Tokyo→Mumbai 36席すべてビジネスクラス

インドを含めた世界各地の航空業界で、格安路線を展開する新興会社が急増する中、既存各社はそれら新規参入組にはないメリットを強調し、特にビジネスクラス以上の乗客に提供するサービスがグレードアップしつつあるのが昨今の流れのようだ。
そんな中、2001年にインド線から撤退したANAが復帰。9月1日から成田・ムンバイー間をB737−700ER型機による36席すべてがビジネスクラスのANA BusinessJetが水曜日を除く毎日、つまり週6便就航している。
ANAのサイトには座席の仕様についての説明もなされている。
シートピッチ最大61インチ(約155センチ)でシート幅は20.6インチ(約52センチ)というサイズは小型ジェット機のものとしては世界最大級なのだそうだ。機内食もなかなか豪華らしい。「やすらげる日本の味」をテーマにしているが、もちろんインド人利用客のためにヴェジおよびノンヴェジの機内食も用意されている。
残念ながら、個人的にはあまり(たぶんまったく・・・)縁がないフライトのようだが、おエライさんたちの往復だけをターゲットに絞っても充分採算が取れるようになってきているのが現在の日本・インド間を結ぶルートの状況なのだろう。なおANAはインド進出を検討している企業を対象にしたセミナーやインドへの視察ツアーなども計画しているというから、なかなか力が入っているようだ。
昨今の「インド・ブーム」で沸き立つ南アジアきっての大国の存在感が突出している。視線をずらせばパーキスターン、スリランカ、バングラーデーシュといった周辺国の姿もあるのだが、これらの国々の姿が近ごろずいぶん霞んでしまっているのもちょっと気にかかるところである。
成田-ムンバイ線就航 (ANA)

アンダマン シンガポール・タイからひとっ飛び!

ANI(Andaman & Nicobar Islands)つまりアンダマン及びニコバール諸島を訪れてみたいと思いつつもなかなか機会に恵まれず、いまだそれを果たせずにいる。
ミャンマーの南、マレー半島の西側、スマトラのすぐ北にまで連なるアンダマン諸島とニコバール諸島からなる広大なエリアからなる連邦直轄地だ。行政の中心地はポート・ブレアーで、2005年12月にインドネシアのスマトラ沖で発生した地震による津波による被災状況に関するニュースがここから多数発信されたことは記憶に新しい。
ANIには570を超える多くの島々があるが、人が定住している島はたった38しかない。もともとこの地域に暮らしてきた人々以外に、インド各地から移住してきた人々も多く、それぞれの移民コミュニティでヒンディー、ベンガーリー、タミル、テルグー、マラーティーその他多くの言葉が使用されているという。またビルマ(現ミャンマー)がインドの一部であった時代にやってきたカレン族も少なからず居住しているらしい。
かつて英領時代にはインド本土から遠く離れていることから独立運動にかかわった指導者たちを投獄する流刑地として格好のロケーションであったし、現在ならば中央政府関係の仕事をしている人たちにとって地の果てにある島々への転勤とは典型的な左遷先あるいはインド軍の要衝ということになるだろう。しかし私たち外国人にとっては、豊かな大自然に恵まれた太陽と澄み切った海の楽園であるとともに、海洋を隔てて本土から遠く離れた立地からしてインドの「広さ」を実感させてくれるところであろう。

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カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷

カサウリーには海抜にして約1800mに過ぎないが、ここには現存する世界で最高地点にある有数の醸造/蒸留酒製造所がある。当時の主な洋酒市場となるイギリス人居住地や軍駐屯地等へのアクセスの良さに加えて、酒造りに欠かせない良質な水が採取できる好立地であったのだろう。
この酒造会社とはご存知Mohan Maekin Limitedである。ビールのGolden Eagle、ラムのOld Monkで広く知られるあの酒造会社だ。前身は1855年設立のDyer Breweries。もっとも法人組織化するだいぶ前から酒造行を営んでおり、創業は1820年代後半といわれる。この酒造所はアジアで最初のビールLion(現在も軍用として製造)を生んだことでも知られている。

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小さなヒルステーションでゆったり

カサウリーの教会
カサウリーはチャーンディーガルから65km、シムラーから77kmの地点にある。パンジャーブやハリヤナーからシムラーに向かう人が、こんな中途半端な場所でストップする理由もないかもしれないが、私は幼い子連れであるがゆえに長い山道がダメなので寄り道してみたのだが、これが意外に良かった。
チャーンディーガルからシムラーへと向かう国道22号線途中にある町ダラムプルから東へ折れて山肌に貼り付く細くところどころ荒れた道を進む。やがて雲行きが怪しくなってきた。霧 が出てきたと思えばそれは雨雲であり、ポツリポツリと降り出してきてすぐに激しい豪雨になってしまい、道はやがて川のようになってきた。
しばらく走ると、道沿いに家屋や商店などが点在するようになってきて町が近いことがわかる。ほどなくカサウリーに到着。
カサウリーのホテル
宿泊先はややくたびれた感じの重厚なコロニアル調の建物。ちゃんと手入れがなされれば相当いいホテルに変身できるのではないかと思う。レセプション脇のレストランを抜けたところにあるバーにはビリヤード台が置いてあり、さらに向こうには広々としたロビーがある。私たちが宿泊する部屋は道路を挟んだ別棟になるが、こちらも同様に古い建物だ。窓際にソファが置かれた寝室の横にはドレッシングルームも付いており、一応スイートルームということになっているらしい。
ホテルにチェックインしてからも激しい雨は続きしばらく外出できそうにないので部屋の外のテラスにテーブルを出して昼食。周囲には針葉樹が多く深く濃い緑が美しい。潤いを帯びた空気とともにまさに「オゾンで一杯」といった感じだ。大きく息を吸い込むとすると肺の奥まできれいになりそうな気がする。
バーとビリヤード台

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KAMRAAでCAMERA

カメラの語源はラテン語のCAMERA OBSCURAである。このCAMERAとは同じくインド・ ヨーロッパ語族に属するヒンディー語で言うところのKAMRAAと同じく部屋を意味しており、OBSCURAと合わせて「暗い部屋」ということになる。
初期のカメラは16世紀に発明された箱の形状をしたもので、ごく小さな穴を通して像を壁などに投影するだけであった。映像と感光剤を合わせて物質的に定着させるという写真機としての技術が実用化されたのは1840年代以降だ。日本語では銀板写真と呼ばれるダゲレオタイプ、最初のネガポジ方式であるカロタイプが登場した。
続いて金属板に代わりガラス板を使ったネガ版を作るコロジオン法が開発された。クリミア戦争やアメリカ南北戦争などで撮影する戦場カメラマンが登場したのはこの時期のことだ。インドでも1857年の大反乱直後、写真家フェリス・ベアトーが現地入りして、各地の戦跡や荒れ果てたデリーやラクナウの風景やなどを撮影している。たとえ作品の題材は生々しくとも、当時の写真から静謐な空気のみが漂ってくるように思われるのには訳がある。写真の感度が低く、少しでも動きのあるものを撮影することができず静止したものにレンズを向けるしかなかったのだ。
1860年代に来印して数々の作品を残したサミュエル・バーンズは、インドを題材にした最初のネイチャー写真家ということになるだろう。ヒマラヤの峰々に魅せられた彼は、雄大な山岳風景、ヒルステーション、スピティの寒村風景など多くの傑作が今に伝えられている。他にもムガル建築、港湾風景その他インド各地で撮影した秀作があるが、彼の真骨頂はやはり山の風景らしい。

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