEにサウジアラビアなど、インドの近隣国も協力し、不足しているボンベ供給へ拍車がかかった。これらを専用貨物車に載せて、インド東西南北へと疾走する様子が繰り返し画面に流れていたのは壮観であるとともに、インドの人々はとても頼もしく感じたことだろう。

    さて、そのインドの長い客車よりもさらに長い長い貨物列車だが、本当に長いものになると、2.8kmにもなるし、最近は3.5kmに及ぶものさえある。踏み切り待ちしていて、いつまで経っても開かないので、「いったい何両繋いでいるのか?」とイライラしたりもするかもしれないが、そんなときは先頭の車両から数えてみるといい。けっこうな暇つぶしにもなるものだ。最後の車両までカウントし終えて、その数の多さに仰天することだろう。

    Hubballi’s world’s longest railway platform waits for PM’s date for inauguration (DECCAN HERALD)

  • 日本の桜風景

    インドのニュース番組で日本の桜の風景(おそらく九段のお堀端付近)が写し出されていて、美しい眺めであるのは良いのだが、中華風のBGMが挿入されているのは気になる。

    まあ、インド人にしてみると「中国人と日本人は同じ民族だが、国は別々になっているから、前者は中国人、後者は日本人と呼ばれる」という理解なので仕方がない。今どきのインドでも、「東京から来た」と言うと、目を輝かせて「おお!従兄弟が香港に住んでいる!」とか言う人は普通にいるし。

    「え?香港って何だよ?」って思ったりもするが、デリー、アーメダバード、ムンバイが同列の並びであるように、上海、香港、東京はひとつの並びとなっている人が多いことについて目くじら立てても仕方ない。往々にしてカンフー映画即ち空手の映画という具合に把握されているし、近年はここにテコンドーも混ざってきて、かなりややこしいことにもなっている。まあ、これはインドに限ったことではないのだけれども。

  • モスクのラウドスピーカー

    マラーター民族主義(マハーラーシュトラ州の地元民マラーティーの民族主義)政党MNS(Maharashtra Navnirman Sena=マハーラーシュトラ 復興軍)党首のラージ・タークレーが主張する州内でのモスクにおけるラウドスピーカーの使用禁止。5月3日までにという期限を提示したうえで、対応が取られなければアクションを起こすと警告している。

    その場合、モスクの前で支持者たちがハヌマーン・チャーリーサーを流すとしているが、真意はおそらく配下のゴロツキたちを送り込んで乱暴狼藉と破壊行為を行うという意味だろう。MNSは同州のシヴセーナーから分離した組織。党首のラージ・タークレーはシヴセーナー党首のウッダヴ・タークレーの従兄弟で、前者はシヴセーナーの創設者で長く党首を務めていたバール・タークレーの甥、後者は息子。バール・タークレーの死後、党内のリーダーシップを巡り、ラージとウッダヴが火花を散らし、結果としてラージはシヴセーナーから手下たちを連れてMNSという分家を作った。

    党としての主張は本家とほぼ同じだが、本家と分家は協調することはなく関係は断絶している。本家はバール・タークレー時代に同州与党として君臨した過去もあり、現在はナショナリスト会議派及び国民会議派と組んだ連立政権を運営するとともに州外規模は小さいながらも支部を持つセーナーに対して、MNSは影が薄い。野党に居るときのシヴセーナー同様、抗議活動が暴力的なのも特徴的だ。例えば彼らがオーガナイズするバンド(ゼネスト、政治的主張の手段としての集団怠業)の際、バンドを宣言した地域では公的機関も含めて全てが停止する。彼らの活動家たちによる暴力と破壊行為が怖いからだ。朝早くからバスのデポーやバスターミナルなどで棍棒や刀剣などを持った暴徒が押し寄せて、エンジンをかけていたり、乗降場に配置されているバスのガラスを全て割ったり車両を損壊させたり、職員たちを掴んだり殴ったりする。当然、これを予期していて待ち構えているメディア(今はSNSでも動画が拡散されるだろう)でテレビ等に流れるため、市民たちに「あぁ、今日はシヴセーナーのバンドだから危ない」と再認識させるのだ。その後、活動家たちはバーザールや市内の要所を回って営業中の店などがないか監視したり、主要道路を走る車両等を攻撃したりする。

    ただ幸いなのは、本家シヴセーナーほどの動員力はないため、かつて彼らが実施した「ムンバイ・バンド」のような大規模なもの(バール・タークレー死後、MNSが分家する前に行われた。たまたまムンバイに居合わせたが、文字通りまる一日、大都会が完全停止。マリーンドライブその他のメインストリートで昼寝が出来るくらい全く何も走行しておらず、全てが停止)を行う実力はないことだ。

    だが暴力性と有言実力性は本家と同じなので、州内にある数々のモスクは程度の差はあっても、とりわけ「攻撃すれば宣伝効果が高い」と思われるロケーションにあるもの、MNSの活動拠点に地理的に近い場所にあるものなどは、かなり警戒していることだろう。これまで認められていた慣行(ラウドスピーカーによる大音響のアザーンの呼びかけ)についての反対は唐突感があるかもしれないが、MNSとは無関係なところでカルナータカ州で高等裁判所による音量制限の命令が出るなど、今後は「モスクのスピーカー」に対して、風当たりは強くなるかもしれない。

    当然、予想されるのはBJP政権下にある各州で音量制限という形での対応が出てくるのではないだろうかということだ。その一方で、ヒンドゥー寺院からは朝早くから賑やかなバジャン、マントラ、鐘の音などが長時間に渡って流れていたりするのだが、社会は「身内の物音」「マジョリティの人たちの営みの音」については、生活音であるとして寛容なものである。

    シヴセーナーの創設初期はケーララ州やタミルナードゥ州など南インド地域から来た人たちを排除の標的としていたが、その後はターゲットを北インドの主にUPやビハールから来た出稼ぎ労働者たちに変更。マラーター民族主義の背景には彼らが地元民の雇用を奪っているとするものがあり、そうした労働者層だけでなく、州内での国鉄関係の採用試験にやってくる北インドの人たちをも攻撃する事件などもあった。

    いずれにしても「民族主義」なので、そこに宗教をベースにした差別行為ではなかったわけだが、今回はムスリムをターゲットにしていることは大きな方針転換とも言える。「マラーター民族主義」という時点で、ヒンドゥーであることは言わずもがなであるものの、民族主義なのでそこにはムスリム排除の要素は含まれなかった。先に記した「ムンバイ・バンド」はまさにそれを象徴するもので、バンドのきっかけはムンバイのガトコパールで起きた市バス爆破テロ(イスラーム原理主義組織によるものとされる)への抗議活動で、非難の対象は当時の州政権による対テロ無策ぶり及びテロ行為への反対意思の表明であった。このときはシヴセーナー+BJPがバンドを先導するとともに、地域政党等もいくつか賛同して相乗りしたのだが、この中にはマハーラーシュトラ州で有力なイスラーム教組織も賛意を示して協力し、シヴセーナーはこれを大いに歓迎しており、反ムスリムではないことを鮮明にしていたことに、私はある意味、感銘のようなものを感じた。

    本家シヴセーナーは先のマハーラーシュトラ州議会選挙で共闘したBJPとポスト配分で大揉めした挙げ句、組閣前に早くも連立瓦解。結果として、それまで宿敵だったナショナリスト会議派及び国民会議派と連立するという珍事により、BJPと敵対関係になっているが、今後は分家のMNSがBJPと共闘という線も出てくるかもしれない。今のところBJPはMNSの動きを様子見という具合のようだが。

    ‘Ban loudspeakers in Maharashtra mosques by May 3 or else…’: Raj Thackeray issues ultimatum (dnaindia.com)

  • 物価高騰

    物価高騰

    昨日配信されたインディア・トゥデイ電子版の最新号。表紙にもなっている特集記事は日用品等の価格急騰。昨今の燃料価格高騰により、ガソリンやプロパンガスも上がっているが、牛乳のようにあまり価格に変化のないものもあれば、トマト、ナスなどの野菜類などのように昨年比で2倍、3倍くらいになってしまっているものも多いようだ。円安、ウクライナ危機、原油価格高などにより、様々なモノの価格がどんどん上がっている日本もさることながら、このような状態にあるインドの市民への生活への圧迫感は相当なものだろう。

  • お彼岸

    カルカッタの華人コミュニティーによるお彼岸のお墓参り。記事によると、日本のそれと違い、「昼と夜の長さが同じになる日の15日後」がそのタイミングとなるようだが、人々は先祖の墓を掃除して供養するとともに、親族が集う。インドにあっては異民族の独自の習わしということになるが、日本人である私たちからすると、ごくごく近い感覚。私たちがお彼岸で想うようなことをカルカッタの華人たちもご先祖について考えているわけである。

    Kolkata’s Chinese community observes Tomb-Sweeping Day at Tangra cemeteries (Telegraph)

  • 合従連衡の背後にあるもの

    半月以上前のニュースになるが、これを目にしたときに思ったこと。

    こういう報道があると、すぐに「同じシーア派のイランとの☓☓☓」というような話が出るのにうんざりする。

    イランは日本で喧伝されているような感じの宗教的な国ではないし、ましてや原理主義の国でもない。人々とモスクの関係性は、言ってみれば日本の私たちとお寺や神社みたいなもの・・・と書くと、イランのことを知らなければ「ええっ!?」と言われるかもしれないが。広範囲にリベラルなイランの人たちと宗教施設との関係は、タイやミャンマーの人たちとお寺のような距離ですらない。SF的な仮定で、日本の仏教系新興宗教団体傘下にある政党が独裁政権を樹立して人々を縛ったら、私たちの国が「仏教版イラン」になる、そんなイメージでよいかと私は思う。その意味ではイランは特殊な国だ。

    また中東地域での長年のシーア派とスンナ派の対立というのもかなり虚構で、そもそもイランだってシーア派が多数となったのは16世紀のサファヴィー朝以降の話。もともとはシーア派の地域であったことはたぶん日本の社会科の教科書だって出ていると思う。教義で対立するわけではなく、人々を都合で色分けする為政者により対立が起きるのだ。

    フーシ派とイランの関係性、またヒズボラとイランの関係性だって、シーア派という信仰が絆となっているわけではなくて、地政学上の、また地域の様々な勢力関係による繋がりから、結果としてそういう形になっているはずなのに、「信仰が同じだから仲間グループ」としてしまっては、まったくの思考停止というか、本質を見誤ってしまうことは間違いないだろう。

    これはインドでも同じ。宗教的右翼のBJPと、「地域的に人口分布的にもたまたまヒンドゥーである」マラーター民族主義のシヴ・セーナーがガッチリ協力していたのは、ヒンドゥーという信仰の共通点からではない。

    だから先のマハーラーシュトラ州議会選挙で選挙協力して勝つも、組閣で揉めて協力関係瓦解。そして選挙戦では敵同士で、思想や主義では相容れないはずの世俗派で中道左派の国民会議派、ナショナリスト会議派とまさかの連立を組んで、今は仲良く政局運営している。つまり「ヒンドゥー」そして「右翼」という共通項は、協力関係の絆ではなかった。本質は実務的に協働できる関係性にあるか、という冷徹な判断なのだ。そこには観念的な信仰や情緒的な要素など、ほとんど入り込む余地はない。日本における自民党と公明党の関係だってそうだろう。戦略的連携だ。

    「同じシーア派同士だから手を結ぶ」という単純な結論付けや「かたやスンナ派、かたやシーア派だから対立する」という誘導のような予定調和的な言い草は、大昔の「社会主義国同士は連帯する同志なので戦争はしない」とか「メンドリが時を告げると天下は乱れる」という幻想とまったく同じだ。メディアはときにびっくりするほどズボラでテキトーなものである。

    フーシ派がサウジアラムコ石油施設を攻撃、火災発生 死傷者なし (REUTERS)

  • デジタル化が進むインド

    何かと至らない面は今でも多いけど、やたらと進んでいる部分は日本よりもはるかに前を疾走しているインド。日本でいうところの「マイナンバーカード」にあたる「アーダール・カード」は導入以降たいへんうまくいっており、農民や各種助成金等の受給者への給付は、そうした層の人々の銀行口座開設も平行してどんどん進めたため、昔のように行政の担当者が村落や集落に行って現金で配るということもなくなり効率化するとともに、そうした担当者によるピンハネもなくなるなど、高い成果が出ているようだ。

    今年は政府・行政関係のサービス等について、横断的かつ統一的な運用を導入するとのことで、個人に紐づいた各種申請・認可、入学、奨学金、運転等免許類、その他諸々が、ひとつのアカウント&パスワードで管理されるようになるとのこと。日本においては、政府への不信感が根強いため、包括的な管理をさせることを是としない風潮があるが、インドにおいては現場の役人等の不正等からくる不信感も強いのに、この違いはいったい何だろうか。

    Soon use a single sign-in to access plethora of government services, entitlements (THE TIMES OF INDIA)

  • エジプトはナイルの賜物。新首都はカイロとスエズの中間点。

    かつてどこの国でも大きな交易都市=大都会は水際に造られ、「都心」はその水際、そこから弧を描くように郊外へ広がるものであった。水運・そして生活用水の確保こそが都市の生命線であったがゆえのこと。これはインドに限らず世界中で同じだ。

    デリー、アーグラー、ラーホール、アーメダーバード、バトナー等々、いずれもこうした形で築かれた街であるし、かつては湖であった時代もあったとされる盆地内にあるカトマンズもこうした利に恵まれている。あるいは水運ではなく陸運のみで他の地域と繋がるジャイプルやボーパールにしても、大きな湖等による水資源あってこその市街地造営であった。

    とりわけ大航海時代を経て欧州列強がアジア等に築いた植民地の都市は、まず例外なく河港あるいは海港に面しており、その港に近い部分に港湾関連施設とともに行政に係る大きな建物が集まる官庁街を形成した。ムンバイしかり、コールカーター、チェンナイ、ヤンゴン、コロンボ等々、どの街も同様だ。

    そんな状況に変化を生んだのは鉄道、道路などの交通ネットワーク、遠隔地へも水資源を分配する水道の他、電気・ガス等のエネルギーの普及、通信網の整備等を含めた今に通じる基礎的なインフラの普及。これによって本来は水際にしか拡張しえなかった市街地がより周辺へと広がり、水が手に入らず利用できなかった土地でも人が住んで商工活動を行うことができるようになった。

    そんなわけで、ミャンマーのネーピードー、エジプトの新首都(名前は未定か?)などのように、かつては街を築くことすら無理だった場所に、よりによって巨大な首都を造るということが可能になったわけだ。

    そうは行っても平穏無事で成長が続く時代だけとは限らないので、立地・環境面からハードルの高い場所への首都移転というのはいかがなものなのだろうか。もちろんそういう場所が選択された背景には、解決しなくてはならない入り組んだ利権がなく、開発の青写真を描きやすいという前提があってのことなのだろう。今回はインドに係る話ではないのが恐縮ではあるのだが。

    エジプトの新首都建設、莫大な費用をまかなう「砂漠の錬金術」(asahi.com)

  • ウクライナの地名表記を改めるならば・・・

    ロシアによる侵攻をきっかけに、ウクライナの地名の日本語表記が変更された。今後は人名の表記にも適用されるのだろうか。こういうものは何かきっかけがあると突然変更されることがあるけど、何かきっかけがないとまったく変わらないもの。

    バングラデシュの地名表記なのだが、おそらく「東パキスタン時代」のウルドゥー語表記をカタカナ化したものをバングラデシュ成立(1971年、ずいぶん昔のことだ)以降も引き続き用いているようだ。

    たとえばローマ字でNARAYANGANJと表記して「ノロヨンゴンジ」、BARISALと表記して「ボリショル」と発音するのがバングラデシュだが、今も変わらず日本語での表記は「ナラヤンガンジ」「バリサル」となる。RAJSHAHIも語の意味からもウルドゥー/ヒンディー式にはラージシャーヒーと読みたくなるが「ラッシャヒ」になる。

    バングラデシュの地名表記がこんな調子なのは、ベンガル語を国語とする新生バングラデシュ成立後、日本語表記の見直しがなされなかったからだろう。苦労してパキスタンから分離独立した際、日本でも大きく報道されていたはずだが「バングラデシュの人たちに連帯感を示して、新生国家の地名はパキスタンのウルドゥー語風の読み方から改めて、ベンガル語風の読み方に変更する」という具合にはならなかったのは、当時の日本の関心は地理的にもっと近いベトナムやインドシナ情勢にあり、バングラデシュはその蚊帳の外だったためかもしれない。

    このように、日本語での表記は現地での発音に近いものとするという前提はあるものの、周辺地域との歴史的な関係や文化的背景などから、もともとそうなっていない地域はけっこうあるのかもしれない。ウクライナの地名がロシア読みに倣ったものとなっていた理由は、ロシアを中心とする旧ソヴィエト連邦時代に日本で定めた表記が引き続き使われていたからに他ならないだろう。

    【ウクライナの地名変更リスト】チェルノブイリはチョルノービリ。オデッサはオデーサに (HUFFPOST)

  • India Todayグループによるウクライナ報道  ロシア占領下エリアからのレポート

    India Todayグループによるウクライナ報道 ロシア占領下エリアからのレポート

    昨日はマリウポリからリポートしていた「AAJTAK」及び「India Today」(ともにIndia Todayグループ下の報道番組)の特派員ギーター・モーハンだが、本日はドネスクから。だが昨日までとはずいぶん事情が違うことに驚く。ロシアにより占領下にある側からの映像であるからだ。「世界で一番最初にロシア占領地からのTV報道」とのことだ。

    道端でマイクを手にして喋っている脇を「Z」の文字が入った軍用車両が駆け抜けていったり、そうした車両の兵士からも談話を取っている。伝統的な友好国インドの大手プレスであれば、ロシア占領下へも比較的容易に出来るのか、「ここから1km先には(この場所の奪還を狙う)ウクライナ側の前線があります」「ここにウクライナ側が武器を保管していたとのことです」と、ロシア占領下側からのリポートであった。ウクライナ侵攻の取材において、インドメディアはかなり有利な立場にあるようだ。

    Donetsk – the epicentre of war: Ground Report from the frontline (India Today)

    「AAJTAK」の放送画面から
    「AAJTAK」の放送画面から
    「India Today」の放送画面から
    「India Today」の放送画面から