ダーラーヴィー 4

このツアーをオーガナイズしている旅行会社と対で運営されているNGOが設立した小学校を訪れる。授業が進行中であった。近ごろでは、スラムでも教育の大切さを理解する人たちが増えていて、かなり無理をしても子供を学校になんとか通わせよう、より高い学歴を与えようと頑張る傾向があるとのこと。
他のより恵まれた家庭の子供たちに較べてハードルは高いものの、ダーラーヴィー出身で苦学しながら高等教育を受けて、弁護士になった人、医者になった人は少なからずあるといい、公務員やその他のホワイトカラーの職を得ることは決して珍しいことではないとガイドは話す。
学校を後にしてしばらく歩いて通りに出ると、そこはタミル人地区になっていた。南インド式のヒンドゥー寺院があり、看板や貼紙等も大半がタミル語だ。往々にしてデーヴァナガリでも併記されているのは本場(?)と異なるものの、人々の装いも景観も、タミルナードゥの田舎町のバーザールに来たかのような感じがしなくもない。
この地区内のメインストリートのひとつであるようで、食堂も甘いもの屋もきちんとした構えの店が多く、大手銀行の支店も複数あるともに、マイクロクレジットの類の金融機関らしきものも見かけた。このあたりは居住地域にもなっているようで、裏手の路地を進むと、いくつもの開け放たれた扉から中の様子をチラリと目にするとができた。
テレビ番組の音、子供たちが遊ぶ声、母親が息子を叱り付けている様子、近所に暮らす主婦たちが戸口で井戸端会議を開いていたり。さきほど見学した作業場とは裏腹に、どこの世帯も家の中はずいぶんきれいにしているようだ。狭いスペースに多人数暮らしているためであろう、家財道具や衣類などが山と積まれている様子も見かけたが。 ガイドの話だと、スラムからコールセンター、会社、役所などに通勤している人、あるいは家庭の使用人として働きに出ている人たちも少なくないという。
そういう『住宅地』では、いったいどういう立場にある人なのかよくわからないが、パリッとした都会的な格好(そもそもダーラーヴィーは大都会の真っ只中に位置しているが・・・)で、ミドルクラス風のいでたちと雰囲気を漂わせる人の姿も見かけた。タミル人地区の端には、別の私立学校があった。立派な構えで、建物も新しい。イングリッシュ・ミディアムの学校だという。子供たちの制服姿を目にしていると、どこか裕福な家庭の子弟が通う学校であるかのような気がしてしまい、思わず目を疑う。
この学校が面する公道を渡ったところは、グジャラーティーの陶工コミュニティの地区。目に付く看板や貼紙の大部分はグジャラーティーで書かれている。女性たちは、いかにもグジャラート人らしく、カラフルな装いをしている。陶工という社会通念上は、地位的の低いコミュティであるが、彼らグジャラーティーたちの住環境は、それまでに見た他のエリアよりも少し良好であるように見えた。
グジャラート人陶工地区を後にしてしばらく歩くと、ツアー会社と運営母体を同じくするNGOによる幼稚園があった。インドの縮図であるかのように、様々なコミュニティの人々が混住ないしは集住するダーラーヴィーで、様々な異なる出自を持つ園児たちに対し、まずは英語とヒンディー語を自由に使いこなせるようにすることが狙いだそうだ。英語はもとより、ヒンディーについては、本人が住むコミュニティが非ヒンディー語圏のものであると、成長してからもうまくそれを使えないことが少なくないらしい。訪れたときには幼児たちの姿は目にしなかったが、スタッフたちが何やらミーティングを開いていた。
再び公道に出て、最後の目的地コミュニティー・センターは、たった今訪れた幼稚園や陶工コミュニティがある一角から見て道路反対側。そのすぐ手前には、6階建ての真新しい総ガラス張りの見事な商業ビルがそびえている。まだ出来たばかりで、テナントは入居していないようだった。ガイドによれば、規模のごく小さなモールのようなものになるようだ。
ここに買い物に来る人は、ダーラーヴィーの外からわざわざやってくることはないと思うので、スラムの住む『富裕層』が顧客となるのか?ボロボロの建物やバラックが延々と続いているものの、さきほどから時折こうした立派な建物を目にすると、本当にここがスラムなのか?と疑ってしまうくらいだ。
その新築物件の背後にあるコミュニティー・センターは、このツアー会社と同一の運営母体によるNGOが運営している。成人のための英語学習コースとパソコン教室を実施している様子をしばし見学してから、この日のツアー代金の支払いを済ませる。あとはコラバまでクルマで送ってもらい、今朝集合した地点で解散である。

ムンバイー タクシー業界仰天

拾ったタクシーの運転手がたまたまお喋りな人で『あなたどこの人?』と尋ねてくる。『Tokyoだ』と答えると、『トゥルキー(トルコ)の人かい。てっきり日本人かと思ったよ』などと言っているが、またどこかで会う人ではないので、こちらは特に否定しない。

『あなたの田舎はどこだい?』と振ってみると、『ラクナウーの近く』との返事。『ラクナウーからどちらの方向かい?』『ゴーラクプルのほうに120キロくらいかなぁ』『じゃあファイザーバードのあたりだな』『おぉ、まさにそこさ!よく知ってるねぇ』なんていう話になった。

かれこれムンバイーで運転手家業を始めて16年になること、数ヶ月前に数年ぶりに帰郷してみて楽しかったこと、ごくたまにしか会うことのできない子供たちが、父親不在でもしっかりと成長して、特に長男が学校で親の期待以上に頑張って良い成績を上げていることなど、いろいろ話してくれた。

こうした人に限らず、ムンバイーのタクシーを運転しているのは、たいていU.P.かビハールの出身者たちだ。郷里に家族を置いて、懸命に稼いでは送金している人が多い。家は遠く離れているし、そう実入りのいい仕事ともいえないが、家族はそれをアテにして暮らしているため、一緒に生活したくてもそうしょっちゅう帰ることもできない。

このほど地元マハーラーシュトラ政府は、そんなタクシー運転手たちが仰天する発表を行なった。
Maharashtra Govt. makes Marathi mandatory to get taxi permits (NEWSTRACK india)
その内容とは『マハーラーシュトラに15年以上居住』『マラーティーの会話と読み書き』が必須条件になるとのこと。

ヒンディーと近縁の関係にあるマラーティーを覚えることはヒンディー語圏の人たちには決して難しいことではない。ヒンディーと歴史的な兄弟関係にあるウルドゥー語を話すアジマール・カサーブ、2008年11月26日にこの街で起きた大規模なテロ事件犯人で唯一生け捕りとなり、現在ムンバイーの留置所に収監されている彼でさえも、周囲の人たちとの会話を通じ、すでに相当程度のマラーティーの語学力を身に付けていることは広く知られているとおりだ。

ムンバイーのタクシー・ユニオンも『運転手たちはヒンディーに加えて、多くの者はマラーティーだって理解するし、英語の知識のある者だって少なくない。何を今さらそんなことを言い出すのか』と、即座にこれを非難する声明を出している。

もっとも『マラーティー語学力を義務付ける』という動きはこれが初めてではなく、1995年の州議会選挙で、それまで国民会議派の確固たる地盤であったマハーラーシュトラ州に、マラーター民族主義政党のシヴ・セーナーが、BJPと手を組んで過半数を獲得することによって風穴を開けたときにも同様の主張がなされていたことがあった。

そもそも義務としての『マラーティー語学力』それ以前の1989年から営業許可の条件のひとつにはなっていたようである。それが今回、これを厳格化するとともに、最低15年以上の州内での居住歴を加えて、州外からの運転手の数を制限し、地元の雇用を増やそうという動きである。タクシー運転手家業の大半が州外出身者で占められているのは、そもそも地元州民でその仕事をやりたがる人が少ないことの裏返しでもあるのだが。

先述の90年代から伸張したシヴ・セーナーは、幹部のナーラーヤン・ラーネーが脱党して国民会議派に移籍、党創設者であるバール・タークレーの甥であるラージ・タークレーがこれまた脱退して新たな政党MNS(マハーラーシュトラ・ナウニルマーン・セーナー)という、本家シヴ・セーナーとはやや路線の違う地域民族主義政党を立ち上げた。

そのため総体としての地域至上主義は、やや影が薄くなった感は否めないものの、このふたつの政党は、やはり今でも一定の存在感を示しているがゆえに、やはり今でもコングレスは安定感を欠く、というのが現状である。

そうしたシヴ・セーナー/MNSの土俵に自ら乗り込み、ライバルの支持層を切り崩し、自らのより強固な基盤を築こうというのが、今回のタクシー運転手の語学力や在住歴に関しての動きということになるようだが、当然の如く、運転手たちの多くの出身地である北部州の政治家等からもこれを非難する声が上がっている。

州首相アショーク・チャウハーンにとっては、そうした反応はすでに織り込み済みのようで、既存の営業許可に影響はなく、新規の給付についてのものであると発言するとともに、将来的にはタクシー車両へのAC、GPS、無線機器、電子メーターと領収書印刷装置等の搭載を義務付けることを示唆するなど、議論をすりかえるための隠し玉はいくつか用意しているようだ。

これまでことあるごとに地域主義政党のターゲットとなってきた北部州出身タクシー運転手たちだが、それと対極にある国民会議派は彼らの力強い味方であるはずであったため、今回の動きについては、まさに『裏切られた』と感じていることだろう。

たまたま街中で目立つ存在であるがゆえにスケープゴートになってしまうのだが、タクシー運転手に限らず、ムンバイーをはじめとするマハーラーシュトラ州内に居住する他州出身者は多い。現在同州与党の座にあるコングレスにとって、これまで地域主義政党が手にしてきた、いわゆる『マラーティー・カード』を自ら引いてしまうことは、かなり危険な賭けであることは間違いない。

この『タクシー問題』が、今後どういう展開を見せていくことになるのか、かなり興味深いものがある。

※『ダーラーヴィー?』は、後日掲載します。

ダーラーヴィー 3

スラムといっても、ダーラーヴィーで私たちが訪れた部分は、1995年以降、政府との合意のもとで住民たちがここで暮らすことが合法化されているとのことで、ちゃんと水道も引かれている。土地は政府のものだが、各地区の建物自体は個々のオーナーの資産であり、ここで賃貸生活をする人々は家主たちに家賃を払うことになる。
ところで、スラムとはいうものの、ダーラーヴィー地区の政治力というのも決して無視できるようなものではないようだ。州議会選挙におけるダーラーヴィー選挙区の有権者は20万人を数える。これまで幾度も再開発計画が持ち上がったものの、いずれも実現することなく頓挫しているというのは、最大で見積もって100万人にも及ぶという説もある巨大な人口のリロケーションをどうするのかという難問に加えて、そうした背景とも無縁ではなかろう。
いよいよ道路反対側のダーラーヴィーに足を踏み入れる。トタンの壁のバラックがどこまでも続いている。前に踏み出すたびにホコリが舞い立つ。他地区からダーラーヴィーを横切る公道は舗装されているものの、それ以外はほとんど未舗装である。
スラムの住人といっても、これまたいろいろあるそうで、この場所で生まれ育ち、そこで再び自分の世帯を構えている人もあれば、季節労働者として農閑期に仕事を求めてやってくる人もあるという。後者の場合は通常男性が単身でやってくるという。そのため、ダーラーヴィーの人口の流動性はかなり高いのだそうだ。
最初に訪れた地区では、プラスチック製品のリサイクルをしていた。集めたプラスチック製品を選別し、溶解して、その後細かいチップとして再生する。これが工業原料として業界に還流していくことになる。後に見学する他の業種もそうだが、同業や関連する業種は同じ地区に固まっており、工 程ごとに隣接している他の作業場が担っている。
裏手に小路にある屋内のスペースでは、溶かしたプラスチックを、まるでパスタを作る機械のようなもので、麺状に長く出していく。これは蓋のない水槽の中を通過、この過程で冷却されてから、裁断機にかけられて細かいチップが出来上がる。チップが沢山出てくるところではまだ湿っているため、作業員たちがそれを手で広げる。強い扇風機の風により、これはすぐに乾燥されていく。
今にも崩れそうな建物、材木とトタンで出来た非常に安普請なものだ。出入り口以外に窓はなく、薄暗い屋内で裸電球が灯っている。ここの2階、日本式に言えば3階にあたるところからハシゴを上ってトタン屋根の屋上へ。
周囲の他の建物もだいたい同じくらいの高さなので、遠くまで見渡すことができる。 すぐそばには携帯電話の電波のタワーがあった。そういえばさっきの作業場で働いている人も携帯電話で話をしていた。少し離れたところには、スラムにあるとは思えない立派なコンクリートの高層階の建物がいくつか見られる。それらは政府による公営の病院や公立学校であったり、あるいはコンドミニアムのようなタイプのモダンな民間住宅であったりする。
西のほうに目をやると、これまた周囲の風景にそぐわない立派な造りの大きなモスクもある。建設資金や運営費などは、一体どこから捻出されるのだろうか。病院や学校が政府によって設置されるのと同じように、おそらくスラムの外のどこからか資金が流入していることと思う。
公道の電柱から大量の電線がぐちゃぐちゃと引き込まれている。もちろん盗電であるが、都会の只中にあることから、送電にインフラは整備されているため、結果としてスラム内はほぼ完全に電気が普及しているとのこと。またテレビも9割以上の世帯に普及しているとのこと。
アルミ缶をリサイクルする作業場もあった。炉でアルミ缶を溶解されて、ちょうど金塊を大きくしたようなタブレット状のアルミ塊を作っている。作業場の傍らに何やら高く積んであるものがあり、布がかぶさっていたが、その下にあるのはアルミ塊の山である。染物の工場もあった。田舎でやっているのと同じように、ただその作業をこのスラムで行なっているというだけのことである。
唐突に香ばしい匂いが漂ってきた。ビスケットの工場である。小路から中が丸見えなので、どうやって作っているのか、その工程が全て見える。材料の小麦粉は、路地端に袋ごとドカドカと置いてあった。まるでセメント袋であるかのように。出来上がったビスケットは、ビニールでパックされて市内各所の店で販売されるという。そういえば、ああいうタイプのものを、私はけっこう好きでよく食べている。雑貨屋の店頭や鉄道駅の売店などでも目にする類のものである。
どこからか、食用油のような匂いがするな、と思ったら今度は食用油の金属缶のリサイクル場である。長年油が浸み込んで、ツルツルするがアスファルトのように固くなった広い土間の上に、おびただしい量の四角い缶が詰まれている。左手にあるものは、穴が開いたり潰れたりしているもので、修理が必要なもの、右手に積んであるのは、ラベルを剥がして洗浄してから再び食用油工場へと出荷するものだという。これは割合慣れが必要な仕事であるそうで、作業は歩合制で、熟練した作業員とそうでない者との間で、手取りがかなり違ってくるそうだ。
脂臭い匂いが漂う。食用油の残りが原料になるのかどうかは知らないが、近くには石鹸工場があった。ブランドなどない簡素な粗い感じの大きな石鹸塊、よく街中の雑貨屋店頭で見かけるのと同じようなものをせっせと作っていた。
食べ物を作ることを生業にしているところはけっこうあるようだ。ダッバーワーラーといえば、ムンバイー名物。金属製の段付きの容器に入った各家庭で奥さんが調理した昼ご飯を、市内各地で働く夫に届ける役目をしているものとして知られているが、弁当の中身そのものを外注できる『レディー・メイド』があるとは知らなかった。
訪れたとき、調理空間は閑散としていた。本日分の昼ご飯はすでに容器に詰められて出荷済み。現在各仕事場に配送されているところだそうだ。付近には、パパッド造りの作業場がある。ごく薄い煎餅状に伸ばされ、ひっくり返した大きな籠の上で天日干しされている。乾季が稼ぎ時で、雨季になると屋根のある限られたスペースでしか乾燥作業ができなくなるとのこと。ここの担い手はほぼ全員が女性たちである。
ムスリムの人々が集住する地区に出た。ヒンドゥーの祠をひたすら作っている作業場があった。ガイドが言うには、ヒンドゥーとムスリムが互いに支えあって生きていることのひとつの例なのだという。皮なめし工場もあった。この作業で使用する薬剤等は、環境に悪影響を及ぼすため、本来この作業をここで行なうことは禁じられているとのことだが。作業場手前のちょっとしたスペースでは、水牛や羊などから出来上がった革材が積み上げられている。ダーラーヴィーの皮なめし業は、インド第二の規模であるとのことで、国内各地はもとより、外国にも輸出されているそうだ。
作業場の多くでは、仕事をするのと同じ場所の片隅で食事を作ったり寝起きしているそうだ。同じ場所で食事、睡眠、仕事のサイクルが日々進んでいく。いろいろな業種にたずさわる人々がいるが、こうした労働者たちの賃金は、日給にして概ね200ルピーくらいだという。農村部で同じような仕事をするとその四分の一ということも往々にしてあるので、そうしたところからの出稼ぎ志望者たちにとっては魅力的な金額であるそうだ。
作業場で火を使うところは多い。木材とトタンで出来ている建物から出火したらどうなるのか、想像してみるだけで恐ろしい。周囲の建物もみんなそうした造りであることから、火は一気に燃え広がる大惨事になってしまうだろう。
これらの作業場に限らず、後で見た他業種の作業場についても、事業主はスラムの外に住むかなり裕福な人であるケースが多いそうだ。土地自体は政府の所有なので、主といっても建物と作業器具類という、金銭的にはさほど価値のないものを所有しているだけに過ぎないが。
ガイドを先頭にして、細い細い路地を歩く。排水設備などなさそうなので、雨が降ったら即泥沼にでもなりそうな地面。人の幅くらいしかない道、人の頭くらいの高さに幾重もの電線が垂れ下がっている。怖いので参加者たちは思い切り身体を縮めて前へと進む。
ところどころコンクリート板を敷いたり、レンガで石畳状にしてあるところもあるが、大部分は裸の土のままだ。家屋や作業場の床が地面よりも高くなっているわけでもない。作業場の床の大半もまた裸の土のままだ。外の道路と建物の中との間に仕切りがあったとしても、モンスーンの際には水浸しになって大変だろう。
スラムであることから、環境は劣悪であるが、特に衛生環境がまったくなっていない。スラムの家の多くにはトイレは設置されておらず、そのあたりの物陰で済ませる以外は、公共のトイレということになる。各世帯にほとんどトイレが普及していないがゆえか、公衆トイレは比較的多く設置されているようであった。
ふと見上げると、そこには高層でなかなか住み心地の良さそうなフラットが見える。周囲の劣悪な環境の中で、郊外のちょっといい住宅地にでもありそうな高級感ある建物。何とも不思議な感じがする。いったいどういう人が、敢えてこんなところに高級フラットを求めるのだろうか?
ここはちょうどダーラーヴィーのスラムの端であるという。背の高い壁があり、そこから先は同じ形をしたコンクリートの建物が並ぶ団地になっていた。公道に出る手前のところにパーキングがあり、スラムでの生産品を外の世界に運ぶため、また外からスラムに生活物資等を運んでくるトラックから人々が積み下ろし作業をしており、ここはまぎれもなくムンバイーの市街地の一部であることを実感させてくれる。

ダーラーヴィー 2

ダーラーヴィーへのツアーに参加するかどうか思案する際、これをオーガナイズしている会社のウェブサイトを閲覧してみたところ、実は普通の旅行会社とはかなり違う部分があることに気がついた。
この会社と母体を同じくするNGOが、当のダーラーヴィーで幼稚園、学校、成人教育などを手がけているとのことである。ツアーの利益の8割はそのNGOの活動資金となるということであり、旅行会社自体が彼らの社会活動の中の収益部門という性格があるらしい。
そのツアー自体が、ダーラーヴィーという地域、そこで働いたり生活したりしている人々に対する先入観や偏見に意義を唱えるという趣旨のものであることも理解できた。またダーラーヴィー訪問最中は、場所を問わず写真撮影は禁止であるとのこと。ちなみにこの会社は、農村を訪問するなど、スタディーツアー的なものも多く取り扱っているようで、スラム見学はその部類に入るようである。
そんなわけで、姑息ながらも、自分自身の心の中で、あまり肯定的に捉えることができなかったツアーに参加する口実のようなものができたことになる。
ツアー開始は午前8時半。コラバ地区のレオポルドカフェ脇の路地を少し入ったところが集合場所であった。そこに着いてみると、まだ誰もいなかったので時間を間違えたかと思ったが、イギリス人男性が声をかけてきた。彼もこれに参加するのだそうだ。間もなくツアー会社のスタッフが来た。本日の参加者はあと3名、すぐにガイドを載せたクルマがやってくるとのこと。
大型のRV車に、運転手とガイド、そしてツアー参加者が、イギリス人男性が2名、南アフリカからきた白人カップル、そして日本人である私の計5名である。これらの参加者たちは、インドの農村で活動するNGOで働いてきた人、自国で学校の教員をしている人などがあった。
マリンドライヴを北上しながら、ガイドは途切れる間もなくスラムについて、ストリート・チルドレンについて、また通過するエリアについていろいろ説明をしている。まだ若いが、いかにもプロフェッショナルで頭脳明晰な感じのする男性だ。
北へと向かう郊外電車の線路脇に、いくつも路上生活者たちの小屋があるのを横目に見ながら、そうした環境で育つ子供たちの問題、とりわけ彼らが陥りがちなドラッグの問題等々についていろいろ説明があった。
やがてクルマは右手に曲がり、赤線地帯として有名なカーマーティプラーへ向かう。『このあたりからが有名な赤線地帯です』との説明がある。派手な看板が出ていたりするわけではなく、食堂があったり、パーンやタバコの店、雑貨屋等があったりといった具合で、一見、他の地域と変わらない商業地区のようにも見えたりもする。
だが娼婦たちはどこの国でも似たような表情、雰囲気を醸し出しているため、歩道に出ていたり、脇に腰掛けていたりする彼女たちの存在でそれとわかる。よくよく見ると、明らかに置屋の入口と思われる狭い戸口がいくつも見える。
この地域が忙しいのは午後5時から午前5時くらいまでだという。かといって他の時間は閉まっているというわけでもなく、基本的に24時間稼業しているそうだ。彼女たちは、インド全国からやってくるといい、多くは仕事を斡旋するなどといった言葉を信じた結果、ここに行き着く者が多いという。
ガイドによれば、ビハールやネパールから来ている女性も多いが、特に人数が多いのはアーンドラ・プラデーシュ州出身者だという。もちろんインドの法律では売春は禁止されているものの、そうした施設の経営者たちは警察との繋がりを持っているため、半ば公認されているかのような状態にあるというのは、他国でもよくある話ではある。しかしながらそのカーマーティプラーの東側の出口にあたる部分に、立派な建物の警察署があるのは何とも皮肉なことである。
クルマは、カーマーティプラーから東にあるチョール・バーザールへと抜けてから、再び北上したあたりには、かつて主に繊維関係の工場が沢山あったのだそうだ。しかし都心であるということから、大企業のオフィスや高級コンドミニアムといった形での不動産需要が高く、多くは他のエリアに移転していっており、このあたりに家を構えていた人たちもまた、それを手放してもっと住環境の良い郊外に移転したり、さらには手元に残るお金で起業したりといったことがトレンドなのだという。都市の表情は、時代ととももに遷ろうものである。
次にマハーラクシュミー駅脇のドービーガートに行く。ムンバイー最大かつインド最大の露天の洗濯場であり、無数に仕切られたコンクリート台が続き、衣類を叩きつけての洗濯作業が日々続く。相当なハードワークであろう。
この場所を所有しているのは政府で、ここを仕事場とする洗濯人たちは、毎月賃料を払っているとのこと。雨季には屋外で乾かすことは難しいので、屋根の下で乾燥作業をするとのこと。目下、乾季ではあるものの、線路を横切る陸橋の上から見える屋根の下には大きな乾燥機があり、そこから出る風を利用して乾燥作業が進行中であった。
1枚いくらという形で収入があり、衣類を紛失するとペナルティーがそこから差し引かれてしまうものの、そこは伝来の出来上がったシステムがあり、おいそれと洗濯物がなくなってしまうことはないとのこと。一見原始的な作業に見えるものの、中ではかなり高度なネットワークがあるらしい。線路の反対側には競馬場があり、おそらく馬の訓練をしているのだろう。騎手が乗って走らされている馬の姿があった。
そして再び北の方角に向かい、マヒムにもあるやや小規模なスラムを横目に見ながら、着いたのがダーラーヴィーのスラムである。道路の左側には巨大な送水管が見える。ここでスラムドッグの撮影の一部が行なわれたということで、スクリーンの中で目にしたような記憶がある。ただし実際にスラムで撮影したのはごく一部で、他の大部分はフィルムシティで撮ったということだが。

ダーラーヴィー 1

映画『スラムドッグ・ミリオネア』の舞台となったムンバイーのスラム。ダーラーヴィー地区、アジア最大のスラムと称されるダーラーヴィー地区だが、近ごろ人口において隣国パーキスターンのカラーチーにあるオーランギー地区に抜かれたという話もある。
Dharavi not Asia’slargest slum: Report (The Financial Express)
もちろん、アジア最大であろうが、2位であろうが、決して誇ることのできるものではない。ダーラーヴィーにしてみたところで、人口は600万強から100万人前後くらいと推定されており、すっきりとした数字を提示できないのはオーランギー地区も同様であろう。
またオーランギー地区には、印パ分離時にビハールから移住したムスリム住民たちが多く居住しているとされることは、亜大陸の近代史の暗部を示しているかのようでもある。スラムドッグ・ミリオネアに触発されたというわけではないようだが、ムンバイーのある旅行代理店が主催するダーラーヴィーを訪れるツアーがある。
こうした類の企画ものについて、『貧困を売りにするのか』『スラムで物見遊山をするのか』という批判が多いことは承知している。また私自身としても、モラルとしてこういうのはいかがなものか、と思っていた。
しかし同時に、このダーラーヴィーという地区について、そこがスラムであるということが理由ではなく、ムンバイーが半島に立地しているがゆえに、インドの他の大都市と異なり、海に囲まれて周囲に広がる余地がない限られた都市空間しか持たないのにもかかわらず、ロケーションのみ見れば交通至便な都心の一等地となり得る地域であることに関心を抱いていた。
またこの地域が、通常考えるところの開発から取り残されていること、しかしながらここに住まう膨大な人口はこの商都の活力たる労働力の供給に貢献しており、この地域で展開される各種工業もまた6億6千万ドル規模と大きなものであることからも、私たちの想像するスラムのありかたとはちょっと異なる性格があるのではないかとも考えていた。
年を追うごとに市街地が拡張していくデリーなどの内陸部の都市と違い、『海に囲まれているため周囲に広がる郊外を持ち難い』という点がカギになるのではないかとも思う。現在のムンバイーの市街地となっているエリアの大半は埋立地である。これについては後日別の機会を設けて記してみようと思う。
内陸部の都市であれば、地形や用途上の障害(開発制限地域や国立公園など)がない限りは、概ね放射状に広がっていき、周辺の町や村を郊外地域に併合し、ときには州境を越えての大都市圏を形成することもある。 こちらの地図を参照していただきたいが、ムンバイーの場合は三方を海が囲んでいるため、拡張できる余地がほとんど残されていないといってよいだろう。
マハーラーシュトラ本土との境をクリークや河が隔てているが、まさにその部分に蓋をするような形で、サンジャイ・ガーンディー国立公園が横たわっている。大都会のすぐそばに豊かな自然が残されるということは素晴らしいことである半面、半島北部へ郊外地域が広がることに対する大きな阻害要因でもある。
そのいっぽう、都心部の首都機能が集中する部分は、半島南部の先細る部分に位置しており、周囲に広がるのは大地ではなく海原であるため、この部分へのアクセスが良好な『郊外』というのは、地理的に非常に限られてしまう。
もちろんムンバイーには、世界最大級の人工都市であるナヴィー・ムンバイーという衛星都市がある。相互補完的な関係にはあっても、水域で隔たれており、橋というごく限られた接点を持つふたつの異なる都市であるため、ムンバイー都心からシームレスに繋がる郊外とは言えないだろう。
こういう表現をすると、多分に誤解を受けてしまうのではないかとは思うが、ダーラーヴィーとは、社会の隅に置かれた人たちが呻吟するスラムというだけではなく、実はある意味『郊外』という性格も持ち合わせているのではないだろうか。
都市が必要としており、また人々も必要としている郊外が、本来ならば都市の外縁部に形成されるはずのところ、ムンバイー独自の地理的な制約から、都心部にある政府所有の土地を占拠する形で、しかも高度に凝縮して出現してしまったと見方もできるのではなかろうか、とも思うのである。