
本日6月28日、デリーのラール・キラーがユネスコの世界遺産に登録されたとの発表があった。以下、これを報じる各メディアの記事である。
UNESCO declares Red Fort a World Heritage Site (Hindustan Times)
Red Fort now a world heritage site (ZEE News)
Red Fort is now a World Heritage site (Times of India)
インドにとってこれが27番目の文化遺産登録となる。観光資源という部分から眺めてみるとインドの土壌は非常に豊かだ。先人たちが築いた財産でいかに多くの人々が恩恵を受けるのか、いかにその土地を潤わすことができるのだろうか。やみくもに『観光振興』を唱えてみたところで、その目玉を打ち出すことは容易なことではないのだが、インドにはこうした『特大の目玉』が無数に転がっている。
まさに見事な遺産に恵まれているがゆえに残念に感じることも少なくない。こうしたメインストリームにある史跡については手厚く保護されるものの、歴史的に高い価値を持ち造形面からも興味深い旧跡であってもマイナーな土地にあり知名度も低いものなるとほとんど補修の手が入らず、目も当てられない状態にあるものも少なくないことだ。
でもこれはやはりインドが史跡・遺跡の宝庫であるがゆえのことだろう。どこに出かけてみても、かしこに『歴史』が散見されて、いにしえの時代から現代までの連綿と続く人々の営みを肌で感じることができるのもこの国の大きな魅力のひとつだろう。
カテゴリー: heritage
-
ラール・キラーが世界遺産に
-
グレート・イースタン・ホテル

BBDバーグのすぐ南にグレート・イースタン・ホテルがある。くたびれた宿泊施設ではあるが、植民地時代から続く由緒あるものだ。都心部にあるため植民地時代に撮影されたモノクロ写真で目にされた方も多いはず。長い歴史に加えて巨大なコロニアル建築に囲まれた好立地、本来ならば旧帝都のヘリテージ・ホテルとして名を馳せていてもおかしくない大きなポテンシャルを秘めている。
このホテルは菓子製造業で財を成したディヴィッド・ウィルソンという人物が1835年に開業させたものだ。当時は『オークランド・ホテル』という看板がかかり、巷ではオーナーの名前から取ってウィルソンズ・ホテルと呼ばれていたという。場所柄イギリス人をはじめとする欧州人たちを顧客とするホテルであったが、創業当時は植民地政府のトップクラスの人々もよく出入りしていたらしい。
これが『グレート・イースタン・ホテル』と改称されたのは1865年のことだという。グラウンド・フロアーにはピシッとしたスーツ仕立屋、鞄屋、宝石屋、菓子屋、レストランやバーなどが入っていた。時代はさらに下り、1882年に発行された案内書には『一泊10〜20ルピー』という記述があるらしい。現在の貨幣価値に換算するといくらくらいに当たるのだろうか? -
10 SUDDER STREET
ごちゃごちゃとした安宿街、世界各地からバックパッカーたちがやってくるコルカタのサダルストリートだが、インド博物館やエスプラネードにも近く、界隈にはなかなか由緒ありそうな教会もチラホラ。中を細かく仕切って数多くのテナントに貸し出している建物の中には昔々はそれなりに立派なお屋敷であったのでは?と思われるものも少なくないから、かつては品のよいコロニーであったことだろう。
近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもかつてこの地域に起居していたことがあることは耳にしていたものの、それが具体的にどのあたりであったのかは知らなかった。彼の家はコルカタその他各地に屋敷等を所有しており、その中のひとつであったここサダルストリートの家で一時期を過ごしたのである。
このたびコルカタのこの通りに到着した時間帯が遅く、少しはマシそうなホテルはどこも一杯で、やむなく空室のあったHotel Diplomatという名前だけは立派な宿に一泊することになった。元々はひとつであったらしいフロアーを左右のみならず上下にも仕切ってあり、日本人としてはごく標準的な背丈の私でさえも頭をかがめないとぶつかってしまうような低い天井、隣の部屋でタバコを吸い込む音さえもが筒抜けの薄い壁、ひと月くらい交換していないようなベッドシーツと典型的な安宿である。
翌朝起きてもっと快適に過ごせるホテルを確保してからリュックを取りにこの宿に引き返したとき、建物の斜め前にあるヘタウマな漫画みたいな胸像を目にしてふと思った。以前からこの場所で見かけてはいたのだが・・・。
『これって、ひょっとしてタゴール??』
基壇に刻まれた文字を目をやると、それはまさにその大詩人の像に間違いなかった。
『RABINDRANATH TAGORE COMPOSED HIS POEM “THE AWAKENING OF THE FOUNTAIN” WHILE LIVING IN 10 SUDDER STREET』とある。 -
ユニバーサルな禅寺
兵庫県新温泉町という山間の町に外国人たちにAntaijiとして知られる人気の曹洞宗の禅寺があるそうだ。この安泰寺を導いているのはドイツ出身のネルケ無方住職。今から四年ほど前に八代目の無外信雄住職から引き継いだという。
このお寺のウェブサイトにアクセスしてみると、8ヵ国語でのコンテンツが用意されており、ずいぶん開かれたお寺という印象を受ける。そもそも仏教、そして禅というものが日本の『民族宗教』であるわけではない。地元の人であろうが外国からやってきた人であろうが、教えに関心を寄せる人々をオープンに受け入れてくれるのはありがたいことだと思う。
ちなみにこのお寺では、欧米を中心とする各国からやってきた人たちが地元日本人たちと滞在しているようだが、この国際性がゆえに『共通語』は英語だという。
私自身、このあたりに行くことはまずないのだが、いつかチャンスがあればぜひ訪れてみたい。 -
たかが名前されど名前 ポンディチェリー改名
1954年にインドに返還(1963年から連邦直轄地)された旧仏領ポンディシェリー(Pondichéry)は英語ではポンディチェリー(Pondicherry)と言い、タミル語ではパーンディッチェーリ(பாண்டிச்சேரி)と呼ばれる。『新しい町(村)』という意味だそうだ。
ここにきて再びその名前が変わることになる。8月半ば成立した法案が発効を迎えたことから新しい名称はプドゥッチェーリ(புதுச்சோரி)となり、仏領以前の地名に戻ることになる。
外国統治下はともかくとして、インド返還後半世紀近くも経ってからその名を変えることにどれほどの意味があるのかとも思う。近年改名された地名は少なくないのでこれに限ったことではないのだが、名称変更後ただちに・・・とはいかなくても、段階的に役所その他の公共施設での表示や公文書における表記を改めていくことになる。そうした手間が行政コストに跳ね返ってくるムダ、また地図、住所表示その他民間にも余計な出費や面倒をかけることになるが、区画整理や自治体の合併などで地名の変更を余儀なくされる場合はともかく、長いこと呼び習わされてきた土地の名前について、こうした代償を支払っても充分ペイする効果があるのかどうかははなはだ疑問だ。
改称については政治屋さんの思惑や気まぐれに振り回されて『ああ迷惑な・・・』と感じる人も少なくないことと思う。そもそもPondichéry、Pondicherryあるいはபுதுச்சோரிで一体誰が不便や不都合を感じていたというのだろう。あえて大昔の『プドゥッチェーリ』という名称を復古させることにどれほどの合理性があるのだろうか。
Destination Puducherry (The Hindu) -
世界最古の『会社』
歴史と文物の宝庫インドでは、東西南北どこに行っても由緒ある建物や街並みに出会うことできる。文化の多様性と重層性をヒシヒシと感じさせてくれるこの国は、いつどこを訪れても非常に興味をそそられるものだ。
ところで我らがニッポンの『カイシャ社会』の中には、仰天するほど長寿な企業が存在していることに気がついた。それは起源を江戸時代にまでさかのぼる反物屋や百貨店といった程度の話ではない。なんと紀元578年創業なのだというからびっくり。
イスラーム教の預言者ムハンマドが誕生したのが570年あたりとされるし、インドではアジャンターの石窟がまだ現役の僧院群として機能していた時代だ。玄奘三蔵がインドを訪問したのはさらに50年ほど経ってからだ。
その『歴史的企業』金剛組は総合建設会社だが、特に寺社建築の設計・施工・文化財建造物の復元、修理等を得意としている。会社の沿革をひもとくと実に興味深いものがある。
紀元578年に聖徳太子の命を受けて百済の国から三人の工匠が招かれ、この中のひとり金剛重光なる人物が興した宮大工集団が現在の金剛組のはじまりだという。そして『三人の工匠は仏への帰依の心をこめ、そのもてる技(わざ)のすべてをもって、四天王像をまつる寺院創建のために尽くしました』と同社のウェブサイトにある。四天王寺に続き法隆寺を建設したのだそうだ。
以来日本の寺社建築とともに千四百年という気の遠くなるような長い時間を歩んできたのだから世界遺産みたいなものである。ウィキペディアによれば金剛組は現存する世界最古の企業(ただし株式会社化は1955(昭和30)年)だ。
ただし今年1月に現代の当主である金剛重光氏により、中堅ゼネコン高松建設の子会社としての新たな『金剛組』に営業譲渡して社員の多くを移籍させ、もともとの母体である旧来の金剛組についてはケージー建設と改称したが、7月下旬に自己破産を申請している。
これらの一連の動きにより、今年からは金剛組とそれを千四百年以上もの長きにわたって率いてきた金剛一族との縁は解消されたといえるが、歴史という視点から眺めると日本の会社社会もなかなか捨てたものではないようだ。
ケージー建設:大阪地裁が破産手続き 日本最古の建築会社
(毎日新聞) -
英領インドの眺め
東京大学の大学院情報学環で保存されている貴重なポスター661点が、4月4日からネット上で公開されている。これらは第一次大戦期のプロパガンダ・ポスターで、当時の日本の外務省情報部が収集していたものだ。第二次世界大戦後に当時の東京大学新聞研究所(社会情報研究所を経て、現在は大学院情報学環となっている)に移管され、以来書庫内で保存されていた。 このたび5年の歳月をかけてデジタル・アーカイブ化され、誰でもインターネットを通じて閲覧できるようになったのである。
どんなものかと実際にアクセスしてみた。同サイト内の検索エンジンの動作にはまだまだ改良の余地がありそうだが、これらのポスターを眺めていると当時の各国の事情や世相をうかがうことができて非常に興味深い。
こうしたポスターは国家の意思をあまねく人々に伝えて感化することを目的としていたため、『絵』そのものの質には当然のことながら相当こだわっていたようだ。ポスターの制作にかかわった人たちには、当時広く名の知られた画家や広告や雑誌などで活躍する第一線級の著名イラストレーターなどが多かったのだという。
ポスターの内容は戦時公債、戦時貯蓄、募金、募兵、軍需物資の運搬ドライバー募集といった戦争遂行に直接かかわる内容のものが多く、パソコンの画面を通じてきな臭さが漂ってくるようだ。
さて、当時のインドのポスターを覗いてみよう。戦時公債への投資を呼びかけるものがいくつも並んでいる。英語のみならずグジャラーティー、マラーティーといった土地の言葉で書かれたものもある。そしてインド兵のイラストが時代を感じさせてくれる。
第一次世界大戦が勃発したのは1914年。その3年前の1911年にインド政庁は首都をカルカッタからデリーに遷都した。ロシア革命は1917年で、ガーンディーの第一次不服従運動は1919年に始まる。こんな時代にこれらのポスターが人々の前に貼り出されていたのだ。
いまやこの世に生きる多くの人々の胸の中ではなく、『歴史』として書物の中に記憶される旧き時代の断片を前に想像力たくましくすれば、これらを覗き込む当時のインドの人々の姿やその社会がぼんやり浮かび上がってくるかもしれない。
東京大学大学院情報学環アーカイブ 第一次大戦期プロパガンダ・ポスター コレクション -
世界遺産検定
11月18日(金)に、NPO法人世界遺産アカデミーによる「第1回 世界遺産検定」実施の発表が行なわれた。
世界遺産の知識を広げ、啓発と保全活動の輪を拡げることを目的としており、検定料の一部は、世界遺産アカデミーを通じてユネスコ世界遺産センターに対して各世界遺産の保全活動基金として寄付される。
この検定にパスすることにどんなメリットがあるのか、何か役立つことがあるのかよくわからないのだが、旅行好きの年配の方々などが趣味で受けてみたりするのかもしれない。
ツアーガイドその他観光関係の仕事にたずさわっている人たちにとっては、世界各地の観光名所について必要な知識や教養を身につけているどうかをはかる目安になるのかな、と私は想像している。
第1回の世界遺産検定は、2006年6月18日(日)に東京と関西で実施される予定だ。申込期間は、郵便による申込受付の場合は来年1月16日(月)から 2月28日(火)まで、インターネット・マルチコピー機による申込受付は同1月16日(月)から 3月31日(金)である。受 検 料 は消費税込みで3,675円。試験の合格者に対して、認定通知を平成18年8月中旬発送予定とのことだ。
現在登録されている世界遺産は812ヶ所。インドはもちろん言わずと知れた世界遺産の宝庫だが、これらについてどんな問題が出題されるのだろうか。 -
ヘリテージな宿でまどろむ

ゴアのスィンケリム(Sinquerim)ビーチに行ってみた。オフシーズンなのでほとんど観光客の人影がない。店やレストランの類も扉が締め切られたままのものが多い。風が強くて木々が大きく揺れている。海もかなり荒れている。
散歩している私のすぐそばで轟音と振動が感じられた。首をすくめたまま目をやるとそこにヤシの実が転がっている。この固くて巨大な実の直撃で、世界各地で毎年命を落とす人は少なくないそうだ。どこに不幸が転がっているかわからないものである。以前もどこかで危うくヤシの実にノックアウトされそうになったことがあったが、まだ子供も小さいのではるか彼方の「楽園」へのご招待は当分ご遠慮願いたい。
州都パナジに近い立地もあってか、大資本のビーチリゾートが散在するこの海岸にはタージグループのホテルも二軒ある。The Taj Holiday VillageとFort Aguada Beach Resort, Goaだ。
前者は北上すればカラングートビーチに向かう道路沿いにあり、コテージ等さまざまなタイプの宿泊部屋が広い敷地内に散在している。開放感があってのんびりするには良さそうだ。しかし施設がかなり古くなっていること、どうも手入れがいまひとつで、タージグループのホテルとしてはちょっと高級感に欠けるのが気になる。
後者は17世紀にポルトガル当局が建てた砦に面している。当時この地方の海岸守備の要であっただけにアラビア海の絶景が望める素晴らしく、最高のロケーションに建てられたモダンなホテルだ。おそらくグループ内で働く人たちにとって、前者は左遷先、後者は出世コースといったイメージがあるのではないだろうかと想像してしまう。
いずれにしても大規模な施設だが、閑散期にはほとんど稼動していない様子を見るにつけ、とりわけシーズンとそれ以外の時期で大きな差がある地域では、観光という業種がいかにロスの多いものであるか、また季節や景気その他に左右される度合いが大きく不安定な稼業であるかということが感じられる。 -
ゴアのコロニアルマンション
ゴアのマルガオから15キロほど東に進んだチャーンドールに行ってみた。ここではポルトガル時代に建てられたいくつかの豪邸が残っていることで知られる。その中の最も大きなものは主の名からBRAGANZA HOUSEとして知られるこの屋敷は、旧宗主国の建築スタイルで建てられている。このBRAGANZA家は大地主、ポルトガル語を母語とするゴアのエリート社会を代表する名家であるとともに、20世紀初頭に活躍した政治家でありジャーナリストでもあったLUIS DE MENEZES BRAGANZAを生んだ。
そのエキゾチックな景観から、このあたりは映画のロケにもしばしば使用されるという。訪れたときにもちょうど撮影が行なわれているところだった。大所帯の撮影チームの中にいた「メイクアップ・アーティスト」だという男によれば、スニル・シェッティー主演で今年12月公開予定の作品とのこと。
インドはおろか日本でも一般的に「映画撮影」の現場にどれほどの数の人々が関わるものなのか知らないが、野次馬や警備の人たちを除いても100人以上であったと思う。こんな大勢を指揮するのはさぞ大変なことだろう。雑用も含めたいろいろな人たちを仕切る専門のフィクサーがいるのだろうと想像している。「この人がいないと映画は出来上がらない」というような、一般には知られていない凄腕手配師や辣腕エージェントの存在があるのではないだろうか。
さてこの屋敷、「パレス」と呼びたくなるほど堂々としたものである。玄関口に出てきた使用人に見学したい旨伝えると、屋敷の主の夫人だという初老の女性が出てきて案内してくれた。豪壮な屋敷の中には、世界各国、主にポルトガルやイタリアの家具類、シャンデリアや中国(マカオ)の陶器の皿などの骨董品がたくさんあり、それ自体で博物館のようだ。駕籠や武器なども展示されている。広大な屋敷の中で公開されているのは1階(日本式に言えば2階)部分だ。
450年の歴史を持つ家とのことで、建物は幾度かの増築を繰り返してきたものだという。当主は現在17代目だとか。大きなホールや寝室も、有力なマハラジャの居室にさえ匹敵するスケールと豪華さだ。ベッドは足が長く床の高いコロニアルなものである。寝室のすぐ外にはチャペルもあった。往時は専属の神父がおり、ここで家族の日曜礼拝が行なわれのだそうだ。
しかし今となっては、この建物は維持費もかかるため、こうして公開しているわけだ。他家から嫁入りしてきた老婦人、この家が繁栄していたころには、よもや下々の人間に家を公開したり自らガイドのようなことをして報酬を受けたりするような日が来るなどとは夢にも思わなかっただろう。彼女の日課となっているこの作業だが、ふとしたことで没落したとはいえ名家としてのプライドとそれに相対する恥じらい等々、いろいろ想うところがあるのかもしれない。 -
紺碧の海の下に

7〜8世紀ごろパッラヴァ朝の重要な交易港として最盛期を迎えていたマハーバリプラム(現ママラプラム)は、現在では世界遺産に登録されている遺跡群で有名だ。
浜に建つ海岸寺院に加えて六つの寺があったとする「セブン・パゴダ」の伝説とともに、かつてこの地を襲った大洪水によりかつての港町が海に沈んでしまったという言い伝えがあることもよく知られている。
昨年12月26日に起きた津波直前に潮が大きく引いた際に、その伝説の寺院らしき遺構が姿を現したといい、押し寄せた大量の海水が周囲の砂を運び去ったことにより、これまで埋もれていたヒンドゥー寺院が新たに発見されることにもなった。
今回の津波災害で犠牲となった方々のことを思えばはなはだ不謹慎かとは思うが、「突然海が遠くへ引いていき、大昔の石造寺院が忽然と姿を見せた」「津波の奔流が過ぎ去ると、誰も見たことのないお寺が出現していた」といった光景そのものは、実に神秘的であったことだろう。
近年、今のママラプラム沖合の海底に残る遺跡を検証すべく調査が進められている中、年末にアジア各地で未曾有の大災害をもたらしたこの津波は、この伝承にかかわる調査研究活動にとっては追い風となっているようだ。
2月10日から25日までの間、海底に沈んでいる遺構についてインド考古学局と同国海軍の共同での調査が行われた。ダイバーたちが遺跡のある海底に潜って様々な構造物を検証する際に陶器片などの遺物も見つかっているという。
海底に散在する遺構の姿が明らかになるのが待たれるところであるが、それらが水面下に沈んでしまった理由についてもぜひ知りたいところだ。徐々に海岸線が後退していった結果により水面下になってしまったのか、あるいは伝承にある「洪水」(地震による津波あるいは地盤沈下?)のような突発的な災害によって起きたのかわからないが、当時の文化について知るだけではなく、この「稀有な自然現象」の貴重なデータも得られるかもしれない。
観光開発の目的から注目している人たちもあるかと思う。やがてインド初の海底遺跡公園として整備されて「グラスボートでめぐる水中遺跡」「遺跡ダイビングツアー」といった形で海面下に散らばる遺跡を公開することはあるだろうか?
亜大陸反対側、グジャラート州のカムベイの海面下にはハラッパー文明のものと思われる遺跡が沈んでいるというが、こちらは9000年以上も昔のものではないかという説もあるそうだ。
歴史と遺跡の宝庫インドは、まだまだ多くの不思議と謎が隠された玉手箱のようである。
津波の置き土産(BBC NEWS South Asia) -
巨木にお別れ
バスに乗ってカルナータカ州の国道を走っていると、突然前方が詰まって渋滞してしまった。ピクリとも動かない。反対側の車線は、車がパッタリ途絶えている。交通事故だろうか?
他の乗客たちとともにバスを降り、前の様子を見にいってみると、そうではないことがわかった。道路わきの大木が倒れ、道路を遮断しているのだ。

「走っている車の上に落ちてこなくて良かった!」とほっと胸をなでおろしたが、よくよく見れば、倒木は事故や偶然ではなく人為的なものだった。現在、バンガロールからマイソールを経由して西へと進む幹線道路の整備が急ピッチで進んでいるが、この「作業」もその一環なのだ。
倒木の上で木こり(?)たちが、斧やノコギリで大きな幹や枝を細かくばらしては、道路の外に放っている。枝はちょっとした木の幹みたいに太く、すべてを取り除くのは大変な作業である。ようやくバスが再びエンジンをかけて走り始めたのは小一時間も経ってからだっただろうか。
工事によっては片側二車線に拡張される道路もある。州の大動脈らしく立派な道路となって、人びとの往来や物資の輸送の便を格段に向上させることだろう。それにしてもこうやって平気でクルマの交通を長い時間遮断する作業がまかり通ってしまうのはいかにもインドらしい。
しばらく進むと、また同じように道路がブロックされていた。幸いこちらでは迂回路があり、それほど待たされることなく先へと進むことができた。
この翌日も翌々日も、クルマで走っていると幾度か同じような「渋滞」に遭遇した。相当な勢いで工事が進行していることがわかる。
