インドのポピュラーな観光地を取り上げる旅行雑誌は多いが、今月下旬発売の季刊旅行人ではインドの民俗画の特集が組まれるそうだ。
ワールリー族やサンタル族の絵とともに、日本全国で出張展示会を繰り広げるミティラー美術館でもおなじみのミティラー画も紹介されるとのことだ。
今年の雨季、ビハール州は洪水に悩まされミティラー地方周辺でも相当な被害が出た。現地取材はちょうどそのあたりの時期に重なったようだがどんな感じだったのだろうか?
ミティラー地方は現在のインドのビハール州北部とネパール南部の平原部にまたがっており、ここの民俗画は地域の中心地の名前をとってマドゥバニー・ペインテイングとしても知られている。
マドウバニー市近郊のジトワールプル、ラーンティーといった村々には、国内外から買い付けに来る人たちも多いようだ。リクシャー引きの男に「村まで」と声をかければ、有名な描き手の名前を早口でまくしたて「あんた、誰のところに用事だ?」とアゴをしゃくることだろう。
来日したときに会ったことのあるお婆さん画家はあいにく『外遊中』のため留守であったが、国外でも名前を知られる描き手の家は村内にある他の家屋に比べてずいぶん立派なものだった。田舎の村とはいえ著名なミティラーペインティング製作者たちの間では海外渡航経験のある人は少なくないようで、彼女の家の近所でそうした幾人かと出会った。
絵描きの人たちの家はアトリエ兼倉庫になっている。実際に描かれていく様子を目の当たりにできるし、画家本人とおしゃべりに興じながら気に入った絵柄のものをいくつも広げて「どれにしようか」と品定めしていると、あっという間に時間が過ぎていく。
本来は新婚家庭や年中行事の折に主婦たちによって家庭で描かれてきたものだが、今ではこうした習慣が衰退気味であるともいう。やはりそれも時代の流れかと思えば、「布や紙に描けばお金になるじゃないか」という単純明快な答えが返ってきた。
家庭の中での信仰とともに描かれてきた神々(題材は神ばかりではないが)が、人々に現金収入をもたらしてくれるようになったのだから実にありがたいものである。
インド・ネパールの素敵な民芸アイテムのひとつとしてすっかり定着したミティラー画は、それまで農作以外にこれといった産業のなかったミティラー地方で、いまや「基幹産業」のひとつみたいなものかもしれない。そのため従来は女性の縄張りであったこの仕事に進出してくる男性も増えてきているという。
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「インド子連れ旅」に思うこと
もうじき三歳になる息子と妻と三人でインドを訪れた。出発前にはいろいろ不安もあったが、交通機関、宿泊、食事などそれなりに気を配れば大きな問題はないことがわかった。もちろん、幼児を連れて旅をすると、大人だけ旅とは異なり、いろいろ注意すべきことがあるのにも気がついた。
見るからに危険な外の往来はさておき、幼児にとっては、中級クラスのホテル内にも思わぬ危険が潜んでいる。
まず日本とは建築の基準が違う。階段の手すりの欄干の間隔が、子供がすり抜けられるくらい広い。階と階の間に転落防護ネットのような気の利いたものはない。ベランダの柵もやけに低いことがあるから気を抜けない。
また、小さな子どもはたいがい寝相が悪いもの。室内の床がコンクリートや大理石板であれば、就寝中に転落して頭を打つことがないよう気をつけなくてはならない。
食事については、特に辛いものでなければ大丈夫だった。ただ、最初はおとなしくしていたものの数日経って雰囲気に慣れてくると、料理に飽きてきたのか駄々をこねるようになって閉口した。こんな時は、高級ホテルでなくとも利用できるルームサービスに助けられた。
毎日の昼寝も欠かせない。日本であれば、外出時に幼児用バギーに座らせておけば済むが、インドでは都市といえども、路肩は未舗装だったり、歩道があっても段差が大きく、凸凹だったりするためまず使えない。そのため外出先で寝てしまうと目が覚めるまでずっと抱っこするはめになる。
だがインドでは徒歩やバスではなく、オートやタクシーで移動できるので、ほとんど歩かなくて済むという点は救いだった。
AIR DECCANで飛ぼう!
バンガロール・シティ駅からプリペイドのオートリクシャーに乗った。チケットには「エア・デカン」の広告が掲載されており、裏返してみるとルートごとの料金が掲載されていた。
「エア・デカン」はバンガロールを中心に展開する格安航空会社。まだ新しくて小さな会社ゆえ、飛行ルートは限られているものの、料金は他社フライトよりも格安、ほぼ半額から六割程度。鉄道のエアコン一等クラスと比較しても、充分競合できるリーズナブルな運賃である。
ほんとにそんなに安く飛べるのか…?と同社のウェブサイトにアクセスしてみると、「INTERNET FARES Starting from Rs.500 (+Rs.200 PSF)」という刺激的な見出しとともに、各フライトの驚くべき低価格運賃が並べられていて、思わず目を疑った。
MUMBAI→AHMEDABAD/VADODARA/BHAVNAGAR/KOLHAPUR
……Rs.700
BANGALORE→GOA/COIMBATORE/HUBLI/MANGALORE/HYDERABAD/BELGAUM
……Rs.700
GOA→MUMBAI/BANGALORE
……Rs.700
CHENNAI→BANGALORE/COIMBATORE/MADURAI/HYDERABAD
……Rs. 700
HYDERABAD→TIRUPATI/VIJAYWADA/VIZAG
……Rs. 700
BELGAUM→HUBLI/KOLHAPUR→BELGAUM
……Rs. 960
KATRA→VAISHNODEVI
……Rs. 2000
これは本当に飛行機の料金か!?と目をこすったが、よく見ると事前予約が早ければ早いほど「早割」が効いて安くなり、その最低料金が上記にある「MumbaiーAhmedabad Rs.700」となるとのこと。
遠きに想い ポルトガル 3
ラテンアメリカには、地元の個性を保ちながら旧宗主国の欧州文化を色濃く残している地域があるが、ゴアは中南米の国ぐにとは全く事情が異なる。
中南米の独立のキモは、宗主国から渡ってきた植民者たちが本国の干渉を嫌い、完全な自治を勝ち取ることにあった。移民が多い国(アルゼンチン、チリ等)、土着インディヘナや混血人が多い国(ペルー、ボリヴィア等)もあるが、支配的な地位にあるのはやはりスペイン系民族だ。これらの背景には、彼らの父祖の国からもちこまれた文化の強さがある。
ポルトガル植民地初期にえた地域「Old
Conquest」はともかく、時代が下ってから獲得した「New
Conquest」ではヒンドゥーから改宗しない者も多かった。土着信仰と混ざり合いながら、カトリックが浸透した中南米インディヘナ社会とは、民族アイデンティティと旧宗主国文化のつながりの深さが違う。
植民地時代、ゴア政府で働いていた役人たちは、本人が希望さえすればモザンビークなどのポルトガル領や、本国での職を約束されたという。(もちろん、政府職員といっても上から下まで様ざま、どのあたりの層までこの恩恵を受けることができたのかまでは知らない。)
ゴア返還時、ポルトガル本国から渡ってきた人びとがどのくらい暮らしていたのだろうか。たまたま転勤で短期間滞在することになった者、事業を起こして根を下ろした者、幾世代にもわたって暮らし続けたポルトガル人家族もいたことだろう。ポルトガル化したゴア人エリート層、ゴア化したポルトガル人たち…。いつか機会があれば調べてみたい。
遠きに想い ポルトガル 2
ゴアに起こったのは世代交代だけではない。ゴアの人びとが州外へ、州外の人びとがゴアへ。外国領からインド領に編入され、それまで両者を隔てていた国籍、市民権といった障壁が取り除かれる。相互に人びとが流出・流入する度合いは、ポルトガル時代に較べてとんでもなく多くなったことだろう。
それまでの行政の中心はリスボンだったが、復帰後はニューデリーとなった。97年に中国に返還された香港。「一国二制度」などという妙なことを言っていたが、ゴアを見ていると、どのようなプロセスで統合されていくのかわかる。もちろん中国の場合、本土から香港への移民は現在のところ厳しくコントロールされているとはいえ、同じ「中央」から支配される以上、時間の経過とともにやがては同化されてしまうものであろう。
ゴアは復帰当初、同じくポルトガル領であったダマン&ディーウとともに中央政府の直轄地として本土に組み込まれたが、1987年のゴア州成立へと至る以前にはマハーラーシュトラ州と合併させようという動きもあった。
ゴア州政府を構えるようになっても、結局は中央政府の下での行政、ゴア人ひいてはカトリック勢力がすべて自力更生でやっていくということにはなり得なかった。