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カテゴリー: heritage

  • テロリズムの種

    テロリズムの種

    このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

    アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

    この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

    反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

    彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

    そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

    蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

    ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

    アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

    だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

    インドの記念切手

    ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

    時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

    舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

    それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

    もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

    だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

    作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

    この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

    蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

     

    1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

     

     

    バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

    バーングラーデーシュ国鉄路線図

    歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

    バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

  • 生業 2

    話はバーンチラーに戻る。マディヤ・プラデーシュ州で指定カーストのカテゴリーに入っているこのコミュニティでは、伝統的に農耕と売春を生業とする人が多いという。家庭を経済的に支えるために、最初に生まれた娘が娼婦となるのが長らく続いてきた習慣であるとのこと。

    奇妙なことに、バーンチラーの人々の中には、自らをラージプートだと自称する例も少なくないとのことだ。この地を諸侯が群雄割拠していた時代、自らが仕える王家のために身内の女性を娼婦に仕立て上げ、敵方の要人のもとにスパイあるいは刺客として送り込むことをためらわない忠誠心を持つ武人階級であったという言い分だ。

    彼らが今のマディヤ・プラデーシュの北西部に多く住むことになったきっかけは、当時イギリスがその地に駐屯させていた兵士たちの慰安目的で娼婦たちを必要としたことによるものであるという説があったり、ムガル帝国が領土拡大のために各地に遠征を繰り返していた時代、バーンチラーの女性たちを多数同行させていたとする伝承があったりするなど、性を生業としてきた歴史はかなり長い。

    近年、そのコミュニティの中では自らの身内の女性が娼婦となる以外に、外部の女性とりわけ幼い子供たちを売買するブローカーとしての役回りをする者が出てきており、同州周辺地域はもちろんのこと、遠くは中東方面にまで手を広げているケースもある。

    インディア・トゥデイの3月30日号にもその関連の記事が出ていたのだが、当のバーンチラーのコミュニティの中から、先祖伝来の悪しき習慣を改めようと努力する人たちの動きについても取り上げられていたのは幸いである。

    だがマディヤ・プラデーシュ州内では、バーンチラーの他にもベーリヤー、カンジャル、サーンスィーといった、やはり売春が盛んなコミュニティがある。長らく続いてきた因習の連鎖を断ち切るべく行政は働きかけているそうだが、あまり効果は上がっていないという。

    <完>

  • 生業 1

    このところインドのメディアの人身売買にまつわるニュースにて、バーンチラーというコミュニティのことが取り上げられているのをしばしば目にしている。マディヤ・プラデーシュ北西部からラージャスターン南東部あたりに分布しているコミュティである。

    インドにあまたあるコミュニティには、それぞれ特有の習慣を守り、固有の生業で生計を立ててきた人たちが多い。もちろんそうした古い社会の枠組みは現代においてもそのまま存続しているというわけではないし、あるコミュニティの特徴的な部分にて、それを構成する人々すべてを一般化してしまうのも誤りだ。

    ただし特定のコミュニティがある業種において特殊な技術、知識、既得権を握っていたり、部外者が新規参入するのが困難であったりということがないとは言えないし、何かとそうした縁がものを言う分野もあることだろう。

    それとは逆にいわゆる賤業とみなされる分野においては、その職域を外部から敢えて侵すことにより、新規参入者にとって何か経済的に大きな利益が上がるということでもなければ、社会から賤しまれて収入も少ない生業が世代を越えて連綿と受け継がれていくということもあり得る。

    現代インドでは、そうした出自によるハンディキャップによる格差を是正するために指定カースト、指定部族に対する留保制度が用意されている。­そうした措置のおかげで特に出自の低い人たちの生活や教育の水準が上昇し、次第により公平な社会が実現されるのが理想だろう。

    留保制度によって一流大学に入学できたり、さらにはその後IAS(インド高等文官)その他ステイタスの高い職業に就くことができたりといった具合に、底辺で苦学してきた人たちがインドという大きな国を動かす側に回る例は決して珍しいことではない。能力とやる気がありながらも生活苦で野に埋もれようとしている人々を数多く救済している。

    しかしながら、留保制度という逆差別は、憲法に謳われている万民の平等と矛盾する部分もある。留保の対象となる指定カースト(SC)、指定部族(ST)、加えてその他後進諸階級(OBCs)以外の人々の機会を奪うことにもなる。

    所属するコミュニティによって秩序だった教育、所得、生活水準があるわけではなく、『留保対象以外の人々』が必ずしも『留保対象の人々』よりも恵まれた境遇にあるとは限らないことに留意が必要だ。

    留保制度は長らく政争の具ともなっており、年月の経過とともに新たに留保対象として指定されるコミュニティが増えるとともに、留保の割合もことあるごとにいじくられてきた。

    果たして留保制度が現行のままで良いのかどうかについて、誰もがいろいろ意見のあるところではないだろうか。それでもインドにおいて、政策のツケは広く民意を問う選挙という公平な手段により、国民自身が審判を下す民主的なシステムが徹底している国であるだけに、難しい匙加減のもとでそれなりにバランスが取れていると見ることはできる。

    かつてと違い、今のインドのとりわけ中央政界においては、大政党が過半数を得られることなく、大小含めた主義主張の異なる様々な政党の寄合所帯となっている。それがゆえに右派勢力が政権を取ろうとも、中道左派の国民会議派が支配しようとも、連立政党や閣外協力政党にも配慮した運営が求められる。結果として極端な方向に舵を切ることなく、穏健でバランス感覚に富んだ政治が続いているように見受けられる。

    <続く>

  • SCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)のトライバル博物館

    SCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)のトライバル博物館

     先日、コーラープトでジャガンナート寺院関係の団体が運営しているトライバル博物館について触れてみたが、オリッサ州の部族に関する博物館といえば、ブバネーシュワルにあるものが秀逸である。 

    ここはSCSTRTI (Scheduled Casts and Scheduled Tribes Research and Training Institute)という、指定カーストと指定部族の人々に関する民族学的な見地による研究ならびに各コミュニティの社会的・経済的な発展等を図るといった活動をする機関によって運営されている。 

    敷地内は研究施設、博物館、実物大の各部族の家屋の屋外展示などからなる。指定カースト・指定部族に関わるワークショップや会議なども活発に開催しているようだ。ブバネーシュワル郊外のCRPスクエアというエリアにある。 

    入場料は無料、展示物は見応えがあり、しかも各コーナーで専属のスタッフたちが詳細な説明をしてくれるうえに、こちらから投げかける様々な質問にも丁寧に答えてくれる。だが休日であってもガラガラだ。訪問者は必ず入口で記帳することになっているが、一日に訪れる人数は一桁だったりする。テーマがテーマだけに、多くのインド人たちの興味の対象外であろうことは想像に難くない。 

    館内には四つの大展示室があり、中庭には各部族の信仰の祭壇がしつらえてある。戦術にとおり、建物の裏手には主要なマイノリティの家屋が再現されている。館内は撮影禁止であるのが惜しい。 

    詳細に説明してくれるスタッフたちは、この機関で調査・研究をしている若手のリサーチャーたちである。この中には自身が指定部族の出身という人も少なくないようだ。 

    部族の人たちの地位向上とともに言語や文化の保存に力を入れているこの機関としては、彼らの経済水準の向上も目指しているものの、彼らが「オリッサ人化」「インド人化」されることなく、自身が誇りを持って民族の伝統や価値観を維持することを目指しているとのことである。 

    そのために特に女性の地位向上のために伝統的な手工芸品を振興させているという。各民族の文様の意味等をまさにその人々に理解させ、同時にそれを商品化することにより、市街地でのマーケットにそれらの品物が並ぶようにして、現金収入を得る、ともに民族の伝統や価値に目覚めてもらうというようなプロジェクトも展開しているのだとか。 

    留保制度により、政府職員となる人もあれば、大学等に進学したりする部族の人々も多くなってきているそうだ。さらには地域の政治に進出する人もかなり出ているようで、まだまだ厳しい環境にある人が大半であるものの、確実に変わりつつあるとのこと。

    『私なんかもその一例ですよ。こういう機関で部族の人々についてリサーチする専門家になっているのですから』と、コーヤー族出身のスタッフの一人はにこやかに語る。 

    オリッサ西部は丘陵地が多いが、地形は決して急峻なものではない。それらの地域の高度だってさほどではないのに、他の地域と較べて格段に多くのマイリノティコミュニティ、しかも独特な文化を持つ人たちが存在してきた。 

    ひとつの理由はやはり人口密度が比較的希薄であったこと、そして経済的に後進地であったこともあり、地域に道路が引かれたのはだいぶ時代が下ってからのことらしい。それ以前は部族地域においては外部との行き来があまりなかったため、そうした民族や文化が維持されてきたとのことだ。 

    2001年のセンサスに基づけば、総人口の22%、人数にして81,45 lakhsもの人々が部族。実に62ものトライバルが住んでおり、そのうち13の部族はPTGs (Primitive Tribal Groups)というカテゴリーのものである。 

    だが部族の人々の大半は、ヒンドゥー文化と無縁の存在であったわけではなく、その外縁部に位置づけされる。しかしクリスチャンの宣教活動も盛んで改宗者も多いことから、そうした部分で衝突がしばしばあるとのがこの地域である。 

    比較的近い時代まで、部族の人々の間で生贄に習慣があったとのこと。他の村から誘拐してきた人にその晩豪勢な料理を振舞い、酒を飲ませて女性も抱かせて一晩過ごさせ、翌朝所定の生贄を捧げる場所に連れて行き、斬首あるいは刃物で突き刺すなどにより殺害して神に捧げたという。 

    今の私たちにとっては野蛮な習慣でしかないが、英領期に当時の政府がラージャスターン等でサティーの習慣を廃止させたりしたのと同様に、この地域でもこうした風習を廃止させるように動いたとのこと。それでもかなり時代が下るまで行われていたらしい。 

    ほとんどの部族社会では飲酒が盛んで、男女一緒に酒飲む習慣のある部族もあるそうだ。米や穀類から造られることが多いが、中には花から作るものもあるとのことだ。醸造酒以外に蒸留酒も造っているとのこと。 

    沢山のコミュニティがある中で、サンタル族は居住地域が最も多岐に渡り、人口規模が大きいだけではなく、豊かで開明的なコミュニティという印象を受ける。 展示品についてもかなり精緻に造られたものが多く目に付く。

    漁労に関する展示もあった。日本のハヤ採りビンに相当する仕掛けの竹細工製品、酒や水を入れるひょうたん、畑仕事で頭に被る笠といった、日本のそれとそっくりなモノがいくつかあり、とても親しみを感じた。場所はまったく違うし、互いの接触もないのだが、人々は同じものを考案して使ってきたのだ。 

    人々が金属の装身具を付けるのは、それにより身体の動きがスムースになると信じている場合、また銅や銀といったメタル類が体によい作用をもたらすと考えられている場合などがあるそうだ。彼らの装身具のデザインには、他のインドの人々の中にも相通じる柄なども多々あり、彼らが古い時代のインド文化に与えた影響、また反対にインド文化に影響されたことも少なくないことが感じられる。 

    女性の装身具、髪をまとめる長い棒状のクシのようなもの等には、ずいぶん長くて尖っているものもある。ちょっと危険ではないかと思い質問してみると、それらは山の中での護身具も兼ねているそうだ。確かに山の中では自分の身は自分で守らなくてはならない。 

    この博物館については当初あまり期待していなかったのだが、展示物の質の高さと学芸員の人たちの懇切丁寧な説明のおかげでとても興味深く見学することができた。半日くらいとってじっくり見学してもいいくらいだ。 

    オリッサ州内の部族地域を見学するならば、事前にここに立ち寄っていろいろ予備知識を仕入れておくと良いだろう。とにかく情報が豊富である。この団体は部族に関する出版活動も行なっている。館内で販売されている書籍等については、こちらを参照願いたい。

  • 東インド会社がインドに再上陸する日

    大航海時代に当時の欧米の強国が設立し、独占的に貿易を行なう特許会社であり、自前の軍事力を行使し、征服した先では往々にして行政機能も担う機能も持つという、現在の『商社』の概念を大きく超える強大な組織であった。 

    東インド会社という名前の組織は、イギリスの他、オランダ、フランス、デンマーク等で設立された。言うまでもなく、各国の東インド会社の活動は亜大陸以外の広範囲に及ぶが、当時の東インドという言葉は、オリエント地域を広く含んでいた。 

    イギリスで1600年の創立以来、410年を超えて人々に知られてきた知名度のある名前だ。世界史の教科書にも出てくるこの会社の名前を知らない人はないだろう。 

    1857年、日本で『セポイの反乱』として知られる大反乱が発生。翌1858年には会社がインドで有していた権利が同国国王に移管され、事実上同社がこれまで担ってきた役割を終えた。 

    会社は1874年に解散したが、その後も『East India Company』というブランド名は存続していたことはよく知らなかった。1970年代中盤に創立し、この商標で紅茶やコーヒーを扱う会社が操業していたそうだが、これをイギリス在住のインド人企業家サジーヴ・メヘター氏がこれを買収することにより権利を取得し、ロンドンにて紅茶、コーヒー、チョコレートその他の嗜好品その他を販売する店East India Company (7-8 Conduit Street, London, W1S 2XF )を開業したのは昨年8月。 

    East India Company reborn (CNN) 

    そして今年はインド、シンガポール、香港といった、往年の東インド会社の活動拠点であった国・地域に進出するのだという。 

    East India Company returns after 135-year absence (BBC NEWS South Asia)

    商標と紋章を利用しているだけのことで、歴史上の東インド会社と縁もゆかりもないのだが、かつてインドならびにその周辺地域等の広大な地域に君臨した、伝統ある『East India Company』ブランドの会社が、インド人企業家の指揮下にあるという事実はなかなか興味深いものがある。

  • コーラープト 1 近郊のコートパドへ

    コーラープト 1 近郊のコートパドへ

     列車内で目が覚めた。窓の外は起伏のある緑豊かな大地。ところどころに川が流れる田園風景が美しい。 

    ダマンジョーリーという駅では沢山のタンク車両が線路上に停車している。どれもNALCOと書かれている。National Aluminium Company Ltd.という政府系企業の略称である。 

    地域で採れるボーキサイトを原料とするアルミの生産を行なう拠点となっており、ここは丸ごと『NALOの町』であるらしい。 

    朝9時半にコーラープット着。町は駅から少し離れており、乗り合いオートを利用する。このあたりは海抜870 m前後。高原というほどでもないが、お茶の栽培ができそうな丘陵地帯である。 

    ここでの宿泊はRaj Residencyという2009年開業のホテル。まだ新しいので部屋等はきれいだが、ちゃんと手入れされているわけではない。そのため順調に『標準化』が進んでいるため、今後ずっと快適であるという保証はない。 

    客室内の照明が明るいのは助かる。日記を書く習慣があるため、机があるとないとでは効率も疲労度もずいぶん違う。だがエコノミーな宿で、室内に机があるところは案外少ないものだ。何かしら書く習慣のある人以外にはほとんど無用のものであるからだろう。 

    昼からクルマでコーターパドという町に行く。ここの町外れにある職人たちが暮らしている一角では、多くの家庭で手作りの布地を作っている。糸をつむぐところから仕事が始まり、染色から機織まですべての工程が手作業である。 

    多くは綿地だが、タサルつまり野蚕を紡いだ糸で織ったショールもあった。タサルといえば、ビハールやジャールカンドで採れるものがよく知られているが、ここオリッサでも産出しており、アーディワースィーの人たちが収穫してくるとのことだ。 

    コーラープトからジャイプルを経由して行ったが、ところどころ道がかなり悪い部分がある。ジャイプルはローマ字では新聞等でしばしばJaipurと書かれることがあるものの、概ねJeyporeと植民地時代風の綴りで書かれる、 

    <続く>

  • ダイヤモンド・ハーバー

    ダイヤモンド・ハーバー

     その名に惹かれて訪れてみたくなった。 

    エスプラネードのバスターミナルに行きダイヤモンド・ハーバー行きを探す。幾度か訪れたことがあるというコールカーター在住の知人の話では『1時間半前後だよ』という話であったが、バスに乗り込んでみると乗客たちは『3時間はかかる』と言う。

     距離にして45キロほどしかないので、何かの間違いではないかと思ったが、事実きっかり3時間かかった。ずいぶん飛ばしていたのだが、1時間に15キロしか進んでいないことになる。かなり大きく迂回ルートで走るバスであったのかもしれない。市街地の渋滞を抜けて郊外に出てからは、のどかな田園風景を眺めながら走るので心地よかった。 

    ダイヤモンド・ハーバーに着いた。田舎町ではあるが、コールカーターから日帰りで訪れる人が多く、乗ってきたバスもそうであったが、降りてみるとそういう感じの人々の姿がよく目につく。 

    カルカッタでもそうだが、このあたりでも舗装道路の表面の大部分はコールタールといった感じで、砂利のザラザラ感に欠ける。滑り止めということだろうか、規則的に小さなレンガ片が埋め込まれている。道路脇にはレンガを砕いた砂利状のものが沢山あるので、道路の基礎はそれらで作っているのだろう。 

    ダイヤモンド・ハーバーの見所は、海かと思うほど幅の広い河の眺めと英国が残した商館跡。地元の人はキラー(城・城砦)と呼ぶが、コールカーター建設前の東インド会社が拠点としていた場所である。漢字で『商館』と書いてイメージするものとはかなり異なる、物々しい施設であったに違いない。 

    河の船着き場に出た。空気が霞んでいて対岸が見えない。波がほとんどないことで、ここは海ではなく河であることが実感できる。今、ディガー方面に向かう船が出るとのこと。見た目にはどこに行くとも知れないところに出航していくかのような船の様子は印象的である。私も乗り込んでみたくなったが、まだ商館跡を訪れていないし、今日中にコールカーターに戻らなくてはいけないのでやめておく。 

    この河の深さは相当あるようで、大洋から航行して来たと思われる巨大な貨物船が悠々と遡上していく。かなりの速度が出ているようだ。少なくとも道路を走るバスのスピードに近いものはあると思われる。 

    コールカーターから楽に日帰りできる距離ではあるが町中に宿泊施設は多く、簡単な食堂を併設しているところもある。適当に腹ごしらえしてから商館跡に向かうことにする。 

    幹線道路に貼り付く形で町が続いているが、通りから逸れて河岸の商館跡に至る小道に入るすぐ手前で5ルピーの入場料金が徴収される。岸辺では地元観光客相手にゴザやシートの上で料理を作る人たちがいる。頭上を見上げると、砂糖ヤシに素焼きのツボが取り付けられている。その樹液を集めてから、これを煮詰めて粗糖を作る人たちも何組かある。 

    商館の建物がきちんとした形で残っているわけではないことは知っていたが、現地を訪れてみてびっくりする。ごく一部の基礎部分は残っているものの、『ここが東インド会社の商館跡である』と感じさせるものはほとんどないからである。 

    こうなってしまった理由には、もちろん史跡として顧みられることがなかったということもさることながら、元々建物があった部分が大きく河に浸食されたこともあるようだ足元には大量の赤レンガ片があり、どれもすっかり角が丸くなっている。これらはかつてここに存在した建物の名残であろう。想像力を最大限に発揮して、往時の様子を想像してみる。 

    商館跡の見物後、サイクル・リクシャーで鉄道駅に向かう。コールカーターからのバスを降りたところのすぐ近くである。幸いすぐに次の電車が来るとのことであったし、想像していたほど込んでいるわけではなかった。シアルダー駅まで2時間ほどとのこと。 ダイヤモンド・ハーバー駅はこの支線の終着駅だ。

    電車は田園風景の只中を走る。大半は刈り入れが終わった殺風景なものだが、ごく一部では苗代があり、田植えの風景も見られる。時期外れの田植えの際の稲の種類は違うのだろうか、それとも夏に育成するものと同じだろうか?途中駅ではホームに籾を広げて乾燥させていたりする。のんびりしたものである。 

    カルカッタではいろいろな地域から来ている人たちが多いため、人々の顔立ちには様々なものがある。だがこの車内はほとんどベンガル人ばかりのようで、乗客たちの顔を眺めているとあたかもバーングラーデーシュに来たような気にもなる。 

    美しい田園風景はホータープルという駅でほぼ終わる。そこから先は田畑と市街地が入り混じり、そしてやがてカルカッタ郊外に出た。ほどなくバリーガンジ駅に着く。界隈で所用があるため、ここで下車する。

  • コールカーターのダヴィデの星 4

    コールカーターのダヴィデの星 4

     

    ひとつ西側を走るポロック・ストリートにベテル・シナゴーグがあるのだが、通りを挟んだ向かいにある建物は、元ユダヤ人学校であったものだが、現在は郵便局として転用されている。

    元ユダヤ人街といっても、そのユダヤ系の人々がほとんどいなくなってしまったこの街で、シナゴーグを管理しているのは、やはりイスラーム教徒たち。訪れる人もほとんどなく、ヒマそうにしている彼らに『パーミット』を提示してカギを開けてもらい建物の中を見学する。 

    内部ではASI(インド考古学局)の手による修復工事実施中であるため、ちょっと落ち着かないのでは?と予想していたが、作業自体はのんびりと進行中であるため、堂内に組まれた足場のような障害物があるものの、端正な建物の内部を自由に見学することができた。 

    ベテル・シナゴーグを後にして、歩いて数分のところにあるマガン・ディヴィッド・シナゴーグに行く。ユダヤ建築について素人の目には、こちらのほうが華やかで印象深かった。 

    ふたつのシナゴーグで、ともに現在進行している修復作業が終了すれば、本格的に歴史遺産としての公開が始まることになるようだ。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグの隣には、この街最古のユダヤ教会であるネヴェー・シャローム・シナゴーグが無残な姿を晒しているのだが、こちらは修復する予定も公開する予定もないのは残念である。

    <完>

  • コールカーターのダヴィデの星 3

    コールカーターのダヴィデの星 3

     

    先日も記したとおり、ムンバイーでユダヤ教施設も標的となった2008年11月26日のテロ以降、ムンバイーのシナゴーグ外の路上では常に複数の警官たちが見張りに付くようになっている。 

    同様にコールカーターのシナゴーグも『一見さんはお断り』といった具合になってしまっている。公には現在ふたつとも改修中であるためだが、それ以外にセキュリティ管理の体制が整うまでは一般公開を控えるようにという警察からのアドバイスがあるのだそうだ。 

    実はベテル・シナゴーグ、マガン・ディヴィッド・シナゴーグ両方とも、今やユダヤ系コミュニティによる宗教施設として機能していない。コールカーターに常駐するユダヤ教司祭はすでにないうえに、同市に常住するユダヤ系人口は10~15人程度とのことである。礼拝を実施するには男性メンバーが最低10名は必要であることから、もう長いこと行われていないそうだ。その在住者にしてみたところで、全員高齢者とのことだ。 

    そんなわけで、ふたつのシナゴーグは2007年からASI(インド考古学局)にその管理を委ね、文化財として保護されるようになっている。ただし本格的な修復の手が入るなど、きちんと動き出したのは2010年後半になってからのことだ。現在も工事継続中であるなど過渡期にある。 

    そんなわけで、建物内部はもとより敷地内に入るのでさえ『パーミット』の取得が求められる。パーミットといっても、あるユダヤ系人物あるいはその代理人に手書きのメモをもらうだけのことである。シナゴーグの管理人に対する『この人にシナゴーグを見学させてあげてください』といった内容の走り書き程度のものである。その『パーミット』のためにコンタクトする先は以下のとおり。 

    Nahoom & Sons Private Limited

    Shop No. F20, New Market 

    リンゼイ・ストリートに面した、屋根の付いたニューマーケットにあるベーカリー兼コンフェクショナリーである。英領時代から続いており、このマーケットの中でも最古参の部類ということになるようだ。ナフーム(Nahoom、Nahoumと綴られることもある)という名の示すとおり、ここはユダヤ人経営の店であり、今のコールカーターでは非常に珍しいものとなっている。ここで一世紀以上に渡り同じ商いをしているとのことだ。時代がかった店内は英領期の面影をよく残しているのではないかと思う。 

    『ナフーム』といえば、英領期のこの街を代表する洋菓子屋のブランドであったようだ。年齢90歳を越えている現在の当主は創業者の孫であるという老舗。それだけでもこの店を訪れて、パンなり菓子なりを買って味わってみる価値がありそうだ。 

    そのD氏は高齢であるにもかかわらず、今も毎日元気に店に出ているそうだ。残り少なくなったコールカーターのユダヤ人コミュニティの顔役として広く知られている人物であるため、この街のユダヤ関係の記述やメディアなどで彼の名前をしばしば目にする。 

    私が訪れたときは不在で、彼の代理としてレジを任させている中年のムスリム男性が対応してくれて『パーミット』とやらを書いてくれた。その足でとりあえずベテル・シナゴーグに向かう。 

    ベテル・シナゴーグのあるポロック・ストリートは、先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街からごく近いところにある。一本手前にはエズラ・ストリートは、19世紀のこの街で不動産王として名を馳せたディヴィッド・ジョセフ・エズラに因んで名づけられたもの。かつてこのあたりはユダヤ人街といった様相であったらしい。 以下の画像は現在のエズラ・ストリートの眺めである。

    ムンバイーのユダヤ資本がサッスーン・ドックを建設し、今日もデイヴィッド・サッスーン・ライブラリーが同市のユダヤ資本を代表した一族、サッスーン家の栄華を今に伝えているように、コールカーターでは不動産、金融、タバコその他の産業を通じて富を築いたエズラ家の名残を目にすることができる。 

    それは今も名前の残るエズラ・ストリートであり、彼が寄進した土地に建てたベテル・シナゴーグであり、チョーリンギー・マンションでもあるが、視覚的に最も印象的なのはアール・ヌーヴォー建築の傑作、エスプラネード・マンションだろう。 

    外観もさることながら、内部がどうなっているのか大変興味があるのだが、今も現役の建物であり、文化財として公開されているわけではないのは少々残念である。 

    <続く>

  • コールカーターのダヴィデの星 2

    コールカーターのダヴィデの星 2

     

    英領のインド帝国首都であったがゆえに、バグダーディーの人々を引き寄せる商業的な誘因があったようだが、英領期以前からベネ・イズラエル、コーチン・ジューといったユダヤ系の人々が定着して活動していた亜大陸南西部と違い、コミュニティの人口規模はコンパクトなものであったようだ。 

    1798年にコールカーター入りしたシャローム・コーヘン以降、英国本国から極東の香港や上海までを繋ぐ拠点としてのこの街で、オピウムやインディゴといった当時のインドならでは物産をはじめとする商品の国際取引、ラクナウを首都としたアワド王国、ランジート・スィン率いるパンジャーブのスィク王国との商売等で順調に成長していく。 

    1826年にはこの街で最初の正式なユダヤ教礼拝施設、ネヴェー・シャローム・シナゴーグが建設された。だがその時点でもこの地のユダヤ人口は200を数える程度であったという。その建物は今も残っており、マガン・ディヴィッド・シナゴーグのすぐ隣にあるのだが、すでに廃墟といった状態で内部は公開されていないのは残念だ。 

    しかしその後、1860年あたりでは600人、19世紀末には1900人を越えるまでに成長している。その頃にはパークストリートからサダルストリートにかけての地域で仕事場や住居を構えるユダヤ人たちも多くなっている。 

    初期のバグダーディー・ジューたちの多くは、出身地の言葉であるアラビア語を話し、装いもアラビア式であった。だがこのあたりになると英語に洋装となり、疑似西洋人といった具合になってくるとともに、資本を蓄積してジュート工場、タバコ産業、保険業、不動産業等といった分野で大きな商いをする人々が増えてくる。 

    1880年代には最初のユダヤ人学校がオープンする。それから20世紀前半にかけていくつか出来たユダヤ人学校の中には閉校してしまったものがあるいっぽう、ユダヤ人子弟の入学が皆無であるにもかかわらず、経営母体の民族色を薄めた一般的なイングリッシュ・ミディアムの学校として存続しているものも少なくない。 

    タイムス・オブ・インディアによる以下の記事などはまさにその典型だろう。生徒たちのマジョリティがムスリムの『ユダヤ人学校』なのだそうだ。

    The schools are Jewish, its students Muslim (The Times of India) 

    1940年代前半、コールカーターのユダヤ人人口は最盛期を迎えるが、当時この街が彼らにとってそれほど魅力に満ちていたというわけではなく、日本軍によるビルマ侵攻から逃れてきた同国在住の同朋たちが逃れてきた結果である。彼らはもともとコールカーターやムンバイーから移住した人たちであったが、戦争という不幸な原因により『出戻り』となったわけである。 

    インド独立といういわば『プッシュ』要因に加えて、イスラエル建国という『プル』要因もあり、それ以降はユダヤ人たち、とりわけ財力と能力に恵まれた人たちほど、インドを出てイスラエル、米国等に新天地を求めて流出する動きが続いた。 

    もともとパレスチナ・イスラエル問題の進展により、もともとパレスチナに暮らしていたアラブ人と帰還運動に関わるユダヤ人たちとの衝突が始まるまでは、アラビア各地でユダヤ人たちはアラビア人たちと平和裏に共存してきた。それ以外の国々においてもムスリムとユダヤ人の関係はごく近いものであった。 

    今でもシナゴーグの管理人や雑役などを引き受けている人たちはたいていムスリムであるし、ユダヤ人地区とムスリム地区とは隣り合っていたり、重なっていたりもする。 

    それだけに2008年11月26日にムンバイーで発生したテロにおいて、ユダヤ教徒のコミュニティ施設として機能してきたナリーマン・ハウスがイスラーム過激派の犯行グループの標的のひとつとなり、司祭夫妻とそこに居合わせた訪問客が犠牲となったことは大変な衝撃であったことは想像に難くない。 

    <続く>

  • コールカーターのダヴィデの星 1

    コールカーターのダヴィデの星 1

     

    先日取り上げたコールカーターの旧中華街近くに、見応えのあるシナゴーグがふたつある。ベテル・シナゴーグ(Beth El Synagogue)とマガン・ディヴィッド・シナゴーグ(Maghen David Synagogue)である。それぞれ『神の館』『ダヴィデの星』といった意味の名のユダヤ教礼拝施設だ。 

    どちらも旧ユダヤ人街にある。先日コールカーターの「魯迅路」と「中山路」1で取り上げた旧中華街同様に『旧』としたのは、もはやそこはユダヤ人たちが住む街区ではなくなっているためである。 

    マガン・ディヴィッド・シナゴーグに至っては、その外観がプロテスタントの教会にありそうな形をしていることから、これをユダヤ教会と認識している人は界隈にほとんどおらず、それとは裏腹にそこからふたつほど裏手の路地にあるアルメニア教会をシナゴーグと勘違いしている人たちがとても多いようだ。 

    もちろん今の市井の人々には何の縁もない施設であるため無理もない。またユダヤ人とアルメニア人とでは、信条や先祖のやってきた場所は違うものの、ともに民族意識が強く、ビジネスマインドに富む商業民族であること、植民地時代には政府当局との繋がりが深く、支配者にごく近い位置で儲けてきた人々であるなど、似ている部分がかなり多い。加えてインドの都市部では往々にして居住地域も重なっていることが多かったこともあるがゆえの勘違いということもあるのかもしれない。

    そもそもコールカーターのこのエリアは、植民地期には白人地区でもなく、かといって『ネイティヴ』の人々のエリアでもない、つまり当時の言い方にならえばWhiteではなく、かといってBlackでもないGreyな地区ということであったらしい。 

    この街にやってきた最初のユダヤ移民の名前や出自ははっきりわかっているようだ。その人物がシャローム・コーヘンという人物で、現在のシリアのアレッポ出身であることに象徴されるように、コールカーターのユダヤ系移民の大半はいわゆるバグダーディー・ジューと呼ばれる人々である。 

    インドのユダヤ人にはおおまかに分けて三つのグループに分かれる。2世紀にパレスチナの故地を離れ、そしてインドに渡ってきたということになっているベネ・イズラエルというインド化の度合いが非常に高い人々、そしてコーチン・ジューと称されるより高い職能集団ならびに商業コミュニティとして繁栄してきた人々。コーチンの藩王国で庇護を受けてきたグループだ。そして三つ目がバグダーディー・ジューで、主に比較的時代が下ってからアラビア地域からやってきた人々を指す。 

    『バグダーディー』と言っても、必ずしも現在のイラクのバクダードからやってきたというわけではなく、アラビアのアデン、アレッポ、ダマスカスその他さまざまな地域からやってきた人々が含まれる。さらには非アラブのイランやアフガニスタンからやってきたユダヤ人たちもこの範疇にあることには注意が必要だろう。 

    先に挙げた三つのカテゴリーの人々以外にも第二次大戦時には欧州からインドにやってきた人々もあった。ナチス勢力下での弾圧から逃れるため渡ってきたユダヤ人たちである。 

    他にもミゾラムには『ユダヤ教徒』を自称するモンゴロイド系のコミュニティが存在し、ユダヤの『ロスト・トライブ』のひとつではないか?という説もあるのだが、出自が深い謎に包まれているため、通常は在インドのユダヤ人の範疇に含まれないようだ。 

    <続く>

  • サダル・ストリート変遷

    サダル・ストリート変遷

     

    サダル・ストリートといえば、昔からバックパッカーたちがよく利用する安宿街として知られている。今では猥雑な小路に成り果てているが、18世紀後半には裕福な英国人の広大な屋敷と庭園を所有していたエリアだという。 

    後に政府に売却されて19世紀初頭にSudder Diwani Adalatという裁判所が出来た。しばらくしてから裁判所は他の場所に移転したものの「Sudder」という名前がストリートの名として残ることとなった。 

    その後、20世紀に入るあたりまで、当時カルカッタに多数在住していたユダヤ人たちが多く住み着いていたとのことで、ベンガルを拠点に当時英領であった香港や中国本土などとも手広い取引を繰り広げる豪商たちも少なからずここに居を構えていたという。 

    そんなわけで、たとえ古ぼけていても、今なお少なからず残る当時からの建物にはなかなか風格を感じさせるものがある・・・と感じる方もあるのではないかと思う。 

    ユダヤ人だけではない。近代インドを代表する詩聖ラビンドラナート・タゴールもここに起居していた時期があった。10, Sudder Streetである。その場所にタゴール家の屋敷が残っているわけではないので特に面影を感じさせるものはない。

     サダル・ストリートの凋落が始まったのは第二次大戦あたりかららしい。繁華街への交通の便が良いこと、軍の駐屯地から近いということもあってか、このあたりでそうした白人兵士相手のバーや娼館などが開業したのがその始まりだという。 

    インドからイギリスが立ち去ってからも、一時滞在の外国人相手の商売のインフラがあったためか、1960年代から1970年代前半にかけてのヒッピー・ムーヴメント時代の西洋の若者たちがカルカッタを訪れるとここに出入りするようになった。その後、バックパッカーたちには安宿街として広く知られるようになる。 

    そんなサダル・ストリートだが、ごく一部の例外を除いて安かろう悪かろうの宿、宿泊客は西洋人をはじめとする、いわゆる先進国の若者ばかりであったこの界隈だが、かねてより変化の兆しが見えてきていた。 

    まずはバーングラーデーシュ行きの直通バスが付近から発着するため、バーングラーデーシュからやってきた人たちによる宿泊がとても増えたことがある。界隈にはほぼこうした人たちばかり泊めている宿もあるようだし、もっぱら彼らが持ち込むバーングラー・ターカーとルピーの交換を専門に行なっているような両替商も多い。バーングラーデーシュに行く用事でもあれば、そこでより安くターカーを仕入れることができる。 

    加えて従来の外国人旅行者の客層の変化もあるようだ。昔のように「若者ばかり」というわけではなく、中高年の訪問も多くなっている。そのため宿泊施設の需要についても、その価格帯についてかなり幅が出てきているようだ。若者たちにしても、かつてのように「安ければ何でもいい」というタイプばかりというわけではないようだ。 

    加えてインド人旅行者たちの存在がある。彼らにしてみれば「ヒッピーのような外国人たち」が宿泊するエリアを利用する「人品いやしからぬインド人旅行者」というのはまずなかったが、90年代以降の「旅行ブーム」もずいぶん長くに渡って続いており、旅行そのものが生活のサイクルの一部となった人も少なくないようだ。そんなわけで、かなりこなれたスタイルで旅行する人も増えてきた。すると施設や地の利が便利であれば、他のことにあまり頓着しない人も出てくることにもなる。 

    ちょうどそうしたところに目を付けて、近年のサダル・ストリートでは4,000~5,000Rsの料金帯のホテルがいくつか出来ている。 

    以前、安宿があった建物に大きな改修工事の手が入っていることに気が付いたのは前回コールカーターを訪れたときであった。今回それがすっかり完成していたので覗いてみると、ムンバイーでいくつかのビジネスホテルを展開しているBAWAグループによるBAWA WALSONというホテルであった。 

    2010年9月に開業したのだという。フロントのスタッフもこのエリアでは珍しくちゃんとした態度というか、プロフェッショナルな応対。部屋を見せてもらったが、とてもスタイリッシュでいい感じだ。フロアーがぴかぴかの板張りというのもいい。 

    部屋代を尋ねると示された料金表には5500 Rsと書かれている。「あぁ、そうですか」と踵を返して通りに出ようとすると、「今キャンペーン中ですが、いくらならばご利用されますか?」と尋ねてくる。テキトーに「2000」と答えてそのまま行こうとすると、背後から「いいですよ」と声がかかる。 

    冷やかしのつもりであったが、もっと低い料金を提示しておけば良かったかな?とやや反省しつつも、それでも部屋の内容を思えば充分以上にリーズナブルなので利用してみることにした。 

    ふんだんに出るお湯で身体を洗い、ふかふかで清潔な寝具に飛び込んでぐっすりと眠る。朝食はバフェ形式で、席に着いているのはサダル・ストリートの宿泊者らしからぬアップ・マーケットな宿泊客たちばかりであった。 

    1783年建造のコロニアル建築のFairlawn Hotel (同ホテルのウェブサイトの「about us」にサダル・ストリートを象徴するようなエピソードも書かれていて興味深い)やLytton Hotelといったアップマーケットな老舗は存在していたものの、古い建物を部分的に改造して開いた安宿が中心であったサダル・ストリートやこれと交わるフリー・スクール・ストリート界隈でちょっとベターなホテルがいくつも出来上がってきている。 

    そうした中でBAWA WALSONのように、小ぶりながらもモダンで洒落たホテルが出てきたことは、このエリアの客層や土地柄の変化を予見しているかのようである。