ナガランド3 コヒマ戦争墓地

War Cemeteryからコヒマ市街地を望む

坂道の街、コヒマの街並みを眺めるのに絶好のロケーションにコヒマ戦争墓地がある。インパールのものと同様、ここも第二次大戦時の日本軍によるインパール作戦により亡くなった兵士たちを埋葬してある墓地だ。英連邦戦争墓地委員会(CWGC:Commonwealth War Graves Commission)が管理しているという点も同じならば、墓標のタイプも同一である。

ただ違うのは、インパールでは死亡日ごとに固めて埋葬されていたが、ここでは所属連隊ごとになっている点だ。それでも亡くなった日はたいてい特定の日付に集中していることから、それらの日に大きな戦闘があったものと理解できる。

インパールの墓地同様に、ここでも地元の連隊以外に、亜大陸各地の連隊所属の兵士たちはもちろんのこと、当時の英領インド以外のイギリス植民地から派遣された兵士も多かったことが墓標からわかる。カナダから来た兵士の名前もあった。無理を承知で作戦を敢行した旧日本軍兵士だけではなく、防衛する側にとっても非常に重要かつ困難な戦いであったことを示している。

インド兵の墓標はほとんどがムスリムだが、一部にグルカ兵の名前もある。スィクやヒンドゥーのインド兵死者については、墓地の最も奥にある石碑に所属連隊ごとに氏名が刻まれている。彼らが火葬されたことも記されている。兵士以外にも軍医、運転手、その他軍属の仕事をしていた人たちも墓標や石碑に名前が刻まれている。

欧州系の兵士とともにインドのムスリム兵士の墓標も多い。
当時英領であったマレー半島の連隊から派遣されて亡くなった英兵の墓標。
墓を作る習慣のないヒンドゥー兵士、スィク兵士については、個々の名前を記した記念碑がしつらえてある。

墓地の出口付近に掲げられていた一文が胸を打つ。

WHEN YOU GO HOME

TELL THEM OF US AND SAY

FOR YOUR TOMORROW

WE GAVE OUR TODAY

無為な戦争のために命を落とさなくてはならなかった当時の若者たちはさぞ無念であったことだろう。攻撃を仕掛けた側の兵士も、防衛していた側の兵士も。

第二次大戦に従軍した世代の人々がとうの昔に社会の第一線から退き、しかも大半が鬼籍に入りつつある今、あの戦争のことを一人称で語る人は身の回りにほぼいなくなっている。残酷な事実も血生臭い現実も、時間の経過とともにリアリティーが失われていき、過去の歴史の中のひとつの叙事詩のようになりつつある現在、NHKアーカイブスのような映像・音声による記録は貴重なものとなっている。

[証言記録 兵士たちの戦争]インパール作戦 (NHK 戦争証言アーカイブス)

http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210021_00000

戦争という過ちについて、私たちの世代はもちろんのこと、更に後世の人たちもこれを美化することは決してあってはならない。

<続く>

ナガランド2 キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村

コヒマの早朝

朝早く6時くらいに目覚めても、すでに陽はすっかり上っている。さすがインド最東端エリアだけのことはある。まず外出して、この街で一番高いホテルということになっているジャプフー・ホテルに行く。もともとはジャプフー・アショークと呼ばれていたアショカグループのホテルであったが、5年くらい前にナガランド政府系の会社に売却されたとのこと。公営の施設が民間に売却という例はどこの国でも近年多いが、反対に民間施設を公営企業に売却というのはあまりないように思う。

ホテルへの道すがら、あるエリアでインドの平地から来たとおぼしき人々が道路脇に大勢立っている様子が目に入る。やがて一台、また一台とトラックがやってきて、彼らを乗せて出て行く。おそらく工事現場等で雇われている人たちだろう。見るからに経済活動が低調で、地元の人々に就業機会があまりなさそうなコヒマだが、3K的な仕事場で下働きをする人々は他州から来た人々が多いようだ。他州とは北東インドの外の地域、大概はビハール、UPの両州のことである。

クリスチャンが多いナガランドでは、トラックもそれらしい仕様になっている。
トラックが頭上に頂くのはジーザス。

同行のL君は、目下抱えている仕事の関係があり、私と同じくコールカーターで契約したプリペイドのvodafoneのネット接続プランが、コヒマではまともに使えないことがわかったため、Wi-Fiが利用できることになっているジャプフー・ホテルのネット接続環境の検証のために訪れた。ロケーションとしてはベストだ。街中で最も標高の高いところに鎮座するナガランド警察本部の真正面にある。周囲の眺めはもちろんのこと、給電の優先度も高いはずだ。だがレセプションその他の従業員の緩慢な動きは、やはり政府系のホテルという感じがする。とりあえずここのレストランで朝食を取ることにした。

仕事の締め切りが迫っている関係で一日中ホテルに缶詰めになるL君には申し訳ないのだが、私は一人で観光に出かける。本日向かうのは、キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジとキグウェマ村だ。どちらもコヒマから南下してマニプル州境に向かう道路沿いにある。

キサマ・ヘリテージ・ヴィレッジは、文字通りナガランドの生活文化を再現したテーマパークである。ナガランド州の主要民族であるナガ族には、アンガミー、アオ、コニャク、レングマー、ローター等々、様々な支族があるのだが、そうしたコミュニティの様々な家屋がしつらえてある。屋根の材料がよしずであったり、石板であったりといろいろある。壁材も竹、木材、竹のようなものを編んだもの等、いろいろなバリエーションがあることがわかった。だが残念なのは、部族ごとの特徴や生活文化の違い等を説明する案内文や博物館のようなものもないことだ。それぞれの家屋には部族名の表示はしてあるのだが。そのあたりがある程度把握できるようにしてもらいたいものだ。

ちょっとイマイチのキサマ・ヘリテージ・ヴィレッジを後にして、キグウェマ―の村に行く。さきほどのヘリテージ・ヴィレッジで見たような伝統的な家屋があることを期待していたが、そうではなかった。道路に面したところに垣根のようにして薪が積んであることを除けば、インドの山間のどこにでもあるような感じの村である。ただ家屋のたたずまいはこのあたりらしく、東アジアをも彷彿させるような感じではある。

さほど人口が多いとは思えない村だがいくつもの教会がある。人々の家屋のたたずまいに比して、教会の建物は外から見る限りではなかなか立派だ。ナガランドでは、バプティスト系の教会がとても多いようだが、国外からの資金流入もあるのではなかろうか。村から遠くコヒマの街を望むことができる。村の周囲には段々畑が広がる。

村では工事をしているインド人(北インド人)労働者たちの姿があり、声をかけてみるとビハールからとのこと。ナガランドでは地元の人たちに仕事がないが、こうして外から来る人たちの姿は多いようだ。だからといって地元の雇用機会を奪っているとは言えないのかもしれない。インド各地で共通していることだが、ビハールから来た労働者たちは、地元の人々がやりたがらない汚れ仕事等を低賃金で引き受けてくれていることを忘れてはいけない。

夕方、コヒマに戻る。宿泊先のホテルがある地域は、コヒマの街そのものの起源のコヒマ・ヴィレッジと呼ばれるエリアであり、こんなゲートがしつらえてある。

コヒマ・ヴィレッジのゲート

坂道を上った先のほうには、T – Khelなるものがある。元々、コヒマ・ヴィレッジには、D (Dapfütsumia) Khel、L ( Lhisemia) Khel、P ( Pfüchatsumia) Khel 、T (Tsütuonuomia) Khelと四つのKHELがあり、住民たちはその四つのKHELのいずれかに所属することになっており、現在でもその活動は盛んであるそうだ。Khelとは、町内会的な役割加えて、同属会とか結社のような性格もあるようだ。

T - Khel入口

<続く>

ナガランド1 コヒマ到着

インパールのClassic Hotelにて、利用した部屋の二人利用での宿泊費は、種々の税金が加算されておよそ3,000Rs(約4,700円)なのだが、この価格帯のホテルとしてはあり得ないほど、サービスやマナーが優れていた。いくつかのタイプの部屋があり、料金はこちらをご参照願いたい。

同行しているL君は「インパールで一番のホテルということは、政治家や実業家その他の要人の利用も多いんじゃないかな。だから従業員への教育がしっかりしているんだと思う。」と言う。まさにそのとおりなのだろう。宿泊、食事は言うに及ばず、立派な会議室や宴会場も用意されている。2009年開業と新しく、客室が快適であることはもちろんのこと、階下のレストランもリーズナブルかつ美味でとても良かった。今、私の記事を読んで下さっているあなたが、インパールを訪れることがあれば、ぜひこのホテルに投宿されることをお勧めしたい。辺鄙な地方ではあるものの、『州で随一』のホテルが、この程度の料金で利用できるというのも、あまりないことである。

朝食を済ませてから、ホテルの界隈から出発するナガランド州都コヒマ行きのバスに乗り込む。バスは宿近くの交差点あたりから午前8時発の予定であったが、乗客が集まって発車したのは結局9時くらいになった。周囲を山に囲まれた盆地にあるインパール市内を出たところで、時間的には出発から20分ほどのところで、バスはいきなり休憩時間に入り、運転手や乗客たちが食事を始めてしまったので、ちょっとびっくりした。これは朝食ではなく、中途で食事できる場所がないため、これは昼食なのだという。この場所には二軒のレストランがある。

市内を出たと思ったらいきなり昼食休憩

この日、コヒマまで6時間ほどの行程の中で、他州と違って街道沿いにいくつか食堂が軒を並べているような場所はなかった。私とL君は、乗車前にインパールのホテルの朝食バフェでたらふく食べてきたばかりであったので、やけに早い昼食をパスした。

40分くらい停止した後、バスは出発する。運転手が食事を終えて、チャーイをすすって、タバコに火を点けて紫煙を燻らせて満足したあたりで、運転席のドアをガチャリと開けて、クラクションを鳴らして『出発するぞ!』と乗客に招集をかける専制君主的な態度は、全インド共通のものである。

今回、ひとつ気掛かりなのは、『専制君主』が手慣れた感じのオジサンではなく、そもそも免許取得年齢に届くかどうかといった外見の、非常に若い運転手であることだ。今日のバスは、インパール始発、コヒマ経由でディマープルまで行くものだ。

この食事の場所から山地に入る。しばらくは上り坂だ。道路はかなり悪く、揺れが大きい。ときおり軍用車両を見かける。複数の車両が固まって走っており、兵士たちは防弾チョッキを着ている。また銃を背負うのではなく常に前に構えており、走行中の車両から複数の兵士が天井の窓から上半身を出して、銃を外に向けて警戒していることなどから、他州の軍駐屯地ののんびりした雰囲気とはまったく違う。

どこまでも続く丘陵地

山間の道をバスは進んでいく。ヒマーチャル・プラデーシュ州のような急峻な崖を想像していたが、もっとゆるやかな丘陵地であった。だが道路の交通量は、ヒマーチャルに比較して格段に少ない。途中の町々は、やや大きめのものはあったものの、相対的に発展から大きく取り残された貧しい地域であることは明らかだ。スィッキムやヒマーチャルと地理条件には少々似たものがあるとはいえ、ずいぶん遅れていることが見て取れる。沿道には、 長距離バスが停車して食事を取るような安食堂さえ見当たらない。

どのあたりからナガランドなのかと思っていたが、マニプル州都のインパールからナガランド州都コヒマまでの全行程6時間のうち、ナガランドの州境を越えたのはコヒマ到着の1時間前であった。チェックポストがあり、「ナガランドへようこそ」と書かれたゲートがあった。そこからしばらく走るとコヒマの街が斜面に見えてきたのだが、コヒマ到着まで1時間近くかかった。山間部なので道路が大きく迂回しているためだ。

コヒマはかなり大きな街だ。ここに来るまでの山間部では他のインドの地域とは異なる感じの家々があった。・・・と言っても、ナガ族独特のスタイルの家屋があったわけではなく、木造の三角屋根の建物という意味)が大半であった。だが街に入ってくると、シムラーやダージリン等、他のヒルステーション同様の街並みとなる。現代のインドの建材と工法で建てるので、結局そういうことになるのだろう。

ホテルはRazhu Pruという、何と発音するのかよくわからないホテル。ナガの言葉はローマ字で表記されるが、ウムラウトが付いていたりすることから、発音はなかなか複雑なのかもしれない。68年前に建てられたというクラシカルな洋館である。

ロビー周りはなかなかいい感じに飾ってある。

チェックインしてから部屋に荷物を置いて外出。斜面を下るとマーケットがある。しばらく散策しているうちに日が沈み、辺りは暗くなってくる。そして周りはすっかり真っ暗になってくる。つまり街灯がないからだ。まだごくわずかに開いている店では蝋燭を点している。どこも行くところがないし、帰り道もわからなくなるので、そそくさと宿に戻る。

街の中心近くだが、街灯はほとんど無いため、陽が沈むとそのまま闇に包まれてしまうのが困る。

宿ではナガ式の夕食を注文する。ブタとチキンの煮物、そして何か発酵調味料のはいっているスープ、ご飯とデザート。発酵した味の正体が何だかよくわからない分、旨いのか、そうでもないのか、ちょっと微妙な感じだ。

ナガ料理の夕食

夕食前にはネットが繋がっていたものの、その後はまったくダメになった。Vodafoneの3G通信のUSBスティックを持参のノートパソコンに挿しているのだが、州都でありながらもまったくもって不安定である。その後、長い停電があった。窓の外に見える向こうの斜面の街並みでは煌々と灯が点いている。翌日歩いてみてわかったのだが、政府機関、軍施設、有力政党の事務所等がある地域であった。

マニプルへ6  マニプリー・ターリー

市内中心に戻り、カングラー・パレスに行く。1891年のアングロ・マニプリ戦争で破壊されるまでは、マニプルでマジョリティを占めるメイテイ族の王の宮殿であったのだが、今は特に見るべきものは残されていないようだ。

背後はただの廃墟であった。

民族文化の象徴的なものであるはずのこの場所だが、荒れ放題の宮殿跡地、近年造られたらしいコンクリート造の寺・・・。あまりの無頓着ぶりに、地元の歴史や文化に対する政府(中央政府も地元政府も同様に)の姿勢が垣間見えるような気がする。インドにしても、中国にしても、突出して巨大な文明圏の周辺地域の文化は、往々にしてかように軽視されていくことになるのだろうか。市井の人々にも、それらを保護して育てていく力も経済力があるはずはないので、仕方ないことかもしれない。

マニプルに来るまで知らなかったのだが、メイテイ族独自の文字がある。私たちにとって見慣れない文字だ。インドにあっても、州外でこれらを目にする機会はまずないだろう。

本日の観光とはあまり関係ないのだが、インパールではガソリン等の燃料の供給が不足しているらしく、ガソリンスタンドはどこも長蛇の列であった。

ガソリンスタンドは長蛇の列

夕方、ホテルのレストランでマニプリー・ターリーを食べた。通常の外食では、地方料理はあまり出していないようである。ここでも前日から注文しなくてはならなかった。どんな食事かといえば、結局は品数がターリーである。遠目にはインドでよくある料理風なのだが、近寄って眺めるとこの地方独自のアイテムが沢山あることに気が付く。汁物が竹の葉を折って作った容器に入って出てくるのも風雅な感じで良い。

見た目美しく、味わいもまた美味なマニプリー・ターリー

特徴的なのは、料理に使われている油の量が少ないこと、味付けに豆や魚を発酵させたものが使われていることである。乳製品はおそらくあまり使用されていないのではないかと思われる。インドらしからぬ味覚で、東南アジア的、あるいは東アジア的ともいえる臭みのある食事については、韓国人のL君と日本人の私にとっては判りやすい味であったが、地域外からやってきたインド人や西洋人は苦手かもしれない。ともあれ、私たちにとってはグルタミン酸たっぷりの素晴らしい味わいであった。

あまりに美味であったので、これからインパールを訪問される方があれば、ぜひお試しいただきたい。レストランは、インパール一番高級、すなわちマニプル州でも最高級(それでも二人で宿泊して3,000Rs)と思われるHotel Classic内のClassic Caféというレストラン。サービスもとても良いが、午前中から夕方までの時間帯には、『ミス・ノースイースト』と形容したくなる絶世の美女がフロアに出ている。

マニプル発のニュースは、インド国内でも州外ではほとんど見かけないので、日々どんな事柄がトピックになっているのか、なかなか知る機会がない。それでも、やはりインドなので英文メディアには事欠かず、インターネットでも日々発信している。

以下、マニプルの英語メディアの代表的なものである。

E-PAO

The Sangai Express

HUEIYEN LANPAO

Imphal Free Press

Kangla Online

マニプル州に多少なりともご関心のある方は、時々覗いてみるといいかもしれない。

<完>

マニプルへ5 インパール戦争墓地

インパール市内に戻り、インパール戦争墓地を訪れる。ここは英軍(ならびに連合軍)側の墓地だ。中国国民党軍への援蒋ルート遮断のため1944年に実行に移されたインパール作戦は、あまりに杜撰かつ無謀なものであったということが後世の評価として定まっている。

だが1941年から1942年にかけての旧日本軍によるマレー作戦、シンガポール攻略、同時期にビルマへの強襲といった立て続けの攻撃により、これらの地域から駆逐されるという辛酸を舐めてきたイギリス側にとっては、非常に強い恐怖を持って迎え撃つことになったことは想像に難くない。

強敵の旧日本軍による侵攻であることとともに、彼らがスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)とともに進軍してきたということは、当時独立機運が頂点に達しつつあったインドの内政面でも大変憂慮されるものであったはずだ。

そうしたこともあり、当時の英軍は各地から兵力を増強して、総力戦で当たったことが墓石に刻まれた墓標からもうかがえる。埋葬されている兵士たちは、地元インドの様々な連隊所属のインド兵、グルカ兵たちとともに、遠くマレーシア、ローデシア、東アフリカに駐留する連隊からやってきたイギリス兵、各地植民地軍の地元兵の名前もある。

アッサム連隊所属の兵士
ガルワール連隊所属兵士
パンジャーブ連隊所属の兵士
ハイデラーバード連隊から来た兵士
亡くなった兵士がヒンドゥーであったことを示すシンボルが彫られている。
ユダヤ教徒の兵士
マレーシアのカメロンハイランド連隊所属兵士
ケニア連隊兵士
東アフリカ出身の黒人技術者
北ローデシア(現ザンビア)連隊の兵士
イギリス本国兵士
イギリス本国兵士

墓石は亡くなった日付ごとに並べられていることから、どの日に大きな戦闘があったのか、おおよそ判るようになっている。その中で所属連隊ごとに配置されているのだが、中には中国人の名前もあった。どういう経緯で戦闘に参加することになったのかわからないが、香港の植民地軍出身か、あるいはビルマで英軍と共闘していた中国国民党軍関係者だったのか?

中国人の名前が刻まれている。
無名戦士の墓標。クリスチャンであったことを示す十字架だけがアイデンティティだ。

この墓地は英連邦戦争墓地委員会(CWGC: Commonwealth War Graves Commission)が管理しており、見事なまでに美しく整備されている。

<続く>