ナガランド5 市場

食品市場
 干物だがどれも川魚である。
ウナギの干物。どんな味がするのだろうか?
ナガランドといえば、他の土地では通常食用とされない様々な物が食されていることが知られているが、やはり市場に行くといろんなものが売られていた。 

本日の記事については、人によってはとてもグロテスクに感じたり、不愉快に感じたりするかもしれない画像が含まれることをあらかじめ申し上げたい。加えて、これらの写真の多くは、私自身の主観に照らして『珍しい』と判断したがゆえに取り上げているが、市場で売られている大多数の品々は、私たちが日常的に食べている食肉、野菜、果物類と大差ないことをお断りしておく。また、こうした『珍品』については、同じ『動物性蛋白源』であっても、大量生産が可能な鶏肉やマトンなどと比べて高価なこともあり、個々の家庭で日常的に消費されているという訳ではないと思われることも言い添えておく。

野蚕の幼虫
野蚕のサナギ

さて、ナガランドの市場において最も特徴的なのは、いろんな種類のイモ虫やサナギが売られていることだろう。多くは野蚕の種類である。私はそれらを見て大いに引いてしまったのだが、韓国人のL君は「何だ、ポンデギじゃないか。」と事もなげに言う。そういえば韓国の街角では屋台料理のサナギをよく見かける。昆虫類では、他にはイナゴ、ヤゴなどが売られており、虫以外ではタニシやカエルを商う売り子が多い。

イナゴ
ヤゴ
タニシ
蜂の子
ハニーコーム。これは飛びきり美味しそうだった。

やけに赤身の色が濃い肉が売られており、尋ねてみると犬肉であるとのことであった。ボウルに入った臓物も販売されていた。その脇では、噛み付かないように口をヒモで結ばれた犬たちが、首から下を麻袋に包まれた状態で置かれている。すっかり観念した様子でゴロリとなっているが、ときどき頭を起こして周囲を見渡したりしている。こちらと視線が合うと、慌てて目をそらして反対側を向いて寝そべる。頭の良い動物なので、おそらく自分の運命がだいたい判っているのではないだろうか。気の毒に思うが、地元の食文化なので仕方ない。ナガランドで野良犬が少ない理由はこれだろう。しかも他の食肉よりも値の張る『高級食材』でもある。

食品として売られる犬たち。
カゴに入れられたネズミたち

だが、『食肉』の元となる動物たちについて思えば、きれいにパックされて、あたかも工業製品であるかのように、無機的な感じで販売されているのが良いとは一概に言えないだろう。そうした環境下では、『生けるもの貴重な命をいただいている』という謙虚な気持ちが生じることはない。例えば、マーケットで『シメたて』の鶏の肉を手渡されて、ビニール袋越しにさきほどまで生きていた鶏の体温を感じつつ家路につくのと、冷蔵あるいは冷凍で『規格製品』然としたパッケージをレジ袋に放り込んで帰宅するのとでは、相当な違いがある。

昆虫類など、あまり好奇心に満ちた表情で見て回るのは失礼かと思い、幾人かに「あなたの国でも食べるのか?」と質問されたが、「そう、ウチの村ではよく食べているんだよ。」など適当に答えておく。市場では、こうした『食品類』を販売する地元の売り子たちと肩を並べて、平地から来たインド人たちも商っているが、慣れないうちはずいぶカルチャーショックを受けていたに違いない。

食品ではないがヒョウタンも売られていた。日本のそれと同じ。

インドの露店商たちは、隣合わせているナガ族の同業者たちと親しげに会話しているが、ナガの言葉を理解するインド人はほとんどないようで、ヒンディーが使われている。文化的にも民族的にも『インド』とは大きく異なり、長らく民族独立闘争が続いてきたナガランドではあるものの、意外なまでにヒンディーの通用度は高い。もちろん在住のインド人がナガの言葉を多少は覚えたりもすることもあろうが、ナガ族の間でのヒンディーの普及度のほうが、はるかに高いはずである。

<続く>

ムンバイーでモノレール試験走行

本日から、ムンバイーで建設中のモノレールの試験走行が実施されている。営業運転が開始されるまで、あと8~9か月ほどかかる見込みであるとのことだ。

Mumbai: Monorail trial begins today (India Today)

同じく、ムンバイーではメトロも計画されており、近い将来市内交通の利便性が格段に向上することが見込まれる。 またメトロのネットワークが広がったデリーでもモノレール建設計画がある。

Monorail in Delhi by 2017 (India Today)

継続的に高い経済成長を続けているインドだけに、長らく不況にあえぐ日本の現状を思うと、明るい話題に事欠かない躍進ぶりは非常にまぶしく見える。現状では都市交通のインフラのレベルが高くないだけに、今後の伸びしろが大きいということもあり、社会層間や地域間の大きな隔たりはあっても、総体的には着実に向上していることは間違いない。

経済成長やそれに伴う社会や環境の変化には、同時にネガティヴな面も同居していることは否定しないが、それでも『よりより明日』を期待できることは羨ましくもある。とりわけ人口構成が若年層に厚く、高齢化問題とも当分縁がないことも、その成長を着実に後押ししているといえる。

ムンバイーのモノレールが開業したら、すぐにでも乗り込んで『世界で一番元気な国のひとつ』の勢いを体感してみたい。

※ナガランド5は後日掲載します。

ナガランド 4 コノマ村

山の上の街州都コヒマから平地にあるナガランド最大の街ディマープルへと続く国道39号線を途中で逸れると未舗装のひどい悪路となる。モンスーン期には小型車での走行は不可能となり、バスかスモウ(大型の四輪駆動自家用車)のようなクルマでなければ通行できなくなるという運転手の言葉に頷くしかない。

ターター社の小型車インディカにて、文字通りバンバン跳ねながらの走行。幾度も車内天井に頭をぶつけてしまう。こういうタイプの車両で移動するような道ではない。クルマが壊れるのではないかと思うくらいだ。窓を閉めているものの、車内はどこからか侵入してきた土埃でたちまち一杯になる。 ジャングルの中のダートのようなひどい道を進んで1時半半くらいでコノマの村が見えてきた。縦に長く、斜面に広がるこの村は、両面の斜面に家々が張り付いている。まるでコヒマをそのまま小さくしたかのようだ。どこまでも丘陵地が続くナガランドでは、町や集落はたいてい小高いところに造るもののようだ。

ナガランドの村は小高いところにというのが定石らしい。
日中は人々の姿が見えない村

ずいぶん静かな村であった。そもそも村の主であるはずの人々の姿がなく、突如として蒸発してしまったかのようで気味が悪い。まったく人気のない村の中を進んでいくと、ようやく幼い子を遊ばせる母親の姿があってホッとする。

村の中には伝統的なナガの家屋は一軒もないようで、コヒマ郊外にあるような感じのごく普遍的な木造の家屋が大半で、これらに加えてインドの他の地域にあるような普遍的なレンガ積みの建物が少々といった具合。村のあちこちに展望台のようなものがあり、そこがちょっとしたスペースや広場のようになっている。焚き火の跡もあり、夕方そのあたりに人々が集ったりするのだろう。

共同の水場がいくつもあり、近隣のより小さな村から出てきた学齢期の子供たちを住まわせるホステルもあることに加えて、村の中の細い路地のかしこに小さなゴミ箱が設置されており、チリひとつない清潔な環境であることにびっくりした。想像していたよりもずっと文化的だ。それぞれに政府のプロジェクトで作ったことを示す記号らしきものが書かれていることから、活発な反政府活動が続いてきたナガランドだけに、政府が民生の向上に対する貢献をアピールするためのプロパガンダ的な要素があるのかもしれない。

広場を中心にいくつかの家屋が集合しているものもある。一族で暮らしているのだろうか。そうしたひとつで、少年、青年がいた。こういう村でもちゃんと英語を話す人がいるのはナガランドらしいところだ。食事中であった彼が言うには、人々は朝早くから田畑に出て仕事をしているため、日中の村の中には幼い子供を持つ母親くらいしかいないとのことだ。

比較的大きな村ではあるものの、店らしいものは見当たらない。村人たちは日用品をどうやって調達しているのだろうか。衣類などは町に出て購入するにしても、石鹸、洗剤、調味料といった毎日使うようなのは、どこかでまとめ買いしておくのだろう。

村は細い丘の上にある。真ん中を縦貫する階段の通路があり、周囲をぐるりと回る道路が囲んでいる。インドのどこでもそうだが、村を訪問する際に嫌なのは犬だ。町中に住んでいる犬たちと違って、ヨソ者に慣れていないため盛んに吠え付いてくるし、これまたしつこい。太陽が高いうちのコノマの村はほとんど無人状態だ。野犬たちの群に囲まれたら、素手だとちょっと危険かもしれないと思い、カバンから折り畳み傘を出しておいたが、一匹の野犬もいないのが意外であった。州都コヒマでも妙に野犬が少なく、人を見かけると逃げるように迂回してしまう姿を目にして、ちょっと不思議に思っていたが、そのあたりについては、後日触れることにする。

家屋の中には、英語で売りに出しているということを書いた紙が貼られているものがあった。こういうところで、つまりアンガミー・ナガの村であるがゆえに、他所から関係のない人が移住してくることはないだろう。だが、もしこの村が観光化されていくことがあれば、マナーリーのヴァシシュトのようになるのではないだろうか。

最初は地元の人々がゲストハウスや食堂などを始めて、外国人その他の観光客の出入りが増えてくると、地元の人々もこなれてきて、他所からの商売人も入ってくる。そうしたところで雇われて働く人々にはナガ以外の人たちも入ってくる。そうしたプロセスを経て、いつしか他所の人々も含めた小さなコスモポリタン的な集落になり、観光客たちが「沈没する」場所になっていくようなこともあるかもしれない。RAPが恒久的に不要となれば、インド長期滞在旅行者たちが集う場所となることが予想できる。彼らは何か特別なものが、何か特に見るものがなくても、こうした牧歌的な風景の中でゆったりと時間を過ごすのが好きだからだ。

村の周囲には段々畑や棚田が広がる。インド人たちの姿はない。見かけるのはナガの人々だけである。インド人たちと違い、外国人が来てもチラチラと見てはいるものの、好奇心剥き出しに近づいてくることはない。大人も子供も、こちらが声をかけると、はにかみながら返事をしてくれる。

村の中心部にあるバプティスト教会前の広場には、戦争で亡くなった人たちに対する慰霊塔がある。この戦争とは、旧日本軍の侵攻ではなく、ナガの独立戦争のことである。石碑には死者の名前が刻まれており、上部には青地に星と虹を描いた「ナガランド国旗」が描かれている。

内戦による戦死者たちへの記念碑

政府の様々なプロジェクトが実施されているこの村の玄関口に、こうした記念碑が建立されていることにいささか驚いた。だが、こうした村の中にあるこうした石碑は、たいていナガの言葉で書かれているもののようだが、これは英語で記されている。ひょっとすると、和解を演出するために行政側が建てたのでは?と疑いたくなる余地もある。

それでも、コノマの村も内戦とは無縁ではなかったこと、ここから多くの戦士を出していることがわかる。内戦時代にはとても危なくて近づくことはできなかった場所なのかもしれない。内戦が激しかった時代には、州内を走るトラックやバスは前後に軍用車の護衛をつけてコンボイを組んで山道を走っていたという。それも上り坂で速度が落ちたところを襲撃されていたという話を聞いたことがある。

ナガランドは、総体として和平への方向にあり、それが進展してきたがゆえに、こうしてRAP無しで入域できるようになっているわけだが、これが恒久的なものであって欲しいと願いたい。

<続く>

ナガランド3 コヒマ戦争墓地

War Cemeteryからコヒマ市街地を望む

坂道の街、コヒマの街並みを眺めるのに絶好のロケーションにコヒマ戦争墓地がある。インパールのものと同様、ここも第二次大戦時の日本軍によるインパール作戦により亡くなった兵士たちを埋葬してある墓地だ。英連邦戦争墓地委員会(CWGC:Commonwealth War Graves Commission)が管理しているという点も同じならば、墓標のタイプも同一である。

ただ違うのは、インパールでは死亡日ごとに固めて埋葬されていたが、ここでは所属連隊ごとになっている点だ。それでも亡くなった日はたいてい特定の日付に集中していることから、それらの日に大きな戦闘があったものと理解できる。

インパールの墓地同様に、ここでも地元の連隊以外に、亜大陸各地の連隊所属の兵士たちはもちろんのこと、当時の英領インド以外のイギリス植民地から派遣された兵士も多かったことが墓標からわかる。カナダから来た兵士の名前もあった。無理を承知で作戦を敢行した旧日本軍兵士だけではなく、防衛する側にとっても非常に重要かつ困難な戦いであったことを示している。

インド兵の墓標はほとんどがムスリムだが、一部にグルカ兵の名前もある。スィクやヒンドゥーのインド兵死者については、墓地の最も奥にある石碑に所属連隊ごとに氏名が刻まれている。彼らが火葬されたことも記されている。兵士以外にも軍医、運転手、その他軍属の仕事をしていた人たちも墓標や石碑に名前が刻まれている。

欧州系の兵士とともにインドのムスリム兵士の墓標も多い。
当時英領であったマレー半島の連隊から派遣されて亡くなった英兵の墓標。
墓を作る習慣のないヒンドゥー兵士、スィク兵士については、個々の名前を記した記念碑がしつらえてある。

墓地の出口付近に掲げられていた一文が胸を打つ。

WHEN YOU GO HOME

TELL THEM OF US AND SAY

FOR YOUR TOMORROW

WE GAVE OUR TODAY

無為な戦争のために命を落とさなくてはならなかった当時の若者たちはさぞ無念であったことだろう。攻撃を仕掛けた側の兵士も、防衛していた側の兵士も。

第二次大戦に従軍した世代の人々がとうの昔に社会の第一線から退き、しかも大半が鬼籍に入りつつある今、あの戦争のことを一人称で語る人は身の回りにほぼいなくなっている。残酷な事実も血生臭い現実も、時間の経過とともにリアリティーが失われていき、過去の歴史の中のひとつの叙事詩のようになりつつある現在、NHKアーカイブスのような映像・音声による記録は貴重なものとなっている。

[証言記録 兵士たちの戦争]インパール作戦 (NHK 戦争証言アーカイブス)

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000

戦争という過ちについて、私たちの世代はもちろんのこと、更に後世の人たちもこれを美化することは決してあってはならない。

<続く>

ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

コヒマの早朝

朝早く6時くらいに目覚めても、すでに陽はすっかり上っている。さすがインド最東端エリアだけのことはある。まず外出して、この街で一番高いホテルということになっているジャプフー・ホテルに行く。もともとはジャプフー・アショークと呼ばれていたアショカグループのホテルであったが、5年くらい前にナガランド政府系の会社に売却されたとのこと。公営の施設が民間に売却という例はどこの国でも近年多いが、反対に民間施設を公営企業に売却というのはあまりないように思う。

ホテルへの道すがら、あるエリアでインドの平地から来たとおぼしき人々が道路脇に大勢立っている様子が目に入る。やがて一台、また一台とトラックがやってきて、彼らを乗せて出て行く。おそらく工事現場等で雇われている人たちだろう。見るからに経済活動が低調で、地元の人々に就業機会があまりなさそうなコヒマだが、3K的な仕事場で下働きをする人々は他州から来た人々が多いようだ。他州とは北東インドの外の地域、大概はビハール、UPの両州のことである。

クリスチャンが多いナガランドでは、トラックもそれらしい仕様になっている。
トラックが頭上に頂くのはジーザス。

同行のL君は、目下抱えている仕事の関係があり、私と同じくコールカーターで契約したプリペイドのvodafoneのネット接続プランが、コヒマではまともに使えないことがわかったため、Wi-Fiが利用できることになっているジャプフー・ホテルのネット接続環境の検証のために訪れた。ロケーションとしてはベストだ。街中で最も標高の高いところに鎮座するナガランド警察本部の真正面にある。周囲の眺めはもちろんのこと、給電の優先度も高いはずだ。だがレセプションその他の従業員の緩慢な動きは、やはり政府系のホテルという感じがする。とりあえずここのレストランで朝食を取ることにした。

仕事の締め切りが迫っている関係で一日中ホテルに缶詰めになるL君には申し訳ないのだが、私は一人で観光に出かける。本日向かうのは、キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村だ。どちらもコヒマから南下してマニプル州境に向かう道路沿いにある。

キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジは、文字通りナガランドの生活文化を再現したテーマパークである。ナガランド州の主要民族であるナガ族には、アンガミー、アオ、コニャク、レングマー、ローター等々、様々な支族があるのだが、そうしたコミュニティの様々な家屋がしつらえてある。屋根の材料がよしずであったり、石板であったりといろいろある。壁材も竹、木材、竹のようなものを編んだもの等、いろいろなバリエーションがあることがわかった。だが残念なのは、部族ごとの特徴や生活文化の違い等を説明する案内文や博物館のようなものもないことだ。それぞれの家屋には部族名の表示はしてあるのだが。そのあたりがある程度把握できるようにしてもらいたいものだ。

ちょっとイマイチのキサマ・ヘリテージ・ヴィレッジを後にして、キグウェマ―の村に行く。さきほどのヘリテージ・ヴィレッジで見たような伝統的な家屋があることを期待していたが、そうではなかった。道路に面したところに垣根のようにして薪が積んであることを除けば、インドの山間のどこにでもあるような感じの村である。ただ家屋のたたずまいはこのあたりらしく、東アジアをも彷彿させるような感じではある。

さほど人口が多いとは思えない村だがいくつもの教会がある。人々の家屋のたたずまいに比して、教会の建物は外から見る限りではなかなか立派だ。ナガランドでは、バプティスト系の教会がとても多いようだが、国外からの資金流入もあるのではなかろうか。村から遠くコヒマの街を望むことができる。村の周囲には段々畑が広がる。

村では工事をしているインド人(北インド人)労働者たちの姿があり、声をかけてみるとビハールからとのこと。ナガランドでは地元の人たちに仕事がないが、こうして外から来る人たちの姿は多いようだ。だからといって地元の雇用機会を奪っているとは言えないのかもしれない。インド各地で共通していることだが、ビハールから来た労働者たちは、地元の人々がやりたがらない汚れ仕事等を低賃金で引き受けてくれていることを忘れてはいけない。

夕方、コヒマに戻る。宿泊先のホテルがある地域は、コヒマの街そのものの起源のコヒマ・ヴィレッジと呼ばれるエリアであり、こんなゲートがしつらえてある。

コヒマ・ヴィレッジのゲート

坂道を上った先のほうには、T – Khelなるものがある。元々、コヒマ・ヴィレッジには、D (Dapfütsumia) Khel、L ( Lhisemia) Khel、P ( Pfüchatsumia) Khel 、T (Tsütuonuomia) Khelと四つのKHELがあり、住民たちはその四つのKHELのいずれかに所属することになっており、現在でもその活動は盛んであるそうだ。Khelとは、町内会的な役割加えて、同属会とか結社のような性格もあるようだ。

T - Khel入口

<続く>