探偵小説イムラーン・シリーズ

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アガサ・クリスティは トランジットでカラーチーに立ち寄った時に、こう語った。
   −−ウルドゥーは知らないけれど、亜大陸の探偵小説のことは聞き知っている。ただ1人オリジナルの作家がいる、その名はイブネ・サフィーと。
イブネ・サフィーは、1928年イラーハーバード近郊生まれの作家アスラール・ナルヴィーのペン・ネームだ。かつての彼は文学少年で、遊びに行ったふりをしては父親の蔵書を読み漁っていたそうだ。7年生の頃から作家としての頭角を現し、雑誌へ執筆。カレッジに上がる頃には、詩人として知られる存在になっていた。印パの分離独立があったため、しばらく創作活動が滞ったが、1948年から風刺ものを執筆した。

彼の息子が書いたエッセイによると、1950年前半、ウルドゥー語のフィクションは停滞気味だったそうだ。性的要素が含まれていないと本が売れないというのが定説だったそうだ。彼は、新しいジャンルを生み出すことにより、定説を覆すことを思いついた。早速彼は「イブネ・サフィー」(サフィーの息子、の意味。サフィーは父親の名サフィーウッラーから。)というペンネームを使い、探偵ミステリー小説を書き始めた。こうして1952年に、ニカト・パブリケーションから出版されたのがジャースースィー・ドゥニヤー(スパイの世界)シリーズだった。イブネ・サフィーがパーキスターンに移住した後の1953年からは、イムラーン・シリーズも始まった。

最初は西欧の探偵ものからアイデアを拝借してシリーズを始めたようだが、彼の探偵ものは予想以上に大ヒット。教養のある先生も、ビジネスマンも学生も、肉体労働者も主婦もそろって書店に詰めかけ、イブネ・サフィーの最新作を求めたそうだ。中毒性があるほど面白いのに品があり、家族全員が安心して読めるのが彼の作品の特徴だった。ピーク時には、月に3〜4話も発表した。が、仕事のストレスのせいか1961年に精神分裂症を患い、執筆を中止。3年間なにも書かなかった。しかし1963年に奇跡的に回復した彼は新作を発表。これがまた本の売上記録の歴史を塗り替えるまでのヒットとなった。彼は生涯合計で254話の探偵ミステリー小説を残した。
残念なことに、探偵ミステリー小説のジャンルは、正統派文学には入れてもらえず、文学批評家もイブネ・サフィーをほぼ無視してきたそうだ。インティザール・フサインは、イブネ・サフィーのことを『読んだこともないし、特別重要人物だとも思わない』と言い放ったとか。ただ、ゴーピー・チャンド・ナーラング博士や、ジャーヴェード・アフタルは、イブネ・サフィーのファンであることをカミングアウトしているそうだ。パーキスターン政界のトップにも愛読者が多く、イブネ・サフィーは諜報機関にアドバイスをしたこともあったとか。

人気作家ではあったが、イブネ・サフィーは謙虚で寛大な人物であった。彼が執筆活動から遠ざかっていた3年間、偽物のイブネ・サフィーが現れてイムラーン・シリーズやジャースースィー・ドゥニヤーシリーズ作品を書いていたことがあった。だが、彼は訴えたりしなかった。かえって『私の作品を真似することで彼らが生活費の一部でも稼げるのなら、それは光栄なことだ』と語っていたという。また、ある出版社が勝手にイブネ・サフィーの本を売りだしたので、周りが訴えるように勧めてきたことがあった。イブネ・サフィーは出版社を訴えてはみたのだが、その出版社の家族の窮状を目のあたりにしたらいたたまれなくなり、すぐに訴えを取り下げ、しかも家族に資金援助もしたと言われている。

イブネ・サフィーの作品は、インドの現地語に翻訳されて各地で売られていたらしいが、なぜか英語版はなかった。ところが最近英訳本『The House of Fear』がランダムハウス・インディアから出されたので手に取ってみた。

1冊の中に、イムラーンシリーズが2話収められていている。第1話目は書名ともなっているHouse of Fear。オリジナルでいうところのKhaufnaak Imaaratだ。持ち主が転々としている謎の廃墟で死体が見つかる。死体には等間隔で、しかも深さが同じの刺し傷があった。イムラーンは時には敵のアジトに突入したり、間一髪の取引をしながら事件の真相を掴んでいくという話。

2話目はShootout at the Rocks。オリジナルのタイトルはchattanon mein fire。手違いで受け取った重要書類のせいで国際的なマフィアに脅迫を受けている大佐の話。イムラーンが送り込まれたものの大佐は行方不明となり、大佐の娘も誘拐されてしまう。解決は絶望的に思われたが、イムラーンはすべてを心得たかのように大佐救出に向かうという話。

すべての事件を推理するのは、主人公のイムラーンだ。実はMSc、オックスフォードで犯罪学のPhDを修めているのだが、始終トンチンカンな言動をして周りの人を嫌がらせるという設定になっている。あまりにもとっぴょうしもない言動が続くので、最初は読み続けるのが疲れた。ひょっとしたら、このはずしぶりが印パの読者にとって面白いのかもしれないが、映画ならまだしも、読み物だとばかばかしくなって放りたくなる。でも読者にもどかしさを感じさせておいて、最後に痛快さを味わわせるというのが、この小説の最大の醍醐味のようである。

イムラーンは諜報機関の一員でも刑事でもない。なのに、すべてを彼の頭脳で解決してしまう。それでいて自分の名前は極力伏せ、功績を他人に譲ってしまうというのがクールである。廻りの賞賛に対してはバカを装った顔をして応える。この探偵ミステリーシリーズの中の一番のミステリーが、イムラーンなのかもしれない。

イムラーンは、ジェームズボンドばりに小道具も用いる。お腹を押すと口が開いてガスを発射するというゴムの人形をポケットに入れているようだ。だがボンドのようにお酒やタバコはたしなまず、ただガムだけを噛む。暴力を見ると自分の頬をピシャリと叩く彼は、平和を愛し、法律を順守し、国を愛する、子供たちにとって教科書的存在だ。

イブネ・サフィーがもともと詩人なだけあって、小説には詩も引用されている。ガーリブの詩の英訳にあたっては、翻訳者はコロンビア大学のプリチェット先生から許可を得て、Webサイトから訳を拝借したそうだ。

翻訳者は、ウルドゥー語独特の言い回しに関しては、意訳してしまわず直訳し、下に注釈を付けている。たとえば夕食に鶏肉を調理するかヤマウズラを調理するか尋ねられたイムラーンは「Half titar, half batair」などと答える。下の注釈で訳者は読者に、ウルドゥーにはAadha titar aadha batairという表現があって、意味はアンビバレントなこと、また混血児を意味するのだと教えてくれる。この他、Ghas khana(理性を失う)、Doobtay ko tinkay ka sahara(溺れる者は藁をも掴む)の説明があり、勉強になった。

印パ世界になじみのない読者にとっては、フクロウが意味するものの説明や、Murgha banana(しゃがんで膝をかかえた姿勢で両耳をつまむ、ポピュラーな体罰のこと)の説明が理解の助けになったのではないかと思う。

1950年代の作品とあって、1940年代のボリウッド俳優の名前も出てくる。また、Bis Hazar と呼ばれている木綿の布があったらしく、興味深かった。

ところで大衆に人気のあったイブネ・サフィーの作品、忘れ去られるどころか、ネット世界でなおも健在のようである。上述のKahfnaak Imaratと、Chatanon mein fireのウルドゥーがネットで簡単に閲覧できることを知った。
正統派文学者から無視されてきた、されどウルドゥー文学の新しいジャンルを切り開いたイブネ・サフィーを知るためにも、これを機に英訳やウルドゥーに目を通してみるのはいかがだろう?

カテゴリー: 言葉 | 2件のコメント

声だけ映画出演

アルカカット氏が出演しているヒンディー語映画『Pan Singh Tomar』の公開が遅れている。2月公開予定と聞いていたが、ついに4月になってしまった。そんなある日、アルカカット氏が『今日、アフレコに行ってくるよ』と言い出した。映画撮影後の音声のダビング作業が今頃行われることになったらしい。
映画の撮影自体はムンバイで行われたが、ダビングはデリーで行われるらしかった。監督およびスタッフがデリーに来ているらしいので、私もダビングに同行させてもらうことにした。
ダビングの会場は、我が家から近いCRパークにあった。指定された住所にたどり着いてみると、そこは普通の民家だった。部屋番号を教えられていなかったので、民家のベルを適当に鳴らしていいものかどうか途方にくれてしまった。アルカカット氏と共演している日本人ヒロインのタジマ・ハル子さんは先に到着し、スタジオに入ってしまったらしく電話が通じなかった。なすすべがなく立ち尽くしていると、サーリーの端を頭から被った痩せたおばあさんがどことなく現れ、外に出て行った。私のことを見て、少し微笑んでいた気がした。
その民家には、半地下があった。とりあえず、そこではないかとメボシをつけて入ったら正解だった。重い扉で閉ざされた個室の中には、監督と演出と音声の技術者がいた。調整ツマミがたくさんついたテーブルがあり、画像を見るためのテレビもあった。またパソコンも置いてあり、音声担当の人が画面に表示された波形とにらめっこし、音声の編集をしていた。
個室から、窓ガラスを通じて別の部屋が見えるようになっていた。別の部屋に入っていたのは俳優達だ。雑音をなるべくカットするため、部屋の中央にこしらえられた毛布のテントに入り、録音をしていた。監督はヘッドホンとマイクを通じて、別の部屋にいる俳優に細かい指示を行っていた。
私達が到着した時に行っていたのは、男達が衝突しあうシーンの音声のダビング。「オウ、オウ!」「いくぞ」「やっちまえ!」みたいな雑多なセリフのアドリブを録音していたが、撮影された映像と見事にマッチしていて素晴らしかった。今、この密室で録音されたものとは思えないほどのリアルさがあった。
次に、銃弾に倒れた主人公の上に老女が覆いかぶさり、嘆くシーンのダビングが行われた。部屋に入ってきたのは、さきほど外ですれ違ったサーリーのおばあさんだった!彼女が訛りのある言葉で、ワワッとわめいていた。それが2テイクくらいでOKになり、さっさと帰って行った。普通のおばあさんのようでいて、俳優だったのだろうか?それとも、凡人でもすぐに演技が出来るのだろうか。
次にタジマ・ハル子さんやアルカカット氏のダビングの番になった。自分の言ったセリフとはいえ、映像の中の唇の動きにあわせて声を入れるのは、物凄く難しい様子だった。インド映画で、セリフの声が唇にあっていないのをよく目にするが、あれはダビングのせいだったのだと学んだ。南インド映画だと、ヒロインの声が妙に甲高かったり、妙に近くから大音量で聞こえたりするが、ソレもアレも、全てはダビングのせいだったのだ。言語の制約から吹き替えが必要な人は別として、なぜ撮影時の時の音声をそのまま採用しては駄目なのだろう?
だが、唇の動きとセリフのミスマッチは近代技術のおかげで何とかなるらしかった。パソコンで音声を挿入するタイミングを微調整したり、引き伸ばしたり、切ったり貼ったりできるようだった。
そうこうしているうちに、タジマ・ハル子さんと、アルカカット氏の録音も終了した。
実は、1958年に東京で開催された陸上競技大会のシーンで他にも日本人の声が必要と聞いていた。例えば、最終レースの案内のアナウンスや、ゲストを迎えたスタッフが相談している声、日本人が声援を送る声、女の子がクスクスと会話をする声などだ。こんなこともあろうかと思い、私は心の準備をしていた。しかも、当時流行った言葉を使ったほうが良いだろうと思って、1958年の流行語をwikipediaで事前チェックして来た。(1958年の流行語は「イカす」「しびれる」だったらしい。)
ねらいどおり、レースのアナウンスを吹き込むチャンスをいただいたので、毛布のテントにもぐりこみ、声をふきこませていただいた。少々噛んだにもかかわらず、1発でOKとなった。少々噛んでも、インド人観客には分からないし、まぁいいか。
問題はスタッフ同士の相談の会話だ。演出の人に、例えばどんなことを言わなければいけないか聞いたのだが、数人で行うアドリブなため、あらかじめ役割設定をしなければいけない。
「じゃぁ、僕は食事と会場係になるよ」
「肉が食べられない選手がいるとかの問題が起こることにしようよ」
「じゃぁ、僕は水はどこか尋ねられて、場所を探すことにする」
「私はホテルの部屋の予約の担当になる」
などと、打ち合わせをしていたら、演出の人に
「ハイ、そこまで〜」
と言われた。どうやら、アドリブの相談自体を録音されていたらしい。素で会話していたので、ものすごく自然な日本語の会話になっていたかもしれないが、アドリブの事前打ち合わせなため、使いようによってはトンチンカンなことになりかねない。でもスタジオの明け渡し時間が迫っているらしく、本番を取り直している余裕はないようだった。なので、私達も「まぁいいか」ということにしてしまった。
次に女の子同士の会話を吹き込んだ。さきほどの件があったので、今度は相談ナシで、とりあえず想像にまかせて会話をしたら、次第に変な方向に進んでしまった。1958年の設定なので「超」は、使わないようにしようと思っていたが、やっぱり使ってしまった。
声援も吹き込んだ。「イケー」「もう少しだ!」「追い抜かせ〜」など、皆で叫んだ。これは、なかなか名演技だったと思う。
他にも声援はないのかと言われたので「フレッ、フレッ、日本!」コールを吹き込んだ。日本チャチャチャは、いつの時代か確信がなかったので、やめておいた。
そんなこんなでダビングが終わった。監督は疲れてしまったらしく、無言がちであった。しきりに、ビニル袋に入ったペースト状のミターイー(ミルク・ケーキだ、と言っていた)を薦めてきたのでご馳走になった。
映画の公開は今のところ8月に予定されているらしい。予定を聞いたとき、監督はやや苦々しい顔をしていた。突然の豪雨、セットの作り直し等で予定がずれこんでしまったせいだろうか。予算もオーバーしているのかもしれない。
映画自体は、そこまで話題作にはならないと見られているが、制作に自分が参加したため、映画を見るのが楽しみである。

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マスーリーへ避暑

風が熱い。蛇口から出るはずの水が熱い。タオルや服が熱い・・・。
夜間のパンカーや会社のACのせいで、体調が優れない。食中毒にも襲われ、食欲も減退。これから、まだまだ暑くなると分かっているので、ゲンナリしてくる。
そんな時に3日間の連休があったので、避暑地マスーリーに行ってきた。マスーリーはmussoorieと書く。綴りがミズーリ州っぽいし、何と読むのかなぁと長いこと疑問に思っていた。読み方を知ったのは、つい最近のこと。「マスーリー」と言うらしい。もったいぶらずに、masuriと書けば簡単なのに。
マスーリーは、イギリス人が開拓した数ある避暑地のうちのひとつだ。インド生まれのイギリス人俳優トム・アルターが生まれた場所として記憶していたので、ちょっとした憧れの土地だった。
ここで、マスーリーで撮った写真を紹介しながら、様子を伝えたいと思う。
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マスーリーは、山の上に作られた標高2005mある町。山の下には、比較的大きな都市デヘラードゥーンがある。マスーリーは、デヘラードゥーンから見上げることができる。山の頂上付近に、ポチポチと白い建物がへばりついているのが肉眼で見えるのだ。これを見て、よく建築資材をあそこまで運んだなぁと、しきりに感心させられた。
苦労して建築されただけあってマスーリーの気温は最高だった。夜は、やや肌寒いくらいだ。昼間は、太陽は照るが、暑くなるほどではない。
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マスーリーから見下ろす景色は、このような感じだった。段々畑が美しい。この角度からは緑の山が見渡せたが、ホテルから見える山は残念ながら茶色だった。森林伐採のせいか、日の当たりの違いか。
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マスーリーでは、コロニアルな雰囲気を持った古い建物が随所に見られた。時々、イスラマ近郊の避暑地マリーを思い出した。
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コロニアル調。
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教会も数件、建っていた。この教会の裏は崖っぷち?2008年末公開のドタバタコメディ映画『Welcome』の最後のシーンを思い出す。
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トム・アルターが育ったのは、このような感じの家なのかな?と勝手に想像して楽しんでいた。今もマスーリー在住のラスキン・ボンドの家は、どのような感じなのだろう?
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コロニアルな街の魅力のうちのひとつは、食べ物だ!時計塔のそばに、いい感じのカフェを発見した。
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ここで、レアチーズケーキに出会った!インドでは、5つ星ホテルを除くと、チーズケーキには、なかなかお目にかかれない。ましてやレアチーズなので、感激した。しっかりしたお味なのに70ルピーとは安い!
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こんな感じのファーストフード店も。マスーリーには、輸入食材店も多く、舶来ものが数多く売られていた。書店に並んでいる雑誌や、文房具も西欧のものが断然多い。レストランのBGMは、もちろん洋楽だった。但し、古い洋楽だ・・・。
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ベーカリーの店頭に並んでいるものも、やや違う。タルト系が置いてあった。でも、クリームはバタークリームを使ってそうだったので、敢えて試してはみなかった。
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街の至るところで、熱いコーヒーや紅茶が飲めるようになっていた。寒い時には最高だろう。
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とは言っても、小さな町のこと。すぐ一周できてしまうし、やることが尽きてしまう。そこで観光客を飽きさせないように、いろいろなエンターテイメント系の商売が行われていた。これは、射撃ゲーム。
他に水族館や、乗馬、ビデオゲームセンターなどがあった。マジックのタネを売る商売も、さかんな様子であった。
なぜだかゴーストのマスクが数多く売られていた。ハロウィーンの残り物なのだろうか?
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これは、握力測定器。クラシカルなデザインをしている。骨董品?
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旅行会社のオフィスで、スキー板と靴を発見。本当に、ここで雪が降るんだ!
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マスーリーに詰め掛けているのは、ほとんどが平地から来たインド人であった。外国人観光客は非常に少なかった。他方、地元の人は、このような感じで肉体労働をしていた。紐を額にひっかけて、セメントの袋などの荷の積み下ろしなどをしていた。
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これは、観光客が記念写真をとるための民俗衣装。
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喧騒の中、ひっそりと咲いていた小さな花。
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しおれると、花びらの色が白く変化する面白い花を発見。
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マスーリーの近所にある滝は、プールになっていた。水遊び用の服が貸し出されており、チェンジングルームまで用意してあった。ただでさえ涼しい中、インド人観光客が冷たい水の中に入って、楽しそうに遊んでいた。
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カルスィーにあるミリタリーエリアは、バンガロールを彷彿とさせた。駐屯地というのは、似てくるものなのだろうか。迷彩服を着たチベット系の人たちが沢山闊歩していた。
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マスーリーはゲイ・カルチャーが花開いたところらしい。
これはムスリムが経営しているモモ・スタンドに飾ってあったお相撲さんポスターの写真。こういうのが、2種類飾られていた。今思うに、これはマスーリーのゲイ・カルチャーに少なくとも関係していたのかもしれない。アルカカット氏は、このポスターを発見した時、嬉しそうに「なぜ、このポスターを持っているんですか?この人たちは、僕のフレンドです。」と店主に言っていた。店主がそれをどう受け取ったかは不明である。
マスーリーは小さな街だが、その涼しさに、すっかり虜となってしまった。「やはり酷暑期は避暑地に移住するに限る」と、エアコンシティに慣れた軟弱な私は思うのだ。

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野良犬、一網打尽

昨日の朝、家の前に輪の付いた棒を持った男が2人立っていた。作業着のようなものを着ており、電気工事でもしているのかと思われた。近所の住民と思われるラフな格好をした野次馬が、遠巻きに彼らのことを見つめていた。
全く関係ないかもしれないが、アショーク・ツリーの落ち葉を掻き集めて焚き火をしている人がいた。そのため、あたりは煙の臭いで充満していた。
デリーの住宅地は、小さな区画の入り口を1つに制限し、ゲートを設けてガードマンに見張らせることで、防犯を行っている。昼間は開けっ放しになっているゲートが、この日に限っては閉じており、車が来るたびにガードマンの人が開け閉めを行っていた。
このことから、何かあったのかな、と気になった。
ふと、駐車してあるトラックの荷台に目をやると、見覚えのある顔が・・・。ゴミ集めのシャーンティーさんの後をついて廻っている犬が檻の中にいた。よく見えなかったが、他にも黒っぽい犬が檻の中にいたようだ。作業着の男は、犬を捕獲していたのだ。
うちの地区には、野良犬が10匹くらいいた。地元住民が結構、彼らに残飯をあげており、犬は増えるべくして増えていたのだ。住民が室内で飼っている犬の散歩の時にも、特にトラブルを起こすことがなかったため、野良犬は住民に認められた存在と思っていた。だが、なぜか捕獲されるに至ったようだ。夕方には、地区から見事に野良犬が消え去ってしまった。これもコモンウェルスに向けた準備なのだろうか。
でも不思議なことに、すぐ隣の区画では捕獲作戦が行われなかったようだ。いつもどおりの顔ぶれの犬が、安心しきった表情で寝そべっていた。
果たして、犬はもう戻ってこないのだろうか。それとも去勢された後、再び放されるのだろうか?
昨日から、吠え声がなくて非常に静かである。何だか妙な感じ。夜はドロボウが来そうな予感がして、ちょっと心配。
茶色い犬が一匹だけいるのを発見。彼は朝、どこかに隠れていたのだろうか?それとも、古株の犬がいなくなったエリアを早速自分の縄張りとしたのか。当面、彼に番犬役をがんばってもらいたいものだ。
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※後日談
結局、犬たちは戻ってきた。狂犬病の注射をした後、連れ去った時と同じ車で地区のゲートまでやってきて、犬たちを車から降ろしてくれたらしい。何と親切な・・・!

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春のナヴラートリ

暑さが本格化してきた。2009年の3月は、雨が降ったりして、まだ涼しかった。夜なんかは、JNUのジャングルを通り抜ける時は特に、凍えるような思いをしたものである。今年は暑くなるのが早いらしく、新聞が『過去65年間で、2番目に暑い3月』、『平年よりも気温が7度高い』などと報じている。最近の昼間の最高気温は38〜39度。風呂に入った後、着る服が生暖かく感じられるようになってきた。木々は、新芽を出したり、あるいは枯葉を落としたり、あるいは花を付けたりと、季節の移り変わりに慌ただしく対応しているみたいだ。
ナヴラートリ始まる
さて今年2010年は、3月16日がナヴラートリ第1日目だった。ナヴラートリは、実は年に4回来ているらしいが、有名なのが9月〜10月にやってくるものと、3月にやってくるものだ。3月にやってくるナヴラートリは区別するために、「チャイトラ・ナヴラートリ」(チャイトラ月に訪れるから)とか「ヴァサント・ナヴラートリ」(ヴァサント=春に訪れるから)と呼ばれている。
春のナヴラートリは、北インドではメジャーな行事だ。南では、1日目がアーンドラやカルナータカでユガーディとして祝われるものの、ナヴラートリ自体は盛んではない。そのため、今年のギャラクシー社のカレンダーでは、バンガロール本社は3月16日が祝日で、デリー支社は3月24日が祝日という形になった。
16日のナヴラートリの初日、会社の同僚はプージャーを始めたらしく、額に赤い印を付けて出社していた。また、同僚とヴラト(断食)のことを話題にしていた。
摂食
ナヴラートリの期間中、人々は摂食をする。彼ら自身は英語で「ファスティング」と言っているが、完全な断食ではなく、多くの場合、ミルクティーを飲んだり、果物を食べている。そのため「摂食」と言った方が正しいだろう。(ヒンドゥーの同僚によると、完全に断食をすると、胃酸のせいで胃を痛め、気分が悪くなったり嘔吐したりするらしい。日中、水も飲まない断食を1ヶ月も行うムスリムは凄いなぁと言っていた。)
摂食にも、いろいろあるようだ。ある日、パンジャーブ出身のブラーフマンが、ランチの時間に薩摩芋に塩とレモン汁をかけて食べていた。ヒマーチャル出身のブラーフマンがやってきて「薩摩芋食べているの?」と目を輝かせた。だが、塩がかかっているのを見て残念そうにしていた。食べて良い塩が、限られているらしい。
ナヴラートリ期間中、摂食している人用に、ポテトチップスや、ココナツと干しブドウのミクスチャ、ジャガリーで固めた甘いお菓子などが店先に並べられる。お腹が空いたら、これらを食べ、水を飲んで乗り切るのだそうだ。
何が摂食なのだか分からなくなるが、はっきりしているのはナヴラートリ期間中、ノンヴェジ(肉食)が避けられること。ジェネラル・ストアからはナヴラートリ期間中、卵が消えていた。
喜捨
昨日はアシュタミー(8日目)。この日、プージャーの一環として、食べ物の喜捨が行われるらしい。住宅地のあちこちに簡易テントが設置され、プーリー、ハルワー、チョーレーが配られていた。また、喜捨を目当てにさまよっていると思われる人も目撃した。住宅地によっては、喜捨が物凄く盛んで、プーリーにウンザリしてしまうほどなのだとか。また、気前よく配られたはいいが、人々がプラスチックの容器や皿をその場に棄てるため、その後が大変なことになるらしい。
喜捨は特に、女性がすることになっているらしく、我が家にも、大家の親戚のお嬢さんがプーリー、ハルワー、チョーレーを持ってやってきた。毎度、毎度ありがたいことだ。
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バンガロールにいた頃は、近所づきあいが希薄な高層アパートに住んでいたせいか、このような食べ物のおすそ分けは貰ったことがなかった。デリーでは、年間3〜4回こういうことがあって、気前がいいなぁと毎度感心する。
この日の帰宅時、住宅地のあちらこちらから美味しそうな匂いが漂って来ていた。またプージャーでギーを燃やしたのであろう、マッタリとした煤の香りが、あたりに充満していた。
ナヴァミー
今日は最終日のナヴァミー(9日目)。ちょうどラーム誕生日と重なってもいる。デリー支社は本日お休みだった。
本日、街のあちこちでパレードが計画されていたそうだ。私も近所で1件、目的した。私が見たのは、シルディー・サーイーバーバーのパレードで、ブラスバンドの人達が先頭を歩いていた。一瞬、結婚式かと思った。
この後、8月までしばらく行事がなくなる。(つまり、祝日もなくなる。)
体力を温存し、暑さに耐え忍ぶのに集中するか。

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文化祭で日本語劇を観る

2010年3月20日(土)と21日(日)、ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)で文化祭が行われた。この文化祭は、JNUの日本語科が主催しているもの。だが日本語を教えている他の学校も、参加して良いことになっている。バンガロールでいうところの「ジャパン・ハッバ(日本祭)」のような催しだ。
昼間は主に、オーディトリアムのステージにて出し物を行う。夜はグラウンドで日本の屋台と踊りを楽しむ。
生憎、生け花、折り紙、太鼓や箸コンペティションが行われた1日目には参加できなかったのだが、2日目に行って来ることができた。
最近、インドでは時間通りに開催されるイベントが多くなってきた。そのため、日本関連イベントは当然時間通り開始することが期待された。だが、最初から開始が30分遅れてしまっていた。学生主体なので仕方ないか。
また、このようなステージでの出し物には、参加希望者が多く、たいてい時間配分が大変になる。今回は、デリー大学で日本語を勉強している生徒さん達が飛び込み参加し、しかも日本語センターの生徒さんがふたつ演目を披露したため、合計で1時間半、予定からずれてしまっていた。
デリー大学からは、学生4人とウニター・サチダーナンド先生が参加していた。生徒のうち2人はアルメニア人であった。なぜ日本ではなくインドで日本語を勉強しているのだろう?しかもひざ丈のミニ浴衣を着ていた。彼らは、トークを交えながら雛祭りの歌、会津磐梯山の歌、石川啄木の詩、ヒマーラヤに関する詩を披露していた。
次に、日本語センターの生徒が『タッチTV』というオリジナルの日本語劇を披露した。日本の新しいテクノロジーであるタッチTVは、テレビの中から人が飛び出してくるというもの。インドのテレビのチャンネルを廻すと、必ずバーバー・ラームデーヴが登場してくるが、タッチTVでは、テレビの中からバーバー・「ア」ームデーヴが出てきて、直接ハゲに効くヨーガの指導してくる。スポーツ・チャンネルからはボクサーが飛び出てきたり、ボリウッド映画チャンネルからはシャールフ・ハーンが飛び出してきて「スイスに行こう」と主婦を連れ去って行ってしまう。オリジナルの台本にしてはよく練られた、愉快な劇だった。
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次も、日本語センターの別グループによる日本語劇だった。男の子が、或る女の子を3日でガールフレンドにしようとするが、正直者の男の子に奪われてしまうというオリジナル・ラブストーリーだった。演劇らしくしようという努力が感じられた。だが、ストーリーにヒネリが欲しかった。うちの会社の文化祭でも、必ず直球ラブ・ストーリーを演じる人がいるが、ボリウッド映画の影響なのだろうか?
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次が、MOSAIによる日本語劇だった。いつも時間を守るジャギー氏。インドで時間を守ったために痛い目にあったので、わざと遅れて会場に行く習慣を付けた。日本での講演に呼ばれたけれど、やはり少し遅れて行ったため、主賓なのに中に入れてもらえなかった。これからの若者は、時間は守りましょう、と言う話だった。
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次が、JNUによる日本語劇だった。JNUは、毎回昔話を題材にしているらしく、今回は『かぐや姫』だった。おじいさんと、おばあさんが「〜じゃ」という、いかにも昔話らしい話し方をしていて、レベルが高かった。また、帝は、自分が話す代わりに家来に耳打ちをしていた。芸が細かいと思った。昔話なのでセットや衣装が大変なのだが、大道具や浴衣を用意していて努力が見られた。おじいさんが竹の中から見つけたのが、バービー人形だったので、会場の人は笑っていた。
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最後は、再びMOSAIによる日本語劇だった。パスポート・オフィスでパスポートを取ろうとする人達の様子を再現していた。『若者は色仕掛け、賄賂を使ってはいけない。または、コミッションを取って便宜を図るような人を利用してはならない。将来は、そういう行為を撲滅していきましょう』という寸劇だった。これを見て、以前デリーで目にしたTATAのグループ会社による文化祭では、「若者文化の悪を取り除こう」、「ガンジス川を綺麗にしよう」、「国を愛そう」という説教っぽい劇が行われていたのを思い出した。バンガロールでは、説教っぽい出し物は目にしなかった。説教っぽくなるのは、首都デリーで行われる文化祭の特徴なのだろうか?
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次に、JNUの生徒さんによるファッション・ショーが行われた。最初にインドの各地の衣装を紹介し、次に日本の衣装を紹介するという趣旨のものだった。
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左から、オリッサ、ラージャスターン、パンジャーブの衣装。会場の人(ほとんどインド人学生)は、盛り上がりまくっていた。地元の衣装に声援を送っていたのだろう。
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左から、タミル、マハーラーシュトラ、カシミールの衣装。
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左がグジャラートで右がマニプリの衣装。
さて、日本はどのように紹介されるのだろうか。日本の各地の衣装を紹介するのは、さぞ困難だろうと思っていたところ・・・出てきたのは、このファッション。
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左は名づけて「彫り物」、右は「OLファッション」らしい。立ち方がなんともかっこいいではないか。日本は、こういうイメージなのだろうか。
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次に出てきたのは、「コスプレ」と、「芸者」。コスプレの意味を、アニメやゲームのキャラクターのコスチュームを再現することではなく、単に都会ファッションと勘違いしているようだ。「芸者」さんは、顔と手を白く塗って登場していた。さすがにカツラ手配は難しいか。
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その後、デリーの空手部による空手のパフォーマンスがあった。空手を見せることで、こんなにエンターテイメントになるとは思わなかった。板割りや、回し蹴りのあざやかさに会場の人は大喜びだった。レンガ割りは残念ながら失敗に終わっていた。割ろうとしている人達の足が痛そうだった。もろそうに見えるインドのレンガであるが、意外と丈夫であることを知った。
また、「インドのキムタク」によるソロの踊りの披露、群舞の披露があった。踊っている人が、活き活きとして見えた。やはりインドでは、出し物には踊りが欠かせない。
この後、グラウンドに設置された屋台にて、やきとらさんによる焼き鶏、焼きとうもろこし、ちべまろさんによる冷奴や、おからケーキが出された。不況のせいか、去年に比べて売れ行きが不調だったらしい。ナヴラートリに重なってしまったこともあり、自分に食事制限を課しているヒンドゥーが日本食に手を出せなかったのもあるのだろう。むしろ生徒さんは、踊りの方に専念していた。
会場に来ている人は、日本人とは基本的に日本語でコミュニケーションを取ろうとしていた。普段から、日本語を使おうと努力していないと、いざという時に、なかなか口を突いて出てくるものではない。デリーは日本語運用レベルが高い人が多いんだな、と知った。
この日、鑑賞した日本語劇の台詞は、誰か日本人がしっかりと監修をしたのだろう、特に不自然なところはなかった。強いて言えば、ひとりごとで「じゃぁ、○○しよう!」と言うところ、「○○しましょう」となっているのが気になった。
惜しむらくは、日本語のイントネーションが悪くて、早口で話された時に何を言っているか分からないことである。発音では、促音、「ン」の音、伸ばされた音が、ちゃんと一音として考慮して発音されていないため、例えば「一生懸命」が、「イショケメ」と言っているように聞こえた。学生の時に私が携わったウルドゥー語劇も、ネイティブにとっては発音にいたらない箇所があったことだろう。レベルを高めるには、ネイティブが読んだ台詞を録音し、イントネーションや早さを厳密に真似るのが、いいだろう。
にしても、日本語劇に熱心に取り組む学生の数が、こんなにも多いことに驚きだった。言語学習に、語劇が有効な手段であることを、インドも知り始めたのであろうか?この動きがインド全国に波及し、日本語学習者の間で、日本語劇のコンペティションなどが行われたら面白いだろうなぁと思う。

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『burnt shadow』

パーキスターン系英語作家Kamila Shamsieの2009年の作品『burnt shadows』を読んだ。
この話の主人公が日本人女性ということは知っていたが、ここまで違和感のない話に仕上がっていることにビックリした。ロンドン在住パーキスターン人女性がなぜ日本のことに、こんなに詳しいのだ?長崎の風景、引き戸、布団、天井からぶらさがっている電灯の描写は序の口。登場人物は「〜さん」「〜ちゃん」を使い分けたり、「わびさび」があるかないかを云々したり、九尾の狐、天狗のことまで思い浮かべたりする。
主人公の行動、廻りの人との関係の築き方も、まるで自分が監視されていたかのようにドキリとするリアリティがあった。
主人公のヒロコは、デリーでウルドゥー語を習う。そしてムスリムと結婚し、カラーチーで暮らす。カラーチーでは駐在の日本人に出会い、毎週サダルでお茶をしたりするが、首都がイスラマに移ってからは日本人仲間がいなくなってしまう。夫はラーホール、ペシャーワルにいる兄弟家族を訪ねるが、ヒロコはどんなに頑張っても家族に入り込めないことを悟り、やがて夫の親戚訪問には同行しなくなる。息子はパーキスターン生まれのパーキスターン人だが、ビーチに行くと物乞いの子供達に「中国人?日本人?」と尋ねられ、お金をせがまれる。年頃になると、普通のパーキスターン人に見える従兄弟の方が、ハーフである自分よりも万事得をしているのではないかと考え、悩むようになる。
このように、まるで一度日本人になってみたことがあるのではないかというような描写だった。彼女がカラーチーに住んでいた時代に、近所にモデルとなる日本人でも住んでいたのだろうか?本の終わりに記載されているAcknowledgementsには、そのような日本人の名前は見当たらない。原爆のことなら参考にした文献があるみたいだが・・・。なぜ主人公に日本人を選んだのか、誰かをモデルにしたのか非常に気になるところだ。
さて、本の表紙でウィリアム・ダルリンプルが『登場人物が、分離独立やパーキスターン建国を経ながら、長崎から9・11へと旅する野心的作品』と本書を紹介している。数ヶ月前のインターネットでも、「9・11に関する作品」と紹介されいるのを見た気がする。ところが、フタをあけてみれば、9・11という単語が2箇所、出てくるだけで、本作品では9・11は驚くほど軽い扱いであった。さてはウィリアム、本を全部読まずに紹介文を出したな、と疑ってしまった。
むしろ本書は長崎の原爆と、アフガーニスターンでの戦争に重心が置かれていた。原爆が与えた影響を伝え、作者の母国であるパーキスターンの核実験をも批判している。ジェームス・バートン、ハリー、キムというイギリス・アメリカの権化を通して、イギリスやアメリカの驕りを浮き彫りにしている。「原爆投下はやむを得なかった」というアメリカの言い分も、首尾一貫して却下している。
残念なのは、救いようのない結末だ。主人公は愛するものを一人ひとり失っていくだけだ。事実、アフガーニスターン、パーキスターンの行方は検討が付かないし、このテーマでは物語の終わりの持って行き方が難しいと思う。作者は、ショートストーリーのような終わり方で終わらせている。読んだ後に悲壮感が残るが、仕方ないのかなと思う。
総体的に、次から次へと物語が進行し、全く飽きない作品だった。「半返し縫い」のように、読み進めていくと過去の謎が少しずつ明かされる仕組みになっているのも心地よい。ボリウッドでは何度も語られてしまったテロに関与する話、あるいはテロリスト容疑で逮捕監禁される話等の平凡さをはるかに超えたユニークな作品。洞察に富んでいる。アフガーニスターンの状況など、今一度、私達が知るべきことを教えてくれる。核保有国のパーキスターン人作家なのに原爆の恐ろしさを代弁しており、エールを送りたくなる作品だ。
以下、内容が気になる人のためにあらすじを記載してみた。たぶん読まないだろうなという人、面白さ半減してもいいから、今すぐあらすじを読みたいという人だけ、読んでください。
(あらすじ)
タナカヒロコは長崎に住む21歳の女性。ドイツ語翻訳の仕事を通して、コンラド・ワイスというドイツ人男性に出会い、恋仲になる。第二次世界大戦下、外国語の仕事をしたり、外国人に会うことは非国民とされたため、2人は会うことをやめていた。だが、平和になったら一緒になることを誓っていた。ところが原爆が二人を永遠に分かつ。コンラドは岩肌に焼き付けられた影となった。ヒロコは重症を負い病院に搬送された。
戦後、語学が堪能であったヒロコは上京し、被爆者という身分を隠して米国人のもとで働いた。だが、原爆投下に対する許せない気持ち、自分の居場所の喪失から、彼女はデリーへ行くことにする。そこには、コンラドの異母兄妹イルゼが住んでいた。
イルゼは、イギリス人弁護士ジェームス・バートンと結婚し、デリーに駐在していた。彼女は平素から、ドイツ人というアイデンティティに目を背けて暮らしていた。そのため、コンラドのフィアンセを名乗るヒロコの突然の登場に動揺し、最初ははねつけようとした。しかし被爆への同情から、一家で彼女の世話をすることになる。今まで知らなかったコンラドの話をヒロコから聞き、イルゼは次第にドイツ人アイデンティティを取り戻す。そしてヒロコを自分の親戚と見なすようになる。
ヒロコは最初、デリーで仕事をしたがったが、ジェームス・バートンが許さなかった。そのため、彼女はウルドゥー語を習うことにする。先生に抜擢されたのは、以前コンラドがオールド・デリーから連れてきて以来、バートン家で働いていた青年サッジャド・アシュラーフだった。
主従関係のないヒロコとサッジャドは、急速に親しくなる。その過程でヒロコはイギリス人のインドに対する勘違い的態度に嫌悪感を覚えるようになる。同時に、サッジャドがお見合い結婚をすることに憤りを覚える。彼女はサッジャドに恋してしまった。イルゼは、サッジャドがヒロコをたぶらかしたのだと思い込み、サッジャドを家から追い出す。
後でヒロコから話しを聞いたイルゼ・ジェームス夫妻は、事情を知りサッジャドに謝る代わりにお金を送る。折りしもインドでは分離独立が間近に迫っていた。サッジャドの兄弟は、インドに残るかパーキスターンに行くかで揉めていた。サッジャドがお見合い結婚することになっていた女性は、パーキスターン移住派であった。サッジャドはデリーを愛しており、デリーを離れることは考えられなかった。その時、結婚の手配を進めていた母親が亡くなった。もともと父親がなかったサッジャドは、ふっきれてしまい『ヒロコと結婚し、ニューデリーに住む』という決断を兄妹に言い渡す。サッジャドは雨の中、避暑地マスーリーにあるバートン家の別荘まで駆けた。そしてヒロコを連れて近くのモスクに行き、結婚の儀式を済ませたのであった。
イルゼ・ジェームスは、今は危険であるから、分離独立のごたごたが済むまで、デリーに行かないようにと2人に言う。バートン家は、ロンドンに引き揚げることになっていたので、ヒロコ・サッジャドにはイスタンブルに一時避難することを薦める。このため2人はトルコでハネムーンを過ごした。だが、これが落とし穴となった。いざインドに帰ろうとした時、インド政府はインドへの「帰国」を認めてくれなかったのだ。サッジャドの兄弟がパーキスターンに行ってしまったことを理由に、サッジャドもパーキスターンに行ったと見なされたのだ。
1982年カラーチーのナーズィマーバードにて、サッジャドとヒロコと息子のラザーの3人が暮らしていた。息子のラザーは頭の良い子だったが、イスラーミヤートの試験に落ち、他の同級生が大学に進学している中、挫折と恥と孤立感を味わっていた。そんな中、バートン家のひとり息子ハリーがアシュラーフ家にやってきた。この頃、隣国アフガーニスターンにはソヴィエトが侵攻し、地元民はジハードを戦っていた。パーキスターンにいるアメリカ人は大抵が諜報に携わっているCIAの者で、ハリーもそのうちの一人だったがアシュラーフ家はそうと気づかずハリーを受け入れた。ハリーは、ラザーに試験のアドバイスをする。またアメリカ留学の後押しをしてあげることを約束する。隣家の娘サルマーとも恋仲にあり、ラザーは元気を取り戻す。ところがサルマーが突然、ラザーとは結婚する気がないと突き放す。サルマーは母親が被爆者だからという理由でラザーを奇形呼ばわりする。彼はパーキスターンではやっていけないことを悟り、人種のるつぼアメリカへの夢をますます膨らませた。すると、ハリーがアメリカ留学支援なんか約束した覚えがないと言い放った。ラザーはショックを受ける。サッジャドはハリーの傲慢な態度に怒り、ハリーを家から追い出す。
ラザーはその少し前、アフガーン人のトラック運転手アブドゥッラーに会っていた。小さい頃、スクールバスの運転手からパシュトー語を習っていたラザーは、自分がアフガーニスターン人のハザーラ族であるととっさに嘘をついた。ラザーはその時のアブドゥッラーを突然思い出し、アフガーン難民が住む地区ソホラーブ・ゴートに通うようになる。ラザーは「父親をソビエトに殺され、復讐を誓ったハザーラ」「英語を喋れて、アメリカ人の知り合いもいてパシュトーが喋れるハザーラ」として、難民キャンプで大変な人気者となった。ラザーは2通りの人生を生きるようになるが、イスラーミヤートの試験に合格したのでキャンプ通いから足を洗うことを考える。
ある日アブドゥッラーは、ムジャーヒディーンになるためのトレーニングキャンプに一緒に行こうと誘ってくる。アブドゥッラーとの友情を育んでしまったラザーは、引くに引けなくなり、置手紙をして家を出ることになった。彼らはアフガーニスターン国境の山の奥にあるトレーニング・キャンプに連れていかれた。そこでは想像を絶するような過酷な環境が待っていた。ラザーは戦争が何たるものかを初めて目の当たりにし、平和な自宅に戻りたいと願った。都会育ちのラザーは、キャンプに到着するなり、暑さのため気を失ってしまった。
一方、ヒロコとサッジャドは置手紙を見てパニック状態になっていた。隣家の娘が「ラザーはアブドゥッラーという男と、アフガーニスターン国境のミリタリー・キャンプに行った」と言うので、夫婦は息子のことが気が気でならなかった。サッジャドは石鹸工場の仕事を休み、終日アフガーン人アブドゥッラーの手がかりを求めて歩いた。
ラザーはトレーニング・キャンプのキャプテンに呼び出されていた。ラザーは正直に、自分がハザーラ族などではなく日本人とパーキスターン人とのハーフであることを話した。キャプテンは、ハリーがCIAであることを既に知っていた。そこでラザーもCIAのスパイではないかと疑っていたが、彼の軟弱さを見て勘違いであったことを悟り、ラザーをカラーチーまで返してやることにする。アブドゥッラーはラザーの後を追いかけて来たが、キャプテンに追い返された。ラザーはアブドゥッラーの友情を裏切ったことを申し訳なく思いながら、ジープに乗った。
カラーチーでは、相変わらずヒロコとサッジャドが悲痛な捜索活動を続けていた。サッジャドはある日、ハリーが使っているオートリクシャーの運転手を見つける。運転手は折りしも武器輸送の交渉中であった。運転手はサッジャドを見ると、おもむろに拳銃を取り出し発砲した。
サッジャドは亡骸となってアシュラーフ家に帰ってきた。ラザーは父親の姿を見て愕然とし、一瞬はハリーを責めるが、父親の非業の死を招いたのは自分のせいだと考え、以来母親を避けるようになる。彼は従兄弟を頼りに、ドゥバイのホテルに出稼ぎに行く。
2001年、ヒロコは、カラーチーの家を売り、ニューヨークでイルゼと一緒に暮らしていた。2人の友情は未だ健在であった。また、ハリーの娘キムもアメリカで暮らしており、2人によくなついていた。
ハリーはCIAを辞めていたが、CIAに軍人を提供する民間会社に勤めていた。ハリーは、ドゥバイにいるラザーに連絡し、通訳として彼を引き抜く。本社はマイアミにあったが、彼らはたびたびアフガーニスターンの前線に出ては部族と交渉するような危険な仕事をしていた。イルゼとキムは、ハリーとラザーが再び戦争に従事しているということを知っていたが、ヒロコには内緒であった。ヒロコは彼らが安全保証会社で仕事をしているものと考えていた。
ラザーは、20年前にアブドゥッラーを裏切ったことを未だ後悔していた。そして彼がまだ生きているのか気にしていた。ある日、アブドゥッラーの兄から電話がかかってくる。アブドゥッラーはアメリカでタクシーの運転手をしていたが、FBIに取り調べを受けそうになり脱走したらしい。兄はラザーに、彼のカナダへの脱出を助けてくれるように依頼した。ラザーは無理と知りながら、まだ会ったことのないキムに、アブドゥッラーの国外脱出の助けをするように頼む。キムは違法行為を促す依頼に憤り、きっぱりと断って電話を切った。
ラザーとハリーは同僚と一緒にアフガーニスターンの山間にいた。その時、遠くの見張り台から誰かが銃を発射し、防弾チョッキを着ていなかったハリーは弾を受け絶命する。ラザーはハリーの葬儀に出席するため、アメリカに帰国したい旨を申し出る。ところが、CIAはラザーを開放してくれなかった。むしろCIAは、ラザーがハリーに恨みを持っており、アフガーニスターン人と電話連絡を取り合ってハリーを暗殺したのではないかと疑っていた。ラザーはアメリカに帰りたいと願い、その場から逃げ出す。だが、国境ではCIAから連絡を受けた警備がラザーを待ち構えているに違いなかった。ラザーはアブドゥッラーの通っていた聖者廟を手がかりに、アブドゥッラーの兄を探し出す。アブドゥッラーの兄の助けを借り、ラザーは芥子をカナダに輸出するルートで、カナダに渡る。
マンハッタンでは、ヒロコがアブドゥッラーを見つけだしていた。アブドゥッラーは図書館で平和な頃のアフガーニスターンの写真集を見ていた。ヒロコは彼と話し、彼のカナダ脱出の手助けをすることを決意する。77歳の日本人顔のパーキスターン・パスポートの人がレンタカーでアフガーニスターン人を匿って国境を越えるのは良くないと考えたキムは、自分がアブドゥッラーをカナダに連れていくことにする。越境自体は成功した。だが車中、話しているうちに父親が殺されたことが思い出され、キムはアブドゥッラーやイスラームの天国の概念に不快を覚える。2人は、終着点のファーストフード店に辿りついた。ここで誰か別の者が、アブドゥッラーを連れていくことになっていた。義務を果たしたキムは、多くを語らずアブドゥッラーと別れた。
店で待っていたのは、アブドゥッラーの再会を心から望んでいたラザーであった。2人はお互いの20年前の過ちを詫び、友情を再確認した。その時、ラザーはキムらしい風貌の女性が、店内を指差しながら警察を連れてきたのを目撃する。ラザーは、アブドゥッラーを店の裏口から逃がし、彼がそれまで着ていたジャケットを羽織り、店内でアッラーの名を叫んだ。こうする事によって自分が警察に捕まり、アブドゥッラーが逃げる時間をかせいだのであった。キムとラザーはここで初めて顔を合わせた。キムは、手錠をかけられた男が、ラザーであることに気づき、自分が通報した男ではないことを警察に言おうとするが、ラザーの表情を読み、なすがままにしたのであった。
キムはマンハッタンに帰宅し、ヒロコに会った。ヒロコは、アブドゥッラーからの電話で、ラザーがカナダに来ていること、キムのせいで警察に捕まったことを既に知っていた。ヒロコはキムがなぜ警察に通報したのか激しく追及する。キムは、仕方なしにカナダの警察へ電話をかけた。キムは、ラザーが無罪であること、不法滞在のアフガーン人の身代わりに捕まったのだということを話した。だが、カナダの警察はキムに「お嬢さん、やりましたよ。あの男は殺人容疑で、アメリカから指名手配されている男でしたよ。あなたのお父さんはきっと鼻が高いことと思いますよ」と言われたのであった。
(あらすじ終わり)

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初夏デリー

不思議なものだ。1月上旬は摂氏9〜11度と非常に寒かったのだが、その後半月もしないうちに、気温がグングンと上がってしまった。
1月は、暖房設備に投資をしない会社やホテルに対して「信じられん」と、怒っていたが、今になってみると、「あんなにも冬が短いのだから、投資する気が起こらないのも無理はないな」と、思えてくる。特に今日はカラリと晴れ、良い天気だった。
確か去年の夏、日差しを避けるため、外出時は月光仮面のような格好をしていた。その時「冬が着たら、オシャレな格好をしよう」と心に誓ったものだった。だが、いざ冬が来たら寒すぎてオシャレどころではなくなった。恥ずかしさを棄て、エスキモーのようなジャンパーを着込み、モンキー・トーピーを被って防寒していた。「冬が終わったら、外出時にオシャレをしよう」と思いながら・・・。そして、念願どおり冬が終わったのだが、今度はもう紫外線が強くてオシャレどころではない!冬と夏の間の季節が短すぎるのがいけないんだ、、、
さて、木々の緑が濃くなり、絶好の行楽日和の今日、月光仮面に変身し、ホォズ・ハース(これでインディア表記だとハウズ・カース)ヴィレッジに行って来た。
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この貯水池に面したビルにあるのが、南インド料理レストランのGun Powder。以前に来た時はまだ冬で、外に開けている席がたまらなく寒かったが、今は吹き込む風が心地よい。(人気の店なので、池に面した席は予約しないと座れないことも。)
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この店はケーララ料理も出している南インドレストランだ。アッパムや、アヴィヤルが食べられる。ミールスはないが、魚カレーが充実しており、クールグ名物のパンディ(豚肉料理)もある。
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今日はエッグ・アッパムを食してみた。独特の甘い香りに癒される。
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甘酸っぱいカボチャのグレービー。カレーリーフ、チリとマスタードシードのリッチな香り付けがされている。
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魚カレー。
どれも、やはり絶品。デリーの南インド料理屋は大体が「南では、こんなの誰も食べないよ」的レベルのものを出しているが、そういう印象を全く受けないのがGun Powderだ。注文を受けてから、料理長が自ら調理しているのか、出てくるまでに多少時間がかかる。その分、フレッシュで、本場の味が味わえる。スパイスの香りが活きており、舌を喜ばせてくれる。料理長、バンザイ!
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遺跡も覗いて、お散歩終了。この行楽日和が、いつまでも続けばいいのに。暑くなるの、嫌だなぁ。

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アーグラのペーター

帰宅したら、テーブルの上にミターイーの箱が置いてあった。アルカカット氏がアーグラのお友達アーシーシュ君から貰ってきたらしい。
曰く、以前アーグラにツーリングに行った時に、メンバーのうちの1人がトラックとの接触事故を起こしたそうだ。その時に、たまたま道端に居合わせた若い男の子がアーシーシュ君だったらしい。
彼はアーグラ在住だが、デリーにあるJNUに進学したがっている。先週、願書を出しにデリーに来ていて、その時にお土産として、このお菓子をくれたそうだ。
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ペーターは、瓜系の実から作るアーグラ名産のお菓子のようだ。氷砂糖のような見た目をしているが、そこまで固くない。表面はドライだが、噛むと中からジューッと甘い汁が出てくる。サフランの良い香りがするのだが、結構塩味も効いており、私の口には合わなかった。
翌朝、タミルのハウスキーピング・レディが我が家に来た時に、お菓子の箱を横目で見て
「甘いものは、たくさん食べちゃ駄目よ。」
と言ってきた。お腹に赤ちゃんがいる時にミターイーを沢山食べると、体の弱い赤ちゃんが生まれ、病気で悩むことになるのだとか。
「悪く思わないでね。でも、私も4人の母やっているのよ」
と締めくくり、彼女は去っていった。
これを口実に、ペーターは皆、アルカカットさんに食べてもらおうと思う。

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ディッリー・ハートでの日曜

各州の民芸品を取り扱っているディッリー・ハートで今週末、アマン・キ・アーシャーのイベントの一環として『インド・パーク料理フェスティバル』が行われた。
アマン・キ・アーシャー(平和への願い)は、インドのタイムズオブインディア紙、パーキスターンのThe News紙、Daily Jang紙、GEO TVが呼びかけている印パ友好キャンペーンだ。タイムズオブインディア紙は、毎日1ページを裂いて印パ友好に関する記事を掲載している。また、パーキスターンからアーティスト、詩人を呼んだりして様々なイベントを開催している。今日はパーキスターン料理が出されるというのでデッィリー・ハートに足を運んでみた。
行ってみて、「なんだ!」 パーキスターン側として料理を出していたのは、ノイダに店を構えているファイサル・カバーブ・ラウンジの人達だった。ファイサル・カバーブ・ラウンジは、パーキスターンに行ってレシピを研究し戻ってきたインド人が経営しているレストラン。それなりに美味しいが、実際にパーキスターンの味を出してくれているのかは多くの人にとって謎である。今回のイベントではパーキスターンから多数のコックさんが来ていると期待していただけに、ファイサル・カバーブ・ラウンジの人達を見て多少がっかりさせられた。
先日の国際ブックフェアでも、出店が予定されていたのに、ビザが下りずにインドに来れなかったパーキスターンの本屋が多数あったらしい。IPLのパーキスターン人クリケット選手にさえも、ビザが下りないかもしれないという噂がある。だから、今回もパーキスターンからコックさんを呼ぶのが非常に難しかったのかもしれない。アマン・キ・アーシャーイベントなのに残念である。
それでも、インド人のお客さんはファイサル・カバーブ・ラウンジのことを知っているのか知らないのか、大挙してパーキスターン料理のテントに群がっていた。今回売られていたのは、スィーフ・カバーブ、チキン・マラーイー・ボーティー・カバーブ、バン(パン)・カバーブ、チキン・コールマ、ビルヤーニーにスージー・カ・ハルワーだった。
客をざっと見た限り、年配者が多い印象だった。我が家の大家は「脂っこいもの、肉料理とかは消化できないんだ」と言っているが、今日見た年配の方々は、果敢にノン・ヴェジにかぶりついていた。ひょっとして現パーキスターンにルーツを持ち、分離独立でデリーにやってきた人が、故郷の片鱗を求めて一生懸命食べていたのかもしれない。デリーには、自分のルーツとしてパーキスターンへの憧れを胸に秘めている人が幾人もいるのだ。
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このようなイベントがなくても、ディッリー・ハートは万年メーラー(お祭り)のような場所である。今日も米粒に名前を書く人、ボディ・ペインティングしてくれる人、似顔絵やメヘンディーを描いてくれる人が路肩に座っていた。売り物の弦楽器を鳴らしている人もいれば、ヘビ使いがヘビなしで演奏していた。
各州から来ている民芸品店は、15日おきに入れ替わっているらしい。置いてあるものは基本的に変わらないのだが、たまに珍しいものを見つけると嬉しくなる。
今回、目にとまったのはUP州のスパイス入れ。陶器のひきだしが、木の枠に収まっている。さまざまな形や模様があり、いくつか台所に並べても可愛いかもしれない。3段になったものを買ったら400ルピーだった。
また、カルナータカ州のグラーミヤーというNGOが売っているバナナの繊維製品にも惹かれた。バナナといっても、バナナの匂いは全くしないが、アイデアがユニークで良い。チットラドゥルガー近郊の村に住む女性達が作っているらしい。グラーミヤーのオフィスはバンガロールのラージャージー・ナガルにあり、製品は、Desiにも置かれているらしい。
本日はバレンタインズ・デーとあり、明らかに普段よりオシャレをした男女がバラの花を持ってディッリー・ハートでのデートを楽しんでいた。いつでもメーラー気分になれるディッリー・ハート、何度行っても楽しいと思う。
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