ダマンへ 4

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ユニオンテリトリーであるがゆえに、公の施設等ではヒンディーと英語による併記が大半。民間の商店等ではグジャラーティーといった具合である。街の中心部でポルトガル風の建物にヒンドゥー寺院が入っているものは、ポルトガルが去った後に転用されたものではないかと思う。地元の信仰については寛容であったイギリスによる統治と違い、ポルトガル領ではカトリック以外の宗教活動はかなり制限されていたはずである。
ダマン・ガンガー対岸のモーティー・ダマンに向かう。こちら側ナーニー・ダマンからは、『パブリック』と称される乗り合いオートがある。「グラウンドのところで降ろして」と言っておけば、モーティー・ダマンの城壁南側に着く。ここから徒歩でゲートをくぐれば、ちょうどラテンアメリカの都市で『セントロ』と呼ばれるような街のヘソに出る。きれいに整備された公園の周りに大きな教会やダマンの中央郵便局がある。厳しい建物の刑務所もあった。
Church of Bom Jesus
ポルトガル語による賛美歌
かつてここは、ダマンを支配した権力の中心地であったことから、見事な植民地建築が数多く残されている。もともとよく整備された街区であったことも、たたずまいからよくわかる。往時には支配層の人々もこのあたりに居を構えていたようだ。本土復帰後、城壁内の地域の多くは、統治を継承したインド政府の所有ないしは政府カトリックの教団の敷地である。そのため土地が切り売りされたり、建物が細分化されて間借人たちに貸し出されたりすることも稀であったらしい。昼間でも広々とした通りもとても静かで、人通りもごくまばらだ。やや誇張して言えば、街並みだけを残してゴーストタウン化してしまったかのようでもある。
巨大なバニヤンの気根のトンネル
400年もの長きに渡ってポルトガルの街として栄えた『Damão』の濃い面影というよりも、1961年12月、ポルトガルによる支配が終焉を迎えて以来、時計の針の歩みが止まってしまったかのようである。
このゲートから出るとダマン・ガンガー対岸はナーニー・ダマン
〈続く〉

ダマンへ 3

カトリックの祠
朝食を済ませてから、ナーニー・ダマンを散策する。宿泊先のホテルのすぐそばにはメルカード(マーケット)がある。1879年に開設されたこの屋根付き市場は、もともと野菜や生鮮食品等を販売させるためにできたものだというが、1937年に改装・拡張されるとともに、衣類や雑貨といった食品以外のものを商う業者のみが店を開くようになり、現在に至っているという。建物のすぐ脇の横丁の道路では、食料品を扱う行商人たちがお客たちを相手にしている。
メルカードの名前と開設年
ダマンの訪問客の大半はグジャラート州あるいはマハーラーシュトラ州から来ているようだ。『BAR』と看板が出ていても、レストランや安食堂を兼ねているところも多い。ゆったりと朝食を摂っているお客もあれば、他のテーブルでは勢い良くビールを空けている者もある変な空間だ。もちろんそうした人たちは地元の人たちではなく、他州から来た観光客であることは言うまでもない。
城砦の入口
ダマン・ガンガーの大きな流れはすぐ目の前で河口となり、アラビア海に注いでいる。この眺めに面したところに城砦の門がある。砦には敷地をぐるりと囲む巨大で分厚い壁以外は特に何もないが、中にある教会には今でも人々が集っているし、墓地にも最近埋葬されたことを示す墓碑がある。
古い墓碑はポルトガル語で記されている。
いくつも並んでいる墓を眺めると、ポルトガルの治世が1961年に終わってからも、ある時期までは墓標がポルトガル語で書かれていることに気がつく。1980年代くらいから、ようやく英語で書かれるようになったようだ。
このあたりで、各家庭で主導権を握る世代、ひいては社会の中核を担う世代の交代が始まったことを示すのではないだろうか。つまりポルトガル語世代から英語世代への転換である。1961年時点で18歳前後の年齢層がポルトガル語で教育を受けた最終世代といえるだろうか。
ポルトガル語から英語への切り替えには多少の移行期間があったとしても、インド復帰時に10代前半くらいであった人たち以降には、教育の場でポルトガル語が教えられることはなく、英語に切り替わっているはずだ。1980年代初めに30代、後半には40代の年齢に達する。そのころのインドでは、引退する年齢は概ね今よりも早い。
今のところ、ゴアと同じく年配者で、ある程度以上の教育を受けた人ならば、まだポルトガル語を理解するというが、学校を出てからも社会生活の中でポルトガル語を日常的に使用する、あるいは理解できることを前提とした暮らしを送ってきた世代はともかく、ポルトガル時代の末期、つまり学校教育の中でポルトガル語を習得している最中であった世代、あるいはこれから社会に飛び立とうというところで、インドとの併合、つまり英語時代を迎えてしまった年代においては、それ以前の世代と比較してこの言語の運用力に相当の差があるはずであろう。
ゴアでもダマンでも『年配者はポルトガル語を理解する』ということをよく耳にする。都市部などで、同じ地域に暮らしているインド人同士で、ヒンディーないしは地元の言葉という共通言語があるにもかかわらず、英語で会話をする様子がごく一般的であるように、旧ポルトガル領であった地域で、特に一定以上の層では家庭内でもごく普通にポルトガル語が使用されていたということだ。インド復帰後も、一定の年齢以上のそうした人々の間で、地元の言語グジャラーティー以外にポルトガル語が使われるシーンは少なくないという。
ゴアでは、今でもポルトガル語によるミサが行われている教会があるし、ダマンにおいてもポルトガル語による讃美歌が歌われていたりするため、今も社会生活上でのポルトガル語はなんとか生き延びていると言えるのだろう。
しかしポルトガル領であった地域がインドに復帰してから50年にもなろうとする今、ポルトガル時代を、その世相や統治のありかたなどを包括的によく理解している最後の世代を『インド復帰時に18歳』と仮定するならば、現在67歳という高齢の人々、ごく例外的なケースを除き、ほぼ間違いなく社会の第一線から退いて隠居生活を送り、であることは言うまでもない。つまり旧ポルトガル領では、ポルトガル語が、いわゆる『危機言語』的な状況にあることになる。
1497年のヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに上陸してから、とりわけ1510年のゴア征服以降、インドはポルトガルのアジアにおける最も重要な拠点となり、時代によっては必要に応じ、アジア域内の領土を包括する副王(初代はフランシスコ・デ・アルメイダ)が派遣されていたこともあり、一時はポルトガル議会をゴアで開催しようという提案さえあったほどだ。当然のことながら、宗教面でも重要な拠点となり、1534年には、ゴアにカトリックの全アジアを管轄する中心となる大司教座が設置されている。
インドにおける欧州植民地勢力としては最も歴史が深く、人々の信仰や生活慣習面では極力干渉を避けていたイギリスとは異なり、宗教的に非寛容であったポルトガル支配下において、植民地化の地元社会に対する宗主国の影響力は数段大きかったようである。
国際的な英語の語彙中には、khaki、bungalow等々、インド起源の言葉は少なくないが、インド統治時代の歴史的な語彙にnabob、boxwallah等々、様々なコトバがある。また現在インドで使用されている英語の中にも、当然のことながら現地での言葉からの借用語は少なくない。bandh、hartalといったスト行動を示すもの、lakh、coreといった数詞などはその代表的なものである。
詩人ボカージェ(Manuel Maria Barbosa du Bocage)は、軍人として派遣されてダマンに暮らしていたことで知られているが、地元でもポルトガル語による文芸やジャーナリズムといった活動があったことから、旧ポルトガル領地域においても地元の語彙を豊富に吸収した豊かな表現や言い回し、ポルトガル領インドにおける当時の宗主国の言語による文芸活動などからくる知的な遺産もさぞかしあったのではないかと思う。
旧宗主国を同じくするブラジルで、独自のポルトガル語を発展させていったのと同じく、インドのゴアを中心とする旧ポルトガル領では、彼らならではのポルトガル語を育んでいたはずだ。しかし旧英領地域が主体であるインドへの『復帰』により、教育や社会生活に必要な習得すべき言語が英語に移行してしまったことにより、それまで磐石の重要なポジションを占めていたポルトガル語が、突如として遠い彼方の国で話されている『外国語』の地位に転落してしまう。
観光案内版では、今もポルトガル語が使用されていることがうたわれている。
今でも一部年配者たちの間で、細々と命を繋いでいるポルトガル語だが、前述のとおり、仮にインド復帰時18歳であった年齢層をポルトガル語最終世代とするならば、あと3年で70歳となる人々である。一般的に、社会的な影響力を及ぼす年齢ではなくなっているし、この国では平均寿命が63.7歳ということを思えば、あと10年も経てば、旧ポルトガル領地域で今でもポルトガル語を話す人がいるなどとは言わなくなっているだろうし、そこから更に10年後には、ほとんど遠い昔話となっていることだろう。
そのころには街の通りの名前からもポルトガル語が一掃されてしまっているのかもしれない。
通りの名前にはポルトガル語が残っている。Rua Dos Bramanesとは『バラモン通り』?
〈続く〉

ダマンへ 2

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ヴァーピー駅からオートで走っている最中、こちらグジャラート州側と連邦直轄地ダマンの境目はどのあたりかと思っていると、街並みがまばらになってきたあたりでゲートが見えた。
こちらからダマンに入る際には特に車両を停めてチェックしたりということはないが、あちらからグジャラートに入る際には、形式的ではあるが停車させられて警官が中を覗き込んだり、何か質問したりしているようであった。おそらく気が向いたら荷物を調べたりもするのだろう。
ヴァーピーのオートリクシャーは、ダマンまで直行することができるが、反対にダマンから来る際、ダマンを地元とするオートの場合は走行できるのは、このゲートの手前までで後はヴァーピーの車両に乗り換えなくてはならないようだ。ヴァーピーのオートはCNGエンジンが義務付けられているが、ダマンでは今もガソリンエンジンであることから、州境を越えて乗り入れることは許可されていないとのこと。
マハーラーシュトラ州境近くのダマン、そしてグジャラート州のサウラーシュトラ南端に位置するディーウと、地理的には離れていながらも、連邦直轄地のダマン&ディーウというひとつの行政区を構成しているため、今なお禁酒となっているグジャラート州から来ると、それまでグジャラーティー語の洪水であった街中の看板に、連邦の公用語であるヒンディー語で書かれたものが多く混じってくる。特に役所や公の機関などでは当然のごとく後者で書かれていることに加えて、境の向こうではご法度であった酒類を扱う店、つまり酒屋やバーが多いことなど、視覚的にずいぶん違うものがある。
グジャラートに住んでいても、境目あたりに家があったりすると、夕方ちょっと『向こう側』で一杯ひっかけてから帰宅する、なんて人もけっこうあるのではないかと思う。州境に住んでいると、自宅に持ち帰るのはリスクがあるかと思うが、実質のところ禁酒州外に暮らしているのとあまり変わらないかもしれない。中には持っている地所が両側にまたがっているなんていう幸運なケースもあるかもしれない。
これまで来た道を左に折れてまっすぐ進むと海原が見えてくる。ダマンの街はもうすぐそこだ。DD(ダマン&ディーウ)ナンバーではなく、GJ(グジャラート州)やMH(マハーラーシュトラ州)のナンバープレートを付けているクルマがとても多いが、酒屋の前に乗り付けて、店頭でウイスキー、ラムその他を品定めしていたりする姿が目に付く。彼らはダマンで宿泊しているのかもしれないが、週末などに、自家消費の目的でこっそり買い付けに来る人も少なくないのだろう。たぶん州境の検問で捕まった場合の出費はそれなりに覚悟のうえで。
そもそもゴアがそうであるように、ダマン&ディーウでも、インドの他の地域よりも酒類の種類は豊富で、値段もかなり安いので飲兵衛にはありがたい。とりわけ隣接する禁酒州グジャラートからやってくると、その魅力がどれほどのものであるかは想像に難くない。
そんなわけで、ディーウでもそうだが、ダマンでもバーや酒屋は朝から開いており、特に週末などは午前中からそれなりに繁盛していたりするようだ。だからといってダマン&ディーウの住民が、とりわけ酒飲みであるなどというわけではなく、消費の大半は地域外からやってきた人たちのものであることは間違いないだろう。
ダマンの街は、ダマン・ガンガーという河を境に、モーティー・ダマンとナーニー・ダマンに分かれている。これらはそれぞれバリー・ダマン、チョーティー・ダマンとも呼ばれている。
商業地区は密度の高いナーニー・ダマンであり、モーティー・ダマンは城壁に囲まれたエリアが主に行政地区で、ゆったりとした街区に政府関係の建物や大きな教会が点在しており、その外には住宅地が広がっている。
Hotel Marina
ナーニー・ダマンの飲み屋の多い地域にヘリテージなホテルがある。Hotel Marinaという何の変哲もない名前だが、建物自体にその価値がある。ここはダマンのガバナーの公邸であったものだ。1861年、つまりポルトガル支配終焉のちょうど100年前に完成した建物である。マンに現存する植民地期建築には、もっと規模の大きなものが沢山ある。そうと言われなければ『あ、ちょっと立派な感じの屋敷があるな』とそのまま通り過ぎてしまうかもしれない。
由緒ある建物で、きれいにメンテナンスされている割には、同ホテルのウェブサイトに示されている宿泊料金を見てわかるとおり、ヘリテージ・ホテルとしては格安だ。私が訪れた際には満室で泊まることができなかったが、エントランス、レストラン、ホテル内の廊下などにはやはり歴史の重みを感じさせるものがあり、他のもっと高いホテルよりも魅力的に感じる。
レセプションの背後に、いくつかのテーブルが並べてあり、ビールや食事を頼むことができる。開け放たれたドアのすぐ正面にはダマン警察本部があり、ヒマそうで緊張感はないが、それなりに関係者その他の出入りはある。
ボーイに『ビールもう一本!』と頼む私のすぐ目の前に立ち番の警官。目と鼻の先の禁酒州グジャラートでは非合法となっている酒の密輸にまつわる記事が、毎日新聞紙上に出ていることを思うと、ちょっとヘンな気がするものの、なんだかホッとする。
とにかくバーが多いダマンの街角
〈続く〉

ダマンへ 1

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グジャラート州最大の都市アーメダーバードから列車で6時間ほどのヴァーピー駅で降りた。ここが連邦直轄地ダマン&ディーウを構成するダマンへの最寄り駅である。1987年にゴアがひとつの州として分離する前までは、『ゴア、ダマン&ディーウ』というひとつの行政区分になっていた。
ゴアからダマンまで直線距離で600キロ、ダマンからディーウまでは同じく200キロと、かなり距離が離れた飛び地状態であるが、これらはご存知のとおり1961年12月19日にインドが敢行した『オペレーション・ヴィジャイ』という国土奪還の総攻撃を仕掛けるまで四世紀半に渡りポルトガル領であったがゆえのことである。この軍事作戦は、すでに弱体化していたとはいえ、わずか36時間で451年に及ぶ植民地支配を続けたポルトガル当局を、圧倒的な武力で屈服させた。独立後のインド軍事史に燦然と輝く金字塔といえるだろう。イギリスから自由を勝ち取ったインドは、植民地勢力からの完全な独立のために、依然各地に残っていた外国領の自国へ回復へと動き出す。具体的には、先述のポルトガル領地域とポンディチェリー、カライカル、ヤナム、マヘーといったフランス領地域の返還である。
フランスとの間では交渉により、1954年から8年間の移行期間を経て、1962年に領土の回復を達成するのだが、旧来の領土に固執したポルトガルとの間には膠着状態が続いた。ポルトガル駆逐のための政治キャンペーンに加えて、インド本土と当時のポルトガル領との間の人やモノの往来に厳しい圧力をかけるようになる。元来交易地ではあっても食料等の基本的な生活必需品の生産地ではなかったため、様々な物資に悩まされることとなった。分離独立以来、インドと対立してきたパーキスターンが、これに関してポルトガル領ゴアに救いの手を差し伸べていたことはよく知られている。インドにとって長らく続いてきた帝国主義勢力に対する勝利であり、ゴアはこの『解放』により、祖国に復帰することになったのは間違いないが、ポルトガルが450年を越える長い歳月の間に築いてきたシステムの中で、独自のアイデンティティを形成し、社会的にも経済的にも相応の繁栄を享受してきた層にとって、これは必ずしも歓迎すべき出来事ではなく、侵略として受け止められていたとしても決して驚くに値しないだろう。
『ダマン解放』を記念するモニュメントの碑文

シャーム・ベーネーガル監督による映画TRIKALの舞台はポルトガル時代末期のゴア。350年続く名家ソアレス家がこの地を見限ってリスボンに移住する前夜という設定。ここで栄えた人々にとって、『ゴア解放』は決して肯定的に捉えられていたものとはいえず、彼ら自身は頼んでもいないのに大軍を擁して押しかけてきたインドにより、長く親しんできたポルトガルという後ろ盾を失い、入れ替わりにやってきたインド人という支配者たちにより、財政的な後退と発言力の低下がもたらされ、次第に凋落していった地元の上・中流層の心情を綴った名作だ。
この映画の音楽を担当したのはゴア出身のレモ・フェルナンデス。この映画のために手がけた音楽は、コンカニー語ならびにポルトガル語による伝統的なゴアのフォークソングをベースにしており、彼のリリースした曲の中でもとびきり評価の高いものが多く含まれている。以下のクリップ『Panch Vorsam』というノルタルジックな曲にて、歌声はもちろんのこと、ダンスを披露しているのもレモ・フェルナンデス自身とアリーシャー・チナイである。

なお、ゴア、ダマン、ディーウ以外に、同じく元ポルトガル領で、植民地期にはダマン行政区の管轄下あったダードラー&ナガル・ハヴェーリーについては、戦闘によらない政治的な交渉により1954年にインドへの復帰を果たしており、ダマン&ディーウとは別の単一の連邦直轄地を構成している。
1987年に、ダマン、ディーウと分離してゴアは単独の州に昇格した。スィッキム、ミゾラム、アルナーチャル・プラデーシュに次いで面積にして四番目に小さな州ではあるものの、中央政府による支配から脱しての自治を得たのもさることながら、それなりにヴォリュームのある『ゴア人』人口規模を持っている点については、独自のアイデンティティを保持するには幸いであったとはいえるだろう。
よほど辺鄙で不便な地ならともかく、人口密度が高く、人の出入りの激しい地域に囲まれていれば、そこに存在していた『国境』が取り払われてしまえば、ごく狭い地域に集住していた他国の庇護下にあった人々は、かつては外国であった近隣の『その他の人々』の大海に呑み込まれてしまう。そうでなくても行政、教育、日常的な慣習等々を含めて、あらゆる面において長年親しんできたシステムが効力を失い、それまで馴染みのなかった『あちら側のやりかた』に同化しなくてはならなくなる。
『コミュニティ間の調和』 中心にあるのはやはり多数派

たとえてみれば、これまで勤めてきた職場が、他の企業体に買収されるなり、吸収されるなりして、要はこれまで『ヨソの人たち』であった集団に主導権を握られてしまうのと似ているかもしれない。これまでの常識やフォーマリティ、仕来りや慣習が通じなくなるだけではなく、それまで主流派であったはずの人たちであっても、よほどうまく立ち回らない限り、他者に吸収されての新しい枠組みの中では隅に置かれてしまうものだ。

1535年から1961年まで426年間に渡ってポルトガル領であり、現在は連邦直轄地のDaman & Diuの行政地域にあるディーウ島にしてもそうだが、1673年から1950年までの277年間仏領になっていた西ベンガル州のチャンダルナガルについても然り。植民地時代に建てられたコロニアル建築は現在まで生き延びていても、かつての大聖堂でミサは行なわれておらず、学校や病院に転用されていたりすることもある。住民たちも他所から移ってきた人たちが大半になっていることも珍しくない。

<続く>

Rann of Kutch 4

ザイナーバード周辺には食事できるところはどこにもないため、宿では一日三食付いている。宿泊客たちが集まってくると、彼はふんぞり返った姿勢で眼光鋭く彼らを見据えて言い放つのである。
『私が宿の主だ。皆の衆、遠路はるばる来てくれたことを歓迎する。今日は充分に楽しんだか?明日の朝と昼のサファリについても個々の希望に従って取り計るぞ。よって遠慮なく申し出るがいい』
まるで土地の支配者が客人に謁見しているかのようなムードであった。
元宮殿であったり、植民地時代の建築であったりといった、ヘリテージな建物を利用したホテルでもない限り、特に宿泊施設に感想を抱くことはないのだが、ザイナーバードで滞在した宿はなかなか面白かった。
東屋
この地方の民家風に造ってあるコテージや敷地中央にある東屋もなかなか雰囲気が良いとはいえ、特筆すべきほどではない。だがとても印象的だったのは宿の主人であるDさんである。
ちょっと演技じみているくらいに横柄かつ尊大な感じがするこの人物は、40代前半くらいだろうか。ザイナーバード周辺の領主の子孫であるとのことだが、実に映画に悪役で出てくるよう悪徳タークルみたいである。あるいは、映画SHOLAYアムジャド・カーン演じていたところ盗賊ガッバル・スィンによく似た風貌と雰囲気の持ち主で、宿泊客に対しても、初対面では慇懃無礼な印象を受ける。
田舎の人には違いないが、なかなか洒落者でもあり、センスもなかなかのもの。昨日はチベット風の前合わせのエンジ色のガウン。翌日は、ずいぶん派手な地場製のコットンのショールをまとっていた。
粗野かつ傲慢に感じられる振る舞いから、最初は好ましい印象を受けなかったのだが、実はこちらが想像していたような人物ではないことが次第にわかってきた。威張った態度に見えるが、客たちのサファリにも同行しているし、食事やお茶の席にも必ず同席していろいろ会話を交わしており、宿泊客すべてに親しく声をかけて、意見や感想を聞き出す努力を重ねている。尊大に見えるものの、彼なりにいろいろ細やかに気を使っているのであった。
彼は父祖伝来の地であるザイナーバードに単身赴任状態なのだという。子供の教育の関係から、奥さんと息子ふたりはアーメダーバードで暮らしており、半月に一度彼らがここを訪れるためにやってくるのが一番の楽しみであるという。
彼自身は、うるさい都会での暮らしは向かないと言うが、この宿泊施設の運営以外に、もうひとつ彼がここで行なっている仕事がある。彼は近くにある孤児院アーカーシュ・ガンガーの運営者でもあるのだ。
宿泊施設に関しては、仕事をほとんど一人で切り盛りするのが彼の毎日であるようだ。食事の準備と掃除以外は、すべてDさんが取り仕切っており、客のひとりひとりに対する目配りが行き届いており、豪胆そうな見た目とは裏腹に責任感が強く、非常に几帳面な彼の性格がうかがわれる。
その反面、不便なこともある。宿で彼が少しでも不在にしていると、スタッフは何も決めることができないのだ。宿泊費(三食とサファリ付き)の料金交渉、誰がどのクルマに乗って何を見に行くサファリに行くのかといった基本的なアレンジさえも、D氏のみが扱っているため、どのスタッフも『旦那がいないと私たち何もわかりません』となってしまうのだ。
またDさん以外は英語を話すスタッフがいないということについて、西洋人たちからは不満の声を聞いた。『鳥に詳しいエキスパートのガイドが付くと聞いていたのに、 英語ができない人だったから、何を見に行ったのかわからない。私たちは鳥に関して素人だから、ちゃんと説明できる人がいないと困る』というものであった。
ゆえにDさんは、西洋人たちが乗るジープには可能な限り同乗しているようなのだが。 宿泊施設の造り、ロケーションやサファリの内容は良いのだが、Dさんがあらゆる事柄すべてを取り仕切るワンマンなシステムについては大いに考え直す必要があると思うのだ。
しかし硬派で不器用ながらも、日々一生懸命に頑張っているDさんの人柄が気に入って、バードウォッチングのために幾度もこの場所を利用しているというリピーターも少なくない。名物オヤジで客が集まるという稀有な宿泊施設になっているのが面白かった。私もまたいつかここを再訪してみたいと思う。
コテージ入口
室内
<完>