ガングーバーイー・ハーンガル

2009年7月22日(火)の早朝に、ヒンドゥスターニー音楽界の女帝ことガングーバーイー・ハーンガルが亡くなった。享年97歳だった。
彼女はカルナータカ北部出身。ビームセーン・ジョーシーと共に、キラーナー・ガラーナ(流派)を代表する声楽家であった。
音楽に心を打たれるやいなや、「僕も音楽家になろう!」と思って11歳の時に家を飛び出したビームセーン・ジョーシーの話も興味深いが、彼女の人生も小説よりも奇なるものだ。ここ最近、彼女に関する記事が新聞に掲載されていたので、まとめてみようと思う。
生い立ち
20090803-ghmap.JPG
ガングーバーイー・ハーンガルは1913年3月5日、ダールワードに生まれた。父親は農家経営をしているチックラーオ・ナーグディル、母親は名の知れたカルナーティック音楽家アンバーバーイーであった。
彼女は、ガンガーマトというシュードラの中でも下に属す船頭コミュニティに生まれた。
このコミュニティの女性は、アンガワストラ(ドーティーをまとった男性が肩から羽織る布、肩にかける布)などと呼ばれ、ブラーフマン男性が自慢のためにはべらせるアクセサリーのように見なされていた。つまり慣習としてブラーフマン男性の妾にされていた。
当時はこのような社会風習があり、道義に反したことだとは思われていなかった。この伝統の中に生きていた母アンバーバーイーもブラーフマンとの間にガングーバーイー・ハーンガルを産んだし、ガングーバーイーもブラーフマンの内縁の妻となり子供をもうけたのであった。ブラーフマンとのハーフであろうと、彼女達も、子供達もその子供も母親の苗字を名乗って来たのだそうだ。
彼女の母アンバーバーイーも、その母のカムラーバーイーも優れた音楽家であった。アンバーバーイーは、聴いた音楽をすぐに書いて記録するという特技を持っていた。また、サンスクリット語にも通暁していたそうだ。彼女が自宅で行うプライベート・コンサートに、キラーナ・ガラーナの創始者ウスタード・アブドゥル・カリーム・ハーンが来ていたこともあったそうだ。(彼はカルナーティックの影響を受け、カルナーティックのラーガ「アボーギー」をヒンドゥスターニーに取り入れた)その他にも、その時代の音楽家が、彼女の歌を聞くためだけにダールワードに立ち寄っていたそうだ。そのため、時々家の周りに大勢の人だかりができた。
ところが、いくら音楽界で尊敬されようと社会的ステータスが低いがゆえに、ブラーフマンが支配している地区シュクラワーラペテでの暮らしは困難を極めたそうだ。例えば、家を一歩出ようものなら、道にたむろしている男子どもから野次を飛ばされたり、汚い水をかけられたりしたという。
ガングーバーイー・ハーンガルは子供時代、隣家のマンゴーの木からマンゴーを盗もうとしたことがあった。彼女の姿を見た隣家の人は、マンゴーが盗まれることを恐れるより、「あの娘が、まさか我が家の敷地に入ってくるのではないでしょうね」と恐れ慄いていたそうだ。
1924年、彼女が11歳の時、ベルガームでインド国民会議が開かれることになった。彼女がいたクラスの子供たちは、ガーンディーやジャワーハルラール・ネルーやその他の重要人物の前で歓迎ソングを歌う機会を与えられた。歌は問題なく歌えたのだが、少女ガングーバーイーは、この後の食事で「あなたは、あっちに行って食べなさい」と言われるに違いないという被害妄想に取り付かれていたらしい。
ガングーバーイー・ハーンガルは5年生までしか学校教育を受けなかった。その代わり、ヒンドゥスターニーを極めることに決め、クリシュナーチャーリヤや、ダットーパント・デーサーイーに師事した。
内縁の夫と貧困
1929年、彼女が16歳の時、ガングーバーイーはブラーフマンの弁護士の卵であったグルラーオ・カウルギーにプロポーズされ、愛人ではなく社会慣習に沿った結婚をしようと言われた。彼女は、高い地位に属している彼に苦労をして欲しくなかった。そのため、正式な結婚の申し出は断り、逆に彼に従妹と結婚するようにと勧めた。彼は、結局従妹と結婚し、その妻との間に子供ももうけて、ガングーバーイーとは内縁の夫婦になったそうだ。
内縁の夫グルラーオは、弁護士の資格は取ったが弁護士の仕事には就かず、ガングーバーイーがいつもお金を稼いで、彼にお金を渡していた。彼は貰ったお金をトラックや車の投資に使っては何もかも失う、ということを繰り返していた。
また、家から何ヶ月も失踪し、その間に銀行の取立ての人が来てガングーバーイーから財産を没収しようとしたそうだ。彼女は、持っていたものは何もかも売り払わなければならなかった。彼との間に子供が出来たにもかかわらず家計は困窮を極め、家に食べる物がない時も、しばしばあったそうだ。
1933年彼女が20才の時、グルラーオは病気に伏した。彼の容態は非常に悪かった。そのためガングーバーイーはボンベイでの仕事をキャンセルしようと思っていた。だが、夫が「お金が必要だから」と主張したため、仕方なしにボンベイに言った。彼女が演奏をしている間に、夫は息を引き取ったそうだ。
彼はガングーバーイーに何も残してはくれなかった。その代わり、HMVから電話がかかってきてレコーディングの仕事が入り、彼女は400ルピーを手にしたそうだ。
彼女は実は生まれた時、ガーンダーリー(薫)と名づけられた。だが、レコード会社は、客がレコードを買うとき、なんとかバーイーのものしか買わないということに気づき、彼女の名前をガングーバーイーにすることにしたそうだ。もしバーイーが嫌なら、なんとかデーヴィーにされるところだったという。
サワーイー・ガンダルヴァに師事
サワーイーに師事し始めたのは、1937年あたり、彼女が24歳のこと。彼はクンダゴールにいて、彼女はフブリ(フッバッリ)にいた。その間の距離は30キロあった。面倒を見なければならない家族もいたため、彼女がクンダゴールに引っ越すのは無理だった。そこで、毎日おじさんのラームと一緒に電車に乗って師匠の家に通った。
クンダゴールのサワーイー・ガンダルヴァの家にまで行く時、左右の者どもから野次を飛ばされたり、「見ろ、見ろ!歌うたいがやってきたよ」と左右から指をさされて言われて屈辱を味わったが、しばらくして慣れたそうだ。
彼女が師事し始めた頃、サワーイー・ガンダルヴァは劇団に加わっていた。マラーティー映画界にも関わり、吹き替えの歌を歌っていた。ラジオに、録音に、コンサートにと非常に忙しくしていた。このため最初の頃、レッスンはあまり行われなかったらしいが、彼が劇団を引退したため数年後からは1日7〜8時間のレッスンが行われるようになった。
サワーイー・ガンダルヴァは、ラーガをあまり教えてくれなかったそうだ。たまに音とお金を例えて、こう言っていたという。「お金も、音も自分に必要な量のみ使うべきだ」そのため、彼女は同じことを繰り返すのに終始する練習方法に従ったそうだ。単純で退屈であったが、今となってはこの地道なトレーニングに感謝しているという。
当時の師匠と弟子の関係は、今とは違い、敬意を払うあまり「コレコレを教えてください」とリクエストすることは出来なかった。なぜなら、弟子は「師匠は自分にとって何がベストか知っている」と先天的に考えていたからだ。
師匠は、彼女が新しいことをしようとすると必ず何か言ってきたらしい。ある日、クンダゴールにまだ電気が来ていなかった頃、まさか師匠が聞くことはあるまいと思って独習したラーガをラジオで歌ったそうだ。生憎、師匠はたまたまベルガームに来ており、ラジオでそれを聴いてしまった。その瞬間から、そのラーガの集中特訓が始まり、厳しい練習を課されたそうだ。
こうしてリヤーズ(レッスン)を受けている間も彼女にのしかかっていたのは、家族の貧困問題であった。何事をするにも心の平安は必要だが、彼女の場合は反対であった。音楽の中に自分を滅し、心の平安を得るというのは神話であって、タンプーラを握ることで彼女の心配事から開放されることはなかった。車や家を持ちたいと願う以前に、ただ家族を養うだけのお金が足りなかった。
プネーの某マダムが、ある日彼女に、「うちの娘が断ったコンサートを、全部引き受けるのはどうですか?」と言ったそうだ。貧困から救うための親切心で言ったと思われるのだが、彼女はその時いたく傷つけられ、その家をすぐに後にしたそうだ。
そのうち著名な人が、彼女の歌声を聞いてくれ、ガングーバーイー・ハーンガルはボンベイで開催されたボンベイ・ミュージック・サークルでステージ・デビューを果たした。このサークルで演奏した後、往年の女優ナルギスの母親であるジャッダーン・バーイーがやってきて「カルカッタで行われるミュージック・コンファレンスに出席するべきよ」と説得してきたそうだ。
カルカッタに赴いた彼女は、出番の前日、主催者からまず歌ってみるようにと言われた。痩せっぽちの彼女が、本当に歌えるのかどうか主催者側から疑問に思われたらしかったのだ。いざ彼女が歌ってみると評判は大したもので、そのコンファレンスにおいてトリプラのマハーラージャからゴールド・メダルを贈られたそうだ。彼女は会場で、もう亡くなってしまった母親のことが思い出されて仕方なかったそうだ。その時、肩に手を置いた人がいた。振り返ったらそれはK.L.サイガルであった。「とてもメロディーに富んでいてよろしい」と声を掛けてくれた。彼女は光栄に思ったが、同時に知らない人なのに気易く触られたことに憤慨したそうだ。
それまで彼女の声は甘く、高かったそうだ。30歳代の時に扁桃腺を手術し、その技術がお粗末だったため彼女の声は変わってしまったそうだ。以降、彼女はマルダーナ(男性)の女性歌手として知られるようになった。
ところで古典音楽の巨匠はたいていが男性。女性は珍しい方である。それは、当時までアートが女性達にとってタブーだったからである。そこを努力で、苦難を乗り越えたのがガングーバーイー・ハーンガルであった。今では音楽の世界は才能を持った女性にも門戸が開かれるようになった。
コミュニティ差別、貧困。彼女に問題が圧し掛からなかった日はなかった。だが、彼女がそれを人に語るときは非常にあっさりとしており、恨みごとは決して言わなかったそうだ。更に、包み隠そうともしなかった。彼女の周りの人の方が、当時の話をするのを良しとしない場合でも、彼女は率直に話してしまったそうだ。
地元を愛していた
彼女の名声は、カルナータカ州境だけではなく国境も越えていた。有名になった音楽家の中には、アメリカやロンドンに移住してしまう人、海外までは行かないけれどムンバイに移住してしまう人が多いが、彼女は自分が育ったフブリでのつつましい人生を受入れ、そこにいる人々を愛し続けた。
彼女が話すのは純粋なダールワード・カンナダ。典型的な北カルナータカのフレーバーをただよわせていたそうだ。
お茶目で謙虚な性格
新聞記事で彼女の性格に関する記述が出てくると、寛容とか謙虚、子供のようだという文字が踊っていた。
彼女は偉ぶったりせず、年齢を問わずアーティストを尊敬していたそうだ。例えば、若手アーティストの演奏も、忍耐強く聴いていたそうだ。家の扉は、全ての人に開かれており、招待を断ったこともなかったそうだ。彼女を慕ってくる人や親戚との時間を楽しく過ごした。これらのエピソードは、彼女と関わったアーティスト全てが胸を暖めて思い出すらしい。
彼女はサワーイー・ガンダルヴァ師匠とは、トランプを一緒にする仲でもあるらしい。彼がフブリに来た時は必ずトランプで一戦交えたそうだ。
持ちネタを次々と披露してジョークを絶やさない冗談も好きな人でもあるらしい。
演奏スタイル
彼女の兄弟弟子のビームセーン・ジョーシーは、実験的な試みを次々と行って新しいスタイルを作り出したことで知られていた。
ある師匠の生徒が、外部の影響にさらされた後に自分のスタイルを形成するのはよくあることだが、ガングーバーイー・ハーンガルは、キラーナ・ガラーナのサワーイー・ガンダルヴァ師匠のスタイルに飽くまでも固執した。
断固として流派の伝統に従ってきた彼女の哲学は、プロとして上がらせてもらうステージにおいて、トゥムリーやバジャンを決して歌わなかったことに表れているそうだ。(彼女はハヤール奏者)
告別
火曜日、訃報を聞いた多くの人が、ガングーバーイー・ハーンガルにお別れを告げにやってきた。学生もやってきて、花輪を捧げたりしたそうだ。
また、フブリ、ダールワード、マイソールのさまざまな自治体の学校、カレッジでは集会が行われ、偉大なる音楽家に敬意を表して黙祷が行われた。フブリの弁護士会は、火曜は弁護士業を休みにしたそうだ。
その夜、フブリのデーシュパンデー・ナガルにあるガングーバーイー・ハーンガルの家では、夜通し演奏が行われた。彼女の音楽も流されたが、バジャン・マンダリのメンバーがやってきて様々な神を讃える宗教賛歌を歌い、彼女の魂の平安を祈ったそうだ。これは、葬儀の行列のアレンジが終わった水曜の朝まで続けられたそうだ。
水曜に、ガングーバーイーの遺体が、フブリのDr.ガングーバーイー・ハーンガル・グルクルの敷地に運ばれた。
国旗に身を包み、花に埋もれた彼女は車で輸送された。何百人の人が徒歩でそれに続いたそうだ。
バジャン・マンダルの人々が音楽を演奏した後、彼女の音楽も流されて遺体は荼毘に付されたそうだ。
社会貢献
生前ガングーバーイー・ハーンガルは、母の名にちなみ「ザ・アンバーバーイー・ハーンガル基金」というものを作った。コミュニティの毎月開催されるのコンサートに活用されているらしい。
ダールワードでは彼女が執筆した『ガン…? Hedarabedi(心配することないよ)』という冊子も火曜日にリリースされていた。これはガンと診断された人のためのガングーバーイーによる最後のメッセージだった。彼女は2003年に骨のがんを乗り越えた。そのため、他の患者にも勇気を与えたかったらしいのだ。
彼女は、ガン治療の後もコンサート等、人々の前に積極的に姿を現し「ガンは治療できる病気なんだ」ということをアピールしていた。この16ページの冊子は無料で配布されている。最後のページに彼女による感謝の言葉と、フブリのナワナガルにあるカルナータカがん治療研究所への寄付のお願いが書かれてある。
更に彼女は網膜を寄付することにサインしていた。そのためカルナータカ州ラーイチュールとコッパルの、目に障害を持った2人がガングーバーイー・ハーンガルの網膜を貰えるという幸運に恵まれたそうだ。角膜移植は即日行われ、成功裏に終わったらしい。
20090803-TMKG.jpg
こちらはヒンドゥー紙に載っていた彼女の若い頃の写真。タンプーラーと同じくらいの背丈しかない、やせっぽちのお嬢さんだ。特権を持って生まれてきて偉業を成した人は多いが、彼女はむしろ逆境の中、孤立奮闘して偉業を成し遂げた。そんな彼女は私に勇気を与えてやまないのである。人生のお手本だ。

This entry was posted in 映画や音楽. Bookmark the permalink.

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>