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カテゴリー: heritage

  • 再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

    バハードゥル・シャー・ザファルの墓

    5年ほど前に、「最後のムガル皇帝、ここに眠る」と題して、ヤンゴンにあるムガル朝最後の皇帝、バハードゥル・シャー・ザファルのダルガーについて取り上げてみたことがあったが、今回久しぶりに再訪した。

    場所はシュエダゴン・パヤーから比較的近い場所にあるのだが、ザファルのダルガーと言っても、インド系以外の人はわかってくれないことが多いので、ヤンゴンのダウンタウンで、インド系ムスリム男性にビルマ語で書いてもらった紙片をタクシー運転手に見せることにした。

    ダウンタウンからさほど遠くはないところにあるダルガーは、前回訪れたときのような閑散とした状態ではなく、まさに溢れんばかりの人々が集まっていた。何かと思えば、うっかりしていた。今日は金曜日で、昼の礼拝の時間に当たっているではないか。うっかりしていた。バハードゥル・シャー・ザファルは、ムガル最後の皇帝として、また高名な詩人としても広く知られているが、ここミャンマーのムスリムの間では聖人としても崇められており、ハズラトという尊称が付けられている。

    ザファルの本当の墓がある地下の部屋では女性たちが礼拝に参加しているので、入場は遠慮すべきかと思ったが、入口付近にいた男性たちによると、構わないというので墓石を見学する。地下室の天井の一部は吹き抜けになっており、上の男性たちが礼拝しているフロアーでの説法がちゃんと聞こえるようになっている。女性たちは必ずしも頭を覆っているというわけではなく、チャーダルを被っている人はごくわずか。ゆるい感じでいい。説法は主にビルマ語で行なわれているが、時にアラビア語のコーランの朗誦が入る。またときにウルドゥー語での話となることもある。かなり荒々しい口調だが、またしわがれていて品のある声やしゃべりかたではないが、とても勢いと力に満ちた感じがする。

    礼拝が終わるまで待とうと、境内のスナック屋でチャーイを頼む。ここの店主のみウルドゥー/ヒンディー語を理解する。他の人たち、主はに女性たちが働いていて、多少なりともインド系の血が入っていそうな顔立ちだが、言葉は通じない。現在、ミャンマーに暮らしているインド系ムスリムの人たちの間で、ウルドゥー/ヒンディー語が通じる相手とは、インド系コミュニティにどっぷり浸って生活している人たちか、そうでなければ極端に宗教熱心な人、民族意識が強くかつ教養もある人ということになるようだ。

    また、ミャンマー在住のムスリムの大半がインド系であることから、父祖の出身地が異なっていてもムスリムであるがゆえに共有するコトバという認識もあるらしい。すると、自動的に、日本人でもウルドゥー/ヒンディーを理解すると、やはりムスリムであろう思うようで、お茶を飲みながらしばらく話をした男性は、私を「日本から来たムスリム」であると紹介したりする。そうではないことを伝えると、彼らは少々残念そうな表情をしている。

    やがて礼拝が終了した。堂内に入って、風貌からはインド系とは見えないミャンマー人男性と知り合った。50代くらいではないかと思う。顔立ちは普通のビルマ人だが、先祖がインド系で、自身もインド系であると認識しているそうだ。35年間船乗りとして世界中をめぐり、現在ではアラビア語のチューターをしているとのこと。

    金曜日昼間のナマーズが終わってからも、1階にあるザファル、妻のズィーナト・マハルと彼らの娘の墓所(どれもレプリカである)で、モールヴィーが信者たちに説法を続けていた。地下の墓所では、墓にバラの花を降りかけて、カラフルで刺繍入りの布に包まれている墓石に上からもう一枚のカラフルな布をかけている。そして大量の香水を降りかけての儀式が執り行われていた。

    1858年にデリーからこの地に流刑に処され、失意の中で没したムガル最後の皇帝は、今もヤンゴンのインド系ムスリムの人々との絆を保ち、毎週金曜日には多くの人々を集めていることについて、心を動かされずにはいられない。

    金曜日の礼拝を終えて帰途につく善男善女たち

     

  • ミャンマーのE visa

    近ごろ何かとニュースで取り上げられることが多くなったミャンマー。『上からの民主化』の進展により、経済制裁の緩和が近いことが予想されるため、経済面からの注目を浴びるようになっているからであることは言うまでもない。

    国際社会からの孤立が長く続いてきたことによる経済や各方面インフラの立ち遅れの中で、今まさにどん底にあるにもかかわらず、初等・中等教育は広く普及しているため、識字率は約90%と意外なまでに高い。加えて一大農業国であるとともに、地下資源大国としても広く知られている。石油・天然ガスなどに加えて、鉄、錫、銅その他の鉱物資源にも恵まれている。

    それらと合わせて、人口6千万を抱える大国であり、先述のとおり一定水準の教育が行き届いた人材豊富な国家でもあることから、多くの国々にとって将来有望なマーケットであるとともに、製品加工基地としての役割も期待されることになる。

    大きな潜在力を抱えつつも、政治的理由によって、これまで極めて低い水準にあっただけに、経済制裁が緩和ないしは解かれることになれば、今後急激な成長が見込まれるだけでなく、その伸びシロは限りなく大きい。

    従前から、そうした将来性を見込んで同国に投資している企業や個人等はあったものの、長く続いてきた軍事政権による圧政と、これに対する先進諸国等による経済制裁下での先の見えない停滞が続く中、一部のASEAN諸国やインドによる投資や交易、加えて海外進出意欲旺盛な韓国の企業や個人による進出を除けば、同国での外資といえば、ほぼ中国による寡占状態にあった。

    たとえ旅行者として同国を訪れても、アメリカやEUによる経済制裁の影響はごく身近に感じられるものである。古色蒼然とした街並みや市内を走るあまりに旧式の自動車の姿はもとより、ヤンゴン市内の一部の高級ホテル(自前のルートによりシンガポールなど海外で決済)を除いて、トラベラーズチェックもクレジットカードも使用できず、基本的に米ドル現金を持ち込んで使うしかないという状態は、初めて訪れる人の目には、あまりに奇異に映ることだろう。経済制裁により、海外との金融ネットワークから遮断されているがゆえのことである。また同国自身の厳格な外貨管理により、基本的に『普通に店を構えた両替商』は存在しなかった。そのため主に宝石、貴金属類、みやげもの等を扱う店を回り、交渉のうえでミャンマー通貨に両替するのが普通であった。

    そうした状況も近々変わっていくようだ。ヤンゴンの国際空港等にちゃんとした市中レートで両替カウンターが出来ていると聞く。おそらく市内の繁華街や国内のメジャーなスポット等に、今後『ちゃんと店を構えた両替屋』が続々出てくることだろう。

    それにミャンマー国内から正規のルートによる海外送金サービスが開始されるという話も耳にする。商取引はもとより、同国から海外留学を希望している若者たちにはとっては朗報だ。たとえば日本に留学しようとする場合、現在までのところミャンマーから日本へ正式な送金ルートが不在であったため、ミャンマー国外つまり日本ないしは第三国に留学経費を支弁することが可能な立場(経済的に裕福な近親者)がなければ、たとえ若者自身の親がミャンマーでそれなりに高い経済力を持っていても門前払いであったからだ。

    インドでは、経済政策の大きな転換により、1990年代から2000年代にかけて、とりわけ都市部が大きく様変わりし、その動きは衰えることなく続いているが、自国内での規制その他のみならず、経済制裁という大きな足枷をはめられてきたミャンマーにおいてはおそらくそれ以上の速度で多くの物事が変化していくことだろう。もちろん人口がインドの足元にも及ばない程度のものであり、人口密度もあまり高くない。『スピード感』ではこちらのほうが勝ることになると思われる。またASEANというひとつの大きな経済圏の枠組みの中にあることも有利に働くことだろう。あくまでも経済制裁の大幅な緩和あっての話ではあるが。

    前置きが長くなったが、ミャンマーで観光客向けにE visaというシステムが月内にも導入されるという。事前にインターネット上で所定の手続きとクレジットカードによる査証代金の支払いを行ない、それと引き換えに数日以内にメールで送られてくるレターをプリントアウトして、入国時にパスポートとともにイミグレーションに提示し、その場でヴィザを発行してもらうというシステムだ。

    MYANMAR E Visa “How To Apply” (myanmarevisa.gov.mm)

    本日4月10日現在、まだ運用は開始されていないようだが、申請手続きはこちらの画面で行なうことになるらしい。証明写真のデータをアップロードするかカメラ付きのPCあるいはウェブカメラにてその場で撮影することもできるのだろう。

    現在、東南アジアの中で私たちが観光による査証取得必要なラオス、カンボジア等で国境到着時に簡単なフォームを記入して現金で代金を支払えば即座にヴィザが発行されるような具合になると良いのだが、まだまだ『敵が多い』国であるだけに、このあたりが最大限の譲歩なのだろう。それでもこうした動きは大いに歓迎したい。

    今後10年、15年の間に、ずいぶん旅行しやすい国になっていくことだろう。道路その他交通網の整備に多額の投資がなされるはずだし、観光という分野も主要な産業の柱のひとつとして位置づけられることは間違いないので、宿泊施設その他の面でも大きく改善されていくことと思われる。

    そうした中で、まだわずかに残っている、かつて『英領インド』の一部であったことの面影や残り香も急速に失われていくことも必至だ。人々の暮らしが向上し、今よりも自由に物を言える社会になること、民意が反映される国になっていくことについて、諸手を挙げて応援したいことは言うまでもないが、他のどこにもないこの国であるからこその味わいに関心がある向きには、まさに今が旬なのかもしれない。

    もうひとつ期待したいことがある。各地で民族運動が盛んであることから、まだまだ外国人が入域できなかったり、自由に立ち入ることができなかったりする地域が多いミャンマーだが、このところ各反政府勢力との和解が進んできているため、陸路で入国して他の地点から陸路にて出国という旅行も、やがて容易にできるようになってくるのではないだろうか。

    とりわけインドとの間については、インドのナガランド州のMorehからミャンマーのチン州のTamuのルートが外国人に対して開放されるようになるとありがたい。現在、インドのナガランドは私たち外国人がパーミット無しで入域できるようになっているが、ミャンマー側はそうではないようだ。

    南アジアと東南アジアの境目の地域が広く自由に旅行できるようになれば、いろいろ新たな発見があることと思われる。また、これまで隅に置かれてきたエリアの文化・伝統の価値やこれまで影で果たしてきた歴史的な役割が人々に再認識されることにもなるのではないかと思っている。

  • 「フェリーチェ・ベアトの東洋」 東京都写真美術館にて

    19世紀を代表する偉大な写真家、フェリーチェ・ベアトーの作品群が日本に上陸する。

    アメリカのロサンゼルスにあるJ.Paul Getty Museumによるフェリーチェ・ベアトー(1832-1909)の作品の国際巡回展の一環として、日本では東京都目黒区の東京都写真美術館での公開である。

    2年ほど前に、『時代の目撃者 ベアトー』と題して、写真家ベアトーについて取り上げてみた。今の残されている幕末の江戸の風景の秀作の中には、彼の手による作品が多いことは、日本でよく知られているが、1853年に勃発したクリミア戦争、そして1857年に始まるインドのセポイの反乱を撮影したことにより、戦争写真家の先駆けでもある。

    当時の交通事情はもちろんのこと、その時代の写真機材自体が後世のものとは大きく異なるため、彼が撮影したのは戦闘行為が終了した直後であるとはいえ、戦火の爪痕生々しい北インド各地の様子や処刑される反乱兵の姿などを伝えるとともに、当時の街中の様子なども活写しており、貴重な歴史画像を私たちに残してくれている。

    ベアトーの生涯を概観する日本発の回顧展という位置付けがなされており、アジアの東西で多くの風景を撮影した彼の青年期から晩年までの軌跡をたどることができる。写真芸術としての高い価値はもちろんのことながら、歴史的な重要性も極めて高い。

    今から180年前に生まれ、103年前にこの世を去ったベアトーが後世に残してくれた風景の中にじっくりと浸ることができる稀有な機会だ。

    会期は、3月6日から5月6日までの2か月間。

    フェリーチェ・ベアトの東洋 (J・ポール・ゲティ美術館コレクション) 東京都写真美術館

    ※チェラプンジー2は後日掲載します。

  • ハジョーとスアルクシー

    ハジョーとスアルクシー

    ポビットラ国立公園を後にして、ハジョーとスアルクシーに向かう。国立公園から見て、グワーハーティーを挟んだ反対側にこれらの地域があるため、一旦ゴミゴミした都会に戻ってから向かうことになる。

    市内を抜けて、ブラフマプトラ河にかかる大きな橋を渡り、グワーハーティー北部、つまりブラフマプトラ河の北側の市街地を通り、ハジョーに向かう。途中、片側二車線の見事な道路がある。高速道路並みにスピード上げたクルマがグングン流れていく。

    グワーハーティー出てから1時間くらいでハジョーに着く。ここにはヒンドゥーと仏教徒の巡礼が崇める五つの古い寺がある。その中で最も代表的なものはハイグリヴ・マーダヴ 寺だ。本堂への階段の下方にあるタラーブとその向こうの緑豊かな景色が美しい。扉を閉め切ったお堂からは、ドンドンドンと鳴り物の音が響いてくる。建物の造りとしては、さほど魅力を感じないが、本尊は6,000年もの歴史がある(?)ということになっているらしい。

    小高い丘の上にあるハイグリヴ・マーダヴ 寺から周囲を見渡す。
    建物自体はあまり興味を抱かせるものではなかった。
     
    スヤスヤと眠る仔犬3兄弟。ナガランドではなくて良かった・・・と思う。

    続いてスアルクシーに向かう。ここはムガーシルクと呼ばれる野蚕の織物生産で有名な町。どこに織物作業場があるのかと、通りかかった壮年男性に尋ねてみると「どこの家にもある」との返事。その男性、シャルマー氏は、自らの家の中に招き入れてくれた。彼は8人の職人を雇い織物を作らせているとのこと。機織機には、木で作られた沢山の穴が開いたプレートが上のほうに付いている。これはデザインのパターンのプログラムだ。こうした機織りの作業場はどこも同じように見える。基本的には彼と同じように小規模な家内工業として生産しているのが普通のようだが、大きなところでは100人ほど使って生産しているところもあるとのことだ。

    シャルマー氏自宅敷地内の機織り機

    シャルマー氏の家の作業場では、すでに職人たちは仕事を終えて帰宅しており、作業そのものを見ることはできなかった。すでに午後遅い時間帯に入ろうとしているため、近所にも作業をしているところはないようだ。ここでは午後3時くらいには、その日の仕事は終わり、みんな家路に着くのだともいう。朝は何時から働いているのか知らないが、まだ日が高いうちに家族との時間が充分持てることについては、ちょっと羨ましい気がする。

    『定時は午後3時』のスアルクシーの町

    ちょうどこの日の新聞記事に出ていたが、アッサムのムガーシルクの生産を機械化する試験プロジェクトが開始されたとのことだ。今のところ、昔ながらの手作業の機織機でギッコンバッタンと作業しているのだが、これを機械化するとどういうことになるのか。生産性の向上、そこからくる収入の向上は図られることはずだが、これまで育まれてきた匠の技は失われてしまうだろう。また現在生産に関わっている職工たちが、そのまま機械化された職場に雇用してもらえるのかどうかも疑問だ。利するのは生産手段を持つ立場にあり、かつ機械化に伴う投資をするだけの財力を持つ者だけということになりそうだ。

    そうは言っても、生産技術は時代とともに進化しなくてはならないということも事実。現在、職工たちが日々行なっている作業にしても、ある時代までは物凄い先端技術であったはずだ。今も使用されている機織機が広まる前の時代には、もっと古いやり方で布を織っていたはずなのである。伝統の維持と近代化はしばしば相反するものがある。

    小さな町なのに、ムガーシルクを販売する店舗は、大きなものから小さなものまでいろいろあり、この産業によって町の経済が成り立っていることが感じられる。どれも小売りと卸を兼ねているようだ。

    この町の『定時』らしい午後3時を回っているため多くは店を閉じていた。せっかくムガーシルクの産地として有名な町に来たので、記念にハンカチでも買おうとわずかに開いているいくつかの店で探してみるが、どこにもなかった。どこもアッサムで消費するサーリーその他のための品揃えをしてあり、私のような外国人が欲しがるようなものはないということに好感を覚える。今後、機械化される方向にあるとしても、観光客におもねる変な商品を手がけることなく、今後とも質実剛健な商いを続けて欲しいと思う。

  • ポビットラ国立公園

    ポビットラ国立公園

    グワーハーティー市内からタクシーでポビットラ国立公園を訪れる。アッサム州の国立公園といえばサイが多く棲息しているカーズィランガー国立公園が有名だが、あまり時間がなかったので、州都郊外の国立公園を訪れることにした次第である。

    トタンでできた傾斜付きの屋根の家屋がどこまでも続く。左右に広がる農村風景が美しい街道沿いで、私たちのクルマの前をナンバープレート無しの車両が走っている。そういえば昨日もそういうクルマを見かけた。運転手は「ハハハ。このクルマだって最初の2か月はナンバー無しだったんです。だってなかなか発行されなかったんですもん。」と事も無げに言う。田舎州とはいえ、いい加減なものだ。

    グワーハーティーから1時間少々で国立公園に到着。管理事務所の人が出てきて、園内に乗り入れる専用ジープが500ルピー、車両乗り入れ料金が300ルピー、加えて入場料は20ルピー、カメラ持込料が50ルピー。総額で870ルピーになるという。クルマと乗り入れ料金はともかく、入場料等については今どきのインドの国立公園としては安いなぁと思った。係の男と一緒に事務所に入って手続きの最後でチケットを切る際に、「どこから来られましたか?」という問いに対して、日本からと答えてしまったのが失敗であった。

    「あ、外国人の場合は違う料金なんです」とこの係員。外国人は、車両乗入れ料金は同じだが、入場料は250ルピー、カメラ持込が500ルピーもするため、ジープ代も含めて1,550Rsにもなってしまう。だがチケットにはそう印刷してあるので、こればかりは仕方ない。カーズィランガー国立公園と同額になっているようだ。ここまで乗せてきてくれたタクシー運転手のチャンパクは、国立公園を見学したことがないというので、彼の分の入場料は免除してもらい同行させることにした。

    チャンパクはアッサム人とのことだが、見た目はもっと西のほうの人間に見えるし、見た目も物腰も中産階級みたいな雰囲気がある。黄色の営業ナンバーのクルマではなかったこともあり、国立公園の職員の人たちも、当初彼を運転手ではなく観光客だと思っていた。ジープには専門の運転手と銃を持ったレンジャー1名が同乗する。

    国立公園見物に出発!

    園内は思っていたよりも広かった。世界で最もサイの居住密度が高い国立公園とのことだ。2004年の調査によると、ここには84頭のサイが生息しているとのこと。サイが近くで見られるかと期待していたが、森の中で木のもっと向こうに大きなサイが一頭いた。もっと近づきたかったが、危険であるとのこと。

    木立の向こうに見えるサイのお尻

    サイたちがよく出没するという水場には鳥しかいなかった。深い草原をジープで走った4先にも小さな水場があるが、どこにもサイの姿はなかった。

    水場にサイの姿はなかった。

    最後に大平原と表現したくなる開けた場所に出ると、はるか彼方、一キロか2キロくらい先にゴマ粒程度に見えるサイらしき姿がある・・・といっても、私の眼にはよくわからない。ジープの運転手とレンジャーは相当な遠視のようだ。あそこに三頭、ここに一頭、あちらに二頭と彼らは言うが、こちらはコンパクトデジカメで撮影した画像を拡大して、ようやくそれらがサイであるらしいことを確認できる。そこここに体格の良い水牛の姿も多いのが紛らわしい。タクシー運転手のチャンパクも「肉眼だとあまりよくわからないですね。」と言う。

    はるか彼方に何頭かサイの姿が・・・。

    こういう場所では一眼レフと高倍率の望遠レンズが必要である。平原を過ぎて外に出る。高く盛り土をして造られた道路が国立公園と外の田畑が広がる地帯との境界になっており、この道路からも何頭かサイの姿が確認できた。やはりデジカメで撮影した画像を拡大しての話だが。

    言うまでもなく、国立公園での観察対象は野生動物であるため、至近距離で遭遇できるかどうかは運とタイミングによる。サイたちがよく出没するという水場がこの国立公園の最大のハイライトのようだ。そのチャンスを最大にするには、おそらく朝の早い時間帯に訪れてみるのが良いのではないかと思う。

    それでも人口80万人超を擁する北東インド随一の大都会グワーハーティー郊外に、こうした国立公園があるということ、同じく郊外にあるハジョーやスアルクシーといった見どころと合わせて一日で回ることができるということは魅力である。

  • ナガランド6 ディマープルへ

    ナガランド6 ディマープルへ

    午前6時半に宿を出て、コヒマのバススタンド前にあるディマープル行きシェアタクシースタンドから乗車。山間の道を下っていき、少しずつ高度が下がってくる。途中でパイナップル畑が沢山あった。

    新鮮なパイナップル

    沿道ではあちこちでそれらを販売する売り子たちの姿がある。私たちは停車してひとつ購入。ディマープルに着いてから、ホテルのレストランで朝食の際に切ってもらったが、とても甘く、かつ酸味も強い濃厚な味であった。

    ディマープル近郊に入ってくると、もはやナガランドという雰囲気ではなく、普通のインドの街みたいになってくる。州都は人口10万人弱のコヒマだが、州内最大の都市ディマープルは人口は17万人近い。午前8時頃、街の郊外にあるNiathu Resortに到着。 スイミングプールやテニスコートなどもあり、いくつものコテージからなる、いかにもといった感じのリゾートホテルだ。 私たちが利用したのは、バルコニーがある2階。部屋は広いしきれいで快適だ。まだ出来たばかりで新しいのもよい。

    Niathu Resort

    ただ難点は、街からずいぶん遠いことだ。所在地が「7th Mile」と書かれているだけあり、市街地からずいぶん離れている。乗り合いテンポやオートリクシャーで、ディマープル中心地にある鉄道駅から30分くらいかかる。

    ここを選んだのは、WiFiを利用できるからだ。一緒に旅行しているL君が抱えている仕事の大詰めを迎えており、是が非でもネット環境がなくてはならない。コールカーターで購入したvodofoneの3G接続は、平地に降りてきてもあまり良い状態ではなく、ほとんど使いものにならない。ナガランドではどうもダメなようだ。

    しばらく部屋でのんびり過ごしてから、昼前くらいになって観光に出発。宿の敷地前の国道から乗合テンポで、終点のディマープル駅前の道路の立体交差下、通称レールゲートと呼ばれるエリアまで行く。そこからオートにてハイスクール・コロニーのサーキット・ハウスまで行く。

    カチャリー王国の遺跡

    ここの正面がカチャリー王国の遺跡だが、あまり見るべきものが残っているとは言えない。複数のピラーが固まっている部分とタラーブがある。ピラーの周囲は柵で囲ってある。いろいろいたずら書きや勝手に掘りこんだ跡などがあることから、遺跡保護のためにそうしたのではないだろうか。この遺跡やカチャリー王国のことはよく知らないこともあるが、よほど想像力たくましくないと、あまり楽しめない遺跡であった。

    しばらく歩いた先にあるSaramati Hotelという州政府系のホテルがあるあたりは賑やかな商業地になっており、ナガ民族関係のグッズを売る店がいくつもある。ショールやマフラーであったり、ナガの槍を模した工芸品であったりする。ナガの刀の模造品もあった。その他の工芸品といえば、竹を利用したものが多い。

    竹細工

    しばらく歩くと駅前の道路の立体交差に出た。さきほどはここでテンポを降りて、オートに乗り換えたあたりの場所だ。立体交差も駅舎もごく新しく、駅のすぐ南にはバススタンドがある。このエリアは、相当数の商店や家屋を取り壊して建設したものと思われる。ディマープル市街地はほとんど『インドの街』である。ナガランドの他地域ではほとんどみかけないヒンドゥー寺院がいくつもあり、ムスリムの墓地もあった。入口のゲートには、1930年に出来たことが記されている。かなり前から他地域から流入してきた人たちが多く住み着いていたのだろう。その墓地の隣にはアッサムライフルズの連隊の駐屯地があり、周囲では兵士たちが物々しい警備をしている。装甲車に乗った重装備の兵士達もしじゅう出入りしている。

    今回、ナガランド観光のハイライトのひとつである北部のモンと呼ばれる地域は訪れなかったが、ごく最近まで自由に訪れることができない州であったため情報がとても少なく、また滞在中に他の外国人にもほとんど会わなかった。だがRAP免除措置がこのまま続けば、より多くの人たちが訪れて、様々な魅力を発見していくことだろう。治安面での不安がなければ、タイ北部のように山岳部に住む少数民族の村を訪れるトレッキングがブームになる可能性も秘めており、そのあたりが今後のナガランドにおける観光振興のカギになることは容易に予測できる。

    他の魅力あるエリアから距離があり、バーングラーデーシュを跨いだ反対側に位置するため交通の便の面からも、今後もそう大きな人気を呼ぶことはないように思われるのだが、人口が希薄で丘陵地の眺めも良いことから、のんびり過ごすにはもってこいだ。

    まだ知られていないところが多く自分で探る楽しみがあることからも、個人的にはナガランドはなかなかオススメである。

    <完>

  • ナガランド5 市場

    ナガランド5 市場

    食品市場
     干物だがどれも川魚である。
    ウナギの干物。どんな味がするのだろうか?
    ナガランドといえば、他の土地では通常食用とされない様々な物が食されていることが知られているが、やはり市場に行くといろんなものが売られていた。 

    本日の記事については、人によってはとてもグロテスクに感じたり、不愉快に感じたりするかもしれない画像が含まれることをあらかじめ申し上げたい。加えて、これらの写真の多くは、私自身の主観に照らして『珍しい』と判断したがゆえに取り上げているが、市場で売られている大多数の品々は、私たちが日常的に食べている食肉、野菜、果物類と大差ないことをお断りしておく。また、こうした『珍品』については、同じ『動物性蛋白源』であっても、大量生産が可能な鶏肉やマトンなどと比べて高価なこともあり、個々の家庭で日常的に消費されているという訳ではないと思われることも言い添えておく。

    野蚕の幼虫
    野蚕のサナギ

    さて、ナガランドの市場において最も特徴的なのは、いろんな種類のイモ虫やサナギが売られていることだろう。多くは野蚕の種類である。私はそれらを見て大いに引いてしまったのだが、韓国人のL君は「何だ、ポンデギじゃないか。」と事もなげに言う。そういえば韓国の街角では屋台料理のサナギをよく見かける。昆虫類では、他にはイナゴ、ヤゴなどが売られており、虫以外ではタニシやカエルを商う売り子が多い。

    イナゴ
    ヤゴ
    タニシ
    蜂の子
    ハニーコーム。これは飛びきり美味しそうだった。

    やけに赤身の色が濃い肉が売られており、尋ねてみると犬肉であるとのことであった。ボウルに入った臓物も販売されていた。その脇では、噛み付かないように口をヒモで結ばれた犬たちが、首から下を麻袋に包まれた状態で置かれている。すっかり観念した様子でゴロリとなっているが、ときどき頭を起こして周囲を見渡したりしている。こちらと視線が合うと、慌てて目をそらして反対側を向いて寝そべる。頭の良い動物なので、おそらく自分の運命がだいたい判っているのではないだろうか。気の毒に思うが、地元の食文化なので仕方ない。ナガランドで野良犬が少ない理由はこれだろう。しかも他の食肉よりも値の張る『高級食材』でもある。

    食品として売られる犬たち。
    カゴに入れられたネズミたち

    だが、『食肉』の元となる動物たちについて思えば、きれいにパックされて、あたかも工業製品であるかのように、無機的な感じで販売されているのが良いとは一概に言えないだろう。そうした環境下では、『生けるもの貴重な命をいただいている』という謙虚な気持ちが生じることはない。例えば、マーケットで『シメたて』の鶏の肉を手渡されて、ビニール袋越しにさきほどまで生きていた鶏の体温を感じつつ家路につくのと、冷蔵あるいは冷凍で『規格製品』然としたパッケージをレジ袋に放り込んで帰宅するのとでは、相当な違いがある。

    昆虫類など、あまり好奇心に満ちた表情で見て回るのは失礼かと思い、幾人かに「あなたの国でも食べるのか?」と質問されたが、「そう、ウチの村ではよく食べているんだよ。」など適当に答えておく。市場では、こうした『食品類』を販売する地元の売り子たちと肩を並べて、平地から来たインド人たちも商っているが、慣れないうちはずいぶカルチャーショックを受けていたに違いない。

    食品ではないがヒョウタンも売られていた。日本のそれと同じ。

    インドの露店商たちは、隣合わせているナガ族の同業者たちと親しげに会話しているが、ナガの言葉を理解するインド人はほとんどないようで、ヒンディーが使われている。文化的にも民族的にも『インド』とは大きく異なり、長らく民族独立闘争が続いてきたナガランドではあるものの、意外なまでにヒンディーの通用度は高い。もちろん在住のインド人がナガの言葉を多少は覚えたりもすることもあろうが、ナガ族の間でのヒンディーの普及度のほうが、はるかに高いはずである。

    <続く>

  • ナガランド 4 コノマ村

    ナガランド 4 コノマ村

    山の上の街州都コヒマから平地にあるナガランド最大の街ディマープルへと続く国道39号線を途中で逸れると未舗装のひどい悪路となる。モンスーン期には小型車での走行は不可能となり、バスかスモウ(大型の四輪駆動自家用車)のようなクルマでなければ通行できなくなるという運転手の言葉に頷くしかない。

    ターター社の小型車インディカにて、文字通りバンバン跳ねながらの走行。幾度も車内天井に頭をぶつけてしまう。こういうタイプの車両で移動するような道ではない。クルマが壊れるのではないかと思うくらいだ。窓を閉めているものの、車内はどこからか侵入してきた土埃でたちまち一杯になる。 ジャングルの中のダートのようなひどい道を進んで1時半半くらいでコノマの村が見えてきた。縦に長く、斜面に広がるこの村は、両面の斜面に家々が張り付いている。まるでコヒマをそのまま小さくしたかのようだ。どこまでも丘陵地が続くナガランドでは、町や集落はたいてい小高いところに造るもののようだ。

    ナガランドの村は小高いところにというのが定石らしい。
    日中は人々の姿が見えない村

    ずいぶん静かな村であった。そもそも村の主であるはずの人々の姿がなく、突如として蒸発してしまったかのようで気味が悪い。まったく人気のない村の中を進んでいくと、ようやく幼い子を遊ばせる母親の姿があってホッとする。

    村の中には伝統的なナガの家屋は一軒もないようで、コヒマ郊外にあるような感じのごく普遍的な木造の家屋が大半で、これらに加えてインドの他の地域にあるような普遍的なレンガ積みの建物が少々といった具合。村のあちこちに展望台のようなものがあり、そこがちょっとしたスペースや広場のようになっている。焚き火の跡もあり、夕方そのあたりに人々が集ったりするのだろう。

    共同の水場がいくつもあり、近隣のより小さな村から出てきた学齢期の子供たちを住まわせるホステルもあることに加えて、村の中の細い路地のかしこに小さなゴミ箱が設置されており、チリひとつない清潔な環境であることにびっくりした。想像していたよりもずっと文化的だ。それぞれに政府のプロジェクトで作ったことを示す記号らしきものが書かれていることから、活発な反政府活動が続いてきたナガランドだけに、政府が民生の向上に対する貢献をアピールするためのプロパガンダ的な要素があるのかもしれない。

    広場を中心にいくつかの家屋が集合しているものもある。一族で暮らしているのだろうか。そうしたひとつで、少年、青年がいた。こういう村でもちゃんと英語を話す人がいるのはナガランドらしいところだ。食事中であった彼が言うには、人々は朝早くから田畑に出て仕事をしているため、日中の村の中には幼い子供を持つ母親くらいしかいないとのことだ。

    比較的大きな村ではあるものの、店らしいものは見当たらない。村人たちは日用品をどうやって調達しているのだろうか。衣類などは町に出て購入するにしても、石鹸、洗剤、調味料といった毎日使うようなのは、どこかでまとめ買いしておくのだろう。

    村は細い丘の上にある。真ん中を縦貫する階段の通路があり、周囲をぐるりと回る道路が囲んでいる。インドのどこでもそうだが、村を訪問する際に嫌なのは犬だ。町中に住んでいる犬たちと違って、ヨソ者に慣れていないため盛んに吠え付いてくるし、これまたしつこい。太陽が高いうちのコノマの村はほとんど無人状態だ。野犬たちの群に囲まれたら、素手だとちょっと危険かもしれないと思い、カバンから折り畳み傘を出しておいたが、一匹の野犬もいないのが意外であった。州都コヒマでも妙に野犬が少なく、人を見かけると逃げるように迂回してしまう姿を目にして、ちょっと不思議に思っていたが、そのあたりについては、後日触れることにする。

    家屋の中には、英語で売りに出しているということを書いた紙が貼られているものがあった。こういうところで、つまりアンガミー・ナガの村であるがゆえに、他所から関係のない人が移住してくることはないだろう。だが、もしこの村が観光化されていくことがあれば、マナーリーのヴァシシュトのようになるのではないだろうか。

    最初は地元の人々がゲストハウスや食堂などを始めて、外国人その他の観光客の出入りが増えてくると、地元の人々もこなれてきて、他所からの商売人も入ってくる。そうしたところで雇われて働く人々にはナガ以外の人たちも入ってくる。そうしたプロセスを経て、いつしか他所の人々も含めた小さなコスモポリタン的な集落になり、観光客たちが「沈没する」場所になっていくようなこともあるかもしれない。RAPが恒久的に不要となれば、インド長期滞在旅行者たちが集う場所となることが予想できる。彼らは何か特別なものが、何か特に見るものがなくても、こうした牧歌的な風景の中でゆったりと時間を過ごすのが好きだからだ。

    村の周囲には段々畑や棚田が広がる。インド人たちの姿はない。見かけるのはナガの人々だけである。インド人たちと違い、外国人が来てもチラチラと見てはいるものの、好奇心剥き出しに近づいてくることはない。大人も子供も、こちらが声をかけると、はにかみながら返事をしてくれる。

    村の中心部にあるバプティスト教会前の広場には、戦争で亡くなった人たちに対する慰霊塔がある。この戦争とは、旧日本軍の侵攻ではなく、ナガの独立戦争のことである。石碑には死者の名前が刻まれており、上部には青地に星と虹を描いた「ナガランド国旗」が描かれている。

    内戦による戦死者たちへの記念碑

    政府の様々なプロジェクトが実施されているこの村の玄関口に、こうした記念碑が建立されていることにいささか驚いた。だが、こうした村の中にあるこうした石碑は、たいていナガの言葉で書かれているもののようだが、これは英語で記されている。ひょっとすると、和解を演出するために行政側が建てたのでは?と疑いたくなる余地もある。

    それでも、コノマの村も内戦とは無縁ではなかったこと、ここから多くの戦士を出していることがわかる。内戦時代にはとても危なくて近づくことはできなかった場所なのかもしれない。内戦が激しかった時代には、州内を走るトラックやバスは前後に軍用車の護衛をつけてコンボイを組んで山道を走っていたという。それも上り坂で速度が落ちたところを襲撃されていたという話を聞いたことがある。

    ナガランドは、総体として和平への方向にあり、それが進展してきたがゆえに、こうしてRAP無しで入域できるようになっているわけだが、これが恒久的なものであって欲しいと願いたい。

    <続く>

  • ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    ナガランド3 コヒマ戦争墓地

    War Cemeteryからコヒマ市街地を望む

    坂道の街、コヒマの街並みを眺めるのに絶好のロケーションにコヒマ戦争墓地がある。インパールのものと同様、ここも第二次大戦時の日本軍によるインパール作戦により亡くなった兵士たちを埋葬してある墓地だ。英連邦戦争墓地委員会(CWGC:Commonwealth War Graves Commission)が管理しているという点も同じならば、墓標のタイプも同一である。

    ただ違うのは、インパールでは死亡日ごとに固めて埋葬されていたが、ここでは所属連隊ごとになっている点だ。それでも亡くなった日はたいてい特定の日付に集中していることから、それらの日に大きな戦闘があったものと理解できる。

    インパールの墓地同様に、ここでも地元の連隊以外に、亜大陸各地の連隊所属の兵士たちはもちろんのこと、当時の英領インド以外のイギリス植民地から派遣された兵士も多かったことが墓標からわかる。カナダから来た兵士の名前もあった。無理を承知で作戦を敢行した旧日本軍兵士だけではなく、防衛する側にとっても非常に重要かつ困難な戦いであったことを示している。

    インド兵の墓標はほとんどがムスリムだが、一部にグルカ兵の名前もある。スィクやヒンドゥーのインド兵死者については、墓地の最も奥にある石碑に所属連隊ごとに氏名が刻まれている。彼らが火葬されたことも記されている。兵士以外にも軍医、運転手、その他軍属の仕事をしていた人たちも墓標や石碑に名前が刻まれている。

    欧州系の兵士とともにインドのムスリム兵士の墓標も多い。
    当時英領であったマレー半島の連隊から派遣されて亡くなった英兵の墓標。
    墓を作る習慣のないヒンドゥー兵士、スィク兵士については、個々の名前を記した記念碑がしつらえてある。

    墓地の出口付近に掲げられていた一文が胸を打つ。

    WHEN YOU GO HOME

    TELL THEM OF US AND SAY

    FOR YOUR TOMORROW

    WE GAVE OUR TODAY

    無為な戦争のために命を落とさなくてはならなかった当時の若者たちはさぞ無念であったことだろう。攻撃を仕掛けた側の兵士も、防衛していた側の兵士も。

    第二次大戦に従軍した世代の人々がとうの昔に社会の第一線から退き、しかも大半が鬼籍に入りつつある今、あの戦争のことを一人称で語る人は身の回りにほぼいなくなっている。残酷な事実も血生臭い現実も、時間の経過とともにリアリティーが失われていき、過去の歴史の中のひとつの叙事詩のようになりつつある現在、NHKアーカイブスのような映像・音声による記録は貴重なものとなっている。

    [証言記録 兵士たちの戦争]インパール作戦 (NHK 戦争証言アーカイブス)

    http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000

    戦争という過ちについて、私たちの世代はもちろんのこと、更に後世の人たちもこれを美化することは決してあってはならない。

    <続く>

  • ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

    コヒマの早朝

    朝早く6時くらいに目覚めても、すでに陽はすっかり上っている。さすがインド最東端エリアだけのことはある。まず外出して、この街で一番高いホテルということになっているジャプフー・ホテルに行く。もともとはジャプフー・アショークと呼ばれていたアショカグループのホテルであったが、5年くらい前にナガランド政府系の会社に売却されたとのこと。公営の施設が民間に売却という例はどこの国でも近年多いが、反対に民間施設を公営企業に売却というのはあまりないように思う。

    ホテルへの道すがら、あるエリアでインドの平地から来たとおぼしき人々が道路脇に大勢立っている様子が目に入る。やがて一台、また一台とトラックがやってきて、彼らを乗せて出て行く。おそらく工事現場等で雇われている人たちだろう。見るからに経済活動が低調で、地元の人々に就業機会があまりなさそうなコヒマだが、3K的な仕事場で下働きをする人々は他州から来た人々が多いようだ。他州とは北東インドの外の地域、大概はビハール、UPの両州のことである。

    クリスチャンが多いナガランドでは、トラックもそれらしい仕様になっている。
    トラックが頭上に頂くのはジーザス。

    同行のL君は、目下抱えている仕事の関係があり、私と同じくコールカーターで契約したプリペイドのvodafoneのネット接続プランが、コヒマではまともに使えないことがわかったため、Wi-Fiが利用できることになっているジャプフー・ホテルのネット接続環境の検証のために訪れた。ロケーションとしてはベストだ。街中で最も標高の高いところに鎮座するナガランド警察本部の真正面にある。周囲の眺めはもちろんのこと、給電の優先度も高いはずだ。だがレセプションその他の従業員の緩慢な動きは、やはり政府系のホテルという感じがする。とりあえずここのレストランで朝食を取ることにした。

    仕事の締め切りが迫っている関係で一日中ホテルに缶詰めになるL君には申し訳ないのだが、私は一人で観光に出かける。本日向かうのは、キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村だ。どちらもコヒマから南下してマニプル州境に向かう道路沿いにある。

    キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジは、文字通りナガランドの生活文化を再現したテーマパークである。ナガランド州の主要民族であるナガ族には、アンガミー、アオ、コニャク、レングマー、ローター等々、様々な支族があるのだが、そうしたコミュニティの様々な家屋がしつらえてある。屋根の材料がよしずであったり、石板であったりといろいろある。壁材も竹、木材、竹のようなものを編んだもの等、いろいろなバリエーションがあることがわかった。だが残念なのは、部族ごとの特徴や生活文化の違い等を説明する案内文や博物館のようなものもないことだ。それぞれの家屋には部族名の表示はしてあるのだが。そのあたりがある程度把握できるようにしてもらいたいものだ。

    ちょっとイマイチのキサマ・ヘリテージ・ヴィレッジを後にして、キグウェマ―の村に行く。さきほどのヘリテージ・ヴィレッジで見たような伝統的な家屋があることを期待していたが、そうではなかった。道路に面したところに垣根のようにして薪が積んであることを除けば、インドの山間のどこにでもあるような感じの村である。ただ家屋のたたずまいはこのあたりらしく、東アジアをも彷彿させるような感じではある。

    さほど人口が多いとは思えない村だがいくつもの教会がある。人々の家屋のたたずまいに比して、教会の建物は外から見る限りではなかなか立派だ。ナガランドでは、バプティスト系の教会がとても多いようだが、国外からの資金流入もあるのではなかろうか。村から遠くコヒマの街を望むことができる。村の周囲には段々畑が広がる。

    村では工事をしているインド人(北インド人)労働者たちの姿があり、声をかけてみるとビハールからとのこと。ナガランドでは地元の人たちに仕事がないが、こうして外から来る人たちの姿は多いようだ。だからといって地元の雇用機会を奪っているとは言えないのかもしれない。インド各地で共通していることだが、ビハールから来た労働者たちは、地元の人々がやりたがらない汚れ仕事等を低賃金で引き受けてくれていることを忘れてはいけない。

    夕方、コヒマに戻る。宿泊先のホテルがある地域は、コヒマの街そのものの起源のコヒマ・ヴィレッジと呼ばれるエリアであり、こんなゲートがしつらえてある。

    コヒマ・ヴィレッジのゲート

    坂道を上った先のほうには、T – Khelなるものがある。元々、コヒマ・ヴィレッジには、D (Dapfütsumia) Khel、L ( Lhisemia) Khel、P ( Pfüchatsumia) Khel 、T (Tsütuonuomia) Khelと四つのKHELがあり、住民たちはその四つのKHELのいずれかに所属することになっており、現在でもその活動は盛んであるそうだ。Khelとは、町内会的な役割加えて、同属会とか結社のような性格もあるようだ。

    T – Khel入口

    <続く>

  • マニプルへ5 インパール戦争墓地

    マニプルへ5 インパール戦争墓地

    インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。

    だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。

    強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。

    そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。

    アッサム連隊所属の兵士
    ガルワール連隊所属兵士
    パンジャーブ連隊所属の兵士
    ハイデラーバード連隊から来た兵士
    亡くなった兵士がヒンドゥーであったことを示すシンボルが彫られている。
    ユダヤ教徒の兵士
    マレーシアのカメロンハイランド連隊所属兵士
    ケニア連隊兵士
    東アフリカ出身の黒人技術者
    北ローデシア(現ザンビア)連隊の兵士
    イギリス本国兵士
    イギリス本国兵士

    墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?

    中国人の名前が刻まれている。
    無名戦士の墓標。クリスチャンであったことを示す十字架だけがアイデンティティだ。

    この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。

    <続く>

  • マニプルへ4 Japan War Memorial

    マニプルへ4 Japan War Memorial

    モイランの町の食堂で簡単な昼食を終えて外に出るとクルマがいない。運転手の携帯にかけてみると、『警官に移動を命じられまして・・・』などとブツブツ言いながら、店の前に戻ってくる。どうせ小一時間くらいはヒマになるとみて、テキトーにフラついていたのだろう。

    ともあれ、携帯電話の普及は、こうした運転手たちにとって、得意先(ホテル、旅行代理店その他手配師等)から話がダイレクトに飛び込んでくる効果があったり、私たちのような一見の客が「それじゃあ明日もよろしく」と依頼したりすることもありえるなど、より多くの仕事の機会を得ることを可能にしたといえる。同時に、運転手としての仕事の中での空き時間の自由度が増したという副次的な効果も生んだということにもなるだろう。

    Japan War Memorialの記念碑

    国道150号線でインパールに戻る途中にあるJapan War Memorialを見学。この場所にあるのは、気まぐれでも地価が安い(市街地から遠く離れている)からでもなく、まさにこの場所が戦跡であるからだ。War Memorialのすぐ裏手に通称「レッド・ヒル」と呼ばれる丘があるが、往時の日本軍はここに一時的な拠点を構え、道路と反対側のより小さな丘には英軍が集結していた。この狭いエリアで両軍入り乱れる熾烈な戦闘が展開された。両軍の大勢の兵士たちが血を流したことから、レッド・ヒルと呼ばれるようになったのだという。

    「レッド・ヒル」と呼ばれる背後の丘

    比較的新しい現代的なモニュメントは平成6年に造られたものだ。日本の建築会社が施工したことを示すプレート等がはめ込まれている。清掃は行き届いているものの、おそらく建造されてからきちんとしたメンテナンスはなされていないのだろう。かなり荒れている印象だ。

    「レッド・ヒル」から見て道路を挟んだ向こうにある丘に英軍が陣取ったのだとか。

    その背後には、モニュメント建造以前からの慰霊塔があり、日本軍の残した砲身も残されていた。砲身に刻まれている文字は錆で消えかかっているが、それでも何とか「大阪・・・昭和16年・・・」と、部分的に読み取ることはできる。

    慰霊塔
    旧日本軍が使用していた重機
    「大阪・・・昭和16年・・・」とかすかに読める。

    ここの管理人は話好きな人で、いろいろ話してくれた。もちろんこの人は戦時を知る世代ではなく、人々から伝え聞いた二次情報、三次情報なのだが、当時の戦闘の事柄はもちろんのこと、ここを訪れる日本の戦友会の人々のこと等について、いろんな予備知識を披露してくれた。

    後世の私たちから見れば、無益な戦争のため、不幸にして往々にして若い年齢で亡くなった兵士たちに善悪の区別はない。出身国の異なる同年代の人々が、戦場という場所でたまたま敵味方に分かれて対峙したばかりに、上官の命令に従って殺戮を繰り広げるという理不尽さ、戦争という国家による愚かな過ちが今後繰り返されることがないように願うばかりである。

    だが過ちであったということ自体が風化してきて、日本が過去にかかわった戦争やそれにまつわる犯罪行為を美化するかのような風潮が高まりつつあることについて、懸念を抱かずにはいられない。

    日本で、原爆記念日、終戦記念日といった時期にさしかかると、テレビでは戦争にかかわる記念番組が放送されるのは毎年のことだが、今や戦争体験を自らのものとして一人称で語ることのできる人がとても少なくなった。こうした世代が社会の第一線から退いて長い時間が経過していること、その体験を伝える声が世の中の人々に届かなくなって久しいことも大きな要因のひとつだろう。

    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文
    慰霊塔の碑文

    インパールのJapan War Memorialには、かつてインパール作戦に従軍した兵士たちの様々な思いが詰まっているに違いない。この地で無為な戦闘のために大切な命を失った両軍の関係者たちに黙とうを捧げたい。

    慰霊碑

    <続く>