彼方のインド 2

酷暑のマンダレーからシェアタクシーで走ると肌に当たる風が熱い。それでも比較的なだらかな斜面を上っていくにつれて、熱風の中にときどき爽やかな冷気のようなものがかすかに感じられるようになってくる。
昼下がりに海抜1,100 mにも満たない場所にあるピンウールィンに到着してみると、さほど清涼な気候とはいえなかった。それでも平地の暑さに較べればまだしのぎやすいことは確かだ。日没後はエアコンなど不要で、ときおりテラスを抜けいく風が心地良く、半袖で快適に過ごすことができた。
ここでの宿泊先はThiri Myaing Hotel。通称Candacraigと呼ばれている。もともとはBombay Burmah Trading Corporationの保養施設として設立されたときの名称だ。
Candacraig Hotel
エジンバラ出身で1840年代にボンベイへと渡り、主に茶葉の取引に携わっていたイギリス人実業家がラングーン(現ヤンゴン)で1860年代にラングーンで設立した、主にビルマとタイのチーク材の取引を行なう歴史的な会社である。現在ではインドのワディア・グループの一部門となり、ムンバイーを本拠地としているが、同社ウェブサイトのトップページ
を見てわかるとおり、業務の主軸を紅茶、コーヒー、ゴムのプランテーションとしている。
吹き抜けはこんな具合
Candacraigはピンウールィンを代表するヘリテージ・ホテルとはいえ、本来は植民地期の会社の施設であり、ホテルとしての伝統や格式などは持ち合わせない。しかしヒルステーションでこうした歴史的な建物に宿泊できるということ自体がちょっと嬉しい。
ヒルステーションとはいえ、暑季はオフシーズンなので朝食付き一泊25ドルとエコノミーであった。可処分所得の低い国であるため、国内旅行産業があまり発達していないことの証でもあり、インドとはかなり事情が異なる。
1906年に完成したこの建物は、1948年にこの国が独立した際に国有化されてから農業省管轄下でホテルに転用され、現在では政府系の観光促進機関であるMHTS (Myanmar Hotels and Tourism Services)が運営している。
ピンウールィンには、MHTSが経営するホテルがあと2軒ある。ひとつは同じくBombay Burmah Trading Corporationの施設であったGandamar Myaing Hotelで、往時はCroxtonと呼ばれていたもので、Candacraigとよく似た様式の建物である。
Croxton Hotel
もうひとつはNan Myaing Hotelで、別名Craddock Courtとも呼ばれている。もともと何の建物であったのかはよくわからないが、『しばしば幽霊が出る』という噂があるようだ。
ただし政府系のホテルであるがゆえに、『ミャンマー政府の手による旅行会社や宿を使わずに民間にお金がいくようにしよう』と唱えているロンリープラネットのガイドブックには、これらを宿泊先としては紹介されていない。ただ見どころとして建物を挙げているのみだ。同社のガイドブックは、タイトルによって著者が違う。そのためチャプターの構成はどのタイトルも共通しているものの、書き手の視点がかなり異なることもよくある。
ミャンマーのガイドブックについては、あくまでも反政府的な視点となっており、まずは「ミャンマーに行くべきか行かざるべきか」というチャプターさえもある。旅行ガイドブックなので、行くも行かないもないだろうと思うのだが。
インターネットでの情報源として、THE IRRAWADDYMIZZIMAなど、いくつか優れたニュース関係サイトを紹介してあるのはいいのだが、どれもミャンマー国外をベースとする反政府なスタンスのものばかりだ。ミャンマー政府がどうであるかについては各自が考えるべきものであり、ガイドブックやその著者が押し付けるべきものではないだろう。
政府、政府と批判しているが、批判されるべきは軍をバックグラウンドとするこの国の政権であり、政府機構そのものではない。1988年の民主化運動の際、デモに加わっていたのは学生や民間セクターの人々ばかりではなく、非常に大勢の政府職員や公共セクターの人々もそれに参加していたことを忘れてはいけない。
公務員はそこに雇用されている労働者に過ぎない。多くの場合、自らの生産手段を持たないがゆえに、雇用を得るために就職した先がたまたま公の機関であるということである。もちろんその採用の際に何がしかの出費ないしはコネが必要であったとしても。
そうしたことはともかく、コロニアルなホテルがあるのならばどこの所有だろうが泊まってみたほうがいい。往々にして『政治史』『行政史』に偏りがちな歴史の中で、あまり記されることのなかった在緬の民間イギリス人たちの出入りが感じられる。まさにこの場所で彼らは活動していたのだ。
宿泊費込みの朝食以外を注文することはできず、昼食と夕食はどこか外に出かけなくてはならないという商売っ気のなさだが、Candacraigはメンテナンスも良く、往時の雰囲気をかなりきちんと残しているように思われるのでなかなかオススメの宿である。
ここはしばしば映画やドラマのロケにも利用されるのだそうだ。私が滞在しているときにも、グラウンドフロアーで撮影が進行中であった。撮影中には映画のディレクターの父親が同行しており、この人は数年間日本で暮らした経験があるとのことで、日本語のできる人であった。ミャンマー映画についてはよく知らないが、彼によるとけっこう有名な俳優たちが出演するアクション映画なのだとか。
ミャンマー映画の出演者たち
演技をしている彼らを照明その他様々な小道具等の担当者が取り囲んでいるが、比較的ゆったりとしたペースで仕事が進行中であった。私はしばらく見物してから外出したが、日中一杯カンダクレイグでの撮影は続いていたようだ。ようやく日没近くなってから終了し、撮影の機材関係の人たちは、チャーターした乗合ピックアップトラックの屋根にまで、人間・機材ともに満載で帰るところだった。映画撮影とはいえ素朴なものであった。

彼方のインド 1

ピンウールィン特産のイチゴ
ミャンマーのマンダレーから乗り合いタクシーに乗って2時間ばかり揺られるとピンウールィンに着く。かつてはメイミョーと呼ばれていたヒルステーションである。
1885年に開始、翌1886年にビルマ最後の王朝であったコンバウン朝を降伏させ、イギリ英領としてビルマを統一するとともに、これを英領インドに編入させることになった。
その3年後にはメイミョーの建設が始まっている。国土のほぼ中央に位置する高原に設置された英軍の基地の町であったが、夏季には乾燥した灼熱の大地となる中部ビルマにありながらも、海抜1,000メートル前後という立地のため比較的過ごしやすい気候であるがゆえに、インドでのそれと同様のヒルステーションとして発展することとなる。
開発当初は軍の駐屯地ならびに保養地、のちに文民たちをも含めた避暑地としてのヒルステーションへと発展というパターンは、インドの多くのヒルステーションと同様だ。
ちなみにメイミョーとは『メイの町』の意味。1857年のインド大反乱を経験したヴェテラン軍人、メイ大佐のちなんだ命名である。今でもアングロ・バーミーズ、アングロ・インディアン、その他のクリスチャンが多い土地だ。
同様にインド系、ネパール系の住民がとても多いことでも知られている。前者は北インド系が大半だが、中でもパンジャービーは後者の中でグルカ兵としてやってきた人の占める割合が高いネパール系とともに軍人として渡ってきた人々の子孫であることが多いようだ。
またビハールやU.P.出身者は鉄道建設や農業労働者として来た人々の末裔が高い割合を占めているようだ。ここの人々が言うところのU.P.とは、往々にして現在のUttar Pradeshではなく、United Provinces of Agra and Oudhないしは、1921年に行政区が改名されてからのUnited Provincesである。どちらにしてもウッタラーカンドが分離する前のUttar Pradeshの範囲とほぼ重なるのだが。
鉄道建設とヒルステーションも非常に縁の深いものがある。避暑地とはいえ政治的にも文化的にも重要性の高い土地であったからこそ鉄道が引かれたのか、あるいはもともとそれなりの規模があったことが需要を喚起したことにより鉄道が敷設されたのか、卵が先かニワトリか?みたいなことになるが、インドでも第一級のヒルステーションでは鉄道によるアクセスが可能だ。
ダージリンは1878年、シムラーは1898年、ウータカマンドでは1908年に、俗にトイトレインと呼ばれる狭軌のゲージに小型車両が走行する鉄道オープンしている。
ピンウールィンことメイミョーは、マンダレー管区とシャン州の境目に位置する。19世紀末に開通したマンダレーから北東方面のラーショーへと向かう路線の途中駅である。
ピンウールィン駅
同じくマンダレーからほぼまっすぐ北上するミッチーナーが終着駅となる路線の途中駅にはカターという町がある。現在ビハール(当時はベンガル・プレジデンシー)のモーティハーリーで生まれたイギリス人作家ジョージ・オーウェルが警察官として赴任したことのある町である。英国時代には北部辺境地域を臨む前哨地域として大きな意味を持つ場所であったようだ。
カターの町は、オーウェルの処女作『Burmese Days(邦題:ビルマの日々)』の中ではチョークタダーという名前に変えてある。この小説の冒頭にはオーウェル自身がスケッチした町の簡単な地図が挿絵として掲載されている。
その地図、また作品の中で描写される町のたたずまいが、今でも当時とあまり変わらずに現在に至っているとのことだ。長らく発展から取り残されてきたことから、意外に古いものがよく残っているということはミャンマーでは珍しくない。今回は訪れてみる時間がないのだが、いつか機会があれば足を伸ばしてみたい。
イチゴジャムも美味であった

ヒルステーション

家族連れがそぞろ歩いていたり、カップルがいちゃいちゃしていたりする、軽井沢みたいな土地のどこがいいのだ?と言われれば、確かにそうだと頷くしかない。確かにそういう雰囲気に特に何の関心もない。小洒落たカフェやナイトスポットならば、もっといいところが平地の大都会にはいくらでもある。
結局のところ避暑地であるが、欧州列強の植民地、往々にして熱帯の土地であるが、暑季の耐え難い気候から一時的に逃れるため、あるいは療養などを目的に訪れるためなどに建設された町である。もちろん暑さに参ったのは文民だけではない。ヒルステーションには往々にして相当規模の軍の駐屯地も存在してきた。
今の時代は、どこでもエアコンの効いているスペースならば暑さを忘れることができるとはいえ、暑季のインドで標高の高いところに来たときのアウトドアでの清涼感は何ものにも替えがたい。だが涼しいだけならば、標高の高いところならばどこでも清涼な気候を楽しむことができるわけだが。
だがヒルステーションにしかないものもある。それは英領期に築かれた歴史的な遺産とそうした土地であるがゆえの空気である。例えとしては適切ではないかもしれないが、敢えて言ってみれば、広大な中国で漢民族たちはどこにも同じような街を作っている。北京、上海だろうが、非漢民族の自治区(主要都市のマジョリティは漢民族だったりするが)の大都市、たとえウルムチであれ、ラサであれ中心部の街角は酷似している。
同様にイギリス人たちが築いたヒルステーションは、どこも立地といい、町の佇まいといい、非常に共通するものが多い。『リッジ』があり、『モール』があり、数々の公共の建物や教会、今も残るバンガローその他の個人所有の建物等々が並ぶ。
たとえ彼らがその地を去って60年以上の歳月が経過しているとはいえ、往時の面影を色濃く残しているものである・・・と言いたいところだが、90年代以降のインド国内での観光ブームによる開発のため、あながちそうとはいえない。とりわけハイ・シーズンに訪れると、そこはまさに日本の軽井沢状態であったりする。
植民地的な景観の『町並み保存』を訴える向きがあるのかどうかは知らないが、英国的な景観には事欠かないインドにあって、特にそうしたものに興味関心もないであろうことは容易に想像がつく。
スリランカのヌワラ・エリヤ、マレーシアのゲンティン・ハイランド、旧仏領のベトナムのダラート、旧蘭領であったインドネシアのバンドゥンなどがよく知られており、アフリカにもそうした保養地はいくつかあるが、ヒルステーションが最も発達を遂げたのはインドだ。かつての英国の海外領土の中でも別格で、イギリス本国の植民地省とは別のインド省を通じて支配された地域であり、英領時代のボンベイ管区はアラビア半島で貿易港アデン他の拠点を管轄するなど、言うならば「海外植民地を持つ植民地」のような存在であっただけのことはある。
また単なる避暑地のみならず、ダージリンやシムラーのように、暑季に行政の中枢が平地から移動する夏の臨時首都といった様相を呈するほどの重要性を持ったヒルステーションは、旧植民地であった南の国々にあっても稀だ。
なにしろエアコンのない時代であり、医療も発達していなかった時代だ。インドに駐在するイギリス人をはじめとする欧州人たちの死亡率は今と比較にならないくらい高かった。とりわけ暑季は彼らの生命をも左右する、としては言い過ぎであるにしても、政治・行政機能を期間限定で移転するという非効率さと膨大なコストと引き換えにまでして得たかったのが、そうした時期のヒルステーションの気候と環境だ。
日本の軽井沢や清里がそうであるように、インドの人々にとってもそこは単に避暑地であり商業活動の場である。資本主義の世の中で、需要があれば供給がなされる。それによって訪れる人々は必要なサービスを受け、そこで働く人々は収入を得る。
そうした中で景観が変わっていくのは当然のことだが、数十年の時間を経てもなお往時の面影を感じられることこそが、ヒルステーションの味わいではないかと思う。
チャンディーガルからシムラーに向かうルートから枝道に入ると到着するカサウリーは、シムラーが大変込み合う時期でも比較的空いており、あまり商業的に活発な場所ではないためもあって、旧い町並みがよく残っている。ただし歴史的に軍とのつながりが非常に強く、カサウリーのかなりの部分の土地を今でも軍用地が占めているのがやや難ではあるのだが。
数年前に『カサウリー ビールとIMFL(Indian Made Foreign Liquor)の故郷』として取り上げてみたように、インドにおけるビールを含めた洋酒の原点とも言える土地である。ここで創業したダイヤー・ブルワリーは、現在パーキスターンとなっている西パンジャーブ地方のヒルステーションとして知られるマリーでも同様に酒造業を展開していた。
他にも現在パーキスターンとなっている土地ではラーワルピンディー、クエッタ、インドではシムラーやウーティー、現在ミャンマーとなっているマンダレーといった広範囲にも酒造業の拠点を築くに至った。洋酒文化の伝播という点からもヒルステーションが果たした役割は大きかったといえる。

パフラット

スワンナプーム空港近くのホテルからバンコク市内のチャイナタウン地区の南側にあるパフラットに足を伸ばしてみた。このあたりにはインド系の人々の姿が特に目立つ。
インド人地区といってもそれらしきエリアはごく限られているものの、グルドワラーを中心に広がる彼らの商業地域でインド系の人々の姿が集中している度合いはかなり高く、パーキスターンやネパールから来た人々も多く出入りしていたり働いていたりする。
本国や周辺国との行き来もなかなか盛んなようで、『結婚のためパンジャーブから移住した』という雑貨商のおばさんがいたり、ネパール人だという出稼ぎ男性は実のところネパールから英領時代のミャンマーに移住した人の子孫だったりする。
そんなパフラットのインド人地区では、様々なインド製品が売られていたり、インドにあるようなダーバーや甘いものの店が散在する。
ターバンを巻いた立派な体格のスィク男性がタイでよくある木造の長屋の中に入っていく。おそらくそこが彼の住まいなのだろう。タイでは屋台を切り盛りする女性が多いのと同様に、ここではインド系の女性たちもよく道端でパコーラーを揚げて売ったり、店先でお客に相手をするなど、日がな客商売で忙しく働く姿が多い。
前回来たときには、グルドワラーの横で大がかりな工事が進行中で『何が出来るのかな?』と思っていたが、今回訪れてみると『INDIA EMPORIUM』というちょっと洒落たショッピングモールが完成していた。
India Emporium
空調が良く効いた建物内に入っているテナントは見たところ半数ほどがインド系の業者たちのようだ。布地、既成品の衣類、装飾品、CD等オーディオ関係の品々などを扱う店が多い。だがそれ以外にインドかぶれ(?)のタイ人たちの神具類のショップなども少なくなかった。どういう人たちが顧客なのだろうか。
このエリアではインド系の人々を対象にした安宿が多かったが、ちょっとした中級クラスのホテルなども出てきているようだ。
長らく『ごちゃごちゃとした狭苦しくて暑苦しいところ』であったパフラットのインド人地区も次第にグレードアップしつつあるように見える。

バンコク東端のラート・クラバンは未来のツーリストゾーン?

前回『スワンナプーム空港付近のホテル』と題してバンコクの国際空港近くの宿泊事情を取り上げてみた。
私自身、その中のひとつであるSilver Gold Garden Suvarnabhumi Airportというホテルを利用してみたので、その感想を記しておくことにする。
以下のマップで『A』の印が付いているところがそのホテルである。

大きな地図で見る
フライトナンバーと到着時間を伝えておくと、出迎えゲートのところで名前を書いたプレートを手にした人が待っていてくれて、ホテル差し回しのワゴンが停車しているところまで案内してくれる。エリアの知名度が低いため、このエリアの大半のホテルにとってお客の無料送迎はほぼノルマのようである。
ウェブサイトでは『空港まで5分』とあったが、実際には十数分くらいかかるようだ。それでも近いことには変わりはない。
ごく最近開業しただけあって新築の建物で部屋の中も外もキレイだ。このエリアにいくつかあるこの手のホテルは、たいてい同時期に開業している。一泊900から1000バーツというところが多いようだが、このあたりの値段がうまいところを突いているといえるだろう。
周囲に見どころはないため、ここを拠点にしてバンコクを観光する人が滞在するとは思えない。空港へ至近という地理的条件から、乗り換え客が大半を占めるいわゆる『トランジット・ホテル』である。
『明朝の早い時間帯のフライトのため市内に出るのは面倒だ。中級ホテルの料金は支払いたくないが、まあそこそこの宿があれば・・・』という人たちに利用しやすい設定となっている。
あるいは普段安宿を泊まり歩いている人であっても『明日の朝は早いから、まあ今日だけは・・・』ということで我慢して払うことができる金額かもしれない。
ホテルから空港まで無料での移動は1時間に1本。零時30分、1時30分、2時30分、3時30分・・・といった具合だ。それ以外の時間帯の場合は自分で料金を払ってタクシーを利用することになる。
空港が位置するのはバンコク市の東端のラート・クラバン区。最近開発された空港エリアとのことで、周囲は農地以外は何もないのではないかと想像していたが、そんなことはなかった。空港が完成する以前から存在している商業地であるようだ。コンビニ、食堂や屋台、ちょっとした市場などがある。近隣では小ぶりながらもナイト・マーケットも開かれているなど、見どころ以外のインフラは揃っている。今後様々なクラスの宿泊施設が増えるように思われる。
ラート・クラバンのナイトマーケット
近ごろのバンコクでのタイ反独裁民主戦線(UDD)の大規模な抗議活動により、観光業はもとより様々な分野で大きな損失を蒙っているタイである。しかしながらこの騒動により、バンコクでの乗り換え客を中心に、都心から遠く離れたこのエリアの宿泊施設に注目が集まり、その名が広がるという効果をもたらしたようである。
今年8月には空港と市内を結ぶ鉄道スワンナプーム・エアポート・リンクが開通する予定だ。終着駅のスワンナプーム空港からひとつ目の駅ラート・クラバンが最寄駅である。
空港からは朝6時から午前1時まで運行されるSAエクスプレスによりプラトゥーナーム・マーケットの東にあるマッカサン駅までノンストップにてわずか15分で結ばれる。これはラート・クラバン駅には停車しないが、24時間運行で各駅停車のSAシティ・ラインはここから利用可能でパヤータイまで30分かからず、市内観光にも充分観光にも使える。
そのため今後は乗換客のみならず、あまり繁華街には泊まりたくないなぁ、という人たちの需要も見込めるだろう。旅行代理店やグレードの高いグルメな店なども進出してくるかもしれないし、タイ各地に向かう長距離バスがお客を拾う場所となっているかもしれない。ともあれ今はこじんまりした商業地の外はのどかな田園地帯。ちょっとしたツーリストゾーンとして拡張していく潜在力を秘めた場所である。
夕方、市場で買ってきたドリアンをホテルの庭先に置かれたベンチで楽しむ至福のひとときである。今からあと10年も経てば、こんなに静かな郊外であったことがまるで嘘のように騒々しい盛り場になっている様子が目に浮かぶようだ。