サウス・パーク・ストリート墓地 3

動物愛護家の『先駆者』だろうか? 
あくまでもこの墓地に埋葬されているのはイギリス植民地当局の中でもかなり上のほうの人々ということになろう。それ以下のクラスの人々つまり鉄道建設時代にイギリスから多数渡ってきた技師や機関士といった技術職の人々、比較的小さな商売を営んでいた民間人たちなどは含まれていないようだ。
往時の時代をリードしていた人々の名前や業績は歴史の中に刻まれて後世の人々にも伝えられるものだが、そうした人々のプライベートな生活となるとなかなかそうはいかない。どういう家庭生活があったのか、親子関係はどうだったのか、子供の教育問題はどうしていたのか、貯蓄は、引越しは・・・・となるとトンとわからないものである。欧州人たちが長い旅行や調査に出かけるなど特別な機会に記した旅行記、歴史的な大事件例えば大反乱のときに書かれた個人的な記録といったものは今でも出版されているが、ごく平凡な日常を綴った個人的な日記というのはまず耳にしない。往時は何の変哲もない日々であっても、時代がまったく変わった今にあっては、当時の世相を知るための大変貴重な資料であろう。

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サウス・パーク・ストリート墓地 2

サウス・パーク・ストリート墓地
 
埋葬されているのは往時には権勢と栄華を誇った人々やその家族などが多いが、今やそれら大半の名前を知る人は歴史家くらいとなった。この世に存在しない以上、今の人々に影響を与えることもない。同時代に生きた人たちも今の世の中には存在せず、忘却の彼方へと消え去った人々がかつてこのコルカタに暮らしていた証、それがここに散在する墓石なのである。まさに『つわものたちが夢のあと』といった具合である。
彼らが生きたカルカッタとはどういう街だったのだろう。その当時の世相は、街中に住む民族構成はどうだったのか。やはり当時からヒンディーベルトから出てきた人たちがとても多かったのか、北東インドのモンゴロイド系の人々もけっこういたのか、カルカッタ市内でもイギリス人地区以外では今もベンガル農村に普遍的に存在する茅葺屋根の家屋が立ち並んでいたのか、欧州人が居住する地域で地元民の流入はどうやって抑えられていたのか。最盛期のチャイナタウンはどれくらいにぎわっていたのか、今や多くがボロボロのコロニアル建築は当時定期的にメンテナンスされてきれいだったのか等々と当時の市内の様子について他愛もないことをいろいろ想像してしまう。

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サウス・パーク・ストリート墓地 1

サウス・パーク・ストリート墓地
サウス・パーク・ストリート墓地に出かけてみた。墓地が設立されたのは1767年。そのころごく付近のフリー・スクール・ストリート(現ミルザー・ガーリブ・ストリート)界隈はまだ竹林でトラが出没することもあったという。カルカッタの街の草創期、ここは周囲を湿地帯に囲まれており、墓地の前の通りがパーク・ストリートと名付けられる前にはベリアル・グラウンド・ロードという陰気な名前で呼ばれていたそうだ。
この墓地ではイギリス統治下のカルカッタに生きたイギリス人たち(一部アルメニア人やアングロインディアンたちも埋葬されている)がここに眠っている。今もパーク・ストリートとチョウリンギー・ストリートの交差点近くに存在し、東洋研究の拠点として開かれたアジアティック・ソサエティ(創立当時はロイヤル・アジアティック・ソサエティ・オブ・ベンガルl) の創設者ウィリアム・ジョーンズ(1746〜 1794))やインド狂のイギリス軍人チャールズ・スチュワート少将(1758 ? 〜1828)などがこの墓地に葬られていることは良く知られているところだ。

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今年は中印観光友好年

india & china
2007年は日印交流年であるとともに『中印観光友好年』でもある。
このほどビハール州のナーランダーで玄奘三蔵記念堂が落成した。この記念堂建設事業には驚いたことに約半世紀もの年月がかかっている。1950年代に両国間で合意し建設が始まったものの中印紛争が勃発、そして長らく続いた両国の敵対関係のため工事は長らく中断。両国の関係改善にともない2000年になってから工事が再開され、両国の関係機関等の協力のもとで建設が進み、ようやく2007年2月になって落成式を行なうことができたのだ。
両国間での各界の要人たちの様々な目的による頻繁な往来、国防面での交流と協調の促進も提言されているが、経済・商業面での結びつきの強化に向けてはインド側もかなり力を入れているようで、『メイド・イン・インディア・ショー』や『インド・ファッション・ショー』といったプログラムの開催が予定されている。
そして交流年としての看板である『観光』自体については、インドや中国から海外旅行を楽しむ人々が増えてきたとはいっても、それぞれの国の人口の大多数である庶民は両国間を観光で行き来できるような恵まれた環境にはないため、文化使節として京劇、ボリウッドダンサーたちの往訪、文化展、スポーツ大会、ブックフェアにフードフェスティバルの開催といった交流事業が中心を占める。
予定されている様々な活動のひとつに先述の玄奘三蔵記念堂の落成も含まれているが、中国側にインドによるモニュメント建設計画もあり、河南省洛阳市に『インド式仏教寺』が建つ(すでに完成しているのかもしれない)のだそうだ。
また中国政府は今後5年で500人の若者をインドから受け入れることを決定している。どのような目的でどれくらいの期間招致するのかよくわからないのだが、インドの将来を担う有望な若者たちの中に親中派の芽を植え付けようというのが目的であろう。
長い国境を接している割には、地理的・政治的な障害に遮られて国民同士による直接の行き来は希薄だった両国。関係改善と政府が音頭を取っての交流促進のムードの中、折りしも経済グローバル化と飛行機による大量輸送の時代ということもあり、インド・中国間の人やモノの行き来は両国間の歴史始まって以来の急速な進展を見ることだろう。中国におけるインド企業やインド人たちのプレゼンスの台頭以上に、インドを中心とする南アジア地域に企業家精神に富む『新華僑』たちが次々に進出してくる様子が頭に浮かぶ。
これまでインド在住の中華系住民のイメージを代表してきたのはコルカタ華人たちだが、今後新たに大陸から進出してくる人々にお株を奪われてしまう日はそう遠くないように思われる。
「中国インド観光友好年」開幕 (人民網日本語版)

再びコールカーター中華朝市へ 3 華語新聞

印度商報 インドで唯一無二の中文紙 
父親が中文の新聞編集にかかわっていたため、中華食材屋を営むCさんは、学生のころからペンネームでちょくちょく記事を書いていたという。日々の生活のこと、在印華人たちのこと、そして詩などを掲載していたということだ。そうした古い新聞をいくつか見せてくれた。活字が擦り切れていたり、該当する活字がない部分は黒い四角、つまり『■』で印刷されている。『前後の文脈からそこにどういう字が来るのか想像できるかどうか、語学力が問われるところなのよ』とCさんは笑う。その部分は自筆で正しい文字をボールペンで書き入れてあった。華人が減り読者が少なくなると経営が立ち行かなくなり、この新聞はすでには廃刊となっている。
もうひとつの中文新聞、『印度商報』はインドに現存する唯一の中国語による新聞である。数年前まで手書きであったという紙面を見せてもらったが昔々の日本のガリ版刷りみたいな感じだ。旧正月の号は印刷すべてが赤字で刷られており、中国らしい雰囲気を醸し出している。現在はほとんどが活字になっているものの、ところどころ手書きの部分が残り非常に素朴な印象のわずか4ページから成る新聞だ。
紙面からはカルカッタ華人たちが中文紙にどんな記事内容が記載されることを期待しているかが見て取れるようである。これはタイやマレーシアなどの中文で書かれたメディアが、それぞれの地元で何が起きているかを伝えているのとは性格を大きく異にしているのだ。インド全般のニュースはおろか発行元のコルカタのローカルニュースさえもほとんど掲載されておらず、大半は中国の『人民網』や台湾の『聯合報』といったインターネットのニュースサイトから引っ張ってきた中国・台湾記事である。
地元記事はわざわざ中文で書かなくても英字紙その他に沢山の情報が溢れているため、むしろインドのメディアが取り上げず、どうしても縁遠くなってしまう祖国の出来事を知るためのミニコミ紙というところに存在意義があるようだ。もっともインドにおけるさまざまな一般名詞・固有名詞等を漢字に置き換える作業も大変そうだ。華人人口が大きくないこともあり、よほどメジャーな地名・人名等でないと漢字での表記が定まっていないのではないだろうか。
定価は一部2ルピー半。しかしこの新聞は宅配のみで路上等での販売はないようだ。ただ海外に移住したカルカッタ華人の間での需要もあるため、一週間分ずつまとめて航空便で外国にも届けられているという。
Cさんのところで今回もいろいろと興味深い話を聞かせてもらった。丁重に礼を言って店を後にした。界隈ではいくつかの中国寺院や同郷会館などが目に付く。『××醤園』『××金舗』と書かれた大きな店もあった。どちらも醤油の卸売店だ。まだ9時前ではあったがこれらはすでに営業を開始している。プラスチックのジェリ缶に詰めた醤油が店の前にいくつも置かれており、使用人たちがトラックに積み込んでいる。額に汗して働く人たちは目に付くかぎりすべてインド人であった。
次第に人通りが多くなってくるにつれて、朝市ではポツポツと見かけた華人たちの姿がインド人の大海に呑み込まれて、ついにほとんど目に付かなくなってしまう。漢字の看板や華人たちの住居らしきものが散在していながらも、界隈を行き来する彼らの姿を滅多に見かけない。非常に中国色が希薄な『チャイナタウン』である。
めでたい新年(旧正月)は朱刷りでお祝い気分を演出