ミャンマー 民間の新聞復活

ミャンマーで、1962年に起きた軍部によるクーデター以降、約半世紀ぶりに民間の新聞が復活しているというニュースが流れたのは、ごく先日のことだ。

ミャンマー、民間日刊紙が半世紀ぶりに復活 (asahi.com)

この民間の新聞の中で、おそらくほとんどがビルマ語紙で、ひょっとしたら英字紙も含まれているのかもしれない。旧英領といっても、英語の通用度はインドと比較のしようもないほど低いミャンマーには、それなりの理由がある。

イギリスによる支配の歴史がインドに較べるとかなり短いこと、そして独立後のインドにおいて英語が果たしてきた大きな役割とは裏腹に、支配的な立場にあるビルマ族による「国粋化」により、日常の商取引や教育の場から英語が駆逐されたミャンマーとでは、英語の位置付けそのものが大きく異なる。インドにおいて、英語は(たとえそれを理解しない人が過半数を占めているとしても)インドの言葉の中でも重要な地位を占めているが、現在のミャンマーにおいては、英語は外国語にしか過ぎない。

英字紙はともかく、おそらく1962年のクーデター以前には、ヤンゴンその他の都市部では広く流通していた中国系住民のための華語紙、インド系住民を対象としたウルドゥー紙その他の外来の言語によるメディアの復活はありそうにはないようだ。

ミャンマーでは、新聞や雑誌等に対する事前検閲は廃止されたものの、発行後の事後検閲は継続している。管理に手間のかかる外国語によるメディアについてはなかなか許可が出にくいものであろうと想像される。また、1962年以前は都市部人口にかなり高い割合を占めていた中華系、インド系の人々が軍政の始まりとともに、大挙して国外に流失してしまったという事情もある。

話者人口の規模が縮小するとともに、世代交代が進むにつれて、自然と父祖の母語を理解する人々は減り、理解度という面においても水準は下がっていくのは当然のことだ。

ヤンゴンのあるヒンドゥー寺院では、地元のインド系住民の若年層を対象にした「ヒンディー語教室」が開かれている。そこで教えている男性に話を聞いたことがあるのだが、話者人口や世代交代だけではなく、インド系の言語によるメディアが廃止されたことによる言語面でのインパクトはかなり大きかったようだと語ってくれたことを思い出す。

「だって、あなた、読み書きする機会が減れば、語彙も乏しくなるでしょう。言葉が乏しくなれば不便になって、あまり使わなくなってしまいますよ。するとどんどん先細りになっていく。喋った先から消えて行ってしまう話し言葉だけじゃなくて、やっぱりきちんとした文章を日常的に読むということは大切ですから・・・」

20世紀初頭のヤンゴンでは、住民の半数以上がインド系の人々が占めていた時期もあり、非インド系の人々の間にもヒンディー/ウルドゥーが通じるというのがごく当たり前といった状況であったようだ。

ヤンゴンで、今のインド系住民の間で、インド系の言語による新聞が復活することはないだろう。それでも、ダウンタウンのインド人地区でモスクの中や周辺では、ウルドゥー語による会話が聞こえてくることはしばしばあるし、ヒンドゥー寺院に出入りする人々の会話にしばしばヒンディーによるやりとりが含まれることはよくあるようだ。

やはり言葉というものには、単に意思疎通の手段としての道具という以上に、民族のアイデンティティとしての意味合いも大きい。インドから移民して数世代経過している人々の間では、地元ビルマ語が母語になっているとはいえ、宗教施設での説法や人々の会話の中にそうした父祖の言葉による会話が挿入されることが多いのは当然のことなのだろう。

そんな環境の中で、曲がりなりにもヒンディー/ウルドゥーを理解するということに対する、インド系の人々の反応のポジティヴさには驚かされる。インドではずいぶん粗末に扱われている印象を拭えない言葉に対する人々の愛着には心動かされずにはいられない。

ミャンマーで、ヒンディーやウルドゥーの新聞や雑誌が復活することはないにしても、コストのかからないウェブ上でのニュースサイトが出てくることは、有り得ないことではないように思う。

報道や表現の自由度の拡大や経済発展へと向かう中、これにより本国とは遠く離れた環境下で細々と続いてきたインド系言語環境が利するところはあるのか、今のところはまだよく判らない。

桜バザー 2013 最終日

桜バザー会場

3月27日(水)から5日間に渡り、インド大使館敷地内で開催されていた桜バザーの最終日、3月31日(日)に訪れてみた。

もうだいぶ前、大使館が改築されて現在の姿になる前には、外交官の家族たちが自ら作った料理や菓子などを販売していたりもしていたものだが、何かにつけてアウトソースするのが時流の昨今らしく、このイベントで出店しているのはすべて外の業者となっている。

その分、開催が1日のみであったものが、ここ数年来、つまり大使館の改築後からは複数の日付にまたがって開かれるようになっている。

開催する側の都合や目的あってのことなので何とも言えない。少なくとも訪れる人々に対して複数の機会が用意されていいかもしれないが、中身はずいぶんよそよそしい感じになったと言えるし、訪れる人々の数も減ったと思う。開催日が数日間に渡るようになったため、延べ人数では多いのかもしれないが、1日の訪問客数で見ると、明らかに少なくなっているに違いない。

もちろんタイミングも良くなかった。桜の開花時期とはいえ、すっかりピークを過ぎてしまっており、もはや花見を楽しむという具合ではなくなってきているし、天気もすぐれなかった。桜が一気に開花した先週末であれば、また少し違った様子になっていたかもしれないが、事前に準備しなくてはならないので、こればかりは仕方ない。

インド大使館の前では、現在スリランカで起きている重篤な人権侵害を糾弾する座り込みの抗議活動が展開されていた。参加している人たちは、タミル系の人たちで、インド国籍の人たちもいれば、スリランカ国籍の人々もある。

剛腕でLTTEを壊滅させたラージャパクサ大統領については、その手腕に高い評価を与える向きも少なくない反面、あまりに行き過ぎたやりかたについて、内外からの批判も多い。現在もLTTEの残党狩りは続いており、治安当局による不当な拘束、監禁、拷問、殺害などが続いている。

だが、これらについて日本では人々の関心は非常に薄い。そうした状況であることを知らない人も多いのではないだろうか。通りかかる人たちの無関心ぶりには考えさせられるものがあった。

スリランカにおけるタミル系市民への迫害を糾弾する座り込み活動

鉄道市場

インドの話ではなくて恐縮である。日本からインドに向かう場合、往々にして上空を通過あるいはバンコクでの乗り換えといった形で縁のあるタイの鉄道に関するものである。

バンコク郊外のメークローン駅界隈では、今も水上マーケットが残っており、古き良き時代を体験できるエリアとして知られているが、それにも増して魅力的なのは、鉄道の路線にまたがって広がる市場だ。

・・・と書いてみたが、実は私自身、まだここを訪れたことがない。

Thailand railway track market (YoutTube)

列車通過に備えて店頭の片づけをする人々の手際の良さに感心するとともに、車両最後尾が過ぎ去るやいなや店開きを始める様子には、市場で働く人々の旺盛なバイタリティを感じずにはいられない。

感銘を受けたのは、市場の人々の有様だけではない。上記リンク先の動画の中に出てくるように、多数の観光客がカメラやビデオで撮影している姿があることからも判るかと思うが、バンコク近郊の有名スポットである。

タイ政府もこの危険なコンディションのマーケットを貴重な観光資源のひとつとして位置付けているのかどうかは知らないが、当この状態を容認しているため、長年に渡ってこうしたシーンが日々繰り返されているわけであり、当局の鷹揚さと柔軟さを感じずにはいられない。

マーケットの立地が危険であることは間違いない。でも常時神経過敏症的で、些細なことで大げさに騒ぎ立てるヒステリックな日本社会から眺めると、このようなおおらかさは実に羨ましく感じられないだろうか。

インドと中国を結ぶ「しがらみ」

第三国を経由することなく、インドから中国両国のキャリアによる二国間の直行便が飛ぶようになったのは確か2003年あたりのことであったと記憶している。
中国東方航空が中国の首都北京からインドのデリーを結んだのが最初だ。いっぽう、エアインディアのほうはムンバイーからデリーを経て、バンコクを経由して上海に到着といった具合で、途中で乗り換えこそないものの、隣り合う国の二都市を直接結ぶという感じではなかったのは、途中タイの首都バンコクでのストップが入ったからだろう。
だが今では状況は大きく変わった。現在は、デリー・上海、デリー・杭州、デリー・北京、デリー・広州、ムンバイー・成都、コールカーター・昆明、バンガロール・成都といったノン・ストップのルートがあり、エアインディア、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空が両国間を運行している。これらに最近加わったのが、インドのLCCのひとつであるスパイスジェットによるデリー・広州の路線だ。
そんな具合なので、インドあるいは中国で国内線への乗り継ぎを含めれば、両国各地への乗り継ぎはずいぶん良くなった。
印・中両国は4,000 km余りの長い国境線を分け合っているとはいえ、政治的にも地理的にも、ごく一部の例外を除けば、公式に行き来できる環境にはない。インドにおいて、1949年以降の中国によるチベット侵攻、さらに1962年に勃発した中印紛争により決定的に悪化した対中感情の背景には、中国という国や中国人という人々に対する知識等の欠如という要素も否定できない。
また当時はまだ貧しかった中国ではあるが、同様に経済的には苦しかったインドにとっては、とても拮抗できない強大な敵として浮上してきたこともあるだろう。反対に、中国からしてみれば、インドはさほど怖い相手ではないため、インドにおける対中感情と比べて、中国における対インド感情は悪くなかったりする。
歴史的なしこりや感情的な好き嫌いは、そう簡単に克服できるものではないかもしれない。だが人やモノの行き来が盛んになることにより、相手国における自国資本の投資、自国企業の操業その他さまざまな交流が盛んになるのは安全保障上も決して悪いことではない。
「絆」を結ぶことはできなくても、活発な経済活動によって生じるしがらみが、外交面で両国が衝突するような事態になったとしても、お互いに利益をもたらす二国間の経済活動を犠牲にしてまで、軍事衝突を起こすには至らない安全弁として働くことは、尖閣諸島問題を抱える日中両国が、緊張の度合いを高めることはあっても、また一時的にデモや不買運動等で経済活動が冷え込むことはあっても、そうした異常な状態が決して長続きはしないであろうことからも明らかだ。
今のところ、中国系メディアが大げさに報じているほどには、インドで中国語学習がブームになるような具合にまでは至ってないようだ。
だが中国語学習の需要が高まってきていることは驚くに値しない。インドと違って英語が非常に通じにくく、現地の言葉が不可欠の中国において、中国語が判るということは計り知れないメリットになり、それを習得した個人にとっても語学そのものが貴重なスキルになるからだ。
インドと中国の間で、さまざまな「しがらみ」が今後ますます増えてくることを期待したい。それは将来の両国の繁栄のためになるだけではなく、アジア全体の安全保障にも繋がることであるからだ。

横浜にある英連邦戦没者墓地

英連邦戦没者墓地

今年1月、東京で数年ぶりの大雪が降った数日後に、横浜市保土ヶ谷区にある英連邦戦没者墓地を訪れた。

沢山の墓標が並ぶ

この墓地は、1945年に開かれたもので、第二次大戦中に日本軍の捕虜となった英連邦軍人・軍属で、日本への移送中に亡くなった方々ならびに捕虜として日本国内で抑留中に死亡した方々1,555名に加えて、戦後の日本進駐中にこの世を去った方々171名、加えて朝鮮戦争での犠牲者の方々等が埋葬されている。

墓標は他国にあるCWGC管理下の墓地のものと共通のデザイン

墓地を管理しているのはイングランド南東にあるバークシャーに本部があるCWGC (Commonwealth War Graves Commission)だ。敷地は日本政府の国有地だが、終戦後に進駐軍に接収されるとともに、1951年のサンフランスコ講和条約により、英連邦戦没者墓地としてCWGCに永久無償貸与されている。一種の戦後賠償である。

インド兵たちが埋葬された一角
インド人に埋葬れているのはほとんどがムスリム
ムスリム兵士・軍属の墓標の中、唯一のヒンドゥーであるグルカ連隊所属のネパール人傭兵のものがあった。

同じCWGCが管理しているため、墓標のデザイン、記念碑の形状、敷地レイアウト等々、私が以前訪れたことがある他の英連邦戦没者墓地とよく似ており、墓地内を歩いていると、日本国内にいる気がしない。

柔らかな陽射しに包まれた墓地

~インドとミャンマーにあるCWGC管理の英連邦戦没者の墓地に関する記事~

マニプルへ5 インパール戦争墓地 (indo.to)

ナガランド3 コヒマ戦争墓地 (indo.to)

泰緬鉄道終点 (indo.to)

アクセス:JR保土ヶ谷駅あるいは関内から横浜市営バスにて「児童遊園地前」下車