池島信平と『諸君!』

JR札幌駅から新千歳空港行きの電車に乗っていると、いつも池島信平の文章を思い出す。

北海道はわたくしは初めてである。小樽から汽車で札幌を通り、千歳へと向かった。沿道の風景は目新しかった。千歳の駅へ着いたのは深夜で、そこで点呼を受け、われわれは約二里の道を軍歌を歌いながら行軍して、千歳第二基地の兵舎へ向った。兵舎というと、聞いたところはいいが、着いた所は広い落葉樹の林の中の地下壕舎だった。ムッとする土いきれのなかに蚕棚になった壕舎で最初の夜を過した。

池島は戦後日本を代表する編集者のひとりで、文藝春秋社の第3代社長をつとめた人物である。「大東亜」戦争で大きく傾いた文藝春秋社を見事に立て直し、雑誌ジャーナリズムの世界に大きな足跡を残した。
上の文章は、池島が自らの半生を振り返った自伝『雑誌記者』(中公文庫)の一節である。この本は、日本の出版史を考察する際に絶対に欠かすことのできない重要文献として知られる。古い編集者で、この本を愛読する人は多い。
池島は、終戦間近の1945年5月1日、雑司ヶ谷にあった菊池寛の家で赤紙を受け取った。即座に海軍に入隊させられ、横須賀に2週間滞在した後、北海道に送られた。そして、千歳第二基地の滑走路造りに投入され、終戦まで工事に携わった。
池島は言う。
戦後、よく日航機で千歳に行くが、いつも飛行機から降りるときの気持ちは複雑である。…千歳の上空へくると、これから降りる滑走路の少し南のほうにあたって、昔、われわれの造ったこの滑走路の残骸が、深い雑草に蔽われていまでも見える。

私は空港に行くたび、この池島の感情を想起しながら、滑走路を見つめる。上空にさしかかると、必ず滑走路の周辺を凝視する。
池島は海軍に入ってすぐに、ひどい体罰の現場を目撃した。それに心底憤った彼は、「こんな軍隊なら早く消えてなくなれ」と思い、「こんなバカバカしい軍隊の一員として戦争で死んでは犬死」なので、「万難を排して生きて帰ろう、と心に誓った」。当時の為政者や軍人への批判は、辛らつで厳しい。
池島は「自由な精神と表現」を、生涯、一貫して尊重した。そして、それを抑圧する全体主義や軍国主義を、心の底から嫌った。1930年代後半には、「ファシズムの足音」に恐怖を感じながらも、時局に便乗する同僚には毅然と抵抗した。
 「国体明徴といい、天皇への帰一といい、現代ほどこれが強く意識的に強行されている時代はない。日本の歴史を冷静に読んで見給え」

しかし、時代は「右へ、右へと動き」、ついには「筋道の通った考えが通らな」くなった。「問答無用の強権が支配」し、熱狂が社会全体を覆った。池島は、次第にそのような時代に埋没して行った。
戦後、北海道から東京に戻った池島は、文藝春秋社の再建に奔走する。


荒れ果てた社屋。粗悪な紙。資金不足…。
様々な困難が立ちはだかっていたにもかかわらず、彼はうれしくて、うれしくて、たまらなかったという。

雑誌がつくれる、これから自分の思うままの雑誌をつくることができる。…『文藝春秋』を編集することができる。

雑誌『文藝春秋』は、10月号から復活した。
本文は、広告を入れても、たった32ページしかない。表紙も普通の印刷用紙。それでも紙面には、池島の情熱があふれていた。
しかし、そのような池島の意気込みの前に現れたのは、節操のない日本人の群れだった。昨日まで戦争に熱狂していた人々が、今度は一転して平和主義者の顔つきをし、天皇を罵倒する。彼はこのような日本人に激しい嫌悪感を抱き、その薄汚い精神を正さなければならないと誓う。
きのうまで神州不滅とか、天皇帰一とか、夢のようなことをいっていた連中が、一夜にして日本を四等国と罵り、天皇をヒロヒトと呼びすてにしている。にがにがしいと思った。よろしい、みなさんがその料簡なら、こちらは反動ではないが、これからは、保守派でゆきましょうと思った。とにかく、メチャクチャの精神的混乱であった。人心の軽薄にして恃むべからざることを知るとともに、わたくしは当時、一種の無常観に陥ったことを告白しなければならない。

池島は、この年の『文藝春秋』12月号の巻頭文を、オールドリベラリストの長谷川如是閑に依頼する。そして、「敗けに乗じる」というエッセイを受け取り、それを堂々と掲載する。この論考は「われわれ日本人には物事に乗じて、日本がズルズルと無謀な猪突猛進する傾向がある」ことを諌める内容で、池島は「何度も心に肯」きながら原稿の校正を行った。
このような『文藝春秋』の反抗的態度は、「進歩的でない」という理由で批判を浴びた。用紙の割り当ては不当に低く、経営はすぐに逼迫した。
辛いことは、なぜか畳み掛けるようにやってくる。
池島は、この頃、愛する子供を亡くした。母胎の栄養不足と肺炎のために早産した子だった。
厳しく苦しい日々が続いた。しかし、彼は歯を食いしばって闘った。迎合主義的で軽薄な輩と、闘った。
文藝春秋新社の立ち上げ、佐佐木新社長の就任、社屋の接収・・・。
様々な困難を乗り越え、会社は立ち直った。1967年、池島は佐佐木の跡を継いで、第3代の社長に就任した。
熱狂を嫌い、軽薄な精神を批評し続けた池島。
1960年代に入ると、彼の批判の矛先は全共闘に向けられる。彼の目には、戦前の全体主義と戦後の共産主義の熱狂が、同じものに映った。
彼は、小林秀雄、三島由紀夫、田中美知太郎、福田恒存、林健太郎、猪木正道といった保守思想家が一堂に集う日本文化会議に接近した。そして、このグループの機関紙を文藝春秋社から出版することを決定した。
しかし、これには社員が猛反発した。
特定の組織の機関紙となると、編集側の裁量が大きく制限される。自由な雑誌作りを目指してきた文藝春秋社にはそぐわない。
そのような意見が噴出し、ついには労働組合の結成にまで至った。
池島は、信頼する社員に裏切られたという思いを強めたという。酒を呑みながら「飼い犬に手をかまれた」とこぼすことがあったという。
結局、池島は、日本文化会議の機関紙出版をあきらめた。
しかし、その代わりに、熱狂に抗するためのオピニオン雑誌の創刊を決めた。
それが、『諸君!』である。
1969年5月。その第一号が店頭に並んだ。福田恒存や田中美知太郎といった保守派の論客が名前を連ね、「学生と暴力」という特集が組まれた。
池島は、『諸君!』を置き土産のようにして、1973年2月に亡くなった。享年63歳だった。
それから30年以上経った現在、池島の『諸君!』は、戦前・戦中の全体主義を礼賛し、右派ポピュリズムの熱狂を煽っている。論考は明らかに精度が落ち、醜悪な日本語が表紙を覆う。
『諸君!』編集部は、池島の精神を忘れてしまったのだろうか? 今の文藝春秋社にとって、池島はどうでもいい存在なのだろうか?
私は、文藝春秋社が好きだ。
お酒が好きで、討論が好きで、人間が好きで、時代を敵にまわしても全く動じない出版社。
そんな気概をもった大人の集まりが、文藝春秋社だと思ってきた。実際、付き合いのある編集者はみんな、文春独特の匂いがする素敵な人たちだ。
しかし、近年の『諸君!』は、なぜあれほど荒れ果てているのだろう? 
「批評すること」と「嘲笑すること」は、違う。「情熱を持つこと」と「熱情に浮かされること」も、違う。今の『諸君!』編集部は、「表現」と「表出」の区別ができていない。
文藝春秋社のような出版社にとって、この両者の区別は、存在の生命線そのものに関わる。ここの判断を誤ると、危険で醜悪な出版社に成り下がる。逆に言えば、この両者を区別する知性と教養が、文藝春秋社の「保守」を支えてきたといってもよい。
最後に、『雑誌記者』の中の文章を引用して終わりにしたい。これは池島渾身のメッセージだ。
当時(戦前−引用者)の言論の急変化に対して、私はいまでも自責と無力感をもたざるを得ないが、もしこの勢力が外部だけであったならば、われわれはもっと強くこれに対して反撥できたであろう。しかし内部からくる、なんともいえない陰惨な暗い影に対しては、自分ではどうにもできず、ただやりきれなさのみが残って、これと正しく闘うということができなくなってしまったことを正直に告白しなければならない。時代がいよいよ右翼になると、これらの人達はいよいよ右に偏って行った。いうことはいよいよ支離滅裂であるが、熱情はいよいよ強く、熱情のみによって、むしろあらゆることがジャスティファイされるような印象さえ与えるようになった。
これからのちにどのような時代がくるかわからないが、われわれ古い編集者が、懺悔とともにこれからの若い編集者にいい得ることは、もし将来、再び暗い時代が来た時、敵は外にあると同時に、もっと強く内部にあると覚悟してもらいたいことである。

『諸君!』に携わる編集者は、今一度、池島と向き合ってほしい。

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