ラールバーグを行く

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ラールバーグ(赤い庭園)は、バンガロールで一番大きく、地元の人々から最も親しまれている公園だ。ここはバンガロールの汚れた空気を浄化してくれるだけではなく、若者にデートする場所を提供したり、安全な散歩コースを提供したり、またフラワーショー、マンゴー祭など催し物を提供してくれている。公園内部では炭酸ジュースや、パパイヤ、パイナップルなどのカットフルーツ(スパイス付き)、焼きとうもろこし、ピーナッツやポップコーンなどが売られており、それを買い喰いするのもちょっとした楽しみである。
ハイダル・アリー時代
ラールバーグの歴史は1760年代にまで遡ることが出来る。時の支配者ハイダル・アリーは、イギリス勢力の拡大に危機を感じ、フランスと同盟を組んでいた。このことから当時のイギリス植民地ポンディシェリーに出張に出かけることもあったようだ。その時にハイダル・アリーは、美しい庭園を目にしたそうだ。この感動はフランス植民地を後にしても彼の脳裏から離れず、ついには自分で庭園を作ってしまうことにした。こうしてバンガロールの彼の城砦から1.6キロ東に行った場所に40エーカーの庭園が建設された。
ところでハイダル・アリーの父親は、ディラーワル・ハーンというムガル総督に仕えていた。ディラーワル・ハーンは、カルナータカ州トゥムクールから近いスィラーと言う町に、ムガル様式の庭園を建設していた。それを聞き及んでいたハイダル・アリーは、このムガル庭園をモデルにしたそうだ。1800年の記述によると、庭園は歩道で四角に区切られており、端が糸杉で飾られていたそうだ。また、区切られたセクションには赤いバラの木、ザクロの木といったそれぞれ別のものが植えられたらしい。
イスラーム様式庭園は、天国を表現しようとする。ハイダル・アリーが、信心深い行いのひとつとして庭園建築を行っていたのではないかと言われている。
ティープー・スルターン時代
ハイダル・アリーの息子であるティープー・スルターンも熱心に庭園の拡張と整備に励んだ。ティープー・スルターンは、園芸に長けたティガラ・コミュニティーをタミル・ナードゥから呼び寄せ、植物の栽培を任せたようだ。その他、彼はフランス植民地から来ていた大使に頼んで、マダガスカルやテネリフェ島から植物や苗木を取り寄せた。
この庭園は当初「バラと糸杉の庭」と呼ばれていたそうだが、赤いバラが豊富にあったため「ラール・バーグ(赤い庭園)」という名称になった。
イギリス植民地時代
1799年にティープー・スルターンが戦死した後、庭園は一時荒れるがままになってしまった。最初ムハンマド・アリーと、その子アブドゥル・カーディルが管理していたらしいが、特に息子アブドゥル・カーディルの時代に、この庭園はジャングルとなってしまったそうだ。
それを見かねてか、ティープーの宿敵であったアーサー・ウェルズリー大佐は、植物学者ベンジャミン・ハイネを管理責任者に任命。彼がラールバーグで何をしたかは分かっていないが、1812年までにコロマンデル海岸や西ガート山脈を廻って366種の植物を収集、イギリスのキュー王立植物園に寄贈したようだ。うち200種は彼が命名。これらのコレクションはキュー王立植物園にまだ残っているらしい。
1836年にサー・マーク・カッボン卿がラールバーグのために農業園芸の会を設立。囚人労働者の力を借りて庭園の管理を行ったが、1842年に協会は解散。庭園は政府に委ねられることになった。
1852年にヒュー・クレグホーン博士の薦めで庭園は植物園になった。1858年以降、キュー王立植物園で鍛え上げられた管理人がラールバーグの管理指揮を行うようになった。例えば、キャメロン氏、ジャワラヤ氏、クルムビーガル氏、マリゴォダ氏が歴代の指揮監督者だ。
キャメロン氏の時代、庭園が120エーカーに拡張された。(うち40エーカーは湖)。もはや跡形もないが、彼は植物園内に動物園も作ったらしい。彼の在職期間中、1889年にウェールズの王子アルバート・ヴィクターがやってきて礎石を置き、ロンドンのクリスタルパレスをモデルにしたグラス・ハウスが建築された。
庭園を胸壁で飾ったのは、クルムビーガル氏。庭園の敷地を240エーカーにまで拡大したのはマリゴォダ氏だ。
庭園では1月と8月に花や植物の展覧会が行われるようになり、展覧会の後は優秀な者に賞が渡されたのだとか。そこでインドの農家や園芸家は競って腕前を披露したそうだ。
現在のラールバーグ
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現在、ラールバーグは一般公開されている植物公園となった。200エーカーの敷地が有する植物は1800種におよぶ。温暖気候、熱帯、沿岸部、赤道直下などの植物もあればヒマーラヤ地方の高山植物もある。
珍しい木としてタリポットヤシがある。これは、カルナータカ州のクムタの森に生えているもので、一生のうちに23メートルほどにまで伸び、75年の生涯に1度だけ花を咲かせるそうだ。そして石のように硬くて楕円形をしている実をつけたら、あとは9ヶ月から10ヶ月くらいで腐って死んでしまうそうだ。
今では独立記念日(8月15日)と、共和国記念日(1月26日)にフラワーショーが行われ、(多くの人を集めている。多くの人を集めすぎてしまって植物が踏みにじられているそうだ)
また、ここは野鳥観察も出来る場所。庭園内には、ラールバーグ内で見ることのできる野鳥の案内がある。
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Googleでラールバーグの航空写真を見て、なるほどと思わせられた。西側(左)は、四部庭園のように建築されている。ここからハイダル・アリーは庭園建設に着手したのだろう。
航空写真の東側(右側)を見てみると、緑が少ない。これはラールバーグが30億年前の花崗岩、片麻岩の上に横たわっており、この部分で岩が地表にむき出しになっているためだ。この岩の上にケンペーゴォダが建てたマンダパが今もなお残っている。これは彼が当時、街を建設する時に街の広がりの範囲を定めるために建てたものである。今では街はラールバーグのはるか南にまで広がっている。
こうして歴史を追っていくと、ラールバーグは時代の変遷の跡を残した興味深い場所だったのである。木の名札などは完全に整備されていなくて残念なのだが、ラールバーグで目にする、あるいは触れる木は実はハイダル・アリーやティープー・スルターンの時代のものなのかもしれない。

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