初めてインドを訪れたのは1987年だった。歴史的な建物ではなくとも、街中は何もかもが古ぼけくすんで見えて『ずいぶんレトロな国だなあ』と感じた。当時のインドに較べて少なくとも都市部では海外から輸入された電化製品や日用品等が多く店頭に並んでいたパキスタンに足を踏み入れると『消費生活の豊かさ』を思ったりもしたものである。
もちろんそのころのインドにだってひととおりのモノは揃っていた。だがあまり購買意欲をそそるものではなかった。見た目からして貧弱でひどく型遅れで、事実すぐ壊れるからそのたびに修理することを前提として売られているのだと思った。電化製品、時計、履物類といった様々な『壊れモノ』を修理する職人たちが街中にあふれていることが、これらの製造者と修理人たちがどこか私たちの目の届かないところで固く手を結び合っているのに違いないと疑ったものである。
もちろん今でもいろんな修理屋さんたちは健在だが、外資や地場資本等が同じ土俵でより良い商品をとしのぎを削るようになってから、街中で見かける品物の質は向上してきたことは間違いない。人々も次第に豊かになり、これまで一台の自転車に妻子を乗せて走っていた人がバイクに乗るようになり、一家総出で一台のバイクに鈴なりになっていた人々がクルマに乗るようになった。そして昔旧式の国産車やスズキ自動車との合弁で生産を始めていたマルチに乗っていた人々はいまや大型のRV車を乗り回すようになったのだろうか。
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『買う水』の価格が変わらない
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狂気が駆け抜ける!(2)

Wikipediaの狂犬病に関する記事にアクセスしてみた。狂犬病とはすべての哺乳類に感染する病気であり、発症後は躁と欝の状態を繰り返すらしい。また恐ろしいことに発病したら治療法がなく、症状が現れてから遅くとも一週間で前後でほぼ100パーセント死亡するという。なんでも2004年に発病しながらも自然治癒したという例がアメリカにあるそうだがこれはギネスブックに載ることになったというほど稀で幸運なケースであるそうだ。
狂犬に噛まれた場合は予防注射をしていた場合は2回、そうでない場合は6回ワクチンを打つ必要があるという。また噛まれる場所により潜伏期間が違うらしい。体内に入ったウイルスが1日に数ミリから数十ミリ程度の速度で進み、神経系を介して脳神経組織に到達したときに発病するものであることから、要は咬まれる部位が脳に近いほど潜伏期間が短いということになり、二週間から数ヶ月という具合に大きな幅が出てくる。そのため脳にごく近い顔の部分を咬まれたりすると、ワクチンの接種を開始しても間に合わなくて発病というケースもあるらしい。だから『感染の可能性がある動物を抱え上げて遊んでやっている際にやられた』なんていう場合には、即座に病院に急行すべきである。
咬まれるだけではなく、感染している動物の唾液が目や口などの粘膜に触れるだけでも感染し得るということにも注意が要るだろう。だから『犬が咬んできたけどズボンに穴が開いただけで済んだ』とか『上着だけ咬まれた』という場合であっても、その衣類の扱いには相応の注意を払ったほうがいいかもしれない。 -
狂気が駆け抜ける!(1)

コルカタのパークストリートで、通りを行き交う人々の間を抜けて前方から物凄い勢いで犬が駆けてくる。何やら妙な唸り声も上げている。界隈で知り合ったインド人紳士と話をしながらマイダーン方面へと歩いていたのだが、これが私たちの足元をビュンと通過してびっくりした。さらに後方へと犬は一直線に駆け抜けていく。思わずふたりで顔を見合わせる。
「うわっ!暴走車みたいな犬だな」
「変な声出してるし」
そこからしばらく進み、沿道のある店に差しかかり『私はここで用事がありますから』と言う紳士と別れる矢先だった。同じ犬が今度は後ろから疾走してきて再び私の足元をかすめてこの男性と衝突・・・するかに見えたその瞬間、彼の左足ふくらはぎに咬み付いた。
懸命にその足を振り払うと犬はそのまま前方へと加速して走っていく。そしてやはり犬の進行方向にいた人が咬まれて悲鳴を上げている。
紳士は咬まれた部位を気にしつつハンカチを取り出して拭いている。ズボンには犬の唾液がべったりと付いている。
「医者に相談したほうが・・・」
「どうかな?」 -
ゴアの地引網
朝6時前に起きた。外はまだ暗い。海岸にはもう人々の姿があった。総勢40名程度といったところだろうか。眠い目をこすりながらサンダルを引っ掛けて見物に出ることにした。砂浜では毎日地引網漁が行なわれているのだ。
船で海の中にU字型に網をかける。網の引き綱には木製の取手がいくつも付いており、浜で人々がこれをどんどん引っ張って魚を追い込んでいく。漫然と引いているのでもなく、様子を見ながら引き手がジワジワと、あるいは一気に内側へと追い込んでいくのだ。そうした動きを人々に指示するのは、海の中に入りそうした動きを指示するリーダー格の者たちだ。引っ張って、引っ張って砂浜の最後端まで来た人たちは、そこで手を離して再び波打ち際の最前列に入る。
こうした動きを幾度も繰り返した後、海中で地引網から成る『輪』が小さくなり、岸に追い込んで引き上げる。岸近くの浅瀬で行なうため大騒ぎした割には雑魚ばかりで数も少ない。労多くして実入り少ないとはいえ労働という行為の原点である。獲れた魚の中に海ヘビがいた。波間の向こうへ投げ返していた。毒のあるものなのかよくわからないが。
漁が終わってから、セリが始まる様子はない。販売用ではなく自家消費用だということだ。参加した男たちがグルリと並び、親分格の男がその前の砂地に少しずつ置いていく。そしてカゴの中が空になったあたりで、皆でそれぞれの分け前を見比べる。「あそこが少ない」「彼のはちょっと多いんじゃないか」といった声に耳を傾けつつ親分は男たちの間での分け前の調整をしている。明解かつ民主的な方法だ。眺めていても実に気持ちがいい。
参加者たちの間には、村の同一コミュニティ、カースト、その他いろいろな要素があるのかと思いきや、少なくともここコラヴァの浜はそういうわけではないようだ。父祖伝来の「メンバー」や伝統的な漁民でなくても、この「朝の地引網」に参加できるのだという。
皆プロの漁師というわけではないし、地元っ子ばかりというわけでもない。漁が終わってくつろいだ表情をした人々に直に話を聞いてみると、彼らの中の半数ほどが昼間建設現場の労働者や付近のホテルの従業員といった人々だということがわかった。しかもこのあたりの村の出ではなく、カルナータカ、マハーラーシュトラ、ケララ等々各地の出身者が多く、現在この付近に在住しているということ以外にあまり接点はないらしい。とかく人手が要る作業なので外部の人々の参加も大いに歓迎されるのだろう。
男たち輪の外で、魚のおこぼれにあずかろうと野犬がじっと様子をうかがっていた。 -
携帯電話 2
いまさら言うほどのものでもないが、どこに行っても携帯電話の普及はめざましいものがある。もちろんインドもその例にもれず各社いろいろな料金プランを提示して競い合っている。
そうした中であまり可処分所得が多いとは思えないような人たちもけっこう携帯電話を持ち始めたころにはなんだか不思議な感じがした。だがもちろんのこと稼ぎのかなりの部分をつぎ込んで友達とのおしゃべりに費やす・・・わけではもちろんなく、『仕事を取る』ためプリペイドの安いプランで待ち受け専用で使うのだから理にかなったものであろう。
タクシーの運転手はもちろんオートの運転手も携帯を持っている人は多い。とかく外に出て仕事をする人たちには何かと便利で充分ペイするのだろう。はてはサイクルリクシャーを引く者であっても胸ポケットから電子音が鳴り『ハロー』なんてやっているのを見かけることがないでもない。携帯で出張散髪の注文を受けたりする床屋さんも少なくないと聞く。
ダージリンを訪れたときのことだ。額に固定したストラップの助けで家具類や大きな水のタンクといった大荷物を背負って運ぶネパール系のポーターたちの姿はヒマラヤの丘陵地ならではのものだ。彼らが仕事の合間に茶をすすりながら道端に座り込んでいる姿が市内各地で散見される。こうした人々も携帯電話の普及で『仕事が貰いやすくなった』のだという。そんなことを話してくれた男のポケットからメロディーが鳴り響く。電話を切った彼は『まあ、こんな具合さ』と言い残して新たな依頼主のところに出かけていった。 -
携帯電話 1
待ち合わせが苦にならなくなったのはいつごろからだろうか。幾人かと待ち合わせすると特にこれといった理由もないのに必ず遅れてくる人がいるものだ。それは往々にして同じ人物であったりする。時間にルーズな人間というのはそういうものだ。一緒に待ち合わせしている誰かが自宅に電話して本人の家族に『何時ごろ出ましたか?』とたずねてみたり、一人暮らしの場合はムダだとは知りつつも留守番電話にメッセージを吹き込んだりなどした。そんなとき、待ち合わせに最大どのくらい待つことができるかということが話題になることもあった。
さすがに待ちくたびれて『そろそろ置いて行こうか?』ということになったあたりで、くだんの遅刻魔は現れるものだ。みんながどのくらい自分を待っているかということをあらかじめ読んだうえで自分の到着時間を決めている確信犯だと思う。
話は戻る。どのくらい待てるかという問いに対して『相手によるがせいぜい20分くらいかな?』という答えが最も多かったように記憶している。『記憶している』というのは、近ごろでは駅前その他の炎天下や吹きさらしなどで人と待ち合わせることがあまりないからだ。
誰も彼もが携帯を持つようになったあたりから、待ち合わせといえば『じゃ××時ごろに××のあたりで』とアバウトになった。当日その場所に着いて見当たらなかったら携帯に電話する。あるいは相手からこちらにかかってくる。何かあってどちらかが遅れる場合も途中で連絡できるので、いつ来るかわからない相手を延々と待つ、あるいは反対に待たせてしまう心配もない。家や職場を出てしまうと連絡の手段がなかった時代と違って、お互いに目的地に行ったものの何かの行き違いで結局会えなかったなんていう失敗もなくなった。
時間に間に合わない人については行き先を伝えて後から来てもらえばよいので、結果として遅刻魔の存在が目立たなくなっている。携帯電話の普及で待ち合わせのありかたもずいぶん変わったものだと思う。テレビ、白物家電、自家用車といったモノの普及時期は日印間でかなりの差があったものだが、携帯電話の行き渡る速度は両国で同時進行しているのが今の時代の面白いところかもしれない。 -
いつもその場所にあの人が・・・
どこにあってもおよそ人々の一日の活動なんてそう大きく変わらない。朝起きて食事、学校や仕事に出かけて夕方に自宅に戻るというものだ。もちろん夜学校に通ったり働いていたりする人もあれば、もっぱら自宅で仕事するという人、あるいは営業でいつも各地を飛び歩いている人と色々あるのだが、それぞれほぼ決まった時間に各々のエリアで活動しているといってほぼ差し支えないだろう。
そんなわけでどこか特定の場所に腰を落ち着けて周囲を眺めてみると、自宅から出るときにいつもあの人も道路反対側の家から出てくるとか、ここの道を歩いているといつもこの人とすれ違うとかなどといったことに間もなく気がつくようになる。
たまにその人の姿を見かけなくても特段気にかけることもないのだが、すれ違う場所が違うと『今日は少し早く出たから余裕だな』と感じることもあれば、『こんなところで会うなんて今日は遅刻しそうだ!』と焦ったりすることもあるのだが、おそらく向こうもそんなことを思っているのではないだろうか。
電車では降りる駅の出口や乗換口の関係もあり、毎日同じ車両の同じ扉とはいわずとも、だいたい同じあたりで乗車する人が多いだろう。その結果、いつものオジサンが同じ新聞を片手に立っていたり、しばしば見かけるキレイな女性が前の席に座っていたりする。
朝の通学・通勤時だけではない。昼どきに食事に出たときも、同じ店のおなじテーブルあたりにいつも人たちがいたりするし、ほぼ時間が正確に決まっている朝に較べて夕方の帰りは人それぞれ時間が毎日同じということはあまりないが、よく見かける姿はあるだろう。この類の顔見知り(?)同士の特徴として、日々顔を合わせていながらも挨拶を交わす関係にはなりにくいし、もちろん声を交わすこともない。やがてお互いの居住地、職場、仕事の時間帯などが変わって、そういう人と日々すれ違っていたことさえ忘れ去ってしまう。
まったく関係の無い者同士の日々の習慣的な活動の中での接点がたまたま重なっているため『また今日もあの人が』ということになるのだろう。
だがこうしたルーティーンは決して長い時間をかけて出来上がるものではないように思う。日々イレギュラーな出来事が多い旅行中であってもそうした『習慣化』現象はそこここに見ることができる。宿のグラウンドフロアーのカフェで、昨日窓際の席で朝食を取っていたドイツ人カップルは今日もそこでトーストを食べていたりするし、昨夕の同じころ屋上で椅子に腰掛けてビールを飲みながら本をめくっていたイギリス人男性は今夕も同じようにそこにいたりする。私自身も先客がいなければ食事に着くときの席はだいたい『前回と同じ』ことが多い。
なんだか動物の『縄張り』のようだなあと思うが、ヒトもまたこの世の中に生きる数多くの生き物のなかの一部なのだから、意識せずとも日々の何気ない行為の中にもささやかなテリトリーに関する本能のようなものが自然と働いているのかもしれない。 -
ユニバーサルな禅寺
兵庫県新温泉町という山間の町に外国人たちにAntaijiとして知られる人気の曹洞宗の禅寺があるそうだ。この安泰寺を導いているのはドイツ出身のネルケ無方住職。今から四年ほど前に八代目の無外信雄住職から引き継いだという。
このお寺のウェブサイトにアクセスしてみると、8ヵ国語でのコンテンツが用意されており、ずいぶん開かれたお寺という印象を受ける。そもそも仏教、そして禅というものが日本の『民族宗教』であるわけではない。地元の人であろうが外国からやってきた人であろうが、教えに関心を寄せる人々をオープンに受け入れてくれるのはありがたいことだと思う。
ちなみにこのお寺では、欧米を中心とする各国からやってきた人たちが地元日本人たちと滞在しているようだが、この国際性がゆえに『共通語』は英語だという。
私自身、このあたりに行くことはまずないのだが、いつかチャンスがあればぜひ訪れてみたい。 -
飲んだら乗るな!

近年、しばしば映画で見かけるシーンで気になることがある。飲酒しながら運転をしている場面が出てくることが少なくないことだ。割と最近見た映画の中でもLage laho Munna BhaiやDarna zaruri hai他でそうした描写を目にした。
もとより飲酒運転をしようともよほど蛇行していたり、警官と対面して酒臭かったりしなければ捕まったりしないのではないだろうか。都会はおろか地方の小さな町などに行けばなおさらのことではないかとも思う。それに映画の社会への、特に若者たちへの影響力の強さを思えば少々気になるところだ。
クルマだけではなく夏ごろにはエコノミーな料金で全国にネットワークを広げる航空会社のパイロットの『酒気帯び』が発覚したのも記憶に新しい。
社会そのものがだんだん(地域によっては一足飛びに)飲酒に寛容になってきているので、昔よりも酒がかなりおおっぴらに飲めるところも増えている。かつては映画の中でも飲酒シーンを演じるのは悪漢であったり、何か非常にまずいことが起きて自暴自棄になっている主人公といったネガティプなイメージで取り上げられることが多く、それに続いて暴れたり女性に悪さをしたり・・・といった脈絡につながっていくことが多かったように思う。でも今ではスマートに酒を飲むシーンが多く、そんなハチャメチャなシーンも今は昔といった感じだ。
インドで実生活の上でも人々が酒を飲む機会が増え、酒を飲むということがごく普通の生活上の行為として描かれることが多くなったことは、呑み助の日本人としては大いに歓迎したいが危険な飲酒運転だけはとても困る。この部分については決して寛容になって欲しくないものである。 -
金の卵か?新型フリッジ『MITTI COOL』

生活の知恵をベースに開発された、グジャラート発の電気を使わないエコな冷蔵庫があるそうだ。表面に少しずつ滲み出て気化することにより、素焼きの壺の中に入れた水は外気よりもかなり冷たく保たれる。空気中の湿度が低いほどその効果は高くなるわけだが、この原理をそのまま利用して作ったのがこの『フリッジ』なのだ。ワンカネールに住む陶工の発案によるもので、ボディはもちろん焼き物でできている。四角い素焼きの水タンクの中に冷蔵室がしつらえてある・・・といったイメージだ。
上部の丸いフタを取り大量の水を注ぎ込むだけで準備完了。気化熱で冷やされた水は冷蔵室内の野菜や牛乳などを適温で保ってくれる。この水はボディの横に取り付けられた蛇口をひねると出てきてそのまま飲用となる。この古くからの知恵による新しいフリッジはデリーのプラガティ・マイダーンで開催中の第26回インド国際貿易フェアにも出品されている。
NDTVインディアの報道によれば価格は2000ルピー。『冷蔵庫』の大きさにいくつかバリエーションがあるのかどうかはよくわからない。画像の展示品のサイズは小さすぎるようなので、家庭の小型冷蔵庫くらいあればと思う。しかし素焼の陶工たちが手作りするものなので、このくらいの大きさが限界だろうか?
ともかく電気不要なので停電を気にする必要はないし、ランニングコストもゼロ。一見何てことないアイデア商品だが、農村などからの引き合いは決して少なくなさそうだし、ひとたび当たればこの『冷蔵庫』作りに精出す村々も出てきたりすると雇用吸収力もバカにならないだろう。ターゲットとなるべき層はインド国内のみならず南アジアや周辺各国の相当広い範囲に及ぶ。素朴ながらも今後大化けが期待される目玉商品かもしれない。
部屋の隅にちょこんと置いても邪魔にならないし、エコ・フレンドリーな温度に冷やしたビールや果物を楽しんでみるのも普段とは違った味わいがありそうだ。私もひとつ買ってみようかな?
粘土製、太陽エネルギーの「エコロジー冷蔵庫」誕生 (AFP BB News) -
メトロが変えるか? 街の風景

先日、ムンバイー・メトロのことについてアップした後、インディア・トゥデイ(10月4日号)に各地で広がるメトロ建設計画について書かれた記事が掲載されていることに気がついた。
それによると、アーメダーバードとコーチン以外にも、バンガロール、ハイデラーバードでもこうしたプランがあり、コルカタでも市街東部にネットワークを広げることが構想されているとある。都市部の過密化が進む中で、交通渋滞の減少およびスピード化というふたつの相反する効果が期待できるうえに、公害と交通と減らすことにも貢献するため、まさに時代の要請にマッチするといったところらしい。
個人的には既存のバス等の交通機関に較べて安全性と質も格段に高く、公共交通機関というもののありかたについて大きな指標となりえることからその存在意義は極めて大きいと考えている。ちょっと想像してみるといい。インドでクルマもバイクといった自前の足を持たず、でも運良く自宅も職場もそれぞれメトロの駅近くにあったとすれば、毎日それで通勤できたならどんなに楽なことだろう。たとえすし詰めの満員だって他の交通機関よりもずっと安心だ。
メトロのネットワークが広がるにつれて、また他の交通機関と競合する部分が多くなるに従い、既存の交通機関のクオリティの向上もある程度期待できるだろう。またコルカタで検討されているように利用者たちの利便を図るため、市民の足として相互補完するためバスとメトロの走行ルートや停留所などの調和や共通チケットやパスといった構想もやがて当たり前のものとなるのかもしれない。
渋滞、長い信号待ち、事故などによる遅れなどもあり、時間的にあまりアテにならない都会の路上交通よりもずっと正確に動くメトロは、ときに細い道を通ったり複雑なルートを取ったりするバスにくらべて、同じ時間かけて進む距離も長い。そのため人々の通勤圏も広がり都市圏をかつては思いもよらなかった遠い郊外へと拡大できる。
人々はそこにマイホーム取得の可能性を感じ、需要をアテこんだデベロッパーが開発を進める。それまで二束三文にしかならなかったような土地の資産価値がグンと上がり・・・といったお決まりのパターンとともに、周辺の小さなタウンシップを呑み込む形で市街地が拡大していくことになる。こうした動向の副産物として、いつしか都心部(デリーに限らず)の旧市街などからより条件の良い地域に流出する人々や店などが出てくるといった、いわゆるドーナツ化現象が起きることもあるのだろうか。
それはともかくこうした動きの中で、インドの街にありがちな極端な過密さも多少緩和される・・・といいのだが。
ただしメトロ建設の問題は、インドのような途上国にとって実に高い買い物であることだ。先述のインディア・トウデイの記事中には、世界中のメトロで経営的に成功しているのは香港と東京くらいと書かれているのだが、果たして本当だろうか。
でも極端な話、車両と人員と運行ルートさえ確定すればすぐにでも開始できるバスのサービス(しかも前者ふたつは往々にして民間業者による請負が多い)に比較して、メトロというものは都市交通機関としては初期投資も維持費もケタ違いに高いことを思えば、あながちウソではないのかもしれない。
こうした夢が描けるのは、もともとのスタート地点が低いため発展の成果が視覚的に認知しやすいこと、地域的にはいろんな問題を抱えつつもマクロな視点から眺めた経済が好調続きであることに尽きるだろう。しかし総人口の6割以上を20代以下の若年層が占めるこの国で、多くの人々が『今日よりも良い明日』を期待できるのは実に喜ばしいことではないだろうか。 -
ムンバイー・メトロ 来月着工
インドで『メトロ』といえばコルカタとデリー。ここにきてもうひとつのメガ・シティで新たに導入が予定されている。10月からムンバイー・メトロの工事がいよいよ開始されるのだ。コラバからチャールコープまでの38kmを越える長いルートである。
またワルソーワーからガートコーパル、バーンドラーからマーンクルドまでの路線も計画されている。後者は巨大スラムとして内外に知られるダーラーヴィーの目と鼻の先をかすめて走ることになることから、同地区の再開発計画にも弾みをつけることになることだろう。この路線が開通するのはいつになるのかわからないが、『かつてここは世界最大級のスラムであった』と言われてもピンとこないような洒落たコマーシャル・エリアに変貌する日がやがて来るのかもしれない。
ともあれ既存の郊外電車のルートと合わせると、ムンバイーの鉄道交通ネットワークはずいぶん密なものになり、まさにインドきっての商都らしいものとなる。MUMBAI METRO SYSTEMをご参照いただきたい。
メトロといえば、他にも近年成長著しいアーメダーバード、そしてなんとコーチンでも導入の計画がある。
都市部では本格的なマイカー時代が到来しているインドだが、都会の公共交通の分野ではメトロの時代がすぐそこまで迫っているのだろうか。将来にわたり都市交通の質の向上が見込まれることは実に喜ばしい。
