日本でムスリム観光客増加の気配

クレセント・レーティングをご存知だろうか。『Halal Friendly Travel』をモットーに、イスラーム教徒が利用しやすいホテル、レストラン、空港、パッケージツアー、医療等に関する情報を提供しているサイトだ。ホテルについてはハラールな食事を提供しているか、ムスリムの礼拝に対する配慮があるか等々の観点による格付けもなされている。 

同サイト内ではイスラーム教徒向けの旅行書籍(?)の販売も行なっている。 スリランカ出身のムスリムのビジネスマンが立ち上げたサービスだが、その目新しさからちょっと注目されつつあるらしい。 

ところで、もともと土地っ子の間でムスリム人口がほぼ皆無に近く、これまでムスリムの人々による訪問も少なかった日本では、当然のことながら食事その他さまざまな面において『ハラールな』環境を得がたいのは無理もない。 

その日本では、2008年10月に設置された観光庁が、ビジット・ジャパンというキャンペーンを通じて、訪日外国人3,000万人という目標を掲げているところだが、訪日外国人旅行者数の多い15の国・地域(アメリカ、イギリス、インド、オーストラリア、カナダ、韓国、シンガポール、タイ、台湾、中国・香港、ドイツ、フランス、マレーシア、ロシア)を重点国と定めてプロモーションを展開している。 

それらの中でもっとも効果が顕著なのは、中国大陸からの日本渡航者に対する査証取得条件の緩和による中国人観光客の急増だろう。このところ尖閣諸島を巡る政治問題によって訪日予定者の中から多数のキャンセルが出ることによりブレーキがかかった感はあるが。 

しかし中国が安定した経済成長を続けている限り、地理的に至近で有利であること、元々中国人たちの中で日本に対する関心が高いことから、今後とも急カーヴを描いて訪日者数が増加していくことは間違いないだろう。 

さらには来年度からサウジアラビアとアラブ首長国連邦もこの『重点国』に追加されることが予定されているという。両国とも豊かな産油国で可処分所得が高く、滞在中の客単価が高いであろうことが期待されているようだ。 

ちなみにムスリム観光客による旅行市場は、全世界で再来年あたりには8.5兆円という巨大なものとなることが予測されており、日本もその流れに乗り遅れないようにと、手始めにこの2か国(サウジアラビアとアラブ首長国連邦)を重点国に指定したという経緯がある。 

同時に日本での観光客としてはあまり馴染みのなかった人々で、受け入れ側としてもムスリム客誘致のノウハウがほとんどないこともあり、訪問者を送り出す側の国では訪日関連、また受け入れ側となる日本のほうでもムスリム客誘致関係といった、新たな商機が生まれることが期待されている。 

同時に、これまで日本国内では、ハラール食材、映画等の娯楽関連、安い国際電話カード等といった、主に在日の南アジアや東南アジアのムスリムたちの日常生活に必要なものをまかなう程度で、ごくごくニッチなマーケットであった『ムスリム関係市場』が、豊かな産油国からやってくる観光客という新たな顧客を得て、価格帯や品揃え等もこれまでとは異なる次元のものへと発展していく可能性も秘めている。

ニュース、報道、メディア・・・

 活字中毒・・・というわけでもないが、いつも手元に何かしら読み物がないと落ち着かない。小説でもノンフィクションでもいいのだが。加えて日々の出来事に目を通さないと何だかスッキリしない。日常の暮らしの中でも旅行先でも目覚めてから一番にすることといえば、新聞を広げながら朝食を取ること。 

朝起きてすぐに手に入らなければ、近くのマーケットに散歩がてら出かけて新聞売りを見つける。あるいは早い時間帯から鉄道、バスその他で移動する際には、駅やバススタンドで、まず最初に買うのはスナック類ではなく新聞だ。                                                                                                          

全国規模のメディアで広大なインドの政治、社会、経済等の様々なニュースを目にするとともに、ローカルな新聞も押さえておきたい。広域紙には出ない地元の出来事がいろいろ掲載されているので、数日間読み続けると今そこで話題になっているらしいことについておおよそ検討がつくようになってくる。 

往々にして退屈な記事が多いことも事実だが、例えばモンスーン期に激しい雨が降り続いているときにヒマーラヤ地方を旅行する際、あるいは付近で洪水その他の天変地異が起きている場合など、参考になることはとても多い。 

また政治関係も同様だ。アッサム等の北東州を訪れた際には、ULFA (United Liberation Front of Asom)やNNC(Naga National Council)をはじめとする各地の分離活動を行う組織にかかわる記事をいろいろ目にすることができて興味深いものがあった。北東州関係については、コールカーターあたりであっても、地理的に北東州に近いこともあり、そのあたりに関するニュースはその他の地域よりも格段に豊富だ。 

南インド、とりわけタミルナードゥやケーララあたりでは、新聞をはじめとするヒンディーによる印刷物はほとんど見当たらないものの、都市圏以外でも英字紙が豊富なのはありがたい。だいぶ前のことになるが、2005年12月のスマトラ沖地震による津波災害の際にちょうど南インドの沿岸部にいたため、いろいろ参考になった。 

各地でメディアの活動が盛んであることは言うまでもないが、報道の自由度が高く周辺各国とは大きな開きがある。人々の『知る権利』が尊重されているからこそ『読むに値する新聞』が豊富であることはありがたい。 

もちろん新聞といっても様々なので、報道の質についてはいろいろあり、それは報じる側、読み手側の双方のスタンス、加えてこう言っては大変失礼かと思うが、それらの質の問題もあることは否定できないのだが。もちろんそれこれは読み手自身がメディアを選択すればいい。 

報道の自由は必ずしも手放しで称賛できるものとは限らず、報道機関とて大きな資本によるいわば『営利事業』であるがゆえに、ニュースの『売り手』の事情が紙面に現れることがあってもおかしくない。また近年の民間放送局による視聴率を意識してのセンセーショナルな報道(興味本位の犯罪特集番組、ヤラセや捏造ニュース)や視聴者からの携帯電話のSMSによる人気投票的なマーケティング手法等、ちょっと良識を疑いたくなる面も否定できない。 

これを玉石混淆とまで言うつもりはないが、そうした様々なソースから流れるニュースを人々が個々の意志と良識で取捨選択できる状況は健全であると私は思う。 

ともかく新聞をはじめとするメディアにより、人々は国、地域や社会の動きを知り、自身の頭でそれを理解する。私たち外国人も同様にそれにあずかることができる。これはとても大切なことだ。ミャンマーや中国のようにメディアやネット環境にも大きな制約のある国々と比べるのは極端に過ぎるかもしれないが、インドという世界最大の民主主義システムの根幹にあるのは、活発で自由度がとても高い報道の存在であるといって間違いないだろう。 

政府により、報道に関する制約が厳格な国々以外に、現地のアンダーワールドな部分からの圧力により、メディア自身が事前に『自己検閲』をしてしまう国もある。たとえばメキシコのように政府と拮抗する勢力である麻薬カルテルによる報復への恐れから、これらの組織に関する分野は報じられないようになっているようだ。既存のメディアでは伝えられない『空白地帯』を一人の匿名の大学生(・・・ということになっている)によるBLOG DEL NARCOというブログが情報を流しているという状況は決して肯定できるものではないだろう。 

ブログ運営者のもとに、多数の発信者たちから連日大量の情報が写真や動画とともに届けられ、これらを編集したり裏を取ったりすることなく、そのまま掲載しているとのことだ。血なまぐさい内容が大半で、凄惨な画像も含まれている。 

すべてスペイン語で書かれているが、ブラウザにGoogleツールバーがインストールしてあれば、日本語に自動翻訳したものを読むことができる。いささかぎこちない和文となるものの、おおよその内容を掴むことはできるだろう。 

もちろんインドを含めた各国のメディアにおいても、報道する側の身の安全という点から世の中に伝えることが難しい事柄は存在するであろうことは否定できないし、もちろん日本もその例外ではないのだが、こうした出所のよくわからないソースによる情報を日々綴ったブログが、本来それらを伝えるべき報道機関に取って代わってしまうという状況はとても危うい。 

話はインドに戻る。

報道の本質にかかわる事柄ではないのだが、インドの外にある国々からしてみると、現地の各メディアによる各分野における英語によるニュース配信を大量に入手できることについても大きなメリットがある。とりわけインターネットが普及してからは、その感がさらに強まっている。 

全国ニュースからかなりローカルなものまで、各地のメディアによる立ち位置の異なるソースから手に入れることができるという点で、とりわけ非英語圏の国々に比べて非常に『オープンソースな国』という印象を与えることだろう。 

世にいう『グローバル化』とともにインターネットによる情報通信の普及と進化の過程の中で、これまで以上に英語が突出した存在感を示すようになっていることから『英語支配』の趨勢に対して主に非英語圏から危惧する声が上がっているが、インド自身はその英語による豊富な情報発信量から得ているメリットについては計り知れないものがあると思われる。 

もちろん英語による情報のみでインドという国を理解できるとは思えないし、カバーされる範囲にも限界がある。それでも英語という広く普遍性を持つ言語によるソースが非常に豊富であるという点から、私たち外国人にとっても非常に利するものは大きいといえるだろう。報道の自由度の高さと合わせて、インドのメディアは自国内のみならず国外に対しても、非常に公益性が高いとも言えるのではないだろうか。

サイクルリクシャー日本一周

自転車で各国を旅する人は少なくないが、サイクルリクシャーでというのは珍しい。この乗り物で日本一周する日本人の写真家がいる。10月3日に、151日がかりで無事ゴールインしたことがブログに綴られている。 

日本一周に先立って、これを手に入れたバーングラーデーシュもサイクルリクシャーでひと回りしているのだという。 

ギアも付いていない重たい乗り物で走るのはさぞ骨の折れる旅であったのではないかと思うが、日々の様々な出会いが活き活きと描かれていて楽しい。 詳しくは写真家の三井氏のブログをご参照願いたい。 

10月9日(土)に東京都北区の飛鳥山公園で開催された『バングラデシュ祭』(会期は10月10日まで)にて、講演が行われていたようだ。

 同氏はウェブサイト「たびそら」を運営しており、アジアを中心とする各地の写真を公開している。

国境の儀式

アムリトサルから国道一号線を国境へと進んでいく。デリーから続いているこの国道は、GTロード (Grand Trunk Road)の一部でもあり歴史的なルートだ。 

途中、右手に見事なコロニアル建築の薬科大学が見えてしばらくすると料金所があり、このあたりからはどこもかしこも広大な田園地帯だ。そこを通過してさらに西へと進むと、アッターリ―村を通過する。 

国境手前で最後の村はアッターリーであるが、本当の『最後の村』はワガーである。印パ分離により、国境の東西にまたがることになったのがここであったが、現在ではイミグレーション、税関、国境警備施設等の政府機関が固まっており、『村』ではなくなっている。 

いよいよ国境に着いた。いくつかレストランがある裏手は広い駐車場になっている。訪れたのは月曜日であったが、それでもかなりの人出であった。週末に訪れたらちょっと大変だろう。 

セレモニーの会場には、カバン類を持ち込むことができない(カメラ、ビデオ、携帯電話、ウエストポーチは可)ため、クルマに残しておくことになる。 

見学のスタンドに行くまでの間に、パスポートチェックが3回、ボディチェックが2回ある。途中、一般通路とVIP通路に分かれるが、外国人は後者へ進むように言われる。VIP席にも通常のVIP席とVVIP席があるが、ここでは前者に座るように指示される。これらのチェックと誘導をしているのはBSF兵士で、セレモニーで勇壮な儀式を展開する兵士たちと同じいでたちである。皆、体格がとても立派なので、交代で任務に着いているのかもしれない。 

午後6時前に到着すると、すでに人で一杯になっていた。すぐ向こうはパーキスターン側である。こちらではボリウッドのポップスをかけて人々が踊っているが、反対側も同様に音楽を大音響で鳴らしている。ただしこちらほどの盛り上がりは見せていないようだ。印・パ両側ともに大勢の人々がスタンドで観覧している。 

6時半くらいになると、ようやく式典が始まった。インド側では司会役のような男性(平服だがBSF兵士のようだ)による「Bharat Mata ki」という呼びかけに対して『Jai』と観衆が応じ、「Hindustan」の呼びかけに『Zindabad』、「Vande」に対して『Mataram』という具合に盛り上がりを見せている。 

向こう側ではクルアーンの朗誦に始まり、「Jinnah、Jinnah」『Pakistan』と声を張り上げている。いかにも両国の現代国家としての成り立ちの違い、分離独立したことの理由を表しているかのようである。   

兵士たちの儀式が始まる。最初に数人の女性兵士たちが大げさに足を踏み鳴らして国境ゲートに向かう。続いて複数の長身で着飾った兵士たちが続き、足を高く上げて踏み鳴らす動作もある。一連の流れの中で、両国とも調和の取れた動作をしている。パーキスターン側での動きはここからよくわからないのだが、同じタイミングで始まり、同時にセレモニーを完了する。 

幾度か儀式に出ている兵士による大きく長い掛け声が流れる。印パ両側でほぼ同時に発声が開始されるのだが、自国の兵士がより長くそれを続けることができると大きな拍手と歓声が上がる。 

以前、Youtubeでこのセレモニーの様子を動画で見たことがあるのだが、まさに両国側によるしっかりとしたパートナーシップがあるからこそ、毎日のこの式典が成り立っていることがわかる。何か敵意に満ちたものであるのではないかと思っていたが、決してそんなものではなかった。   

儀式が終わり、家路に着く人たちに国境のセレモニーやBSFにまつわる映像を集めたVCDやDVDを売りつけようとする商売人たちが群がる。どこからかスピーカーで「皆さん、くれぐれも海賊版VCD、DVDに手を出さず、正規版を買ってください」などという、当局からの呼びかけが聞こえてくるが、正規版なるものがどこで売られているのか見当もつかない。道路脇にあるレストランもまさにこの時間帯が書き入れ時のようで、どこも満員だ。 

アッターリー村、ワガー村の人々にとって、それ以前は、このあたりから大きな街に出るという場合、アムリトサルに行くのもラーホールに行くのも同じようなものあったことだろう。 

アムリトサルやラーホールの住民たちにとっても、長い歴史の中でずっと「隣街」であったものが、分離により遠い街になってしまった。今の時代の人々にとってはごく当たり前のことであっても、それまでの人々にとっては、学校出てから仕事に就くにあたり、インドもパーキスターンもない同じ国内であった。 

おそらく今の80代以上の人々(分離時にそれなりの年齢に達しており、当時の記憶を自己の体験としてはっきり認識している最後の世代。その頃の幼児や子供は含まず)にとっては、いろいろと思うところがあるに違いない。 

当時はもちろんブログもなければ、村民で日記をしたためていた人もあったかどうか・・・?「オラが村がふたつの国に分かれた」体験をした人たちは、その過程で様々な事柄を目にしてきたことだろう。また村という小さなコミュニティの中で、そこに国境が引かれるということで、どんな出来事があったのだろうか。 

村民の間でも人口の移動、分離後の人間関係や個々人の力関係においても、友愛と裏切り、信義と謀略、その他いろいろ大変なことがあったことと思う。そこが国境になったがゆえに国防施設や行政機関等が建設され、地権上でも様々な出来事があったはずだ。印パ分離の縮図とでもいうべき大きなドラマが小さな村の中で展開していったのではないかと想像される。

ソウルからインドへ

エアインディアが、デリーから韓国のソウルまで、週に4往復させていることに遅ればせながら気が付いた。デリー・ソウル線(香港を経由)は、今年8月から就航しているようだ。 

90年代以降、韓国企業によるインド進出、対インド投資には目を見張るものがあり、韓国のキャリア以外にインドの航空会社によるインド・韓国間の直行便が就航するまで意外に時間がかかったという印象を受けなくもない。 

ソウル・香港間あるいは香港・デリー間のみの乗客も多いことだろう。ちょうど東京・デリー間で途中バンコクに寄港する便があったころのような感じなのかもしれない。(現在、東京・デリー間は直行のみ) 

ふと思い出すのは、かつてエアインディアの香港経由で東京・コールカーター直行便があったこと。そのころデリーIN、カルカッタOUTあるいはその逆で、日本からインドを訪れる人は多かった。確か90年代に入って間もなく、コールカーター直行便は廃止されたと記憶している。 

船の時代から、インドから見て東側方面からの主要な玄関口であったコールカーターである。デリーに遷都されるまで、長らく英領インドの首都であったためもある。中国大陸からもバンコクやシンガポールと並んで、稼ぎが期待できる外国の街であったため、大量に移住者を送り出している。 

今のように通信手段が発達しておらず、何がしかのツテが頼りであったため、移民の送り出し元はかなり限られた地域からであることが多い。バンコクでは潮州系、マレー半島では福建系や広東系が多かったように、コールカーターには広東系や広東を中心とする地域出身の客家人が数多く住み着いたようだ。コールカーターの華人たちから、しばしば梅県という地名を耳にする。現在の広東省の梅州市とその周辺エリアに相当する地域だ。 

日本にとっても、第二次大戦後しばらくの間は、最も身近なインドの都会といえば間違いなくこの街であったということは今ではちょっと想像できないだろう。戦後の復興期から高度経済成長が始まるあたりまで、西ベンガルから輸出される豊富な鉄鉱石は、かつて鉄鋼大国であった日本の原動力のひとつでもあった。 

また日本に留学生がやってくるようになり始めた時代、1960年代にはインドからの留学生たち(・・・といっても数は大したことなかったのだが)といえば、その主流はベンガルからの学生たちであったようだ。 

その関係もあるのかどうかよく知らないが、今でも西ベンガル州ではちょうど日本でやっているのと同じような菊の盆栽を楽しむ年配者たちはかなりあり、そうした人たちの中には、なかなかの知日家もあるようだ。『日本の菊栽培の解説書を手に入れたいのだが、英語で書かれたものを出している出版社はないかね?』と初老の男性に頼まれたこともある。 

この街とそこを州都とする西ベンガル州の経済面での停滞に加えて、かつての『四大都市(デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイ)』以外に、バンガロール、ハイデラーバード、アーメダーバード等の台頭により、相対的な地位が凋落していった。 

その結果、インドの航空会社はもとより、東南アジアからの飛行機も乗り入れが減り、ちょっと寂しい状態になってしまっている。それでも近ごろ流行りのLCCキャリアがバンコク便を開設したり、隣国のバーングラーデーシュの新興航空会社もコールカーターとの間に新規乗り入れしたり、増便したりしているのは幸いである。もはやインドを代表する随一の都会ではなく、ひとつの地方都市に成り下がってはいるものの、まだまだ地域のハブとなる底力は充分残されている。 

話はエアインディアに戻る。エアインディアの東アジアへの就航地は、数十年来の長い付き合いである東京、大阪、香港に加えて、上海そしてソウルが加わっており、インドという国自身がゆっくりと顔を東方にも向けてきていることを如実に反映しているようでもある。これは同時に東アジアの諸地域にとっても、視野の中にインドが大きく姿を現してきていることの表れでもあろう。