小林よしのりさんへの返答

『SAPIO』最新刊(9月26日号)掲載の「ゴーマニズム宣言」で、小林さんが拙著『パール判事』を批判されています。しっかりと公の場でリスポンスするのが著者の義務だと思いますので、取り急ぎここで「返答」をさせていただこうと思います。
小林さんの第一のご批判は、パール判事の平和憲法への言及をめぐるものです。私が引用した『毎日新聞・大阪版』1952年10月31日の記事は一次資料ではなく、また記者が書いたパール演説の要旨を「間違い」と断定し、本当の「一次史料」では「平和憲法」ではなく「平和主義」という語を使っているとされています。
小林さんが一次史料として出されているものが不鮮明なので(私は現段階で、東京の方から送ってもらったFAXでしか拝見していません。札幌の書店に最新号が並ぶのは東京の2、3日後なのです)出典ははっきりしませんが、おそらく田中正明さん(およびその周辺の方)による抄訳を根拠になされているのだと思われます。
まず確認しておく必要があるのは、この場合、どの資料を「一次史料」と見なすかという問題です。京都で行われたパールの演説は、もちろん英語でなされていますので、「一次史料」と言えるものは、この英語演説の原文のみです。
しかし、私の調査の範囲内では、この英語の原文が見付かっていません。(小林さんもこれを提示なされていません)。


その場合、パールの演説内容を、どの二次資料に基づいて議論するかという問題になります。二次資料は大きく分けて、?「田中正明さん(およびその周辺の人物)による抄訳」と?「現場で演説を取材した新聞記者の要約」の二つが存在します。(一部、他のものも存在します。)
拙著では、同じ演説に関して??の両方が存在する場合には、内容がほぼ同一の場合には引用に適した方を採用し、内容が異なる場合には新聞記者の抄訳を採用しました。
拙著でも言及しましたが、田中正明さんを経由した資料には、田中さんの主観が反映されていることがあり、史料の信憑性に疑問符がつくものがあります。そのため、上記のような原則を作り、極力、パールの肉声に近いものを再現しようとしました。
私の努力不足と能力不足が最大の原因で、京都でのパール演説の英語原文が見付かっていないため、この部分に関する小林さんとの議論は水掛け論に終始する可能性があります。是非、小林さんには英語原文を発見していただきたいと思います。
なお、パールが1952年・53年当時、日本の再軍備に強く反対していたことは、疑いようもない事実であり、パールはこの主張を繰り返し行っています。この点も、是非、小林さんには議論していただきたいと思います。
二点目のご批判は、『戦争論』でパールを引用された箇所についてのものです。
小林さんは次のように書いておられます。

「わしの『戦争論』にパール判事は3回出てくるが、そのいずれも、あくまで「東京裁判」の無効性と「東京裁判史観」の相対化を主張する文脈である。」「そんなことは普通の読者なら誰でもわかりそうなものだが、中島という「薄らサヨク」学者は義務教育卒業程度の国語力もないか、あるいはわしが不適切な論述をしているかのように見せかけるため、わざと誤読しているのだろう。」

拙著で小林さんの文章を引用したのは、『戦争論』283ページ〜284ページの箇所です。ここで小林さんは、パールの「被告人全員無罪!」という吹き出しのあとを次のようにつづけています。
あの戦争でアメリカに正義があるはずがない。日本には自衛のため、さらには欧米列強によるアジアの全植民地化を防ぐ「正義」がある!

これは、パールの主張を「大東亜戦争肯定論」につなげる議論だと私は思うのですが、いかがでしょうか? 「わざと誤読」しているでしょうか?
残りの批判は「憲法9条」と「ガンディー主義」の関係に関するものです。
この点についてはいろいろな論点があるのですが、どうしても1点、ご理解いただく必要のある前提があります。私は、拙著のあとがきに次のように書きました。
特定の個人の研究を発表すると、その人物の立場と著者自身の立場が同一視されることが往々にしてある。断っておくが、私はパールの見解や政治的主張のすべてに賛同しているわけではない。この点はくれぐれもご留意いただきたい。私の憲法論や安全保障論は、別のところで論じているので、そちらをご参照いただきたい。

小林さんは、明らかに私が「憲法9条はガンディー主義を理想化したもの」と主張していると見なされていますが、それは違います。
小林さんは「はっきりさせておくが、国家論的に憲法9条は日米安保と張り合わせで成り立っている」と書かれていますが、私も全く同じ主張を展開しています。是非、5月9日の東京新聞に掲載された拙稿をお読みいただければと思います。私は日本の主権を死守するために、現段階では憲法9条を保守すべきと考えています。おそらく、この点は小林さんの主張とそれほど異ならないと思いますが、いかがでしょうか?
私は、あくまでも「伝統的に無抵抗主義を守って来たインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握る」べきことを訴えるパールの演説文に基づき、パールが平和憲法の中にガンディー主義の要素を見出していると分析しているだけです。私の主張そのものを、ここに投影などしていません。
「ガンディー主義は生命至上主義ではない」という小林さんの主張は、その通りです。ガンディーが訴えたことは、単なる「非暴力という状態」ではなく、「非暴力への意思」です。彼は「非暴力が卑怯の別名になってはならない」と繰り返し主張しています。
私は是非、公の場で小林さんと議論させていただきたいと思っています。「喧嘩」や「嘲笑」、「誹謗」には応じたくありませんが、「議論」はいつでもさせていただきたいと思っています。
拙著をめぐって、ネット上で「右派」と「左派」が攻撃しあっているそうですが(私はまったく拝見していません)、どうかしっかりとした「議論」を展開してくださるようお願いします。「左翼」を自称される方々も、是非、パールの絶対平和主義の厳しさと向き合ってください。小林さんがおっしゃるとおり、ガンディー主義は恐ろしい覚悟が必要な思想です。

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