言葉が象徴するものと役割

タミルナードゥ州に行くと、あまりにヒンディーが聞こえてこない環境に唖然としたりする。大きな鉄道駅や空港などで北インドからやってきた人たち同士の会話で聞こえてくる以外は、「部屋でテレビをつけないと聞こえてこない」といっても大げさではないのだが、人々に話しかけてみても同様だ。

インドのどこにでもUP州やビハール州などから来た労働者たちは多く、タクシーやオートの運転手にも多い(インドの都市部でこうした運転手はそうしたところからたくさんやってくる。例えばデリーにしてもムンバイにしても、運転手が現地の人というのは稀で、普通はUPやビハールの人たちが多数だ)のだが、タミルナードゥ州はこの限りではなく、北インドその他の州では当然のごとく通じていた言葉が通じず、さりとて彼らが英語をよく理解するわけでもないため、とても不便に感じる。

ヒンディー語、バンジャービー語等、アーリア系の北インドの言語とは系統を異にするドラヴィダ系の言葉のひとつであるタミル語圏なのでヒンディーが通じないと思っている人は少なくないが、そういう単純なものでもない。ドラヴィダ語圏でもカンナダ語、テルグ語圏に行くと、確かにヒンディー語が「誰彼構わず通じる」具合ではないとはいえ、タミルナードゥ州でのような「まったく圏外」みたいに極端なものではないし、その言葉に対する拒否感のようなものもないようだ。また、同様に言語の系統は異なっても、私たちと似た風貌の北東のモンゴロイド地域であるスィッキム州はもちろんのこと、ナガランド州、メガーラヤ州などでもヒンディー語はかなり広く通じるため、インド広く通じる共通語としての役割を持つヒンディーの神通力のようなものを感じる。言語圏が異なっても国内であれば相当程度通じて当たり前なのだ。ついでに言えばネパールでもごく当たり前に通じるため、インドのいわゆる「ヒンディーベルト」(ヒンディー語を母語とする州)を少し外れたところを旅行するのと変わらない。(もっともネパール語とヒンディー語は近い関係にあるがゆえ、そしてテレビや映画などの影響も大きいらしい。)

タミルナードゥでの状況は、同州で長く続いてきた不健康な「アイデンティティー・ポリティクス」の結果、学校教育の場でヒンディー語を教えるカリキュラムすらないというヒンディー語排除の行政があるからだ。インドで学校の試験にヒンディー語はない(西ベンガル州など)というような州はあっても、最初から教えすらしないというのは、ここくらいのものだろう。こんな政治がよく続いているものだ。結果として北インドからの労働者の浸透度合いが低いため、地元の雇用が守られているという側面はあるのかもしれない。反北インドという姿勢があるがゆえのことだが、タミル語のボキャブラリーにはおびただしい量のサンスクリット起源(北インド起源)の語彙が含まれているため、「北インド的なるもの」を否定し切れるものでもない。

タミルナードゥでも例外はある。イスラーム教徒が集住している地域で、そうしたところにはマドラサーがあり、ウルドゥー語が教えられているため、言葉が通じる人たちは多い。実はこれはインド国外でも、ミャンマーのような例があり、都市部に暮らすムスリム(多数派はインド系)であっても、迫害を受けて多数国外に流出しているラカイン州のロヒンギャーの人たちであっても、インド系ムスリムの人たちが当然身につけているべき教養のひとつとして「ウルドゥー語」があるため、書き文字と語彙層の差を除けば事実上の同一言語であるヒンディー語で普通に会話できることが多いのだ。タミルナードゥにおいては、ムスリム集住地区に限っては、州政府が無視しているヒンディー語をマドラサーの教育を通じて、ウルドゥー語という形で習得しているという奇妙な捻じれがある。

ともあれ言葉というものは民族のアイデンティティーに深く結びついているものなので、同じ国にありながらも反発する対象であったり、民族性とは別に信仰から来る受容があったり、国籍は違っても維持すべき文化であったりと、実にいろいろな役割や象徴的なバリューを持ち合わせているものだと思う。

When you speak HINDI in TAMIL NADU | Vikram | Madhuri | Vikkals (Youtube)

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください