大都会の中の静寂 聖地バーンガンガー

植民地時代の訪れ、つまり1534年にポルトガルがグジャラート地方の統治者であったクトゥブッディン・バハードゥル・シャーから譲り受けた土地に、城砦、港湾、都市を築き始めたことが、その歴史の始まりであると認識されているムンバイーに、ラーマーヤナの神話に連なる聖地がある。
マーラーバール・ヒルの高層建築に囲まれた只中にある、物静かな佇まいのバーンガンガー池のほとりにはいくつもの寺院やダラムシャラーなどが並ぶ。どこか田舎町を訪れているような気がする。ガートでは坊さんが信者のためにプージャーを執り行っている。ここが日々忙しい大都会ムンバイーの高級住宅地であることを忘れてしまいそうだ。
バーンガンガー池のガート
ラーマーヤナの神話の中で、ランカー島に連れ去られたスィーターの救出に向かう途中のラーマが立ち寄ったところであるとされている。渇きに苦しむ中、ラーマ自身ないしはラクシュマナ(両方の説があるようだ)が放った矢(baan बाण)が地に落ちた地点から、清水がこんこんと湧き出てきた。この水源が、遠く離れたガンガー(ganga गंगा)の支流とされたことが、バーンガンガー(baanganga बाणगंगा) の名の由来だという。この池のほとりにいくつもの寺が並んでいるが、ワールケーシュワル寺院である。
聖河ガンジスの水・・・なのか?
この池が出来たのは12世紀初めとされるが、ポルトガル時代においては、カトリック信仰の布教と並行して、ゴアで多くの寺院が破壊されてしまったのと同じく、ワールケーシュワル寺院もそれを逃れることはできなかった。
1661年に、ポルトガルのカタリーナ王女が、イギリス王室のチャールズ2世に輿入れするに当たってのダウリーとして、当時のムンバイーはイギリスに委譲される。地元の人々の信仰についてあまり干渉しない彼らの支配下になってから、1715年前後(1724年前後という説もある)にワールケーシュワル寺院は再建された。
しかし18世紀に入ったころのマーラーバール・ヒルは、無数の巨石と密林に覆われた丘陵地に過ぎず、地理的に当時の都市部に近い森林地帯ということもあり、盗賊や他の犯罪者たちが跋扈するエリアでもあったそうだ。
そのため、この寺院を中心とする集落に住んでいたガウル・サラスワト・ブラーフマンのコミュニティの人々は、自分たちの身を守るという目的から、他のセクトのヒンドゥー教徒たちがここに寺院やダラムサラを建設することを認めたことから、次第に門前町の体を成していくきっかけとなったようだ。
また交易と信仰の自由を標榜して、新興都市であったムンバイーへの移住者の増加を画策していたイギリス当局としても、商業と政治の中心地であったフォート地区から少し距離のあるマーラーバール・ヒルに宗教施設を誘致することを奨励していたという事情も追い風となったようである。
インド随一の大都会で、都市化以前の村の面影を残す、静かなバーンガンガー池とこれを取り囲む寺院群。チョウパーティー・ビーチ、マニ・バワン、コーターチー・ワーディー地区にも近く、ムンバイーを見物する際についでに訪れてみるといいだろう。早朝や夕暮れ時などが特に良さそうだ。
毎年1月にバーンガンガー・フェスティバルが開催され、古典音楽の演奏などが行なわれるので、訪問時期さえ合えばこちらもチェックしておくといいだろう。
バーンガンガー池

アライヴァル・ヴィザと2ヵ月ルール

年末年始あたりから話題になっており、『これでインディア』のアルカカットさんの記事『インドも遂にアライバル・ヴィザ導入か』でも詳しく取り上げられていたとおり、1月から観光客に対するアライヴァル・ビザの運用が始まっている。公式には1年という期限付きの試行運用で、対象となるのは日本、シンガポール、ニュージーランド、フィンランド、ルクセンブルグの5ヵ国の国籍を持つ人々。
一部のメディアによると、現在5つの国籍保持者のみが対象となっているこの試みを18か国にまで広げようという動きもあるようだ。実現すれば、欧州諸国を中心とするインドを観光で訪れる人々のマジョリティを占める国々はこの範疇に含まれることだろう。
主要国のインド在外公館でのヴィザ申請・受渡等を民間会社が請け負う形になったことに続く大きな変化といえる。おそらく大使館・領事館での事務負担の軽減と行政サーヴィスの民間委託という昨今の流れに沿ったものであろう。今のところ『試行』とはいえ、格段の問題が生じなければ、アライヴァル・ヴィザの制度は、対象国を拡大して定着するものと思われる。
アライヴァル・ヴィザで許可される滞在期間は1ヵ月。従来の観光ヴィザの滞在有効期間が6ヵ月であったものに比べて短いとはいえ、事前にヴィザ取得する必要がないことから、短い滞在の人たちにとっては、わざわざ大使館/領事館に出向く手間が省けるメリットはある。
相互免除の協定を結んでいない国家間であっても、たとえばASEANを例に取れば、タイやマレーシアのように、観光業振興の目的で、特定の国籍の人々に対しては、一定期間内の観光目的の訪問については、査証の取得を免除している。あるいはラオスやカンボジアのように、査証免除がなされていなくても、到着時に取得が可能という国は多い。アライバル・ヴィザの導入自体については、インドもようやくそうした時流に乗りつつあるという点で評価できるだろう。
だが、手放しで歓迎できない部分もある。まずは入国地点が限られることだ。料金は60米ドルと、通常の観光ヴィザよりかなり割高になっていることはさておき、デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイの国際空港からの入国の場合のみ適用され、他の国際空港は今のところ含まれていない。また陸路の出入国については対象外のようだ。
また、この手段を利用する機会が制限されている点も問題だ。年に最大2回まで、前回の出国から2ヵ月以上の期間を空けるという条件がある。参考までに、下記ウェブサイトをご参照願いたい。
Tourist Visa -on –Arrival(在日インド大使館)
Instructions For Foreigners Coming To India (インド内務省出入国管理局)
アライヴァル・ヴィザはともかく、従来の観光ヴィザについても従前にはなかった措置が取られるようになった。マルチプル・エントリーを取得していても、一旦出国すると基本的に2ヵ月経過しないと、次の入国が認められなくなってしまっている。つまり6ヵ月のマルチプルで取得しても、実質最大3回までの入国しかできないことになる。
それでは取得したヴィザをVOIDして再取得すれば、直近の出国から2ヵ月経たないうちに入国できるかといえば、基本的にヴィザ再申請は出国後2ヶ月経てから、ということになっている。
ただし査証取得前に周辺国等も合わせて訪れることがはっきり予定されていれば、インドの取得時に旅程表や航空券の予約記録等も提出することにより、インドから隣国へ出て半月後にインドに戻る、といったことも可能なようではある。
またすでにインドに滞在中であれば、必要書類等を提出したうえで、外国人登録局の判断により、再入国の許可を得ることができるようことにはなっているようだ。またインドの在外公館にもそうした権限が与えられている。
例えばインドを出てバーングラーデーシュのダーカーに行き、1週間滞在してからインドの西ベンガル州に戻りたいといった場合、在ダッカのインドの高等弁務官事務所(大使館に相当)にて、相応の手続きにより申請者の再入国を認める措置を取ることができるようにはなっている。
しかし、あくまでも該当事務所なり公館なりが判断を任されているとのことで、タイミング、担当者の判断、上役の考え方、申請者自身の運などによって左右されることが往々にしてあることと思われる。
アライヴィル・ヴィザの導入、つまり問題が生じていない国々の人たちに対する査証審査手続きの簡略化の背後には、行政のスリム化への志向と観光業振興というふたつの目的によるものであろう。
しかし時を同じくして導入された2ヵ月ルールについては、しばらくメディアを騒がせてきたヘッドレーとラーナーという、ともにパーキスターン系でそれぞれアメリカ、カナダ国籍の男たちが、インドで起きた数々のテロ事件を裏で操っていたとされることが明るみに出た事例等により、外国人たちの出入国・在留管理をより厳しくしようという狙いがある。
もともとパースターン、バーングラーデーシュ国籍の人々について、とりわけ前者に対しては、たとえ親族訪問や観光目的であったとしても、他国籍の人々に較べてずいぶん厳しい審査がなされていたし、入国してからも滞在先を移るたびに警察署への出頭と報告が義務付けられていた。もちろん当人たちがそれを几帳面に行なうかどうかは別の話で、一旦インドに入国後に行方がわからなくなっているケースは相当数に上る。
従前より、インドヴィザ申請書類には、『以前、他の国籍を持っていたか?それはどこの国籍か?』を問う項目があったが、現在では別紙により申請者の両親の出自(国籍)等を記入させるところもあるようだ。たとえば日本生まれの日本人であっても、たとえば父親がパーキスターンの出身である場合、何がしかの不利益を蒙る可能性があるかもしれない。
ともあれ『緩和』と『厳格化』という、ふたつの相反する要求を踏まえて、取り急ぎ見つけた着地点が、『アライヴァル・ヴィザ』と『2ヵ月ルール』をセットで打ち出すことであったようだ。
だがこれらは現行の規則に付け焼刃で無理のある細則が付加されたかのようで、実際の人々の行き来や社会的な要請に対していくつもの矛盾をはらんでいる。今後、インドの査証システムについては、包括的な見直しがなされる前の過渡期的な状態にあるのではないかと私は考えている。
そもそも外国人の出入国・在留管理を根本から見直す必要が出てきているため、多くの人々にとって納得できるものが早期に打ち出されることはないだろう。
やや古いもの(12月下旬と1月下旬)ではあるが、2ヵ月ルールによる混乱・困惑を伝えるBBCの記事を挙げておく。
India visa move brings complaints
India visa changes strangle business
アライヴァル・ヴィザ、2ヵ月ルールともに、今後どうなっていくのか注目していきたいが、そもそも後者の導入の原因となっている隣国ないしはそれと深い縁を持つテロリストあるいは黒幕たちの動向についても気がかりなものがある。
すでに様々なメディアで伝えられている『テロの国産化』の動きだ。パーキスターンを拠点とするテロ組織がメンバーをインドに浸透させての活動について、外交上の支障に加えて、インド以外の第三国からの圧力や干渉を招きかねないこともあり、SIMI (Students Islamic Movement of India)やこれと深い関わりを持つIM (Indian Mujahideen)といったインドの『地場組織』を活用する試み、彼らを自国に招いての工作・テロ活動の訓練の事例についても、よく伝えられているところだ。
もちろんメディアの報じる過激な内容には、かなりマユツバなものも含まれているため、そのまま全てを盲信するのはどうかとも思う。しかしパーキスターンの三軍統合情報局ISIによるテロ組織とのその活動への関与はともかく、同国政府自体が不安定な状態が続いており、同国内でも地域的に当事者能力を欠いていることも、また違った次元での懸念材料だ。

BHUJ 4

この日、オートリクシャーで手工芸の村めぐりをする。一番遠い村は50キロ離れているため、往復で100キロほどになる。
織物の村であるブジョーリー(भुजोडी)に行き、次に染物とチャパーイー(ブロック・プリンティング)のアジラク(अजरख्,)、そして 刺繍が盛んなダナンティ( धनंति)、アジラクと同じく染物とチャパーイーのダマンカー(धमंका)を訪れることにした。
最初に訪れたブジョーリーでは、冬には夏のために綿布、夏には冬のために毛の織物を作っているという。作業場で織物の仕事をしばらく見物してから、これを経営するヒンドゥーの家族の住む敷地に移る。ちょっとしたショールームがしつらえてあり、ショールその他の完成品が山と積まれていた。ちょっと買ってみたいものもあるとしても、あまりゴリ押しされると興醒めであるが、後で訪れた村も含めて、どこも特にそういうことはないのは良かった。
機織り
作業場のオーナー
オーナーの孫娘 愛嬌のある女の子だった
次にアジラクへ。ここは染物とブロックプリンティングの村である。これらの作業は別々に行なわれるのではなく、一連の工程で両方を行なうことにより、製品が出来上がっていく。
ブロックプリンティングの作業中
訪れたところはムスリムの経営者の息子スフィヤーンという男性が留守番をしていた。あごひげを蓄えているが、まだ20代前半だろう。カトリーのコミュニティの人らしいが、彼の家はもともと現在パーキスターンになっているスィンドから移住しており、彼ですでに五代目になっているのだとか。
ここではすべて植物性の染料と錆びた鉄などが使われるのだそうだ。インディゴの草とはどんなものか知らなかったが、これまで私はただの雑草だと思っていたものがそれであった。
その次に訪れたのはダナンティ。ここは刺繍の村であり、女性たちがチクチクと細かい仕事を続けている。毎日8時間作業をしているのだという。技が非常細かいだけではなく、まったく同じ形を正確にいくつも作る器用さに感心した。この仕事をする女性たちは、たいてい10歳くらいから始めるとのことだ。
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慣れてしまうと退屈な仕事ではないかと思うが、村のアヒールというコミュニティの女性たちが集団で行なっており、気の合う同士で肩を並べておしゃべりに興じながら進めていくので、まあ気は紛れるのだろう。デザインは、クジャクや象などの動物の柄に加えて、幾何学模様にもいろんなパターンがあるようだ。
気の合う同士でおしゃべりしながら作業が進行
この村から最後に訪れるダマンカーまでの道のりで事故現場に遭遇した。トラックと白い小型乗用車が正面衝突している。乗用車は大破していた。乗用車は反対車線にあったので、おそらく追い越しをしようとして前方から来たトラックに衝突することになったのだろう。何人乗っていたのかわからないが、少なくともそのクルマの中にいた人が無事であるとは思えない。
私たちが今こうして進んでいるところまでは、そのクルマは普通に走っていて、ほんの少し先で悲惨な運命が待ち受けているとは思いもよらなかったに違いない。まさに一寸先は闇である。それでも、人々が皆もう少し丁寧に操縦すれば、こういう事故は大きく減るのにと残念に思う。
最後に訪れたダマンティでは、昨日大雨が降ったため、この日は作業中止だという。ここもブロックプリンティング、つまりチャパーイーの村だが、訪れた先はムスリムで、行なわれている作業と製品もアジラクと同じだ。2001年の大地震で壊滅の後に、相当数の人たちがアジラクからダマンティに移ったためだという。
ここではちょっと面白い布を見た。生地の表側が絹で裏側が綿になっている。どうしてそんな作りになっているかというと、かつてカッチのある地域を領地としていたムスリムの支配者が所望したのが始まりだという。作業場の主によると、イスラームでは、ある解釈によれば男性が絹をまとうことをよしとしないのだという。それで裏側を綿にして、身体には直接触れないようにするという画期的な発明(?)であったとのこと。肌に触れないからといって、それで本当に『絹の衣類を着ていない』ことになるのかどうか知らないが、まるで一休さんの頓知話みたいである。
作業場のショールーム兼倉庫
今回は訪れなかったが、カッチ地方には、乾燥地もあれば、湿地もある。砂漠の村の生活もあれば、古来よりガルフ方面への海路の出口として栄えたマンドヴィーのような港町もあるなど、大きな変化と豊かな広がりがある。もっと時間を取ってじっくり訪問してみたいところだ。Rann of Kutch(カッチ湿原)に面し、国境近くに位置するカッチ地方は、今となってはインドの西の果てであるが、かつては『同じ国内の一続きの世界』であったパーキスターンのスィンド州でも、今のインドよりも30分遅れで同じ時が流れている。
カッチ地方を経由しての隣国との行き来はないため、今やこの地方は袋小路の行き止まりのようになっているが、交通の不便なカッチ湿原を手前にして交易等の盛んなオアシスのようなところであったがゆえ、人々が東西に往来する交差点となり、富が集積されるとともに、独自の個性豊かな文化を育むことになったのだろう。

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この日は最初に訪れたシャーラド・バグ・パレスは、アーイーナー・メヘルから見て、ハミサール・レイクの反対側にある。ここには1991年に手放すまで、ラージャーの家族が暮らしていたとのことだ。ゆえに最近のガラスのテーブルやソファなど、今の時代のリビングに普通に見られるような家具もある。
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モダンな室内
それでも、昔の家具、シャンデリア、振子式時計、クローゼットの類などは、欧州から取り寄せたもので風格がある。野生動物たちの剥製もある。もっとも大きなトラの剥製は、カッチでの狩猟後にわざわざマイソールに送って作らせたものだというだけに、非常に出来が良い。経年により色褪せる前には、本当に生きているかのような感じであったのではないかと思う。 獲物を仕留めた後、横たわるトラとともに撮影した写真もある。他の多くの領主たちと同様、インド独立前の時代のラージャーたちは狩猟が趣味であったようだ。
ここの裏手に住んでいるという学芸員氏によると、2001年の大地震の際には、特に旧市街の建て込んでいる場所では建物の倒壊や崩落が多く、被害が甚大であったという。人口13万でしかない街で、2万人余りの死者が出たということは大変なことである。
当時、このパレス自体にも大きな被害が出たため、復興するのは大変だったということだ。現在、博物館となっている建物のすぐ横にはねもっと大きく堂々とした洋館がある。展示されている昔の写真と見比べてみるとよくわかるのだが、建物の上部が崩落してしまっている。また背後に回るとかなり広範囲に渡って崩落してしまっている。
建物上部が崩壊している
震災前の姿
その後、街の南にある池の反対側にあるチャトリ群に向かう。オートの運転手は『すべて壊れているから行っても仕方ないよ』と言うが、確かに着いてみると、いくつかは修復の手が入っているものの、あまりに無残な光景であった。震災から10年近く経った今も、その破壊のエネルギーの凄まじさを見せつけているかのようだ。
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ただし一部では相当力のこもった修復作業が行なわれたようで、完璧に新築(?)されているところもあった。見た目がやたらとピカピカなので、周囲に馴染むまでかなり時間がかかりそうだ。
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その後、バーラティーヤ・サンスクリティ・ダルシャンへ。『バーラティーヤ・サンスクリティ(インド文化)』とあるが、実際にはグジャラート州、とりわけカッチ地方の郷土博物館である。著名人、生活文化、手工業その他に関する様々な展示が屋内外でなされている。コンセプトの自体は悪くないのだが、ちょっと展示品が少ないこと、各種解説がグジャラーティのみで書かれており、ヒンディーまたは英語による表示がないのは、州外から訪れる人も多いはずなのだが、いかがなものか?

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プラモード・ジェーティー氏は、ずいぶん前からアーイーナー・メヘルの中に観光案内所のデスクを構えている。氏はこのメヘルの中の博物館の学芸員という立場も兼ねているのだが、今も健在であった。
彼はプライベートなツアー・オペレーターであり、彼自身がベテランのガイドでもある。メヘルの近所に暮らすこの人物は、モダンなゲストハウスも経営するやり手の商売人ではあるが、この地域の歴史や民俗に詳しく、文化人といった雰囲気も漂わせている。
彼が作製したカッチ地方の地図も無料で配布している。なかなか良く出来ており、カッチ地方の位置関係や距離が一目でわかるようになっている。また宿泊可能な町、村、警察の許可が必要な町も記されている。カッチ地方やその周辺では、パーキスターン国境に近いため、訪問するためには警察の許可(・・・といっても無料だし、すぐに取得できる)が必要なところが多い。背面はブジの地図になっている。
カッチ地方のガイドブック
彼が執筆したカッチ地方のガイドブックもここで販売している。カッチ地方の歴史、小さな町や村なども含めた各地の見どころ、各部族の紹介、地域文化手工芸品などが簡潔にまとめられた100ページほどの冊子だが、手っ取り早くこの地域について俯瞰するのに役立つ資料である。
ページをめくっていると、ブジから40キロほど離れたアンジャールの町についての記述にちょっと気になることが書かれている。先の震災で特に被害がひどかった地域のひとつであるが、これまで幾度も大地震に見舞われていることが書かれている。19世紀以降でも、1844年, 1845年, 1874年, 1941年, 1956年、そしてしばらく間が空いて2001年の大地震が襲ってきたのだ。カッチ地方は昔から地震の多発地帯であるらしい。
歴史的にはそれほど頻繁に震災を繰り返している割には、直近の震災以前のことについてはあまり伝えられていないようだ。それ以前の震災からずいぶん時間の経過があり、これらの記憶が風化していること、あまり記録が残っていないことが最大の理由だろう。特に19世紀のものともなると、ほとんど風聞や伝説のようなものであり、今となっては当時の被害状況について正確な数字を知ることは不可能だ。
もちろん、地域の人口が増えており、それに比例して被害者も多くなる。また建物が高層化しているため、昔よりも被害が大きくなりやすいということもあるため、やはり最近の震災のほうが被災状況はより大きなものとなったに違いない。
夕方、宿泊先のホテル内のレストランでHakka Noodleを注文。およそ中華料理メニューのあるところならば、どこにでもある定番アイテムだ。Hakkaという名前が付いているのは、インド中華の本場であるカルカッタに客家人が多いということ、中華コミュニティの中で彼らがマジョリティを占めているためだろう。だがインドでは、Hakka Noodlesをどう定義しているのだろうか。ときどき食べているが、Chowmeinとどう違うのかよくわからない。