ダーラーヴィーの眺め

 以前『宝の山(1)(2)』として取り上げてみたムンバイーのダーラーヴィー地区はアジア最大とも言われるスラムだが、このほどBBC South Asiaで『Life in a Slum』と題してここに生きる人々の暮らしぶりを伝えている。
 もちろんここで取り上げられているのはギャングや犯罪者など、『スラム』からすぐさま連想されてきそうなネガティヴな面ではなく、一生活者として日々を送るフツウの人々。周囲の相場と比較した家賃の安さと交通の便から住み着いているものの、やはり機会があれば外に出たいと思っている勤め人や主婦、学生にメイドといった面々である。
 インド経済・金融の中心地でありながらも、周囲を海に囲まれた半島という地理的な制約があるムンバイーで土地というものがいかに貴重なものであるかということを端的に表している。人々が各地から職を求めて集まってきた結果形成されていったのがスラムだが、見方を変えれば街が様々な分野で働く人々を必要しているものの、それらの人々を吸収するキャパシティに欠けているため、さらなる発展の可能性の芽をつぶしてしまっているということにもなる。
 漁村から都会へと発達したムンバイーの成長は、東西南北どちらを向いても海原に大きく開かれた港湾都市という性格に負うものが大きいが、まさにその海によりどちらの方向を向いても塞がれている。旧来の市街地から隣接した郊外に新興住宅地や工業団地などをシーレスに拡大していくことのできる内陸の都市と比較して、スペースの上での制約が大きい。成長の波に乗るインドで、バンガロールやハイデラーバードなど商業や金融の核として伸びてきた街はいくつもあるが、かといって経済の中心地としてのムンバイーの地位がゆらぐわけではない。行政当局によるダーラーヴィー再開発計画とともにかつて東京でもてはやされていた臨海副都心計画のようなものが浮上する日も遠くないかもしれない。

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ネットで体験する世界遺産

ネットで体験する世界遺産
 World Heritage Sites in Paranography というサイトがある。ここでは各地の世界遺産のパノラマ画像を360℃の角度から眺めることができるのだ。(閲覧にはQuick Timeのインストールが必要)
 日本やロシアのコンテンツは今のところアップされておらず、このサイト自体がまだ発展途上といった印象を受ける。しかしここで見ることのできる画像の美しさはもちろんのこと、画角の広さからその場の雰囲気もよく伝えていて興味深い。イランのイスファハーンの画像などは、卒倒しそうなほどに美しかった。最初は『ああ、こういうサイトもあるのか』と何の気なしにブラウズしていたのだが、知らぬ間に『呑み込まれて』しまい、ずいぶん時間が経ってしまった。
 もちろんインドについてもかなり手厚く25か所のパノラマ画像が掲載されている。南アジアの周辺国のものなども含めて、訪れたことのあるところ、ないところをあれこれと眺めてみるのも面白いだろう。
 どういう技術でこういう画像の作成が可能なのか、ハイテク音痴の私には皆目見当つかないのだが、こうした手法で各地の旧所名跡や風物を記録したギャラリーが増えてくるといい。遺跡の外に広がる景色をしばらくたどって行くことができたり、最寄りの町までの沿道風景をそのまま画像でフォローできたりする『仮想旅行体験』が用意されているとなお楽しそうだ。
WH Tour

『情報ノート』に想う 2

 イラン・イラク戦争が終わって間もなかったころ、『イランへの道』と題するノートのコピーが出回っていた。インドからパキスタンを経てイランを目指す旅行者たち、あるいはそれとは反対側のトルコからイランへと向かう日本人バックパッカーたちにとって必携アイテムであった。
 そのころ日本で出ていたイランのガイドブックといえば、ブルーガイドのようなパックツアー向けの主要観光地をざっと簡単に説明したようなもので、実際に自分で歩いて旅するのに役立つような情報はほとんど掲載されていなかった。
 ロンリープラネットのガイドブックもまだ出ていなかった。そもそも当時、若者でさえも気軽に海外旅行に出かけるような国で、イスラーム革命後のイランに簡単に出入りできる旅行者の国籍はごく限られていた。そのひとつが日本であった。
 バブル最盛期、あまりに多くの人々がイランから不法就労することを目的にやってくるのに音を上げた日本の当局が、日本とのイランの間に結ばれていた90日以内の短期滞在における査証の相互免除を取り消すまで、日本人ならば誰でもヴィザ無しで簡単に入国することができたのだ。当時、西欧の人たちは自国あるいは第三国にあるイラン大使館に観光ヴィザを申請すると、長いこと待たされたうえで結局却下されてしまうということが珍しくなかったようだ。
 そんなわけで、イスファハーンやシラーズといった超メジャー観光地を訪れても西洋人たちの姿はなかった。ロンリープラネットその他から誰も訪れるはずもない土地を紹介するガイドブックが発行されるはずもなかった。
 そんな具合で、イランといえば情報ノートだけが頼りだった。イランを目指すバックパッカーたちにとって、最初になすべきことは『イランへの道』を手に入れることだったのだ。
 有名な土地や名所旧跡の名は耳にしたことがあっても、それらが広大なイランのいったいどこにあるのは定かでなかったし、交通網や訪れる街の規模はもちろん、どのあたりに宿があるのかも皆目見当つかなかった。
当時、イラン旅行に関するさまざまに風説が流布されていた。市中の両替レート、つまり闇両替のレートは銀行レートの14倍。イスラーム革命以来、インフレが進むいっぽう交通機関の運賃上昇が抑制されていたため、長距離バスで500キロの道のりを走っても料金は30円から40円程度、国内線飛行機でパキスタン国境近くのザヘダーンからテヘラーンまで飛んでも600円程度、首都にある旧ヒルトンホテル(革命後に接収されて地元資本化されている)やイスファハーンのアッバースィー・ホテルといった高級ホテルのツインを二、三人でシェアすれば、ひとりあたり500円から600円程度で宿泊できる等々。
 こうした不思議なウワサのほとんどが往々にして事実であったが、あまりに情報が乏しく、旅行事情がどうなっているのかわからず、イランを一人旅すること自体、ほとんどのバックパッカーたちにとり、あたかも闇の中を手探りで進むことのように思われたのである。
 この『イランへの道』には、出入国や厳しい外貨管理に関する注意点、両替やその方法、イラン各地の町々の簡単な紹介とアクセス、それらの土地にある名所やそこへの行きかたなどが簡潔にまとめてあった。しかもペルシャ語の数字解説や簡単なフレーズ集みたいなものも付いていた。ここまでくると、通常の情報ノートの域をはるかに超えた『ガイドブック』であったといって良いかもしれない。
 コピーにコピーを重ねて文字が薄くなってくれば、それを手にした人が上からなぞって文字を読みやすくしてくれていたり、新たな情報を追加してくれていたりなどしていた。元々は同じはずの『イランへの道』だが、手に入れる場所や時期によってアップデートや追加情報の度合いの違うさまざまなバージョンが混在していた。
トルコのイスタンブル、パキスタンのクウェッタ、ペシャーワル、インドのデリーといった日本人バックパッカーの利用が多い宿に置かれていた『マスターコピー』を借りて近所のゼロックスで複写したり、あるいはイラン旅行を終えて出てきた人から譲り受けたりといった具合に旅行者たちの間に流通していた。
 この『イランへの道』の原版を編纂したうちのひとりによる次なるヒット作、『イラクへの道』も、旅行者たちにとても好評であった。ただしこちらはいわゆる『アジア横断旅行』ルートから外れていること、バックパッカーたちの『拠点』に状態の良いコピーが定着する前に、イスタンブルの日本人の出入りが多いカーペット屋に置かれていたオリジナルコピーが失われてしまったこと、イラクのクウェート侵攻からなる湾岸危機、それに続く湾岸戦争などによって通常の旅行先ではなくなってしまったことなどから、前者ほど多くの旅行者たちに愛用されたわけではない。
 私はその『イラクへの道』が出る前に、それを書いたTさんに同行する機会に恵まれた・・・といってもお互いフツーの旅行者同士がたまたま行く先が同じであったため、しばらく行動をともにしていただけのことだが。当時のイラクは非常に治安が良く、市民の暮らしぶりには非産油国のアラブ圏とは一線を画す豊かさがあった。社会主義を標榜するバース党の治世下、少なくともヨソ者の目にも女性の社会的プレゼンスの大きさは印象的であった。  
 世俗政権下ということもあり、繁華街に林立する酒場の数々、国産・輸入を問わず安価で豊富なアルコール類の恩恵にあずかることができた。アラビアとはいえ、バグダードでは夕方以降は街角で酔っ払いがクダを巻いていたりケンカしたり、はてまた酩酊してアスファルトの上に前後不覚で寝転がっていたりという様が日常的に展開される(当時)ということを知ったのは新鮮なオドロキであった。
 Tさんとともにバクダード、サマーッラー、バビロンなどを訪れたのだが、案内書の類は何も無く、手元にあった旅行情報はバグダード市内の古本屋で見つけたローマ字表記の市内地図を除けば、イラク入りする前にヨルダンのアンマンで宿泊したホテルのロビーに置かれていた情報ノートに各国から来たバックパッカーたちが英語で書き残したイラク旅行の情報や印象を書き残したメモを自分で書き写したものだけだった。いろいろと自分で発見する喜びは否定しないが、いかんせん効率が悪すぎる。他国ならばガイドブックをひとめくりするだけで頭に入るようなことがここでは何もわからないので、時間と労力の無駄がとても多く、知らなかったばかりにせっかく近くまで行きながら見過ごしてしまった名所旧跡も多い。
 そうした中、行く先々で精力的に歩き回り、自ら発見したものや気づいた事柄などについて、細かいメモを取っていたりするTさんの姿には驚いた。年単位の長旅を繰り返しているのにマンネリ化することなく、旺盛な探究心はいったいどこから沸いてくるのだろうか。
 彼によれば、『大地のシワが多いところほど、人々のありかたも変化に富んでいて興味深い』のだという。確かに言われてみればそのとおりだと思った。人の力で越えがたい自然の障害が多いところ、山岳、大河、海峡、高地等々でさえぎられたところでは、少し先に進むだけで風物が大きく変わるものである。この人は今も長旅を繰り返しており、こうしている今も地球のどこかで熱心にメモを取り、詳細な地図を描いていることだろう。
『イランへの道』も『イラクへの道』もそれを書いた個々の人たちや加筆した旅行者たちも何の報酬を得ているわけでもないしそれを期待しているわけでもない。ただ旅への情熱と情報を他のバックパッカーたちと分かち合いたいという気持ちが情報ノートというカタチを取って現れ、それを必要とする人々から共感とともに強く支持されていったのだろう。
 もちろん『旅行情報』とはいう、旅行人という会社によるガイドブックはれっきとした商品だ。旅行者たちが勝手に書き足したりコピーしたりする情報ノートとはまったく違う性格のものであることはいうまでもない。それでもやっぱり旅を愛する人たちの熱い気持ちが誌面からヒシヒシと伝わってくる。
 こういうガイドブックが出回るようになった今、旅行好きにとって本当にいい時代だと思う。

『情報ノート』に想う 1

 インドを紹介するガイドブックは数多いが、東北部に特化したものはこれまで少なくとも日本語で書かれたものはなかった。
 このほど旅行人ウルトラガイドのシリーズの『アッサムとインド東部』が発行されたが、これが初めてのものとなるのではないだろうか。インド北東部七州のうちの四つ、アッサム、アルナーチャル・プラデーシュ、メーガーラヤ、トリプラーの各州の旅行情報が記載されている。おかげでこの夏以降、この地域を訪れる日本人が急増(?)するのだろうか。
 この旅行人ウルトラガイド/旅行人ノートと題するガイドブックのシリーズには『客家円楼』『海洋アジア』『西チベット』といった、旅行先としてはマイナーな地域をカバーしたもの、そして『シルクロード』『アジア横断』『アフリカ』のようにまとまった期間で長距離を旅するバックパッカー向けの本もあり、日本国内の他社から出たガイドブックとは一線を画している
 この中にはインドものもけっこう出ており、先述の『アッサムとインド東部』以外にも『ラダック』『インド黄金街道』『バングラデシュ』が発行されている。
 読者層が幅広く、利用者たちからの豊富やフィードバックも多いロンリープラネット社のような古参の大手会社と違い、新たなガイドブックを編纂するのはとても骨の折れる作業に違いない。それだけに手にとってめくってみれば、作り手の情熱や書き手の思い入れが伝わってくるようだ。旅行を産業として眺めた場合、かなりニッチな市場に特化しており、対象となる地域も記事内容もまた商売っ気がないのだが、旅に必要な情報を淡々と語る生真面目な旅行案内書だ。
 そんな飾り気のなさからだろうか、インターネット出現前に旅行者たちの溜り場に置いてあったり、コピーが旅先で出会う人たちの手を介して伝えられていったりした『情報ノート』を彷彿させるものがある。
 今ではちょっとネットにアクセスするだけで、いろいろな旅行関係のサイトや掲示板などで情報が入手できたり、何か大きな出来事が起きれば、まさに『今この瞬間』の情勢を伝えあったり意見を交換できたりする。だから書いた先から内容が風化してくる雑記帳の存在意義はなくなった。
 けれども『情報ノート』が重宝がられていたのはそんな大昔のことではない。世の中の誰も彼もがパソコンでインターネットに接続するようになり、どこに行ってもネットカフェの看板が見られるようになったのは、Windows95が発表とともに爆発的に売れ始めたころ、そう90年代半ば以降からのことだと記憶している。
 ともあれ、取材者(たち)が額に汗して現地をリサーチしてまとめてくれた旅行ガイドブックの価値は今も昔も変わらない。情報ノートの書き込み同様、これとて時とともに事情は変わってしまうのだが、大量の断片的な情報が手のひらのうえでひとつの本の中に系統立ててキチッと納まっていること、目次や索引などから必要な情報を必要とするときにすぐに取り出せることに存在意義がある。『案内書』とは本来そういうものだ。

αの復活

a100
 かつて一眼レフのオートフォーカスの先駆者であったミノルタ。合併してコニカミノルタとなってから一眼レフ機のデジタル化に出遅れたものの、完成度の高いα7 DIGITALそして 廉価版のαSweet DIGITALと、内容の濃い骨太モデルを投入して巻き返しを図ったもの時すでに遅く、デジタル化に先行したキヤノンとニコンの前になすすべもなかった。今年春先にはファンから惜しまれつつもカメラ事業の舞台から退場することとなる。
 このため一時は消滅するのかと思われていた『α』ブランドが息を吹き返した。このたびソニーから期待のデジタルカメラが発表された。7月21日に発売される同社最初のデジタル一眼レフ機は、その名も『α100』である。
 ミノルタ伝統のカメラ事業をそっくり引き継いだソニー。いったいどんなカメラが登場するのか興味津々だったが、やはり旧ミノルタの偉大な資産、αシリーズを継承したことで長年のミノルタファンはホッと胸をなでおろしたことだろう。これまでのコニカミノルタの路線を継承するものであり、旧来のシステムをそのまま使用できるからだ。
 すでに購買予約受付は始まっている。ボディのみの価格は10万円前後となる見込みらしい。コニカミノルタ時代のモデルよりも強化された手ブレ補正機能 (2〜3.5段分)がレンズではなくボディ自体に組み込まれているのはありがたいし、レンズ交換の際などにCCD表面に付着しがちなゴミへの対策も織り込まれているのもいい。もっとも後者については、本来すべての一眼レフデジタルに装備されているべきだと思うのだが。
 
 第一作目は旧メーカーのブランドネームや既存システムといった資産を活用し、従来のαシリーズの路線を踏襲したものとなった。新規参入ながらも、旧来からのコンポーネンツやユーザー等をそのまま引き継いでいるのは強みだ。新モデルのデザイン、操作スイッチ類の配置、設定等に関する液晶画面の表示方法なども、旧メーカーのものを踏襲しているようだ。従来からのαシリーズのユーザーたちからは好感を持って迎えられるのではないだろうか。また購入検討中の潜在的顧客層からみても、ソニーはこの分野では未知数のメーカーだが、あの『ミノルタの後継者』ということから安心して購入できるのではないだろうか。
 コニカミノルタの写真事業撤退以来、カメラ屋で同社製品は投売り状態だったり、ショーケースの隅っこに置かれたりするようになっていた。ところがこのところちょっとした異変が起きているのだ。東京中野にあり名前がよく知られた大きなカメラ屋さんでは、店舗入口真横に『α』コーナーが設けて、ソニーによる新生α広告チラシとともに、ミノルタ時代、コニカミノルタ時代のαシリーズの在庫を並べて、『お一人様一点限り』で売り出しているのだ。ソニー効果で急に需要が出てきたらしい。またお店にとってはこの機会を利用して売り切ってしまいたいところなのだろう。
 既存の路線をそっくり受け継いだように見えるα100は、とりあえずは試運転といったところなのだろう。発売後の反応などを見てから、ソニー独自のカラーを強く押し出したモデルが登場してくるに違いない。
 カール ツァイスとの共同開発レンズを含めた21本の交換レンズ群も順次発売予定とあるし、その他様々なアクセサリー類も続々投入される予定だ。今後の進展から目が離せない。光学機器メーカーが長年育んできた優れた技術とハイテクメーカーによる卓越した画像処理テクノロジーの融合。この夏、新生αの逆襲が始まる。
 被写体の宝庫インドでどんなカメラを使うか。目的や好み人それぞれだが、こうして次第に選択肢が広がっていくのはうれしいことである。もちろんレンズを含めた周辺機器類も合わせると高額な買い物となるため、目移りしてもすぐ他社のものに乗り換えるわけにはいかない。これまでコンパクト機のみ使ってきた人たちが一眼レフに乗り換える例がとても増えていることもあり、デジタル一眼レフ市場はこのところやたらとホットで、わずかここ数年の間に急速に成熟しつつある。
 ともあれどんなタイプのモデルであろうと、お気に入りのカメラを片手に試行錯誤しながらインドの美しい風景を切り取るのは楽しいものである。