フィーローズ・ハーン

デリー支社のハリチャランという人が突然亡くなってしまった。朝、「熱がある。具合が悪いから休む」と電話を入れ、その後「あの小切手をまだ発送していなかった」などと2、3回会社に業務連絡の電話をした後、病院に向かう途中の車の中で亡くなってしまったらしい。あまりにも突然で、あっけなかった。
彼は、社員番号0004番で、会社創設メンバーに等しい人だった。にもかかわらず、出世コースには乗っておらず、バンガロール本社から忘れられたかのようにデリー支社で働いていた。だが、彼の表情に悔恨や卑屈さはまったく見られず、むしろ実に良い表情をしていたのである。「このおじさん、いい顔をしているなぁ」と思った矢先に彼は逝ってしまったのだ。
同僚達は訃報を受けた後、さすがに動揺し、急いで病院へ向かった。デリー支社新参者の私は、ガードマンとチャイ・ボーイと共にオフィスに取り残されてしまった。
ガードマンとチャイ・ボーイはこの異常事態にやや興奮気味だった。
「彼はいい人だった」
「凄〜く年をとっていたんだ」(実際は49歳だったらしい)
「一番古い社員だったんだ」
「昨日まで元気だったのに、人間何が起こるか分からない」
と、神妙そうに私に言っておきながら、お互い雑談しては高い声で笑っているのだ。まるでついさっき有名人に出会ったかのような高揚ぶりだった。これに違和感を覚えた私は、あれはどういう反応なのかとずっと考えていた。「昨日まで元気に仕事を頑張っていたハリチャラン・ジーは、弱みを見せることなく急逝することによって、彼らの中のヒーローになったのではないか」、というようなことを考えた。
おりしも4月27日、往年のボリウッド俳優のフィーローズ・ハーンが亡くなった。新聞に俳優アクシャヱ・クマールのこんなコメントが載っていた。
「今日は、お祝いしなければいけない、ダンディーな人生を送った彼を祝して。その方が本人も喜ぶと思う。」
これにより、あの時笑っていたガードマンとチャイ・ボーイのことを思い出してしまった。違った死生観があるということを知ったと同時に、死んだ時に笑って祝ってもらえるような人生っていいな、と思った。
                  ○     ○     ○
さて、フィーローズ・ハーンについて紹介したいと思う。
彼は俳優ファルディーン・ハーンの父親。インド国営放送ドゥール・ダルシャンの連続ドラマ『ティープー・スルターンの剣』でティープー役を演じたサンジャヱ・ハーンの兄である。サンジャヱ・ハーンの娘スザンヌ(リティック・ローシャンの妻)とザイド・ハーンは、姪甥にあたる。『Taj Mahal』という、かなり期待させてくれた映画を撮ったのは、彼の弟のアクバル・ハーン。
彼は1960年にボリウッド・デビューして以来、俳優および監督として華々しく活躍した。2007年12月に公開された『Welcome』の演技が印象に残っているという人も多いだろう。
彼はシガーをくゆらすダンディズムと、派手なスタイルで独自のステータスをボリウッドに築いた人。東洋のクリント・イーストウッドと言われていた。
プロデューサー・監督となってからは、ドイツのカー・レースシーンを映画に起用したり(『Apradh』)、インド映画史初のアフガーニスターンロケを行ったり(『Dharmatma』)した。彼が監督した1980年の映画『Qurbani』は大ヒット作となり、挿入歌に起用したパーキスターンポップ歌手ナズィア・ハサンは、これをきっかけに一世を風靡した。
彼は、1939年9月25日バンガロールで生まれ。シヴァージーナガルにあるセント・ジェルマンハイスクールに通っていたそうだ。父親はアフガーニスターン・ガズニ県出身のパターン人で母親はイラン人だった。彼はズルフィカル・アリー・シャー・ハーンと名づけられ、母親からはいつもシャーと呼ばれていた。彼は、4人の弟と2人の妹の長男だった。
父親の教育のおかげで、彼は14歳までにクルアーンを暗唱できるようになっていたという。クラスの成績はトップだったしスポーツも万能だった。だが、イタズラも盛んで、馬車の持ち主の目前で馬を馬車から放し、それに跨って教室まで入ってきたことがあったという。その後父親に殴られてこっぴどく叱られたそうだ。
彼が14歳の時に、ウルドゥー語の学者であった父親は突然亡くなってしまった。残された34歳の母親は、子供たちに不自由をさせまいとやっきになり、土地やバンガローを売り払ったそうだ。家族は、ムンバイに移住するまで、コックスタウンの賃貸アパートに住んでいたという。
1959年、20歳になった長男は、ボンベイに行くことを決意した。ボンベイが世知辛い都市だと聞いていた母親は誰よりも反対したという。結局、彼はボンベイに行ったが、母親は長男のことが可愛くてたまらなかったため、弟1人と妹1人を連れてボンベイに移住したそうだ。
翌年、『Didi』という映画でボリウッド・デビューするのだが、ボンベイに来たての彼は、業界に認められるまで苦労したらしい。B級映画のスタントから始まり、血と汗と涙を流しながら、且つ他人におべっかを使うことなく自分の地位を築き上げたらしい。
フィーローズ・ハーンは余暇をバンガロールのピーニヤ(ヤシュワントプル付近)にある農家作りの別荘で過ごすことが好きで、彼がメガホンを取る映画でもバンガロールはたびたび登場してきたそうだ。
2年前から肺がんを病んでいた彼は、バンガロールの別荘で息を引き取りたい、そして母親が葬られている足元で自分も眠りたいと常々口にしていた。そこで、息子のファルディーンと娘のライラが、チャーターした飛行機でボンベイから彼を運んできた。3日後に彼は息を引き取り、望みどおり、バンガロールのジョンソンマーケット(フォーラムからブリゲードロードに行く時のホスールロード左手)のシーア派墓地にある母親の墓の隣に葬られたそうだ。
ちなみに彼は、パーキスターンに入国を禁じられていたらしい。その理由というのは2006年にラーホールで行われたチャリティーイベントの席で、
「パーキスターンでは、ムスリムがムスリムを殺している。インドのムスリムはパーキスターンのムスリムよりマシだ。」
と発言したせいだと言われている。彼自身シーア派だったため、パーキスターンで起こっているシーア派とスンナ派の殺し合いに我慢がならなかったのだと思われる。また、彼は常にインド人としての自覚と誇りを持っていたそうだ。
バンガロール生まれということで親近感を覚えるこの伝説のスター。なぜアフガーニスターン出身のパターン人とイラン人が南インドのバンガロールにいたのかということも微妙に気になりつつ、大物、また1人去れりということで寂寥感を覚える。

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